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02.出会い
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群青に染まった筆先をぺた、とキャンバスへ付ける。
絵筆は持ち手こそきれいだが、平たい筆先は毛羽立って広がり、誰かが使ったあとのものであることは明白だった。
しかしシムはこれを使い続けるしかない。
ブレイズが気まぐれに持ってきてくれるこの筆がなくては、日々の暮らしでパンすら買えなくなってしまう。
目に眩しいほどの白からは程遠い、薄く黄ばんだキャンバスもブレイズが持ってくるものだ。
大した卵を産まないガチョウでも、全く描けなくなっては困るのだろう。いくつかの画材だけは彼が購入してくれている。
キャンバス張りが苦手で、木枠や釘 の値段もばかにならないため、画材を負担しなくて良いことはありがたかった。
たとえそれが中古の絵筆でも、くすんだ生地でも。
シムは8号や10号ほどのキャンバスを好んだ。
今どきは大きな画面でダイナミックな構図を取る作品が人気を博していることは知っていたが、シムには合わなかった。胸に抱えることができる程度の大きさなら、隅々まで自分の意思を届かせることができる。毛羽立った筆の一筋すら己の描きたいように描ける、その限界がこのサイズだった。小さすぎると平筆には窮屈にもなる。
パレットの上で固まった絵の具に水をほんの少し垂らし、筆先に取る。
さっき塗った群青色の横に滑らせると、重なった部分だけが見事に混色した。
ブレイズはどんなに言っても、絵の具だけは渡してくれない。
一度、市販の絵の具を苦労して買って作品を仕上げたことがあったが、気に入らないからと持ち帰ってもくれなかった。
絵の具を変えたことは告げていなかったのに、なぜ違いが判ったのか今でも不思議だ。
(心のうちではぼくのことを、化け物だと思っているだろうに……)
体質のことは、自分でもよくわかっていない。
ごく幼い頃のシムはふつうの子供だったはずだ。
それがいつからか、クレヨンを握って家中の壁に落書きするようになり、同時期にべとべとした油っぽい異様な色の汗や涙を流すようになっていた。
両親は表面的には、シムの体質を慮り、理解があるように振る舞っていた。
しかしシムが寝静まった夜には、二人で真夜中まで話し合い、悲嘆に暮れていたことを知っている。母が泣き、後悔を口にしていたことも。
それだけが理由ではないが、シムは最低限の学業を修めてすぐに家を出た。
これ以上両親の負担になりたくはなかった。
子供の頃は制御できずにそこらじゅうを絵の具だらけにしてしまっていたシムも、長じるにつれてなんとか人並みに暮らせるようになっていた。
そもそも成長すれば、涙など滅多に流さない。元々あまり体が強くなかったこともあり、汗をかく運動はなるべく控えれば人前で体液を流す機会はなかった。
都会に出てきたシムは、精力的に活動した。
新しい作品を何枚も描き、コンテストや展示会に応募した。大手から街角の小さな画廊まで、いくつも回って作品を売り込んだ。
しかしそのどれもが芳しくない結果に終わっていた。
そのうえ仕事を探そうにも、肉体労働を避けてとなると職種は極端に限られる。絵を描く時間を捻出でき、汗を流さず、人見知りで資格もないシムでも勤まる仕事はなかった。
少し前までは、家の近くに店を構える雑貨屋の老主人が日に日に痩せていくシムを見かねてか、郵送物のラベル貼りという仕事をくれていた。荷物や封書を預かり、表裏書きをして切手を貼り、足の悪い店主の代わりに郵便屋へ持ち込む仕事だ。
実入りは少なかったが、お金を稼ぐ手段があるだけありがたかった。
その仕事も、老主人が雑貨屋を閉めてからはなくなった。
「すまないね、シム。田舎の娘夫婦のところへ引っ越すことになったんだよ」
「気にしないで。仕事なんて探せばいくらでもあるんだから」
最後まで申し訳無さそうに頭を下げる老婦人に、シムは無理やり口角を上げて笑ってみせた。
別れ際、今は閉じてしまった雑貨店とその前で微笑む老婦人を描いた絵をプレゼントしたら、泣きそうに歪んでいた皺だらけの顔がぱっと輝いたのをシムは昨日のことのように思い出すことができる。
「シム、あんたはきっとすごい画家になるよ。今はまだ、みんながあんたのすごさを見つけることができないでいるだけさ」
だから諦めないで、がんばって───。
汽車が出るぎりぎりまでシムの手を握ってくれていたぬくもりが、折れかけていた心を救ってくれた。
ブレイズに会ったのは、その一週間後のことだ。
いつものように飛び込みで画廊を訪れ、絵を見せる。
小さな丸メガネを大きな顔に掛けた小太りの画商は、シムの絵をいくつか手にとり眺めていた。
あまり芳しい反応がなく、通された事務所の椅子で小さくなっていたシムに、画商は言った。
「率直に言おう。わたしのところでこれを置くのは難しい。しかしきみを知り合いに紹介してやることはできる」
「本当ですか! 知り合い、というのは」
「あぁ、わたしと同じ画商だ。彼はこういった、その……不思議な絵を好んで扱うからね、運が良ければ買ってもらえるだろう」
シムは天にも昇る心地になった。自分の絵を買ってくれるかもしれない。絵で食べていくことができるかもしれない。
画商が言外に「変な絵」と評したことも気にならなかった。
シムは人見知りが激しく、路上での似顔絵描きやポストカードなど手に取りやすい価格で絵を売ることにちっとも向いていなかった。お客が来ると途端に声がつまり、冷や汗が出る。何度か試したが、その度にインナーシャツの背中がべっとり絵の具まみれになっているのを見て、みじめになってやめた。
いよいよこんな生活は続けられない。
しかしふつうに働くのにも、体質によるリスクがある。
それにシムは絵を描き続けていたかった。自分の一部のようになった、筆を握るという習慣を失いたくなかった。
丸メガネの画商が連絡を取ってくれ、先方とは町外れの喫茶店で会うことになった。
狭いながらテラス席があり、全体的に小ぢんまりとしているものの、そこかしこに店主のこだわりが感じられる店だ。外で飲食をする行為はシムには贅沢すぎて、上京してから一度も外食の店に入ったことがなかった。初めて入った都会の喫茶店が物珍しく、シムは念の為持ってきていたスケッチブックに鉛筆で写生をはじめた。
持ち歩きに便利なサイズの写生帳を膝にのせ、椅子に三角座りするシムはさぞかし変な客だっただろう。
店で一番安いコーヒーを店員が持ってきたことにも気付かず、シムは描画に夢中になった。
テラスへ出るドアを中心に据えた絵が完成したと思えるほど書き込み、シムはやっと息をつく。
作業中は呼吸を忘れてしまうこともある。酸欠気味に明滅する視界を深呼吸で落ち着かせていると、すぐ後ろに人の気配がした。
「夢中になって描いていたね」
「っ!?」
慌てて立ち上がって振り向いた先には、スーツの男がいた。
手元を覗くためだろう、長身を腰から折り曲げた姿勢を優雅に正し、呆然とするシムへにっこりと微笑む。
「わたしはブレイズ。ブレイズ・ワーズリーだ。きみがシムかな?」
「……ぁ、はい! そうです!」
「ふふ、固くならなくていい。覗き見をして悪かったね。座って」
「は、はい」
ブレイズはテーブルを回り込んでシムの正面の椅子へ腰掛けた。
片手を上げて店員へコーヒーを頼む仕草は自信に満ち溢れていて、品がある。
広げっぱなしだったスケッチブックと鉛筆を仕舞おうとするシムに、ブレイズは待ったをかけた。
「ちょっと待って。さっきの絵、もっとよく見せてくれる?」
「あ、は、はい……」
閉じたページを再び開いて渡すと、ブレイズは興味深そうにそれを眺める。
風景や人物を描くのはシムにとって息抜きで、作品にはあまり反映されない。それでもなにか描きたくて、手の爪がむずむず浮くような気分になることがあるので、スケッチブックは常に持ち歩いていた。リング綴じの部分に鉛筆をねじ込めば、これ一冊だけでどこででも絵を描くことができる。
ブレイズにコーヒーを持ってきた店員に、彼は声を掛けた。
二人して絵を覗き込まれ、シムの頬にじわじわと朱が差す。作品のほうはともかく、落書きのようなものをまじまじ見られるのは居心地が悪かった。
「ねぇシム。彼女がぜひこの絵を買い取りたいっていうんだけど、どうかな?」
俯いていたシムは、ブレイズと店員の間にあったやりとりをなにも聴いていなかった。
いきなりそう問われ、急いで顔を上げたはいいがぽかんとしてしまう。
「……え? でもそれは、本当にただの落書きで」
「シム、きみは画家だ。画家の描いたものはそれがチラシの裏のなぐり書きだって価値がつく。そうだろう?」
「は……はい……」
強い視線と共にそう言われてしまえば、口下手で弱気なシムは俯いて頷くことしかできなかった。
ブレイズはその間に店員となにごとか交渉し、絵を売ってしまった。
一枚破かれたスケッチブックは返却され、シムは請われるままに喫茶店の絵にサインを入れた。
「ほら、シム。これがきみの絵の価値だよ」
ブレイズはなんでもないことのようにテーブルへ金を置いて、自分のコーヒーに口をつける。硬貨と木のぶつかる音がしない。
恐る恐る目を上げたシムは、テーブルに紙幣が乗っていることに驚愕した。
「えっ……こ、こんなに? なにかの間違いじゃ」
「間違いなんかじゃないさ。彼女がきみの絵にこれだけ払いたいと言ったのだから。正当なきみの取り分だ」
「と、取り分……じゃあブレイズ、さんも、なにか利益を?」
「あぁ。仲介手数料としてこのコーヒーをタダにしてもらった。順当な利益だ」
湯気の立つカップを啜っていた唇が緩み、いたずらっぽそうにウィンクを飛ばされる。
シムは呆気にとられ、次には笑いがこみ上げてきた。
変な絵ばかり集める画商と聞いていたので、きっと気難しくて恐ろしい人物だと思いこんでいた。
しかしやってきたのは不思議だけれど、気さくで話しやすく、コーヒーを飲むのもいちいち様になる貴族のような男。
人見知りの激しいシムの強張った心も、一瞬で緩められてしまった。
「あの、ありがとうございます。受け取らせてもらいます」
紙幣を手に取ったシムに、ブレイズは鷹揚に頷く。
「そうしてくれ。テーブルにお金を出しっぱなしじゃ、チップと思われてしまうからね。では改めて、作品を見ようか」
「はい!」
シムはすっかり熱の引いたコーヒーを胃に流し込み、持参したキャンバスを引っ張り出す。
ブレイズはシムの作品をいたく気に入ってくれ、その日持っていった作品をすべて買い取ると言い出した。
「きみには実績がないから、あまり高値では買い取れないんだ。すまない……その代わり、今即金で支払おう」
「え、ほ、本当ですか! ありがたいです」
申し訳無さそうに眉を下げるブレイズとは対照的に、シムはテーブルに身を乗り出した。
日々なんとか食いつないではいたが、今借りている部屋はもうすでに家賃を二ヶ月も待ってもらっている。これ以上滞納すれば追い出すと、大家から何度か通告されていた。
絵を売った金がすぐに手に入るのなら、多少買い叩かれても文句などあるはずもない。
それにシムはこの短時間で、ブレイズのことをすっかり信用しはじめていた。
彼は作品に対するとき、嘘やごまかしを言わなかった。気遣いもお世辞もない、ただ感じたままの言葉を口にしてくれる。その姿勢に好感をもった。
ブレイズは尚も困った顔をして、もし予想より高値がついたらあとからさらに支払うつもりだと告げる。
「それに、他の作品もあるのなら買い取ろう。完成したものがこれだけってことはないだろう?」
「はい! 家にまだいっぱいあります!」
「よし。そちらは日を改めて見せてもらうとしよう」
ブレイズが差し出してきたのは、上質な紙片の名刺だった。
彼の名前と連絡先、ギャラリーの住所も書かれている。
「後日ここへきみの作品を展示する。見に来てくれてもいい。きみの連絡先を教えてもらえるかな」
「あ……すみません。ぼくの部屋には電話がないので、電話と郵便物はすべてここへ……」
シムは慌ててテーブルナプキンを掴み、アパートメントの大家の部屋番号を書いた。暗記してある電話番号も記す。
大家に迷惑をかけることになるため、電話も郵送もなるべく断っていたのだが、今は彼と連絡が途切れてしまうことだけは避けたかった。
「なるほど、下宿のようなものかな? では近いうちにまた連絡させてもらうよ」
コーヒーを飲み干したブレイズが満足そうに微笑む。
シムもなんだかとても安堵した気持ちで、空っぽのカップに口をつけ、ブレイズに笑われることとなった。
絵筆は持ち手こそきれいだが、平たい筆先は毛羽立って広がり、誰かが使ったあとのものであることは明白だった。
しかしシムはこれを使い続けるしかない。
ブレイズが気まぐれに持ってきてくれるこの筆がなくては、日々の暮らしでパンすら買えなくなってしまう。
目に眩しいほどの白からは程遠い、薄く黄ばんだキャンバスもブレイズが持ってくるものだ。
大した卵を産まないガチョウでも、全く描けなくなっては困るのだろう。いくつかの画材だけは彼が購入してくれている。
キャンバス張りが苦手で、木枠や釘 の値段もばかにならないため、画材を負担しなくて良いことはありがたかった。
たとえそれが中古の絵筆でも、くすんだ生地でも。
シムは8号や10号ほどのキャンバスを好んだ。
今どきは大きな画面でダイナミックな構図を取る作品が人気を博していることは知っていたが、シムには合わなかった。胸に抱えることができる程度の大きさなら、隅々まで自分の意思を届かせることができる。毛羽立った筆の一筋すら己の描きたいように描ける、その限界がこのサイズだった。小さすぎると平筆には窮屈にもなる。
パレットの上で固まった絵の具に水をほんの少し垂らし、筆先に取る。
さっき塗った群青色の横に滑らせると、重なった部分だけが見事に混色した。
ブレイズはどんなに言っても、絵の具だけは渡してくれない。
一度、市販の絵の具を苦労して買って作品を仕上げたことがあったが、気に入らないからと持ち帰ってもくれなかった。
絵の具を変えたことは告げていなかったのに、なぜ違いが判ったのか今でも不思議だ。
(心のうちではぼくのことを、化け物だと思っているだろうに……)
体質のことは、自分でもよくわかっていない。
ごく幼い頃のシムはふつうの子供だったはずだ。
それがいつからか、クレヨンを握って家中の壁に落書きするようになり、同時期にべとべとした油っぽい異様な色の汗や涙を流すようになっていた。
両親は表面的には、シムの体質を慮り、理解があるように振る舞っていた。
しかしシムが寝静まった夜には、二人で真夜中まで話し合い、悲嘆に暮れていたことを知っている。母が泣き、後悔を口にしていたことも。
それだけが理由ではないが、シムは最低限の学業を修めてすぐに家を出た。
これ以上両親の負担になりたくはなかった。
子供の頃は制御できずにそこらじゅうを絵の具だらけにしてしまっていたシムも、長じるにつれてなんとか人並みに暮らせるようになっていた。
そもそも成長すれば、涙など滅多に流さない。元々あまり体が強くなかったこともあり、汗をかく運動はなるべく控えれば人前で体液を流す機会はなかった。
都会に出てきたシムは、精力的に活動した。
新しい作品を何枚も描き、コンテストや展示会に応募した。大手から街角の小さな画廊まで、いくつも回って作品を売り込んだ。
しかしそのどれもが芳しくない結果に終わっていた。
そのうえ仕事を探そうにも、肉体労働を避けてとなると職種は極端に限られる。絵を描く時間を捻出でき、汗を流さず、人見知りで資格もないシムでも勤まる仕事はなかった。
少し前までは、家の近くに店を構える雑貨屋の老主人が日に日に痩せていくシムを見かねてか、郵送物のラベル貼りという仕事をくれていた。荷物や封書を預かり、表裏書きをして切手を貼り、足の悪い店主の代わりに郵便屋へ持ち込む仕事だ。
実入りは少なかったが、お金を稼ぐ手段があるだけありがたかった。
その仕事も、老主人が雑貨屋を閉めてからはなくなった。
「すまないね、シム。田舎の娘夫婦のところへ引っ越すことになったんだよ」
「気にしないで。仕事なんて探せばいくらでもあるんだから」
最後まで申し訳無さそうに頭を下げる老婦人に、シムは無理やり口角を上げて笑ってみせた。
別れ際、今は閉じてしまった雑貨店とその前で微笑む老婦人を描いた絵をプレゼントしたら、泣きそうに歪んでいた皺だらけの顔がぱっと輝いたのをシムは昨日のことのように思い出すことができる。
「シム、あんたはきっとすごい画家になるよ。今はまだ、みんながあんたのすごさを見つけることができないでいるだけさ」
だから諦めないで、がんばって───。
汽車が出るぎりぎりまでシムの手を握ってくれていたぬくもりが、折れかけていた心を救ってくれた。
ブレイズに会ったのは、その一週間後のことだ。
いつものように飛び込みで画廊を訪れ、絵を見せる。
小さな丸メガネを大きな顔に掛けた小太りの画商は、シムの絵をいくつか手にとり眺めていた。
あまり芳しい反応がなく、通された事務所の椅子で小さくなっていたシムに、画商は言った。
「率直に言おう。わたしのところでこれを置くのは難しい。しかしきみを知り合いに紹介してやることはできる」
「本当ですか! 知り合い、というのは」
「あぁ、わたしと同じ画商だ。彼はこういった、その……不思議な絵を好んで扱うからね、運が良ければ買ってもらえるだろう」
シムは天にも昇る心地になった。自分の絵を買ってくれるかもしれない。絵で食べていくことができるかもしれない。
画商が言外に「変な絵」と評したことも気にならなかった。
シムは人見知りが激しく、路上での似顔絵描きやポストカードなど手に取りやすい価格で絵を売ることにちっとも向いていなかった。お客が来ると途端に声がつまり、冷や汗が出る。何度か試したが、その度にインナーシャツの背中がべっとり絵の具まみれになっているのを見て、みじめになってやめた。
いよいよこんな生活は続けられない。
しかしふつうに働くのにも、体質によるリスクがある。
それにシムは絵を描き続けていたかった。自分の一部のようになった、筆を握るという習慣を失いたくなかった。
丸メガネの画商が連絡を取ってくれ、先方とは町外れの喫茶店で会うことになった。
狭いながらテラス席があり、全体的に小ぢんまりとしているものの、そこかしこに店主のこだわりが感じられる店だ。外で飲食をする行為はシムには贅沢すぎて、上京してから一度も外食の店に入ったことがなかった。初めて入った都会の喫茶店が物珍しく、シムは念の為持ってきていたスケッチブックに鉛筆で写生をはじめた。
持ち歩きに便利なサイズの写生帳を膝にのせ、椅子に三角座りするシムはさぞかし変な客だっただろう。
店で一番安いコーヒーを店員が持ってきたことにも気付かず、シムは描画に夢中になった。
テラスへ出るドアを中心に据えた絵が完成したと思えるほど書き込み、シムはやっと息をつく。
作業中は呼吸を忘れてしまうこともある。酸欠気味に明滅する視界を深呼吸で落ち着かせていると、すぐ後ろに人の気配がした。
「夢中になって描いていたね」
「っ!?」
慌てて立ち上がって振り向いた先には、スーツの男がいた。
手元を覗くためだろう、長身を腰から折り曲げた姿勢を優雅に正し、呆然とするシムへにっこりと微笑む。
「わたしはブレイズ。ブレイズ・ワーズリーだ。きみがシムかな?」
「……ぁ、はい! そうです!」
「ふふ、固くならなくていい。覗き見をして悪かったね。座って」
「は、はい」
ブレイズはテーブルを回り込んでシムの正面の椅子へ腰掛けた。
片手を上げて店員へコーヒーを頼む仕草は自信に満ち溢れていて、品がある。
広げっぱなしだったスケッチブックと鉛筆を仕舞おうとするシムに、ブレイズは待ったをかけた。
「ちょっと待って。さっきの絵、もっとよく見せてくれる?」
「あ、は、はい……」
閉じたページを再び開いて渡すと、ブレイズは興味深そうにそれを眺める。
風景や人物を描くのはシムにとって息抜きで、作品にはあまり反映されない。それでもなにか描きたくて、手の爪がむずむず浮くような気分になることがあるので、スケッチブックは常に持ち歩いていた。リング綴じの部分に鉛筆をねじ込めば、これ一冊だけでどこででも絵を描くことができる。
ブレイズにコーヒーを持ってきた店員に、彼は声を掛けた。
二人して絵を覗き込まれ、シムの頬にじわじわと朱が差す。作品のほうはともかく、落書きのようなものをまじまじ見られるのは居心地が悪かった。
「ねぇシム。彼女がぜひこの絵を買い取りたいっていうんだけど、どうかな?」
俯いていたシムは、ブレイズと店員の間にあったやりとりをなにも聴いていなかった。
いきなりそう問われ、急いで顔を上げたはいいがぽかんとしてしまう。
「……え? でもそれは、本当にただの落書きで」
「シム、きみは画家だ。画家の描いたものはそれがチラシの裏のなぐり書きだって価値がつく。そうだろう?」
「は……はい……」
強い視線と共にそう言われてしまえば、口下手で弱気なシムは俯いて頷くことしかできなかった。
ブレイズはその間に店員となにごとか交渉し、絵を売ってしまった。
一枚破かれたスケッチブックは返却され、シムは請われるままに喫茶店の絵にサインを入れた。
「ほら、シム。これがきみの絵の価値だよ」
ブレイズはなんでもないことのようにテーブルへ金を置いて、自分のコーヒーに口をつける。硬貨と木のぶつかる音がしない。
恐る恐る目を上げたシムは、テーブルに紙幣が乗っていることに驚愕した。
「えっ……こ、こんなに? なにかの間違いじゃ」
「間違いなんかじゃないさ。彼女がきみの絵にこれだけ払いたいと言ったのだから。正当なきみの取り分だ」
「と、取り分……じゃあブレイズ、さんも、なにか利益を?」
「あぁ。仲介手数料としてこのコーヒーをタダにしてもらった。順当な利益だ」
湯気の立つカップを啜っていた唇が緩み、いたずらっぽそうにウィンクを飛ばされる。
シムは呆気にとられ、次には笑いがこみ上げてきた。
変な絵ばかり集める画商と聞いていたので、きっと気難しくて恐ろしい人物だと思いこんでいた。
しかしやってきたのは不思議だけれど、気さくで話しやすく、コーヒーを飲むのもいちいち様になる貴族のような男。
人見知りの激しいシムの強張った心も、一瞬で緩められてしまった。
「あの、ありがとうございます。受け取らせてもらいます」
紙幣を手に取ったシムに、ブレイズは鷹揚に頷く。
「そうしてくれ。テーブルにお金を出しっぱなしじゃ、チップと思われてしまうからね。では改めて、作品を見ようか」
「はい!」
シムはすっかり熱の引いたコーヒーを胃に流し込み、持参したキャンバスを引っ張り出す。
ブレイズはシムの作品をいたく気に入ってくれ、その日持っていった作品をすべて買い取ると言い出した。
「きみには実績がないから、あまり高値では買い取れないんだ。すまない……その代わり、今即金で支払おう」
「え、ほ、本当ですか! ありがたいです」
申し訳無さそうに眉を下げるブレイズとは対照的に、シムはテーブルに身を乗り出した。
日々なんとか食いつないではいたが、今借りている部屋はもうすでに家賃を二ヶ月も待ってもらっている。これ以上滞納すれば追い出すと、大家から何度か通告されていた。
絵を売った金がすぐに手に入るのなら、多少買い叩かれても文句などあるはずもない。
それにシムはこの短時間で、ブレイズのことをすっかり信用しはじめていた。
彼は作品に対するとき、嘘やごまかしを言わなかった。気遣いもお世辞もない、ただ感じたままの言葉を口にしてくれる。その姿勢に好感をもった。
ブレイズは尚も困った顔をして、もし予想より高値がついたらあとからさらに支払うつもりだと告げる。
「それに、他の作品もあるのなら買い取ろう。完成したものがこれだけってことはないだろう?」
「はい! 家にまだいっぱいあります!」
「よし。そちらは日を改めて見せてもらうとしよう」
ブレイズが差し出してきたのは、上質な紙片の名刺だった。
彼の名前と連絡先、ギャラリーの住所も書かれている。
「後日ここへきみの作品を展示する。見に来てくれてもいい。きみの連絡先を教えてもらえるかな」
「あ……すみません。ぼくの部屋には電話がないので、電話と郵便物はすべてここへ……」
シムは慌ててテーブルナプキンを掴み、アパートメントの大家の部屋番号を書いた。暗記してある電話番号も記す。
大家に迷惑をかけることになるため、電話も郵送もなるべく断っていたのだが、今は彼と連絡が途切れてしまうことだけは避けたかった。
「なるほど、下宿のようなものかな? では近いうちにまた連絡させてもらうよ」
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過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
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