はきだめに青い鳥

キザキ ケイ

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1.男を拾った

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 寒い日の夜だった。

 近所にある三つのコンビニを数日おきのローテーションで訪れる敬太けいたがその日、一昨日も来た店を再び訪れたのは、気まぐれだった。
 一昨日買った新作のレジ横チキンが美味しかったから、少し高いがもう一回くらい食べたい。その程度の理由。
 だから、店の前の車止めに座っている男へ声を掛けたのも、気まぐれだ。

「寒くねーの?」

 横に立って見下ろした男は、憔悴した様子を隠しもしていなかった。
 肩を落とし背中を丸め、項垂れた頭は微動だにしない。風もないので乱れた黒髪が揺れることもない。
 コートの裾がコンクリートの地面に広がっているのも頓着していなかった。

「……?」

 横合いから突然かけられた声に、男は緩慢な動きで顔を上げはしたが、ぼんやりとしていて返事はない。
 ぼさぼさの黒髪が重たく垂れた隙間から、暗く翳った瞳が見え隠れする。
 その男はコンビニの建物の前、三台分ある駐車場の車止めコンクリートブロックのひとつに腰掛け、ぼうっとしていた。
 比較的治安は良いとされるこの地域でも、夜になればだらしない格好の者たちがたむろする光景は珍しくない。だから敬太も最初はその横を素通りして店に入った。
 無事目的のチキンを一つと、今夜の晩飯を調達して店を出る。
 左腕に下げたコンビニ袋がガサガサ言うのも厭わず、外気で冷えそうになった手をジャケットのポケットに突っ込みながら一歩踏み出して、座り込む男が目に留まった。
 男は店に背を向けたまま、さっき通り過ぎたとき見たのと全く同じ姿勢でそこにいた。
 横に立ってみる。ぴくりとも反応しない。
 この辺に群れをなすガラの悪い連中なら近づくだけでガンを飛ばされ、横に行こうものなら軽い恫喝を吐かれるものだが、この男は死んでいるのかと思うほど動かない。
 そもそも一人きりで、こんなところで萎れている時点で変だ。
 ちらりと首だけで後ろを伺うと、自動ドアのガラスの向こうで店員がレジから身を乗り出しているのが見えた。遠目にも、迷惑そうな顔をしているのが分かる。
 もしかしたらこの男は、敬太が思うより前からずっとここにいるのかもしれない。このまま放置しておけば、店員に声を掛けられるなり通報されるなりで排除されるのだろう。
 だから、というわけではない。
 あくまで気まぐれだ。
 もし危険な気配を感じたら、自慢の脚力で全力で逃げるつもりだった。

「こんなとこにいたら風邪ひくかもよ」

 寒くないのかという問いにすら反応しない男に、なぜさらに構おうと思ったのかは後から考えても謎だ。
 でもそのときは何も考えていなかったし、何も不思議に思わなかった。
 そうするのが当然のような気がした。
 男は、敬太の言葉が何秒も遅れて届いたような反応をした。
 コートに包まれた腕を少し擦り、また俯く。返事をする気はやはりないらしい。
 もしかしたら体調不良かなにかで動けなくなっているのかと思っていたが、その様子では緊急事態というほどではなさそうだった。

「なにがしたいの、あんた」

 次の問いはとても抽象的になった。
 敬太自身もなにか深く考えて言ったわけではない。だが、それには返事があった。

「……やさぐれて、みたくて」
「は?」
「コンビニの前でこうして、しゃがみこんで、タバコを吸ったり、大声で笑ったりしてみようと思って。でもタバコは、どれを買えばいいかわからなくて」

 口がきけないかもしれないと思っていたとはおくびにも出さず、敬太は男の言葉を受けて考える。
 タバコが買えず、一緒にたむろする相手もいないので、一人でここにいたのか。「やさぐれている」っぽい姿で。
 それがおかしくて、敬太は吹き出すように少しだけ笑った。

「そういうことなら待ってろ」

 さっき買い物をしたばかりのコンビニに取って返す。
 男の視線を背中に感じながら店内を物色し、さっさと会計を済ませて品物を剥き出しで持ったまま外へ出た。

「これやるよ」

 座り込んだままの男の顔の前にかざしたのは、店の棚にある中で一番安いカップ酒だった。

「……?」

 男が両手で包むようにカップを受け取るのを見届け、開け方を指示する。プラスチックの上蓋を取って、プルタブを引っ張っぱる動きにも違和感はなかった。

「いいトシの男が一人でやさぐれたいんなら、カップ酒だろ」

 敬太の偏見に満ちた言葉に反論することなく、男は小さく頷いてカップに口をつける。

「……」
「どうだ?」
「おいしい、というわけではない……」

 苦いものが混じった男の声に、敬太は今度こそ遠慮なく声を上げて笑った。

「当たり前だろ、酔うためだけの酒なんだから」

 その後もちびちびと美味くもない酒を舐める男に、うちに来るかなんて言ってしまったのも、気まぐれだ。
 後先のことを考えないのは敬太の悪い癖であり、美徳でもあった。

 ギシギシとやかましい音を毎段律儀に立てる安アパートの階段を、二人で上る。
 敬太が男を家に招いたことに脈絡は全くなかった。敬太自身が、自分で言ったことに驚いたくらいだ。
 だから敬太が歩きはじめた時、男が着いてこなかったらそれまでだと思った。
 しかし男は敬太の後ろを追ってきた。スニーカーの踵を潰して引きずりながら歩く敬太のあとを、規則正しいコツコツという音がついてくる。
 駅から遠く、大通りからは何本も小道を横切った先、築数十年のボロアパートの二階に敬太の部屋はある。
 六畳一間に男の一人暮らし、当然部屋は口が裂けても綺麗とは言い難い状態だが、生ものやゴミが散乱していないだけマシだと思っている。
 鍵を開けて中に入り、大きく玄関扉を開けてやると、戸惑ったように立ち尽くしていた男が慌てて入ってきた。ついてきてしまった以上、深夜に近いこんな時間に廊下で突っ立っていられても困る。
 廊下に散らばる紙ゴミや散らかした衣類を足で端に寄せながら歩き、拡げた折りたたみテーブルにコンビニ袋を置く。
 中から弁当とチキンを出して、温め直すほど冷めていないことに少しホッとした。

「座れよ」

 またも部屋の入口に立って呆けている男に声を掛け、テーブルの反対側を顎で示す。
 カーペットも座布団もないフローリングの上に男が正座したのを確認して、箸を袋から出し、弁当の蓋を開ける。
 ゴマの掛かった白米を一口含んだところで、気の抜けたぐうという音が狭い室内に響いた。
 男を見る。男も敬太を見ていた。
 二人の視線が男の腹へ向かい、タイミングよくまたあの音が鳴った。

「なんだあんた、腹減ってたのか」

 腹が鳴き出すまで放置するなんて、子供のようだ。
 男は深く俯いてしまった。伏せられる前の顔は赤くなっていた気がする。
 敬太は素早く自らの腹具合と食事量を計算し、ミニキッチンに伏せてあった滅多に使わない茶碗と皿を持ち出した。
 弁当のご飯を茶碗に半分よそい、色とりどりのおかずからいくつかを皿に盛る。チキンを手に取ったときはかなり躊躇したが、紙袋の点線にあわせて柔らかい肉を割り裂いて皿に載せた。ちょうど二等分にはならなかったが、文句を言われる筋合いはない。

「ほら、食え」

 皿と茶碗を押し出し、キッチンの端に転がっていた未使用の割り箸を渡す。
 ついでに冷蔵庫から取り出したビールの缶を添えてやると、そちらは手のひらを見せて拒否されたので自分で開ける。
 男の方を見ずに敬太は食べ始めた。
 男はしばし箸袋を握ったまま動かなかったが、小さな声で「いただきます」とつぶやいて茶碗を手に取った。
 少しずつゆっくり食べる姿が、いかにも久方ぶりの飯を噛み締めて味わっているようで、敬太の心になんとも言えない優越感を満たす。
 この男を連れ帰ったことに、理由はないと思っていた。
 しかし毎日生活に追われ、出口のないぎりぎりの暮らしをするうち、なにかを見下して心の安寧を得たいと思い始めていたのかもしれない。
 途方に暮れた様子の男の存在は、敬太にとって都合がよかった。ただそれだけだ。

(これが偽善と呼ばれるものでも、誰にも文句は言えないはずだ)

 きれいに箸を持つ整った手をした男を眺めながら、敬太はビール缶を傾ける。

「行くとこないのか、あんた」

 一口分しかないきんぴらごぼうを摘んだ男が、はっと顔を上げる。
 前髪で隠れた顔の色は確認できなかったが、彼の目が縋るように敬太を見つめている想像はかんたんにできた。

「しばらくここにいるか」

 なにもかも気まぐれの夜。
 ボロアパートの小さな部屋に、名も知らぬ男が居候することになった。

 男は名をマツリといった。
 漢字を説明されたが、見たこともない字で敬太には覚えられそうにない。苗字なのか名前なのかすら訊ねなかった。そんなことは重要ではないからだ。
 マツリは陰鬱な表情と重たい前髪、猫背で言葉少なで、近寄りがたい雰囲気を持ってはいるが浮浪者には見えなかった。
 嫌な匂いはないし、服もぼろではない。

「あんた、家は?」
「……」

 自分のことを話そうとしないマツリには、なんらかの事情がありそうだった。
 黙ったまま俯いているマツリの様子を注意深く観察する。

「帰れないのか。借金?」

 マツリが首を振る。

「ヤクザとかケーサツに追われてる?」

 気まぐれでこの男を家に置くことにしたが、さずがに警察沙汰や面倒ごとはごめんだ。
 だがこれにも否定が返された。

「ふーん。じゃあいいや」

 おもちゃをポイと手放すように敬太が質問をやめると、マツリがぱっと顔を上げた。

「聞かないの……?」

 乱れた前髪の向こうに、不思議そうな表情が覗く。

「曰く付きは家に置けないけど、そうじゃないんならいいよ。今日のメシはおごってやるけど、明日からは折半な」

 きれいになった皿と弁当箱、使った箸を回収して席を立つと、マツリの視線が追いかけてきた。
 怯えた気配は消えていて、その様子がまるで野生動物を手懐けたかのようでなんだか面白い。

「とりあえずシャワー浴びてこい」

 タオルを渡して浴室を指差すと、猫背の男は大人しく従った。
 ボロアパートのシャワーはお湯のカランをひねっても妙にぬるくて、寒い冬は残念な気持ちになるが、いち入居者の敬太にはどうすることもできない。
 もしマツリが文句を言ったら叩き出してやろうと思っていたが、出てきた男は不満を漏らすことはなかった。入れ違いにシャワーを浴びる。
 烏の行水ですぐに出ると、マツリは先ほどと同じ場所にちょこんと座っていた。
 心なしか戸惑った空気を感じる。

「服、やっぱ小さいな。……ムカつく」

 マツリが着ていた服はまとめて洗濯機に入れてしまったあとだ。ワイシャツなんて洗ったことがないので作法はわからないが、汚れが落ちればなんでもいいだろう。
 その代わりに、先日特売で買ったスウェット上下と新品の下着を出してやった。
 特に指示しなかったが、ちゃんと着られたようだ。どう見ても肩が狭いし、手首と足首が丸出しになっているので着丈が合っていないのだろうが、これ以上大きい衣類はない。

「あんたはそこで寝ろ。寒ければこれかけとけ」

 折りたたみテーブルを片付けたスペースに自分の布団を敷き、押し入れの奥に入れてあった予備の布団を窓の手前のフローリング部分へ押し込むように延べる。
 しばらく日干ししていないので湿っぽい気はするが、カビてはいないはずだ。上掛けは夏用なのでブランケットを一枚放った。
 相手の意見も聞かず電気を消すと、マツリは大人しく布団へ横になったようだった。しばらくゴソゴソと音がしていたが、そのうちそれも止んだ。
 暗闇に自分以外の存在が感じられるのは、いつぶりのことだろう。
 敬太は今更ながら緊張と後悔に苛まれていた。
 よく考えれば、名前すら曖昧な素性のよくわからない男を拾って家に上げ、寝床さえ与えるなんて正気の沙汰ではない。
 もしマツリが犯罪に躊躇しない性質の男だったら、金目のものを奪われ命すら危ういかもしれない。
 そこまで考えて、敬太は思い直した。
 盗みをはたらくつもりなら、敬太がさっき風呂に入っている隙に逃げ出しているだろう。そもそも金目のものなどこの家にはない。いっそ悲しいほどに。
 そしてマツリがもし敬太を殺すつもりなら───。

(そのときは、そのときか)

 廊下の方へ寝返りを打つと、敬太の意識はすとんと落ちる。
 なんの警戒もなく寝息を立て始めた家主を、鈍く光る瞳が暗闇の中からしばらく見つめていた。
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