冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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07.ハンナとジョシュ

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 シムの本意ではなかったとはいえ、抵抗しきることができずに無体を許してしまってから、ブレイズの傍若無人は収まる気配がなかった。
 不規則にやってきて絵を持っていく行動の合間に、ブレイズは気まぐれにシムへ触れた。
 どんなに嫌でも、ブレイズを本気で傷つけることができないシムの気持ちを見透かされているようで、それがまた気分を落ち込ませる。

「シム、口を開けて」
「や、んっ……ぅあ、あ」
「上手く描けていないのだから、一滴も無駄にできないよ」

 板の間の上で四つん這いになるシムに、ブレイズが覆いかぶさってくる。
 唇の隙間に指をねじ込まれると抗うすべもなく、唾液が分泌されて滴った。
 すべてパレットに取られ、絵の具として使うよう指示される。
 彼の長い指を噛みちぎる勢いで顎を閉めてやりたいと何度も思うのに、一度も実行できない。
 シムはろくな抵抗もないままジーンズの前をくつろげられ、精液と情けない喘ぎ声を零すしかなかった。
 ブレイズの手の動きに合わせて、体がゆるゆると揺れてしまう。木の床に擦れる膝が痛い。逃げたいのか、もっと快楽を得たいのか、行為が進むにつれシムにもよく分からなくなっていく。
 冬の凍った空気の中に混じる生臭い匂いが、自分のせいだという現実から必死で目を逸らした。

(寒い……)

 ブレイズが去った部屋で、シムはベッドにもたれ掛かっていた。
 ぼうっとして何をする気力も起きない。
 投げ出した腕の先には、さまざまな色の絵の具が乗った木のパレットが転がっている。
 暖房設備のないこの部屋の冬はいつも寒いが、今日は格別だった。天窓がかたかたと鳴っている。もしかしたらどこからか隙間風でも入ってきているのかもしれない。絵を描くつもりで脱いであった袖の長いセーターを手繰り寄せ、力の入らない肩へ掛けた。
 どうしても濁った色しか作れなかったあの日の後、シムは泣く泣くあの色を使って絵を仕上げた。
 本当はすぐに処分したかったし、使いたくもなかったが、あれほど力の差のある男に抑え込まれて抵抗できないと感じたのは初めてだった。
 きっとあの色を使わなければ、同じことをまたされる。
 逃げる場所はなく、選択肢もなかった。
 ブレイズはその作品のことをいたく気に入ったようで、すぐに買い取っていった。
 そして数日後にまた来たとき、シムは再び組み敷かれ、精を開放させられた。
 それから何度同じことをされただろう。もう覚えていないほどだ。
 同じ男であるというのに、なにも適うところがない。
 そのうえブレイズの存在はシムにとって生命線で、ろくな職につけないシムの唯一の収入源だ。苦い思いの上から薄っすらと振りかけられる粉砂糖のように、かつて友人のように接することができていた日々のあたたかな記憶が注がれる。
 ブレイズに対する感情を、シムは持て余していた。
 行為の強引さとは裏腹に、体はすっきりしている。
 もやついているのはシムの頭の中だけだ。
 曇っているとはいえまだ日が高いことを見て取り、シムは体を起こした。
 ここで呆けていてもなにも手につかない、まして作品の続きなど描けそうもなかった。

 昼下がりの町にも人通りはあるが、新聞を広げる老人や談笑するマダムの集まりなど、早朝や夕方とは違った層が多くゆるやかな時間が流れているように錯覚させられる。
 一本しかない、ところどころ毛糸がほつれたマフラーを首元にぐるぐる巻きにしても忍び込んでくる冷気に閉口しつつ、シムは町を横切った。
 交通量も少ない時間帯の目抜き通りを、やや早足で斜めに横断する。
 コートのポケットに手を突っ込み、その肩には薄いトートバッグを提げていた。外へ写生に行くときのシムの定番スタイルだ。
 着いた先はいつもの公園だった。
 どこへ行こうか思案しているうちに、気がつけばこちらへ足を向けてしまっていた。見慣れた景色を一望し、気分を変えるために来たのだから場所を移そうかしばし思案し、結局近くのベンチへ腰を下ろす。
 大きな公園などでは、平らな場所にイーゼルと携帯用の椅子を用意した、いかにも玄人はだしな年寄りが写生をしている風景を目にするが、シムはベンチに好んで陣取った。
 自然、見える景色はいつも似たようなもので数パターンしかなく、描くものも変化は少ない。
 しかし今日は見慣れないものが目に留まった。
 公園の真ん中には芝生に覆われた緩やかな丘がある。公園の半分を占める面積のそこがメインコンテンツなのだろう。多くの子供は周囲の遊具などに散るはずだが、今は芝の上を転がりまわる二つの影があった。
 気付くと、勝手に鉛筆の先が紙の上を走っていた。
 シムの目で見たままの距離の姿と、まるで望遠レンズで拡大したかのように胸から上を詳細に描いたスケッチ。
 ここ数年は風景ばかり描いていたから、まだまともに人間を描くことができるのだなとシムは一人で感心した。
 少しぼんやりしていたらしい。目の前に人が立ったことにも気付かなかった。

「あなた、画家さんなの?」
「わ!」

 スケッチブックを抱えてベンチの上を後ずさったシムは、呆れ顔の少女と目が合い我に返った。
 首元にたっぷりファーのついたコートと、目に鮮やかな黄色のマフラー。薄いブラウンの髪をツインテールにしている十歳かそこらの少女は、寒さと運動による赤い頬を隠しもせず、さらに一歩シムへと近づいた。
 彼女の後ろには、まるで護衛か保護者のように毛の長い大型犬がくっついている。首輪はしているがリードはなく、かといって突然どこかへ走っていってしまうほどやんちゃではないようだ。口を開けて舌を出し、はふはふと白い息を吐いている。
 先程までシムが絵のモデルにしていた者たちだ。

「あら? これ、あたしたちじゃない?」

 少女はやや怯えるシムの様子など見向きもせず、シムが抱えたスケッチブックをぐいっと自分の方へ傾けさせた。愛らしく繊細な見た目のわりに、大胆な性格らしい。

「あたしたちのことを描くなら、最初にキョカを取るのがスジではなくて?」

 顔に落ちかかるツインテールをばさりと跳ね上げた少女が、妙に時代がかって高圧的な言いがかりをつけてきた。それがどうしてか堂に入っていて、シムはとりあえず謝罪した。

「ごめん。この公園でこどもを見かけるのは珍しくて……それに、あんまりにも楽しそうだったから」
「あら、あたしたちのジャマをしないようにしたってことね。いいわ、許すわ」
「あ、ありがとう……」

 なにに対してお礼を言っているのだろうと頭の端で疑問に思いつつ、シムはぎこちない笑みを浮かべた。
 少女は我が物顔でシムの横へ座り、足をぶらぶらさせて話しかけてくる。

「とってもお絵かきが上手なのね。画家さんかしら」
「うん。あ、いや……画家とはいってもぼくは売れない方だから……」
「あらそう? でもあたしのことはちゃんと描けてたわよ。ジョシュのことも」
「ジョシュ?」
「あたしの騎士ナイトよ」

 少女の足元にくっついている金色の犬は、少女の小さな手に撫でられて誇らしそうにしていた。
 親の姿が見当たらないところを見ると、この犬がナイトというのもあながち間違いではないのかもしれないとシムは思う。

「あたしはハンナ。画家さんの名前は?」
「……ぁ。ぼくは、シムだよ」
「シム? 珍しい名前ね。まぁいいわ」

 ハンナは飛ぶようにベンチを降り、片足でくるりと回ってこちらに向き直った。
 コートと一緒にふわりと広がった真っ赤なスカートの裾がシムの虹彩を揺らす。

「シムもジョシュと遊ぶ? とくべつに混ぜてあげるわ」

 とてつもなく上から発言する小さな少女をシムは見下ろし、不自然ではない笑みを浮かべた。
 ジョシュが騎士なら、ハンナはお姫様だ。古風な話し方と相まって、その態度がとても彼女に合っている気がした。誰かとしゃべってこんなに楽しい気持ちになったのはいつぶりだろう。

「二人の邪魔をしちゃ悪い。それより、もう一枚二人の絵を描く許可をもらえない?」
「あらそう。もちろんいいわよ、あたしは心が広いから」
「ありがとう」

 無事に許しを得ることができたシムはさっそく鉛筆を握りしめた。
 ベンチの上で立てた膝にスケッチブックを乗せ、まだ白いページを開く。
 ハンナとジョシュは芝生の丘の上にボールを置いてきていたらしかった。ハンナがボールを投げ、ジョシュがそれを追う。ツーバウンドしたものをジョシュが拾い上げることもあれば、ハンナの暴投をジョシュが見事にキャッチすることもあった。その度に彼女たちは笑い、抱き合い、喜びを共有する。なんて素敵な関係だろう。
 シムは一心不乱に手を動かした。
 手元に視線を落とす時間より、ハンナたちを目で追う時間のほうがずっと長かったが、不思議なことに黒鉛の線はシムの思った通りに、いやそれ以上に風景を写し取っていく。
 我に返ったのは、日が傾いて手元に影が掛かったからだった。
 ベンチの横の広葉樹がシムの頭上を暗く遮り、はっと意識が戻る。まるで気絶していたかのように直前の記憶がなくなっていたが、真っ黒になった手を見て、さっきまでスケッチをしていたのだとすぐに思い出せた。
 ハンナたちの姿が見えない。シムは立ち上がり、芝生の方へ歩いた。
 二人はすぐに見つかった。ベンチの方角からは死角となる丘の麓で、ハンナが丸くなって眠っていた。
 その横にハンナを守るように、ジョシュが寝そべっている。シムが近づくとすぐに顔を上げたが、唸られたり吠えられることはなかった。

「ハンナ、こんなところで寝てたら風邪をひいてしまうよ」

 安らかな寝顔に尻込みしつつ、ハンナを揺り起こす。幸いにも少女はすぐに目を覚ました。
 元々真っ赤だった頬がさらに赤みを帯びて感じられる。

「まぁ、もうこんな時間。あたし帰らなくちゃ」
「そっか。じゃあ、これを」

 シムは躊躇いなくスケッチブックのページを破り取ってハンナに渡した。
 白い画面いっぱいに黒い線で、濃淡を表現しながら一人と一匹のスケッチが描かれている。
 少女も犬も、満面の笑みを浮かべたものだ。ハンナは一瞬ぽかんとして、すぐに立ち上がった。

「すごいわシム! とっても上手!」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 飛び上がって喜ぶ少女の反応に、シムの口角は自然と緩む。

「お世辞じゃないわ、本当にすてき。ねぇ、サインをいれて」

 右下の空いたスペースにサインを入れると、シムはスケッチを丸めて筒状にしてハンナに返した。ハンナが筒の真ん中をしっかり持ったことを確認する。
 公園の出口まで一緒に歩き、シムは彼女たちと別れた。

「シム、あなたきっとすごい画家になるわ。それまでこの絵は大事にとっておいてあげる」
「そ、そうかな……」
「もちろんよ。すごい画家になって、この絵を売ったあたしを大金持ちにしてちょうだい!」

 ジョシュを従え去っていくハンナを、シムは苦笑して見送った。
 今どきのこどもというのは、皆あれほどにマセているものなのだろうか。
 いつか彼女が、絵を手放すのを躊躇うくらいすごい画家になれたらいいのに。そんな考えが自然とシムの心に浮かんだ。こんなに気分が良いのは本当に久しぶりだった。
 以前はブレイズと話をするだけで嬉しくて、心安らかでいられたのにどうしてこうなってしまったのだろう。
 これまでに何度も考え、結論が出なかったことにまた意識が飛んでしまい、シムはゆるゆると首を振った。
 ブレイズとの関係を変えるには、絵を描き続けるしかない。
 なぜだかそう、強く思った。
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