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7.ここから出たら
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窓の外がゆっくりと色を変えていく。
雨はすっかり上がっていて、灰色から青へ、青からオレンジへ、オレンジから紫、それから夜色へ。
夜の空は何色か、と仲間たちと話した日を思い出す。
青、濃い青、黒、濃い灰色。いろんな色を言い合って、そのどれもほとんど見えなくて最後はみんな口をつぐんだ。
ぼくたちにあったのは作りものの白で染め上げた、眠らない夜の世界だけだった。
「ただいま。御影、眠ってるの?」
「おかえりなさい響己さん。ちょっとぼーっとしてただ、け……」
「御影っ!?」
響己さんの顔を見たら涙がぼろりとあふれて、響己さんだけでなくぼくもびっくりした。
鞄を放り出して駆け寄ってきてくれる響己さんを見て、なぜ自分が泣いているのかわかった。
「ごめんな、さい、このおうちに、知らないひとを入れてしまったんです」
「知らない人……? 御影、怪我をしたの? 嫌なことをされた?」
「ううん、ちがうけど、でも、ごめんなさ……」
ユカちゃんたちを助けてくれた真鍋さんというアルファは、ひどい人ではないとわかった。
でもそれは後から理解したこと。
安全なはずのこの家にアルファが押し入ってきて、ぼくは大した抵抗もできず、侵入をゆるしてしまった。
怖かった。
あんなアルファの相手なんてめずらしくもない、いつものことだったはずなのに。
怖くて怖くてたまらなかった。
「大丈夫だよ御影、ここにはわたしと御影しかいない。もう二度とそんな恐ろしい目には遭わせないし、誰かが来ることがわかったら必ず御影に知らせるから」
「う……うぅーっ……」
「ごめんね御影。一人でおうちを守ろうとがんばってくれたんだね。ありがとう」
響己さんがはじめて、ぼくの肩に触れた。
うつむいてみっともなく泣き続けるぼくの肩を抱いて、あたたかい腕の中にいれてくれる。
どうしてだかもっと涙が止まらなくなってしまって、しばらくそのままでいた。
泣きすぎてぼうっとしているぼくに、響己さんがあたたかいミルクをいれてくれた。
ただレンジであたためるんじゃなくて、白くて小さいお鍋であたためたのをそっと注いで持ってきてくれる、それがなんだか非日常で、どきどきした。
「はちみつも入れてみる?」
「わぁ」
スプーンじゃない、はちみつ専用のさじですくいとられる金色を、ぼくは見たことがあった。たぶん絵本だ。でもくわしいことはわからない。
文脈すら思い出せないほど昔の記憶を思い出したのは、初めてのことだったかもしれない。
「……おいしいです」
「よかった。ホットミルクはね、眠れない日に飲むと気持ちがあたたかくなるんだ」
「響己さんも眠れない日があるんですか」
「もちろん。いろんな不安や、どうしようもない悲しい気持ち、言葉では言い表せない胸を塞ぐもの……そういう夜を、ホットミルクが少しだけ溶かしてくれる」
あ、これは受け売りだけど。そう言って微笑む響己さんが、ぼくにとってはホットミルクみたいだ。
そうしたい、と思ったわけじゃなかった。
でも手が上がって、響己さんの服のすそを引っぱったとき、この人ともっといっしょにいたいと思う自分に気づいた。
「ん?」
はちみつより甘く微笑みかけてくれるこの人に、ほんの少しくらいは、甘えてもいいだろうか。
「響己さん、いっしょのベッドで寝たら、だめ?」
不安に押しつぶされそうな日は、身を寄せ合って眠った。
夜通しお客さんが来ない日はなかなかない。
もちろん、身体的負担が重いのでお客さんはいないほうが楽だ。でも、仕事をしていた方が気が紛れるという日があったことも事実。
小さな待機室で肩をあずけ合うだけの夜もあった。室温が上がるくらいぎゅうぎゅうに身を寄せ合って、互いの体を枕にする夜もあった。
ユカちゃんと二人、涙をとけ合わせるようにして過ごした夜もあった。
不安な夜に体温を分け合うことはぼくらにとっては当たり前だった。
「あー……うーん、いや今の話を聞いて断れるわけがないんだけど、あー……いや……」
「無理ならいいんです、ごめんなさい」
「待って、違う。謝らなくていい、いっしょに寝よう。うん、大丈夫だ、そう、わたしは大丈夫」
「だいじょぶじゃなさそう……」
眉を下げた困り顔じゃなく、ぼくを安心させる笑顔でもなく、響己さんはなんだか空元気な様子で腕を振ったりこぶしをにぎったりしていた。
ぼくだってもちろんアルファといっしょのベッドに入ることの意味はわかっているけれど、響己さんならお仕事になだれこんでも嫌じゃないし、それならそれで気が紛れる。
でも今考えたことを響己さんに言ったら、彼はきっと悲しむから。
だからぼくは「さみしい」の一点張りで、みごと響己さんの寝室へ入り込むことに成功したのだった。
「……んふ」
「どうしたの、御影」
「ひびきさんのにおいでいっぱい。きもちいぃ……」
「……、……っ!」
ブランケットやシーツのにおいをかいでニヤニヤするぼくに、響己さんは素早く背を向けて咳き込む。
さっきのホットミルクがのどに詰まりでもしたのだろうか。
向けられた背中をさすると、触れた表皮がびきびきっと緊張した。
「み、みかげ、何?」
「のどに詰まったのなら、さすれば楽になるかなって」
「あ、そうだね、もういいよ、ありがとう、御影は優しいね」
「うん……」
もういいと言われたけれど、まだ心配なのでもう少し背中に触る。
薄いパジャマの布越しに伝わる響己さんの熱。薄く筋肉のついた体はしなやかで張りがある。ぼくより7つほど年上と聞いた、大人の身体だ。
ぼくは響己さんのことをなにも知らないけれど、彼が優秀で、アルファとしても上位に位置することはわかる。
そんな人の手元に置かれて、だからといってぼくを使うこともなく、ただあたたかい場所でのんびり寝るだけの生活なんて、ものすごく恵まれてるってわかってる。
だから、いいのに。
響己さんにはぼくを好きに扱う権利があるのに。
「響己さんは、どうしてぼくを使わないの?」
ささやき声も静かな寝室ではよく響く。言わないでおこうと思って、こぼれてしまったみにくい声も。
目の前の背中がぐるんと半転して、響己さんは上体を起こした。真剣な表情。
軽率に聞くことじゃなかったと後悔したけど、ぼくもあわてて起き上がり、響己さんの言葉を待つ。
「御影。わたしはきみを使うつもりはない。今後一生、一度たりとも、きみを使うことはない」
「……でも……」
「アルファがオメガを囲うということがどういう意味かなんて、わかっているさ。先に言っておくけどね、わたしにだって性欲も支配欲もある。人一倍強い方だと言ってもいい」
ただ響己さんは、アルファ性由来の強力な欲望を、アルファゆえの強い意志で押さえつけてきた。
欲のままに他者をいたぶったり、欲を散らすために誰かと過ごしたり、そういうことは一切してこなかったのだという。
「元々両親が自制心の強い人たちでね、わたしも自然とそう生きることになった。清く正しくなんて言うつもりはないが、どちらかと言えばそういう類の人間であると自負している。だからあの日は本当に幸運だったんだ。わたしは本当に繁華街とか風俗店とか、そういう場所に縁遠くてね」
ぼくが買い出しに出たのは、お店のあるホテル街の近くではなく、高層ビルが建ちならぶビジネス街だった。
あの日はたしか、そう、仲間の一人がどうしてもビル街のコンビニにしか売っていないお酒が飲みたいと言って……。
「ユカちゃん、だ」
「え?」
「あの日、ぼくをあの場所にお使いに行かせたのはユカちゃんなんです。ユカちゃんのお気に入りのお酒、あの通りのコンビニにしか売ってないから、それで」
ぼくはやっと、今日この家に訪れた男女の話をすることができた。
アルファの男の人が入ってきた話をしたときは怖さを思い出してしまったけど、今はそれどころじゃない。
ぼくと響己さんを引き合わせてくれた偶然は、今日までぼくを探し続けてくれたユカちゃんが与えてくれたものだったんだ。
「そうか。ユカさんという人にお礼を言わなきゃね。ユカさんがその特別なお酒を欲しがらなかったら、わたしたちは出会えずにずっとそのままだったかもしれない」
「はい……っ、ぼく、ユカちゃんにきちんとお礼がしたいです。あの、名刺をもらったので、いつかここに行ってもいいですか?」
「もちろん。いつかと言わず近いうちに行こう。わたしもいっしょに行っていいかい?」
「はい、ぜひっ」
感極まって何度もうなずいて、ふと気づく。
「でもあの、ぼく、ここから出たら……」
「あぁそうだ、その話をしようと思っていたんだ。御影、外に出てみるかい?」
「いいんですか?」
「うん。ずっと閉じ込めてしまってごめんね、でも外に出ることが御影には必要だと思うから」
響己さんが取り出したなにかが、ぼくの手に置かれる。
「玄関の鍵はすぐに変えられるんだ。実家に置いた、真鍋が持ってた鍵はもう使えない。その代わり、スペアをきみに持っていてほしい」
「え……」
黒っぽいプラスチックのカード。
勝手に閉まって中からもカギなしでは開けられない、誰かを閉じ込めるためみたいなドアのカギが、閉じ込める対象であるはずのぼくの手にある。
「誤解しないでほしいんだけど、内側からも開かない玄関扉は珍しい設備じゃないんだ、とくにアルファの世帯ではね。発情期で理性を失ったアルファやオメガが衝動的に外へ飛び出してしまわないようにする安全装置なんだよ」
「あ……そうなんですか」
「御影を監禁するための設備だと思ってた?」
正直、思ってた。
素直にうなずくと響己さんは困り笑いをして、ぼくは申し訳なくて響己さんの手に触れた。
このやさしいひとが、理由もなくぼくを閉じ込めるわけがないって信じられるようになったのは、彼をよく知ることができたから。それまでぼくはアルファというものを誰も信じていなくて、響己さんのこともそうだった。
でもぼくは最初から、響己さんのことだけは「信じたかった」。
そんな想いを込めて手を重ねてにぎる。
「いいんだ、説明してなかったわたしが悪いんだから。それに御影を閉じ込める意図も、間違いなくあった。御影がこの家に留まってくれることに安心していた。わたし自身が閉じ込めていたのに」
「ううん。あの頃ドアが開いていたら、響己さんに何を言われても部屋を出てお店に戻って、また薬で発情期にさせられてたと思う。響己さんのおかげでぼく、つらくなくなったんだよ」
「……そう、か。そう言ってくれると、救われるよ」
握った手がつながる手になって、肩をくっつける。
顔がちかづいて、おでこがこつんと重なる。
「外に出よう。今度は御影の意思で。いろんなところを見ておいで。この世界にはすてきな出会いや場所がたくさんあるってこと、もっと知ろう」
「はい……」
響己さんがぼくのことをたくさん考えてくれていることがうれしくて、ぼくはうなずいたけれど、彼が「本当は」どんなことを考えていたのかは、よくわかっていなかった。
ぼくの世界はお店の中と周辺にしかなかった。今は響己さんの家の中にしかない。
それを広げようと提案されている、とだけしかわからなかった。
響己さんがもっと遠くまで見通して、こんな提案をしてきたのだと気づいたのは、ずっとあとのことだった。
雨はすっかり上がっていて、灰色から青へ、青からオレンジへ、オレンジから紫、それから夜色へ。
夜の空は何色か、と仲間たちと話した日を思い出す。
青、濃い青、黒、濃い灰色。いろんな色を言い合って、そのどれもほとんど見えなくて最後はみんな口をつぐんだ。
ぼくたちにあったのは作りものの白で染め上げた、眠らない夜の世界だけだった。
「ただいま。御影、眠ってるの?」
「おかえりなさい響己さん。ちょっとぼーっとしてただ、け……」
「御影っ!?」
響己さんの顔を見たら涙がぼろりとあふれて、響己さんだけでなくぼくもびっくりした。
鞄を放り出して駆け寄ってきてくれる響己さんを見て、なぜ自分が泣いているのかわかった。
「ごめんな、さい、このおうちに、知らないひとを入れてしまったんです」
「知らない人……? 御影、怪我をしたの? 嫌なことをされた?」
「ううん、ちがうけど、でも、ごめんなさ……」
ユカちゃんたちを助けてくれた真鍋さんというアルファは、ひどい人ではないとわかった。
でもそれは後から理解したこと。
安全なはずのこの家にアルファが押し入ってきて、ぼくは大した抵抗もできず、侵入をゆるしてしまった。
怖かった。
あんなアルファの相手なんてめずらしくもない、いつものことだったはずなのに。
怖くて怖くてたまらなかった。
「大丈夫だよ御影、ここにはわたしと御影しかいない。もう二度とそんな恐ろしい目には遭わせないし、誰かが来ることがわかったら必ず御影に知らせるから」
「う……うぅーっ……」
「ごめんね御影。一人でおうちを守ろうとがんばってくれたんだね。ありがとう」
響己さんがはじめて、ぼくの肩に触れた。
うつむいてみっともなく泣き続けるぼくの肩を抱いて、あたたかい腕の中にいれてくれる。
どうしてだかもっと涙が止まらなくなってしまって、しばらくそのままでいた。
泣きすぎてぼうっとしているぼくに、響己さんがあたたかいミルクをいれてくれた。
ただレンジであたためるんじゃなくて、白くて小さいお鍋であたためたのをそっと注いで持ってきてくれる、それがなんだか非日常で、どきどきした。
「はちみつも入れてみる?」
「わぁ」
スプーンじゃない、はちみつ専用のさじですくいとられる金色を、ぼくは見たことがあった。たぶん絵本だ。でもくわしいことはわからない。
文脈すら思い出せないほど昔の記憶を思い出したのは、初めてのことだったかもしれない。
「……おいしいです」
「よかった。ホットミルクはね、眠れない日に飲むと気持ちがあたたかくなるんだ」
「響己さんも眠れない日があるんですか」
「もちろん。いろんな不安や、どうしようもない悲しい気持ち、言葉では言い表せない胸を塞ぐもの……そういう夜を、ホットミルクが少しだけ溶かしてくれる」
あ、これは受け売りだけど。そう言って微笑む響己さんが、ぼくにとってはホットミルクみたいだ。
そうしたい、と思ったわけじゃなかった。
でも手が上がって、響己さんの服のすそを引っぱったとき、この人ともっといっしょにいたいと思う自分に気づいた。
「ん?」
はちみつより甘く微笑みかけてくれるこの人に、ほんの少しくらいは、甘えてもいいだろうか。
「響己さん、いっしょのベッドで寝たら、だめ?」
不安に押しつぶされそうな日は、身を寄せ合って眠った。
夜通しお客さんが来ない日はなかなかない。
もちろん、身体的負担が重いのでお客さんはいないほうが楽だ。でも、仕事をしていた方が気が紛れるという日があったことも事実。
小さな待機室で肩をあずけ合うだけの夜もあった。室温が上がるくらいぎゅうぎゅうに身を寄せ合って、互いの体を枕にする夜もあった。
ユカちゃんと二人、涙をとけ合わせるようにして過ごした夜もあった。
不安な夜に体温を分け合うことはぼくらにとっては当たり前だった。
「あー……うーん、いや今の話を聞いて断れるわけがないんだけど、あー……いや……」
「無理ならいいんです、ごめんなさい」
「待って、違う。謝らなくていい、いっしょに寝よう。うん、大丈夫だ、そう、わたしは大丈夫」
「だいじょぶじゃなさそう……」
眉を下げた困り顔じゃなく、ぼくを安心させる笑顔でもなく、響己さんはなんだか空元気な様子で腕を振ったりこぶしをにぎったりしていた。
ぼくだってもちろんアルファといっしょのベッドに入ることの意味はわかっているけれど、響己さんならお仕事になだれこんでも嫌じゃないし、それならそれで気が紛れる。
でも今考えたことを響己さんに言ったら、彼はきっと悲しむから。
だからぼくは「さみしい」の一点張りで、みごと響己さんの寝室へ入り込むことに成功したのだった。
「……んふ」
「どうしたの、御影」
「ひびきさんのにおいでいっぱい。きもちいぃ……」
「……、……っ!」
ブランケットやシーツのにおいをかいでニヤニヤするぼくに、響己さんは素早く背を向けて咳き込む。
さっきのホットミルクがのどに詰まりでもしたのだろうか。
向けられた背中をさすると、触れた表皮がびきびきっと緊張した。
「み、みかげ、何?」
「のどに詰まったのなら、さすれば楽になるかなって」
「あ、そうだね、もういいよ、ありがとう、御影は優しいね」
「うん……」
もういいと言われたけれど、まだ心配なのでもう少し背中に触る。
薄いパジャマの布越しに伝わる響己さんの熱。薄く筋肉のついた体はしなやかで張りがある。ぼくより7つほど年上と聞いた、大人の身体だ。
ぼくは響己さんのことをなにも知らないけれど、彼が優秀で、アルファとしても上位に位置することはわかる。
そんな人の手元に置かれて、だからといってぼくを使うこともなく、ただあたたかい場所でのんびり寝るだけの生活なんて、ものすごく恵まれてるってわかってる。
だから、いいのに。
響己さんにはぼくを好きに扱う権利があるのに。
「響己さんは、どうしてぼくを使わないの?」
ささやき声も静かな寝室ではよく響く。言わないでおこうと思って、こぼれてしまったみにくい声も。
目の前の背中がぐるんと半転して、響己さんは上体を起こした。真剣な表情。
軽率に聞くことじゃなかったと後悔したけど、ぼくもあわてて起き上がり、響己さんの言葉を待つ。
「御影。わたしはきみを使うつもりはない。今後一生、一度たりとも、きみを使うことはない」
「……でも……」
「アルファがオメガを囲うということがどういう意味かなんて、わかっているさ。先に言っておくけどね、わたしにだって性欲も支配欲もある。人一倍強い方だと言ってもいい」
ただ響己さんは、アルファ性由来の強力な欲望を、アルファゆえの強い意志で押さえつけてきた。
欲のままに他者をいたぶったり、欲を散らすために誰かと過ごしたり、そういうことは一切してこなかったのだという。
「元々両親が自制心の強い人たちでね、わたしも自然とそう生きることになった。清く正しくなんて言うつもりはないが、どちらかと言えばそういう類の人間であると自負している。だからあの日は本当に幸運だったんだ。わたしは本当に繁華街とか風俗店とか、そういう場所に縁遠くてね」
ぼくが買い出しに出たのは、お店のあるホテル街の近くではなく、高層ビルが建ちならぶビジネス街だった。
あの日はたしか、そう、仲間の一人がどうしてもビル街のコンビニにしか売っていないお酒が飲みたいと言って……。
「ユカちゃん、だ」
「え?」
「あの日、ぼくをあの場所にお使いに行かせたのはユカちゃんなんです。ユカちゃんのお気に入りのお酒、あの通りのコンビニにしか売ってないから、それで」
ぼくはやっと、今日この家に訪れた男女の話をすることができた。
アルファの男の人が入ってきた話をしたときは怖さを思い出してしまったけど、今はそれどころじゃない。
ぼくと響己さんを引き合わせてくれた偶然は、今日までぼくを探し続けてくれたユカちゃんが与えてくれたものだったんだ。
「そうか。ユカさんという人にお礼を言わなきゃね。ユカさんがその特別なお酒を欲しがらなかったら、わたしたちは出会えずにずっとそのままだったかもしれない」
「はい……っ、ぼく、ユカちゃんにきちんとお礼がしたいです。あの、名刺をもらったので、いつかここに行ってもいいですか?」
「もちろん。いつかと言わず近いうちに行こう。わたしもいっしょに行っていいかい?」
「はい、ぜひっ」
感極まって何度もうなずいて、ふと気づく。
「でもあの、ぼく、ここから出たら……」
「あぁそうだ、その話をしようと思っていたんだ。御影、外に出てみるかい?」
「いいんですか?」
「うん。ずっと閉じ込めてしまってごめんね、でも外に出ることが御影には必要だと思うから」
響己さんが取り出したなにかが、ぼくの手に置かれる。
「玄関の鍵はすぐに変えられるんだ。実家に置いた、真鍋が持ってた鍵はもう使えない。その代わり、スペアをきみに持っていてほしい」
「え……」
黒っぽいプラスチックのカード。
勝手に閉まって中からもカギなしでは開けられない、誰かを閉じ込めるためみたいなドアのカギが、閉じ込める対象であるはずのぼくの手にある。
「誤解しないでほしいんだけど、内側からも開かない玄関扉は珍しい設備じゃないんだ、とくにアルファの世帯ではね。発情期で理性を失ったアルファやオメガが衝動的に外へ飛び出してしまわないようにする安全装置なんだよ」
「あ……そうなんですか」
「御影を監禁するための設備だと思ってた?」
正直、思ってた。
素直にうなずくと響己さんは困り笑いをして、ぼくは申し訳なくて響己さんの手に触れた。
このやさしいひとが、理由もなくぼくを閉じ込めるわけがないって信じられるようになったのは、彼をよく知ることができたから。それまでぼくはアルファというものを誰も信じていなくて、響己さんのこともそうだった。
でもぼくは最初から、響己さんのことだけは「信じたかった」。
そんな想いを込めて手を重ねてにぎる。
「いいんだ、説明してなかったわたしが悪いんだから。それに御影を閉じ込める意図も、間違いなくあった。御影がこの家に留まってくれることに安心していた。わたし自身が閉じ込めていたのに」
「ううん。あの頃ドアが開いていたら、響己さんに何を言われても部屋を出てお店に戻って、また薬で発情期にさせられてたと思う。響己さんのおかげでぼく、つらくなくなったんだよ」
「……そう、か。そう言ってくれると、救われるよ」
握った手がつながる手になって、肩をくっつける。
顔がちかづいて、おでこがこつんと重なる。
「外に出よう。今度は御影の意思で。いろんなところを見ておいで。この世界にはすてきな出会いや場所がたくさんあるってこと、もっと知ろう」
「はい……」
響己さんがぼくのことをたくさん考えてくれていることがうれしくて、ぼくはうなずいたけれど、彼が「本当は」どんなことを考えていたのかは、よくわかっていなかった。
ぼくの世界はお店の中と周辺にしかなかった。今は響己さんの家の中にしかない。
それを広げようと提案されている、とだけしかわからなかった。
響己さんがもっと遠くまで見通して、こんな提案をしてきたのだと気づいたのは、ずっとあとのことだった。
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