触手とルームシェア

キザキ ケイ

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第三話 人間の姿ならいいわけじゃない!

3-1

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 月曜日という存在は一種の起点というか夜明けというか、明るいイメージがあるものだが、同時に一週間が始まってしまったという絶望も内包している。
 前日夜に「大いに運動」した割にはそこそこ元気な体を満員電車に揺られて数十分、駅から歩いて数分。
 駅出口から延びる高架歩道を似たような格好をしたサラリーマンたちと共に渡った先、全面ガラス張りで朝日を反射する無駄に眩しいオフィスビルが俺の職場だ。
 社員証をかざしてゲートをくぐり、肩を縮めてエレベーターで運ばれ、違う会社の従業員数人と一緒に降りる。
 隙間なくカーペットが敷き詰められたブルーグレーの廊下を歩いて辿り着いたドア、もう一度社員証をかざして入った先が、俺の勤務地だ。
 このオシャレでイマドキなオフィスビルに事務所が転移して半年ほど、ようやく社員証でのセキュリティや通勤の手順などに慣れてきた。
 ほとんど壁がないガラスだらけの室内は一瞥で社員の机がすべて見渡せる規模だ。文字通り少数精鋭の小ぢんまりとしたところが俺は気に入っている。

「おはようございまーす」

 挨拶しながら足を踏み入れる。十余人しかいない社員が広々使っているオフィスには、ちらほらと同僚の姿があった。
 俺は自席にジャケットと鞄を置き、斜め前の席で紙パックにストローを刺している同僚に背後から近づいた。肩を叩いて振り返った顔はキョトンとしている。

山野やまの、ちょっと話あるんだけど」
「おぉ吉野、おはよ。何、今からか?」
「できれば早めに」
「んーわかった。話変わるけど、ルームシェア相手どうだった?」
「話変わってねーよ」
「え?」

 紙パックを啜りながらついてくる山野を誘導して、休憩所に入る。始業までに必要なことを聞き出すくらいの時間はある。
 ストライプのスーツをやや着崩している、サラリーマンにギリギリ許される程度のツーブロックヘアに太めのブラックフレームのメガネをかけたこの男は、同僚の山野だ。
 第一印象で軽くチャラく見られがちな山野は、実際喋っても軽い人物だが、世話焼きで情に厚い一面もある。
 元カノに振られて底なしにへこんでいた俺を何度も励ましてくれ、気分を変えようと外に連れ出してくれた。長年付き合い結婚まで考えた彼女と別れたのに数ヶ月で立ち直ることができたのは、彼の功績が大きいと思っている。
 ルームシェアの話を提案してくれたのは彼だ。
 つまり、俺と深谷を仲介したのもこいつだ。

「なになに、もしかして深谷くんと上手くいかなかった?」
「上手く行くとか行かないとかじゃないだろ……」
「え、どゆこと?」

 そんなに問題のある人じゃないと思ったんだけどなぁ、などと言いながら鼻の頭を掻く山野をじっと観察する。
 嘘や隠し事をしているようには見えない。

「おまえの姉の旦那の友人、って言ったよな、あいつ」
「あぁそうそう。俺のねーちゃんの旦那さんが、大学時代にバイト先で仲良かった人の息子が……あれ?」
「おいそれって、おまえの姉の旦那の友人の息子ってことか?」
「あ、そだな。やー悪い悪い、こんがらがっちゃってたみたい」

 からからと笑う山野に俺は頭を抱えた。深谷は思った以上に遠い関係の他人だ。
 この分ではこいつは深谷の正体を何も知らないだろう。
 それにしてもサザエさん家の家系図覚えるよりは簡単そうな関係性さえ把握できていなかったとは。山野の適当さは時に利点となるが、今回は悪い方に働いている。

「はぁ……もういいわ」
「えーなになに、やっぱり深谷くんと何かあった? 悪い子には見えなかったけどなー」
「悪人じゃあないんだけどさぁ」
「どしたのヨッシー、めっちゃ言い淀むじゃん? お兄さんに話してみる?」
「同い年だろが……」

 この会社に入ったのが少し早いからと、山野はたびたび先輩ヅラをしてくる。
 実際に仕事はできるので頼ることもあるが、基本俺たちの力関係はフラットだと思う。いくら有能でも、この軽薄さとウザ絡みを引いたら大体同レベルだろう。
 とりあえずルームシェアは予定通り開始したこと、ネコ次郎との相性も悪くないことを伝えた。

「吉野との相性は?」
「保留」
「なんだよそれ~」

 今まで全くの未知数だった同性および人外との体の相性がどんどんマッチしていくことは、こいつには一生話さない。
 俺は大きめの溜息を吐き出して、山野を伴ってオフィスに戻った。

 吉野新、27歳。
 触手生物と二度寝た男。
 絶対に二回目はダメだと思っていたのに、結局押し切られてしまった。自分がこんなにも押しに弱いとは思っていなかった。いや触手の力が強かったせいで逃げられなかったというのもあるが。
 幸い、見事に抱き潰された先週末と違って今日はきちんと動けている。まだ若干腰がダルいものの、内勤をするにあたって支障があるほどではない。
 今日は外へ出る予定はないし、昼飯だけ適当に済ませて仕事に専念しようと誓う。
 普段は早起きして弁当を作ることもあるのだが、疲労がそれほどではないとはいえ流石に起床時間を早めることはできなかった。

(昨日のことがなけりゃあ、ついでにあいつにも弁当作ろうと思ったんだけどな……)

 叱られることを予期している犬のような顔をして、恐る恐る朝食を差し出してきた同居人のことを思い浮かべる。
 深谷こそ、俺が昨夜から朝にかけてぐっすり眠りこけてしまった原因を作った人物だ。
 いや人ではない。触手だ。
 都市伝説も心霊現象もUMAもみんな科学か錯覚で説明がついてしまう現代社会において、ヤツは仕込みもCGもなければモザイクもなしの、本物の未確認生物である。
 今日を含めて四日ほど一緒に暮らしているが、ヤツがどういう生き物なのか結局まだよく分かっていない。
 戸籍があるらしいし、山野の言い分を信じるなら家族もいるらしいが、その辺の詳しい事情も不明だ。
 その割に二回もヤってる。
 あの謎めいた触手がどんなふうに俺の肌を這い回って、腹の奥でどれほどえげつない振る舞いをするか、もはや嫌というほど知ってしまった。

(あーやめよう。朝の会社で考えることじゃない)

 どんな勤め人もそうだと思うが、月曜というものは忙しい。
 俺は先週金曜、あの忌々しい触手のために健気にも残業せず早めに帰宅したので、その分の仕事がまだ残っている。今日から動き出すプロジェクトもあるし、余計な私事に頭を悩ませている時間は一秒もない。
 続々と出勤してくる同僚たちに挨拶を返しながら自席のPCを立ち上げて、なんとなくワイシャツの袖をまくった。

 一日の業務を終え、幸いにもほんの僅かな残業だけで済んだ俺は、退勤処理をして椅子に座ったまま伸びをする。
 この会社に転職してからというもの残業時間が激減して、人間として健康で文化的な最低限度の生活を送れるようになった。
 給料は減ったが生活が困窮するほどの減収ではなかったし、金は健康と働きやすさには代えられないと思い知った。
 大学時代の先輩に誘われて入ったこの会社で、俺は名目上事務員をやっている。
 実態は書類作業が主というだけの便利屋のようなもので、経理や人事、総務、時には営業の仕事まで請け負う。まだまだ規模が小さいベンチャーということで適材適所、できる人間が色々兼任させられている形だ。
 仲間たちの仕事を常に幅広く把握し、必要とあらば迅速に手助けしなければならないこの立ち位置はとても頭を使うし、腕が四本欲しいと思うほど忙しいこともあるが、俺は案外気に入っている。

「今から、帰る、よ、と」
「おっなになに、深谷くんに連絡してんの? 新婚さんみたいだね」

 実際に腕が四本どころじゃない化け物に帰宅予定を知らせるメッセージを打っていたら、山野がキャスターチェアをギュルギュル言わせながら寄ってきた。
 小学生みたいにくるくる回っている椅子の背を掴んで止めさせる。オフィス用のちょっと良い椅子ってリースでも高いんだから遊ぶんじゃない。

「お互いの生活リズムに慣れるまでは、一応な」
「ヨッシー律儀~。深谷くんも真面目そうだったし、相性良さそうじゃん」
「ん~……」

 まだまだ短期間の付き合いではあるが、深谷が真面目な男であることは同意だ。
 家事の分担や共用部分の使い方、部屋の整頓されっぷり、ネコ次郎への態度まで、どこを取っても問題行動はない。
 几帳面だが潔癖というほどではなく、自分のペースはあるが調子を乱されても怒り出すことはない。適度に柔軟で頭の回転も良く、理想的な同居人と言えるだろう。
 ヤツが触手じゃなければ。俺の精気を求めてなければ。

「それだけどうにかしてくれたらなぁ~……」
「すげーデカい独り言。やっぱなんか問題あんの?」
「んん……山野には言わない」
「なんでだよ~! 教えろよ~!」

 俺の肩を掴んでガクガク揺らしてくるこいつは本当に小学生並みだ。

「ヤマヨシコンビ、もう終わったなら早めに帰れよー」
「はーい」

 ふざけていたら上司に見咎められてしまった。そそくさと席を片付け、足早にオフィスを出る。
 歳が近く、入社時期も近い俺たちは苗字の共通点から「ヤマヨシ」などと括られることが間々ある。自然と仲も良くなり、仕事終わりに飲みに行ったり休日に遊ぶこともある仲だ。
 それほどの相手でも、やはり深谷のことだけは言えない。
 相手は危険な未確認生物だが、自分の知らないところで異形の正体をべらべら喋られたくはないだろう。俺だって触手生物の噂を聞きつけたNASAだの米軍だの月刊ムーだのが自宅に押し寄せる光景は見たくない。

「今度遊びに行かせてな。深谷くんの様子も見たいし」

 そう言って山野とはビルの出口で別れた。
 深谷と特別親しいわけでないにしろ、自分が紹介した相手だけに気になるんだろう。
 買い出しは昨日したし、今日は寄り道せず帰ろう。速度を緩めることなく駅の改札をくぐった。
 今まで通り、なにも代わり映えしない道を辿って自宅マンションに帰り着く。
 階段を上って二階に足を踏み入れたとき、共用廊下から自室に明かりが灯っているのが見えてぎょっとした。
 そしてすぐに、同居人が先に帰ってきている可能性を思いつく。

(何ヶ月も一人で住んでたから、しばらくは慣れないかもな……)

 帰宅を告げながら玄関を開けると、一番にネコ次郎が出迎えてくれた。
 スラックスにすりすりと体を擦り付ける白黒を何度か撫で、続いてリビングから顔を出した男を見る。

「おかえりなさい、新さん」
「……ただいま」

 元カノがいなくなってもネコ次郎がいたから、ただいまを言うことは欠かさなかった。しかしおかえりを言われるのは久しぶりだ。
 相手が変態触手生物でも、明かりのついた家に帰ってこられるのはやはり嬉しい。
 たった数回の接触で猫の抜け毛まみれになったスラックスを粘着テープでケアし、部屋着に着替えてリビングに向かう。

「晩飯食ったか?」
「いえ」

 昨日は麺だったから今日は米にするか。
 冷凍してあった白米を丼に盛って、玉ねぎと鶏肉を切って調味料と合わせ煮る。三つ葉なんて洒落たものはないので長ネギを少量切っておく。あとは溶き卵と合わせて火を通しネギを乗せて、親子丼の完成だ。
 常備菜のピクルスを引っ張り出して適当に盛りつけ、さっき切ったネギと豆腐を片手鍋で沸かした湯に入れ、顆粒の出汁と味噌を溶かして汁物も添える。
 食器の準備をしていたら、引き出しに見慣れない箸が収納されていた。深谷が持ち込んだものだ。
 不意に沸き起こったくすぐったい気持ちを無視して、リビングの食卓に皿を並べていく。

「風呂掃除終わりました」
「おぉ、サンキュ。メシできたぞ」
「わぁ~おいしそう……」

 とろとろ卵の親子丼に目を輝かせる深谷に、さっき感じたむず痒い思いが再燃して俺は首の後ろを引っ掻いた。
 テレビをつけてニュース番組を見ながら二人で食卓を囲む。
 お互いに食事中たくさんしゃべるタイプではないから、聞こえるのは食器が立てる軽い音とテレビの音声、深谷が料理を褒める言葉だけ。
 正面に座る男は箸の持ち方も食べ物を咀嚼する様も完璧だ。
 ヤツが意図して正体を隠していれば人外である事実を疑われることすらないだろう。米粒一つ残さずきれいになった食器を見下ろして、なんとも言えない気持ちになる。おかげで食洗機が洗いやすそうだ。

 この家のリビングにはテーブルを二つ置いている。
 キッチンにほど近い、食事をするための背が高く大きなものと、テレビに向かい合うように置いてあるソファの前に設置したガラスのローテーブルだ。
 食後はソファに座ってローテーブルに本やスマホを置き、テレビを見ながらぼんやり過ごすのが日課とも言えないルーティンになっている。
 だから俺は食器を食洗機へ送り込んだ後、いつものようにソファへ向かって、そこが大惨事になっていることに驚きビクッと跳ねて一歩下がった。

「な、なん……なんだ!?」
「あぁ、どうぞどうぞ」
「いや座るとこないんだけど!?」

 深谷の触手がソファを覆っている地獄絵図。
 大人が寝そべることができる幅のアームソファ一面に、肌色の触手がだらりと伸びて広がっている。
 グレーの布地が覆い尽くされているのではないかと思うほどに触手だらけだ。掴み取りし放題。いやしないが。

「ちょっと引っ込めろ!」

 全く間違ったことを言っていないはずの俺を深谷は変な表情で見遣り、自分の横のスペースを開けた。
 いやいや。仮に俺がそこに座ったら背中どころか側面まで全部触手に包まれることになるだろうが。ソファの背もたれの上から腕を回してチャンネーの肩を抱く的な構図になるだろうが。
 男と女がやってたら(見たいかどうかはともかく)問題ない絵面だが、触手とパッとしない成人男性がやってたらそれはもうスプラッタ映画の導入シーンだ。
 ここで頭ごなしに怒鳴りつけ、触手を千切っては投げて退かせることもできる。
 しかし俺はヤツより年上であるし、余裕のある大人でもある。まずは理由を聞いてみようではないか。怒鳴るのはその後でいい。

「座らないんですか?」
「なんで、俺が、その触手だらけのソファに座ると思ったんだ?」
「新さんが座るかどうかというより、俺の横にいてほしいので」
「なんで?」
「えっ」

 二度目の「なんで」は深谷にとって想定外だったらしい。
 俺としてはむしろ聞き返さない理由がないのだが、深谷は呆然としてぽつりと言った。

「そばにいてほしくて」

 なんだかその様子が、迷子の子供のように見えた。
 繋いだ手を突然離されてしまったとでもいうような。
 俺はこいつの親兄弟でも保護者でもないし、ましてやこいつと手を繋いだことなどない。触手に拘束されたことはあるが。
 だから深谷がいつになく無防備だったとしても、明らかに隣に来てほしいと思っていても、応える理由はない。
 こいつに対峙する時の俺は常に被害者で、同情の余地などないのだ。

「……」

 なのになんで座ってるんだよ俺はバカなのか?
 媚薬だという怪しげな液体に酔わされたわけでも、力で敵わなかったわけでもない。
 自らの意思で、敵の腕の中に飛び込んでしまった。
 僅かに肌色でない布部分に腰を落ち着けた途端、待ち構えていた触手が四方八方から俺の体に襲いかかってくる。またいつものように雁字搦めに拘束されてしまうのか……と力んだが、それらの動きは予想と違った。
 触手たちはウネウネと俺の体を這い回ったが、服の中に入ってくることはなかった。袖から出ている腕や首元を撫でる程度で、最終的には俺の腹に数本の触手が巻き付いた状態で収まる。
 触手状態になっていない深谷本体は、相変わらず俺の横に座って足を組み、スマホをいじっている。
 背中と腹に当たる触手の存在に身を固くしている俺のことなどお構いなしに、ネットニュースかなんか見てやがる。
 俺の心臓は運動後かってくらいドキドキしてるのに、当の本人がこれではまるで俺のほうが自意識過剰みたいじゃないか。
 なので俺もつとめて冷静に、なんでもない風に触手に寄りかかってみたりして、スマホを眺めはじめた。
 ちくしょう驚かせやがって。おまえをネットニュースにしてやろうか。
 いやそれこそNASAだけでなくマスコミも大挙して押し寄せてきてしまう。マンションを追い出される可能性もあるしやめておこう。
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