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9.予兆
しおりを挟む昼食を共にして、時間が合えば夕食も一緒、そしてどちらかの家へ帰る。
新たに追加されたルーティンに、俺はときどき頭を抱えたくなる。
(順調にカップルっぽくなってきてる……)
きっかけは、俺が番うことを了承してしまったことと、もう一つ。
発情期の予兆が現れたことだった。
オメガの発情期は、初回が最も危険だ。
なんの準備もしていないオメガが突然発情し、周囲にアルファがいたりしたら───目も当てられない惨事になる。
それを防ぐため、オメガの確定診断が下った者には予兆に気を配るよう医療関係者などが注意を促しているそうだ。内容は人によって千差万別、予兆がない者もいるらしいので俺も話半分だったのだが。
ちょうど病院の予約をしていたので、昨日から続く微妙な熱っぽさの症状を伝えると、医師は厳しい顔をした。
「山本さん、発情期が近いかもしれません。その症状は予兆の可能性があります」
「えっ」
正直、呆然としてしまった。
無理やり詰め込んだ知識から、オメガの発情期がどんなものかは知っていたが、知れば知るほど自分とは関係ないもののように思えていた。
だって、発情期に入ったオメガは理性がなくなり、本能でアルファを求めてしまうとか。どんなにうぶなオメガでも淫らになるだとか……現実味がなさすぎるだろう。
普段は凛としてかっこいいアルファたちが、オメガのフェロモンには抵抗できずラットに引きずり込まれるというのも信じがたい。
俺のような後天性オメガは急激な臓器の作り変わりがあるので、それがうまく行かず発育不良のような状態で終わる者もいるという。そういうオメガは後天性でなくとも一定数いて、妊娠できなかったり、発情期のフェロモンでアルファを誘うことができなかったりという症状がある。
俺もそういったグループに属するのではないか……とぼんやり思っていたところに告知されたので、かなり驚いた。発情期が滞りなく来るということは、俺のオメガの体は健全に作り変わったということだ。
そしてそれをそのまま久我へ伝えて───彼は厳しい顔も、驚いた顔もしなかった。
嬉しそうな顔をして、俺にしがみついた。いや……抱きしめられたのだろう、あれは。
そのせいで、俺たちの日課に新しい行程が加わった。
「いざってときに、俺のこと気持ち悪いと思わないように訓練しませんか」
「訓練?」
「こうやって」
横に座った久我が、俺の手に自らの手をそっと重ね、軽く握る。
「嫌じゃないですか?」
「もう慣れたよ。何回もしてるだろ」
男同士で手を繋ぐことに慣れてしまった自分が悲しい。
でもそれがアルファとオメガであれば、なにもおかしくないのだという。───体の準備が整ったとしても、ベータ主体の考え方を変えるのは相当時間がかかりそうだ。
「よかった。こうやってお互いに触れて、嫌悪感がないかどうか確認していきましょう。俺は真嗣さんが嫌がることはしたくないですし、しませんから」
手を握る力が少しだけ強まった。
真剣な目に、俺は頷いて返すことしかできない。
こうして俺たちは、お互いの存在に慣れるための「訓練」をはじめた。
昨日は俺の家、今日は久我の部屋だ。靴を脱いであがった先は、俺のものより一部屋多い単身者向け住居。
「ソファに座っててください。今お茶持ってきますね」
流れるように俺のジャケットを奪い取ってコートハンガーに掛けた久我は、そのままキッチンへ消える。スーツ用の幅が厚い木製ハンガーがすぐ出てくる独身男の家ってなんなんだ。
ソファに腰を下ろすと、固くも柔らかくもないクッションがぽすんと音を立てた。深い青の布地は肌触りが良くて、このまま横になったら問題なく眠れるなと思う。部屋は片付いていて物が少なく、ソファのほかにはローテーブルとテレビ、テレビ台、ミドルサイズのチェスト。そして観葉植物。観葉植物が置いてある独身男の家ってなんなんだ。
ベッドやクローゼットは、扉の閉まった隣の部屋にあるんだろう。俺と同じか、少し低いくらいの給料のはずなのにどうしてこんな立派な部屋に住んでいるのか。
「もしかしておまえ、お坊ちゃまか?」
サイズ違いのマグカップに緑茶を淹れてきた久我に前触れなく問うと、一瞬固まってから笑われた。
「あぁ、この部屋ですか。叔父が不動産をたくさん持っていて、管理人代わりに住んでるんです」
「やっぱりお坊ちゃまなんじゃねーか……」
「違いますよ、俺の両親は至ってふつうのサラリーマンですから。叔父はアルファで優秀な人だから」
「血筋にアルファがいるんだな」
「そうですね……今考えると、叔父さんの血というか、流れが俺の中にもあったんでしょう」
ソファに久我が座り、するりと手を取られる。指を絡めるような繋ぎ方だ。合わさった皮膚が少し熱を持つ。
俺の予兆は比較的軽く、常に微妙な熱っぽさはあるものの、それ以外の身体的症状はないようだった。早ければ今日にでも、遅くとも一週間以内には発情期に入ると覚悟するよう医師から指導されている。
左手に感じる気配をぼうっと追っていると、右肩にも気配が現れた。決して強くない力で肩を押され、久我に寄りかかる姿勢になる。
「嫌じゃないですか?」
「……大丈夫」
こうして触れ合っていって、俺が拒否をしなければ、こいつと番になるのか。
不思議な気持ちだった。嫌だとも嬉しいとも思わない。
なのに頭の中にはなにか、袋に包まれて中身がわからない気持ちが収まっている。中を見通せず、取り出すこともできないのに、我が物顔で居座っている謎の感情だ。気持ちが悪いしむず痒い。
俺が拒絶しないから、久我の行動は徐々にエスカレートする。
初日、俺の部屋で久我は俺の手に触れた。それから指先だけで俺の顔に触れた。掠めるように、唇にも。
一度交通事故のように、久我と唇を触れ合わせたことがあった。もう感触など覚えていないし、覚えるほど触れてもいなかったが、こういうことを俺とするべきじゃないのではないかと思う。
番になっても俺は久我に気持ちを返すつもりがない。物語の中の番のようにくっついて離れない、仲良しこよし両想いになるつもりがない。久我の子供を産む気もない。
そんな俺が彼の体どころか気持ちまで束縛するのは、良くないのではないか、と。
「なぁ久我」
「なんですか?」
「俺に発情期がきて、番契約をするとなったとき……キスはしなくていいよな」
「え? ダメですよ」
「えっ」
肩に載せさせられていた頭を起こして久我を見る。
俺の葛藤など1ミリも共有していなさそうな男は、きょとんとしていた。
「逆になんでキスしたくないんですか? もしかしてキスは本命とだけしたいとかそういう理由ですか?」
「いや、俺じゃなくて……おまえがだよ。俺たちは契約だけの番なんだから、キスとかハグとか、恋人みたいな真似は……しないほうがいいだろ」
「俺をダシにしてキスを回避しようってつもりですね、わかりました」
「いや違っ……」
慌てて否定しようとしたが、久我は立ち上がってさっさと離れ、隣室のドアを開けた。そのまま入っていく。
まずい、怒らせただろうか。
番になる以上、できれば二人の関係性は悪くしたくない。しかしこれは契約のその後に掛かってくる問題だ、発情期で俺の頭がバカになる前に話し合ったほうがいいに決まっている。
黙って待っていると、久我が戻ってきた。手に一冊の本を持っている。
「俺も真嗣さんに倣って、いろいろ調べました。ほらここ、見てください」
カラフルな付箋が何枚も貼り付けられた本が、開かれて目の前に突きつけられる。久我の指の先には、蛍光ペンで線が引かれていた。
「……『キスにはリラックス効果があります。発情に慣れていないオメガをキスで落ち着かせるのも、アルファのつとめのひとつです』……」
「そういうことです。キスのひとつやふたつでガタガタ言うほど俺は子供じゃないですし、相手をリラックスさせるのは番契約に至るまでのプロセスでも重要な行為のひとつです。反対意見はありますか?」
「……」
久我が納得しているのなら何も言うまい。しかし不安はまだ残っている。
こいつが俺と番になったあと、本当に結ばれたい───子供を産んでほしいと思う相手と出逢った時、俺の存在は足枷になるのではないか。
キスしてハグしてなんてことをしていたら、情が移る。そういうやつがアルファの近くにいると分かったら、お相手は嫌な気持ちになるのでは───。
「真嗣さん、固くなってどうしたんですか。リラックスしてください」
「え、っん……ん!?」
背中を一度擦られ、顔を向けたら久我の顔が目の前にあった。一瞬吐息を感じて、感触が足される。繋いだ手より余程あたたかい、いや熱い。
ほんの少しだけ口唇の薄皮を食むように噛まれて、ゆっくりと熱が去る。
伏せられていた両目が開かれ、いたずらっぽく微笑む久我に俺はただぽかんとアホ面を披露するしかなかった。
「嫌じゃなかったですか?」
嫌なんかじゃなかった、むしろ───。
そんなこと、言えるわけがない。こいつの仕事用じゃない笑顔は心臓に悪い。
熱い頬を隠すために黙って俯いたことが、久我にどんなふうに受け取られているかなんて、自分のことで手一杯だったこのときの俺は考えることもしなかった。
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