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6.離れる
しおりを挟むなるべく音を立てないよう階段を上る。それでもギイギイと耳障りな音が立ってしまうのを完全には防げない。
合鍵を使って軋みのきついドアを解錠した。
「ただいま……」
この時間、家主の敬太は帰ってきていないことが多い。
しかし今日は玄関に彼の履き古した靴を見つけた。無頓着に脱いだらしく散らかっている靴をきちんと揃える。
「敬太さん?」
マツリは玄関のライトを点けて狭い室内を見渡した。
三和土から奥の部屋まで見通せてしまう小さなアパートの一室は、敬太がいるはずなのにどこにも電灯が点いていなかった。
比較的暗闇を怖がる性質の敬太には、考えにくいことだ。
マツリは慎重に足を進め、この部屋唯一の一間へ足を踏み入れた。
「どうしたの敬太さん、電気もつけないで」
敬太は部屋にいた。
突き当りの掃き出し窓の横の壁に背を預けて座っている。淡い月明かりに細い体の影が縁取られていた。
眠っているにしては場所も姿勢も不自然だ。項垂れた姿勢から表情を伺うことはできず、マツリは不審に思いながらもしゃがんで覗き込んだ。
「……マツリか」
敬太は眠っていなかった。暗闇の中で目が合う。
その酷い有様にマツリは言葉を失った。
まるで痛みを堪えているような表情。暗がりのせいか余計に落ち窪んで見える敬太の眼窩は、くっきりと苦しみを表していた。玄関から届く光しかない室内でも、紙のように白い顔色が伺える。
出会った頃に比べ、近頃の敬太は徐々に明るく溌剌としてきていた。
当時はマツリも憔悴していたが、敬太は違う意味で弱って見えた。
最近はそれがだいぶ改善されていたのに……当時に戻ってしまったかのようだ。
「敬太さん、大丈夫? ひどい顔色だよ」
心配になって声を掛けたマツリに返されたのは、歪んだ笑みだった。
「はは……。なぁ俺ってさ、そんなに酷い存在かな」
「え?」
「馬鹿なりに一生懸命やってきたつもりだよ。生きるのに精一杯でも、自分を悔いたことはなかった。でもさ、傍からみたら俺なんて、笑っても嘲ってもいいような存在なのかな」
マツリは内心首を傾げた。
敬太の暮らしはお世辞にも豊かとは言えない。それでもこんな風に自分を卑下する言い方をする人ではないし、そこまで酷いものではないと思う。
狭い部屋で肩を寄せ合って、料理をしたり抱き合ったり、なにもない時間を過ごしたり。
敬太との日々でマツリは確実に救われていた。
自惚れでなければ敬太も、マツリとの日常を受け入れてくれたと思っている。
「そんなことないよ、どうしたの。誰かになにか言われた?」
まるでマツリの言葉が引き金だったかのように、表情の抜け落ちた敬太の顔がみるみる歪んだ。
「っ、あんたが!」
「えっ」
「あんたこそ馬鹿にしてるんだろ! こんな狭っ苦しい家で、虫みたいにちまちま生きてる俺みたいなやつを! 本当は見下してたんだろ!」
激昂した敬太に詰め寄られ、マツリは困惑を隠せない。
心当たりがないという表情をしたからだろう、目を吊り上げて怒っていた敬太が、急に力を抜いた。空気が漏れるような嫌な笑い方をする。
「はっ……バレてないと思ってるみたいだけど、俺見ちゃったんだよね。あんたがコンビニの前の高そうなマンションに入ってくとこ。きれーな女と一緒にさ」
「あ、あれは」
「いーよ、言い訳なんかしなくても。あのマンションに住んでるんだろ。かっこいいスーツ着て、美女連れ込めるようなやつなのに、わざわざこんなボロアパートで家出ごっこなんて……貧民の俺には想像もできない高尚な趣味だよな」
月明かりと微かな人工灯の中で、敬太の怒りに満ちた瞳がマツリを睨む。
「タワーマンションってーの? さぞかし金が掛かるんだろうな。あんなとこに住んでて水道なんて止まるわけないよな。俺たちみたいに、ライフラインが本当に最後まで止まっちまう日が来るんじゃないかって毎日怯えて暮らすのなんて、あんたらみたいな人種には想像もできないだろうよ」
血走った白目が濡れているように見えて、はっとした。
実際には敬太は泣いていない。それでもマツリには、憤怒や憎悪の向こう側になにがあるのか見える気がした。
「敬太、さん……」
「金持ちでお綺麗なあんたみたいなのが、何も持ってない俺みたいのを抱くのはさぞかし愉快な娯楽なんだろうな? 毎日酒と大量生産の弁当でなんとか生き延びて、コンビニスイーツ一つ奢って喜んでるような俺みたいなやつを、影で嘲笑ってたのか。わざわざ安っぽい服に着替えて、餌付けして、こんなボロ家に住み込んでまで……。馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
「違う、本当に……聞いて、敬太さん」
伸ばした手が触れる前に、激しい力で振り払われる。
敬太がマツリを拒絶したのは初めてだった。
「うるせぇ! あんたと話すことはなにもない。荷物もって出ていけ」
敬太が指差す先には、マツリの荷物があった。
何ヶ月もマツリが暮らしてきたはずのこの部屋で、隅にまとめられた私物はバッグと紙袋ひとつ分しかない。
今更思い知る。敬太がマツリの存在を許してくれていたから、ここで自由にしていられた。
本当は袋に収まってしまうくらいしか物がなくても、敬太がマツリを受け入れてくれていたからここは「マツリの居場所」だったのだ。
いつも無意識に感じていたあたたかな空気は今、ひと欠片も存在しない。
「出てけ。二度と顔見せんな」
いつも「仕方ないな」と苦笑して赦しを与えてくれていた瞳には、強い拒絶しか浮かんでいなかった。
マツリはぐっと唇を引き結び、敬太の傍を離れる。部屋の隅の荷物を持ち、玄関のライトを消してドアを開ける。
未練がましく振り返ってしまいそうになり、きつく自制した。靴を履いて部屋を出て、アパートの敷地を出るまで一度も振り返ることはできなかった。
寂れた街頭に照らされながら、アパートを見つめる。
「敬太さん……」
いつもならこの時間、マツリは二人のために料理をしている頃合いだ。
早ければ出来上がる頃に敬太が帰ってくる。遅いときは夜中だが、眠くても起きて待っていた。
他愛もない会話を交わしながら食事をして、布団を敷いている間に交互にシャワーを浴びる。
セックスになだれ込むこともあれば、ただ抱き合って眠る日もあった。
どんな日もマツリにとってはかけがえのない、輝くような思い出だ。
馬鹿にしたことなど一度もない。
それなのに、マツリの言葉が足りないばかりに。
問題を先送りにしすぎたばかりに、大事な場所と人を失った。紛れもなく自らの落ち度で。
そして何より、敬太を傷つけてしまった。
「……」
しばらくアパートを眺めていたマツリは、その場をゆっくりと歩き去った。
肩を落として足を引きずるように進む男は、決意を秘めた瞳だけは失っていなかった。
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