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8.外へ出る
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ドアを開けて、外へ出る。
少し前まで特別な行為じゃなかったそれはとてもひさしぶりで、ぼくは目を細めた。
明るい日差しに焼き切れてしまいそう。
「御影、大丈夫?」
「は、い」
ひるんだのを知られたくなくて、心配そうな響己さんに強くうなずいて見せる。
響己さんの家に閉じこもっていたのはたったの一ヶ月だけだった。でもどうしてか、もっとずっと長い間外に出なかったように感じる。
今日のミッションは、近くのスーパーマーケットで買い物をすること。
「御影の発情がやっと収まったからね。今日が大丈夫なら、今後は一人で外に出ていいよ」
「はい……響己さんは、へいき?」
「うーん、本音を言えば、なるべく家にいてほしいけど。これは御影を心配する気持ちがほとんどだからね」
「心配以外の気持ちもある?」
「……独占欲が、ちょっとだけ」
目をそらしてしまった響己さんに笑って、ぼくが一人で外出しても響己さんの帰宅時間には間に合うように帰ってくることと決まった。
今出てきたマンションを振り返る。
灰色のタイルがきれいに敷き詰められた建物は縦に長く、響己さんのおうちが3階だと知ったのも今日がはじめてだ。
周りも大なり小なりコンクリートの建物ばかりで、つやつやぴかぴかした車が駐車場に何台も停められている。住民の車はもっといっぱい地下にあると聞いて、車に目がない仲間たちの顔が思い浮かんだ。
へこみの少ないアスファルトの道をのんびり歩く。
すれ違う人は休日の昼間だからか、親子連れが多い。犬の散歩をする人、スポーツウェアでジョギングする人、カバンを手にせかせか歩く背広の人もいる。
すれ違うのは人だけじゃない。張り紙と落書きが全然ないきれいな電柱、道路に張り出そうとしている太い樹木、ゆがんでいないガードレール。
ぼくたちが住んでいたあそこよりずっといい街だと、それだけで察することができる。
「ここだよ。うちからはこの通りをまっすぐ、突き当りを右。覚えやすいでしょう」
「うん。すごく立派なスーパーですね」
「広いから迷子にならないように手を繋ごうか?」
「……」
子ども扱いしないでよ、と反発しようとした。
でも気づいたら手を握っていた。響己さんも驚いた顔をしていたけど、すぐにふにゃんと笑みに変わってぼくの手を引いてくれた。
慣れた様子でカゴを持ち、ゆっくりと店内を回ってぼくにいろいろなものを見せてくれる。片手がふさがっているから、ぼくが響己さんの指示で商品を取り、響己さんが持つカゴへ入れる。
手を離そうと言われないことをいいことに、ぼくはこの不自由なやりとりをめいっぱい楽しんだ。
「今日は何食べたい?」
「響己さんの食べたいものがいいです」
「うーん、じゃあハンバーグとロールキャベツ、どっちがいい?」
「ロールキャベツってなんですか?」
「ん、じゃあ今晩はロールキャベツにしようか。キャベツを巻くのを手伝ってもらおうかな」
「はいっ、手伝います!」
いつもより安いというひき肉を買って、キャベツをひと玉。ほかの棚も見て回って、あれが足りないこれは便利そうと話し合いながら買っていく。
牛乳パックを入れる頃にはカゴがとても重くなっていて、ぼくはあわてたけれど。
「手、離さないでいよう」
そう言われてしまえば、ぼくから手を離すことはできなくて。結局レジにたどり着くまで響己さんは重いカゴを持ってくれた。
「御影はそれだけでいいの? もっといっぱい買っていいよ」
「ううん。ぼくはこれだけで……ありがとうございます」
なんでも欲しいものを買っていいと言われたけれど、ものがいっぱいありすぎて、欲しいものはほとんど浮かばなかった。
でもどうしても我慢できずにひとつだけ買ってもらったのが、ラムネ。
いつかの昔、仲間のひとりが夏の夜、仕事をサボってお祭りに出かけたことがあった。
親しいアルファのお客さんに浴衣を着せてもらって、帰ってきた彼女はいくつものおみやげの中から、空っぽのラムネ瓶をぼくにくれた。
お祭り屋台にしかいないと言われていたこの瓶と、スーパーマーケットで再会できるとは思わなくて、衝動的に手に取ってしまったもの。
もらった瓶は大切に保管していたけれど、あるときお客さんに割られてしまって。そうしたら中からガラス玉が出てきた。
瓶はとっておけなくなったけど、ガラス玉ならずっと持っていられる。あのときのガラス玉は、響己さんが持ち帰ってくれたぼくの荷物の中にまだ入ってる。
「ビー玉だね。わたしも好きだよ。ラムネ瓶に入ってるものはとりわけきれいなんだよね」
「これビー玉っていうんだ……びー、ってなに?」
「えぇと、びいどろの略だったかな……」
薄青いラムネ瓶は陽の光に透かすとまぶしいくらいキラキラ輝く。
ぼくが好きなものを響己さんも好き。それはとても嬉しいことで、帰り道はずっと瓶を眺めながら歩いていたから、響己さんに重い買い物袋をずっと持たせっぱなしだったことに気づいたのは帰宅してからだった。
「そんなに重くなかったよ。御影はラムネを持って帰る役目があったじゃないか」
「でも、ぼくはラムネしか持ってなくて……」
「次行くときは交代しよう。二人で持っても楽しいかもね」
それからはときどき響己さんといっしょに買い物へ出かけた。
買い物袋の取っ手を片方ずつ持って、並んで帰るのはすごく楽しくて。でもあるとき、響己さんがこっそり調節して、ぼくが袋の重さを全然負担していなかったことがわかり、ちょっとだけケンカみたいになったこともあった。
それもふくめて楽しい思い出だ。
日課とまではいかないけれど、追加されたぼくのお仕事。お使い。
渡されたカギと預かったお金でいそいそとスーパーへ出かけ、メモの通りに買い物をする。
たまに野菜を間違えたり、個数の少ないものを買ってしまうけれど、響己さんは怒らずに、次はどうすれば失敗しないかいっしょに考えてくれる。
そんな時間もうれしい。失敗は、反省するけれど。
「それにしたって、牛乳と乳飲料なんてわかんないよ……」
「けっこう味が違うから驚くよね。牛乳パックのここを見るといいよ」
ぼくが間違えて買ってしまった乳飲料には、紙パックの小さなへこみがない。響己さんが買った牛乳にはある。
ぼくはその憎たらしいへこみをつんつんつついた。
もう何度も買い物に行って、たまにスーパー以外の場所にも行って。だんだん行動範囲が広がっている自覚はある。
晴れた日は家のまわりを散歩してみたり。街路樹に沿って歩いてみたり。少し行ったところに公園があって、ベンチでぼうっとしてみたり。似たような建物ばかりで迷子になりそうだったのも、以前の話だ。
発情が終わらなかったせいで外を出歩くことができなかった不自由が、今になってやっとわかった。
ふつうの人にあこがれて街を歩いたこともあったけれど、おそろしいまなざしのアルファに追いかけられて、逃げて逃げて、結局どこにも行けないんだと諦めた。
それがぼくの体のせいだということがわからなくなっていた。
今はもう、立っていても座っていてもぼんやりしていても、アルファの人に追いかけられることはない。
やっとふつうの人間になることができた。
「御影、ときどき公園に出かけてるって言ってたよね」
「うん。通りの向こうの小さい公園。遊具とかはあんまりないんですけど、ベンチが木陰に入っていて涼しいんです」
「そっか……」
響己さんはなにやら考え込んで、真剣な表情でぼくを見返した。
「連れていきたいところがあるんだ。いっしょに来てくれる?」
「はい」
次の響己さんのお休みの日、ぼくは手を引かれてバスに乗った。
バスに乗ったのは生まれて初めてだ。
それがどういうものかは知っていたけれど、車内のお作法が全然わからなくて、行き先もよくわからないし、電車よりも左右にゆれるので、ぼくは座席で固まっていた。
さいわい、響己さんが乗車賃の払い方や目的地へ近づいたときのやり方を教えてくれて、無事に降りることができた。大きな音のブザーを鳴らすときは、間違っていないかどうか何度も確認してしまった。
おうちの最寄りから5つ離れたバス停に降り立つ。
「ここは……」
「カフェだよ。コーヒーとか紅茶をだしてくれるところ」
慣れた様子で店に入っていく響己さんの後を追う。
ちいさなお店だ。
壁も床もやさしい色の木目調。テーブルがいくつかとカウンター席。大きな窓の下は一段高くなっていて、クッション材が敷き詰められている。
カウンターの向こうに女の人がいて、空いてる席へどうぞと声をかけられた。
スーパーのお買い物には慣れてきたぼくだけど、そうじゃないところで声をかけられるのはまだ緊張してしまう。固まるぼくの手を引いて、響己さんは窓際のテーブル席へついた。
「響己さん、あの、ここは」
「緊張しなくて大丈夫だよ。ここはわたしが出資……お店を作るときにお金を貸してあげた縁があってね。家から近いし、たまに来るんだ」
「……響己さん、もしかして怖い人……?」
「え? あー違う、それは誤解だ。わたしはお金を貸し付けてものすごい利子を要求したり、家のドアを叩いて恫喝したりする職業の人じゃないよ」
どうやら世の中には、怖い人たちから以外にもお金を借りる方法があるらしい。
そんな話を聞いていたら、笑い声が近づいてきた。
「あはは、響己さんが焦ってる。珍しいですね」
「からかわないでくださいよ……御影。このカフェの店長さん」
「御影さんというのね。店長の下村です」
「ぁ……よろしくお願いします」
髪をひっつめた化粧っけのないその女の人は、オメガに見えた。でもとても気配が薄い。
ぼくがまじまじ見ても、その人は微笑むだけで怒らなかった。
「もしかして、番のいるオメガが珍しい?」
「つがい……あ、首輪、してない……」
「そうよ。番はわかるよね? アルファの番ができるとネックガードは必要ないんだよ。ほら」
店長さんは首の後ろを見せてくれた。うっすらと赤い点がならんでいて、それがどうやら「つがいの証」らしい。
お店のオメガがアルファに噛まれてしまった、という話は何度も耳にしたけれど、実際につがいのいるオメガを見たことはほぼない。
首を押さえて泣いているのではなく、うなじを見せられるほどに穏やかな人は、初めて会う。
「まぁ最近のネックガードっておしゃれなのが多いから、チョーカー感覚でつけたままの人もいるけどね。っと、こういう話、してよかった?」
「御影さえ良ければ、下村店長と話してみないかい。わたしは少し席を外すよ」
「あ、は、はい……」
響己さんはオーナーさんに話があるとかで、お店の奥へ入っていった。
店長さんは椅子を引いてきてぼくのななめ前に座る。にこにこしていて、元気そうで、とても無理やり噛まれたようには見えない。
そこでふと、彼女の左手に指輪が光っているのが見えた。
「店長さんは、結婚してるの?」
「えぇ。番のアルファと籍も入れてるわ」
「そのアルファの人のこと、その、好きなの?」
結婚は好き合っている同士がするものだという。
つがいは、フェロモンの事故などでなってしまうことも多くて、おまけにアルファはたくさんのつがいをもうけられるから、対等なものじゃないと言われた。
何度も何度も、絶対に噛まれてはいけないと。
店長さんはちょっとだけ驚いたように目を開いて、それからなんのくもりもない笑みでうなずいた。
「そう、私は番の人が大好きなの。相手も同じくらい好きだと言ってくれて、だから結婚したの」
「つがいの人が、好き……」
「御影さんは、誰かの番になるのが怖い?」
ちょっと迷って、ひとつうなずく。
「じゃあ、沖野さんの番になるのは、どう?」
あの人はぼくをとても大切にしてくれる。
最近少しずつ役に立てるようになってきたけど、未だにぼくはお掃除とお洗濯と買い出ししかできなくて、やっぱりまだお荷物だ。役に立たないのに、大切にしてくれる。
そんな人のつがいになれたらどんなに幸せだろう。
たとえ響己さんのつがいがほかに何人いたとしても、響己さんから与えられた思い出を持って、いつまでも幸せな気持ちでいられると思う。
「響己さんのつがいになれるオメガは、幸せだと思います。だからぼくも響己さんが望んでくれるなら、なりたいです」
せいいっぱい今の気持ちを伝えたけれど、店長さんは笑ってうなずいてはくれなかった。
少しだけ緊張したような顔になって、ぼくの目をじっと見つめる。ぼくはふしぎに思いながらも、店長さんを見かえす。
「御影さん。オメガの番は一生ものなんだよ。噛まれたら決してなかったことにできない。それなのに御影さんは、沖野さんが望むならうなじを差し出してしまうの?」
似たようなことを宇佐見さんにも言われた。
怒ったようにとげとげしく言った彼は、ぼくを心配してくれていたことを知っている。
「ぼく、響己さんに渡せるものをほかに持っていないから」
「……なるほど……」
腕を組んでうなる店長さんの後ろでお店の奥のドアが開いて、響己さんが戻ってきた。
うんうんうなっている店長さんと、変なことを言ってしまったかとあせるぼくに、響己さんは苦笑する。
「下村さん、わたしが御影をここにつれてきた理由、わかりましたか」
「理解しました。これはすごく苦労しそうね……御影さん、ご注文は?」
「あ、えぇと、じゃあこのつめたいカフェオレを」
店長さんと入れ替わりに響己さんが席に座り、ホットコーヒーを注文する。
飲み物はどちらもすぐに出てきた。
店長さんがグラスをテーブルに置きつつ、ぼくを軽くのぞきこんで言う。
「御影さん、お味はいかが?」
「おいしいです。なんか、濃厚って感じで」
「そう、よかった。気に入ったのならぜひまた来てください。近いうちに、ぜひまた、ね」
「ぇ、あ、はい……?」
それはつまり、来い、ということなのだろう。
見かけによらず強めに営業かけるんだなぁ、と思いながらぼくはカフェオレのストローを吸った。
少し前まで特別な行為じゃなかったそれはとてもひさしぶりで、ぼくは目を細めた。
明るい日差しに焼き切れてしまいそう。
「御影、大丈夫?」
「は、い」
ひるんだのを知られたくなくて、心配そうな響己さんに強くうなずいて見せる。
響己さんの家に閉じこもっていたのはたったの一ヶ月だけだった。でもどうしてか、もっとずっと長い間外に出なかったように感じる。
今日のミッションは、近くのスーパーマーケットで買い物をすること。
「御影の発情がやっと収まったからね。今日が大丈夫なら、今後は一人で外に出ていいよ」
「はい……響己さんは、へいき?」
「うーん、本音を言えば、なるべく家にいてほしいけど。これは御影を心配する気持ちがほとんどだからね」
「心配以外の気持ちもある?」
「……独占欲が、ちょっとだけ」
目をそらしてしまった響己さんに笑って、ぼくが一人で外出しても響己さんの帰宅時間には間に合うように帰ってくることと決まった。
今出てきたマンションを振り返る。
灰色のタイルがきれいに敷き詰められた建物は縦に長く、響己さんのおうちが3階だと知ったのも今日がはじめてだ。
周りも大なり小なりコンクリートの建物ばかりで、つやつやぴかぴかした車が駐車場に何台も停められている。住民の車はもっといっぱい地下にあると聞いて、車に目がない仲間たちの顔が思い浮かんだ。
へこみの少ないアスファルトの道をのんびり歩く。
すれ違う人は休日の昼間だからか、親子連れが多い。犬の散歩をする人、スポーツウェアでジョギングする人、カバンを手にせかせか歩く背広の人もいる。
すれ違うのは人だけじゃない。張り紙と落書きが全然ないきれいな電柱、道路に張り出そうとしている太い樹木、ゆがんでいないガードレール。
ぼくたちが住んでいたあそこよりずっといい街だと、それだけで察することができる。
「ここだよ。うちからはこの通りをまっすぐ、突き当りを右。覚えやすいでしょう」
「うん。すごく立派なスーパーですね」
「広いから迷子にならないように手を繋ごうか?」
「……」
子ども扱いしないでよ、と反発しようとした。
でも気づいたら手を握っていた。響己さんも驚いた顔をしていたけど、すぐにふにゃんと笑みに変わってぼくの手を引いてくれた。
慣れた様子でカゴを持ち、ゆっくりと店内を回ってぼくにいろいろなものを見せてくれる。片手がふさがっているから、ぼくが響己さんの指示で商品を取り、響己さんが持つカゴへ入れる。
手を離そうと言われないことをいいことに、ぼくはこの不自由なやりとりをめいっぱい楽しんだ。
「今日は何食べたい?」
「響己さんの食べたいものがいいです」
「うーん、じゃあハンバーグとロールキャベツ、どっちがいい?」
「ロールキャベツってなんですか?」
「ん、じゃあ今晩はロールキャベツにしようか。キャベツを巻くのを手伝ってもらおうかな」
「はいっ、手伝います!」
いつもより安いというひき肉を買って、キャベツをひと玉。ほかの棚も見て回って、あれが足りないこれは便利そうと話し合いながら買っていく。
牛乳パックを入れる頃にはカゴがとても重くなっていて、ぼくはあわてたけれど。
「手、離さないでいよう」
そう言われてしまえば、ぼくから手を離すことはできなくて。結局レジにたどり着くまで響己さんは重いカゴを持ってくれた。
「御影はそれだけでいいの? もっといっぱい買っていいよ」
「ううん。ぼくはこれだけで……ありがとうございます」
なんでも欲しいものを買っていいと言われたけれど、ものがいっぱいありすぎて、欲しいものはほとんど浮かばなかった。
でもどうしても我慢できずにひとつだけ買ってもらったのが、ラムネ。
いつかの昔、仲間のひとりが夏の夜、仕事をサボってお祭りに出かけたことがあった。
親しいアルファのお客さんに浴衣を着せてもらって、帰ってきた彼女はいくつものおみやげの中から、空っぽのラムネ瓶をぼくにくれた。
お祭り屋台にしかいないと言われていたこの瓶と、スーパーマーケットで再会できるとは思わなくて、衝動的に手に取ってしまったもの。
もらった瓶は大切に保管していたけれど、あるときお客さんに割られてしまって。そうしたら中からガラス玉が出てきた。
瓶はとっておけなくなったけど、ガラス玉ならずっと持っていられる。あのときのガラス玉は、響己さんが持ち帰ってくれたぼくの荷物の中にまだ入ってる。
「ビー玉だね。わたしも好きだよ。ラムネ瓶に入ってるものはとりわけきれいなんだよね」
「これビー玉っていうんだ……びー、ってなに?」
「えぇと、びいどろの略だったかな……」
薄青いラムネ瓶は陽の光に透かすとまぶしいくらいキラキラ輝く。
ぼくが好きなものを響己さんも好き。それはとても嬉しいことで、帰り道はずっと瓶を眺めながら歩いていたから、響己さんに重い買い物袋をずっと持たせっぱなしだったことに気づいたのは帰宅してからだった。
「そんなに重くなかったよ。御影はラムネを持って帰る役目があったじゃないか」
「でも、ぼくはラムネしか持ってなくて……」
「次行くときは交代しよう。二人で持っても楽しいかもね」
それからはときどき響己さんといっしょに買い物へ出かけた。
買い物袋の取っ手を片方ずつ持って、並んで帰るのはすごく楽しくて。でもあるとき、響己さんがこっそり調節して、ぼくが袋の重さを全然負担していなかったことがわかり、ちょっとだけケンカみたいになったこともあった。
それもふくめて楽しい思い出だ。
日課とまではいかないけれど、追加されたぼくのお仕事。お使い。
渡されたカギと預かったお金でいそいそとスーパーへ出かけ、メモの通りに買い物をする。
たまに野菜を間違えたり、個数の少ないものを買ってしまうけれど、響己さんは怒らずに、次はどうすれば失敗しないかいっしょに考えてくれる。
そんな時間もうれしい。失敗は、反省するけれど。
「それにしたって、牛乳と乳飲料なんてわかんないよ……」
「けっこう味が違うから驚くよね。牛乳パックのここを見るといいよ」
ぼくが間違えて買ってしまった乳飲料には、紙パックの小さなへこみがない。響己さんが買った牛乳にはある。
ぼくはその憎たらしいへこみをつんつんつついた。
もう何度も買い物に行って、たまにスーパー以外の場所にも行って。だんだん行動範囲が広がっている自覚はある。
晴れた日は家のまわりを散歩してみたり。街路樹に沿って歩いてみたり。少し行ったところに公園があって、ベンチでぼうっとしてみたり。似たような建物ばかりで迷子になりそうだったのも、以前の話だ。
発情が終わらなかったせいで外を出歩くことができなかった不自由が、今になってやっとわかった。
ふつうの人にあこがれて街を歩いたこともあったけれど、おそろしいまなざしのアルファに追いかけられて、逃げて逃げて、結局どこにも行けないんだと諦めた。
それがぼくの体のせいだということがわからなくなっていた。
今はもう、立っていても座っていてもぼんやりしていても、アルファの人に追いかけられることはない。
やっとふつうの人間になることができた。
「御影、ときどき公園に出かけてるって言ってたよね」
「うん。通りの向こうの小さい公園。遊具とかはあんまりないんですけど、ベンチが木陰に入っていて涼しいんです」
「そっか……」
響己さんはなにやら考え込んで、真剣な表情でぼくを見返した。
「連れていきたいところがあるんだ。いっしょに来てくれる?」
「はい」
次の響己さんのお休みの日、ぼくは手を引かれてバスに乗った。
バスに乗ったのは生まれて初めてだ。
それがどういうものかは知っていたけれど、車内のお作法が全然わからなくて、行き先もよくわからないし、電車よりも左右にゆれるので、ぼくは座席で固まっていた。
さいわい、響己さんが乗車賃の払い方や目的地へ近づいたときのやり方を教えてくれて、無事に降りることができた。大きな音のブザーを鳴らすときは、間違っていないかどうか何度も確認してしまった。
おうちの最寄りから5つ離れたバス停に降り立つ。
「ここは……」
「カフェだよ。コーヒーとか紅茶をだしてくれるところ」
慣れた様子で店に入っていく響己さんの後を追う。
ちいさなお店だ。
壁も床もやさしい色の木目調。テーブルがいくつかとカウンター席。大きな窓の下は一段高くなっていて、クッション材が敷き詰められている。
カウンターの向こうに女の人がいて、空いてる席へどうぞと声をかけられた。
スーパーのお買い物には慣れてきたぼくだけど、そうじゃないところで声をかけられるのはまだ緊張してしまう。固まるぼくの手を引いて、響己さんは窓際のテーブル席へついた。
「響己さん、あの、ここは」
「緊張しなくて大丈夫だよ。ここはわたしが出資……お店を作るときにお金を貸してあげた縁があってね。家から近いし、たまに来るんだ」
「……響己さん、もしかして怖い人……?」
「え? あー違う、それは誤解だ。わたしはお金を貸し付けてものすごい利子を要求したり、家のドアを叩いて恫喝したりする職業の人じゃないよ」
どうやら世の中には、怖い人たちから以外にもお金を借りる方法があるらしい。
そんな話を聞いていたら、笑い声が近づいてきた。
「あはは、響己さんが焦ってる。珍しいですね」
「からかわないでくださいよ……御影。このカフェの店長さん」
「御影さんというのね。店長の下村です」
「ぁ……よろしくお願いします」
髪をひっつめた化粧っけのないその女の人は、オメガに見えた。でもとても気配が薄い。
ぼくがまじまじ見ても、その人は微笑むだけで怒らなかった。
「もしかして、番のいるオメガが珍しい?」
「つがい……あ、首輪、してない……」
「そうよ。番はわかるよね? アルファの番ができるとネックガードは必要ないんだよ。ほら」
店長さんは首の後ろを見せてくれた。うっすらと赤い点がならんでいて、それがどうやら「つがいの証」らしい。
お店のオメガがアルファに噛まれてしまった、という話は何度も耳にしたけれど、実際につがいのいるオメガを見たことはほぼない。
首を押さえて泣いているのではなく、うなじを見せられるほどに穏やかな人は、初めて会う。
「まぁ最近のネックガードっておしゃれなのが多いから、チョーカー感覚でつけたままの人もいるけどね。っと、こういう話、してよかった?」
「御影さえ良ければ、下村店長と話してみないかい。わたしは少し席を外すよ」
「あ、は、はい……」
響己さんはオーナーさんに話があるとかで、お店の奥へ入っていった。
店長さんは椅子を引いてきてぼくのななめ前に座る。にこにこしていて、元気そうで、とても無理やり噛まれたようには見えない。
そこでふと、彼女の左手に指輪が光っているのが見えた。
「店長さんは、結婚してるの?」
「えぇ。番のアルファと籍も入れてるわ」
「そのアルファの人のこと、その、好きなの?」
結婚は好き合っている同士がするものだという。
つがいは、フェロモンの事故などでなってしまうことも多くて、おまけにアルファはたくさんのつがいをもうけられるから、対等なものじゃないと言われた。
何度も何度も、絶対に噛まれてはいけないと。
店長さんはちょっとだけ驚いたように目を開いて、それからなんのくもりもない笑みでうなずいた。
「そう、私は番の人が大好きなの。相手も同じくらい好きだと言ってくれて、だから結婚したの」
「つがいの人が、好き……」
「御影さんは、誰かの番になるのが怖い?」
ちょっと迷って、ひとつうなずく。
「じゃあ、沖野さんの番になるのは、どう?」
あの人はぼくをとても大切にしてくれる。
最近少しずつ役に立てるようになってきたけど、未だにぼくはお掃除とお洗濯と買い出ししかできなくて、やっぱりまだお荷物だ。役に立たないのに、大切にしてくれる。
そんな人のつがいになれたらどんなに幸せだろう。
たとえ響己さんのつがいがほかに何人いたとしても、響己さんから与えられた思い出を持って、いつまでも幸せな気持ちでいられると思う。
「響己さんのつがいになれるオメガは、幸せだと思います。だからぼくも響己さんが望んでくれるなら、なりたいです」
せいいっぱい今の気持ちを伝えたけれど、店長さんは笑ってうなずいてはくれなかった。
少しだけ緊張したような顔になって、ぼくの目をじっと見つめる。ぼくはふしぎに思いながらも、店長さんを見かえす。
「御影さん。オメガの番は一生ものなんだよ。噛まれたら決してなかったことにできない。それなのに御影さんは、沖野さんが望むならうなじを差し出してしまうの?」
似たようなことを宇佐見さんにも言われた。
怒ったようにとげとげしく言った彼は、ぼくを心配してくれていたことを知っている。
「ぼく、響己さんに渡せるものをほかに持っていないから」
「……なるほど……」
腕を組んでうなる店長さんの後ろでお店の奥のドアが開いて、響己さんが戻ってきた。
うんうんうなっている店長さんと、変なことを言ってしまったかとあせるぼくに、響己さんは苦笑する。
「下村さん、わたしが御影をここにつれてきた理由、わかりましたか」
「理解しました。これはすごく苦労しそうね……御影さん、ご注文は?」
「あ、えぇと、じゃあこのつめたいカフェオレを」
店長さんと入れ替わりに響己さんが席に座り、ホットコーヒーを注文する。
飲み物はどちらもすぐに出てきた。
店長さんがグラスをテーブルに置きつつ、ぼくを軽くのぞきこんで言う。
「御影さん、お味はいかが?」
「おいしいです。なんか、濃厚って感じで」
「そう、よかった。気に入ったのならぜひまた来てください。近いうちに、ぜひまた、ね」
「ぇ、あ、はい……?」
それはつまり、来い、ということなのだろう。
見かけによらず強めに営業かけるんだなぁ、と思いながらぼくはカフェオレのストローを吸った。
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