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8.理性だけの関係
しおりを挟む簾だけで空間を仕切る、居酒屋にありがちな半個室の部屋。
掘りごたつ風のテーブルに座って酒を飲む俺と、その横で畳に頭を擦り付けて土下座する久我。
「すいませんでした……許してください先輩……」
「それは何についての謝罪?」
「先週の、俺の暴挙と……今朝の……」
震える細い声が床近くから聞こえてくる。相変わらず俺からは久我のつむじしか見えない。わざとらしく溜息を吐いてみせると、土下座男の肩がビクッと揺れた。
週明け、久我は出社するなり俺の元へまっすぐやってきて、腰を90度に曲げて謝罪をかましてきた。
「先輩っ! すいませんでした!」
「うわっなんだ」
パソコンを睨んでいた俺は、突然真横から大声の謝罪をくらい、危うく椅子から落ちかけるほど驚いた。そしてそれは周囲も同じで、皆目を丸くして久我と俺を見ている。
できる営業マンである俺は瞬時に用件を察し、頭を下げ続ける後輩を引きずってにこやかにオフィスを出た。
「おまえ……なんのつもりなんだよ……みんな驚いてたろうが!」
「すいません! でも急いで謝らないと先輩、許してくれない気がして……」
久我の反省してますポーズを横目で見つつ、たしかにそうだなと自らを振り返る。
こいつが言うのは先週末、オメガの集会に参加した後、田淵兄弟の家に入るところで久我に引き止められた日のことだ。あのときこいつはなかなかに取り乱していた。
そして正直、いきなりアルファの雄っぽさを出してきた久我に俺は引いていた。
というより、本能的な恐怖を感じたのだ。
番を持たないオメガにとって、アルファは恐れの対象だ。存在を感じるだけで、近づかれるだけで怖いものだという。その点で言えば、後天性の俺にもオメガっぽい本能がちゃんと搭載されているんだなと感心した部分はあった。
ついでに、久我なんかを怖いと思った自分が情けなくもあった。
だから週が明けて久我が出社してきても、俺はなにかアクションを起こすつもりはなかった。
オメガとしての恐怖と先輩としてのプライドがせめぎ合い、結局「いままで通り接する」のが最適解だと思ったからだ。
それを久我は真正面からぶち壊してきたというわけである。
腕時計をちらりと見る。そろそろ始業の時間だ。いつまでも廊下で喋っているわけにはいかない。
「久我、細かい話は後にしよう。今日時間あるか」
「あ、今日は出先から直帰です」
「わかった。こちらも終わったら連絡する。それでいいな」
「はい!」
そんな会話をしたのが朝のこと。
終業後、行き慣れた居酒屋の半個室に通してもらい、その直後からコレというわけだ。
頭を下げ続ける久我を肴に酒を飲んでいたが、別段面白い光景でもない。こういうときは年上の俺が折れてやるしかないだろう。
「頭上げろよ。血が上っちまうぞ」
「でも先輩、怒ってますよね……」
「怒ってねーよ」
そろそろと久我の頭が持ち上がる。普段は後ろに撫で付けている前髪が垂れ下がり、隙間から恐る恐るといった様子の瞳が覗いている。
こうしているとこいつがアルファだとは思えないし、怖いと感じる部分は微塵もないというのに、どんなきっかけがあればあれほどまでに雰囲気が変わるのだろう。
「先週のアレは、まぁ、びっくりしたけど。怒ってはない。ちょっとビビっただけだ」
「本当にすみませんでした……」
「謝罪はもういらん、一生分聞いた気がするわ。そもそもなんであんな態度になったんだ」
「それは、その。先輩をとられちゃうかもって思ったら、カーッと血が上って。反省してます」
そう言って、久我は頬を赤らめた。今照れる場面だったか?
「それより先輩、俺が言ったこと覚えてます?」
土下座の姿勢から正座になった久我は、自然と俺の横に座ってずいっと身を乗り出してくる。
うぅん、切り替えが早い。失敗にくよくよせずすぐに次の案件に取り掛かれる前向きさとフットワークの軽さは、見習うべきところがあるだろう。
「なんか言ってたっけ?」
「俺、本気ですって言いました。先輩を番にしたいです。他に候補がいないなら俺にしてほしい」
久我の目は真剣だった。
まっすぐなそれは俺の目を射抜いて、心を見透かさんとばかりに鋭い。なりゆきや戯れで告げられたときのような簡単な提案ではない。
酒の杯を置いて、正面から見つめ返す。
「久我、おまえは若くて有望なアルファだ。手近なオメガで手を打つなんてもったいないと思わないか?」
「オメガなら誰でもいいわけじゃありません。先輩だから番いたいと思うんです」
「……」
黙り込んだ俺を見つめたまま、久我はふと笑みを零した。
「俺、バースが変わってもあんまり実感ありませんでした。面倒なことになったなぁって思ってただけで。でも今は、アルファの本能を感じるんです。本能が、この人を逃すなって叫ぶんです」
なるほど、アルファの本能ときたか。
俺は思わず腕を組んで唸ってしまった。まだオメガとしての自覚が薄く、本能の存在を感じたことがあるような、ないような……という程度の俺にとって、アルファの本能なんてものはさらに未知数の存在だ。
視線を逸らさない久我を真っ向から睨む。
「俺はな、『なんとなく』とか『なぁなぁ』とか苦手なんだ。何事にも理由と合理性がほしい。仕事じゃあ不合理なことも飲み込むが、プライベートはきっちりしたいからな」
「はい」
「だから番に関することも、しっかり納得した上で行動したい。だが番契約ってのはオメガだけじゃなく、アルファもいて初めて成り立つ話だ。そもそも俺一人で悩んだところで答えが出るはずもない問題だった」
久我に話しかけながら、半分は自分に言い聞かせるような気分だった。
判断材料が足りないからと、番契約の話は宙ぶらりんにさせてしまっていた。いっそ一思いに断ってしまうこともできたのに保留にしたのは、無意識下で俺にも何かしら感じる部分があったからだろう。
それなら俺たちがすべきことは、ぼんやりした前提条件で押し問答をすることじゃない。
腕時計を確認する。さっき入ったばかりの店を出るのはもったいない気もするが、時間が早いこの機会を逃す手はない。
「よし。俺の家に来い」
「え?」
「今から行くぞ」
コップに残っていた酒を飲み干して立ち上がると、久我はぽかんとまぬけ顔で俺を見上げていた。
元々片付いてなどいない雑然とした部屋だ。人を招くことを考えたことがない。これまで恋人を連れてきたこともない。
しかし今回は、久我を連れて来ないとダメだと思った。
電車で数駅移動する間、久我は「誘われてる」だの「積極的」だのぶつぶつ呟いていたが、黙って連れてきて部屋に入ると俺の意図を察したようだった。
「すごいですね、これ。全部バース関係の本ですか?」
「あぁ。オメガと、アルファに関する書籍を手当たり次第にな。まだ半分も読めてないが」
さほど大きくもないテーブルには、様々なサイズの書籍がいくつも建築物のようにうずたかく積んである。テーブルの上だけでは足りなくて、床にも積み重ねた。「おこさまのためのバース入門」という薄い冊子から、ハードカバーの最新オメガフェロモン研究分析書まで。
手当たり次第に漁ったので、バースに関するものだという以外は統一感も方向性もばらばらな状態だが、とにかく買いまくった。俺に今必要なのは知識だと思ったからだ。
昨夜寝る前まで読んでいた一冊を手に取る。
「これは第二性の歴史に関する本だ。大昔には第二性の存在はおろか、アルファやベータといった区分すらなかった。おもしろいよな、区別はされなくてもアルファやオメガは存在していたはずなのに。当時はどうしてたんだろうって気になったら読み止められなくて」
ベッドの下に積んであるものは一通り読み終わった本だ。
「こっちは子供向けの解説書。義務教育で習ったバース性に関する知識とか、今読むとなるほどなって思うことは多かった。先天性のやつらは当時から真剣に自分のバースと向き合ってたんだろうな」
手にした本を元の場所へ戻して、ベッドに腰掛ける。くしゃくしゃのシーツの上も本が侵蝕していて、寝る場所だけがかろうじて確保されている状態だ。ここ数日ずっと読書ばかりで、目の奥がじんわりと痛んでいる。
「あれから考えた。おまえと番になってもいいと、今は思ってる」
「えっ!」
何を言われるのかと立ち尽くしていた久我は驚きに目を瞠った。
これまで邪険にあしらうか躱すかしてばかりだったのだから、それも当然の反応だろう。
「ただ、俺が考えているのはお互いの利益のための『契約』だ。物語に出てくるような、大恋愛の末の番契約とは違う」
「どういうことですか?」
「俺に診断が出たあの日、言ってくれた通りの内容だ。俺は他のアルファを遠ざけ、発情期のリスクと苦痛を軽減したい。久我は他のオメガの影響を最小限にしたい。ついでにお互いを虫除けに利用する。それだけの番契約ってことだ」
「……」
久我は返答に窮している。その反応は予想通りだった。
なんでこんな、細くも柔らかくもない男相手に───と思わなくもないが、久我は俺に恋愛感情かそれに近いものを抱き始めている。
でも俺は彼の気持ちに応えられない。根っからベータで、大衆に埋もれる程度の個性と能力しか持たず、それを良しとして生きてきた。
今さら属する性別が変わった程度で、俺という存在を構成する信念や意識を総とっかえすることはできそうもない。男と恋愛をする、という概念も同様だ。
久我が言い出したことを俺が再提案したのは、釘を刺すために他ならなかった。
「どうだ、おまえはそれでも俺と番契約するか?」
「します」
これだけ突き放せばきっと考え直すだろう。年上の可愛げのない、見た目は完全にベータの男など……えっ?
「え?」
「番契約します。させてください。条件はそれで構いません」
ベッドの上で固まる俺の足元に、久我が跪く。シーツに埋もれていた手を取られ、ゆるく握られた。
真摯な瞳。一点の曇りもない。狭くて散らかったワンルームが、そこだけ別世界のように輝いている。
「嬉しいです。先輩と番えるなんて……大切にします」
「え、いや、ちょっと」
「いつまでも『先輩』なんて他人行儀ですよね。これからは名前で呼びますね───真嗣さん」
「段階をすっ飛ばしすぎだろ! まずは名字で呼べ!」
「えー」
捕まえられていた手を慌てて取り返し、ベッドから立ち上がって距離を取る。
あからさまに逃げてしまったが、これは戦略的撤退というやつだ。触れた手からとんでもない熱量が入り込んで怖くなったとかでは、断じてない。
だから顔が熱いのもきっと気のせいのはずなんだ。
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