みなしご白虎が獣人異世界でしあわせになるまで

キザキ ケイ

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第一章

18.子ネコとの出会い

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 ぼんやりと見上げる青空は雲ひとつなく、乾いた風が心地良い。
 授業を終え、庭へと出てきた。
 レグルスはキッチンにおやつをもらいに行っている。じきにバスケットを抱えて戻ってくるだろう。

(いい風だなぁ……)

 故郷の山にいた頃を思い出す。
 風と風向きは重要だと、いつも母に言われていた。
 自身の匂いを流し去り隠れるために。獲物の匂いを嗅ぎ取り、追い詰めるために。

「……ん?」

 ふと、風の中に嗅ぎ慣れない匂いがあることに気づいた。
 動物の匂いだ。人型だと匂いまで薄くなるから、屋敷の者ではない。
 おそるおそる匂いを辿っていくと、庭木の根元に小さな黒っぽい塊があった。
 よく見ると毛の塊で、ぽしゃぽしゃしている。

「なんだろこれ……」

 前足でつん、とつつくと、毛の塊はぱっと広がった。
 細い手足が4本飛び出して、短いしっぽがピンと立って、それから小さな三角お耳の顔がある。

「え、えっ……ね、ネコ……?」
「みぁあ!」

 小さな小さなネコは、タビトが目を丸くするほど大きな声で鳴いて、それから思い出したように「しゃーっ!」と威嚇音を出した。
 ヨロヨロしていても、ちっちゃな目を細めて、大きな口を開けて、元気な声を必死に上げている。

「わ、ネコだ……きみ、どこからきたの? 母さんは?」

 大きな声で呼びかけたら驚かせてしまいそうで、木陰に体を丸め小声で話しかけた。
 タビトが姿勢を低くしたせいか、子ネコはブラシのように逆だっていた背中の毛を静めて、三角しっぽをぴんぴんっと震わせる。

「森から来たの?」
「みぃ」
「迷子?」
「みぁ~」
「……もしかして、獣人じゃない?」
「おにちゃ、ジュージン?」
「わっ」

 しゃべった!
 たどたどしく弱々しい言葉だったが、おどおどとタビトを見上げる子ネコは間違いなく言葉を話した。
 タビトが自然に習得していたこの獣人言語で、会話ができる生き物、それが獣人。ムルジムの授業を受けておいて本当に良かった。

「おにちゃ……ジュージン、なの?」
「あ、えぇと、うーん……そうかもしれないし、ちがうかも……」
「み?」
「あ、うぅん、なんでもないんだ」

 自身が獣人だとどうしても確信が持てず、変なことを言ってしまった。タビトの事情はこの子ネコには関係ない。
 ふと、子ネコがとてもみすぼらしい姿をしていることに気づいた。
 被毛はパサパサと艶なく乾き、泥汚れでところどころ固まってしまっている。
 毛で覆い隠せないほど痩せた体。真っ直ぐ座ることすらつらいのだろう、目やにの溜まった半開きの目は不安そうに揺れている。

「もしかして、おなかすいてる……よね」
「……うん……」
「待ってて! すぐもどるから!」

 言うが早いか駆け出した。
 目指すは獣舎だ。
 普段はお世話係がいる家畜動物の飼育小屋はこの時間、獣舎の担当使用人が休憩中で誰もいない。
 こっそりと忍び込んだタビトは、小屋の端に無造作に積まれた小皿を口にくわえ、ウシの飼育舎へ向かう。
 そこに牛乳の余剰分が溜められていることも知っていた。朝食に出されなかったミルクは、捨てずに保管されて別の食材に加工されるのだ。
 おでこでぐいぐい押してフタをずらし、くわえた器を突っ込んで乳を掬い、引き返す。今度は体を揺らさないよう慎重に、かつ急ぎ足で。
 すっかり逃げてしまっていても仕方ないと思っていた子ネコは、予想に反してまだそこにいた。

「これどうぞ。おいしいよ」
「……」
「ウシさんのミルクだよ。へんなものは入ってないよ」

 そっと器を置いて鼻先で押しやると、子ネコは飛びつくように皿へ顔を突っ込み、一心不乱に牛乳を飲み始めた。
 タビトは自然と緩む頬をそのままに、その光景を見守る。

「けぷっ」

 乳を皿いっぱい飲み干し、子ネコは満足げに前肢で顔を洗い始めた。
 まだ上手くできないのか、何度かバランスを崩して転がる。

「おいしかった?」
「うん」
「僕、タビトっていうんだ。きみの名前は?」

 なまえ、と聞き返し、子ネコは首を傾げた。
 ネコの年齢のことはよくわからないが、この子はかなり幼いはずだ。
 もしかしたら、名前すらわからないままに親元から離れてしまったのかもしれない。

「母さんや、きょうだいたちからなんて呼ばれてた?」
「かあさん……ママ、どこ……?」
「あ」

 子ネコはみるみるうちに不安そうな表情になり、大声で泣きわめき始めた。
 ママ、ママと鳴きながら庭木の下をよろよろと歩き回る子どもが不憫で悲しくて、タビトは思わず子ネコをそっと抱き寄せ、汚れた頭を舐めてやる。

「母さんとはぐれちゃったのか」
「ママいない……ママ、いないよぅ」
「うん……」

 この屋敷にネコ獣人はいないし、庭に隣接する森にもイエネコが住んでいるという話は聞かない。
 あまり良くない想像がタビトの脳裏を過ぎり、小さな毛玉を抱く腕に力がこもる。それでも子ネコは母を呼び、細い手足をさまよわせた。

「わぁ、タビトそれなに? ネコ?」

 おやつの入ったバスケットをくわえたレグルスが戻ってきたのはそんなときだった。
 悲しくてくしゃくしゃになった顔のまま振り返ってしまい、ぎょっとされる。

「えっ、どしたのタビト! そいつになんかされた?」
「あ、ちがうよ。この子、親とはぐれちゃったみたいで……」

 頭を振って事情を話すと、レグルスは興味深そうに子ネコを覗き込んだ。
 いきなり現れた別のネコ科獣人に、子ネコは飛び跳ねて驚きしっぽを丸めてしまう。
 タビトに好意的だったのとは別猫のような態度の変化だ。

「……レグルス、怖がられてる」
「あれぇ、おかしいな」
「顔がこわいのかな?」
「こわいくないよ、子ネコちゃん?」
「……」

 子ネコはさらに後ずさって、しまいには一目散に森の方へ走って行ってしまった。

「あーあ、レグルスの顔がこわいから」
「いやいや、オレの顔はこわくないよ。やさしいよ」
「うーん?」

 引き止める間もなく逃げてしまった子ネコが心配で、森の方を見遣る。
 あの小さな体で、一匹で生きていけるのだろうか。親がすぐに迎えに来てくれればいいけど、もしそうならなかったら。
 でもどのみち、居候で使用人見習いのタビトにしてあげられることはあまりなさそうだった。
 気がかりではあったがどうしようもない。
 そう諦めて数日後。
 フェルカドの元で仕事をこなした後、庭を突っ切って屋敷に戻る途中。

「みぃ」
「あ」

 タビトは再びあの子ネコに会った。

「心配したよ、どこにいたの?」
「……ママ、いなくなっちゃった」
「……そっか」

 数日前に母を探して泣き叫んだ子ネコは、どうしてか明確に母の不在を告げた。
 タビトは何も言えず、ただ子ネコの骨の浮いた背を舐めてやり、またこっそりと獣舎からミルクを持ってきて与えた。
 かつてのタビトが、母を失った子ネコの頼りない姿に重なる。

「僕のとこに来る?」
「おにちゃのとこ?」
「うん。このおうちに住ませてもらってるんだ。僕は主のレグルス……ほら、この間会った顔の怖いライオン。彼の群れの一員で、このお屋敷の使用人見習いなんだ」

 難しかったのか、子ネコはこてんと首を傾げるだけ。
 でもこの子には、屋根のある寝床や栄養満点のミルクが飲める場所が必要だ。

「ここに住むにはたぶん、お仕事をしなきゃいけない。でもきみはまだ小さいし、しばらくははたらかなくていいように僕から言ってあげる。何にしても名前がないと不便だし、呼び名が必要だと思って……僕、考えてきたんだ」
「?」
「メイサ。僕に呼び名をつけてくれたひとが、『タビト』のきょうだいのうちの一つだって教えてくれた名前……どう?」
「めいしゃ?」
「メイサ。め、い、さ」

 小さなトラネコは、何度かもごもごと言い慣れない名を繰り返し、そして言えるようになった。
 母をなくし、名を持たない子ネコは「メイサ」になった。
 イマイチ名前にぴんときていないらしいネコだったが、タビトは満足していた。
 通称のようなものとはいえ、まさか他者に名付けをすることになるなんて。初めて「タビト」と呼ばれたときのような不思議な高揚感がある。
 そこでふと、獣人の子は小さくとも人型になれるというムルジムの言葉を思い出した。

「メイサ、人型に……人間の姿になれる?」
「にんげん?」
「うん。こうして話せてるから大丈夫だと思うけど、レグルスたちには人型で会わせたほうが話しやすいかなって、」
「ジュージンじゃないよ」
「────え?」

 メイサの口唇から小さな牙が見え隠れしている。
 およそ複雑な言葉をしゃべっているようには見えない、その単純な開け閉めの中で、メイサはたしかにこう言った。

「ぼくジュージンじゃないよ。おにちゃもそうでしょ?」

 それから、メイサとどうやって別れたか覚えていない。
 ふらりとよろけて、タビトは立ち止まった。
 気がついたら客間近くの廊下で立ち尽くしていた。

────獣人と動物は違う生き物です。獣人は動物たちと会話することはできません────
 ムルジムの言葉がぐるぐると頭の中を回ってタビトを苛む。

(メイサと……あの子ネコと会話ができていたのに、メイサは獣人じゃなかった)

 動物は体系的な言語を持たないと言われていて、声色や表情、匂いや仕草でお互いの感情を伝え合うのがせいぜいだ。
 何度も同じ言葉、鳴き声を聞いていれば、獣人でも動物の声の意味することを推測することもできるらしいが、それだって痛みや空腹を訴えているか否か、という程度に留まる。
 出会ったばかりの子ネコの言葉が、あんなにも明確に理解できるはずがない。

(メイサと会話できたと思っていたのは僕だけだったのかも。そう、きっとそうだ。会話になってると思い込んでいただけで……)

 そうに決まってる。
 でも────もし、そうじゃなかったら?
 タビトとメイサは会話ができていて、これまでの二匹のやりとりが妄想じゃなかったら。

(……僕、ぼくは……『何』だ……?)

 不意にがたがたと震え始めた体を押さえつける。深く息を吸って、揺れる視界を平静に保つ。
 レグルスはタビトが人型になる日を待っている。タビトもそれを望んでいる。
 でももしタビトが獣人じゃなかったら。

(それをレグルスが知ったら)

 いつか聞いた、タビトを蔑み排斥しようとする声が、レグルスの口吻から吐き出される。
 いつか見た、モノのように見下ろされたあの冷たい目が、レグルスの夕焼け色の瞳に重なる。
 もういらないと言われたら。近づくなと言われたら。僕は────。

「あれ、こんなところでどうしたの?」
「っ!」
「タビト?」

 廊下に立ち尽くすタビトに首を傾げ、レグルスは二つ足から四つ足になった。
 顔が近づき、鼻先が触れ合う。

「鼻がかわいてる。それにつめたい……どうしたの? さっきまで元気だったのに」
「ぁ……う、ん。急に気分が悪くなって、ちょっと休んでた」
「そうなの!? じゃあすぐお部屋にもどろう!」
「大丈夫、休んだら元気になったから」
「でも……」

 心配だと顔中に書かれているレグルスに無理やり笑いかけ、部屋へ帰ろうと促す。
 いつもはのびのびと穏やかな午後の時間も今日ばかりは楽しめない。
 ぐるぐると渦を巻く恐怖に飲み込まれないよう思いとどまるだけで、今のタビトには精一杯だった。
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