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【シリアスBL】

天使が恋を失う日

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光と影が争う世界で、天使であるマトリエルは影の眷属である魔族の男と出会う。
魔族の男・エリゴールは、光の化身である天使が本来抱いてはいけない恋心……「欲望」を心に秘めていることを見抜き近付く。
惹かれるものを感じながらもエリゴールを拒絶していたが、魔族と通じていると疑われたマトリエルは秘めた恋心を暴かれてしまい────。

【キーワード】
溺愛魔族攻め / 無自覚天使受け / ファンタジー / 三角関係 / 性描写あり


◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆


 光と影は常に争い続けてきた。
 あまねく世界を照らす役割を持つ光、すなわち天の世界。
 その光を侵食せんとす表裏一体の影、すなわち魔の世界。
 別々の主を戴く二つの世界は常に競い、奪い合い、時に両界の狭間である物質界をも巻き込みながら戦ってきた。
 天界の住民にとって魔界は滅ぼすべきもの。存在を許せないもの。
 しかし魔界はその考えを嘲笑う。光あれば必ず影が生まれる。二つは切り離せない。一方で、光を食い尽くせばすべては影に沈む。間違っているのは天である、と。
 事実、永遠の如く続く争いをもってしても光は影を滅することができていなかった。

「魔界の連中め、忌々しい限りだ」
「光に直接手出しせず、物質界に影響を与えるとは」
「しかしこれは我らと王の威光が物質界をも治め、光あふれる世界へ近づいているという証左とも言えよう。影はもはや嫌がらせのような行為でしか我らに刃向かえぬと見た」
「しかり。影など恐るるに足らん」 

 物質界へ落とされた魔界の穢れを、数体の光の使者が浄化に当たっていた。
 彼らは常に眩い光を放ち、異なる次元に属する存在であるため物質界の多くの生物は彼らの実在さえ知らない。しかし時折、目の良い生物から観測されることがあった。
 彼らは物質界の言葉で天界の使い、「天使」と呼ばれる。

「おまえたち、慢心するな。影の者は油断ならない、気を引き締めろ」
「……マトリエル様」

 天使たちを率いる存在────マトリエルは、私語を繰り返す部下を一喝した。
 天界にあって光の塊のような彼らは、物質界では形を得る。
 物質界に多く存在する「人間」という生き物に似た肉の器を一時的に得るが、天使の姿は人間とは若干異なる。
 天から降りるために用いる、白亜の大きな翼を背から生やし、天の所属を表す光の輪を頭上に戴く。染みひとつない純白の衣は翼と共に舞い踊り、白皙の肌と輝くような髪、澄んだ薄色の瞳を持つ彼らはどんな世も物質界のものを魅了した。

「この地の穢れを払う。各個浄化、物質界の生き物を傷つけさせるな。私は広域浄化を行う。さぁ行け」

 マトリエルは部下を散らせ、自らは広く天の光を差し込むべく空を振り仰いだ。
 美しい天使たちの中にあって、殊更に華奢で格別に美麗な外見のマトリエルは、光の主から直々に職能を与えられた選ばれし一翼である。
 物質界へ恵みをもたらす能力や、天使としての清らかさ、力強さは他に引けを取ることはなかったが、同僚や部下の人望は哀しいかなあまり得られていない。

「偉そうにしやがって、他より少し出世が早かったからと」
「たまたま主の目に止まっただけのあやつが」
「やめろ、聞こえるぞ」

 それきり途切れた部下たちの聞くに耐えない噂話に、マトリエルは深々と溜め息を吐き出した。
 曇りなき光の僕といえど、生あるものに違いない。彼らとて嫉妬するだろうし、好き嫌いだってある。
 だがそれらの感情は、気付かぬうちに肥大化し破滅をもたらしうるものでもある。
 醜い真似は控えるよう言っても、彼らから信を得ていない自分では聞き分けてくれるとは到底思えず、むしろ彼らの負の感情を煽り立てるだけだろう。しかし若輩ながら上司である自分が影の種となりうるものを見逃して良いものか。

「光の主、我らが王、お力をお貸しください……」

 悶々としながらも祈りを捧げ光を呼び、どうにか影の侵略者を物質界から退けることができた。
 マトリエルがほっと嘆息したその瞬間、周囲の空気が一変する。

「……っ、なんだ!?」
「ごきげんよう、天使サマ」
「!」

 背後に突如現れた気配、そこには影がいた。
 空気が捩れるほどの穢れと澱み、実体を伴って物質界へ干渉し得る濃い影の気配。

「魔族!」

 上等な絹を用いた格式高い衣服や、背筋の通った立ち姿はさながら人間の騎士のようだった。しかし纏う気配が決定的に違う。
 黒に近い茶の髪、その合間から覗く真紅の双眸と、背負う異形の赤黒い翼は、浄化されたばかりの平原に全く似つかわしくない。
 マトリエルは腰に佩いた剣を抜き素早く構えた。

「おっと、待て待て。あんたと戦うつもりはない」

 魔族はへらへらと笑って、両腕を軽く上げた。危害を加えないというポーズだ。
 しかしマトリエルは口を利かず、油断することもなく、じりじりと距離を取った。
 魔族────地の底を蠢くもの、影の射手、そこに在るだけで毒を撒く者たち。光の眷属だけでなく、物質界にとっても恐るべき相手だ。
 マトリエルは魔界から溢れ落ちる影を浄化することはできても、人間の形を作れるほどの高位魔族を退ける力がない。
 部下たちはまだ戻らない。他の魔族や影に足止めされているのか。職能を発動して一瞬でも不意を突ければ、部下だけでも逃してやれるかもしれない。

「せめて部下だけは、とか考えてるだろ? 安心しな、あんたの部下にもあんたにも指一本触れないし、危害は加えない」
「……信じられるわけがない」

 マトリエルが唸るように低く返すと、魔族はにんまりと嗤う。

「信じてくれとしか言えねーなぁ。まぁいい、今日は顔を見たかっただけだ」

 魔族は不意に距離を詰め、刹那の間にマトリエルの鼻先まで接近した。
 思わず振りかぶった剣は易々と止められ、マトリエルが焦る前に耳元で囁く。

「上手く隠してんな。部下たちの妬心なんて可愛いもんだ、あんたのその『欲望』に比べたら」
「……なっ……!?」
「俺の名はエリゴール。覚えておけ、俺は必ずあんたを手に入れる」

 その言葉を最後に、魔族は風のように姿をかき消した。
 茫然とするマトリエルの元に部下たちが戻ってきた。皆一様に焦燥と恐怖を滲ませ、肉の器を青ざめさせている。

「マトリエル様、ご無事ですか!」
「浄化を終えたはずの場所に強力な影が現れ……」
「どうかしましたか、マトリエル様」
「あ、あぁいや、大丈夫、だ」

 部下たちは口々に状況を報告してくる。どうやら皆影に足止めされた程度で、魔族と邂逅したものはいないらしい。
 部下に被害が無かったことに胸を撫で下ろし、しかし安堵しきることはできなかった。

(私の『欲望』……)

 胸が痛むのは、図星を突かれたからだ。
 初対面の魔族になぜ、という動揺が大きい。やはり影に属するものは影の気配を感じ取れるのだろうか。
 マトリエルとて胸中は不安で一杯だったが、それ以上に怯え狼狽える部下たちを宥め天へ帰還しなければならなかった。
 幸い魔族や影の追撃はなく、無事に境界を潜ると仮初の肉の器は消え、魂そのものである光の形だけが残る。
 だが物質界で浄化活動に従事する天使は、天界でも人型をとって暮らすことが多い。マトリエルも例に漏れず、光の塊でありながらも薄らと人型を取っていた。

「マトリエル」

 権天使位階の上司に浄化完了の報告をし、与えられた自室へ戻る途中。
 声をかけられ振り向くと、見慣れた姿があった。思わずマトリエルの気配が和らぐ。

「ルヒエル。久しいな」

 人型の光体を伸ばして触れる。相手も同じようにマトリエルへと触れた。
 ルヒエルはマトリエルと同じ頃に生まれ、同じ位階で王のために働く同志だ。部隊の部下より余程心を許せる相手でもある。

「久しぶりなのはおまえが忙しすぎるせいだ。物質界に行ってたのか」
「あぁ。消しても消しても影が差すものだから」
「仕方ないよな……物質界にあまねく光を照らすことは不可能だ。そういう場所を影は狙ってくるだろうし」
「ルヒエル、思っても滅多なことを言うな。我らは影の存在を認めることなどできない」
「……だな、悪い。気弱になってたみたいだ」

 マトリエルは仕方なく苦笑し友人の肩を叩いた。
 志を同じくし、共に切磋琢磨し合う間柄のルヒエルを、マトリエルは一番の友人だと思っている。

 ────本当に?

 滴るような毒の声音に、マトリエルは勢いよく背後を振り向いた。
 何もない。整然とした廊下だけだ。遠くに同胞たちの気配が感じ取れるだけの、魔の付け入る隙などない場所。
 肉体もないのに冷や汗が伝ったように感じる。
 幻聴だったのだろうか。それにしては嫌に存在感があった。

「マトリエル? どうかしたのか」
「ぁ……いや、なんでもない」

 今度はルヒエルが苦笑を零した。マトリエルの頭の位置に触れ、背を叩く。

「毎日のように地上へ浄化に行ってるんだ、疲れているだろう。早めに休むと良い」 
「そう、だな。ありがとうルヒエル」
「私とおまえの仲だろう。気にするな」

 ルヒエルが立ち去った廊下をゆっくりと辿りながら、マトリエルはあたたかな思いと暗澹とした苦痛を同時に感じていた。
 マトリエルがルヒエルを友と思うのは向こうとて同じだ。思い上がりではない。
 だが、それ以上の慕わしさを感じているのはマトリエルだけだろう。
 また先程の「声」が聞こえそうで恐怖に身が竦む。マトリエルは足早に自室へと戻った。

「……ルヒエル……っ」

 誰の目もない自室へ駆け込み、やっと一息つく。
 任務中より緊張したかもしれない。彼を見ると紅潮してしまう頬に気付かれなかっただろうか。
 明確な切掛や理由はない。ただ、ルヒエルはマトリエルにとって、同期や友人といった括りの外に置かれた存在だった。
 交わす言葉の一つ一つが宝石のように輝き、共に過ごす時間は何よりも大切に思えた。挨拶の際に触れ合う熱を思い出すだけで活力が湧いてくる。ルヒエル以外の仲間には感じたことのない情動。
 これを誰かに知られてはいけないと理解している。
 だからこそ、魔族に見抜かれ動揺した。この身が本当に求めているのは主の寵愛ではないと、言い当てられるのが恐ろしい。

「……我らは影の存在を認めることなどできない」

 魔族などに心揺さぶられることがあってはならない。粉骨砕身、主に仕え役割を全うする。
 余計な感情は必要ない。
 ともすれば溢れ出てしまいそうな心に重く蓋をして、これまで以上に任務と真剣に向き合う。
 その後何度も物質界の浄化へ赴いたが、マトリエルがあの魔族と出会うことはなかった。
 当然のことだと理解しつつも、つい安堵してしまう。魔族は基本的に日のあるうちに物質界へ出てくることはない。魔族にとって物質界の光は、天上の光と同様に眩しすぎるものらしい。
 光の中で活動する天使と影を好む魔族が出会うことは、通常考えられない稀な出来事だ。

「だからあんま出てきたくないんだけどな」
「ならば今すぐ魔界へ帰れ!」
「再会したばっかなのにつれないねぇ。せっかくUV対策までして出てきたってのに」

 安息も束の間。マトリエルは再びあの魔族と対峙していた。
 なだらかな丘の中腹に現れた異彩は、真っ黒な傘を差している。
 油断したわけではなかったが、広範囲の浄化を終え気が緩んでいたのは確かだ。魔族はマトリエルのすぐ横に出現し、あろうことか頬に唇を寄せた。

「っ、何をする! 穢らわしい!」
「ひでーなぁ。そのふわふわほっぺに触ってみたかったんだよ。いいじゃん減るもんじゃねーし」
「穢れる……ッ!」

 魔族の接近を二度も許してしまった不甲斐なさに、マトリエルはがむしゃらに剣を振り回したが、魔族は距離を取るのみで脅威にすら感じていない。
 触れられた頬を強く擦る。擦った手や袖口まで穢れたような気がする。
 魔族はそんなマトリエルを笑い、それ以上仕掛けてくることはなかった。傘をくるくると回している。

「それにしてもあんた、いっつも物質界にいるなぁ。仕事しすぎじゃないか? 前に会ったときより痩せたよな?」
「この地の影を払い浄化するのが私の役目だ。肉の器の疲労など些事でしかない」
「うわーブラック。魔界より労働環境きついんじゃね?」

 高位魔族のくせに、この男は随分と砕けた口を利く。マトリエルは乗せられる形で会話をしてしまっていることにしばし気づかなかった。

「そんなとこより俺と一緒に魔界に来ねぇか? 意外といいとこだぞ。地底だけど、魔造灯のおかげで昼も夜も暗くないし、魔族はみんないいやつだ。生きるために働かなきゃなんねーけど待遇はいい。働きに応じて昇給昇格は当たり前、年二回のボーナス支給に有給休暇はなんと月3日、休日出勤はたまにあるけど残業ナシ。今なら俺の紹介で衣食住も保証するぜ」
「……何を言っている……?」
「わかんないか、まぁそうだよな。天界は文明進めないようにしてるだろうし……それにあんたにとっては、好いた男がいる職場だもんな」

 唐突に差し込まれた言葉に、マトリエルは一瞬息を詰めた。それが相手に付け入る隙を与えると、わかっていても防げなかった。
 動揺するマトリエルに頓着せず魔族は空を見上げる。まるで、雲の向こうの天界のどこに該当の天使がいるのかわかっているかのように。

「真面目で誠実で職務に忠実……絵に書いたような天使だな。そいつはもっと魔界に近いところで働いてるわけか。心配だな?」
「……っ、私の心を読んだのか!?」
「まぁそんなとこ。ふぅん……でもお相手はあんたのこと、なんとも思ってねぇみてーだな」

 ずきん、と痛んだ胸に手を当て、魔族の諫言に翻弄されるなどあってはならぬと慌てて再び剣を構えた。しかしマトリエルの狼狽など魔族にはお見通しだっただろう。
 ゆっくりと一歩ずつ接近する魔族を睨んだまま、マトリエルの剣は僅かに震えながら振り下ろされることはない。

「可哀想に。所詮あんたらは天の奴隷。個性を持つことも特別を作ることも許されない」
「……黙れ……」
「それどころか、大切な相手を想うだけで不浄だ、穢れだと排除する。どんなに個性をなくしたって、別の個体であることは事実だ。恋することが、愛することが悪なのか? 想うことすら許されないのか?」
「黙れ……ッ」
「あいつはあんたを受け入れない。だが俺は、魔界は、あんたの気持ちを否定しない。愛憎も優劣も功罪も善悪もすべて飲み込み受け入れ、奪い尽くす。それが影だ」

 手を伸ばせば触れられる距離に至り、マトリエルは殆ど精神力のみで剣を振るった。もちろんそんな攻撃が当たるはずもないが、それ以上の接近を許すことはなかった。

「強情だな、まぁそこがいいんだけど。また会いに来るよ」

 魔族が去った草原は、なだらかな隆起を見せるだけの平凡な景色で、先程までの邪悪と影に支配された気配など微塵も残していない。
 しかしマトリエルの心に深く残された疵はその後も魂を抉った。
 浄化の任務だけはなんとかこなしていたが、常になく精彩を欠き、明らかに覇気がないマトリエルの様子に周囲の者たちは心配し、訝しみ、蔑んだ。無垢なはずの天使たちがマトリエルへ向け発する念は、彼の舌を強張らせ、翼を重くさせた。

「マトリエル、最近元気がない。どうしたんだ」
「……何も……」

 無二の友人であるルヒエルの聞き取りにも、彼は口を噤んで何も語らなかった。目を逸らして「問題ない」と繰り返す。
 ルヒエルも周囲も、当のマトリエルが不問と為すものを無理に暴くことはできなかった。
 その日もマトリエルは地上へ降り立ち、それほど強力ではないが広範に亘っている邪気を払っていた。
 天の慈悲を請い、自らの力を注ぐ。

「見事なもんだな」

 背後に現れた恐ろしい気配が横に立っても、マトリエルは振り返らなかった。それだけの余裕がないとも言えた。

「……立ち去れ」
「あれ、元気ないな。いつもはまんまるの目をきゅっと吊り上げて睨んでくるのに」
「おまえに構ってる暇は……」
「え? おっと」

 浄化の力を持つあたたかな雨が次第に弱まり、雲を切れさせながら止む。同時にふらついたマトリエルの体を、魔族が慌てて受け止めた。
 白い翼は垂れ、細く青白い肢体は弱々しく腕を突っ張って魔族を拒絶する。しかし熱を持ち、力の抜けた肉の器は魔族の思い通りに運ばれてしまった。

「おいおい大丈夫かよ。すげぇ調子悪そうじゃねーの」
「黙れ……離せ……」
「悪態吐けるくらいにはまだ元気か」

 魔族がマトリエルを運んだ場所は、意外なことに神殿だった。
 物質界には天界の拠り所として、聖なる気で満たされた神殿がいくつも建てられている。神殿の聖気の元なら天使は天界と同様程度に実力を発揮できるが、魔族にとって光溢れる神殿は最も忌避すべき場所のはずだ。

「おまえ、何を……」
「うぇえ……いつ来ても嫌なとこだな神殿ってのは。おい、調子はどうだ? 俺がここまでやったんだから元気になんなきゃ怒るぞ」
「あ、あぁ。だいぶ良くなった」

 光輪に輝きが宿り、翼に張りが戻る。力の入らなかった四肢を自由に動かせるようになると、マトリエルは己が思う以上に疲弊していたことを知った。

「そいつは、良かった……な」

 一方、魔族の男はぜいぜいと苦しそうな呼吸を繰り返している。邪悪な笑みを絶やさず自信に満ち溢れた立ち姿は、今や崩折れ、つらそうに脂汗を流している。
 マトリエルは慌てて魔族を神殿の敷地外へ弾き飛ばした。翼の一振りで吹き飛んだ男は煉瓦道を転がり、無様な鳴き声を発して動かなくなった。

「ま、魔族、生きてるか……?」

 まさかとどめを刺してしまったかと心配になったマトリエルが近寄ると、男はさっと顔を上げて身を起こす。

「はー、マジでキツかった。一瞬昇天しかけたけどもう大丈夫」
「魔族は死しても天には行けぬが」
「慣用句ってやつだよ、お固いなぁ。それよりあんたが元気になって良かった」

 マトリエルを見て笑う魔族に、邪悪なものを感じ取ることはできなかった。影に住まうものなのに、こんなにも影を感じないことがあるのだろうか。
 魔族らしくない魔族だ。
 マトリエルは知らずのうちに、口端を柔らかく綻ばせた。

「あ! 笑った!」

 それを見逃す魔族ではない。主人の上機嫌を喜ぶ犬のように嬉しげに駆け寄り、再び神殿の聖気に酔う姿を見てマトリエルは今度こそ微笑みを隠しきれなかった。
 肉の器に光が満ちる。不自由の無くなった体を動かし、神殿を出て帰り支度を済ませた。
 物質界へ同行した部下たちはきっとマトリエルを探しているだろう。

「彼らに見つかる前に去れ、魔族よ」
「へぇ、逃してくれんの?」
「勘違いするな、ここまで運んでくれた借りを返すだけだ。それに部下たちを危険に晒したくない」
「ふーん。そんなら、もっとちゃんと借りを返してほしいね」
「何、」

 瞬きの間に身を擦り寄せた魔族は、マトリエルの無防備な唇に己のそれを触れさせた。
 ほんの僅か表皮を重ね、すぐに離れる。噛みつかれることを恐れたのか、天使の光気に怯んだか、本当に一瞬のことだった。
 呆然とするマトリエルを見つめる魔族の表情はいつになく晴れやかで、しかしどこか悪戯っぽい感情をも滲ませている。

「隙だらけだぜ、天使サマ」
「な、なっ……!」
「殺される前に帰るわ。またな」

 マトリエルが剣を抜く前にひらりと距離を取った魔族は、そのまま空気に融けるように姿を消した。
 やり場の無くなった怒りや羞恥や様々な感情に翻弄されるしかない。それが魔族の思う壺だとしても、身の内に湧いた思いを消し去ることは容易ではなかった。
 渦を巻く複雑な心中を宥めながら、口唇に触れたのは無意識だった。
 他者が触れたことなどない、自分ですら存在を意識したことのない場所は、魔族が触れたことで熱を持ち、柔らかな感触と不思議な心地良さを伝えてくる。
 これこそが魔のものが齎す堕落なのかもしれないと思いながらも、マトリエルはそこを擦って穢れを振り払うことができなかった。

 魔族と何度も接触していながら、マトリエルは一度も魔族の出現を他の天使に告げていない。
 任務中に遭遇した影の者に手も足も出なかったことを恥じたのが切掛だったが、三度の邂逅に至り未だに上司にすら報告を上げない事実に、もう合理的な理由付けをすることはできなかった。
 情が移ったのではない。だが、あの軽薄で陽気な魔族が天の怒りに焼かれる場面を想像したくなかった、ただそれだけだ。
 その判断が間違っていると気づいたのは、浄化の報告を行うために上司の執務室へ足を踏み入れた瞬間だった。

「失礼し、ま……」

 普段は上司とその補佐しかいない執務室には、名しか知らないほど高位の天使たちが錚々たる顔ぶれで鎮座していた。
 王の右腕と称される最高位の熾天使、その部下、上司である権天使、他にもいくつかの光体。視線を走らせ確認できたのはそこまでだった。
 即座に平伏したマトリエルの頭上から、まるで光の主の如き威厳のある声が落とされる。

「慈雨を司る大天使、マトリエル」
「は、はい」
「そなたには影と通じているとの疑いが掛かっている。事実か」
「っ!」

 思わず顔を上げ、再び急いで頭を垂れたマトリエルの胸中は荒れた。
 間違いなくあの魔族とのことだ。誰かに見られていたのだろうか。もしくは何度も魔族と接するうち、この身に穢れが溜まっていったのかもしれない。それを見抜かれたか。
 肉の器であれば冷や汗が止まらなかったであろうマトリエルの恐怖は、光球の体には微かな震えとして現れる。
 哀れな天使を取り囲む面々は、始めからマトリエルの証言など必要としていなかったようだ。冷酷さすら内包した厳かな声が告げる。

「この者の持つ職能および光気を調べる」
「っ、ミカエル様、それは」
「異論は許さぬ。この者が穢れなき光のしもべであるならば何の問題もない。苦痛も齎さない。そうでなければ消滅させるだけだ。────始めろ」

 誰かが無謀にもマトリエルを庇おうとしたが、意味のないことだった。
 より純粋で、だからこそ暴力的な光がマトリエルの体を貫く。
 強大な光に照らされた天使の心は、必死に隠していた何もかもを曝け出した。

「これは……」
「なんと醜い『欲望』か。本来天使が抱いてはならぬ悪逆だ」
「肉の器を与えた弊害か……光の化身たる天使が、同じ天使に肉欲を抱くとは!」
「それを魔族に付け入られたのだな。この者は影に侵されている」

 やめて、やめて。暴かないで。誰も見ないで。
 マトリエルは半狂乱になって叫んだが、己の内から溢れ出る醜悪な感情は止められない。
 自覚がなかったわけではない。破滅を齎すと解っていても、想いを捨て去ることはできなかった。
 あの魔族の言う通り、誰かを愛することが罪だとは思えなかったからだ。しかし衆目に晒された愛情は形を変え、変質し、ただの浅ましい性欲としか見られない。

「マトリエル……」

 四方から突き刺さる非難の怒声を身を縮めて耐える天使の耳に、絶望に塗れた友人の声が届いたのは、殆ど奇跡だった。
 はっとしたマトリエルの目に映ったのは、強い光体を持つ高位天使たちの間に埋もれるように立ち尽くしていた、ルヒエル。

「あ、ぁあ、あああああ」

 絶対に知られてはいけない想いだった。
 喩え誰かに己の欲を看破され、感情ごと記憶を消される日が来るとしても、彼に事実を知られなければ良いとまで思い詰めた夜もあった。
 それなのに。
 光はこれほどまでに残酷なのか。
 天は、力無き下僕のささやかな願いすら踏み躙るのか。

「大天使マトリエル。そなたの罪は詳らかにされた。これよりその身は主に預けられ、浄化される。その身に溜まった影も欲も跡形もなく雪がれる。喜びなさい」

 裁定が下され、マトリエルを拘束するために光が伸ばされる。
 脱力し、顔を上げることすらできないマトリエルに天使たちの拘束具が触れようとした刹那、世にも恐ろしい破裂音が響いた。

「なっ……今のは?」
「何かに弾かれました! 恐らく影の者の仕込みが発動したのかと」

 影の者。その言葉が四肢に再び力を巡らせる。
 マトリエルは体を転がすように無我夢中で動かし、天使たちの囲いを飛び出した。

「マトリエル────!」

 愛しい男の声にも振り返ることなく走り、何事かと驚く仲間たちの間をすり抜け、物質界へ通じる門へ身を躍らせる。
 考えがあったわけではなかった。ただ逃げた。
 この想いだけは奪われたくなかった。そして、たった一人彼だけは、マトリエルの無様な欲望を否定しなかったことを思い出していた。

 物質界へ近付くにつれ、マトリエルの身は肉の器を纏っていったが、純白だったはずの美しい翼は黒く爛れ、腐り落ちる寸前だった。光輪はくすみ、光を発しない。体を守る力が全て無くなっていることに気付き、マトリエルは一人自嘲した。
 このまま物質界の大地に肉体を叩きつけられれば、不死の天使とて死ぬだろう。
 叶わぬ想いに、許されぬ欲に身を焦がした者の末路には相応しい。
 それすら引き剥がされ、無となって体だけを動かし生きるよりずっと良い。
 地上が眼前にまで迫る。
 しかし、覚悟した痛みはいつまで立っても体に伝わってこなかった。

「おいしっかりしろ、大丈夫か!?」
「……エリゴール……」
「そうだ。やっと名前呼んでくれたな」

 濃茶の髪を振り乱し、真紅の瞳に安堵を宿す魔族エリゴールの姿を見た瞬間、緊張の糸が解けどうしようもなくなった。
 唇を噛み締め涙を流すマトリエルを、エリゴールがそっと胸に抱き寄せる。

「言ったろ? 俺はおまえを必ず手に入れる。言わばおまえは俺に予約されてんだ。俺が手に入れる前にどうにかされちゃ困るんだよ」
「……光を退けたあの影……やはりおまえか」
「害意を持っておまえに触れるものを弾く力だ。一回だけしか発動しないけど、役に立ったみたいだな」

 頬を撫でるエリゴールの手は瞬く間に濡れていった。いつしか血の涙を流していたマトリエルは、苦しげに咳をする。それも赤く染まっているのを見て、己の生の限界を知った。

「ぇ、リゴー、ル。もういい、捨て置け」
「あぁ?」

 怪訝に目を眇めるエリゴールに、マトリエルは努めて気丈に告げる。

「この器はもう、限界、だ。光輪が消えれば、わたしも、消える。……最期に会ったのが、おまえで、良かっ……」

 愛するものの腕の中で死ねるなどと夢想したことはない。それでも、あんな形でルヒエルと別れるなんて想像したくもなかった。
 考えうる限り最悪の途を辿ったにしては、己の理解者に終わりを看取って貰えて重畳だ。きっと最後に与えられた天の慈悲なのだろう。
 背の羽は黒く腐食し、急速に体温を失う体はもう指一本動かせない。光輪には見たこともない黒い罅が入り、割れるのは時間の問題だ。
 せめて最期の一瞬まで世界を網膜に焼き付けようと眼を見開くマトリエルの視界には、大きく嘆息する魔族の姿が映っていた。

「あのなぁ。俺は死体を奪いにわざわざ物質界くんだりまで通ってたんじゃねーよ。これも前に言ったろ、影は全てを奪い尽くす。俺もあんたを奪うために来た」

 呼吸が細くなっていくマトリエルの唇にエリゴールは躊躇いなく口付けた。血が着くことも気にせず、何度も角度を変えて触れてくる。
 苦しくて思わず口唇を開いたマトリエルに、魔族は容赦がなかった。舌を入れて大きく開かせた口に、自身の持つ力を注ぎ込む。

「……っ!?」

 瀕死の肉体がビクンと大きく跳ね、マトリエルは目を丸くした。
 体が勝手に震え制御できない。全身に熱した杭を突き刺されたかのように温度が高まる。

「何、なに、を」
「影を受け入れろ。堕ちてこい────マトリエル」

 私の名を知っていたのか。
 マトリエルの驚愕は言葉にならず、ただ肉の器が影を貪欲に吸収する衝撃に耐える。頭を前後左右に振り回されるかのような混乱と目眩の中、痛みは然程感じなかった。
 ざわざわと皮膚が粟立ち、全身が小刻みな波で揺れている感覚。足の爪から髪の先、心の臓の内側へ至るまで、影によって魂が作り変えられているのが解る。
 冒涜的な変化に恐怖せずいられたのは、エリゴールが絶えずマトリエルの体を撫で擦り、頬や額に口付けを落として落ち着かせようとしていたからだろう。
 やがて乾いた音を響かせ、頭上にあったはずの光輪が地面に落ちた。
 割れた円環は砂のように形を失い、消え去っていく。

「あぁ、私は」

 天使ではなくなってしまった。
 二度と光の国へ還ることの出来ない、影のものへと変貌してしまったのだと理解する。
 頭上を照らしていた光の象徴は消えた。背の翼は残ったが無惨なものだろう。肉の器は形こそ変わらなかったものの、魂にしがみ付くように重さを増し、仮初の肉体ではないと訴えかけてくる。
 全てが変わってしまってから、失ったものの大きさを知る。マトリエルの裡を占める光の存在感は膨大だった。
 知らず流した透明な涙をエリゴールの指が拭う。

「泣くな、っつっても無理か。今は好きなだけ泣いとけ」

 随分と優しげなことを言う魔族だ。言葉に甘え、喪失の感傷に浸りかけたマトリエルの体を何かが再び駆け巡った。
 形ばかりの肉の塊があったはずの腹部。そこから全身へ広がる未知のさざ波。
 天使であった頃は一度も感じなかったその希求は、飢餓だ。

「っと、そろそろ天のお遣い連中がやって来そうだ。マトリエル、動けるか?」
「ぅ……む、りだ。からだ、おかし……」
「だよな。すげー腹減ってるだろ? 動かない方がいい。捕まってろ」

 マトリエルが墜落したのは湖の畔だった。凪いだ濃翠色の水面には、分厚い雲を掻き分け強い光が降り注いでいる。二人が天に見つかるのは時間の問題だ。
 エリゴールは軽々とマトリエルを抱え上げ、暗い湖面へ身を投げる。
 水は二人を包むことなく、地底の世界への道を開いてすぐに閉じた。

 ほんの僅か目を瞑っただけのつもりが、眠ってしまっていたらしい。
 マトリエルは強烈な空腹に耐えかね飛び起きた。途端、体が痛みを訴えて仰臥に戻る。

「うっ……」
「あぁ起きたか。おそよう、お姫サマ」
「……エリゴール」

 薄ぼんやりと暗い部屋だった。
 寝台に寝かされている。周囲を薄布に囲まれたベッドは大きく、たくさんのクッションがマトリエルの体を支えるように配置されている。背に翼を持つマトリエルは平らに寝そべることができないためだとすぐに理解できた。
 エリゴールはいそいそとベッドへ乗り上がり、マトリエルの髪を撫でた。
 視界に入ってきた自らの細い毛束は変わらず光の象徴のような金色で、捨ててきたものを想い胸の奥が痛む。

「私は、どうなったんだ……」
「あんたは光の王に背き、天から追放された。物質界に落ちながら存在を消滅させられるところを、俺が拾って影の地位を与えた。『堕天』ってやつだな」
「堕天……私が……」
「余計な世話だったか?」

 マトリエルはしばし黙考し、緩く首を振った。
 卑しくも、どんな形であれ生きたいと願ったのは自分だ。エリゴールを責める謂れはない。

「私はこれからどうなる」
「あんたの魂は肉の器に定着した。魔族ってのは肉体を脱ぎ着しないもんなんだ、死ぬまでこの体を維持するってこと覚えとけよ。それ以外は、光が極端に苦手になるのと、定期的に影を取り込むのを忘れなければ後は楽しく暮らせるぜ」
「夜行性の物質界の生き物と、あまり変わりないのだな……」
「身も蓋もない言い方すりゃそうだな」

 エリゴールは眉を下げて微笑み、不意にマトリエルへ口付けた。
 薄く唇を開いて男を迎え入れる。エリゴールは魔族らしからぬ親切な態度とは裏腹に、マトリエルの口腔内を長い舌で蹂躙した。

「は、ぁ、ふぁ……っ」

 この行為の本質が接吻でないことにマトリエルは気付いていた。触れ合う粘膜から、影の力が流し込まれている。
 畏れと忌避の対象だったはずの影は、今やこの上なく甘美な蜜のようだった。マトリエルは夢中でエリゴールの舌に吸い付き甘露を求める。
 エリゴールが唇を離す頃には、キスなどこれまでしたことがないマトリエルはすっかり呼吸を乱してしまったが、不思議と飢餓感は和らいでいた。

「死にかけの体を作り変えるときに生命力をギリギリまで使っちまったから、体内の影が足りてないんだ。そのうち自分でどうにかできるようになるが、それまでは俺が与えてやる」
「……こうして、口から、か?」
「お望みとあらば、どこの穴からでも」

 明確な意思を持って太腿をゆっくり撫でられ、マトリエルはぴくりと膝を震わせた。
 恐怖ではない。嫌悪でもない。あるのは期待だけだ。
 さぞ物欲しそうな顔をしたのだろう、エリゴールは淫蕩な笑みを浮かべて再び口付けを落とした。

 身に付けていたものを滑り落とし、うつ伏せになるよう指示される。
 寝台へ体を転がすと、以前より背負う翼が軽く感じた。

「私の翼はどうなってる?」
「見るか?」

 寝台の上部に大きな鏡面が現れた。
 一糸纏わぬ肉の体と金の髪は見慣れたものだが、翼の異様は著しい。肉体を支えて羽ばたけるほど力強く大きかった翼は、所々大振りの羽が抜け落ち不格好で不均衡な姿を晒していた。
 何より目につくのはその色。昏く妖しく、深淵を思わせる黒翼にマトリエルは無意識に身を震わせた。
 自身が影に堕ちたことを実感する。

「綺麗だ。ちょっと草臥れてるけど」

 それなのにエリゴールは、黒い羽を恭しく手で掬い口付けた。

「……趣味が悪いな」
「いやいや俺は正常だっての。天使ってのはどいつもこいつもキラキラ目に眩しくていけねぇよ。ちょっとくらい差し色とか、グラデーションがあっても良いと思わねぇか?」
「そう、かもしれないな……そんな代わり映えのしない天使ばかりの中から、よく毎回私を探し出したものだ」

 天使の肉の器は、髪と瞳の色が多少異なるのみで外見にそれほど違いは現れない。顔貌どころか言動や衣類にまで個性豊かな魔族から見れば、殆ど区別が付かないのではないか。
 鏡の中で自嘲するマトリエルに、エリゴールは鏡の中で笑い掛けた。

「あんたのことはわかるよ、ずっと前から見てた」
「ずっと前から……?」
「あぁ。光を集めたみたいなこの金の髪も、同じ色の目も、気が強く見せてるのに本当は繊細で傷つきやすい心根も……いつも誰かを想って切なそうにしてるのも」

 だから奪ってやりたかった。
 肩に流れた金糸を一房弄びながら、悪辣な言い草とは裏腹に魔族は微笑む。

「俺ならあんな顔させないのにって、いつも思ってた。月並みだけどな」

 背に唇で触れられ、マトリエルはびくりと肌を波立たせた。太い翼骨を支える肩甲骨の周辺は自分で触れることすらない。そこがこんなにも敏感だとは知らなかった。
 それどころか、エリゴールが触れる場所はどこも微かに熱を持ち、撫でられることを待ち望んですらいる。

「ぁ……エリゴール、」
「難しく考えんな。今は足りない影を補充することだけ考えろ」

 深く口付けられながら施された行為は、天使の身であれば生涯知ることのなかったであろう快感ばかり。
 未だ芽吹かぬ快楽の種を丁寧に掘り起こすエリゴールの指先は、決して苦痛を与えることはなく、マトリエルは嵐に翻弄される小鳥のように身を捩って喘ぐしかなかった。
 尻の狭間に指を差し込まれた時、肉の器にはそんな器官があるのかとマトリエルは驚いた程だった。
 天使は飲食をせず、代謝という概念もないため、いくら仮の体とはいえ排泄の器官が備わっていること自体不思議だ。

「俺たち以外にもこういうコトしてた天使がいるんじゃねーか? まぁ俺たちも本来の使い方はしないけどな」

 窄まりを刺激されながら、いつの間にか勃起していた性器を扱かれると視界に火花が散った。

「あ、ぁあっ」

 男体を象徴する性器とて、天使には必要のない物だ。それがわざわざ付けられているということは、魔族の戯言も案外的外れではないのかもしれない。
 何よりそこで得られる快感が尋常ではない。
 強すぎる刺激に思わず体を丸めると、尻をエリゴールの方へ突き出す格好になってしまい、マトリエルは余計に身悶えさせられた。

「ひ、あぁ……そこ、もう、やめ……」
「気持ち良すぎてヤバいって顔だぜ、マトリエル。自分でシたことないのか?」
「あるわけがない……っ、あぁ、んぅうっ」
「ホントか? ここを、好きな男のモノでガンガンに突いて欲しいと願ったことは?」
「ない、ないっ……!」

 己の先走りで濡れた大きな手が、ぐりぐりと先端を抉る。頭が真っ白になり、腰がガクガク震え、腹の中を探っていた指の形がくっきりと感じられた。
 射精し絶頂を迎えたのだと理解したのは、エリゴールが白濁した液体を拭っているのを見てからだった。

「エリ、ゴール。今のは……」
「気持ち良かったろ? 肉の体を得たからにはたまにはああして出したほうがいいぜ」
「……」

 エリゴールは素早く身支度を整え寝台を離れ、すぐに戻ってきた。ぐったりと俯せるマトリエルの裸体を濡れた布で拭き、シーツを取り替える。甲斐甲斐しい世話焼きっぷりだ。
 マトリエルがこのまま動かなければ彼はきっと離れていくだろう。
 身を起こし、エリゴールの衣を引いたのは半ば無意識だった。

「どした?」

 案の定、彼は恐ろしい魔族だとはとても思えない緩んだ顔で振り返る。

「もう終わりか?」
「ん?」
「まだ、続きがあるだろう。おまえは、出していないし……」
「あー。俺のことは気にすんな。初心者に最後までするほど鬼畜じゃねーし」
「……」

 彼はつくづく魔族らしくない。手加減をしてくれたのだと理解しても、マトリエルは掴んだ服の裾を離さなかった。
 エリゴールは困り顔で言葉を接ぐ。

「あー……ほら、あんたは堕天したばっかで混乱してるだろ。続きは、もう少し日をおいてからでもいいと思わないか?」
「……」
「さっきので影はだいぶ補充できたはずだし当分は困らねぇ。アレ以上は体に負担がかかるし、何よりホラ、なんていうか」
「……」
「あーもう。最後までやるのはホントに好きなやつに取っとけってことだ! 天使相手にゃ失恋しちまったけど、あんたみたいなヤツなら選り取り見取りで誰とでもヤれっから」
「なら、エリゴールがいい」

 優しい行為が嘘のように強い力で腕を握られ、寝台に押し付けられる。
 翼の根本が傷まないようにうつ伏せにさせた配慮も、怖がらせないよう浮かべていた微笑みも、全てエリゴールが必死に取り繕ってくれていたのだと知った。

「やめろ。あんたは今混乱してるだけだ。ずっと一途に一人の男だけ見てたあんたが、それ以外のヤツと寝られるわけがねぇ」
「エリゴール、おまえが言ったんだ。私は堕天した。一途で純情だった天使はもういない。今の私は淫らな行為を望み、魔族とも寝られる。そうだろう?」
「強がるな。俺が本気になったら逃してやれねぇ。泣いても喚いても、この腹の奥までブチ込んで犯し尽くすぞ」

 真紅の瞳はぎらぎらと輝き、マトリエルを睨む。拘束された腕は微塵も動かせない。
 まるでどこまで彼自身が入り込むか示すように、無防備な腹部を強く押され、マトリエルが感じたのは恐怖ではなく────ぞくぞくと背筋を駆け抜ける、期待と高揚だった。
 上気した頬と未だ見ぬ快楽に潤む眼を見下ろし、エリゴールは唖然とする。

「なんて顔してんだよ……」
「どんな顔だ? 魔族の一人も誘惑できそうか?」
「……あぁーもう……っ」

 厳しい表情から一転、困惑と諦めに歪む顔のエリゴールを、マトリエルはくすくすと笑いながら再び迎え入れる。それは小悪魔の如き艶然としたものだった。

「どこでそんな誘い方覚えたの、天使サマ」
「『元』だ。今の私は好きでもない男と寝るし、快楽のために男を誘惑もする」
「おっかね~……」

 マトリエルに覆い被さりながらも、エリゴールはクッションを引き寄せて翼の下に押し込むことを忘れなかった。今回は向かい合って行為をするつもりのようだ。煩いほどに高鳴る心音を感じながら僅かに唇を突き出すと、エリゴールはすぐに望みを叶えてくれた。ねっとりと奪われるような口付けに、マトリエルは早くも夢中になる。
 体温を取り戻した肉体は期待に濡れて、目の前の魔族を強烈に誘った。

「手加減はする。けど途中でやめることはない。いいか?」
「任せる……」
「そんな無防備な。はぁ……行く末が心配だ」
「問題ない、今のところおまえ相手だけだから」

 エリゴールは何とも形容し難い表情を浮かべながらも、手を止めることはなかった。だらしなく開かれたマトリエルの脚を掴み上げ、後孔へ指を滑り込ませる。先程まで慣らされていたそこは指一本を難なく飲み込んだ。
 どこから持ってきたのか、潤滑剤を纏った二本目の指が押し込まれる。

「んっ……」
「キツいか?」
「平気だ」

 異物感が大きい割に、マトリエルの性器は立ち上がって雫を溢れさせている。
 悪のように振る舞ってみたところで、マトリエルの天使の本性は未だ魂に染み付いていた。その純潔の心が、淫らな自身を恥じて体を熱くさせる。
 腹の中を探る指が、不意に妙な場所を抉った。

「っひ……!?」
「お、やっと見つけた」

 ただの異物感には耐えられたが、これは無理だ。必死に身を捩って逃れようとするが、エリゴールがそれを許すはずがなかった。

「逃がさねぇよ」
「あぁっ」

 腸壁の一点を押されながら前を弄られると力が抜ける。
 マトリエルは情けない嬌声を上げて翼をばたつかせることしかできなかった。
 じわじわと蓄積する快感は絶頂に至るほどの強烈さがなく、ただただ溜まっていくだけ。逃げられず、かといって自分で慰めようと手を伸ばしても悪戯な魔族に阻まれてしまう。マトリエルは半泣きで解放を乞うことしかできなかった。

「エリゴール、おねがい、もっと強くして……」
「我儘な元天使サマだな。いいぜ、お望みとあらば」

 そう言いながらエリゴールは手を引いてしまった。突然放り出されたマトリエルの体はぐずぐずに蕩け、雪のような肌は赤く染まり、端から融解してしまいそうだと錯覚するほど熟れている。
 涙で滲む視界に、マトリエルはそそり立つ凶悪なものを見た。

「これが欲しかったんだろ、淫乱なお姫サマは?」
「ぁ……なに、それ……」
「何って、あんたにもついてるだろ?」

 脱力した腕に力を込めて体を持ち上げ、下半身を覗く。もう一度エリゴールのものを見て、自身を見下ろし、マトリエルは首を振った。

「同じものではない」
「いやいや同じやつだから」
「違う。そんなの入らない。近づけるな」
「これが意外と入るんだって、大丈夫大丈夫。それに途中で止めないって言ったろ?」
「……」

 マトリエルはこのときやっと、魔族と恐ろしい約束を交わしてしまったことに気付いたが後の祭りだった。
 柔らかく解され、ひくひくと口を開けている後孔にエリゴールの性器が押し付けられる。

「よく見とけ。あんたを抱くのが誰かってことを」

 言われずとも、マトリエルは己の下半身から目を離せなかった。あんな恐ろしい太さの肉棒が、今まで存在を意識したことすらなかった小さな穴に押し込まれている。指など比べ物にならない圧迫感に、押し開かれる痛み。

「あ、あっ……入ってくる……っ」

 それよりもマトリエルの全身を支配したのは、凄絶な解放感と歓びだった。
 ────ずっと愛されたかった。
 生あるものをあまねく慈しみ愛せと教える光の世界では、唯一を持つことは禁忌とされ、我欲など存在しないという前提で構築されている。
 欲望の一切は光に影を差し掛けるものであると。
 存在してはならない願いを自覚してからは、周囲を欺き心を偽り役目に没頭したが、最後までその欲を捨て去ることはできず身を滅ぼした。
 醜い自身を知られてしまったことで敗れた恋が、エリゴールの献身的な愛で埋められていく。

「エリゴ、ぅ、うあっ」
「マトリエル……」

 足の間に陣取って傍若無人にマトリエルを侵す男は、意外なほど切羽詰まった様子だった。
 額に汗して荒い呼気を繰り返す。余裕のない表情には、長く求めたものをやっと手に入れた旅人のように深い歓喜と安堵が綯い交ぜになって折り重なっていた。
 影を自在に操り、天使を堕とす力のある魔族が、非力な元天使の体に夢中になっている。
 その事実は背徳的な悦楽に変換され、マトリエルの背筋を駆け上がった。

「あぁ……は、えりごーる、エリゴール……っ」

 これほどまでに求められて嬉しく思わないわけがない。
 体を揺さぶられ、風に攫われる木の葉のように翻弄されながらも、マトリエルは必死に腕を伸ばし己を苛む男を掴んだ。
 手は振り払われず、エリゴールの体が折れ近付く。剥き出しの肌に爪を立ててしがみ付き、口付けをねだり、与えられ歓喜にまた啼く。
 ぐっと深くを抉られ、同時に前を扱かれて達する。震える腿が挟む男の体も強張っていて、奥に熱い飛沫が叩きつけられる感覚を知った。

「あぁぁ……影、が」

 血肉と光と主の慈悲で形作られた器に、真っ黒な影が満たされていく。口付けだけでは満たされなかった奥の奥まで浸される。影に征服されきった体は、きっともう日の下を自由に行き交うことはできないのだろう。
 これが堕ちるということ。
 なんと甘美な行為か。
 白く染まる思考の中で、とろとろと意識を溶けさせながらマトリエルは思った。
 自分はきっと生まれてくる場所を間違えたのだろう。
 無垢の身に欲望を宿し、一途な想いを貫くこともできず、かといって己を一心に慕う男にすぐさま全てを明け渡してやることもできない。
 目の前の男より余程、影に属する者のようだ、と。

「エリゴー、ぅ……すまない……」
「ヤり終わった直後に謝るの酷すぎねぇか?」
「ちが……おまえを、まだ、愛せそうにないから……だが、いつか、必ず……」

 今までに経験したことのない極度の疲労に加え、エリゴールが優しく髪を撫でるのが心地よく、襲い来る眠気に抗いきれないマトリエルはすぐに寝息を立て始めた。
 クッションに埋もれ、無防備に眠る青年をエリゴールは静かに見下ろす。
 堕天の衝撃も破瓜の苦痛も、マトリエルに弱音を吐かせるほどではなかったのに。エリゴールが捧げる想いに同等を返せないことの方が、彼には悲しく思えたのだろうか。

「あんたほど立派な天使もいなかっただろうに、簡単に手放すなんて天ってのは馬鹿の集まりだな」

 暗色のシーツに散らばる光輝の金糸。いつだって、これに触れてみたかった。
 だが影に属するエリゴールが触れれば、この高潔で美しいものをひどく汚してしまうのではと恐れた。ふざけ半分に戯れで唇を寄せるのが精一杯だった。
 それなのに、マトリエルは美しいまま堕ちて来た。
 内なる輝きを失い青褪めた肌も、変貌した翼も彼の持つ美しさを損なうことは出来なかった。美は彼の心に宿っているのだから。
 天の横暴にただ傷つき、理不尽のうちに影の力で生き永らえても、エリゴールを責めることすらしなかった。
 それどころか、長く片想いをしていたエリゴールの心に報いることができないと詫びるなんて。

「ま、そんなとこも可愛いんだけど」

 汚れた体を拭ってやりながら、淡紅色の慎ましい唇に顔を寄せる。
 僅かに身動いだ拍子に、目尻に溜まっていた涙が一粒零れ落ちた。唇で拭ってやり、そのまま瞼にも口付ける。
 今はまだ生命維持のための関係だとて、これから先時間はいくらでもある。彼の心を手に入れるのは然程難しくはないだろう。

「愛してるぜ、マトリエル」

 どこまで闇に染まろうと、必ず受け止め奪ってやる。
 エリゴールはマトリエルが再び目を覚ますまで横に座り、いつまでも髪を撫でていた。



 ────その日、一体の天使が天界を追放された。
 物質界へ逃げたそれには追手が出されたが、朽ちた羽と光輪の残骸が見つかった時点で捜索は打ち切られ、消滅と見做された。
 その後その地には時折、消えた天使を探す白翼と、消えた天使によく似た黒翼の男が姿を現したが、両者が交わることは永劫なかった。
 黒翼は常に異形の翼を持つ魔族と親しげに寄り添い合い、やがて何処かへ去ったと言われている。



おわり
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