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【シリアスBL】
胡蝶之夢
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僕の背中には蝶の翅が生えている──
かつて友人同士だったクラスメイトとの思い出をどうしても忘れられなかった僕は、三ヶ月だけ彼の時間を欲しがった。それは翅に隠された最期の願い。
【キーワード】
クズ攻め / 健気受け / 虫の羽の生えた人間 / ファンタジー / 学生 / 性描写あり
◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆
僕の背中には、蝶の翅がある。
僕の両親はいたって普通の人間だった。
その二人から産まれた赤子の僕の背には、薄くて小さな翅が生えていたという。
皮膚の張り出したものかなにかで、そのうち消えるだろうと言われていたそれは、最初は薄い黄緑色でしわくちゃだった。それが僕の成長に呼応するように薄いまま面積を増やし、色がついてきて、僕が1歳になるころには蝶の翅だとわかる形状にまでなった。
僕が最も幸運だったのは、そんな異形の僕を両親が愛してくれたことだ。
二人にとって僕の翅は単なる個性の一部で、ことさら過保護になったりせず、また突き放されることもなかった。翅の成長を阻害しないように見守りながら、僕が翅をないがしろにしたり、嫌がって引き抜こうとしたりしたときは真剣に叱る。そして惜しみない愛情をくれた。
両親とも学者で、世界中を飛び回っているため、僕が中学生になった頃からなかなか会えなくはなっているけど、僕は彼らの愛情を疑ったことはない。僕より僕を愛してくれる存在だ。
僕はといえば、自分が嫌いだった。
なかなか筋肉がつかない薄い体、高校生になったくらいから成長速度が急に落ちたせいで身長も平均を下回る。ちっとも男らしくならなかった、大きな目と丸っこい顔でひどいときは小学生と間違われる。
瞳は、背中の翅と同じ、異形の色だ。
全体の薄い緑の上に、差し込まれるように濃い緑、青、黒が虹彩に散っている。平凡な顔立ちの上にある、明らかに普通ではないとわかる目。
黒の縁取りの中に空より濃い青、グラデーションのように緑の色が混ざった背中の翅に酷似した目が、嫌いだった。
背中の翅は布で覆って服を着れば隠せる。目だけは隠せなくて、どうしても見たくないものだった。
高校生になってからはカラーコンタクトを自分で買えるようになったので、外に行くときはいつも翅を隠し、コンタクトで目の色を変えて出かける。
中学生までは苦労した。
小学生のときは、僕は翅も目も隠していなかった。
両親の猫可愛がりを真に受けて、自分がどんな目で見られる存在か知らず、奔放に振る舞っていた。
多くはなかったけど友達はいたし、露骨に虐げられることもなかった。
中学校に上がってから状況は一変した。
小学校からずっと仲良くしていた──していると思っていた友人からの、理由のわからない拒絶。
それに合わせるように、他の友達も僕から離れていった。
体が成長するにつれて大きくなっていた背中の翅は服に収まらなくなっていて、中学に入学したときには背布を巻いていたけれど、体育のときの着替えやプールの授業では隠していなかった。
そして僕は初めて、自分が他の人間と相容れない存在で、「化け物」と呼ばれる存在だと知った。
異形に触れたくないのだろう、暴力を振るわれることはなかった。
それでも持ち物にいたずらをされたり、すれ違いざまに言葉を吐きかけられたり、物で押されて階段を落ちたりといったことは度々あった。
傷だらけの僕をみて、友達だと思っていた彼が僕を嘲笑うような目で見ているのを知っていた。
めったに帰ってこない両親にこんな状況が知られなかったのは本当によかったと思う。
ほぼ一人暮らし状態だった僕の様子を見に来てくれる叔母さんには、きつく口止めをした。
両親のどちらかが帰国するときには、彼女に化粧を習って見える部分の青アザや傷は隠した。笑顔でいるための練習も欠かさず行った。
「おかえり、父さん。母さん」
「ただいま! 元気だったかい? 困ったことはない?」
「ないよ、大丈夫」
僕は嘘をつくのがとても上手くなった。
高校は一生懸命勉強して、少し遠いけれど自分が気に入ったところに合格した。
高校生になったら、僕の翅と目は誰にも明かさず隠そうと決めていた。
背中の当て布は、醜い傷があるため見られたくないということにして、万が一のことを考えて保健室の先生にだけは事情を話した。
黒のカラーコンタクトはずっとつけていられるものを吟味した。派手な色のコンタクトレンズではないから、校則で咎められることもない。
これから僕は、普通の人間として振る舞って生きていく。そう決めていた。
想定外だったのは、彼も同じ高校に合格していた……ということだ。
クラスメイトとして彼の姿を見た時はさすがに目を疑った。
小学生からずっと同じ学校に通う幼馴染、森谷 遼。
電車で一時間近くかかるこの学校に、ご近所さんでもある遼がきているとは考えもしなかった。中学におしゃべりをできるような友達はいなかったので、他人の進学先は誰も知らない。
他にも僕のことを知っている人がいるんじゃないかと思ったけど、それだけは杞憂に終わってほっとした。
彼は無口なほうだし、同じクラスと言っても恐らく接触はしないだろうから、僕の秘密をすすんで暴露するとは思っていない。そう信じたかった。
実際、彼と僕が話すことはなく、普段は存在も意識しない距離感ができていった。
僕もやっと友達と呼べるような存在ができて、高校生活は穏やかに過ぎていく。
「なぁ、森谷ってお前と中学同じだったんだろ? 話したりしないのか?」
「同じだったけど接点なかったから」
「そうなのか~」
友達から彼について聞かれたことはあったけど、得意の嘘で躱せばそれ以上を追求されることはなかった。
ごくたまに、彼が僕を睨みつけていることがあるのは知っている。
普通の人間に溶け込むような僕のことが気に入らないんだろう。それでも僕の秘密を暴露したりはされなかったし、強い視線で射抜かれるのが怖くて、僕も彼との関わりを言うことはなかった。そういう意味合いの視線だったのだろう。
遼は高校生になってまた一段と背が伸び、精悍な顔立ちになって、勉強も運動もできたので、いつも周りには誰か人がいた。カノジョだと噂になる女の子の名前も毎回違って、意図的に避けている僕の耳にも入るほどとなると相当だ。
僕はクラスの中でも目立たない男子のグループに一員として受け入れられていたので、彼のモテっぷりに嫉妬する友人たちに適当に話を合わせた。
「あーあ、俺にもあれくらい背丈があったらなぁ。そう思わないか?」
「俺たちのモテなさは身長だけの問題ではないかと」
「久野は女子に話しかける時点で無理じゃん」
「冷たいなぁ友よ……」
自分のモテなさを大げさに嘆く友人の一人、久野に諦めろと言って肩を叩く。
そんな僕に久野がわざとのしかかってきて、僕は机に突っ伏して潰れた。
じゃれ合いがうるさくなったところで、もうひとりの友人である新井田が久野を引っ剥がしてくれる。そして三人で笑う。
これが僕の日常だった。
僕たちは高校3年生になった。
すっかり成長を諦めた僕の身長は1年の頃からほとんど変わっていない。
そのかわり、背中の翅は成長を止めることはなく、中学卒業のころは背中を覆う程度しかなかったものが、今では膝裏に付きそうなほどの長さとなっていた。上は僕の頭を越すほどの高さになるので、広げて寝るとシーツ代わりにできそうなほどの面積。
最近は背布に仕舞うのも一苦労で、背中がいつも窮屈で息苦しい。忌々しいだけの存在だ。
コンタクトで覆えば済む瞳と違って、翅は隠しようもない僕の異形の証拠だ。
何度も引きちぎろうと試したけれど、どうしても激痛に耐えることができなくてそのままにしている。痛みに耐えて翅を裂いても、いつのまにか元通りになるので引っこ抜いても同じ結果になるかもしれない。
しかし3年生に進級してから、翅にはある変化が起きていた。
そして同じ頃から、俺には確信めいた予感があった。
今年が、最後の年だと。
冬休みが終わった始業式の日。
僕はこっそりと遼を校舎裏に呼び出していた。
ここは日が当たらなくてじめじめしているので、人はほとんど来ない。目論見通り僕たち以外に人はいなかった。
「こんなところに呼び出して、何の用だ」
「あ……ごめんね。すぐ済むから」
久しぶりに正面から顔を見た遼は、とても整った容姿に成長していた。たまに横顔を盗み見るくらいだったので、暗い校舎裏でも光が差しているような錯覚すら覚える。
でも僕に向けられる目はとても冷たくて、苛立っているようだった。
それでもこれだけは後悔したくなくて、僕は意を決して口を開く。
「遼くん。卒業までの三ヶ月だけ、君の時間を僕にください」
「……はぁ?」
遼の目が更に眇められ、訝しげな表情に変わる。
変なことを言っているのは僕だって自覚していたけど、これだけは譲りたくなくて勇気を振り絞る。
「恋人にしてほしいわけじゃないんだ。ただ、昔みたいにふつうに話したり、一緒に出かけたりしたいなって……」
「……」
「だ、だめ……だよね、気持ち悪いよね、こんな……」
「昔みたいに、か」
「──えっ?」
「友達みたいにすればいいんだろ。いいよ」
自分から言いだしたことなのに、OKを貰えると思っていなくてしばし呆然としてしまう。
ずっと、遼には嫌われてしまったのだと思っていた。
最初は避けられていると思わず、声をかけたり放課後帰り道を誘ったりしていたが、彼が僕と目を合わせることはなかった。
あんなに仲良くしていたのになぜ、と思わないでもなかったが、それから誰も僕に話しかけたりしなくなったのをみて、仲良くできていたと思っていたのは自分だけだったことに嫌でも気付かされた。
彼らは、虫の翅が生えた異形のクラスメイトに、ただ善意で構ってくれていただけなんだと──。
もしかしたら、先生や親からなにか言われていたのかもしれない。
彼らを友達だと思うほうがおこがましかったんだと。
それからはずっと諦めて生きてきた。
高校でできた数少ない友達も、心の底から信じることはもうできなかった。きっと俺の本当の姿を見たら、離れていってしまう。
距離を取られるだけならまだ良い。気持ち悪いとか、化け物だとか、彼らの口からそんなことを言われたらと思うと……心が凍ってなにも考えられなくなりそうだった。
──そうか。僕があまりにも可哀想だから、付き合ってくれようとしているんだ。
中学生のころから六年弱、遼の顔を真っ直ぐ見たことはなかった。だから僕の中の彼はいつまでたっても昔のままで、僕よりも頭一つ分背の高い彼は、なんだか別人みたいだった。
そういえばいつの間にか声変わりもしている。こんなふうに話したのも六年ぶりだ。
ずっと同じ場所にいたのにな……。
「で、友達としてお前は俺と何したいんだ?」
「えっ? えーと……じゃあ、これから一緒に帰らない?」
「そんなことでいいのか? 行くぞ」
「う、うん!」
教室に鞄を取りに行って、そのまま一緒に家路をたどる。
横を歩きながら大した会話はできなくて、冬休みの宿題が思ったより多かったとか、明日の授業のこととか、そんな他愛もない話題をぽつぽつと話すだけ。
足の長さが違う彼についていくのにも必死だ。
それでも今まで一言も会話なんてなかったんだから、僕にとっては天変地異みたいなものだった。
これからずっと、昔みたいに友達に戻れたらよかった。
でもこれは僕のわがままで遼に強いている関係で、卒業と同時に消える。
もしかしたらそれまで保たないかもしれない。
いつから、なんてわからないけど、僕は遼のことが好きだった。
周りにいた他の誰より、一緒にいると胸がどきどきして、ずっと一緒にいられたらと思った。彼が別の友達と仲良くしているのを見ると気分が悪くなって、でも彼が僕に気づいて手を差し伸べてくれるところっと気持ちが晴れる。
遼が一言も僕に話してくれなくなったあの日、僕は心の底の方で蹲っているこの気持ちが恋だったと気がついた。
気がつくと同時に失恋したんだ。
想いが日の目を浴びることがなくても、心に秘めておければよかった。でも現実はもっと過酷だった。僕は彼の近くにいる権利すらいつのまにか失ってしまったのだから。
あの睨みつけられる視線が怖くて、遼を見ることさえ叶わなくなった。
僕が知る彼の六年間は、いつも人づて。
昔は誰より僕が遼のことを知っていたのに。
あの恋心が、今はどこに眠っているのか僕にはもうわからない。
心の奥に押し込めて、二度と出てこられないようにしてしまったものだから。
でも、少しだけでもいい、この三ヶ月で彼の今を知りたかった。
次の日から、遼は僕を友人のひとりとして扱い始めた。
いきなり親しげに接し始めた僕たちに、クラスメイトはみんな驚いていたようだった。
「なぁ、お前と森谷どうしたんだ? いきなり仲良くなってねえ?」
「えっと……た、たまたま話す機会があって。そしたら意外と話が合うなって……それで」
「ふーん? でもま、卒業までの思い出づくりに友達が増えるってのもいいよな」
明るく解釈してくれた久野に、新井田が頷いて同意した。
僕は彼らに嘘をついたことで罪悪感でいっぱいだったけど、「昔は仲が良かった」なんて言ったらもっと根掘り葉掘り聞かれてしまうので嘘を言うしかない。
僕が肩を竦めて小さくなっていると、クラスメイトと雑談していた遼が僕の横まで歩いてきた。
「昼飯、一緒に食べようぜ」
「あ……う、うん。久野と新井田も……」
「俺たちは今日は弁当だから、気にしないで二人で行ってきな」
「今日の学食はカレーですよ」
なぜか自分は食べない学食のメニューを把握している新井田に苦笑して別れ、僕は遼と一緒に食堂に向かった。
一緒に食事を摂るのなんて、本当に何年ぶりだろう。
緊張して顔を上げられない僕とは対称的に、遼はなんのわだかまりもないようすで何くれとなく話しかけてくれた。
相槌を打つので精一杯な僕を見て、遼が、笑った。
「なんでそんなにガチガチになってんだよ。昔みたいにしたいって言い出したのはそっちだろ?」
「ご、ごめん……自然にできなくて」
「俺は構わないけど」
何がおかしかったのか、遼は僕を見て小さく笑い続けた。
彼の笑顔が見られたことが嬉しくて、まぶしくて、俯いて掻き込んだカレーの味なんてわからなかった。
それからも僕たちはそんな調子で、普通の友達同士のように接する日々が続いた。
それは遼のフォローがあったからこそで、僕は彼の一挙手一投足に緊張してしまってとても昔通り振る舞うなんてできていなかったけれど……。
そしてここ数日、彼は僕の家に遊びに来るようになった。
「おじさんとおばさん、帰ってこないのか?」
「うん、海外の学会とかフィールドワークとか忙しいみたい。三ヶ月に一回くらいは帰ってくるよ」
「ふーん……」
僕の部屋は昔とあまり変わっていない。
翅の成長に合わせて、ベッドを大きめのものに変えたくらいだ。
昔はよくお互いの家にお邪魔していたので、遼もなにか懐かしいものを感じているのかもしれない。
二人で本を読んだり、スマホで動画を見ながら笑い合ったりして過ごす。
さすがに一ヶ月毎日のように顔を合わせていれば、僕も多少は打ち解けて接することができるようになっていた。
緊張しているのは変わらなかったけれど。
そんなゆるやかな関係を崩すような言葉を遼が言い出すまで、僕は本当に幸せだった。
「なぁ、翅、見せてよ」
「……え──?」
ベッドに寝そべって本を読んでいた僕は、不意にかけられた遼の言葉に思考が停止してしまった。
「あの、翅はその、昔より大きくなってて」
「へぇ~あれ成長するのか。見せてよ」
「あ──」
からかっているのかと思った。
でも視線が絡んだ遼の目はいつもどおりで、雑談の延長で言っているだけのようだとわかる。意識してしまっているのは僕だけなんだ。
今は昔と同じ、友達同士なんだ。ひどいことは言われない、はず。
それに向こうから見せろというのを拒否するのも変な感じになってしまいそうで嫌だった。
僕は勇気を振り絞って遼に背を向け、シャツを脱いだ。
服を着ているあいだは常に巻いている背中の布を、ゆっくりと外す。
他人に翅を見せるのも、もう覚えていないくらい久しぶりのことだった。緊張で手に汗がにじむ。
布に押さえつけられてしわくちゃになってしまっている四枚の翅は、少し羽ばたかせることで皺が伸びていつも通りの姿になった。
僕の背丈くらいある、異形の蝶の翅。
昔よりずっと大きくなってしまった。彼はどう思うだろう。
背後の遼の反応が怖くて硬直してしまった僕をよそに、遼は僕の翅をしげしげと見つめているようだった。
そして突然、翅の付け根あたりに彼の手が触れた。
「ひぁ!?」
「おっと、悪い。てかすごい声」
触られるなんて思っていなくて、ものすごく裏返った変な声を出してしまった。羞恥で顔が真っ赤になっているのがわかる。
「い、いきなり触るから……!」
「ごめんごめん。じゃあ許可をとればいいんだな」
「えっ、いや……」
「触っても良い?」
振り向いた先にあった遼の表情は、いつも通りだった。
ふざけているわけでも、暴力を振るおうとしているわけでもない。口元に微笑を浮かべて、僕の返答をただ待っているだけだった。
それこそ、ここで拒否したら自意識過剰に思われそうだ。
「いい、よ」
これが間違っていたと気づいたのは、それからずっと後のことだった。
翅に触れるという名目で上着を脱いだはずなのに、気がつくと僕はなにも服を身につけていなかった。
しかも僕の体は横抱きにされて、胡座をかいた遼の足の上に乗せられている。
「そんな、とこ……触らないで……」
「触ってもいいって言ったのはお前だろ?」
「ひ、あぁっ……翅だけって……」
「そんなこと誰も言ってない」
お前が自分で許したんだと耳元で囁かれて、僕は肩を震わせた。
たしかに触って良いと言ったのは僕だ。でもこんなのって……。
遼の手が、僕の緩く立ち上がった中心を握っている。もう片方の手が背中を撫で、翅の付け根を擽るように触れてくる。
固くなり始めた僕のものに直接的な刺激が与えられて背が跳ねる。翅の付け根からじわりと痺れるような気持ち良さが上ってくる。
めったに触れることがない二つの場所を同時に責められて、気がおかしくなりそうになっていた。
「あ、だめ! 出る……でちゃ、うから、ぁっ!」
「ここ自分でシないのか?」
「しな、い、そんなの……あっ、だめ、ほんとに……!」
遼の手の中のものがびくびくと震えて、白濁したものが飛び散る。頭が真っ白になって、ぐったりとした体を遼が受け止めてくれた。
どうしてこんなことに……。
背中を触っていただけだった彼の手が、別の場所を撫で始めたのはいつからだったか。
「男の友達なら触りっこくらいする」と遼は言っていたけど、僕はこんなことは知らない。みんな本当にこんなことしているの……?
だらりと力が入らない体を、再び彼の手が這う。どこを触られても変な声が出てしまいそうで、僕は必死に遼の胸を押して体を離した。
「遼くん、だめだよ……っ」
「なんで?」
「こんなこと、普通じゃないよ……」
「普通だよ。お前が知らないだけだろ」
そう言われてぐっと言葉に詰まる。
たしかに僕は普通の男友達の関係というのを知らない。
久野や新井田はとても良いやつで、一緒にいると楽しいけど、どこか一線を引いてしまっている自覚はある。
懐に招き入れて、心のやわらかいところを傷つけられたら今度こそ立ち直れないと、そう思っているのは確かだ。
「気持ちよかっただろ? 友達なんだからこれくらいは普通だ」
「そ、……そうなのかな」
「そうだよ。俺たち友達だろ?」
顔を覗き込まれて目を合わせられた。
黒いコンタクトの向こうの、気持ち悪い色合いの瞳を透かし見られているような気になって、耐えられなくて目を逸らす。
こんなことをしていいのかと思う反面、僕は心の中で安堵している部分もあった。
彼は僕の、もはや本物の蝶と比較することすらできない巨大な翅を見ても、気味悪がったり傷つけたりしようとはしなかった。それどころか翅に触れてすらきた。
「本物の友達」には遠く及ばない偽物の関係だけど、少なくとも今の彼は僕を害する気持ちはないみたいだ。
遼に翅を拒絶されなかったことは、僕にとってはすごく意味のあることだと気付かされる。
(いまさら──遅いよ)
それから遼は毎日僕と一緒に帰ってきては、二日と置かず部屋に上がりこんできて僕の体に触れた。
特に翅の付け根を撫でられたり、翅の根本を軽く握られたりすると痛痒いようなぞわぞわとした感覚が全身に広がって、痺れたように手足が動かなくなる。そこを執拗に責められると、すぐに全身に力が入らなくなって、僕は遼の好きにされてしまっていた。
本当は、こういうことが嫌なら部屋に上げなければいいんだ。
でも「友達」を盾にされると、僕は途端にいやだと言えなくなってしまう。それはきっと遼も分かっていて、その言葉を口にするんだ。
「りょ、遼くんっ、そんなとこ、汚いよぉ……あぁっ」
「しっかり解しておかないと、後がつらいぞ」
今僕は一糸まとわぬ姿で、ベッドに俯せにされ、腰だけを高く掲げられるというとんでもない格好をさせられている。
一方遼は特に服装も乱れてはおらず、あろうことか僕の尻たぶを広げて最奥の孔に指を突き入れていた。
潤滑剤でも使っているのか、僕の後孔は遼の指をすでに二本も簡単に飲み込んでしまっている。ここ数日、彼は毎日飽きもせずここを指で解すことに執心していた。
こんなのは絶対に友達同士のスキンシップなんかじゃないと、頭ではわかっている。
本気で拒絶しようと後ろを振り返った時、遼の指が僕の中のしこりのような場所を強く押した。
「ひゃぅん! ひぁっ、そこ、そこだめぇっ……」
「気持ちいい、の間違いだろ? ここがいいんだよな」
「ぁあああっ! だめ、だってっ、んぁああっ!」
何度も中を擦られ、僕の中心は触られてもいないのにトロトロと涙を流している。こうされると僕はもう何も考えることができなくなってしまった。
「そろそろいいかな……」
いきなり指が引き抜かれ、ぞわぞわと悪寒に似た感触が背中を駆け上がる。翅が勝手にぶるりと震え、僕は翅が浮き上がらないように肩甲骨に力を入れて耐えた。
そろりと背中越しに後ろを伺い見ると、見たこともない彼の顔があった。
切羽詰ったような、余裕のない表情。
どうしてそんな顔をしているのか聞こうとた時、指を抜かれたばかりで緩んだ孔に熱くて大きいものが充てがわれた。
「ひっ!? りょうくん……?」
「悪ぃ……なるべく、痛くないようにするから」
「なに、……ぅぐ、うぁああっ!」
今までのものとは比べものにならない熱量のなにかが、僕の内臓を押し上げて侵入してきた。とてつもない圧迫感に呼吸が止まる。
遼の手が宥めるように翅の付け根を撫でてきて、突き刺さるような快感が全身に走った。
その一瞬の隙をついて、灼熱のものがずんっと奥まで押し込まれる。
「全部入ったぞ……大丈夫か?」
「ぅ、はぁっ……は……なに、どうして……」
見えなくても状況はわかる。彼のものが僕を後ろから貫いている……これは絶対に「触り合い」なんて生易しいものじゃない。
生理的に流れてきた涙を遼の唇が優しく拭って、そのまま口唇が合わせられた。
(なに、これ。僕、遼くんとキスしてる?)
角度を変えて何度もついばまれ、唇が離される。
とても近くにある遼の顔は上気していて、目元がゆるみ、満ち足りたような表情をしていた。
(──どうして──)
僕の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、彼の腰がゆっくりと動かされる。内臓をえぐり出されるような恐怖に体が強張ったが、内壁のしこりを固いものに抉られて思わず悲鳴のような声が漏れた。
僕はやめてと何度も頭を振って、抜いてくれるよう懇願したけれど、彼は僕の言葉なんてちっとも聞かずに徐々に動きを激しくしていく。
「やめて、りょうくん……あぁっ、だめ、んぁああ……」
「っは、今更、やめてなんてやれるか」
「あぁ、ああぅっ……りょ、く……」
「俺のものだ、やっと手に入れたんだ……」
全身をがくがくと揺さぶられ、翅の付け根の痺れる場所を愛撫され、時折思い出したように触れられる僕の芯は吐き出すものがもうなくなっている。
目の前が白く染まって、僕はもうなにも考えられなくなってしまった。
「タイムリミットが、早まってる」
部屋に置いた全身鏡の前に立って、僕はつぶやいた。
遼が帰ったあとの自室。
あのあと、僕は本気で音を上げるまで彼に何度も貫かれてイかされ続けた。気絶するように浅い睡眠を取って、目が覚めると蕩けるような笑顔の遼にキスの雨と共に迎えられた。
そんな仕草は、まるで映画の中で見るような恋人同士のそれに似ていた。
でも僕たちの関係は、恋人ではなかったはずだ。
僕はなんとか理由をこじつけて、彼を家から追い出した。
そのままだとまた甘い雰囲気を醸し出されそうだったから、というのもある。
僕の頭は完全に状況から取り残されていて、とにかく考える必要があると思ったからだ。
シャツの隙間から赤い痕が体中に散りばめられているのが見えて、僕は急いで来た服をまた脱いで鏡に立った。
二ヶ月前に確信に変わった予感が、腹の底を侵食するように再びじわじわと広がる。
卒業式くらいまでは保つと思っていた期限は、もうほとんど残っていなかった。
あれから、遼はなぜか恋人のように僕に接するようになった。
事あるごとに僕の体を労って、背中に触れる。服を着ている上から撫でられただけで肩が震えそうになって、耐えるのが大変だった。
久野や新井田にもなんだか生暖かい目で見られるようになった。
いっそ問い詰めてきてくれたほうがラクなのに、なにも言われないので僕も黙り込むしかない。
そんな僕の様子には全く頓着せずに、遼は場所を選ばず甘いオーラをびしばし放ってきて、僕は困惑するしかなかった。
それからは彼は毎日僕の部屋に上がり込むようになった。
今までどおり本を読んで過ごしたり、テレビや動画を見たり。そして気まぐれにベッドの上で体を重ねる。
最後までするときもあれば、しないときもあった。
もう僕は彼の好きなようにさせることにした。
その日は、季節外れのなごり雪が朝から舞っていた。
学校が休みの日も遼は僕の家にやってきて、追い出さなければ一日中僕にくっついている。
今日も雪の中、歩いて家まで来た遼を僕は部屋に招き入れた。
「あのね、遼くん」
「ん……なに?」
「今日は僕、服着たままがいいなって……」
顔中にキスをする彼を軽く押しのけて、僕は要望を出した。思ったより小さな声になってしまった。
遼は特に疑問に思わなかったようで、誘ってるの? なんて嬉しそうな声で言って、僕のシャツの裾から手だけを入れて体に触れてきた。
とにかくシャツと、背布を取られないようにしたかった。
体を弄られながら深い口付けを受ける。ぎこちないながらも僕も舌を動かして、反応を返す。
どうにかシャツを脱がされることなく、僕はベッドの上で荒い息を整えていた。
僕と自分の体を清めた遼が、汗ばんだ僕の額を指でくすぐってキスを落とす。部屋中に甘ったるい空気が充満していて、自分の部屋ではないみたいだった。
(やっぱり、もう……限界だ)
腕の力でベッドに体を起こして、遼を見据える。
いつになく強い目の僕に、彼は少し戸惑った顔をした。
いや、戸惑ったのは僕の目のせいかもしれない。今日は休日だから朝からカラーコンタクトをつけていなかった。
化け物の目で見据えられたら誰だって怯むだろう。
「遼くん、今日で僕たちの『友達関係』は解消しようと思う」
「……は?」
「本当は卒業式まで友達でいられたらと思ったけど、もういいから」
努めて突き放すような言い方をする。目は逸らさない。
僕は嘘をつくのが得意なのだから、こんなときも嘘でどうとでもできると、そう思った。
彼が凄まじい力で僕を押し倒すまでは。
「なんだよ、それ。はいそうですか、ってやめるわけないだろ」
「痛い、いたいよ遼くん……」
「それに友達ってなんだよ!? お前、友達なら誰にでもあんなことさせるのか!」
「そんなこと、するわけ、」
「じゃあなんでそんなこと急に言いだした!」
押さえつけられた肩がぎりぎりと痛む。真上にある遼の顔は怒りで歪んでいた。
正直、ここまで激昂されるとは思っていなかった。
多少揉めても、さらりと元の関係に戻れると思っていただけに、この展開は誤算だ。
痛みを堪えてなんとか嘘を紡ぐ。
「っ、元々、そういう話だったでしょ。期限付きで、昔のようにって……少し早いけど、僕らももう卒業だし」
「それはそっちが勝手に思ってることだ。俺はお前をオトモダチだなんて思ってない」
予想外の言葉に喉の奥で嫌な音がした。
やっぱり、昔みたいな「友達」に戻ることはできなかった。彼の中で僕は友達でもなんでもなくて、最後までそれは変わらなかったってことだ。
胸がずきずきと痛む。
ここ数日でどんどん激しくなっていた頭痛や腹痛が、体の奥から湧き出すように全身に広がった。
「っ! おい、なんだこれ!」
僕の肩を抑えつけていた遼の手の力がふっとなくなり、彼の焦った声がする。
自分の肩を見ると、そこにはなにもなかった。かさかさとした枯木のかけらのようなものが堆積しているだけ。
──とうとう始まった。
「遼くん……お別れだよ」
「……お別れ?」
「蝶の寿命は、約一ヶ月。僕は18年も生きた。もうとっくに、限界だったんだ」
高校に上がった頃から、翅の不調に気がついていた。
朝目覚めたときや、勉強漬けで無理をした日など、背中の翅の色に陰りが出て、皺が取れない日があった。
肩甲骨に力を入れて翅を伸ばせばそれは消えるが、今までになかったことだ。
その症状は日に日に顕著になっていった。
でも、体に無理をさせず、翅に気を配って力んでいれば今までどおりの見た目を装うことはできていた。
それすら難しくなってきたのが、高校3年の冬休みの頃だった。
「だから最期に、遼くんと仲直りがしたかった。昔みたいに名前で呼んで、一緒に遊んだりご飯を食べたり、したくて……」
「待て、それって……死ぬってこと、なのか」
僕は曖昧に笑みを返した。
所詮僕は化け物だ。同じような存在はいない。
この翅が萎れてきて、体中に痛みが出るようになって、その後どうなるのかは誰にもわからない。
遼と体を重ねるようになってから、その症状は加速してしまったようだった。
今日は、もはやどんなに全身に力を込めても、背で萎れきった翅を元通りにすることはできなかった。
だから服を脱ぐことは絶対にしたくなかった。
「僕はこうやって死ぬんだね……死体も残らなさそうだ。つくづく化け物だったんだなと思い知らされたよ」
「やめろ! そんなこと言うな! 待ってろ、今病院に連絡を」
「こんな症状の僕を病院で治せる、とでも?」
僕から手を離した遼が言葉に詰まる。
翅が萎れて死んでいくのなら、萎れた体は残るかもと思っていたけれど、それもどうやら無理そうだった。
泣きそうになっている彼の顔に指を触れたくて持ち上げた腕が、形を失って木屑のようなものに変わる。
体中が水分を急速に失っていく。
「遼くん。ずっと、好きだった。さいごに一緒にいられて、うれしかったよ」
「なんでそんなこと……ダメだ、死ぬなんて許さない!」
「ふふ、りょうくんらし、い、言い方、だ……ね」
「俺もお前のことが好きだ、豊! 死なないでくれ……!」
辛うじて原型の残っている頬を手で包み込まれて、触れるだけのキスが落とされる。
僕を、好き? ──遼くんが?
それはなんて、嬉しい言葉だろう。
それに、名前を。最期に名前を呼んでもらえた。
「それだけで、じゅうぶん……」
体中を苛む痛みはもうない。
ずっと存在に違和感があった背中の翅も、なにも感じなくなった。
彼の声も聞こえない。目から流れる涙も絶えた。
体がふわりと軽くなって、僕の意識はふっつりと無くなった。
人ひとり分の木屑のような塊がベッドの上に横たわっている。
遼は呆然と、さっきまで豊だったその塊を見下ろしていた。
触れても、なんの温度もない。
かさかさとして、遼の手で崩されるそれは、とても人間の成れの果てとは思えないものだった。
(最期まで自分を化け物だと言って、逝かせてしまったのか)
手に入れたと思い込み、傲慢に体を開かせ、彼の気持ちを聞くまで己の想いを告げることなく無理を強いていた。あげく永遠に失った。
後悔なんて手緩いものではない、過去の自分を殺したいほどの憎しみ。
昔のような友達に戻りたいと、彼は奇妙な期限を切ってきた。
思えばそのときからこうなることを予測していたに違いない。体に不調があったのだろう。
自分はそんな豊の心に寄り添うことも、彼の変化に気づくこともなかった。
そんな遼はさっきまで、豊の名前を呼んでやることすらしていなかったことに愕然とする。なにも与えられずただ奪われた豊の心はどんなに傷ついただろう。
(もう、なにもかも遅い……)
豊だったものを散らさないようにベッドから降りたが、足に力が入らず床に崩れ落ちる。
そのとき、残骸の中心の盛り上がった場所が、微かに動いた気がした。
「──!」
慌ててそこを注視する。
じっと見つめるなか、ちいさな欠片を転がり落としながら、何かが這い出てきた。
それは、蝶だった。
手のひらほどの大きさの、黒い蝶。
その翅は黒で縁取られ、空より濃い青からグラデーションのように緑色が混ざり合い、この世のものとは思えない美しさを誇っていた。
彼の色を纏った蝶。
「ゆ、たか……!」
遼は蝶を驚かせないように、木屑ごと蝶を手のひらに掬い上げる。
蝶は大人しく持ち上げられたかと思うと、ひらりとひとつだけ羽ばたいて、遼の親指の付け根にとまった。
遼にはそれが、豊そのものに見えた。
「豊、ごめん、ごめん……! 愛してる、豊……」
蝶はゆっくりと翅を動かして、じっと遼を見ているかのようだった。
震えを止めることができない遼の手の上に、蝶はずっとそのまま止まっていた。
こんなに長くおしゃべりをしたのは久しぶりで、さすがに喉が乾いた。
これで終わりとばかりにテーブルの上のお茶を呷ると、対面に座っていた男が感心したように仰け反って脚を組み直した。
「それが君たちの馴れ初めなの? 森谷くん控えめに言ってクズじゃない」
「うっ──返す言葉もございません」
自分の横に座っている人物がいつになく肩を狭めて小さくなっているのをみて、僕は堪えられない笑いを零した。
「で、原型の蝶に変態したあと豊くんはどうなったの?」
「はい。そのあと豊は蝶のまま、一週間くらいかけて糸のようなもので作った繭になったんです」
「繭? サナギじゃなくて?」
「蝶のサナギよりは、カイコの繭に似ていました。そのときの繭の一部は幻生研のラボに預けてありますよ」
「ふーむ。興味深いね。そもそも虫がベースの幻想生物ってのも初めて聞いたし」
二人に視線を向けられて、僕は首をすぼめて肩を竦める。
あのとき僕は、死ななかった。
遼が見ている前で僕は繭のような姿になり、しばらく部屋を繭糸だらけにしたという。
慌ててやってきた叔母さんと、海外から文字通り飛んで帰ってきた両親に遼は土下座して謝り、経緯を説明した……らしい。
僕は蝶になった自覚もないし、繭のときの記憶もないから、このへんは伝聞だ。
遼は時間が許す限り僕の部屋で繭を見守っていたという。
僕の両親に蹴り出されるように、高校の卒業式には出て、しぶしぶ大学に通い始めた。
それでもなんとか時間を見つけては、家に押しかけて僕の部屋の前に陣取った。さながら忠犬のようだったとか。
死んだと自分でも思っていた僕は、体感では一夜寝たくらいで……実際には半年後に、繭から出てきた。
繭から出た新しい体は、今までと大きく変わりはない。
変化があったのは背中の翅で、大きさが最大時の約半分になっていた。中学二年くらいのころのサイズだろうか。
これくらいだと、背布がなくてもぎりぎり服に畳んで納められるので、日常生活でかなり助かった。
その後、僕はここ「幻想生物研究所」に身柄を移されて、かなり大掛かりな検査を受けさせられた。
「幻生研」は国際的な組織で、世界中にいる僕のような不思議な生き物を調査したり、保護したりという活動をしている。僕の両親もこの研究所に籍があって、仕事の傍らずっと僕のことを調べて回ってくれていたとか。
日本にはほとんどいない僕のような存在は、世界規模で見ればそれなりの数いるというのは、ここに来て初めて知ったことだった。
どうせ死ぬからと大学受験もしていなかった僕は、そのままここで保護対象兼事務員として働いている。
遼も大学を卒業したあと、当然のようにここに就職してきた。現在は日本支部の非常勤研究員として、彼曰く「考えられないほどの安月給」で働いている。
「本当に謎だね。豊くんはなぜ一度死んで体を作り直したのか」
「いやぁ、僕にはさっぱり……」
「二度と豊があんなことにならないなら、俺はもう何でもいいです」
「こらこら研究者、思考を放棄するな」
人目も憚らず僕を抱き寄せようとする遼に、河本が苦笑した。
目の前に座っている男──河本は、幻生研日本支部の支部長を務めている。幻想生物という、未だオカルト認識を拭えない分野で、世界的な権威のある学者だ。
彼の妻と子供も幻想生物だと聞いたことがある。だから僕たちの馴れ初めに興味があったんだろう。職場内のカフェテリアに呼び出されたのは今朝の話だ。
彼に過去の話をすることに遼はかなり難色を示したけど、僕は隠すことなく当時の話をした。
自分たちの安月給ではめったに買えない超高級スイーツに釣られたのではない。
断じて違う。
僕のような、哀れな生き物がこれ以上現れないようにと願って話しただけだ。スイーツはありがたく頂いたけれど。
それ以外のことでも、河本には良くしてもらっているので頭が上がらないのは事実だ。
「それにしても納得だよ。森谷くんが君にベタ惚れな理由がね。それまで散々な扱いしてきたから罪滅ぼししてるつもりなんだ」
「…………そうです」
「えっ? そんなこと考えてたの遼くん」
「ぶふっ、肝心の豊くんに気持ち伝わってないの超笑えるんだけど!」
「うるさい! 話が済んだなら支部長はどっか行ってください。俺は豊を補充するので」
「いや僕も仕事あるんだけど……」
「あっはっは! じゃあ邪魔者は退散するよ。ほどほどにしてね」
ひらひらと手を振って河本が立ち去ると、僕は引き倒されるように遼の腕の中に収まった。
僕が繭から転がり出てきたとき、部屋には遼がいた。
繭から出てすぐはほとんど目が見えなくて、遼が抱き締めてくれたのを見知らぬ人間に拘束されたと思って抵抗したり、繭から出たあと一ヶ月くらいは反応が鈍くてぼーっと過ごしたりした。遼はずっと気が気じゃなかったそうだ。
一ヶ月後、やっと人間らしい感覚が揃って普通に生活できるようになってから、遼に頭を下げられた。
今までのことを端から端まで謝られて、僕はずっとぽかんとしながら謝罪を受け入れた。
それから改めて告白をされて、僕は二度驚かされた。
「遼くんが泣きながら僕に謝り倒してきたときのことも、話した方が良かった?」
「あの時のことは絶対誰にも話すな」
「はいはい」
後ろから少し強めに抱き締められる。
悲しいかな、僕たちがこのカフェテリアでこうして過ごすのはもう日常になってしまっていて、行き交う職員は誰も気にしないほどだった。
ありがたいような、恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
「僕まだ仕事あるんだけど」
「……もうちょっと」
あの日以来、遼は別人かと思うくらい変わった。
睨むようなものしか見たことがなかった表情は目が会うたびに甘く緩む。六年間一言も口をきかなかったのが嘘のように、言葉をつくしてたくさん話してくれるようになった。
どこでもこうして抱きつくようになり、僕が他人としゃべっていると後ろから引き寄せられて相手を威嚇したりもする。
遼の変貌ぶりに僕はまったくついていけなかった。
でもこんな態度でもう五年も付き合っていれば、慣れてしまうものだ。
「豊、愛してる……離したくない」
「ん……僕も好きだよ遼。でも仕事しないと」
「……」
「仕事終わったら迎えに行くから。一緒に帰ろう?」
「……ん」
体を反転させて、わかりやすく不満そうな顔の遼にキスをする。
少しは機嫌が良くなったのか、遼はしぶしぶ僕を離して仕事場である研究室に戻っていった。
彼が安月給で拘束時間も長い、出張も多いこの仕事を選んだ意味がわからない僕ではない。
未だ謎に包まれている僕の生態を、少しでも把握しようとしている。
一緒にいるために。
どんな言葉をもらうより、そのことが一番嬉しいというのはまだ話したことはない。
つらかった過去はたしかにあるけれど、全て今に繋がっていると思えば大事な記憶だ。
僕が蝶でも、人でも、遼は変わらず好きでいてくれる。
彼のために、僕もできることをする。
夢のような日常を、これからも続けていくために。
おわり
かつて友人同士だったクラスメイトとの思い出をどうしても忘れられなかった僕は、三ヶ月だけ彼の時間を欲しがった。それは翅に隠された最期の願い。
【キーワード】
クズ攻め / 健気受け / 虫の羽の生えた人間 / ファンタジー / 学生 / 性描写あり
◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆
僕の背中には、蝶の翅がある。
僕の両親はいたって普通の人間だった。
その二人から産まれた赤子の僕の背には、薄くて小さな翅が生えていたという。
皮膚の張り出したものかなにかで、そのうち消えるだろうと言われていたそれは、最初は薄い黄緑色でしわくちゃだった。それが僕の成長に呼応するように薄いまま面積を増やし、色がついてきて、僕が1歳になるころには蝶の翅だとわかる形状にまでなった。
僕が最も幸運だったのは、そんな異形の僕を両親が愛してくれたことだ。
二人にとって僕の翅は単なる個性の一部で、ことさら過保護になったりせず、また突き放されることもなかった。翅の成長を阻害しないように見守りながら、僕が翅をないがしろにしたり、嫌がって引き抜こうとしたりしたときは真剣に叱る。そして惜しみない愛情をくれた。
両親とも学者で、世界中を飛び回っているため、僕が中学生になった頃からなかなか会えなくはなっているけど、僕は彼らの愛情を疑ったことはない。僕より僕を愛してくれる存在だ。
僕はといえば、自分が嫌いだった。
なかなか筋肉がつかない薄い体、高校生になったくらいから成長速度が急に落ちたせいで身長も平均を下回る。ちっとも男らしくならなかった、大きな目と丸っこい顔でひどいときは小学生と間違われる。
瞳は、背中の翅と同じ、異形の色だ。
全体の薄い緑の上に、差し込まれるように濃い緑、青、黒が虹彩に散っている。平凡な顔立ちの上にある、明らかに普通ではないとわかる目。
黒の縁取りの中に空より濃い青、グラデーションのように緑の色が混ざった背中の翅に酷似した目が、嫌いだった。
背中の翅は布で覆って服を着れば隠せる。目だけは隠せなくて、どうしても見たくないものだった。
高校生になってからはカラーコンタクトを自分で買えるようになったので、外に行くときはいつも翅を隠し、コンタクトで目の色を変えて出かける。
中学生までは苦労した。
小学生のときは、僕は翅も目も隠していなかった。
両親の猫可愛がりを真に受けて、自分がどんな目で見られる存在か知らず、奔放に振る舞っていた。
多くはなかったけど友達はいたし、露骨に虐げられることもなかった。
中学校に上がってから状況は一変した。
小学校からずっと仲良くしていた──していると思っていた友人からの、理由のわからない拒絶。
それに合わせるように、他の友達も僕から離れていった。
体が成長するにつれて大きくなっていた背中の翅は服に収まらなくなっていて、中学に入学したときには背布を巻いていたけれど、体育のときの着替えやプールの授業では隠していなかった。
そして僕は初めて、自分が他の人間と相容れない存在で、「化け物」と呼ばれる存在だと知った。
異形に触れたくないのだろう、暴力を振るわれることはなかった。
それでも持ち物にいたずらをされたり、すれ違いざまに言葉を吐きかけられたり、物で押されて階段を落ちたりといったことは度々あった。
傷だらけの僕をみて、友達だと思っていた彼が僕を嘲笑うような目で見ているのを知っていた。
めったに帰ってこない両親にこんな状況が知られなかったのは本当によかったと思う。
ほぼ一人暮らし状態だった僕の様子を見に来てくれる叔母さんには、きつく口止めをした。
両親のどちらかが帰国するときには、彼女に化粧を習って見える部分の青アザや傷は隠した。笑顔でいるための練習も欠かさず行った。
「おかえり、父さん。母さん」
「ただいま! 元気だったかい? 困ったことはない?」
「ないよ、大丈夫」
僕は嘘をつくのがとても上手くなった。
高校は一生懸命勉強して、少し遠いけれど自分が気に入ったところに合格した。
高校生になったら、僕の翅と目は誰にも明かさず隠そうと決めていた。
背中の当て布は、醜い傷があるため見られたくないということにして、万が一のことを考えて保健室の先生にだけは事情を話した。
黒のカラーコンタクトはずっとつけていられるものを吟味した。派手な色のコンタクトレンズではないから、校則で咎められることもない。
これから僕は、普通の人間として振る舞って生きていく。そう決めていた。
想定外だったのは、彼も同じ高校に合格していた……ということだ。
クラスメイトとして彼の姿を見た時はさすがに目を疑った。
小学生からずっと同じ学校に通う幼馴染、森谷 遼。
電車で一時間近くかかるこの学校に、ご近所さんでもある遼がきているとは考えもしなかった。中学におしゃべりをできるような友達はいなかったので、他人の進学先は誰も知らない。
他にも僕のことを知っている人がいるんじゃないかと思ったけど、それだけは杞憂に終わってほっとした。
彼は無口なほうだし、同じクラスと言っても恐らく接触はしないだろうから、僕の秘密をすすんで暴露するとは思っていない。そう信じたかった。
実際、彼と僕が話すことはなく、普段は存在も意識しない距離感ができていった。
僕もやっと友達と呼べるような存在ができて、高校生活は穏やかに過ぎていく。
「なぁ、森谷ってお前と中学同じだったんだろ? 話したりしないのか?」
「同じだったけど接点なかったから」
「そうなのか~」
友達から彼について聞かれたことはあったけど、得意の嘘で躱せばそれ以上を追求されることはなかった。
ごくたまに、彼が僕を睨みつけていることがあるのは知っている。
普通の人間に溶け込むような僕のことが気に入らないんだろう。それでも僕の秘密を暴露したりはされなかったし、強い視線で射抜かれるのが怖くて、僕も彼との関わりを言うことはなかった。そういう意味合いの視線だったのだろう。
遼は高校生になってまた一段と背が伸び、精悍な顔立ちになって、勉強も運動もできたので、いつも周りには誰か人がいた。カノジョだと噂になる女の子の名前も毎回違って、意図的に避けている僕の耳にも入るほどとなると相当だ。
僕はクラスの中でも目立たない男子のグループに一員として受け入れられていたので、彼のモテっぷりに嫉妬する友人たちに適当に話を合わせた。
「あーあ、俺にもあれくらい背丈があったらなぁ。そう思わないか?」
「俺たちのモテなさは身長だけの問題ではないかと」
「久野は女子に話しかける時点で無理じゃん」
「冷たいなぁ友よ……」
自分のモテなさを大げさに嘆く友人の一人、久野に諦めろと言って肩を叩く。
そんな僕に久野がわざとのしかかってきて、僕は机に突っ伏して潰れた。
じゃれ合いがうるさくなったところで、もうひとりの友人である新井田が久野を引っ剥がしてくれる。そして三人で笑う。
これが僕の日常だった。
僕たちは高校3年生になった。
すっかり成長を諦めた僕の身長は1年の頃からほとんど変わっていない。
そのかわり、背中の翅は成長を止めることはなく、中学卒業のころは背中を覆う程度しかなかったものが、今では膝裏に付きそうなほどの長さとなっていた。上は僕の頭を越すほどの高さになるので、広げて寝るとシーツ代わりにできそうなほどの面積。
最近は背布に仕舞うのも一苦労で、背中がいつも窮屈で息苦しい。忌々しいだけの存在だ。
コンタクトで覆えば済む瞳と違って、翅は隠しようもない僕の異形の証拠だ。
何度も引きちぎろうと試したけれど、どうしても激痛に耐えることができなくてそのままにしている。痛みに耐えて翅を裂いても、いつのまにか元通りになるので引っこ抜いても同じ結果になるかもしれない。
しかし3年生に進級してから、翅にはある変化が起きていた。
そして同じ頃から、俺には確信めいた予感があった。
今年が、最後の年だと。
冬休みが終わった始業式の日。
僕はこっそりと遼を校舎裏に呼び出していた。
ここは日が当たらなくてじめじめしているので、人はほとんど来ない。目論見通り僕たち以外に人はいなかった。
「こんなところに呼び出して、何の用だ」
「あ……ごめんね。すぐ済むから」
久しぶりに正面から顔を見た遼は、とても整った容姿に成長していた。たまに横顔を盗み見るくらいだったので、暗い校舎裏でも光が差しているような錯覚すら覚える。
でも僕に向けられる目はとても冷たくて、苛立っているようだった。
それでもこれだけは後悔したくなくて、僕は意を決して口を開く。
「遼くん。卒業までの三ヶ月だけ、君の時間を僕にください」
「……はぁ?」
遼の目が更に眇められ、訝しげな表情に変わる。
変なことを言っているのは僕だって自覚していたけど、これだけは譲りたくなくて勇気を振り絞る。
「恋人にしてほしいわけじゃないんだ。ただ、昔みたいにふつうに話したり、一緒に出かけたりしたいなって……」
「……」
「だ、だめ……だよね、気持ち悪いよね、こんな……」
「昔みたいに、か」
「──えっ?」
「友達みたいにすればいいんだろ。いいよ」
自分から言いだしたことなのに、OKを貰えると思っていなくてしばし呆然としてしまう。
ずっと、遼には嫌われてしまったのだと思っていた。
最初は避けられていると思わず、声をかけたり放課後帰り道を誘ったりしていたが、彼が僕と目を合わせることはなかった。
あんなに仲良くしていたのになぜ、と思わないでもなかったが、それから誰も僕に話しかけたりしなくなったのをみて、仲良くできていたと思っていたのは自分だけだったことに嫌でも気付かされた。
彼らは、虫の翅が生えた異形のクラスメイトに、ただ善意で構ってくれていただけなんだと──。
もしかしたら、先生や親からなにか言われていたのかもしれない。
彼らを友達だと思うほうがおこがましかったんだと。
それからはずっと諦めて生きてきた。
高校でできた数少ない友達も、心の底から信じることはもうできなかった。きっと俺の本当の姿を見たら、離れていってしまう。
距離を取られるだけならまだ良い。気持ち悪いとか、化け物だとか、彼らの口からそんなことを言われたらと思うと……心が凍ってなにも考えられなくなりそうだった。
──そうか。僕があまりにも可哀想だから、付き合ってくれようとしているんだ。
中学生のころから六年弱、遼の顔を真っ直ぐ見たことはなかった。だから僕の中の彼はいつまでたっても昔のままで、僕よりも頭一つ分背の高い彼は、なんだか別人みたいだった。
そういえばいつの間にか声変わりもしている。こんなふうに話したのも六年ぶりだ。
ずっと同じ場所にいたのにな……。
「で、友達としてお前は俺と何したいんだ?」
「えっ? えーと……じゃあ、これから一緒に帰らない?」
「そんなことでいいのか? 行くぞ」
「う、うん!」
教室に鞄を取りに行って、そのまま一緒に家路をたどる。
横を歩きながら大した会話はできなくて、冬休みの宿題が思ったより多かったとか、明日の授業のこととか、そんな他愛もない話題をぽつぽつと話すだけ。
足の長さが違う彼についていくのにも必死だ。
それでも今まで一言も会話なんてなかったんだから、僕にとっては天変地異みたいなものだった。
これからずっと、昔みたいに友達に戻れたらよかった。
でもこれは僕のわがままで遼に強いている関係で、卒業と同時に消える。
もしかしたらそれまで保たないかもしれない。
いつから、なんてわからないけど、僕は遼のことが好きだった。
周りにいた他の誰より、一緒にいると胸がどきどきして、ずっと一緒にいられたらと思った。彼が別の友達と仲良くしているのを見ると気分が悪くなって、でも彼が僕に気づいて手を差し伸べてくれるところっと気持ちが晴れる。
遼が一言も僕に話してくれなくなったあの日、僕は心の底の方で蹲っているこの気持ちが恋だったと気がついた。
気がつくと同時に失恋したんだ。
想いが日の目を浴びることがなくても、心に秘めておければよかった。でも現実はもっと過酷だった。僕は彼の近くにいる権利すらいつのまにか失ってしまったのだから。
あの睨みつけられる視線が怖くて、遼を見ることさえ叶わなくなった。
僕が知る彼の六年間は、いつも人づて。
昔は誰より僕が遼のことを知っていたのに。
あの恋心が、今はどこに眠っているのか僕にはもうわからない。
心の奥に押し込めて、二度と出てこられないようにしてしまったものだから。
でも、少しだけでもいい、この三ヶ月で彼の今を知りたかった。
次の日から、遼は僕を友人のひとりとして扱い始めた。
いきなり親しげに接し始めた僕たちに、クラスメイトはみんな驚いていたようだった。
「なぁ、お前と森谷どうしたんだ? いきなり仲良くなってねえ?」
「えっと……た、たまたま話す機会があって。そしたら意外と話が合うなって……それで」
「ふーん? でもま、卒業までの思い出づくりに友達が増えるってのもいいよな」
明るく解釈してくれた久野に、新井田が頷いて同意した。
僕は彼らに嘘をついたことで罪悪感でいっぱいだったけど、「昔は仲が良かった」なんて言ったらもっと根掘り葉掘り聞かれてしまうので嘘を言うしかない。
僕が肩を竦めて小さくなっていると、クラスメイトと雑談していた遼が僕の横まで歩いてきた。
「昼飯、一緒に食べようぜ」
「あ……う、うん。久野と新井田も……」
「俺たちは今日は弁当だから、気にしないで二人で行ってきな」
「今日の学食はカレーですよ」
なぜか自分は食べない学食のメニューを把握している新井田に苦笑して別れ、僕は遼と一緒に食堂に向かった。
一緒に食事を摂るのなんて、本当に何年ぶりだろう。
緊張して顔を上げられない僕とは対称的に、遼はなんのわだかまりもないようすで何くれとなく話しかけてくれた。
相槌を打つので精一杯な僕を見て、遼が、笑った。
「なんでそんなにガチガチになってんだよ。昔みたいにしたいって言い出したのはそっちだろ?」
「ご、ごめん……自然にできなくて」
「俺は構わないけど」
何がおかしかったのか、遼は僕を見て小さく笑い続けた。
彼の笑顔が見られたことが嬉しくて、まぶしくて、俯いて掻き込んだカレーの味なんてわからなかった。
それからも僕たちはそんな調子で、普通の友達同士のように接する日々が続いた。
それは遼のフォローがあったからこそで、僕は彼の一挙手一投足に緊張してしまってとても昔通り振る舞うなんてできていなかったけれど……。
そしてここ数日、彼は僕の家に遊びに来るようになった。
「おじさんとおばさん、帰ってこないのか?」
「うん、海外の学会とかフィールドワークとか忙しいみたい。三ヶ月に一回くらいは帰ってくるよ」
「ふーん……」
僕の部屋は昔とあまり変わっていない。
翅の成長に合わせて、ベッドを大きめのものに変えたくらいだ。
昔はよくお互いの家にお邪魔していたので、遼もなにか懐かしいものを感じているのかもしれない。
二人で本を読んだり、スマホで動画を見ながら笑い合ったりして過ごす。
さすがに一ヶ月毎日のように顔を合わせていれば、僕も多少は打ち解けて接することができるようになっていた。
緊張しているのは変わらなかったけれど。
そんなゆるやかな関係を崩すような言葉を遼が言い出すまで、僕は本当に幸せだった。
「なぁ、翅、見せてよ」
「……え──?」
ベッドに寝そべって本を読んでいた僕は、不意にかけられた遼の言葉に思考が停止してしまった。
「あの、翅はその、昔より大きくなってて」
「へぇ~あれ成長するのか。見せてよ」
「あ──」
からかっているのかと思った。
でも視線が絡んだ遼の目はいつもどおりで、雑談の延長で言っているだけのようだとわかる。意識してしまっているのは僕だけなんだ。
今は昔と同じ、友達同士なんだ。ひどいことは言われない、はず。
それに向こうから見せろというのを拒否するのも変な感じになってしまいそうで嫌だった。
僕は勇気を振り絞って遼に背を向け、シャツを脱いだ。
服を着ているあいだは常に巻いている背中の布を、ゆっくりと外す。
他人に翅を見せるのも、もう覚えていないくらい久しぶりのことだった。緊張で手に汗がにじむ。
布に押さえつけられてしわくちゃになってしまっている四枚の翅は、少し羽ばたかせることで皺が伸びていつも通りの姿になった。
僕の背丈くらいある、異形の蝶の翅。
昔よりずっと大きくなってしまった。彼はどう思うだろう。
背後の遼の反応が怖くて硬直してしまった僕をよそに、遼は僕の翅をしげしげと見つめているようだった。
そして突然、翅の付け根あたりに彼の手が触れた。
「ひぁ!?」
「おっと、悪い。てかすごい声」
触られるなんて思っていなくて、ものすごく裏返った変な声を出してしまった。羞恥で顔が真っ赤になっているのがわかる。
「い、いきなり触るから……!」
「ごめんごめん。じゃあ許可をとればいいんだな」
「えっ、いや……」
「触っても良い?」
振り向いた先にあった遼の表情は、いつも通りだった。
ふざけているわけでも、暴力を振るおうとしているわけでもない。口元に微笑を浮かべて、僕の返答をただ待っているだけだった。
それこそ、ここで拒否したら自意識過剰に思われそうだ。
「いい、よ」
これが間違っていたと気づいたのは、それからずっと後のことだった。
翅に触れるという名目で上着を脱いだはずなのに、気がつくと僕はなにも服を身につけていなかった。
しかも僕の体は横抱きにされて、胡座をかいた遼の足の上に乗せられている。
「そんな、とこ……触らないで……」
「触ってもいいって言ったのはお前だろ?」
「ひ、あぁっ……翅だけって……」
「そんなこと誰も言ってない」
お前が自分で許したんだと耳元で囁かれて、僕は肩を震わせた。
たしかに触って良いと言ったのは僕だ。でもこんなのって……。
遼の手が、僕の緩く立ち上がった中心を握っている。もう片方の手が背中を撫で、翅の付け根を擽るように触れてくる。
固くなり始めた僕のものに直接的な刺激が与えられて背が跳ねる。翅の付け根からじわりと痺れるような気持ち良さが上ってくる。
めったに触れることがない二つの場所を同時に責められて、気がおかしくなりそうになっていた。
「あ、だめ! 出る……でちゃ、うから、ぁっ!」
「ここ自分でシないのか?」
「しな、い、そんなの……あっ、だめ、ほんとに……!」
遼の手の中のものがびくびくと震えて、白濁したものが飛び散る。頭が真っ白になって、ぐったりとした体を遼が受け止めてくれた。
どうしてこんなことに……。
背中を触っていただけだった彼の手が、別の場所を撫で始めたのはいつからだったか。
「男の友達なら触りっこくらいする」と遼は言っていたけど、僕はこんなことは知らない。みんな本当にこんなことしているの……?
だらりと力が入らない体を、再び彼の手が這う。どこを触られても変な声が出てしまいそうで、僕は必死に遼の胸を押して体を離した。
「遼くん、だめだよ……っ」
「なんで?」
「こんなこと、普通じゃないよ……」
「普通だよ。お前が知らないだけだろ」
そう言われてぐっと言葉に詰まる。
たしかに僕は普通の男友達の関係というのを知らない。
久野や新井田はとても良いやつで、一緒にいると楽しいけど、どこか一線を引いてしまっている自覚はある。
懐に招き入れて、心のやわらかいところを傷つけられたら今度こそ立ち直れないと、そう思っているのは確かだ。
「気持ちよかっただろ? 友達なんだからこれくらいは普通だ」
「そ、……そうなのかな」
「そうだよ。俺たち友達だろ?」
顔を覗き込まれて目を合わせられた。
黒いコンタクトの向こうの、気持ち悪い色合いの瞳を透かし見られているような気になって、耐えられなくて目を逸らす。
こんなことをしていいのかと思う反面、僕は心の中で安堵している部分もあった。
彼は僕の、もはや本物の蝶と比較することすらできない巨大な翅を見ても、気味悪がったり傷つけたりしようとはしなかった。それどころか翅に触れてすらきた。
「本物の友達」には遠く及ばない偽物の関係だけど、少なくとも今の彼は僕を害する気持ちはないみたいだ。
遼に翅を拒絶されなかったことは、僕にとってはすごく意味のあることだと気付かされる。
(いまさら──遅いよ)
それから遼は毎日僕と一緒に帰ってきては、二日と置かず部屋に上がりこんできて僕の体に触れた。
特に翅の付け根を撫でられたり、翅の根本を軽く握られたりすると痛痒いようなぞわぞわとした感覚が全身に広がって、痺れたように手足が動かなくなる。そこを執拗に責められると、すぐに全身に力が入らなくなって、僕は遼の好きにされてしまっていた。
本当は、こういうことが嫌なら部屋に上げなければいいんだ。
でも「友達」を盾にされると、僕は途端にいやだと言えなくなってしまう。それはきっと遼も分かっていて、その言葉を口にするんだ。
「りょ、遼くんっ、そんなとこ、汚いよぉ……あぁっ」
「しっかり解しておかないと、後がつらいぞ」
今僕は一糸まとわぬ姿で、ベッドに俯せにされ、腰だけを高く掲げられるというとんでもない格好をさせられている。
一方遼は特に服装も乱れてはおらず、あろうことか僕の尻たぶを広げて最奥の孔に指を突き入れていた。
潤滑剤でも使っているのか、僕の後孔は遼の指をすでに二本も簡単に飲み込んでしまっている。ここ数日、彼は毎日飽きもせずここを指で解すことに執心していた。
こんなのは絶対に友達同士のスキンシップなんかじゃないと、頭ではわかっている。
本気で拒絶しようと後ろを振り返った時、遼の指が僕の中のしこりのような場所を強く押した。
「ひゃぅん! ひぁっ、そこ、そこだめぇっ……」
「気持ちいい、の間違いだろ? ここがいいんだよな」
「ぁあああっ! だめ、だってっ、んぁああっ!」
何度も中を擦られ、僕の中心は触られてもいないのにトロトロと涙を流している。こうされると僕はもう何も考えることができなくなってしまった。
「そろそろいいかな……」
いきなり指が引き抜かれ、ぞわぞわと悪寒に似た感触が背中を駆け上がる。翅が勝手にぶるりと震え、僕は翅が浮き上がらないように肩甲骨に力を入れて耐えた。
そろりと背中越しに後ろを伺い見ると、見たこともない彼の顔があった。
切羽詰ったような、余裕のない表情。
どうしてそんな顔をしているのか聞こうとた時、指を抜かれたばかりで緩んだ孔に熱くて大きいものが充てがわれた。
「ひっ!? りょうくん……?」
「悪ぃ……なるべく、痛くないようにするから」
「なに、……ぅぐ、うぁああっ!」
今までのものとは比べものにならない熱量のなにかが、僕の内臓を押し上げて侵入してきた。とてつもない圧迫感に呼吸が止まる。
遼の手が宥めるように翅の付け根を撫でてきて、突き刺さるような快感が全身に走った。
その一瞬の隙をついて、灼熱のものがずんっと奥まで押し込まれる。
「全部入ったぞ……大丈夫か?」
「ぅ、はぁっ……は……なに、どうして……」
見えなくても状況はわかる。彼のものが僕を後ろから貫いている……これは絶対に「触り合い」なんて生易しいものじゃない。
生理的に流れてきた涙を遼の唇が優しく拭って、そのまま口唇が合わせられた。
(なに、これ。僕、遼くんとキスしてる?)
角度を変えて何度もついばまれ、唇が離される。
とても近くにある遼の顔は上気していて、目元がゆるみ、満ち足りたような表情をしていた。
(──どうして──)
僕の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、彼の腰がゆっくりと動かされる。内臓をえぐり出されるような恐怖に体が強張ったが、内壁のしこりを固いものに抉られて思わず悲鳴のような声が漏れた。
僕はやめてと何度も頭を振って、抜いてくれるよう懇願したけれど、彼は僕の言葉なんてちっとも聞かずに徐々に動きを激しくしていく。
「やめて、りょうくん……あぁっ、だめ、んぁああ……」
「っは、今更、やめてなんてやれるか」
「あぁ、ああぅっ……りょ、く……」
「俺のものだ、やっと手に入れたんだ……」
全身をがくがくと揺さぶられ、翅の付け根の痺れる場所を愛撫され、時折思い出したように触れられる僕の芯は吐き出すものがもうなくなっている。
目の前が白く染まって、僕はもうなにも考えられなくなってしまった。
「タイムリミットが、早まってる」
部屋に置いた全身鏡の前に立って、僕はつぶやいた。
遼が帰ったあとの自室。
あのあと、僕は本気で音を上げるまで彼に何度も貫かれてイかされ続けた。気絶するように浅い睡眠を取って、目が覚めると蕩けるような笑顔の遼にキスの雨と共に迎えられた。
そんな仕草は、まるで映画の中で見るような恋人同士のそれに似ていた。
でも僕たちの関係は、恋人ではなかったはずだ。
僕はなんとか理由をこじつけて、彼を家から追い出した。
そのままだとまた甘い雰囲気を醸し出されそうだったから、というのもある。
僕の頭は完全に状況から取り残されていて、とにかく考える必要があると思ったからだ。
シャツの隙間から赤い痕が体中に散りばめられているのが見えて、僕は急いで来た服をまた脱いで鏡に立った。
二ヶ月前に確信に変わった予感が、腹の底を侵食するように再びじわじわと広がる。
卒業式くらいまでは保つと思っていた期限は、もうほとんど残っていなかった。
あれから、遼はなぜか恋人のように僕に接するようになった。
事あるごとに僕の体を労って、背中に触れる。服を着ている上から撫でられただけで肩が震えそうになって、耐えるのが大変だった。
久野や新井田にもなんだか生暖かい目で見られるようになった。
いっそ問い詰めてきてくれたほうがラクなのに、なにも言われないので僕も黙り込むしかない。
そんな僕の様子には全く頓着せずに、遼は場所を選ばず甘いオーラをびしばし放ってきて、僕は困惑するしかなかった。
それからは彼は毎日僕の部屋に上がり込むようになった。
今までどおり本を読んで過ごしたり、テレビや動画を見たり。そして気まぐれにベッドの上で体を重ねる。
最後までするときもあれば、しないときもあった。
もう僕は彼の好きなようにさせることにした。
その日は、季節外れのなごり雪が朝から舞っていた。
学校が休みの日も遼は僕の家にやってきて、追い出さなければ一日中僕にくっついている。
今日も雪の中、歩いて家まで来た遼を僕は部屋に招き入れた。
「あのね、遼くん」
「ん……なに?」
「今日は僕、服着たままがいいなって……」
顔中にキスをする彼を軽く押しのけて、僕は要望を出した。思ったより小さな声になってしまった。
遼は特に疑問に思わなかったようで、誘ってるの? なんて嬉しそうな声で言って、僕のシャツの裾から手だけを入れて体に触れてきた。
とにかくシャツと、背布を取られないようにしたかった。
体を弄られながら深い口付けを受ける。ぎこちないながらも僕も舌を動かして、反応を返す。
どうにかシャツを脱がされることなく、僕はベッドの上で荒い息を整えていた。
僕と自分の体を清めた遼が、汗ばんだ僕の額を指でくすぐってキスを落とす。部屋中に甘ったるい空気が充満していて、自分の部屋ではないみたいだった。
(やっぱり、もう……限界だ)
腕の力でベッドに体を起こして、遼を見据える。
いつになく強い目の僕に、彼は少し戸惑った顔をした。
いや、戸惑ったのは僕の目のせいかもしれない。今日は休日だから朝からカラーコンタクトをつけていなかった。
化け物の目で見据えられたら誰だって怯むだろう。
「遼くん、今日で僕たちの『友達関係』は解消しようと思う」
「……は?」
「本当は卒業式まで友達でいられたらと思ったけど、もういいから」
努めて突き放すような言い方をする。目は逸らさない。
僕は嘘をつくのが得意なのだから、こんなときも嘘でどうとでもできると、そう思った。
彼が凄まじい力で僕を押し倒すまでは。
「なんだよ、それ。はいそうですか、ってやめるわけないだろ」
「痛い、いたいよ遼くん……」
「それに友達ってなんだよ!? お前、友達なら誰にでもあんなことさせるのか!」
「そんなこと、するわけ、」
「じゃあなんでそんなこと急に言いだした!」
押さえつけられた肩がぎりぎりと痛む。真上にある遼の顔は怒りで歪んでいた。
正直、ここまで激昂されるとは思っていなかった。
多少揉めても、さらりと元の関係に戻れると思っていただけに、この展開は誤算だ。
痛みを堪えてなんとか嘘を紡ぐ。
「っ、元々、そういう話だったでしょ。期限付きで、昔のようにって……少し早いけど、僕らももう卒業だし」
「それはそっちが勝手に思ってることだ。俺はお前をオトモダチだなんて思ってない」
予想外の言葉に喉の奥で嫌な音がした。
やっぱり、昔みたいな「友達」に戻ることはできなかった。彼の中で僕は友達でもなんでもなくて、最後までそれは変わらなかったってことだ。
胸がずきずきと痛む。
ここ数日でどんどん激しくなっていた頭痛や腹痛が、体の奥から湧き出すように全身に広がった。
「っ! おい、なんだこれ!」
僕の肩を抑えつけていた遼の手の力がふっとなくなり、彼の焦った声がする。
自分の肩を見ると、そこにはなにもなかった。かさかさとした枯木のかけらのようなものが堆積しているだけ。
──とうとう始まった。
「遼くん……お別れだよ」
「……お別れ?」
「蝶の寿命は、約一ヶ月。僕は18年も生きた。もうとっくに、限界だったんだ」
高校に上がった頃から、翅の不調に気がついていた。
朝目覚めたときや、勉強漬けで無理をした日など、背中の翅の色に陰りが出て、皺が取れない日があった。
肩甲骨に力を入れて翅を伸ばせばそれは消えるが、今までになかったことだ。
その症状は日に日に顕著になっていった。
でも、体に無理をさせず、翅に気を配って力んでいれば今までどおりの見た目を装うことはできていた。
それすら難しくなってきたのが、高校3年の冬休みの頃だった。
「だから最期に、遼くんと仲直りがしたかった。昔みたいに名前で呼んで、一緒に遊んだりご飯を食べたり、したくて……」
「待て、それって……死ぬってこと、なのか」
僕は曖昧に笑みを返した。
所詮僕は化け物だ。同じような存在はいない。
この翅が萎れてきて、体中に痛みが出るようになって、その後どうなるのかは誰にもわからない。
遼と体を重ねるようになってから、その症状は加速してしまったようだった。
今日は、もはやどんなに全身に力を込めても、背で萎れきった翅を元通りにすることはできなかった。
だから服を脱ぐことは絶対にしたくなかった。
「僕はこうやって死ぬんだね……死体も残らなさそうだ。つくづく化け物だったんだなと思い知らされたよ」
「やめろ! そんなこと言うな! 待ってろ、今病院に連絡を」
「こんな症状の僕を病院で治せる、とでも?」
僕から手を離した遼が言葉に詰まる。
翅が萎れて死んでいくのなら、萎れた体は残るかもと思っていたけれど、それもどうやら無理そうだった。
泣きそうになっている彼の顔に指を触れたくて持ち上げた腕が、形を失って木屑のようなものに変わる。
体中が水分を急速に失っていく。
「遼くん。ずっと、好きだった。さいごに一緒にいられて、うれしかったよ」
「なんでそんなこと……ダメだ、死ぬなんて許さない!」
「ふふ、りょうくんらし、い、言い方、だ……ね」
「俺もお前のことが好きだ、豊! 死なないでくれ……!」
辛うじて原型の残っている頬を手で包み込まれて、触れるだけのキスが落とされる。
僕を、好き? ──遼くんが?
それはなんて、嬉しい言葉だろう。
それに、名前を。最期に名前を呼んでもらえた。
「それだけで、じゅうぶん……」
体中を苛む痛みはもうない。
ずっと存在に違和感があった背中の翅も、なにも感じなくなった。
彼の声も聞こえない。目から流れる涙も絶えた。
体がふわりと軽くなって、僕の意識はふっつりと無くなった。
人ひとり分の木屑のような塊がベッドの上に横たわっている。
遼は呆然と、さっきまで豊だったその塊を見下ろしていた。
触れても、なんの温度もない。
かさかさとして、遼の手で崩されるそれは、とても人間の成れの果てとは思えないものだった。
(最期まで自分を化け物だと言って、逝かせてしまったのか)
手に入れたと思い込み、傲慢に体を開かせ、彼の気持ちを聞くまで己の想いを告げることなく無理を強いていた。あげく永遠に失った。
後悔なんて手緩いものではない、過去の自分を殺したいほどの憎しみ。
昔のような友達に戻りたいと、彼は奇妙な期限を切ってきた。
思えばそのときからこうなることを予測していたに違いない。体に不調があったのだろう。
自分はそんな豊の心に寄り添うことも、彼の変化に気づくこともなかった。
そんな遼はさっきまで、豊の名前を呼んでやることすらしていなかったことに愕然とする。なにも与えられずただ奪われた豊の心はどんなに傷ついただろう。
(もう、なにもかも遅い……)
豊だったものを散らさないようにベッドから降りたが、足に力が入らず床に崩れ落ちる。
そのとき、残骸の中心の盛り上がった場所が、微かに動いた気がした。
「──!」
慌ててそこを注視する。
じっと見つめるなか、ちいさな欠片を転がり落としながら、何かが這い出てきた。
それは、蝶だった。
手のひらほどの大きさの、黒い蝶。
その翅は黒で縁取られ、空より濃い青からグラデーションのように緑色が混ざり合い、この世のものとは思えない美しさを誇っていた。
彼の色を纏った蝶。
「ゆ、たか……!」
遼は蝶を驚かせないように、木屑ごと蝶を手のひらに掬い上げる。
蝶は大人しく持ち上げられたかと思うと、ひらりとひとつだけ羽ばたいて、遼の親指の付け根にとまった。
遼にはそれが、豊そのものに見えた。
「豊、ごめん、ごめん……! 愛してる、豊……」
蝶はゆっくりと翅を動かして、じっと遼を見ているかのようだった。
震えを止めることができない遼の手の上に、蝶はずっとそのまま止まっていた。
こんなに長くおしゃべりをしたのは久しぶりで、さすがに喉が乾いた。
これで終わりとばかりにテーブルの上のお茶を呷ると、対面に座っていた男が感心したように仰け反って脚を組み直した。
「それが君たちの馴れ初めなの? 森谷くん控えめに言ってクズじゃない」
「うっ──返す言葉もございません」
自分の横に座っている人物がいつになく肩を狭めて小さくなっているのをみて、僕は堪えられない笑いを零した。
「で、原型の蝶に変態したあと豊くんはどうなったの?」
「はい。そのあと豊は蝶のまま、一週間くらいかけて糸のようなもので作った繭になったんです」
「繭? サナギじゃなくて?」
「蝶のサナギよりは、カイコの繭に似ていました。そのときの繭の一部は幻生研のラボに預けてありますよ」
「ふーむ。興味深いね。そもそも虫がベースの幻想生物ってのも初めて聞いたし」
二人に視線を向けられて、僕は首をすぼめて肩を竦める。
あのとき僕は、死ななかった。
遼が見ている前で僕は繭のような姿になり、しばらく部屋を繭糸だらけにしたという。
慌ててやってきた叔母さんと、海外から文字通り飛んで帰ってきた両親に遼は土下座して謝り、経緯を説明した……らしい。
僕は蝶になった自覚もないし、繭のときの記憶もないから、このへんは伝聞だ。
遼は時間が許す限り僕の部屋で繭を見守っていたという。
僕の両親に蹴り出されるように、高校の卒業式には出て、しぶしぶ大学に通い始めた。
それでもなんとか時間を見つけては、家に押しかけて僕の部屋の前に陣取った。さながら忠犬のようだったとか。
死んだと自分でも思っていた僕は、体感では一夜寝たくらいで……実際には半年後に、繭から出てきた。
繭から出た新しい体は、今までと大きく変わりはない。
変化があったのは背中の翅で、大きさが最大時の約半分になっていた。中学二年くらいのころのサイズだろうか。
これくらいだと、背布がなくてもぎりぎり服に畳んで納められるので、日常生活でかなり助かった。
その後、僕はここ「幻想生物研究所」に身柄を移されて、かなり大掛かりな検査を受けさせられた。
「幻生研」は国際的な組織で、世界中にいる僕のような不思議な生き物を調査したり、保護したりという活動をしている。僕の両親もこの研究所に籍があって、仕事の傍らずっと僕のことを調べて回ってくれていたとか。
日本にはほとんどいない僕のような存在は、世界規模で見ればそれなりの数いるというのは、ここに来て初めて知ったことだった。
どうせ死ぬからと大学受験もしていなかった僕は、そのままここで保護対象兼事務員として働いている。
遼も大学を卒業したあと、当然のようにここに就職してきた。現在は日本支部の非常勤研究員として、彼曰く「考えられないほどの安月給」で働いている。
「本当に謎だね。豊くんはなぜ一度死んで体を作り直したのか」
「いやぁ、僕にはさっぱり……」
「二度と豊があんなことにならないなら、俺はもう何でもいいです」
「こらこら研究者、思考を放棄するな」
人目も憚らず僕を抱き寄せようとする遼に、河本が苦笑した。
目の前に座っている男──河本は、幻生研日本支部の支部長を務めている。幻想生物という、未だオカルト認識を拭えない分野で、世界的な権威のある学者だ。
彼の妻と子供も幻想生物だと聞いたことがある。だから僕たちの馴れ初めに興味があったんだろう。職場内のカフェテリアに呼び出されたのは今朝の話だ。
彼に過去の話をすることに遼はかなり難色を示したけど、僕は隠すことなく当時の話をした。
自分たちの安月給ではめったに買えない超高級スイーツに釣られたのではない。
断じて違う。
僕のような、哀れな生き物がこれ以上現れないようにと願って話しただけだ。スイーツはありがたく頂いたけれど。
それ以外のことでも、河本には良くしてもらっているので頭が上がらないのは事実だ。
「それにしても納得だよ。森谷くんが君にベタ惚れな理由がね。それまで散々な扱いしてきたから罪滅ぼししてるつもりなんだ」
「…………そうです」
「えっ? そんなこと考えてたの遼くん」
「ぶふっ、肝心の豊くんに気持ち伝わってないの超笑えるんだけど!」
「うるさい! 話が済んだなら支部長はどっか行ってください。俺は豊を補充するので」
「いや僕も仕事あるんだけど……」
「あっはっは! じゃあ邪魔者は退散するよ。ほどほどにしてね」
ひらひらと手を振って河本が立ち去ると、僕は引き倒されるように遼の腕の中に収まった。
僕が繭から転がり出てきたとき、部屋には遼がいた。
繭から出てすぐはほとんど目が見えなくて、遼が抱き締めてくれたのを見知らぬ人間に拘束されたと思って抵抗したり、繭から出たあと一ヶ月くらいは反応が鈍くてぼーっと過ごしたりした。遼はずっと気が気じゃなかったそうだ。
一ヶ月後、やっと人間らしい感覚が揃って普通に生活できるようになってから、遼に頭を下げられた。
今までのことを端から端まで謝られて、僕はずっとぽかんとしながら謝罪を受け入れた。
それから改めて告白をされて、僕は二度驚かされた。
「遼くんが泣きながら僕に謝り倒してきたときのことも、話した方が良かった?」
「あの時のことは絶対誰にも話すな」
「はいはい」
後ろから少し強めに抱き締められる。
悲しいかな、僕たちがこのカフェテリアでこうして過ごすのはもう日常になってしまっていて、行き交う職員は誰も気にしないほどだった。
ありがたいような、恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
「僕まだ仕事あるんだけど」
「……もうちょっと」
あの日以来、遼は別人かと思うくらい変わった。
睨むようなものしか見たことがなかった表情は目が会うたびに甘く緩む。六年間一言も口をきかなかったのが嘘のように、言葉をつくしてたくさん話してくれるようになった。
どこでもこうして抱きつくようになり、僕が他人としゃべっていると後ろから引き寄せられて相手を威嚇したりもする。
遼の変貌ぶりに僕はまったくついていけなかった。
でもこんな態度でもう五年も付き合っていれば、慣れてしまうものだ。
「豊、愛してる……離したくない」
「ん……僕も好きだよ遼。でも仕事しないと」
「……」
「仕事終わったら迎えに行くから。一緒に帰ろう?」
「……ん」
体を反転させて、わかりやすく不満そうな顔の遼にキスをする。
少しは機嫌が良くなったのか、遼はしぶしぶ僕を離して仕事場である研究室に戻っていった。
彼が安月給で拘束時間も長い、出張も多いこの仕事を選んだ意味がわからない僕ではない。
未だ謎に包まれている僕の生態を、少しでも把握しようとしている。
一緒にいるために。
どんな言葉をもらうより、そのことが一番嬉しいというのはまだ話したことはない。
つらかった過去はたしかにあるけれど、全て今に繋がっていると思えば大事な記憶だ。
僕が蝶でも、人でも、遼は変わらず好きでいてくれる。
彼のために、僕もできることをする。
夢のような日常を、これからも続けていくために。
おわり
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