安心快適!監禁生活

キザキ ケイ

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1.鍵のかかった部屋

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受けは不憫な過去がありますが、作中で直接描写はありません。



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 きっちりとスーツを着こなした背中が、くるりと振り返る。
 撫でつけた髪がひとすじこぼれ落ち、その色気がありすぎる前髪を見つめていたら目があいそうになって、ぼくはあわてて顔をうつむけた。

「じゃあ、いってきます」
「い、いってらっしゃ、い」

 もじもじと下を向いて、はだしのつま先を見つめているあいだにあの人は出かけていった。
 今日はあいさつできた。でもやっぱり目を見ることはできなくて。

「はぁ……」

 とぼとぼと廊下を歩いてリビングへもどる。
 このおうちはとても広い。
 ちょっとしたかけっこができそうなほど長くて幅のある廊下、その先にあるリビングは何人暮らしかと思うくらい広くて、でもこの家にはぼくとあの人しかいない。
 しみもススもヤニ汚れもついていない、きれいな白の高い天井。大きな空間はいつも空調が効いていて、耳をすますと低い小さな音がする。
 壁にはなにもかかっていない。だからサップウケイなんだと、あの人ははずかしそうにしていた。
 床はきれいな木目のフローリングで、面積がありすぎるせいで大きなカーペットが二枚もしかれている。その上にはガラスの高級そうなローテーブルがあった。
 そう、あったのだけど。
 昨日ぼくがどんくさく歩いているときに何もないのによろけ、あのテーブルの角にスネをぶつけて青あざをつくってしまって、その数時間後にはもうなくなっていた。
 どこに消えたのだろう、まさかぼくのせいでリストラされたなんて思いたくない。
 足の長い6人掛けのダイニングテーブルはまだ無事にリビングに置いてあって、ぼくはいつもここでごはんをいただく。
 きれいなテーブルクロスにトマトソースをはねさせてしまって、床に土下座した日のことは今でもよくおぼえている。といってもつい3日くらい前の話だけど。
 ぼくの胸くらいの高さの壁がひとつだけあって、向こうにはキッチンがある。あの人がいつもにこにこしながら料理をつくって出してくれる。
 ぼくはそれを受け取ってテーブルにならべるだけ。フォークやスプーンを出すのは昨日からできるようになった。ナイフはまだ使えないけれど、お箸はちょっとだけうまく持てるようになった。
 キッチンの反対側は、どこまでも続きそうに長いガラス窓の列。
 レースのカーテンがやわらかくした朝の日差しを招き入れてる。
 こんなに窓ばかりで冬寒くないのかと思うけれど、そんな心配をぼくがすることは変な気がして聞けていない。きっとあの人は、寒くないよと笑ってくれるのだろうけれど。
 窓はベランダに通じていると知っているけれど、出たことはない。

 廊下にはお部屋と、お風呂場と、服がたくさん並んでいる部屋がある。
 なにもすることがないぼくは、唯一自信をもってできる家事をすることにした。
 お掃除だ。
 といっても、そういう専門家の人みたいにワックスをかけたりガラスを洗ったり、隅から隅までピカピカにできるわけじゃない。
 ぼくにできるのは掃除機をかけること、はたきをかけたり雑巾で水回りを拭うこと、リネンの取りかえくらいだ。
 それでもあの人は、ぼくの仕事をほめてくれて、ありがとうと言ってくれた。
 それだけでぼくの胸はふわっとあたたかくなって、顔がぽかぽか熱くなる。

「ふぅ……おしまい」

 広すぎるおうちをお掃除しおわった。
 今日は春にしては暑いくらいで、体を動かすと汗ばむ。
 首のまわりがじっとりして、ぼくは首にまきついたものを少しずらした。
 そこには首輪がある。頑丈で分厚くて、ひと目で異質だとわかる首輪。
 ふと思い立って、掃除機を片付けるついでに玄関へ向かった。
 さっきあの人を見送った、これまた広くて立派で、なぜかぴかぴかの石でできているタタキに立つ。
 重厚なドアだ。おそるおそる手をのばし、ドアノブを押してみる。
 がちん、と引っかかって、ドアは開かなかった。
 外からはもちろん「内側からも」開かない玄関ドア。
 今日もぼくはここにいるしかないらしい。リビングへ戻り、部屋のすみっこに座り込む。
 あの人の住むこの部屋に閉じ込められて────今日で10日。
 いつまでこの場違いなところにいなければならないのだろう。ため息がこぼれた。

「仕事もなにもしなくていい生活を夢見たこともあったけど、けっこう困るものなんだ……」

 足を抱えてつぶやいて返事があるはずもなく、だだっ広い空間にきえていく。
 生きていくのは大変だった。ぼくみたいな人間はとくに。
 生きるのがいやになっても死ぬ勇気なんかなくて、苦しさにあえぎながら必死に息をして、そうしていればいつかなにかが変わると、期待していた頃もあった。
 でも実際にぼくの人生が大きく変わったことなんてない。
 たぶん、ぼくの人生は生まれたときから大きな流れの中にあって、抵抗する力も向きを変える知恵もないぼくはただ流されるしかなくて。
 子どもの頃に想像した暗い未来が現実になっただけで、だいたい予想した通りにただ生きているだけ。
 だからこの先も今のぼくが想像する通り、ただ死ぬだけだろう。

「生むための性、なんて言われているのになにも残せないんだろうなぁ」

 ぼくにしてはずいぶんネガティブなセリフがころがり出て、ひとりでむなしく笑う。
 それもこれもヒマすぎるからだ。なにもない時間は余計なことを考えすぎる。

 ぼくは男のオメガだ。
 オメガは生むための性と言われていて、男女の区別なく子どもを産める。
 年上のひとたちはみんな「昔はもっとひどかった」と言うけれど、今だってオメガの立場は低いと思う。
 少なくともぼくの周囲はそうだった。
 ふつうに成れてもどこか下に見られて、しいたげられて、行き着く先は性産業か、それよりもっとひどい立場か。そんな人たちばかり見てきた。
 それはひとえに、オメガの数が少ないからだという。
 オメガでもアルファでもないものはベータと呼ばれていて、オメガのように発情期に悩まされることも、アルファのようにオメガの発情につられてしまうこともない、努力次第で一番になることができるし、なにより人数が多いから変な目で見られることがない。
 オメガは違う。オメガにうまれたというだけで、ぼくらは不幸だ。

「あの人はどう見てもアルファだね……」

 あの人。この部屋のあるじ。
 背が高くて、手足が長くて、信じられないほど顔立ちが整ってて、通りの良いきれいな声で、くさくもきたなくもなくて、そのへんで拾った穀潰しのオメガを養えるくらいお金持ちで。おまけにいいにおいまでして。
 アルファは、オメガより少し多い。でもベータに比べれば圧倒的に少ない。
 同じ少数派なのに、あの人みたいにすごい人が多い。
 アルファは生まれながらに色々なものを神様からもらっていて、オメガともベータとも「できが違う」のだという。
 そんな完璧に見えるアルファにも弱点はある。
 オメガの存在だ。
 発情したオメガの誘惑にアルファは逆らえないし、ベータとはなれない「つがい」という関係性を持てる。
 つがいは結婚とはちがうキズナで、アルファとオメガは自然に引き合うらしい。だからアルファはどうしてもオメガを気にしてしまう。自分だけのオメガを探してしまう。
 ベータはアルファをときに悪く言って、ときにキラキラ目を輝かせて、嫉妬したりあこがれたりする。アルファはオメガを求める。オメガは「ふつう」のベータが羨ましい。
 まるでじゃんけんみたいだ、とおかしくなって笑って、笑みは長続きしなかった。
 あの人もきっと、ぼくのオメガ性に逆らえなかったのだろう。
 とっさに拾ってしまったものの、思いのほか見目が良くなくて使い勝手が悪いから、どこに捨て直すか考えているにちがいない。
 アルファとオメガが引き合う、なんておとぎ話みたいなものだ。
 オメガはアルファに選ばれるだけ。飼われるだけ。拾われるだけ、捨てられるだけ。
 つがいなんて言葉でかざっても、いつかはオメガが損をする形で物語は終わる。
 きっとそうに決まってる。
 だってぼくはそれしか知らない────。

「みかげ、起きて」
「……ぁ」

 体をゆらされて目を開ける。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。あわてて体を起こすとくらりと揺れて、また床に落ちた。
 午前中は少し調子が良かったから油断していた。眠っている間にまた体調をくずしてしまった。
 こうなるとぼくは「使いものにならない」。
 仕事も「おつとめ」もうまくできなくなってしまう。

「また熱が上がってしまったのかな。みかげ、立てるかい?」
「ごめ、ごめんなさ……」
「いいんだよ。それよりほら、そんなところで寝ていたら治るものも治らない」

 あの人は帰宅したばかりのようだった。
 ぼくは反射的に手を伸ばした。
 体に染み付いた動きが男のジャケットをするりと脱がせ、ネクタイをゆるめ、その下へとたどる。決して雑にしたり、急かしたりしてはいけない。ていねいに、でも手早く、それでいて初心なように。
 スラックスのベルトに手をかけたところで、やんわりと止められた。
 はっとして見上げた先には、やわらかく微笑むあの人。

「しなくていいんだよ、みかげ。もうしなくていいんだ」
「あ…………は、い」
「こっちに座ってて。今ごはんを作るから。おかゆにする? リゾットくらいは食べられるかな」
「あの、ぼくはいいので、」
「ダメだよ、食べなきゃ体が弱る一方だ。みかげの好きなミルクリゾットにしようね」
「……」

 決して乱暴でも強引でもなく手を引かれ、ソファへ座らされる。
 柔らかくて座りの良いソファはとても高価そうで、ここに来た日にぼくがだめにしてしまったものより落ち着いた色合いだ。
 この新しいソファまで汚してしまうのがいやで、ぼくはソファには近づかないようにしていた。
 あの人がキッチンへ行ったのを確認して、ソファから離れる。
 さっきの場所はきっと、ぼくがいたら邪魔だったんだろう。今度は反対側の別のすみっこにしゃがみ込んだ。
 キッチンからカタコトと、なにかを開けたり切ったりする音がする。
 ここのコンロは火が出なくて、平たいガラスの板がところどころ熱くなるだけらしい。それでどうやってお湯を沸かしているのか、あの人は説明してくれたけれど、ぼくにはよくわからない。
 ただあの人の、耳に心地よい声をもっと聞いていられたらいいのにと、身の丈にあわない思いを抱いたことは覚えてる。

「みかげ、そろそろごはんできるよ……あぁもう、またそんなところで寝て」

 なにかが前髪をかすめた気がして目を開ける。
 あの人がぼくをのぞきこんで、眉を下げて困ったように笑っている。ぼくはこの人を困らせてばかりだ。
 また手を引かれて、今度はダイニングテーブルへつれてかれる。
 ぼくがソースをこぼした日に泣いてあやまったせいで、テーブルには布のクロスの上にビニールのクロスが貼られるようになった。これならどんなにこぼしても拭けば済むからと、あの人が笑うのにぼくは申し訳なくて。
 ぼくのせいで、ぼくが失敗するせいであの人のお金を、時間を奪ってしまって苦しかった。
 ぼくが泣いたり苦しそうにするとあの人は、眉を下げて微笑む。
 困らせたいわけじゃない、きれいなあの人に心から笑ってほしい、いつまでも楽しい気持ちで生きていてほしい。
 それにはきっとぼくが邪魔で、ぼくは今すぐにでもどこかへ行くべきなんだけど、ここの玄関扉はいつだって施錠されていて、専用のカギがないと外からも中からも開かない。大声をあげてだれかに助けをもとめるのは怖い。窓やベランダから落ちる勇気すらない。
 だからぼくは、逃げられないから逃げないのだと、自分に言い訳しつづけている。

「さぁどうぞ。スープは熱いから気をつけてね」
「はい」
「いただきます」
「いただきます……」

 手を合わせて、あいさつをして食べることをここに来て初めて知った。
 いのちを食べることを感謝して、作ってくれた人に感謝するということらしい。
 自分のようなものが他の生命を踏みにじって生きていることを考えると死にたくなるけど、このあたたかいごはんを作ってくれたこの人へ感謝することならいくらでもできる。

「おいしい?」
「はい」
「どれどれ……うん、おいしいね。おかわりあるからね」
「はい……」

 食事が足りないからと追加を要求したことなどないのに、この人はいつだってそう言ってくれる。
 どうしてこんなに良くしてくれるのかわからなくて、とまどう。
 いつか捨てるのならやさしくしないでほしいとも思う。
 でも、ぼくの心の奥底で呼吸困難になっていたちいさなぼくが、このおうちに来てからは息をふきかえして、この人の好意をなんでも喜ぶものだから、ぼくはこの人に聞けずにいる。
 ぼくを使わないの?
 使わないのにここに置くのは、どうして?

「……っ」
「あ、やっぱり熱かったよね。ふぅふぅしてから口をつけるといいよ」
「は、い」

 考え事をしながら食べていたから、熱いと言われていたスープで舌先をヤケドしてしまった。前歯で噛んで痛みをまぎらわせる。
 あの人はくすくすと笑って、お手本を見せるみたいにスプーンですくったひとくちを吹いて冷ました。
 少しだけ温度の下がったスープは、最高においしい。
 やさしい味のするリゾットも、今朝食べたハムとタマゴのトーストも、昨日の焼き魚と味噌汁も最高だった。この人は毎日のようにぼくに「最高」をくれる。

「もうごちそうさまかな?」
「はい。残しちゃってごめんなさい」
「いいんだよそんなことは。まだあるから、明日の朝にでも食べよう。お風呂に入っておいで」
「ぼくが先じゃ、よごれるから」
「なに言ってるの。毎日お風呂入ってるんだからどっちが先でも汚れないよ。それとも今日も一緒に入る?」
「……」

 いたずらっぽく言われたことを拒絶していいのかわからなくて、あいまいにうなずいて首をかしげる。
 ここに連れてこられてからずっと、この人といっしょに入浴していた。
  「そういうこと」をするために入るのだろうと思っていたので、「そういうこと」は必要ないと拒まれて、頭を殴られたようなショックを受けたことをよく覚えてる。
 この人はぼくをていねいに洗って、いっしょに湯船につかって、それだけ。
 誰かといっしょにお風呂にはいって、ただ出てくるなんて信じられなくて、ぼくはぽかんとして、そのまま眠ってしまった。
 脱衣所で気絶するみたいに寝てしまったぼくにこの人はそりゃあもうあわてたのだと、もう何回も聞かされてる。
 今はもういきなり寝たりしないけど、この人がお風呂をただ体を洗って湯船につかるだけの場所だと思っているのも理解してるけど、気が変わってぼくを使う気になったのかもしれないので、それならばぼくは拒まない方がいいのだろう。

「みかげ」

 呼ばれて、びくりと肩がふるえた。
 必死に笑みをつくる。口角が上がっているだけの不器用なものでも笑っておけと、いつも言われている。
 手を引かれるか、背を押されるか、首をつかまれて運ばれるか。どんくさいぼくはいつもワンテンポ遅くて、それも叱られてしまう。

「みかげ、お風呂に入るのは嫌い?」

 問いかけられて、ぼくは答えられなかった。
 お風呂に入るのに好きも嫌いもあるのだろうか。
 誰かといっしょに入るか、体がよごれてどうしようもないとき、必要だから使うものだ。好きか嫌いかなんて、考えたこともない。
 でもぼくは今必死に考えて、ひとつだけ答えを出した。

「ひとりでお湯につかるのは、少し、好きです」
「そう。それならひとりで入っておいで」
「あなたは入らないの?  ぼくひとりで?」
「だってみかげはひとりのお風呂がいいんだろう?  きみの好きなやり方で入ればいい。お風呂って体をきれいにする以外に、リラックスしたり考えごとしたりする場でもあるんだよ」
「……」
「あぁ、それと」

 あの人がしゃがんで、下から見上げてくる。
 初めてしっかりと彼の目を見ることができた気がする。きらきらとつやめく両目は左右対称で、血走っていなくて、透きとおるような青色をしていた。

「『あなた』なんて呼ばれるとなんだか良くないことを強いている気分になる。だから名前で呼んで?」
「……ひ、ひび、き……響己ひびき、さ、ん」
「良かった、名前忘れられちゃったかと思ってた。御影みかげ、これからよろしくね」
「は、い。響己さん……」

 やんわりと送り出され、ぼくはひとりでお風呂に入った。
 早く済ませろと怒鳴り込まれることも、途中で誰かが入ってきて準備の終わっていない体をいじられることもなかった。
 脱衣所にはふわふわのバスタオルと、やわらかそうな服が上下、新品の下着が置かれていた。
 バスタオルは定位置から取っていいと言われている。けれど、この衣類はぼくのものではなさそうだ。
 入浴前に脱いだ服が見当たらないので、ぼくはバスタオルで水気を拭ってハダカのままリビングへ戻った。

「お風呂、ありがとうございました」
「おかえりみか、げ……」

 ソファに座っていた響己さんが振り向いて、固まる。
 ぼくの体はとても「貧相」で「抱き心地が悪い」。腕も足もひょろひょろで、少しばかり身長があるせいでお店の女の子たちと比べると棒切れみたいなものだった。
 だからなるべく全裸を客に見せるなと言われていたのを、ぼくはすっかり忘れていた。

「あ……ごめんなさい。見苦しいですよね。隠してきます」
「待った!  あ、いや隠すのは正解だ。戻って着てきてくれ、刺激が強すぎる」
「はい。あの、ぼくがさっきまで着てたものは、」
「それは洗濯するから。洗面台の横に着替えを置いておいただろう?」
「あ……はい。ごめんなさい」

 また失敗してしまった。うなだれながら脱衣所に引っ込む。
 さっきまで着ていたものは、服も下着もなじみのあるメーカー製で、入浴後に響己さんが渡してきたのでそのまま着ていた。だけどここに今あるものはずいぶんと上等で、ぼくのためのものだとは思いもしなかった。
 これしかないならこれを着るしかないのだろう。信じられないくらいやわらかい布地が悪いことをしている気分にさせる。
 しずんだ気分のままリビングへ戻ると、笑顔の響己さんが迎えてくれた。
 よかった、怒ってないみたい。

「着てくれたね。似合ってるよ」
「あの、ぼくこんな高そうな服、着てよかったのでしょうか」
「もちろん。御影のために買ったものだから、御影に着てもらわないと困る。わたしはサイズが合わないからね」

 たしかにこの人はぼくより長身で、肩幅もあって、この服は着れそうにない。
 どうして響己さんのものではない服があるのだろうと思ったが、聞かないことにした。

「さぁもうおやすみ」
「はい……おやすみなさい」

 廊下の途中の一部屋へ向かう。
 以前はリビングのカーペットに寝させてもらっていたが、いつの頃からか誰のものでもないベッドが増えていて、そこで寝るように言われた。
 情けないぼくの色んなことを許してくれる響己さんが、唯一怖い顔をして、夜寝るのはこのベッドでだけと命令されたんだ。
 他の場所で寝ているのを見かけたら、有無をいわせずベッドへ運ぶとも。
 響己さんの手をわずらわせたくないぼくと、こんな立派なベッドで寝るなんてと困るぼくが戦った結果、響己さんを困らせないことが優先となった。

「あぁそうだ、寝る前の薬を飲んでいきなさい。ほら」

 響己さんが用意してくれた水で、小さな錠剤を飲み込む。
 のどが勝手に小さな粒を吐き出そうとするのを必死にたえて、しっかりと飲み下した。
 薬はこわい。
 これまでぼくが飲む薬といえば、子どもができないようにするためのもの、気持ちいい時間を長引かせるためのもの、それからよくわからない、体が熱くなるもの。
 どれも薬の効果が切れたあと、とても苦しくなって、文字通りのたうち回ることになる。だから薬を飲むことは嫌いだ。
 でも、飲みたくないとは一度も言えなかった。
 どんな薬でも飲むしかなかった。

「おやすみ」

 やさしい微笑みで見送ってくれる響己さんを疑いたくなんかない。
 この家にきてから一度もぼくを使おうとしない響己さんを信じたいと、ねがっている。

「薬なんてなんでもない……苦しくない、痛くない……」

 がたがたふるえる肩をおさえる。腕までふるえてきて、全身をぎゅっと折りたたんで目をきつく閉じる。

「信じる……響己さんを……しんじる……」

 そうして今日もぼくは眠りに落ちていく。
 意識を失っている間は苦しくない。それだけをよすがに、息をひそめて、生きていく。
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