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本編

10.空が色を変えるまで

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 月曜の朝、颯真と共に登校した。

「……」
「……」

 無言で。
 終始無言だった。
 肩を並べて歩く道、電車の中、学校の敷地に入ってからも。
 黙ったまま、しかし離れたりはせず、一緒に教室に入って別々の机に着席する。

「おはよ~颯真。いきなりだけど英語の宿題写させてくんね?」

 それはいつもつるんでいるベータ友人の、いつも通りの朝の挨拶だった。
 こいつは自力で宿題をやってくることが年に一回くらいしかない。
 しかし颯真の返答は、いつも通りではなかった。

「……ごめん。俺もやってない」
「え!!!」

 教室にいた全員が二人を見た。
 単純にデカすぎる声にびっくりして振り返ったやつもいたが、ほとんどは颯真の珍しい失態に驚いたからのようだ。
 大声を出した友人は、特に理由を追及することはなく「珍し過ぎて槍が降りそう」なんて言いながら話を終わらせた。
 結局、颯真が目の前で宿題をこなしていくのを横目に写す作戦にしたらしい。もう自分でやればいいのに。
 もっとも、こんなことを考えている俺の宿題状況はどうかといえば、白紙だ。一問もやってない。
 なんでかって?
 金曜の放課後から月曜の今朝まで、俺と颯真はあの離れで、ずーっとヤってたからだ。

「はぁー……」

 腰が痛い。というか死んでる。
 オメガの皆さんはあんなに激しいことを数ヶ月に一回やってるんだろうか。
 一日とかじゃない。数日だぞ。
 俺の発情期は幸い数日で治ったけど、アルファの番が相手をしても一週間ずっと発情状態が続く人もいるらしい。足腰の筋肉どうなってんだ?
 遠目に見れば華奢でかわいらしいオメガたちが、実はムキムキでスタミナが半端ないという真理に至ってしまった。
 じゃなきゃとても社会生活なんて営めない。発情期に殺される。筋肉や基礎体力をつけやすいアルファの俺でコレだもん。
 まぁこの疲労感や怠さは、人生初の受け身セックスだったせいもあると思うけど。

「おはよ雪。腰さすってどしたん?」
「あーおはよ……いや腰ってか、下半身全体が死んでてさ」
「なんだよ~この週末はお楽しみだったってか?」

 友人の適当すぎる言葉が真実だったせいで、びしっと固まってしまった。
 突然核心を突くな。
 ちらりと数席離れた颯真を見ると、この会話が聞こえていたのだろう、固まっている。
 ペンが止まった颯真を、必死に宿題を写している友人が訝しんでいる。

「おいおいせめてフリでも否定しろよ雪~。おモテになられますなぁ。おまえよく見ると顔の造作は俺達とそう変わんないのにな~」
「うっせ。違うわ」
「いや顔面偏差値は同じくらいだって!」

 否定したかったのは顔云々じゃなくてモテるって部分だったが、もうどうでもいい。こいつの相手をするのすら疲れる。
 机にぺったり伏せた俺の頭をくしゃくしゃと掻き回す友人の手に抗う元気もない。
 あー、朝時間がない中で必死に整えた髪が鳥の巣になっていく。
 されるがままでいたら、ふと友人の手が離れた。頭上で会話が交わされている。

「お、何?」
「あー……いや、なんでもないけど」
「なんだよ~。あ、颯真も雪の髪触りたいの? はいどうぞ」

 え、颯真?
 顔を上げると、友人の手を颯真が掴んでいた。
 奥歯にものが挟まったような変な顔で俺を見下ろしている。
 かと思えば、今度は颯真に頭を撫でられた。乱れきった髪が元に戻っていく。

「颯真って髪フェチ? いっつも雪の髪触ってるよな」
「……そうかもな」

 指を立てて梳くように髪を撫でる颯真の顔は、他のやつには見えなかっただろう。でも俺はごく近い距離で見てしまった。
 とても大事なものを慈しむような、情熱を秘めた甘い表情。
 不意にぎゅっと胸が痛んで、俺は額を机にべったりつけて木目を睨みつけた。
 なんだよその顔、その雰囲気。
 これじゃまるで恋人同士みたいだ。もしくは、番。

(なんなんだよもう……)

 どきどきうるさい鼓動を必死に無視する。
 俺が何を感じても、どんな勘違いをしていても、すべて今日で終わる。
 放課後、俺はあの空き地に行って、神様に体を戻してもらう。
 オメガとしての日々は今日でおしまい。
 だから番になんかならない。
 恋人になんてなれない。
 俺にとって颯真は友人で、アルファとしての同志で、でもどうしようもなく格上で、いつか隣に立つこともなくなる存在。颯真にとっても同じはずだ。
 心があいつの方しか向いていないと気づいてしまっても、どうしようもないんだ。

 体調不良で体育の授業に見学を申し出たら、念のため保健室へ行くよう勧められる。
 その通りにしたら発熱していることが発覚。
 保健室のベッドでしばらく寝ることになった。
 考えてみれば当然か。土日どころか金曜からずっと疲れるようなことしかしてないし。
 発情期の最中のことは、あまり覚えていない。
 ずっとあたたかくて気持ち良くて、ともすれば無限に湧き上がってくる孤独感や寂しさをあまり感じなかったことは記憶に残ってる。
 身も世もなく喘いで「目の前のアルファ」だけを求めたことも。
 時折水や食べ物を与えられたことも。
 あんなに優しく甲斐甲斐しく世話を焼かれたことはない。
 幼い頃風邪を引いたときの両親すらあそこまで優しくはなかった。おたふく風邪で頬が腫れてる俺を指差して笑うような両親だしな。

(あの優しさを、いつか誰かが……)

 他のオメガが、当然のように享受する日が来るんだ。いつか必ず。
 その時俺はアルファの友人として、颯真とそのオメガを祝福してやるんだろう。苦しい気持ちなんて1ミリもありません、みたいな澄まし顔で。
 心臓が痛い。呼吸が苦しくなってきた。
 保健室のベッドの中で小さく蹲る。
 苦しいのは今だけ。いつか笑って話せる思い出に変わる。
 そう心のなかで念じていなければ、叫びだしそうだった。

「ユキ、大丈夫か?」
「……ぁ……、そうま」

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 ベッドを取り囲むカーテンが引かれる音と共に、颯真が顔を出した。
 続いて養護教諭が顔を覗かせ、職員会議に行くため留守にすると言われた。

「ユキには俺がついてるので大丈夫です」
「じゃあよろしくね。体調が良くなったら一緒に教室に戻りなさい」

 養護教諭が部屋を出ていき、二人残される。
 ベッド横の丸椅子に腰掛けた颯真は、とても痛ましそうな様子で俺を見つめた。

「ごめんな、ユキ。体つらいんだろ。俺が無理させたから」
「ち、違う! 颯真は悪くない!」

 慌てて手と首を振る。
 むしろ颯真は被害者だ。俺というオメガもどきの突発的な発情に巻き込まれて面倒をかけられ、宿題すらできない爛れた週末を過ごさせてしまった。

「謝らなきゃいけないのはこっちだよ。ごめん。俺みたいなデカくて可愛くないオメガもどきの相手させられるなんて、罰ゲームよりひどいよな」

 でもいつか颯真が見染めるオメガが男性だったとき、俺との経験が少しは……1ミリくらいは役に立つかもしれない。ほら、後ろほぐすときとか。
 だから黒歴史と思わず、人生の糧にして強く生きていってほしい。
 ……いややっぱり今すぐ忘れてくれていいかも。
 しどろもどろになりながら必死にフォローする俺を、颯真はもっと痛そうな顔で見る。

「ごめん。やっぱり俺はユキを傷つけたんだな……」
「へ?」
「黒歴史だなんて思わない。むしろ、ここで終わらせたくない」

 俺の手があたたかいものに包まれる。
 なぜか颯真が手を繋いできた。

「ユキを神様に会わせたくない……このまま体を治さないでいることは、考えていないか?」

 考えたことはなかった。
 それって、俺にオメガのまま生きろって言ってるのか?
 このままアルファに戻れなかったらどうしようと恐怖したことはある。
 神様に再会して体を治してもらえるという保証がないからだ。
 でも自ら進んで、オメガのままでいるなんて。

「……悪かった。熱が出てるときに言うことじゃなかったな。放課後また迎えにくる」

 あっけなく手が離れ、颯真はカーテンの向こうへ消えた。
 扉が閉まる音がして、保健室から出て行ったことがわかる。
 俺はベッドの上でしばし呆然としてしまった。
 颯真はどうしてあんなことを言うんだろう。あんなに迷惑をかけたのに、その元凶であるオメガ性を維持しろだなんて。
 一番の友人だと思っている彼の考えがこれほどわからないのは初めてだ。

 次に気がついたのは放課後だった。
 チャイムの音で目が覚めて、時間を確認したらちょうど最後の授業の終わりを告げる鐘だとわかった。すっかり寝入ってしまったようだ。
 ベッドから出てカーテンを開けると養護教諭がいたので、熱を測ってもらった。平熱になってた。
 ちんたら歩いて教室に戻ると、帰りのホームルームも終わってしまったらしい。
 廊下に出てきたクラスメイトの中に颯真を見つける。
 向こうもすぐ俺に気づいた。

「ユキ! もう平気なのか?」
「うん。熱下がったし、体もだいぶマシになった」
「そうか、よかった」

 心からホッとしたように颯真が頬を緩めるのを見て、俺はなんだか体が痒くなった。
 体調を本気で心配されることなんてあんまりないから慣れない。
 あぁでも、颯真は自分のせいで俺が体調不良に陥ったと考えているかも知れない。
 これは何から何まで俺の自業自得なんだし気にすることじゃないのに。つくづく優しい男だ。

(神様に会わせたくない、って言ってたよな……)

 颯真が教室から持ってきてくれた鞄を、なぜか手放さず俺に持たせないというので奪い取り肩に掛け、並んで歩く。
 この過保護気味な友人は、俺にオメガのままでいてほしいと思っているのだろうか。
 なぜ?
 可能性があるとしたら……身近に現れたオメガを手元に置きたくなった、とか。
 でも医者や研究者みたいに、突然謎のパワーでオメガになった俺のことを調べたいということではなさそうだ。
 体のことを気遣われる回数は増えたけど、あくまで友人としての思いやりだと思う。
 じゃあ……オメガとするセックスが思ったより気持ち良かったから、とかかなぁ。
 この仮説は正直ものすごく理解しやすい。
 極上の快感を得られると言われるオメガの肉体を、若い身空で味わってしまったわけだ。しかも発情期まで。
 数日前までアルファだった俺の体でも満足できたらしいことは、颯真の顔を見ればわかる。
 今朝すごくツヤツヤしてたもん。俺はゲッソリだったけど。
 たとえこの先、生粋のオメガと出会えても、恋人になれるとは限らないし、性行為となればもっとずっと先の話だ。
 それよりも今、多少容姿などを妥協してでも、気楽に快楽を与え合える相手を確保しておきたいのかもしれない。

(意外とすけべだったんだなぁ、こいつ)

 肩を並べている隣の男をまじまじ見てしまう。
 普段からエロ方面に興味があるとは思えなかったので、意外な一面を知ってしまった。
 俺の視線に気づいた颯真がこっちを見る。

「どうした?」

 なんでもない、と言って前を向く。そして、下を向いた。
 なんだ今の、すごく甘ったるい「どうした?」は。
 綻ぶような微笑みと、語尾が溶けて甘い香りでもしてきそうなほど優しい声色だった。
 どうしてあんな顔をするんだろう。相手は俺だぞ。
 アレか。えっちしちゃったからか。
 体を神様に戻してもらって、その後はすっかり元通り……とはならないと覚悟していたものの、ここまで颯真の態度が変わるとは思っていなかったので動揺する。
 彼と付き合ってきた今までの恋人たち、そしてこれから付き合うことになる未来の恋人たちは皆、このデロデロに甘い颯真を見ることになるのか。
 ちょっと申し訳ない気持ちになる。
 非の打ち所がないイケメン有望アルファの隣を、俺みたいなオメガもどきが占拠する時間は1分でも短い方がいいだろう。
 俺はいたたまれなくなって、気持ち歩く速度を早めた。

「颯真も来る?」
「邪魔じゃなければ」
「……うん」

 邪魔だなんて思わないけど、颯真が一緒にいても神様が出てきてくれるかどうかわからない。
 実際に俺がオメガになっていることから、一週間前のあの出来事が夢とか妄想の産物でない可能性は限りなく高いものの、まだ空想でないとは言い切れない。
 だってあり得ない現象だからね、アルファがオメガに性転換するなんて。
 非現実的存在の俺と、ファンタジー存在の神様、地に足ついたリアル存在の颯真。この三人で集うのか。
 状況は混沌としている。

 自宅の最寄り駅で電車を降りて、真っ直ぐ家に向かわず小道へ逸れる。
 あの日と、それから数日後に颯真と一緒に訪れた空き地は変わらずそこにあり、何も変わっていなかった。
 あの祠も変わらずに建っている。

「神様~、俺が来たよ」

 祠の前にしゃがみこんで声を掛けてみる。反応ナシ。
 きつい傾斜のついた祠の三角お屋根を撫でてみる。つついてみる。コツコツ叩いてみる。反応ナシ。

「探すか?」
「やめよう」

 ナニとは言わないが、ナニのことであるとすぐに察せられたので迅速に颯真を止めることができた。
 いつの間にか彼は手頃な枝を持っていた。ポイしなさい。

「しばらく待ってみよう。前来た時はもうちょっと夕方近かった気がするから、時間に関係があるかもしれないし」
「そうか。なら待ってみよう」

 見上げた空はまだまだ青い。
 俺たちは側溝の段差に並んで腰を下ろした。コンクリートの冷たさが尻に伝わってくる。

「なぁ、ユキ」
「ん~?」
「やっぱりアルファに戻るのか?」
「それ、さっきも言ってたよね。オメガのままでいてほしいって」

 肩がギリギリ触れ合わない二人。顔を向け合うには少し近い。
 颯真の顔面の産毛まで見えそうな距離が、不意にゼロになった。
 唇にあたたかい感触があって、すぐに離れる。
 まぶたを伏せた颯真は見惚れるほどキレイな造形で、実際見惚れた。
 だから避けることも振り払うこともできなくて、ただ「まつげ長いなぁ」って思ってた。

「おいユキ、せめて何か反応してくれ」
「……あ、うん。なんでちゅーしたの?」
「ちゅーって……まぁいいけど……」

 なぜか仕掛けた側が額を押さえて俯いている。
 そんなに変なこと言ったかな。変なことした人に文句言われる筋合いないんだけど。

「信じてもらえないと思うんだけど、俺ユキのこと好きなんだ」

 意味不明な颯真の行動は、繰り出された理解不能の言葉によって俺をより深い混乱へと突き落とした。
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