恋する女装男子

キザキ ケイ

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その後の女装男子と彼

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 この店はいつ来てもうるさい。
 しかし開店直後の現在は、調節機能が壊れたままのようなボリュームのBGM以外はあまり物音がせず、比較的静かだ。
 夕暮れも入りの頃からすでに酔い始めているろくでなし達の間を縫って店の奥へ向かう。
 メインフロアからやや離れたそこは、場違いなほど厳かな雰囲気のバーカウンターだ。
 オーセンティックな店から引き抜いたという姿勢の良いバーテンダーが開店準備をしている、その横で、返事もされないのにしゃべり散らかしている男。
 今日の目当てはこいつだけだ。

「おい」
「ん。……おぉ、タツミじゃん! こんな時間に珍しい」

 ぱさぱさに傷んだ髪は金と緑に変わっている。
 限界まで着崩された衣服からは細い肩が丸出しで、へにゃりと情けなく破顔する男はこれでもこの店のオーナーだ。

「どしたん? 例のコにフラレた?」
「逆だ。……これ、返す」
「えっ何なに」

 艶やかに磨き上げられたカウンターに遠慮なく放り出したのは、高価なフリント式ライター。天然石のブレスレットや、革のキーケースなど、脈絡のないものが次々積み上がる。

「あーこれ、俺がタツミにあげたやつ。え、なんで返品されてんの?」
「なんでもいいだろ。あ、これも返すわ」

 辰巳はいくつも装着されたピアスの中から、石のついたものを取り外して男の手のひらの上に乗せた。
 男のほうは未だ事態が掴めずぽかんとしている。
 そうこうしているうちに、辰巳は軽く手を上げて背を向ける。

「じゃ、帰る」
「えっもう? 遊んでいかねーの?」
「用は済んだ。……あんたも」

 ふと込み上げた想いを、飲み込まずに言うことにした。

「年下に貢いでいつまでもフラフラしてないで、そろそろ落ち着けよ。じゃあな」

 返事を聞くことなく真っ直ぐに店内を横切って去っていった辰巳を、オーナーの男はまだうまく飲み込めないまま見送った。

「なにあれ……」
「昔の付き合いを精算したくなるような相手ができた、ということでしょう」

 思わず零れたつぶやきに、カウンターの向こうから応えがあって振り向く。
 いつも表情を読み取れないバーテンダーは、珍しく微笑を浮かべ、店の出口を見つめていた。



 待ち合わせ場所に着いたのは、示し合わせた時間の数分前だったが、そこにはすでに見知った人影があった。

「待たせた」
「あ、うぅん。僕が早く来ちゃっただけだから」

 所在なげにショルダーバッグの肩紐を握っている少年は、ぎこちなく辰巳を迎える。
 おどおどと落ち着かない視線、短い黒髪をしきりに引っ張るのは容姿に自信がないことの現れか。
 流行の気配すらない、まるで親が買ってきたものをそのまま着ているかのような野暮ったい男物の服装。
 機能性しかない黒のくたびれた鞄には、謎のキャラクターもののキーホルダーがぶら下がっている。
 こうしていると彼は猫背で地味な高校生男子でしかない。
 彼が普段はこの街を、センスのいい「女物」のファッションで颯爽と闊歩しているなど、誰にも想像できないだろう。

「……おまえ、ホントに男の格好だとダメだな」
「えっ」

 気がつくと辰巳はしみじみと呟いていた。
 会って早々こき下ろされ目を丸くする男の背中を軽く叩いてやる。

「背筋伸ばせ、しゃんとしろ。デートなんだろ」
「あ、う、うん」

 やっと真っ直ぐになった背筋はむしろ反りすぎで、辰巳は遠慮なく笑った。
 頬を赤らめて恥ずかしそうにしているのは、辰巳が笑ったからか、「デート」という言葉に喜んだか、その両方か。

「ほら行くぞ、那月」

 手を差し出すと、那月は小動物のように驚いて半歩下がり、急いで戻ってきて手を握った。
 明るい日のもとで、化粧っけのない彼の姿をしっかり見るのはまだ数度目だ。
 コレと、あの自信に満ち溢れた「少女」が同一人物などと辰巳ですら未だ信じられない。しかしそれは揺るぎない事実で、今ではどちらの「ナツキ」も気に入っている。
 ふと那月が辰巳の耳元をじっと見つめた。

「あれ、辰巳くん。ピアス一個取れちゃってるよ」
「あー。外した」
「そうなんだ。じゃあ、見に行く?」
「だな。ついでにおまえのそのクソダサな服もどうにかするぞ」
「えっ! だ、ダメかな?」
「ダメに決まってんだろ」

 女装用のファッションは流行を押さえ、かつ自分に合ったコーディネートができているのに、なぜ男物ではこれほどまでに残念なのか。
 ファッションビルへ向かう辰巳の後ろを引きずられるように歩く那月は、ダメ出しをされた自身の服装を見下ろして、納得できないのか唇を尖らせている。
 笑みが零れ、辰巳はまた自分が笑顔になっていることに気づいて面映い感情に襲われた。
 那月といると退屈することがない。
 あの紫煙と熱気で霞む店や、退廃的な雰囲気の人間たちに囲まれているときには得られなかったあたたかさ、穏やかな心。
 自分という器から枯れてしまったと思っていた感情が、自然と湧き出してくる。
 ちょこちょことついてくる小動物のような彼の手を引いてやると、腕が触れ合いそうなほど距離が近づいた。
 おしろいの匂いすらない那月は無臭だ。男臭さもない。匂いも色もついていないこれが自分のものだと思うだけで、言い知れない充足感が辰巳を満たす。

「あれ」

 ふと那月は目を細め、辰巳を見上げた。

「そういえば最近、あの匂いしないね」
「におい?」
「辰巳くんの……甘い匂い。香水やめたの?」

 無垢で邪気のない彼に、匂いの原因を教えようと口を開いて……やめた。
 昔から絶やすことなく買っていた紙巻たばこを買わなくなってしばらく経つ。残っていた箱の中身はすっかり湿気てしまい、数日前に捨てた。
 愛用していたライターは持ち主に返したばかり。
 辰巳があの香りを再び纏うことはもうないだろう。

「あぁ。捨てちまったから」
「そうなんだ。いい匂いだと思ってたから、ちょっと残念」

 苦笑する彼の薄く色味のない唇を今すぐ塞いで貪りたい。
 過ぎった邪すぎる考えに辰巳も苦笑いを零し、焦らずともあとで思うままにできると考え直した。

「なんだったら、おまえが選べ」
「え?」
「新しい香水。俺に合うようなものを」
「僕が? そんな、責任重大だ……」

 嗅覚に自信がないなどと尻込みする那月の手を引いて、店の立ち並ぶ中心街へ足を向ける。
 那月はどんな香りを辰巳に纏わせるだろう。
 些細なことで胸が躍るのを、不愉快だとはもう思わない。

「へへ。お店、楽しみだね」

 那月の手がきゅっと握り直される。
 控えめにはにかむ恋人を、やはり早めにホテルへ連れ込もうと辰巳は考えを改めたのだった。
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