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番外編
慰める番
しおりを挟む普段はそこまででもない帰宅時間の違いが、週末は顕著に広がる。
ベータからオメガに変化したことで営業の職を辞した俺は、会社を辞めることなく事務系の部署へ異動ということになった。
それまで知らなかったことだが、うちの会社で定時を超過するのは営業部くらいらしい。総務も経理も定時には一斉に仕事を切り上げて帰宅するので、社歴が長いとはいえ新人の俺も遅くまで残っていることはできない。
慣れない時間帯の帰宅ラッシュ。満員電車で汗臭いスーツの集団に揉まれながら家路を辿り、真っ暗な部屋に明かりを灯す。
あとは同居人が帰ってくるまでに、料理をしたり風呂を掃除して湯を張ったり、無意味にシーツのシワを伸ばしたりしながら過ごす。
それでもヒマなときは買ったまま積んであるビジネス雑誌や文庫本をコーヒー片手に広げて、ひたすら時間を潰す。
同居人───こう言うと怒られるのだった───番であり、伴侶である久我 司がいないというだけで、これほど手持ち無沙汰になるなんて、我ながら恥ずかしく思う。
俺はこんなにも無趣味な男だっただろうか。
しかし思い返しても、番を見つけるまでの間の人生、なにを楽しみに生きていたのか全然思い出せないのだった。俺の記憶はどうなってるんだ。
気づくと、開いた雑誌の紙面を視線でなぞるだけになっていた。溜め息を吐いてページを閉じると同時に、玄関がガチャガチャと喧しく鳴る。
「おかえり。早かったな」
玄関先に顔を出すと、三和土にスーツの男が立っていた。
朝撫で付けた髪はやや乱れている。ネクタイが少しだけ緩められているが、着崩したというほどではない。
酒精で赤い目元は疲労を滲ませている。顔立ちは整ってはいるけど、特筆すべきほど美形というわけじゃない。
番の司、こんなナリでもアルファだ。
今日は飲み会で遅くなると聞いていたので、終電も掠らないこんな時間に帰ってこられるとは思っていなかった。俺の夕食は適当に済ませてしまったから、酔い冷ましの味噌汁とお茶漬けくらいしか用意がない。
「悪い、晩飯ろくなもんねぇわ。なんか作っ」
「真嗣さん……」
踵を返したところで後ろに勢いよく抱き寄せられる。首元が若干締まった。
「ぅお、どうした」
「なんか疲れちゃって……あー真嗣さんのいいにおい……」
司はジャケットも脱がないまま、俺の体を拘束してうなじの辺りに鼻を埋めている。この若さで変態オヤジみたいな台詞を吐くな。
以前の俺なら、あまりの気持ち悪さに全力で振り払っていただろう。
今でも若干気持ち悪いと思わなくもないが、俺はこいつに首筋の匂いどころかもっと際どい部分まで嗅がれたり舐められたり噛まれたりしている。今さらである。
俺の肩口で動かなくなってしまった頭に腕を回して、セットが崩れ始めている髪をさらにくしゃくしゃにかき混ぜてやる。
「おまえは酒臭いな。風呂入ってこいよ」
「……はーい」
ジャケットを無理やり脱がせてネクタイと鞄をもぎ取ると、司は渋々浴室へ向かった。
営業部では最近、大口の契約が取れそうとのことで、交渉やら根回しやらで部署全体が忙しかったらしい。それがようやく落ち着いて、今日は祝勝会的な飲み会だったようだ。
司も随分頑張っていたし、喜びと安心感で飲みすぎてしまったのだろう。普段よく自制できている、行儀の良い酒飲みにしては情けない姿だった。
まぁ一人で真っ直ぐ帰ってこられただけ褒めてやっても良い。
居酒屋でそれなりに食べてきたということで、準備してあった味噌汁とお茶漬けだけを出した。
毎回律儀に「おいしいです」などと言いながら食べるデキた旦那である司は、今日はどうにも元気がなさそうだ。
「どうした、嫌なことでもあったか?」
ベッドに座っている司の横に腰掛け問う。
部署は変わってしまったが、俺のほうが先輩で年齢もいくつか上だ。愚痴聞きや悩み相談くらいならできる。
しかし司は疲れた笑みを浮かべるだけで、弱音を吐くことはなかった。
司も良い歳の男だし、アルファだ。普段意識することは少ないが、相応に頑固なところがあって他人に甘えることを良しとしない。
そんなこいつが俺にだけは尻尾振って懐いてくるところが、昔からかわいいと思っていたのだが。
なにか胸に抱えているようなのに何も言わない司に、しびれを切らしたのは俺の方だった。寝間着に着替えて静かにベッドに入った司の上に馬乗りになる。
オメガではあるが立派な成人男性の体重に跨がられ、司は目を白黒させていた。
「おら、吐け」
「えっなにを……吐くほど飲んでないですよ」
「違う、なんか喉につっかえてることがあるだろ。それとも俺に話せないやましいことか?」
最後は恫喝になってしまった。
薄暗闇の中、低い声で睨みつける俺に、司は怯えたように首を小刻みに振る。
「真嗣さんに隠し事なんてなにもないです」
「じゃあなんなんだよ、その態度」
「えっと……その……」
俺よりデカい男が頬を染めてモジモジしている光景は、視覚的に良くない。
しかしこちらから仕掛けたことなので放り出すわけにもいかず、俺は辛抱強く司の返事を待った。
「あの、今日はシてもいいですか……?」
「は? あぁ、いいけど。準備してあるし」
「うわっ嬉しい。準備してくれてたんですね、嬉しい」
くるりと体勢を入れ替えられ、今度は司を見上げることになった。
労りと情欲が絡み合った熱い唇が降ってきて、目を閉じてそれを受け入れる。まだ少し酒臭い。
それにしても、ヤりたいと言い出せないのがあの態度の理由だったのだろうか。明日は休日だから断ったりしないのに。普段からこいつは、許しを出していなくても襲いかかってくるのに。
微妙な消化不良感を抱えながら、俺は一先ず与えられる愛撫に身を委ねることにした。
二人の熱が昂りきったところで、あの謎の態度の答えが判明した。
正常位で司のものを受け入れ、しばしの小休止。
番であるとはいえ、男性オメガである俺の体は発情期以外はベータの男とそう変わりがない。受け入れる場所は慣らす必要があるし、ガツガツされると受け止めきれない。
上がってしまった息を整え、お互いの体をゆるく触りながら後孔が馴染むのを待つ。
見上げると、汗を滲ませた司がなにか言いたげな顔をしていた。
「ん……どした?」
「いえ、なんか、やっぱりちょっと」
「わ、おい?」
司の頭が胸の辺りに墜落してきて、俺は慌てた。
まさか酒が残っていて吐き気が出たとか? もしくはもう眠いとか?
しかし食い締めている司の息子は元気なままだし、それが抜けていく気配もない。異常に体が熱かったり汗を大量にかいている様子もない。
「どうしたんだよ」
「なんか、不意に思い出して、がっくり来ちゃって……すみません」
「おいおい、俺とヤってるときに考え事したのか?」
「すみません」
軽口を叩いてみても、沈んだ司の声は上向かなかった。
大方、今回の大口取引関連でなにか失敗してしまったのだろう。もしくは本人が「失敗した」と思い込んでしまうなにかがあったか。
俺の耳に聞こえてこないから大したトラブルじゃなかったんだろうけど、こうなってしまうと周囲がフォローすればするだけ自己嫌悪で気分が落ち込むかもしれない。
詳細も分からないことだし、ここは先輩ぶってアドバイスを試みるより単純に慰めた方が良いだろう。
胸元にある頭を鷲掴みにして、くしゃくしゃと髪を撫でる。
「わ……っ」
「なぁにヘコんでんだよ。取引大丈夫だったんだろ? 結果良ければすべて良し、ってな」
「でも……」
「大丈夫、だいじょーぶ。よしよし、ほら」
頭を抱いてクセの少ない髪をゆっくり梳いてやる。
司のほうも密着したまま、俺の体をぎゅっと抱き締めてくる。しばしの間、セックスをしているとは思えないほど穏やかな時間が流れた。
ふと頬を掴んで顔を上げさせると、いつも通りの司の顔があった。
目元を親指で撫でてやる。くすぐったそうな顔をして、それからいつもみたいに柔らかく微笑んだ。
「よし、元通りになったな」
「はい、ありがとうございます、真嗣さん。俺自分で思ったよりヘコんでたみたいです」
「ん。俺を誘っておきながら中折れしなかったことは褒めてやるよ」
「あはは。これからたっぷり満足させますから」
「ん……んっ」
いつもの調子に戻った司がゆっくりと腰を引いて、熱塊を突き入れる。
奥まで届くその圧力に怯みそうになるが、それよりもじんわりと体内に広がる気持ちよさと多幸感が良い心地だった。
「あ、ぁあ、司っ」
「真嗣さん」
「はぁっ、そこ、気持ちぃ……っ」
長大なものがずるずると内壁に埋まった悦楽を掘り起こしながら侵入してきて、勝手に背中が撓む。
どこが感じるか、この男には知り尽くされてる。
助けを求めるように伸ばした腕が捕らえられ、内側の柔らかい皮膚にきつく痕を残される感触だけで快感が高まった。
「あぁっ……つかさ、俺もうっ」
「イッていいですよ」
「ぁ、あぁ───……っ」
司の体にしがみついたまま強すぎる絶頂に耐える。
勝手にびくびくと跳ねる体に引きずられるように、司も放ったのが分かった。司の精が薄いゴムに隔てられ、胎の中で受け取れなかったことを残念がるように体が再び熱を孕む。
「なぁ、もう一回……」
「いいですよ」
しっとりと汗ばんだ前髪をかき上げて口付けるこの男が、俺だけのものだという満足感が心を満たす。
アルファなのに酒で酔ったり、人並みにヘコんだり、ちょっと情けないところもある年下の男。でも俺にとっては、完璧で超越的なアルファらしいアルファなんかより、こいつのほうがずっと魅力的に思えてしまうのだから救いようがない。
結局その晩は二回では収まらず、お互いに出すものがないと思えるほどに盛り上がった。
「で、結局なにが原因でヘコんでたんだ?」
「本当に大したことじゃないんですけど……ヘコんでたら真嗣さんが、慰めてくれるかなって」
「……じゃあアレは演技だったのか?」
「違っ、落ち込んでたのはホントです! でもちょっと盛りました」
「んだよ。心配して損した」
シーツの海に沈み込む俺の頭を撫でる司は、とても良い笑顔だった。心なしか肌ツヤすら良くなったような。
「それよりまたやってくださいよ。最中に頭撫でるやつ」
「ヤだよ。ガキじゃないんだから」
「えー」
アレは司が妙に沈んでいたからやってあげただけだ。
ヘコんでるやつにハメられながらよしよししてやるなんて、俺のキャラじゃないし。特殊プレイみたいで嫌だし。
しかしその後、味をしめた司は度々俺によしよしセックスを強要してくるようになった。
やっぱりもう少しくらい、こいつにはアルファっぽさがあってもいいな。
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