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番外編
触手と記憶喪失
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同居人が頭を打って病院へ運ばれたと聞いたとき、二重の意味で血の気が引いた。
ケガの具合は大丈夫なのか。
そして、人間の病院へ担ぎ込まれて大丈夫なのか。
俺の同居人兼恋人の深谷 伊織は、人間ではない。
人に擬態でき、知性があり、人と見分けがつかないほどそれらしく生活できているが、本性は人の精気をすすって生きる触手生物だ。
こう聞くと今すぐにでも駆除した方がいい危険存在に思えるが、本人の気質が穏やかなのでそれほど急がなくていい。
彼は暴力を好まない。争いごとは避け、慎ましく暮らしている。どういうルートか知らないが日本国籍を有し、社会人として企業に勤めている。税金も払っている。選挙にも行ってる。なにより人間を襲うことは滅多にない。
そう、滅多に。
襲われるのは俺だけである。
そんな同居人兼恋人兼捕食者である深谷の会社から連絡が来た。
緊急連絡先として登録してあったという俺の番号へ、彼が「出張先で事故に遭い、頭を打って病院へ運ばれた」と。
どうやって電話を切ったか覚えていないくらい、気が動転した。
しかし手元には俺の字で書き殴られたメモがあり、出張先の病院へ入院したため駆けつけることはできそうにないこと、また彼は軽症であり、念のための検査入院のみであることが書かれていた。
すでに病院へ向かうための荷造りを半分くらい終えていた俺は、メモを見て膝から崩れ落ちた。
「……くそ」
病院から帰る手配は会社の方でしてくれるから、迎えは不要ってなんだそれ。
心配しかできない。遠方でも、明日も仕事でも、無事な顔をひと目見たいと飛び出すことすら封じられた。
頭の隅で「あいつらしい」と納得する俺がいる一方で、納得できない俺もいる。
「帰ってきたら殴る……頭以外を……」
ともすれば痛む胸から何かが溢れ出てきてしまいそうで、俺は作りかけの荷を解くことなくベッドへ潜り込んだ。
昨日までは平気だった、傍らの体温が不在の冷たいシーツが、表皮に突き刺さるように堪える。決して寒いわけじゃないのに、上掛けを握りしめる手が震える。
すると、珍しくネコ次郎が寝室を開けるよう催促しベッドの上へ乗ってきた。
「ネコじろ……」
ベッドに座り込む俺の膝に体を擦り付け、だらんと落ちた手を控えめに舐める。それから、深谷の不在を埋めるように空いた場所で丸くなった。
ネコ次郎の稀な行動が、俺を慰めるためのものに思えてならない。
鼻をすすって再び横になった。ほんのりと背中に小さなぬくもりがある。
すうっと意識が遠ざかって、俺はやっと眠りに落ちることができた。
仕事が手につかなかったらどうしようと不安だったが、昨晩きちんと眠れたせいかミスをすることはなかった。
代わりに早めに仕事を上がらせてもらった。深谷がいつ帰ってきても迎えられるように。
仕事をしていると忘れられていた不安が再び押し寄せ、そわそわとリビングを歩きまわったり、無駄にコーヒーをがぶ飲みしてトイレを往復したりしていたら、夕方前頃インターホンが鳴った。
駆け足でドアに向かいすぐに開ける。
「あ、同居人の方ですか。この度は申し訳ありませんでした」
「……あ、いえ」
そこには中肉中背のスーツの男性と、頭に包帯を巻いた深谷がいた。
男性は上司のようで、謝罪と共に経緯を聞かせてくれた。
視察に出向いた地方の支社へ向かう途中、交差点で起きた交通事故に巻き込まれたこと。飛んできたなにかの破片が深谷にぶつかり、流血沙汰になったこと。血は流れたが意識を失ったりはしなかったため、検査をして念のため一晩様子を見たが、特に異常はなく検査結果も問題なかったことからすぐに帰されたこと。
想像以上に大したことのないケガで、話を聞きながら全身の力が抜けそうになるのをなんとか押さえていた。
一歩間違えば大変な事態だったことに違いはない。軽いケガで済んだのは結果論でしかない。────でも、安心した。
「では失礼します。深谷、なにかあったらすぐに連絡しなさい」
「はい。送ってくださりありがとうございます」
「ありがと、ございました……」
深谷と共に頭を下げた俺に上司男性は恐縮しながら去っていった。
あまりにも動転していて、彼らを家に上げることすらしていなかったことにやっと思い至る。
「あ、悪い。入れよ」
「あ、はい」
上司男性から受け取った深谷の荷物を運び入れ、キッチンで一人分追加してコーヒーを淹れる。手の震えはもう起こらない。
リビングへ戻ると、なぜか深谷は立っていた。
所在なさそうに立ち尽くし、ローテーブルの横あたりでキョロキョロしている。
「どうした、座れよ。頭が痛むのか?」
「いえ、痛くないです。……じゃあ、失礼して」
「?」
変なやつだ。まるで知らない場所に放り込まれたような反応をしている。
だが次のヤツの言葉で、俺は驚愕した。
「あの。検査では問題なかったし、上司のことも仕事のことも大丈夫だったので気づかなかったんですが。俺、あなたのことを忘れてるみたいです」
「……は?」
「記憶喪失、ってものになるんでしょうか」
口を半開きにして動かなくなってしまった俺に、深谷は説明を加えた。
俺のこと以外は何もかも覚えている。自分のこと、会社のこと、社宅に住めなくなってここへ引っ越してきたことも、ネコ次郎のことも。だからこそ、病院の検査も難なくパスできた。
しかし、覚えのない「同居人」に緊急連絡が取られ、俺に会い、不思議なほどにスコンと俺のことだけ記憶から抜け落ちていることを悟った。
「……じゃあおまえ、知らない男が自宅にいる状態で何も言わずに入ってきたのか」
「事実としてはそうなんですが、あなたのことを覚えていないなりに納得感があって。だからあんまり動揺しなかったんですけど」
「納得感?」
「あなたの匂い、ものすごく俺好みなので。俺はたぶんこの人のことを手に入れたし、何があっても手放さないだろうなって」
「……」
なんだ、なんだよそれ。
青くなればいいのか赤くなればいいのか、大混乱の渦に突き落とされる。
俺のこと忘れたってなんだよ。頭の傷、大したことないんじゃなかったのかよ。
俺の精気が好みだ、とはルームシェア初日にも聞かされたが、記憶がなくても同じこと思うのかよ。手に入れるって、手放さないってなんだよ。
「名前、教えてください」
どうして同じ触れ方をするんだ。記憶ないんじゃなかったのか。
こいつは俺に触れるとき、最初のひと撫でだけは必ず、ものすごくソフトタッチなんだ。自身の手が、触手が、絶対に俺を傷つけないように。
忘れているはずなのになんでそういうところは同じなんだよ。
「……教えない。自分で思い出せ」
「わかりました」
拒まなかった唇がこじ開けられ、人類には絶対に有り得ない長さの舌が入ってくるのを、俺は涙で滲む視界で受け入れた。
部屋着を脱がされる速度がもどかしい。
いつもなら全身を触手が這い回ってまるで魔法のように衣服が剥ぎ取られてしまうのに。
違和感の正体を探ればすぐに気がついた。
触手が出ていない。
深谷の目には未だ探るような感情があって、本当に忘れているんだと実感した。
触手全開でヤっていいのか、そうじゃないのか測りかねている。
俺は妙な気分になった。「触手を出していい」と言えばいいのだろうが、もしそう告げなかったら────こいつはどう振る舞うのだろう、と考えてしまった。
「……っ」
ぞくぞくと腹の底から湧き上がったのは悪寒か、まだ見ぬ官能の予感か。
はだけられた胸元に触れる手は二本だけで、そこに触れている限り他の場所は寂しいままだ。断続的なキス以外、他に作業を散らせない。
変な気分がどんどん増していく。
「ここもしてました? してましたよね」
「あ……っ」
ずりおろされた下穿きに片手が潜り込み、わずかに反応している前を撫でられる。
返答をせずにいると、深谷は俺の足からズボンと下着を抜き去り、まじまじとそこを見つめた。おいやめろ、研究者みたいな目で見つめるな。
思わず制止しようとした瞬間、ヤツはぱくりとそこを口に咥えた。
「っ、おい! ぅ、あ……っ」
陰茎がなにかに包まれる感覚事態は珍しくない。
そういうことをするとき、俺の前はいつもあいつのパカッと開くタイプの触手に咥えられていて、吐き出す精液をすべて飲まれているのだから。
しかしそれが人間型の口となると、経験回数は極端に減る。
「やめ、深谷、やめろって」
「ひもちよふなひ?」
「っ、いい、から、やめろっ」
そんなことを言ってやめてもらえるわけがないとネコでもわかる。
いつの間にか爆発寸前まで熟れていたものは、深谷の長過ぎる舌フェラに追い上げられ呆気なく達した。
未だ触手は出ていない。余韻でびくびくと震える腰を撫でる手と、口元に溢れた白濁を拭う手。当然のように全部飲んだヤツの口。それだけしか彼は用いていない。
このあと、どうするのだろう。どきどきと痛いくらい心臓が鳴っている。
いつもならもうとっくに細い触手で俺の後ろは解されてしまって、俺は前だけでなく後ろでもイっている頃で。判断力がミジンコ以下になっている状態で挿入されるのを待つばかりで。
(あいつは……生殖器を縮めることはできないって、言ってた)
以前、人外サイズ人外形状のイチモツに俺が苦言を呈した際、ヤツは苦心してほんのわずか、サイズを縮めることに成功していた。だがそれだけだった。
記憶喪失深谷は今のところ、触手ナシで俺の精気を吸おうとしている。
つまり、俺が深谷を「触手生物だと知らない可能性」を考えて、それでも精気を吸いたくて堪らないというわけだ。
しかしどう贔屓目に見ても人間のものではない生殖器が出現したら、これまでの配慮など無意味になる。記憶の失われた期間どうしていたのか、彼は今必死で思い出そうとしているはず。
興奮と好奇心と、少しの悪戯心。
俺は腕を深谷の首に回し、ぐっと引き寄せた。
「伊織……はやく、ちょうだい」
さぁどうするのか。好みの俺に誘惑されて、こいつはどう行動する。
一瞬眉根を寄せた深谷は、応えるように深く口付けてきた。喉奥まで犯せる触手舌が、俺をえずかせないギリギリのエリアを這う。
どう考えてもこの舌、異常に長いのに、本人的に触手に含まれてないっぽいの笑える。キスが気持ち良くてやめてほしくないので指摘はしないが。
深谷はもどかしそうに俺の足を持ち上げ、後孔へ触れた。しかしそこをすりすり撫でるだけで入ってきてくれない。
どうも困惑しているらしい。そりゃそうだ、ソコは普段触手粘液で解され濡らされる場所。人間の手だけでどうすればいいのかわからないのだろう。
もういい加減ネタばらししてしまおうか。俺も中途半端で放り出されたら困るし。
と考えた矢先のことだった。
腰をぐぐっと持ち上げられ、深谷が体を折り曲げる。
あの長い舌が、あろうことか俺の尻の狭間に着地した。
「ひっ……! うそ、や、いおりっ!」
足をばたつかせたが、がっちり固定されてしまっていて逃げられない。
とんでもない体勢のままぺちゃぺちゃと舐められ、そして先端がくにゅりと侵入してきた。
「あっ!!」
慣れ親しんだ「触手に侵される感覚」に全身が歓喜している。
本来は慎ましく閉じているはずの肉輪は侵入者を拒むこともなく、濡れたそれを嬉しそうにくぱくぱ食んで放さない。
俺が羞恥と快感で身悶えているのをチャンスと見て取ったか、直腸に液体が流し込まれてきた。いつもの催淫作用つき潤滑剤だ。
確かにこれなら深谷の唾液で後ろを濡らしたように、見えなくもな……いやない。ダメだろアウトだろ。唾液程度で突っ込まれたら、いくら慣れた俺の尻といえど裂ける。
俺は激しくツッコミを入れたかったが、今はツッコまれるのを待つ身なので言葉を飲み込んだ。
今さらこんなところでやめられたくない。最後までいってほしい。
「んぅ、うぅ……いおり、いおりぃ」
「すごいトロトロだ……」
実況するな。いや普段に比べて控えめなほうかもしれない。
舌と共に押し込まれる指が後孔を確実に緩めていく。もう入るから、はやくきてと、身悶えながら懇願して、ようやく尻が解放された。
あぁ、やっとか。
正直全然ものたりない。普段どれだけ全身くまなく触手に奉仕されているか、そのありがたみを思い知ってしまった。
イきそうでイけないもどかしい時間だが、いつもより意識ははっきりしていた。
だから深谷が、俺と「触手抜きで」交合しようとしている彼が、最後の工程をどうするつもりなのか気になった。
震えそうになる腕で体を持ち上げて、俺の足の間でごそごそ何かやっている男を見る。
「……?」
深谷の股間には何かがあった。
腹が割れて出てくるいつものアレじゃない。イボイボしてなくて、異常に長くも太くもなくて。
それは、「人間の男性器」に見えた。
深谷の肌からしっかり生えているのでオモチャではない。たぶん腹の近くの触手をどうにかこうにかして、見た目だけそれっぽくしただけの、ただの触手のはずだ。
少しだけ色がついて、先のほうがくびれていて、根本に見慣れた玉のぶらさがったそれを見て。
俺は、血の気が引いた。
「や、やだ。いやだっ!」
「え」
突然暴れだした俺を呆然と見つめ、滂沱の涙を流し始めた頬をぎこちなく拭う。
どうして。いつもと変わらずこいつは優しいのに、俺のことを忘れたんだ。どうして名前を呼んでくれない。
「伊織のじゃない、そんなのいらない。呼んで、呼んでくれよ。伊織……」
人間の医者に、人体の専門家に正体がバレないように振る舞うのはどれだけ大変だったのだろう。
出張前に食い溜めだと笑って俺を貪り食って行ったのに、帰ってきた途端に俺を求めた彼は、あらゆるところで消耗して疲れ切っていたんじゃないか。本当はたくさん血を流して、精気が足りなくなったんじゃないか。
そんな心配もさせてもらえない。触手を隠して、他人の見様見真似みたいな偽物を用意した男になんて。
俺の愛した伊織じゃない。これは────浮気だ。
とうとう体を丸めて本格的に泣きに入ってしまった俺をおろおろ宥めていた男は、のろのろと体を起こした。
すみません、と聞こえるか聞こえないかくらいの音量で言って、彼はおもむろに自分の頭を殴った。
「えっ。お、おいやめろ」
「いえ、こうでもしないと思い出せないので」
思わず涙が止まった俺の前で、がんがんと頭を殴り続ける。
「バカ、もっと悪くなったらどうすんだ!」
「あなたのことを思い出せないほうが……あなたを泣かせることのほうが嫌です。俺は自分を許せなくなる」
「でもそんな、衝撃を与えたって戻るってもんでも」
「くそっなんで思い出せないんだ!」
彼が荒い言葉を使うことは滅多にないから驚いた。
俺が悲しいのと同じくらい、きっと焦ってる。自分の感傷に浸ってけが人を慮れなかったことを俺は恥じた。
「ごめん、伊織。違うなんて言って。記憶がなくてもおまえはおまえだ」
そんな陳腐な慰めしか口にできないのがもどかしい。でもそう言うしかない。
彼は頭を抱えてしまった。殴るのをやめてくれてホッとする。
しかし彼の試みが終わったわけじゃなかった。
ぶわっと髪が、髪のごとく細い触手が逆立って。添えられていた手指が、頭の中に、沈んでいく。
目の前に広がる光景が信じられず、瞬きもできずにどれだけの時間が経っただろう。無限に思えたが、たぶん数秒だったのだと思う。
びく、と震えた男が俺を見る。眼の奥の色が、違う。
「ごめんなさい新さん。不安にさせて」
その瞳には焦りも困惑も迷いもなかった。
触手生物であることを俺にだけは隠していない、最愛の恋人がそこにはいた。
「ぁ、記憶、が……?」
「はい、思い出しました。新さんのこと、ここで暮らしたこと、昨日の朝新さんが『いってらっしゃい』を言ってくれたときのことも」
「じゃあさっきまでのことは?」
「忘れてませんよ。泣かせてしまってごめんなさい」
頬を濡らしていた涙を拭うのは、手であって手じゃないもの。
涙も精気の混じった体液だ。「本来の」こいつなら無駄にしない。触手に舐められてすっかり乾いた肌に、今度はキスが降り注ぐ。
俺はなんだか急激に恥ずかしくなってしまった。
記憶があろうとなかろうとこいつはこいつなのに、全然触手生物っぽくないこいつに抱かれると思っただけで何もかもダメになってしまうなんて。
しかもフィクションの世界でよく見る記憶喪失みたいに、記憶がなかった期間を忘れるとかそういうこともなく、全部覚えているなんて。
「……忘れろ」
「え?」
「さっきのことは忘れろ。頭打つとこまで戻れ」
「いやいや、さすがにそれは無理です。それにあんなにかわいそかわいい新さんの姿、忘れようと思っても無理ですって」
「かわいそ……何?」
「いえなんでも」
ただの成人男性という外行きの皮を脱ぎ捨て、深谷の魔の手がゆっくりと数を増やしていく。
それに安心してしまう自分の末期感を嘆きつつ、拒絶はしない。
「ところで新さん」
「何」
「さっき、浮気しようとしてましたよね」
「は?」
何を言ってんだこいつは。さっきから今まで俺たち抱き合ってましたけど。
「記憶がない俺って実質別の生き物ですよね。現にあのときの俺、なんか怖気づいて触腕出さないようにしてたし。触腕出さない人間チンコの男と浮気しようとしてましたよね」
マジで何を言い出してんだこいつ。
「は……はぁああ? あれはおまえだからヤらせてやってたんだよ! 腹が減ってるだろうと思って! それに人間チンコ用意したのもおまえの勝手だし!」
「でもあのときの新さん、なんか妙に手慣れた感じ出しててエロかったし。年上のお兄さんが導いてくれるシチュエーションって感じでした。俺とのときはそんなじゃないし。浮気です」
「なんだその気持ち悪い感想。気持ち悪いのは生態だけにしとけよ」
「辛辣」
口ではぎゃあぎゃあ言いつつ、体の準備は着々と進んでいる。
さっきまでの遠慮はどこへやら、触手が無数に這い回り、そこら中の表皮に吸い付いて汗やらなんやら舐め取っている。
さっき本懐を果たせなかった後孔には細い触手が入り込んでいて、俺の方も腰を少し浮かせたりして手伝ってる。
さっきみた汎用人間チンコでは絶対に届かない場所まで、細触手が慣らしていくのを感じながら、俺はぐっと力を込めて恋人の上半身を引き寄せた。
「深谷おまえもう二度とケガして帰ってくるな」
「えぇ……できるだけ気をつけますけど、」
「またおまえがあんなことになったら、俺はもう知らん。本当に浮気しておまえなんか捨ててやる」
自分でも口にしたくないような仮定に、執着の激しい人外生物が怒らないはずがなかった。
ざわりと燃えるような激情を立ち上らせた男に、俺はなおも挑発的に笑って見せる。
「事件事故天災、どんな目に遭ったって本来おまえはケガなんか負わないはずだ。触手は丈夫で強い、いざとなれば切り離しもできる。そうだったよな」
「……そうですけど」
「おまえが未確認生物だって知られてもいい。ケガしてくるな、絶対に死ぬな。正体がバレたらそのときは、一緒に逃げよう。どこまででも行ってやる。だから……俺が知らないとこで、死ぬな」
そっと掻き上げた髪には包帯が巻き付いている。
収まったはずの震えがまた起こり、深谷の背中でぎゅっと手を握り合わせた。
だって頭だぞ。頭のケガなんて、もしかしたらって誰でも思うだろ。
俺を忘れていると言われた瞬間の俺の気持ち、おまえにわかるのかよ。指先から体温が抜け落ちていくみたいなあの感覚、もう二度と味わいたくない。
深谷の怒りは消えた。少しの後悔と、それよりずっと大きなあたたかい感情が嫌でも伝わってくる。
「不安にさせて本当にごめん。もうケガしないし、絶対に死なない。一日でも新さんより後に死ぬ。世界が終わるならその瞬間まで一緒にいるから」
「……ふは、世界滅亡ときたか。おまえが暴れたせいで、って結末にならなきゃいいけどな」
「新さんがいる限り、世界が壊れるような暴れ方はしない予定です」
まるで本気を出せば世界壊せるみたいなことを言うな。ちょっとだけ信憑性を感じて怖い。
「それで……シリアスな場面で申し訳ないんですけど、もう挿れていいですか?」
掲げられたものは、見慣れたようで見慣れていないあの人間用じゃない。
太くて長くてイボイボして、グロさ極まる触手生殖器。
それを見た瞬間に腹の奥が蠕動して、存在しないはずの器官がきゅんと波打った気がした。
「新さんがすげーデレてて最高に愛おしいこと言いまくるせいで、俺もう限界で」
「普段はろくに許可なんか取らないくせに。早く挿れろよ」
「いいんですか、人間サイズじゃなくて」
「うるせぇ引っ張るな。おまえのこのグロチンがいいんだって言ってんぅう゛っ!」
言葉の途中で奥まで押し込まれ悶絶してしまった。全身がびくびく震えて、喉が勝手に開く。口端から溢れた声は快楽にゆるみきっていて、耳を塞ぎたいほど情けない。
でも、これだ、と思うのもまた事実で。
「新さん、気持ち良さそうですね。そんなに締め付けたら俺、持たないかも」
「あっあっあっ……はや、く、イけよぉ……っ」
「ではお言葉に甘えて、っ……」
いつもより早めに腹の奥を満たされて、俺もがくがく揺れながら上り詰める。
「っひ、ぁあ、あーー……」
これだ。気持ち良すぎて頭がばかになりそうな、余裕なんて一ミリも残らない快楽。
腹の中が物理的にいっぱいになって、串刺しにされたまま揺さぶられて、はちきれそうなくらい中に出されて。
深谷の言い分はともかく、あのまま記憶がない深谷と体を重ねても俺は違和感しかなかっただろう。きっと満足できなかったし、俺の不満を触手を通して彼も感じ取ったはず。
不毛なことをしなくてよかった。
当然のように許可など得ず2ラウンド目に突入した深谷にしがみついて、俺は情けない嬌声を上げ続けた。
「さっき、どうやって記憶戻したんだ?」
「あぁ、アレですか。簡単に言えば脳へ直接信号を流したんです」
「……」
横抱きにされ、触手でできた揺籠に寝そべっているような、はたから見ればグロすぎるピロートークの最中、気になっていたことを聞いた。
髪が逆立っていたあの時、深谷は両手の触手から特殊な電気信号を出して脳を刺激したらしい。それで実際記憶が戻ったのだから、すごいと言うべきかキモいと言うべきか。
気怠い空気の中、俺を見つめるいつも通りの深谷に、一瞬さっきの記憶喪失騒ぎは嘘だったんじゃないかと考えて────それはない、と否定する。
所在なげに立ち尽くしていた深谷の双眸には確かな違和感があった。
今思えばそれは頑なな警戒感や困惑、抜け落ちたものがある者特有の空虚さ……役者でもない深谷にあんな演技できるはずがない。
それにこいつは────俺に嘘をつかない。
「思い出してくれてよかった」
触手が絡みついたまま腕を上げて、深谷の髪を撫でる。
激しい運動のせいで包帯がよれてしまった。あとで巻き直さなくては。
「俺も思い出せててよかったです。俺がしっかりしないと、新さんを一人にしたらまず間違いなく誰かに奪われると確認できましたから」
「は?」
「姿形が俺だからって、すぐ精気与えようとしたでしょう。もっと危機感持ってください。俺の姿に偽った地球外生命体とかが襲って来たらどうするつもりですか」
「おまえ以外に地球外生命体がいてたまるかっ!」
俺みたいな凡庸な一般成人男性を性的に襲いたい人外生物なんておまえくらいだ、と追撃しようとして、なんだか余計に深谷を喜ばせてしまいそうだと予感が走り、口を閉ざす。
触手と触れ合いすぎて、第六感みたいなものが育ちつつあるのかもしれない。
その後も俺の第六感的予知能力は、対触手生物のみで何度か活躍したとか、していないとか。
ケガの具合は大丈夫なのか。
そして、人間の病院へ担ぎ込まれて大丈夫なのか。
俺の同居人兼恋人の深谷 伊織は、人間ではない。
人に擬態でき、知性があり、人と見分けがつかないほどそれらしく生活できているが、本性は人の精気をすすって生きる触手生物だ。
こう聞くと今すぐにでも駆除した方がいい危険存在に思えるが、本人の気質が穏やかなのでそれほど急がなくていい。
彼は暴力を好まない。争いごとは避け、慎ましく暮らしている。どういうルートか知らないが日本国籍を有し、社会人として企業に勤めている。税金も払っている。選挙にも行ってる。なにより人間を襲うことは滅多にない。
そう、滅多に。
襲われるのは俺だけである。
そんな同居人兼恋人兼捕食者である深谷の会社から連絡が来た。
緊急連絡先として登録してあったという俺の番号へ、彼が「出張先で事故に遭い、頭を打って病院へ運ばれた」と。
どうやって電話を切ったか覚えていないくらい、気が動転した。
しかし手元には俺の字で書き殴られたメモがあり、出張先の病院へ入院したため駆けつけることはできそうにないこと、また彼は軽症であり、念のための検査入院のみであることが書かれていた。
すでに病院へ向かうための荷造りを半分くらい終えていた俺は、メモを見て膝から崩れ落ちた。
「……くそ」
病院から帰る手配は会社の方でしてくれるから、迎えは不要ってなんだそれ。
心配しかできない。遠方でも、明日も仕事でも、無事な顔をひと目見たいと飛び出すことすら封じられた。
頭の隅で「あいつらしい」と納得する俺がいる一方で、納得できない俺もいる。
「帰ってきたら殴る……頭以外を……」
ともすれば痛む胸から何かが溢れ出てきてしまいそうで、俺は作りかけの荷を解くことなくベッドへ潜り込んだ。
昨日までは平気だった、傍らの体温が不在の冷たいシーツが、表皮に突き刺さるように堪える。決して寒いわけじゃないのに、上掛けを握りしめる手が震える。
すると、珍しくネコ次郎が寝室を開けるよう催促しベッドの上へ乗ってきた。
「ネコじろ……」
ベッドに座り込む俺の膝に体を擦り付け、だらんと落ちた手を控えめに舐める。それから、深谷の不在を埋めるように空いた場所で丸くなった。
ネコ次郎の稀な行動が、俺を慰めるためのものに思えてならない。
鼻をすすって再び横になった。ほんのりと背中に小さなぬくもりがある。
すうっと意識が遠ざかって、俺はやっと眠りに落ちることができた。
仕事が手につかなかったらどうしようと不安だったが、昨晩きちんと眠れたせいかミスをすることはなかった。
代わりに早めに仕事を上がらせてもらった。深谷がいつ帰ってきても迎えられるように。
仕事をしていると忘れられていた不安が再び押し寄せ、そわそわとリビングを歩きまわったり、無駄にコーヒーをがぶ飲みしてトイレを往復したりしていたら、夕方前頃インターホンが鳴った。
駆け足でドアに向かいすぐに開ける。
「あ、同居人の方ですか。この度は申し訳ありませんでした」
「……あ、いえ」
そこには中肉中背のスーツの男性と、頭に包帯を巻いた深谷がいた。
男性は上司のようで、謝罪と共に経緯を聞かせてくれた。
視察に出向いた地方の支社へ向かう途中、交差点で起きた交通事故に巻き込まれたこと。飛んできたなにかの破片が深谷にぶつかり、流血沙汰になったこと。血は流れたが意識を失ったりはしなかったため、検査をして念のため一晩様子を見たが、特に異常はなく検査結果も問題なかったことからすぐに帰されたこと。
想像以上に大したことのないケガで、話を聞きながら全身の力が抜けそうになるのをなんとか押さえていた。
一歩間違えば大変な事態だったことに違いはない。軽いケガで済んだのは結果論でしかない。────でも、安心した。
「では失礼します。深谷、なにかあったらすぐに連絡しなさい」
「はい。送ってくださりありがとうございます」
「ありがと、ございました……」
深谷と共に頭を下げた俺に上司男性は恐縮しながら去っていった。
あまりにも動転していて、彼らを家に上げることすらしていなかったことにやっと思い至る。
「あ、悪い。入れよ」
「あ、はい」
上司男性から受け取った深谷の荷物を運び入れ、キッチンで一人分追加してコーヒーを淹れる。手の震えはもう起こらない。
リビングへ戻ると、なぜか深谷は立っていた。
所在なさそうに立ち尽くし、ローテーブルの横あたりでキョロキョロしている。
「どうした、座れよ。頭が痛むのか?」
「いえ、痛くないです。……じゃあ、失礼して」
「?」
変なやつだ。まるで知らない場所に放り込まれたような反応をしている。
だが次のヤツの言葉で、俺は驚愕した。
「あの。検査では問題なかったし、上司のことも仕事のことも大丈夫だったので気づかなかったんですが。俺、あなたのことを忘れてるみたいです」
「……は?」
「記憶喪失、ってものになるんでしょうか」
口を半開きにして動かなくなってしまった俺に、深谷は説明を加えた。
俺のこと以外は何もかも覚えている。自分のこと、会社のこと、社宅に住めなくなってここへ引っ越してきたことも、ネコ次郎のことも。だからこそ、病院の検査も難なくパスできた。
しかし、覚えのない「同居人」に緊急連絡が取られ、俺に会い、不思議なほどにスコンと俺のことだけ記憶から抜け落ちていることを悟った。
「……じゃあおまえ、知らない男が自宅にいる状態で何も言わずに入ってきたのか」
「事実としてはそうなんですが、あなたのことを覚えていないなりに納得感があって。だからあんまり動揺しなかったんですけど」
「納得感?」
「あなたの匂い、ものすごく俺好みなので。俺はたぶんこの人のことを手に入れたし、何があっても手放さないだろうなって」
「……」
なんだ、なんだよそれ。
青くなればいいのか赤くなればいいのか、大混乱の渦に突き落とされる。
俺のこと忘れたってなんだよ。頭の傷、大したことないんじゃなかったのかよ。
俺の精気が好みだ、とはルームシェア初日にも聞かされたが、記憶がなくても同じこと思うのかよ。手に入れるって、手放さないってなんだよ。
「名前、教えてください」
どうして同じ触れ方をするんだ。記憶ないんじゃなかったのか。
こいつは俺に触れるとき、最初のひと撫でだけは必ず、ものすごくソフトタッチなんだ。自身の手が、触手が、絶対に俺を傷つけないように。
忘れているはずなのになんでそういうところは同じなんだよ。
「……教えない。自分で思い出せ」
「わかりました」
拒まなかった唇がこじ開けられ、人類には絶対に有り得ない長さの舌が入ってくるのを、俺は涙で滲む視界で受け入れた。
部屋着を脱がされる速度がもどかしい。
いつもなら全身を触手が這い回ってまるで魔法のように衣服が剥ぎ取られてしまうのに。
違和感の正体を探ればすぐに気がついた。
触手が出ていない。
深谷の目には未だ探るような感情があって、本当に忘れているんだと実感した。
触手全開でヤっていいのか、そうじゃないのか測りかねている。
俺は妙な気分になった。「触手を出していい」と言えばいいのだろうが、もしそう告げなかったら────こいつはどう振る舞うのだろう、と考えてしまった。
「……っ」
ぞくぞくと腹の底から湧き上がったのは悪寒か、まだ見ぬ官能の予感か。
はだけられた胸元に触れる手は二本だけで、そこに触れている限り他の場所は寂しいままだ。断続的なキス以外、他に作業を散らせない。
変な気分がどんどん増していく。
「ここもしてました? してましたよね」
「あ……っ」
ずりおろされた下穿きに片手が潜り込み、わずかに反応している前を撫でられる。
返答をせずにいると、深谷は俺の足からズボンと下着を抜き去り、まじまじとそこを見つめた。おいやめろ、研究者みたいな目で見つめるな。
思わず制止しようとした瞬間、ヤツはぱくりとそこを口に咥えた。
「っ、おい! ぅ、あ……っ」
陰茎がなにかに包まれる感覚事態は珍しくない。
そういうことをするとき、俺の前はいつもあいつのパカッと開くタイプの触手に咥えられていて、吐き出す精液をすべて飲まれているのだから。
しかしそれが人間型の口となると、経験回数は極端に減る。
「やめ、深谷、やめろって」
「ひもちよふなひ?」
「っ、いい、から、やめろっ」
そんなことを言ってやめてもらえるわけがないとネコでもわかる。
いつの間にか爆発寸前まで熟れていたものは、深谷の長過ぎる舌フェラに追い上げられ呆気なく達した。
未だ触手は出ていない。余韻でびくびくと震える腰を撫でる手と、口元に溢れた白濁を拭う手。当然のように全部飲んだヤツの口。それだけしか彼は用いていない。
このあと、どうするのだろう。どきどきと痛いくらい心臓が鳴っている。
いつもならもうとっくに細い触手で俺の後ろは解されてしまって、俺は前だけでなく後ろでもイっている頃で。判断力がミジンコ以下になっている状態で挿入されるのを待つばかりで。
(あいつは……生殖器を縮めることはできないって、言ってた)
以前、人外サイズ人外形状のイチモツに俺が苦言を呈した際、ヤツは苦心してほんのわずか、サイズを縮めることに成功していた。だがそれだけだった。
記憶喪失深谷は今のところ、触手ナシで俺の精気を吸おうとしている。
つまり、俺が深谷を「触手生物だと知らない可能性」を考えて、それでも精気を吸いたくて堪らないというわけだ。
しかしどう贔屓目に見ても人間のものではない生殖器が出現したら、これまでの配慮など無意味になる。記憶の失われた期間どうしていたのか、彼は今必死で思い出そうとしているはず。
興奮と好奇心と、少しの悪戯心。
俺は腕を深谷の首に回し、ぐっと引き寄せた。
「伊織……はやく、ちょうだい」
さぁどうするのか。好みの俺に誘惑されて、こいつはどう行動する。
一瞬眉根を寄せた深谷は、応えるように深く口付けてきた。喉奥まで犯せる触手舌が、俺をえずかせないギリギリのエリアを這う。
どう考えてもこの舌、異常に長いのに、本人的に触手に含まれてないっぽいの笑える。キスが気持ち良くてやめてほしくないので指摘はしないが。
深谷はもどかしそうに俺の足を持ち上げ、後孔へ触れた。しかしそこをすりすり撫でるだけで入ってきてくれない。
どうも困惑しているらしい。そりゃそうだ、ソコは普段触手粘液で解され濡らされる場所。人間の手だけでどうすればいいのかわからないのだろう。
もういい加減ネタばらししてしまおうか。俺も中途半端で放り出されたら困るし。
と考えた矢先のことだった。
腰をぐぐっと持ち上げられ、深谷が体を折り曲げる。
あの長い舌が、あろうことか俺の尻の狭間に着地した。
「ひっ……! うそ、や、いおりっ!」
足をばたつかせたが、がっちり固定されてしまっていて逃げられない。
とんでもない体勢のままぺちゃぺちゃと舐められ、そして先端がくにゅりと侵入してきた。
「あっ!!」
慣れ親しんだ「触手に侵される感覚」に全身が歓喜している。
本来は慎ましく閉じているはずの肉輪は侵入者を拒むこともなく、濡れたそれを嬉しそうにくぱくぱ食んで放さない。
俺が羞恥と快感で身悶えているのをチャンスと見て取ったか、直腸に液体が流し込まれてきた。いつもの催淫作用つき潤滑剤だ。
確かにこれなら深谷の唾液で後ろを濡らしたように、見えなくもな……いやない。ダメだろアウトだろ。唾液程度で突っ込まれたら、いくら慣れた俺の尻といえど裂ける。
俺は激しくツッコミを入れたかったが、今はツッコまれるのを待つ身なので言葉を飲み込んだ。
今さらこんなところでやめられたくない。最後までいってほしい。
「んぅ、うぅ……いおり、いおりぃ」
「すごいトロトロだ……」
実況するな。いや普段に比べて控えめなほうかもしれない。
舌と共に押し込まれる指が後孔を確実に緩めていく。もう入るから、はやくきてと、身悶えながら懇願して、ようやく尻が解放された。
あぁ、やっとか。
正直全然ものたりない。普段どれだけ全身くまなく触手に奉仕されているか、そのありがたみを思い知ってしまった。
イきそうでイけないもどかしい時間だが、いつもより意識ははっきりしていた。
だから深谷が、俺と「触手抜きで」交合しようとしている彼が、最後の工程をどうするつもりなのか気になった。
震えそうになる腕で体を持ち上げて、俺の足の間でごそごそ何かやっている男を見る。
「……?」
深谷の股間には何かがあった。
腹が割れて出てくるいつものアレじゃない。イボイボしてなくて、異常に長くも太くもなくて。
それは、「人間の男性器」に見えた。
深谷の肌からしっかり生えているのでオモチャではない。たぶん腹の近くの触手をどうにかこうにかして、見た目だけそれっぽくしただけの、ただの触手のはずだ。
少しだけ色がついて、先のほうがくびれていて、根本に見慣れた玉のぶらさがったそれを見て。
俺は、血の気が引いた。
「や、やだ。いやだっ!」
「え」
突然暴れだした俺を呆然と見つめ、滂沱の涙を流し始めた頬をぎこちなく拭う。
どうして。いつもと変わらずこいつは優しいのに、俺のことを忘れたんだ。どうして名前を呼んでくれない。
「伊織のじゃない、そんなのいらない。呼んで、呼んでくれよ。伊織……」
人間の医者に、人体の専門家に正体がバレないように振る舞うのはどれだけ大変だったのだろう。
出張前に食い溜めだと笑って俺を貪り食って行ったのに、帰ってきた途端に俺を求めた彼は、あらゆるところで消耗して疲れ切っていたんじゃないか。本当はたくさん血を流して、精気が足りなくなったんじゃないか。
そんな心配もさせてもらえない。触手を隠して、他人の見様見真似みたいな偽物を用意した男になんて。
俺の愛した伊織じゃない。これは────浮気だ。
とうとう体を丸めて本格的に泣きに入ってしまった俺をおろおろ宥めていた男は、のろのろと体を起こした。
すみません、と聞こえるか聞こえないかくらいの音量で言って、彼はおもむろに自分の頭を殴った。
「えっ。お、おいやめろ」
「いえ、こうでもしないと思い出せないので」
思わず涙が止まった俺の前で、がんがんと頭を殴り続ける。
「バカ、もっと悪くなったらどうすんだ!」
「あなたのことを思い出せないほうが……あなたを泣かせることのほうが嫌です。俺は自分を許せなくなる」
「でもそんな、衝撃を与えたって戻るってもんでも」
「くそっなんで思い出せないんだ!」
彼が荒い言葉を使うことは滅多にないから驚いた。
俺が悲しいのと同じくらい、きっと焦ってる。自分の感傷に浸ってけが人を慮れなかったことを俺は恥じた。
「ごめん、伊織。違うなんて言って。記憶がなくてもおまえはおまえだ」
そんな陳腐な慰めしか口にできないのがもどかしい。でもそう言うしかない。
彼は頭を抱えてしまった。殴るのをやめてくれてホッとする。
しかし彼の試みが終わったわけじゃなかった。
ぶわっと髪が、髪のごとく細い触手が逆立って。添えられていた手指が、頭の中に、沈んでいく。
目の前に広がる光景が信じられず、瞬きもできずにどれだけの時間が経っただろう。無限に思えたが、たぶん数秒だったのだと思う。
びく、と震えた男が俺を見る。眼の奥の色が、違う。
「ごめんなさい新さん。不安にさせて」
その瞳には焦りも困惑も迷いもなかった。
触手生物であることを俺にだけは隠していない、最愛の恋人がそこにはいた。
「ぁ、記憶、が……?」
「はい、思い出しました。新さんのこと、ここで暮らしたこと、昨日の朝新さんが『いってらっしゃい』を言ってくれたときのことも」
「じゃあさっきまでのことは?」
「忘れてませんよ。泣かせてしまってごめんなさい」
頬を濡らしていた涙を拭うのは、手であって手じゃないもの。
涙も精気の混じった体液だ。「本来の」こいつなら無駄にしない。触手に舐められてすっかり乾いた肌に、今度はキスが降り注ぐ。
俺はなんだか急激に恥ずかしくなってしまった。
記憶があろうとなかろうとこいつはこいつなのに、全然触手生物っぽくないこいつに抱かれると思っただけで何もかもダメになってしまうなんて。
しかもフィクションの世界でよく見る記憶喪失みたいに、記憶がなかった期間を忘れるとかそういうこともなく、全部覚えているなんて。
「……忘れろ」
「え?」
「さっきのことは忘れろ。頭打つとこまで戻れ」
「いやいや、さすがにそれは無理です。それにあんなにかわいそかわいい新さんの姿、忘れようと思っても無理ですって」
「かわいそ……何?」
「いえなんでも」
ただの成人男性という外行きの皮を脱ぎ捨て、深谷の魔の手がゆっくりと数を増やしていく。
それに安心してしまう自分の末期感を嘆きつつ、拒絶はしない。
「ところで新さん」
「何」
「さっき、浮気しようとしてましたよね」
「は?」
何を言ってんだこいつは。さっきから今まで俺たち抱き合ってましたけど。
「記憶がない俺って実質別の生き物ですよね。現にあのときの俺、なんか怖気づいて触腕出さないようにしてたし。触腕出さない人間チンコの男と浮気しようとしてましたよね」
マジで何を言い出してんだこいつ。
「は……はぁああ? あれはおまえだからヤらせてやってたんだよ! 腹が減ってるだろうと思って! それに人間チンコ用意したのもおまえの勝手だし!」
「でもあのときの新さん、なんか妙に手慣れた感じ出しててエロかったし。年上のお兄さんが導いてくれるシチュエーションって感じでした。俺とのときはそんなじゃないし。浮気です」
「なんだその気持ち悪い感想。気持ち悪いのは生態だけにしとけよ」
「辛辣」
口ではぎゃあぎゃあ言いつつ、体の準備は着々と進んでいる。
さっきまでの遠慮はどこへやら、触手が無数に這い回り、そこら中の表皮に吸い付いて汗やらなんやら舐め取っている。
さっき本懐を果たせなかった後孔には細い触手が入り込んでいて、俺の方も腰を少し浮かせたりして手伝ってる。
さっきみた汎用人間チンコでは絶対に届かない場所まで、細触手が慣らしていくのを感じながら、俺はぐっと力を込めて恋人の上半身を引き寄せた。
「深谷おまえもう二度とケガして帰ってくるな」
「えぇ……できるだけ気をつけますけど、」
「またおまえがあんなことになったら、俺はもう知らん。本当に浮気しておまえなんか捨ててやる」
自分でも口にしたくないような仮定に、執着の激しい人外生物が怒らないはずがなかった。
ざわりと燃えるような激情を立ち上らせた男に、俺はなおも挑発的に笑って見せる。
「事件事故天災、どんな目に遭ったって本来おまえはケガなんか負わないはずだ。触手は丈夫で強い、いざとなれば切り離しもできる。そうだったよな」
「……そうですけど」
「おまえが未確認生物だって知られてもいい。ケガしてくるな、絶対に死ぬな。正体がバレたらそのときは、一緒に逃げよう。どこまででも行ってやる。だから……俺が知らないとこで、死ぬな」
そっと掻き上げた髪には包帯が巻き付いている。
収まったはずの震えがまた起こり、深谷の背中でぎゅっと手を握り合わせた。
だって頭だぞ。頭のケガなんて、もしかしたらって誰でも思うだろ。
俺を忘れていると言われた瞬間の俺の気持ち、おまえにわかるのかよ。指先から体温が抜け落ちていくみたいなあの感覚、もう二度と味わいたくない。
深谷の怒りは消えた。少しの後悔と、それよりずっと大きなあたたかい感情が嫌でも伝わってくる。
「不安にさせて本当にごめん。もうケガしないし、絶対に死なない。一日でも新さんより後に死ぬ。世界が終わるならその瞬間まで一緒にいるから」
「……ふは、世界滅亡ときたか。おまえが暴れたせいで、って結末にならなきゃいいけどな」
「新さんがいる限り、世界が壊れるような暴れ方はしない予定です」
まるで本気を出せば世界壊せるみたいなことを言うな。ちょっとだけ信憑性を感じて怖い。
「それで……シリアスな場面で申し訳ないんですけど、もう挿れていいですか?」
掲げられたものは、見慣れたようで見慣れていないあの人間用じゃない。
太くて長くてイボイボして、グロさ極まる触手生殖器。
それを見た瞬間に腹の奥が蠕動して、存在しないはずの器官がきゅんと波打った気がした。
「新さんがすげーデレてて最高に愛おしいこと言いまくるせいで、俺もう限界で」
「普段はろくに許可なんか取らないくせに。早く挿れろよ」
「いいんですか、人間サイズじゃなくて」
「うるせぇ引っ張るな。おまえのこのグロチンがいいんだって言ってんぅう゛っ!」
言葉の途中で奥まで押し込まれ悶絶してしまった。全身がびくびく震えて、喉が勝手に開く。口端から溢れた声は快楽にゆるみきっていて、耳を塞ぎたいほど情けない。
でも、これだ、と思うのもまた事実で。
「新さん、気持ち良さそうですね。そんなに締め付けたら俺、持たないかも」
「あっあっあっ……はや、く、イけよぉ……っ」
「ではお言葉に甘えて、っ……」
いつもより早めに腹の奥を満たされて、俺もがくがく揺れながら上り詰める。
「っひ、ぁあ、あーー……」
これだ。気持ち良すぎて頭がばかになりそうな、余裕なんて一ミリも残らない快楽。
腹の中が物理的にいっぱいになって、串刺しにされたまま揺さぶられて、はちきれそうなくらい中に出されて。
深谷の言い分はともかく、あのまま記憶がない深谷と体を重ねても俺は違和感しかなかっただろう。きっと満足できなかったし、俺の不満を触手を通して彼も感じ取ったはず。
不毛なことをしなくてよかった。
当然のように許可など得ず2ラウンド目に突入した深谷にしがみついて、俺は情けない嬌声を上げ続けた。
「さっき、どうやって記憶戻したんだ?」
「あぁ、アレですか。簡単に言えば脳へ直接信号を流したんです」
「……」
横抱きにされ、触手でできた揺籠に寝そべっているような、はたから見ればグロすぎるピロートークの最中、気になっていたことを聞いた。
髪が逆立っていたあの時、深谷は両手の触手から特殊な電気信号を出して脳を刺激したらしい。それで実際記憶が戻ったのだから、すごいと言うべきかキモいと言うべきか。
気怠い空気の中、俺を見つめるいつも通りの深谷に、一瞬さっきの記憶喪失騒ぎは嘘だったんじゃないかと考えて────それはない、と否定する。
所在なげに立ち尽くしていた深谷の双眸には確かな違和感があった。
今思えばそれは頑なな警戒感や困惑、抜け落ちたものがある者特有の空虚さ……役者でもない深谷にあんな演技できるはずがない。
それにこいつは────俺に嘘をつかない。
「思い出してくれてよかった」
触手が絡みついたまま腕を上げて、深谷の髪を撫でる。
激しい運動のせいで包帯がよれてしまった。あとで巻き直さなくては。
「俺も思い出せててよかったです。俺がしっかりしないと、新さんを一人にしたらまず間違いなく誰かに奪われると確認できましたから」
「は?」
「姿形が俺だからって、すぐ精気与えようとしたでしょう。もっと危機感持ってください。俺の姿に偽った地球外生命体とかが襲って来たらどうするつもりですか」
「おまえ以外に地球外生命体がいてたまるかっ!」
俺みたいな凡庸な一般成人男性を性的に襲いたい人外生物なんておまえくらいだ、と追撃しようとして、なんだか余計に深谷を喜ばせてしまいそうだと予感が走り、口を閉ざす。
触手と触れ合いすぎて、第六感みたいなものが育ちつつあるのかもしれない。
その後も俺の第六感的予知能力は、対触手生物のみで何度か活躍したとか、していないとか。
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