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キザキ ケイ

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【ハッピーBL】

異世界課転移係の憂鬱

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マオは、自身が勤める多元宇宙対策本部 異世界課で、死した若者にチートを付与して異世界へ送る「転移係」の仕事をしている。
報われにくい地味な仕事のうえ、取引先のドタキャンで、ブラックな勤務に疲れ果てたマオは、隣の部署の派手な後輩モノベに絡まれてしまう。
華々しい経歴に美しい外見のモノベと、疲れた地味公務員のマオに接点はないはず。
急いでいると彼の手を振りほどいたマオを、モノベは意味深な視線で見送るのだった。

【キーワード】
ファンタジー / 公務員 / 社畜受け / 前世の因縁 / 異世界転生 / 異世界転移


◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆

 公務員は安泰という神話など今は昔。
 過剰な減点主義は鳴りを潜めたものの、それは当然ミスなどないという前提でより難易度の高い仕事を求められるようになったというだけの話で、高すぎるプレッシャーの下、生涯勤められる人材は稀だ。
 民間企業よりはマシだろうと責める向きもあるが、公務員の特別な立場は民間に任せられない特殊な仕事をしているという証左でもある。
 はなぶさ 真央まおが所属する「異世界課」もそのひとつだ。

「あーもーなんでこんなに希望者多いんだ! そんなに求人ないってのに!」
「落ち着いて。あと『転移者を求める異世界からの要請』のこと『求人』って呼ばないで」
「だってセンパイぃ……」

 いつも喜怒哀楽の激しい後輩がとうとう頭をかきむしりながら叫び声を上げたのを、マオは冷静に嗜める。
 彼の気持ちはわからないでもない。
 マオだって、できることなら今抱えている案件もこれから着手する書類もすべて放り出して今すぐ帰りたい。
 しかしそんなことはできない。
 案件が終わらなければ帰れず、毎日残業当たり前。
 お茶やコーヒーよりエナジードリンクを飲む頻度のほうが高い気がしている。
 それでもマオはいつだって合理的に考えてしまう。
 叫んでも暴れても仕事は減らない、と。

「ほら、少しでも進めましょう。案件は止まってくれませんから」
「うぅぅ……」

 後輩はしょんぼりと項垂れ、それでも再びデスクに向かってくれた。
 そんな痛ましい光景を横目に見つつ、マオも自身の仕事に向き直る。
 書類の束に埋もれるように光を発するディスプレイには、たくさんの人名、それから求人票のような文言が並ぶ。
 マオは手元の「異世界転移希望者」と、提出された「転移者を求める異世界」とを引き合わせる仕事をしている。
 かつて異世界は、地球から気まぐれにどんどん人を「誘拐」していた。
 そうして奪われた人的資源の価値は計り知れない。彼らは「召喚」と称して有望なものや若いものばかり好んで攫っていくため、ついに防衛策が講じられることになった。
 無許可の召喚は禁じられ、人類側から希望者を募り、転移者を求める世界と引き合わせる。
 勝手に取っていかないでね。そっちの希望とすり合わせしてあげるから。というわけだ。
 それこそがマオたちの従事する仕事。
 異世界への牽制、兼、異世界と地球人類のマッチングである。

 都内の地味な事務所に設置された、多元宇宙対策本部 異世界課 転移係。
 転移係と転生係で構成された異世界課の「地味なほう」と呼ばれることにもはや悔しさも感じなくなってしまった。
 きっと今はまだ元気な後輩だって、5年もここに勤めればマオと同じく死んだ魚のような目で淡々と仕事をこなせるようになるはずだ。
 もしくは、辞めてしまうか。
 マオはわずかに頭を振って余計な考えを追い出し、目前に集中した。
 案件は止まってくれないのだ。

 画面はリアルタイムで更新され続ける。
 もっともそれは、人名のほうのみ。
 異世界転移をしたい者は多いが、転移者を受け入れたい異世界は少ないという実情がある。
 しかし転移希望者はどんどん増えていくし、間を取り持つマオたちはなんとか各異世界に掛け合って受け入れてもらえるよう、日々駆けずり回っている。
 だが成果は芳しくない。
 転移希望者をどれだけ売り込んだところで、異世界側に「いらない」と言われてしまえばそれまでだ。
 おまけに転移は「転生」より制約が多く、受け入れ側もノーリスクとはいかない。
 そういった諸要因がボトルネックとなって、過剰供給状態がいつまでたっても改善されないのだった。
 今日もマッチング作業は進みそうにない。
 仕方なくマオは画面を切り替え、転移希望者の中で転移に適さないものを弾く作業を始めた。
 異世界転移は多くの場合、転移者の肉体や記憶が魂とセットで送信される。
 そのため、相手世界に損害を与える可能性が高い者や、高齢すぎる者は除外される。
 また病で死したのち異世界転移をしたがる者は、肉体の状態をリセットするか、肉体を切り離し魂と記憶のみで送るというパッケージングが必要になる。
 これがまた手間で、肉体に密接に紐づいた精神や記憶を損なわずに仕上げるにはそれなりの経験と作業時間が必要だ。こればかりは一年目の後輩には任せられない。
 今日も残業になりそうだ。
 声に出さず嘆息したマオのメールボックスに、不穏な通知音が響いた。

「う……っ」
「センパイ? どうしたんですか?」
「英くん?」

 顔色をなくしたマオに、後輩と係長が心配そうに声をかけてくる。
 マオは取り繕う余裕もなく、疲れた声で報告した。

「マッチング済みの異世界、転移希望者の受け入れ拒否、です」
「ひっ」
「うぁあ……」

 後輩と係長だけでなく、係全体から声にならないうめき声が上がる。
 このあとの苦労を想像したくなくて、マオは深々と吐息した。
 同僚たちの気遣わしい視線と、後輩の泣きそうな顔から逃れるように部屋を出る。
 一歩目からもうよろめいてしまったが、なんとか持ち直して廊下を歩いた。
 なんの面白みもない薄汚れたビニル床の廊下にはちらほらと人がいるが、地味な部署所属の上に見た目も地味なマオのことを気にするものは誰もいない。
 おざなりな会釈をして通り過ぎていくだけだ。
 もっとも、今誰かにこの青い顔を指摘されるのも億劫だったので、今は自分の影の薄さがありがたい。

 すべて調整済みで、あとは転移者を送るだけの段階だった異世界からドタキャンの連絡があってから、マオたちは手を尽くして予定通りに事を進めようとした。
 しかし先方は首を横に振るばかりで、ついには直通ホットラインを取ってくれなくなった。
 こうなれば担当者であるマオが直接出向いて交渉するしかない。
 そんな段階はもう何ヶ月も前に終わったと思っていたのに、直前になってこれだ。信じられない。社会人同士の交渉事をなんだと思っているのだろう。これだから文明文化常識すべて違う異世界なんてものは。
 考え込むと無限に悪意が渦巻いてしまいそうで、マオは慌てて首を振って沸き起こる罵詈雑言をかき消した。
 その拍子にまたふらついてしまう。いや、むしろ壁に寄りかかりたい。冷たい壁に頭を付けて冷静にならないと先方を怒鳴りつけてしまいそうで……。

「おっと」

 踏ん張ることをしなかったマオを受け止めたのは、固くて冷たい壁ではなかった。
 ざらりとした触感と生あたたかい人肌。それから妙に耳に残る男の声。

「ぁ……」
「細っ。なんだ、転移係か」

 まるで受け止めてやって損したとでも言いそうに億劫な声を出した男は、言葉と裏腹にマオを放り出すことなくしっかりと立たせてくれた。

「すみません……」
「フラフラして、あぶないだろ。壁でスーツの摺りおろしでもするつもりか? それなら他のとこでやってくれ。ここはやめろ」
「はぁ。……あー……」

 男が指さしたのは、異世界課が他メディアに取り上げられたことを称える記事群の貼られた掲示板だった。
 といっても転移係のことはほんのわずか触れられるただけ。
 ほとんどは、輝かしい実績のある「転生係」を褒め称える内容だ。
 公的機関の取材記事なのになぜかインタビュー形式で書かれたそれは、明らかに業務内容ではなくこの男が目当てとわかる。役所にはあまりにも似つかわしくない金髪金眼男の輝かしい笑顔の写真が掲載されている。
 その写真と同じ顔が横に立っている。
 特に低身長ではないはずのマオが見上げる体格の男は、おとなり転生係のエース、物部ものべ ゆう
 公務員なのに柄のあるシャツに、妙に洒落たスーツを長い手足で着こなし、華美で長い髪を染めず固めずとも誰にも文句を言われないらしい彼は、顔立ちから存在感からなにもかも派手だ。
 マオが最も苦手とする同僚。まさか彼につかまってしまうなんて。
 モノベはマオを不遜に見下ろし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「『転移』にはそれほど仕事がないのに、なんでアンタはいつも不健康そうなんだ。ちゃんと食事はしてるのか? フラつくだけじゃなく肩も、木の枝を受け止めたかと思うくらい肉がついてなかったぞ」
「……はぁ」
「覇気がないな。この仕事は世界を救うこともあるんだから、その先陣たる俺たちが頑張らないでどうするんだ。ちょうどいい時間だし、昼食にしながら異世界課の今後について話そう。アンタの考えを聞かせろ」
「いえ……急いでるので、これで」
「おいっ」

 モノベの横を通り過ぎようと足を踏み出して再びふらついたマオを、大きな手のひらが抱き止める。

「アンタなぁ……」

 体温があまりにも生々しく、マオは慌ててそれから逃れた。

「すみません、本当に……急いでるので」

 あまりにも露骨な態度だったと後悔したが、どうにもできない。
 何度も会釈しながら距離を取り、モノベの声を振り切って廊下を歩き去る。
 苦手な相手だからといって酷い態度をとってしまった。
 不得意な愛想笑いも、ぎこちない躱し文句も思いつかなかった。
 なにせ今は余裕がなさすぎる。係の違う同僚に関わっている場合でないことは確かだ。
 心のなかで言い訳しつつ、これから向かう異世界の気候や、転移の際の注意事項を思い出しながら、マオは足を早めた。



 廊下にぽつんと取り残された男は、伸ばしかけた手を握りしめる。
 ユウがどんなに彼を気遣っても、袖にされてしまうのはいつものことだ。心配を口にしても、何気なく装って食事に誘っても、応じてくれたことはない。
 服越しに触れた体は細く軽く、体温が低かった。
 ユウの元にはいくらでも人が集まるし、ユウがにこやかに微笑みかけて好意的になってくれない者はいない。そのはずだった。

「なぜ……」

 まともに視線の合わない、ユウが話しかけなければ声を聞くこともない、ただの地味な隣部署の同僚。
 そんな男がなぜこんなにも気になるのか。
 過去一度だけ彼の笑顔を見た。過去一度だけ触れた彼の肌は恐ろしいほど冷たかった。

「やはり、彼なのか」

 振り切るように踵を返して立ち去ったものの、ユウの頭から地味な同僚の青白い顔が離れることはなかった。




 多元宇宙対策本部内の別棟、業務用異世界転移門前。
 必要書類ばかり多い煩雑な移動申請を済ませ、それが受理され門が起動するまでの間、マオはぼうっと中空を見つめていた。
 さっきのモノベの何か言いたそうな顔が頭から離れない。
 経験上、こういうときに無理して考えないようにすると、疲れ果てて帰宅した頃などに罪悪感とともにまた思い出して苦しくなって食欲が消えて眠れなくなって……という最悪の連鎖に陥る。
 なのでマオはあえて苦手に真っ向から挑むことにした。門が起動するまでの間だけ。

 モノベは鳴り物入りで異世界課へやってきた。
 曰く、本物の「異世界転生者」であり、しかも異世界で数々の輝かしい功績を残した「真の英雄」の魂の持ち主であるとのこと。
 なんでも、絵に書いたようなファンタジー世界で悪の親玉を倒し、美しいお姫様と結婚して一国の王をつとめ上げた傑物だとか。
 その実績を買われ、英雄時代の記憶を保全されたままここで働いているらしい。
 勝ち組ってやつなんだろう。
 マオとはかけ離れた、恵まれた生い立ちだ。
 実はマオにも前職の記憶はある。
 しかし彼のように輝かしい人生では決してなかった。

 前世において、幼かった頃のことはあまり覚えていない。
 いつのまにか大人になったと判断される年齢まで生きて、望んで就いた職業ではなかったけれど働き始め、マオなりに一生懸命勤めて、いつしかそれなりの地位に押し上げられていた。
 前職はブラックを通り越してダークと言えるほどの激務で、上も下もどんどんいなくなった。
 そんな中で体だけは丈夫だったマオは、無理やりのように最高位の責任者に就任させられた。
 下々に指示を出すことが主な仕事となっても激務は変わらず、逃げ出したくとも当時のマオはこれ以外の生き方を知らなかった。自分より優秀な部下がどんどん心身を壊していく中で責任を負い続けることは困難を極めた。
 それでも当時のマオは、自分が追い詰められるほどにつらいという気持ちを自覚していなかった。
 ある日、商売敵がマオの元まで直接乗り込んできて、言い合いの末、マオはこれまでのすべての責任を取らされることとなった。
 抵抗はしなかった。
 そうして終えた前の生の記憶を、なんの因果かそのまま持って、マオは今でも激務の仕事ばかりやっている。

「はぁ……フレックスタイム制で在宅勤務可で給料そこそこで飲み会がなくて有給取り放題のとこに転職したい……」

 もはや鳴き声と言われそうなほど口から勝手に出てしまう独り言をぽつりとこぼし、マオは虚しさに深く嘆息した。
 前職でマオは、ただただ、好きなだけ眠りたいと思いながら生を終えた。
 今の仕事はストレスフルだし理不尽なことも多いが、激務というほどではなく残業もそれほどない。睡眠時間は確保できている。福利厚生もしっかりしていて、有給もとれないことはない。
 しかしもはや疲れ切ったマオにとっては、どんな仕事も苦行なことに違いはなかった。

「ハナブサさーん。三番ゲートへどうぞ~」
「はい」

 やけに重く感じる腰をなんとか持ち上げ、ゲートへ向かう。
 いつもならこの、まるで病院の待合室のような呼びかけはどうにかならないものか、などと考えるところなのに、今日は僅かな心の余裕すらなかった。

「う……」

 ゲートをくぐる瞬間、腹をかき回されるような不快感に耐える。
 異世界へ移動する際の浮遊感・不快感は人によって程度が異なるらしいが、マオは弱い方だと思う。
 だからなるべく、取引先に直接赴いて交渉するような場面は避けているというのに、今回のような不測の事態は特段珍しくないので悩ましい。
 降り立った世界は、だだっ広い草原にゲートだけがぽつんとあった。
 振り向くと、マオは草地に埋もれかけたレンガ造りの円陣のようなものから出てきたとわかる。
 立った状態でゲートをくぐり、横向きになって出てきたのだから船酔いのような症状が出るのも当然だ。
 気持ち悪い腹を抱えて、結果如何によってはこの世界は即ブラックリストに入れてやると毒づきながら、マオは足を引きずるように歩き出した。
 目指すは草原の先、王城だ。
 転移ゲートを交渉場所の近くに設置していないところも大いにマイナスだ、と思う。

 結論から言って、話は結局まとまらず、相手の態度は強硬なまま物別れに終わった。
 異世界転移者受け入れを了承してくれた若い魔法使いがいない。代わりに席についたのは中年の偉そうな男と、顔中髭に覆われ古めかしい杖を持った老人。
 この段階でマオは、諦め度を半分から90パーセントまで引き上げていた。
 だからといって、わざわざ出向いた以上諦めず交渉せねばならない。
 口端を無理やり上げて微笑み、相手を翻意させる話術を展開した────しかし。

「どうしても受け入れていただけませんか……」
「結論はとうに出ている。転移者は不要だ」
「ですがこちらで手配した転移予定者の魂は、この世界に順応できるよう調整済みでして……気圧や重力への対応のほか、言語既習得チート機能や、そちらからの要請に応じた魔法の適正追加など、」
「くどい! 不要と言ったら不要だ!」

 高圧的な態度はいかにも普段から他者に命令し慣れているもので、マオはすでに愛想笑いを取り繕うことすらできなくなっていた。
 均衡を失いつつある世界を救うため、ある程度の分別のつく年齢まで育った異世界の魂を召喚し、平和を取り戻そうとした若い魔法使いたちとマオは、長いこと調整を続けていた。
 それをいかがわしい企みと断じ、彼らを追放して異世界の使者たるマオまで追い出そうとしているのは、無理解な老害たち。
 絵に書いたような崩壊直前の世界の様相だ。
 疲れと落胆とその他もろもろの感情を制御しきれず、マオはついくすくすと笑ってしまった。

「貴様、何がおかしい」

 おそらくこの国の王であろう男(自己紹介されなかった)は不快そうにマオを見下ろす。
 その虚勢も、世界が壊れれば消えるのだと思うと、余計に笑いが止まらなくなってしまった。
 一人で笑い続けるマオを、王と老魔法使いが不気味に見つめる。

「ははは……はぁ。わかりました、もう結構です。転移者は不要、前任者もすでに退職済み……ということですね」
「やっとわかったか。早く帰れ」
「それでは失礼します。……あぁそうだ」

 持参した書類をケースに仕舞い終え立ち上がったマオは、やや芝居がかった仕草で振り向いた。

「前任の方と我々が交わした契約書は、ご覧になりましたか?」
「契約書? いや」
「そうですか、だからそんな態度でいられたのですね。契約書はもう効力を発揮しております。もちろん契約解除に関する規定に則り、そちらの不当行為として相応のペナルティがございます。これは担当者が退職していても関係ありません。契約は、世界と世界の間で交わされるものですから」

 二人の男の顔色が目に見えて悪くなり、マオは再びにっこりと愛想笑いを浮かべられるようになった。

「せいぜい早く前任の方を探して契約書を見せてもらうことです。まぁそれも心の準備くらいの意味しかありませんが。あぁ、彼らは前途有望な魔法使いですから、こんな壊れかけの世界などすでに捨ててしまったかもしれませんね。もし会うことができたら、我々異世界課を頼るよう言伝をお願いします。では」

 何かを喚いている者たちを置いて城を出る。
 追手を掛けられたので、建物を出たところで手元の携帯転移ゲートを起動した。
 持ち運びができる優れものだが、これは多元宇宙対策本部に帰るときにしか使えず、転移酔いが半端ないのでなるべく使いたくない代物でもあった。
 目の前の景色が一瞬で切り替わり、鬼気迫る兵士たちの群れが消え、見慣れた白い床の部屋に降り立つ。

「……っ、う、ぅ……」

 気持ち悪さが最高潮だ。
 とにかく吐かないようにヨロヨロ移動する。
 顔見知りのゲート管理員が心配そうにマオを見ているのがわかったが、追いかけては来なかった。彼もワンオペで、仕事中に持ち場を離れられないつらい立場だ。

「はぁ……言い過ぎたかな……それに、あの魂になんて説明すれば……」

 どうせ出禁にする世界だからと捨て台詞を吐いたことを、マオは早くも後悔していた。
 とはいえすべて事実の羅列で、脅しでもなんでもなかったのだが、あの異世界の重鎮たちはそうは思わなかっただろう。
 上長経由で文句の二三つけられるかもしれない。どうせ出禁だが。
 それより気が重いのは、調整済みの魂への対応だ。
 日本で若くして亡くなり、望んでいた異世界転移を心待ちにしていた純朴な青年。
 望む全てではないが特殊能力チートも付与して、いざ転移というこんなときに。
 調整済みの魂は、元の世界の輪廻に戻してやれない。
 このままではあの魂は、瑕疵のある魂として凍結処理され倉庫にしまい込まれる。
 死ぬことも消えることも、まして生き返ることなど到底できず、いじくられた魂を受け入れてくれる世界が現れるまで眠りにつく。
 廃棄処分にならないだけ救いだなどという建前で納得できるはずがない。

「ぐ、ぅ……」

 転移酔いに加えて頭痛までしてきた。
 思わず廊下の壁に寄りかかり荒い呼吸を繰り返す。
 マオの体はいつからか、短時間に激しいストレスを受けすぎると、こうして機能不全に陥るようになってしまった。
 そうだ、有給を取ろう。旅行でもしよう。一人で気ままに温泉地でも訪れて、気持ちいい湯に全身浸ってストレスをすべて洗い流そう。そうでもしなければこの心身は癒やされない。係長も課長も今回ばかりは同情してくれるはず。
 そう奮い立たせでもしなければ、仕事場に帰る前に足が崩折れてしまいそうだ。

「っ……!」
「おっと」

 引っかかるところなどないはずの床で躓き、前のめりに倒れかけたマオを、誰かが受け止めた。
 なんだか既視感のあるシーンだ。

「おい、いくらなんでも顔色が悪すぎる。こっちこい」
「ぁ……」

 抱えられたまま引っ張り込まれたのは小会議室だった。
 使われていない部屋は消灯されているが、ブラインドから差し込む光のおかげでそれほど暗くはない。
 マオを抱えながら彼は片手で椅子を引っ張り、長椅子のように並べてくれた。
 抵抗せずにいると、そっと身を横たえられる。
 見上げた顔は難しそうに顰められていて、こんな彼は見たことがないと思ったし、そんな表情でも顔がいいと絵になるんだな、とも思った。

「どこか痛いのか。吐き気は」
「だい、じょぶです……」
「大丈夫に見えないから言ってる。医務室で何か薬もらってくるか……」
「いい、です。薬は、きかないから」

 厳しい表情に怒りまで混じってしまい、マオは弱々しく苦笑した。
 さっきは嫌味を言っていた相手にずいぶんとお優しいことだ。

「ありがとう、ございます、モノベさん」
「……」
「しばらく置いといてもらえれば、治まりますから」

 だから仕事に戻れと言いたかったのに、モノベはなぜか出ていくことはせず、マオの近くに椅子を引いてきて座った。
 まさかこのまま見守るつもりだろうか。

「……あの」
「アンタの」

 言葉が被ってしまい、マオは視線で先を譲った。

「……アンタの同僚の、転移係のやつから事情を聞いた。受け入れはどうなった」

 おや、と思う。
 隣の係のモノベにマオの仕事は関係ないはずなのに、気になるのだろうか。

「受け入れ拒否のまま終わりました。彼らはどうしても世界を滅ぼしたいようです」
「……そうか。各世界にはそれぞれの考えがあるし、俺たちにはどうにもできないこともある」
「そう、ですね。でも魂には、そんなこと関係ありません。彼は転移を望み、世界を救う使命も、承諾してくれました。それなのに……」
「転移予定だった魂は転生係で引き取る」

 マオはぽかんとモノベを見上げた。
 転移予定の魂はあの世界のためにカスタマイズされているので、そのまま転生させることはできないが、付与されたチートなどを洗い流せばまだ転生に耐えうると判断された。チートを失うときに記憶もなくしてしまうが、本人たましいは了承している。あとは書類上の手続きをすれば転生係の流通ルートに乗せられ、どこかの世界に新しく生まれることになる。
 モノベは淡々とそう告げた。

「事後処理はこちらでも請け負う。アンタは問題の世界の処理だけすればいい」
「……そうですか……ありがと、う……」

 マオは咄嗟に目元を覆う。
 あの魂の行く末を考えたくなかった。申し訳が立たなかった。それがいらぬ心配だったとわかっただけでこんなにも赦された気持ちになる。

「あの子を、二度死なせることには、ならないんですね……」

 涙ぐむ目元は隠せても、語尾が震えてしまった。モノベには伝わってしまっただろう。
 彼の気配は動かない。てっきりこのまま泣かせてくれるかと思っていたのに、なぜかマオは腕を取られ、モノベの顔を至近距離で見つめることになった。

「え?」

 近すぎる男の顔。ふに、と触れ合ったのはやわらかい皮膚。
 マオはモノベにキスされていた。

「……あの」
「嫌だったか」
「いや、とかではないですけど、なんですか?」
「ずっとこうしたかった。今気づいた」

 モノベは堂々とそう言い放った。
 唐突だし、意味不明だ。なぜ彼が男にキスするのか。ずっとしたかったとは。ろくに接点もない人間にそんなこと思うのだろうか。
 疑問が顔に出まくっていたのだろう。モノベが口を開く。

「アンタも気づいているんじゃないのか」
「え……」
「赤い月が昇る世界。人間と対立する魔人たちの王。……アンタは魔王だ」
「……」
「アンタを倒したのは、俺だ。覚えていないか」

 勇者。
 もちろん覚えているに決まってる。忘れられるわけがない。
 無惨に殺されていった部下たち。
 彼らと同じ運命を辿った自分。
 あのとき感じた様々な感情の生々しさは薄れてしまったが、記憶はちっとも風化しない。

「なるほど、だから妙につっかかってきてたんですね。納得しました」
「記憶があるのか」
「ありますよ。この記憶のために転移課に配属されたんです。魔王にまで上り詰めた邪悪な存在を、下手に生まれ変わらせて第二の魔王になっては困るという上の意向です」
「そういうことか……」

 モノベのほうも得心がいったらしい。
 前世の記憶について他者に尋ねるのはハラスメントだとされているから、誰も聞きまわったりしないが、異世界課所属の人間のいくらかは前世持ちだと推測される。
 それにしても、魔王だったり勇者だったりしたものはマオとモノベくらいなものだろう。

「覚えているのなら、わかるな」

 なぜかモノベは再び顔を近づけてきた。
 マオは慌てて手を突っ張って、男の接近を阻止する。

「え、ちょっと、なんなんですか」
「なぜ拒む」
「いや意味分かんないからですよ。なんでキスなんですか」
「前は拒まれなかった」
「前って……あ」

 彼が言っているのは前世のことだ。
 勇者との死闘に敗れた魔王軍は一体残らず殺され、魔人の国は人間に統治されることになった。
 と、公にはそう発表され、実際は秘密裏に、瀕死の魔王が人間の国へと運び込まれていた。
 一般魔人と比べるべくもないほどの膨大な魔力を有する魔王を飼い殺しにして、あらゆる実験に魔力を使うためだった。
 マオは抵抗しなかった。
 人間たちは魔王を生け捕りにできたと大喜びしているが、マオは知っている。勇者の刃が自身を貫いたときに致命傷を負っていて、この身は数ヶ月ともたないことを。
 どうせ魔人たちにも酷使されてきた体だ、いまさら電池扱いくらい別に構わないだろうと思った。
 思いがけない余生を得たが、もっと思いがけないことがあった。
 電池の魔王を管理する役目を負ったのは、勇者だったのだ。

「あれは、あの頃の接触はなんというか、生命維持の意味合いが強かったのでは……?」

 日毎に弱っていくマオに、勇者は一日に一度か二度、口づけてきた。
 それはマオを死なせないため、他者の生命力を糧に生きる魔王に勇者の生命力を分け与える行為だったはずだ。
 結局マオは体の深部に負った魔力傷が原因で、二月ほど後に死んだ。
 想像していたよりはずっと穏やかな最期を迎えることができた。
 最後の日も勇者はマオの横たわるベッドの横に座り、無感情にマオを見下ろしていたはずだ。
 少なくとも、生命力の供給が必要ないのに口づけするような関係性ではなかった。

「アンタにとっては生命維持だけだったかもしれないが。俺にとってはそうじゃなかった」

 未だ転移酔いで力の入りにくい腕を取られたまま、遮るもののない唇をそっと食まれる。
 大切そうに触れてくるそれは記憶にある口づけと同じで、感情が流れ込んでくるかのような触れ合いはあの頃とは全く違う。

「ん、ぅ……モノベ、さ、」
「まお」

 なんて甘ったるい声を出すのだろう。
 魔王と呼ばれたのか、それとも名前を呼ばれたのだろうか。
 口を塞がれては訊ねることもできず、体調不良も相まって抵抗できないマオは、ただ暴力的で優しいキスを受け入れるしかなかった。
 しばらくすると満足したのか、モノベが体を離す。
 マオは不慣れな行為のために息があがってしまい、再び横になった。
 転移酔いによる不快感はだいぶ減ったが、それ以外の不可思議さで頭がいっぱいになっている。
 ふと見ると、モノベに見下ろされていた。
 あの頃を彷彿とさせるような感情の乏しい目なのに、視線で射抜かれているかのような圧迫を感じる。
 かつての彼も、こんな目でマオを見ていただろうか。マオが気づかなかっただけで。

「俺は戻る。アンタはまだ顔色悪いから、しばらく休んでから来い。魂の受け取りはしておく」
「あ、はい」
「それと、アンタが前世を覚えているなら、これからは容赦しない。覚悟しておけ」
「はい……?」

 指先まできれいな男の手が、思いがけず優しい仕草でマオの濡れた頬を拭っていった。

「俺はアンタを手に入れる。今度こそ」

 謎の宣言を残して去った元勇者を、元魔王は首を傾げて見送る。
 マオは全くわかっていなかった。
 モノベが前世からずっとマオに対して過剰なまでの執着を抱えていたなんてことは。
 それをこれからじっくり理解させられることになろうとは。
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うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

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