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2.運命
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頃合いを見計らってドアを開け、部屋の中へ滑り込む。
御影の寝息は深く、よく眠っているようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
落ちかかる前髪を退け、そっと額に触れる。やはり少し熱い。
念のためにと、リビングへ戻り紙袋を取り出す。
アルファ向けの処方箋で出された白い薬を水で流し込み、まさかこんな薬を飲むことになろうとはと苦笑した。
彼のためになるなら努力や犠牲は厭わない。
穏やかな寝息を立てる青年は、とても痩せていた。
風呂上がりの姿、明かりの元で初めてしっかりと見た彼の裸体は、痛々しいほど痩躯で、それなのに微かに色香を漂わせていた。
ところどころ、ただの男にしては丸みを帯びた輪郭があり、彼のオメガ性を意識させられた。
いや、これは嘘だ。
響己はいつだって、御影を見つけたその日から片時も、彼のオメガ性を忘れたことなどなかった。
恵まれた人生を生きている自覚はある。
血筋、家柄、両親に兄弟、友人、学歴、経験、それから持って生まれた肉体、才能、努力、そして運。
自分でも、なにもかも持っていると思っていた。
その人生に決定的に足りていないものがあったのだと、御影を見つけたときに初めて気づいた。
その偶然は今にして思えば本当に僥倖だった。
滅多に外に出ない暮らしぶりをしていた御影が、どういうわけかその日はお使いを頼まれていたらしい。
お仕着せのベストとスラックスでふらふらと夜の繁華街を歩く姿に、眼球が糸で吊られたかと思わんばかりに引き寄せられた。
たった今まで友人と並んで歩いていたが、彼の訝しげな声も、周囲の喧騒も雑踏も視線も、何もかもが消え去った。
自分とその男だけがすべて。
彼に向かって足を踏み出した瞬間、男がふらりと傾いだ。受け身を取る様子が一切ない。あのままでは倒れて体を打ちつけてしまう。
気がつけば、地面と彼の間に体を滑り込ませていた。
「うわっ、響己なにしてんだ……誰そいつ?」
「……わからない……」
友人の怪訝な問いかけに答える余裕がない。
腕の中に受け止めた体は身長の割に驚くほど軽く、弛緩してぐったりとうつむいていた。そっと顔を上向けて呼吸を確認する。生きてる。
ほう、と肺の底から安堵の吐息があふれた。
「おい、そいつどうすんだ? 救急車呼ぶか?」
「いや。連れて帰る」
「はぁ?」
人間を持ち上げたことなどなかったが、膝裏と背中を支えて体重を預けさせれば、意外と持ち運ぶことができた。
車で来ていたことも奏功した。この日は何もかもが、響己と御影を結びつけるために運命づけられていたようだった。
振り返ることなく、初対面の男を抱いて帰っていく響己を、友人が最後まで飲み込めないという表情で見送っていた。
家へ連れ帰り、ベッドに寝かせる。
この間青年は一度も目を覚まさなかった。悪いと思いつつポケットを探ったが、殴り書きの買い物リストとむき出しの現金以外何も持っていなかった。
時折苦しそうに顔を歪めるので、首元のボタンを外してやると、シャツの下から頑丈そうな首輪が出てきた。
予想はしていたが、間違いない、彼はオメガだ。
「響己の」オメガ。
「これが、そうか……」
くつくつと沸き起こるおかしみをなんとか押さえて、青白い頬に触れる。
肌はかさついてお世辞にも良い手触りとは言えなかった。それなのに何度でも触りたくなる。
アルファばかりの一族に生まれ、両親兄弟ともにアルファという環境で育ったが、一族の中にはオメガを娶ったものもいた。
そういう者たちは皆一様に、逃れ得ない縁、もしくは定めのようなものを感じたと語る。
アルファはオメガに惹かれる。
まるで暗闇に浮かぶ灯りへ群がる羽虫のように。
それが幸福だとも不幸だとも聞き、響己自身はどうとも思っていなかった。自身が望むアルファか、家にあてがわれるアルファか、どちらかが伴侶となると疑ったことなどなかった。
そんな響己の人生にぽとりと落ちてきた男。
「絶対に逃さないよ」
恐ろしい独言とは裏腹に、口元には慈愛に満ちた微笑が浮かんでいた。
御影の寝息は深く、よく眠っているようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
落ちかかる前髪を退け、そっと額に触れる。やはり少し熱い。
念のためにと、リビングへ戻り紙袋を取り出す。
アルファ向けの処方箋で出された白い薬を水で流し込み、まさかこんな薬を飲むことになろうとはと苦笑した。
彼のためになるなら努力や犠牲は厭わない。
穏やかな寝息を立てる青年は、とても痩せていた。
風呂上がりの姿、明かりの元で初めてしっかりと見た彼の裸体は、痛々しいほど痩躯で、それなのに微かに色香を漂わせていた。
ところどころ、ただの男にしては丸みを帯びた輪郭があり、彼のオメガ性を意識させられた。
いや、これは嘘だ。
響己はいつだって、御影を見つけたその日から片時も、彼のオメガ性を忘れたことなどなかった。
恵まれた人生を生きている自覚はある。
血筋、家柄、両親に兄弟、友人、学歴、経験、それから持って生まれた肉体、才能、努力、そして運。
自分でも、なにもかも持っていると思っていた。
その人生に決定的に足りていないものがあったのだと、御影を見つけたときに初めて気づいた。
その偶然は今にして思えば本当に僥倖だった。
滅多に外に出ない暮らしぶりをしていた御影が、どういうわけかその日はお使いを頼まれていたらしい。
お仕着せのベストとスラックスでふらふらと夜の繁華街を歩く姿に、眼球が糸で吊られたかと思わんばかりに引き寄せられた。
たった今まで友人と並んで歩いていたが、彼の訝しげな声も、周囲の喧騒も雑踏も視線も、何もかもが消え去った。
自分とその男だけがすべて。
彼に向かって足を踏み出した瞬間、男がふらりと傾いだ。受け身を取る様子が一切ない。あのままでは倒れて体を打ちつけてしまう。
気がつけば、地面と彼の間に体を滑り込ませていた。
「うわっ、響己なにしてんだ……誰そいつ?」
「……わからない……」
友人の怪訝な問いかけに答える余裕がない。
腕の中に受け止めた体は身長の割に驚くほど軽く、弛緩してぐったりとうつむいていた。そっと顔を上向けて呼吸を確認する。生きてる。
ほう、と肺の底から安堵の吐息があふれた。
「おい、そいつどうすんだ? 救急車呼ぶか?」
「いや。連れて帰る」
「はぁ?」
人間を持ち上げたことなどなかったが、膝裏と背中を支えて体重を預けさせれば、意外と持ち運ぶことができた。
車で来ていたことも奏功した。この日は何もかもが、響己と御影を結びつけるために運命づけられていたようだった。
振り返ることなく、初対面の男を抱いて帰っていく響己を、友人が最後まで飲み込めないという表情で見送っていた。
家へ連れ帰り、ベッドに寝かせる。
この間青年は一度も目を覚まさなかった。悪いと思いつつポケットを探ったが、殴り書きの買い物リストとむき出しの現金以外何も持っていなかった。
時折苦しそうに顔を歪めるので、首元のボタンを外してやると、シャツの下から頑丈そうな首輪が出てきた。
予想はしていたが、間違いない、彼はオメガだ。
「響己の」オメガ。
「これが、そうか……」
くつくつと沸き起こるおかしみをなんとか押さえて、青白い頬に触れる。
肌はかさついてお世辞にも良い手触りとは言えなかった。それなのに何度でも触りたくなる。
アルファばかりの一族に生まれ、両親兄弟ともにアルファという環境で育ったが、一族の中にはオメガを娶ったものもいた。
そういう者たちは皆一様に、逃れ得ない縁、もしくは定めのようなものを感じたと語る。
アルファはオメガに惹かれる。
まるで暗闇に浮かぶ灯りへ群がる羽虫のように。
それが幸福だとも不幸だとも聞き、響己自身はどうとも思っていなかった。自身が望むアルファか、家にあてがわれるアルファか、どちらかが伴侶となると疑ったことなどなかった。
そんな響己の人生にぽとりと落ちてきた男。
「絶対に逃さないよ」
恐ろしい独言とは裏腹に、口元には慈愛に満ちた微笑が浮かんでいた。
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