はきだめに青い鳥

キザキ ケイ

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2.存在に慣れてきた

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 マツリとの生活は意外と悪くない。
 口数の少ない同居人は騒がしくすることもなく、敬太に従わないこともなかった。
 むしろ買い物や部屋の掃除など率先してやってくれて、日常生活の負担が減ったくらいだ。
 この家にやってきて数日のうちは、マツリは毎日ぼうっと過ごしていたらしい。
 敬太が仕事から帰ってくると、出勤前と同じ格好で座っている姿があって、さすがに気味が悪く感じることもあった。
 しかしその後は少しずつ人間らしい振る舞いをすることが増え、一度家に戻ったのか、私物の詰まったボストンバッグを持って帰ってきた。
 それ以来衣服は貸していないし、それまでマツリが使った分の服や日用品が返された。
 仕事にも復帰したようで、朝から夕方頃までどこかに出かけている。
 もっともマツリの外出時間より敬太の勤務時間のほうが長いため、彼がどこに何時間勤めているのかは知らない。
 訊くつもりもない。

「ただいまー」
「……おかえり」

 狭苦しい家に帰り着いて、帰宅の挨拶をすること自体違和感があるのに、今やそれに返事がある。
 玄関からすぐのキッチンに立っていたマツリが迎えてくれた。
 返ってくる声は小さいものだが、留守のはずの我が家に灯りがついているということも併せて胸が詰まりそうになり、敬太はわざと乱暴に靴を脱ぎ散らかして部屋に上がる。
 近頃彼は夕食を作るようになった。

「今日なに? カレー?」

 この家にはなかったはずの両手鍋がコンロに鎮座している。火にかけられたそれからは、スパイス由来の良い匂いが漂っていた。
 買ったはいいが使ったことはなかった炊飯器からは湯気が出ている。

「調理器具なんてあったんだな、この家」

 家主の敬太が感心したようにつぶやく。
 そもそも米なんて買った覚えがないというのに、マツリ自ら買ってきたのだろうか。

「包丁とまな板はあった。他は……」
「へぇ、包丁なんてあったのか。知らなかった」

 マツリがちらりと敬太を見て、口元を綻ばせる。

「家主のくせに」

 それは初めて見た、マツリの笑顔だった。
 目元は重い前髪で隠れているものの、おかしそうに楽しそうに笑う姿に敬太は固まる。
 拾ったばかりの頃は反応が薄く、人形のようだと思ったものだった。近頃はずいぶんと口数が増えて人間らしくなってきたものの、はっきりした感情の発露を見たことはなかった。
 特にこれほど明確な笑みは、間違いなく初めてだ。
 それにしても、こいつ。
 敬太は少し高い位置にある、カーテンのように垂れた前髪を手のひらで持ち上げた。

「っ!?」
「髪で隠れてよく見えなかったけど、あんたすげー美形だな」

 背が高く、程よく筋肉もついていて体格が良いことはわかっていた。しかし顔をまじまじと見たことはなかった。
 まるでテレビや雑誌から抜け出てきたかのようだ。
 シャープな輪郭と高く通った鼻筋、肉付きの薄い頬と唇。きれいな二重で切れ長の目は今驚きで見開かれている。瞳の色も単純な黒や茶でなく、少し青みがかっている。
 色味はほぼ日本人だが、彫りの深い顔立ちや不思議な目の色から外国の血でもはいっているのかもしれない。職業を聞いたことはなかったが、もしかしたら芸能人かもしれないと思うほどだ。
 敬太は唇をへの字に曲げて、手を離した。黒髪がぱさりと落ちて端整な顔を隠す。
 身長も顔立ちも、おまけに生活能力まで負けている。
 そんなやつが居候としてこんなボロ家にいるなんて、なにかの間違いにしか思えない。
 日頃必死で押さえつけている劣等感が顔を出しそうになり、敬太はマツリの肩を強めに叩いた。

「俺はカレー、水気があるほうが好きだ」

 ぶすくれた声が出てしまったが、取り繕う余裕はなかった。
 その後夕食に出てきたカレーは、汁気の多いものだった。敬太はこの水っぽいルーに、やや固めの米を浸しながら食べるのが好きだ。
 あまり噛まずに咀嚼しながら、ちらりとマツリを伺う。
 相変わらず野暮ったい前髪だが、心なしか以前より背筋が伸びて、陰鬱でどうしようもない雰囲気が和らいでいるように感じられた。
 意外と立ち直りが早いほうなのかもしれない。
 敬太がコンビニの駐車場でマツリを拾った時、彼は間違いなくどん底にいた。
 絶望の淵に立ち、そこから離れる努力も方法も見失っていた。
 それが今は、よく知らない男の狭いワンルームで具の少ないカレーを作っては、共につついている。
 短期間ではあるが、マツリがいわゆるアウトローな世界の人間でないことは察せられていた。常識的で気が小さく、朗らかな性格。
 意図して本性を隠しているのでなければ、彼は元々ごく一般的な暮らしをしてきた人物だろう。
 こんなへんてこな状況で生活している現実に、疑問を感じたりしないのか。

(っつーかこいつ、年下だよな? たぶん)

 目の前の男の年齢に思いを馳せる。
 未成年ではないだろう、酒を渡したとき素直に受け取ったから。まだ大学生なのか、社会人なのかは敬太には判断できなかった。
 背は高く、幼さを感じる部分はないが、「やさぐれたい」などと言ってコンビニ前で呆けていたのを見ると、分別がしっかり備わった大人とは思えない。

(……あほらし。やめよ)

 そこまで考えて、敬太は思考を終わらせた。
 敬太はマツリのことをなにも知らない。知ろうともしていない。
 探ろうとすれば、二人の距離感は変わってしまう気がする。
 その変化が良いものなのか、恐ろしいものなのか、敬太には判断がつかない。

「……」

 だから訊かない。気にも留めていないふりをする。
 今が安定しているのにわざと波風を起こすようなことは、敬太の望みではなかった。


「お先でーす」
「おつかれさま~」

 人好きのする店長の声を背中に受けながら厨房を出て、事務所に入る。
 一人立てばいっぱいになってしまうその部屋でエプロン姿から着替え、着古したジャケットを羽織った。
 裏口から外へ出れば、冬を強く感じさせる木枯らしが剥き出しの肌を撫でた。
 慌てて冷えかけた両手をポケットに突っ込む。
 繁華街から通りを一本入った昔ながらの洋食屋。日中週五で働いている店だ。上京してすぐの頃からだから、もう何年になるだろう。
 当時から懐が厳しい若者だった敬太は、昼食にまかないを出してくれるこの店を気に入っていた。
 店長はちょっとトボケているけど腕の確かな料理人で、その妻である副店長も気さくで良い人だ。夫婦二人の素朴な町の洋食屋に、たった一人のアルバイトが通う。
 給金が安く、今住んでいるアパートからだと通うのが少し不便な場所だが、敬太はこの店を辞める決心がつかないでいた。

(居心地がいいんだよな……)

 夫婦の絆を感じる、あたたかい二人。
 顔見知りの客連中も良いやつばかりだ。
 古い店は安心感に満ちていて、有線が流すBGMと、客と店員がさざめきのように交わす会話しかない店。喧騒も諍いもない。
 自分には一生縁がないと思っていた、家族のぬくもりのようなもの。
 それを手放す決心は、まだつきそうにない。
 皮膚に食い込む肩掛け紐を直しながら駅へ続く道を足早に歩く。
 敬太の全財産と仕事に必要なものは、いつも持ち歩く黒いショルダーバッグに詰め込まれている。
 そのため洋食屋のバイトが終わったら、帰宅せず真っ直ぐ次の勤務先へ向かった。
 日雇いの仕事を入れることもあるが、今日はいつもの居酒屋へ出勤する。
 この居酒屋も数年勤めているが、バイトはあまり長時間働かせるなという親会社の方針だとかで、このところ勤務形態が不規則になっていた。
 稼ぎたい敬太にとって良くない傾向だ。もう潮時なのかもしれない。

「いらっしゃいませー!」

 空元気で声を張り上げるのがつらいことが、ときどきある。
 それでも自分の面倒は自分で見なくてはならない。立ち止まっていられない。
 住処がボロでも、一日中働き詰めでも、余裕ができない大都会で暮らすことを選んでいるのは自分だから。
 ただ最近は、疲れ果てて辿り着く家が寝るためだけの屋根のある場所とは違っている。

「……おかえり」

 夜も更けきって、日付が変わっている時間であるにも関わらず、開けた扉の先で敬太を出迎える声がした。
 靴を脱ぎ、バッグを肩から滑り落として声の方へ向かうと、小さな部屋をぎゅうぎゅうに占拠した布団のうちの一枚に、男が丸くなっている。
 上掛けを剥いで体を起こしたマツリは、とても眠そうだった。

「ただいま。……起こして悪かったな」

 そんな言葉が自然と出る日常にも慣れてきた。
 ───以前、敬太はもっと広い部屋で、おかえりを言う側だった。
 今マツリが使っている布団を敷いておくのは敬太の役割で、そいつはいつも眠そうにまぶたを擦る敬太に苦笑して、ただいまを言ってくれる。
 忘れかけていた昔の情景を、首を振ってかき消した。
 玄関に点けた明かりだけで奥まで進み、眠そうに体を揺らすマツリの肩を叩く。
 少し力を加えると、敬太より大きいはずの体は素直に布団へ倒れた。掛け布団を肩まで引っ張ってやると、すぐに寝息を立て始める。
 まるで子供だ。マツリは明らかに成人した、敬太より大柄な男なのに。
 どこか憎めなくて、こういう無邪気な仕草も許せてしまう甘えたところがある。
 三和土で落っことしたバッグを拾い、キッチンを覗く。
 大鍋の中には煮物が、片手鍋には味噌汁が入っていた。おそらく冷蔵庫の中にはラップに包まれた一人分の白米も収められているに違いない。

(まめな恋人みたいだな……)

 そう考えて、自分の思考を恥じる。マツリのほうにそんな気は一切ないだろう。
 マツリが敬太の分まで食事を作るようになってから、敬太はマツリに食費をいくらか渡していた。
 一ヶ月にかかるおおよその食費を分割して、週末に渡す。
 ただ正直、夕食は主に割引シールのついた惣菜や弁当の生活だった敬太にとって、食材を買ってくるマツリの自炊にいくら掛かっているのかは把握できていなかった。
 もっとも今のところ、マツリから金に関する催促を受けたことはない。不足しているということはないのだろうと思う。
 むしろ、最初に金を渡した時マツリは拒否をした。
 転がり込んできたときマツリは小銭をいくらか持っているだけだった。敬太ほどでないにせよ、金に余裕があるとは思えない。
 そう問い詰めると渋々受け取るようになり、なんとかやりくりしながら買い物など行っているようだ。
 敬太は日中ほとんど留守にしているし、尋ねたこともないので確信はないが、マツリは毎日どこかへ出かけている。
 敬太が出勤してから出かけ、敬太が帰宅する前に買い物をして戻る。
 おそらく学校か仕事に行っているだろう。
 彼がこの家に居候しはじめたとき、マツリは憔悴していて、すうっと消えてしまいそうな存在感しかなかった。それが今では料理も掃除もするし、外出も苦ではないらしい。
 やさぐれたい、などといって安酒を煽っていた頃のマツリとは違う。
 どろりと溶けた暗闇の瞳をしていた頃とは変わっている。
 相変わらず野暮ったい髪型と、構っているようには見えない服装だが、確実に気力を取り戻し、日常を楽しむ余裕を持ちはじめている。

(そろそろ出て行くかもしれないな……)

 ワンルームの奥で布団に丸まっている背中を見る。
 敬太にとってマツリとの日々は、晴れた日の凪のようであり、激しい嵐のようでもあった。
 心のうちでは見知らぬ男の存在に違和感を感じ続け、かといって自分から引き込んだのだからと手放さずにいた。見た目には、敬太の中で渦巻く葛藤など誰も気がつかなかっただろう。
 それももうすぐ終わるのだと思うと、やはり感慨深いものがあった。

(でかい鍋なんてここにあっても仕方ない。出て行く前に持ち帰るよう言っとかないとな)

 二つの鍋を交互にコンロへ乗せ、順に火を通しながらぼんやりと考える。
 明日が来ることが憂鬱なのはいつものことで、常にも増して思考が緩慢になる理由を敬太は知らない。
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