ルピナスの花束

キザキ ケイ

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2話

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 ごく一部の者たちだけが活動を始める早朝。
 日の出と共に起床し、部屋の掃除や書き物をしたり部屋中に積んである本を読むのが私にとっての朝だ。まだ人が少ないうちに食堂へ行き、朝食を食べたらすぐに出勤する。
 人が多い場所は本当に苦手だ。
 そして今日は運悪く、朝から食堂が混んでいた。

「ハロルド、おはよう」
「おはよう……ブリジット。今朝は食堂がにぎやか、だね……」

 空席を見つけるのが難しいほど人が多い食堂に来たのは久しぶりだった。
 なんとかオムレツのモーニングプレートを給仕してもらい、早くも人に酔ってふらつくのをブリジットが空いた席へ誘導してくれる。
 ブリジットは司書仲間で、ブルネットの巻き毛と頬に散ったそばかすがチャームポイントの優秀な同僚だ。同い年ということもあり、サリーの次に私のことを気にかけてくれる、得難い人物でもある。
 私が人混みを極度に嫌うことを知っているからか、爽やかな朝に似合わない心配そうな顔をさせてしまっていた。

「今日は西方騎士団との合同演習があるそうよ」
「だからこんなに人が多いのか……はぁ」
「ハル、顔が真っ青。早く食べて塔に行きましょう」
「そうだね……」

 目眩に似た症状を伴う悪寒を抑え込んでプレートに手を付ける。
 人が多いと、普段は気にならないものが途端に神経を圧迫してきた。地味な司書である私たちのことなど誰も気にしていないはずなのに、「それ」は私の背に伸し掛かり、首に纏わりつき、脚を掬おうとしてくる。

 私は他人が持つ「気持ち」を読むことができる。
 しかも「嫌な気持ち」だけを。

 これは家系による遺伝で、家族以外の誰にも能力のことは話したことがない。
 弟はすべての感情に起因する気持ちを正確に読み取ることができるので、家督を継いだ。
 私は悪感情ばかり敏感に受け取り、能力の制御も不十分なため、子供の頃から利発とは程遠い存在だった。今も状況はそう変わらない。
 力に振り回される私は弟の補佐をすることもできず、家を出てこうして一般職に就いた。
 司書だって立派な資格職ではあるが、王にすら重用される実家の仕事に比べれば吹けば飛ぶほど些細なものだ。

 静かな場所で他人といるときは、余程大きな感情でなければ受け取らないよう能力を遮断することができる。
 しかしこういった広い場所で、周りにたくさんの人間がいるとダメだった。
 有象無象の感情が私の中に流れ込んできて、気分の悪さを齎す。吐き気が起きたり、急に涙が出てきてしまうこともあった。
 今も合同演習のために早朝から駆り出される兵士たちの不平や不満が、体の外側に黒い渦を巻いている。
 【嫌だ】【面倒だ】【眠い】【怠い】……そんな言葉が質量を持って、私の心を壊そうと機会を伺っている。
 せっかくのシェフのオムレツもサラダもスープも、味を感じない。それでもなんとかすべて胃に収めた。朝食だけはしっかり食べないと倒れてしまうのは、経験則から知っている。

 先に食べ終わったはずのブリジットは、私の食事を待ってくれていた。
 皿を片付けてくれ、さり気なく背中を押して食堂の出口へ促してくれる。自分より小柄な彼女に守られる構図は気恥ずかしかったが、自分のことに集中していなければ今食べたばかりのものを戻してしまいそうだった。

「あ、りがとう……ブリジット」
「大丈夫? 一人で塔まで来られる?」
「あぁ……ここまで来ればなんとか」

 食堂塔から離れた場所でブリジットと別れる。
 怠い足に鞭打って自室に戻り、仕事着のローブに着替えた。
 私が図書塔の司書という仕事を気に入っている最大の理由は、仲間の司書たちからは殆ど「気持ち」を感じることがないからだった。
 彼らはいつもハッピーだ。本に囲まれていることが無上の幸福。
 良い感情は私に届かない。彼らが幸せであればあるほど、嫌な気持ちは掠れて消えて形になることがない。稀に休日出勤や残業による怨嗟の声が聞こえることがあるくらいで、それだけなら遮断できる。
 図書塔にやってくる人も殆どは本が目当てだからか、カウンターで接しても影響を受けることは少ない。

 自室で気分を落ち着かせたため、独身寮の部屋から図書塔までの道はふらつくことなく歩くことができた。
 いつも通りの笑顔を浮かべて、できるだけ元気に見えるように挨拶しながら職場へ入る。
 朝から世話になってしまったブリジットへ目礼していたら、目の前に仁王立ちのサリーが立っていた。

「今日は一日内勤!」

 堂々と業務内容変更されてしまった。
 自分ではしっかりできていたつもりだったが、まだ少し顔色が悪かったらしい。
 私の胸くらいまでしか背丈のない小柄なサリーの凄まじいオーラに気圧されて、すごすごと引っ込み事務室の机で書類作業に勤しんだ。
 カウンターは疲れるし、またあの感情の奔流に少しでも触れるかと思うと気分が悪くなりそうだったから、サリーの言いつけはありがたかった。
 思えばその日はついてない一日だったんだろう。
 あの時点で、体調不良で半休でも取っていれば良かったのだろうか。



「ハロルド。その……少し、付き合ってくれないか」

 ルーファスが図書塔へ顔を出したのは、昼休み前だった。
 普段は利用者用の正面玄関から入ってくるのに、今日は珍しく裏口から私を名指しで呼び出してきた。なにやら用があるらしい。
 なんだか歯切れ悪く、気まずそうな顔をしているルーファスを不思議に思いながら、私は了承の返事をした。
 その途端、ルーファスからぶわりと感情が膨れ上がる。

(うっ……)

 それは【嫌だ】という気持ちだけだった。
 その割に随分と大きい。私を飲み込もうとせんばかりに、急激に膨れ上がった悪意が重苦しいカーテンのように視界を覆う。
 ルーファスから「気持ち」を感じることは今までなかったから、油断していた。咄嗟に遮断することができずに吐き気を必死で堪えていたら、断片的にルーファスの言葉が耳に届いた。
 肩にのしかかる気配が薄くなって、ルーファスが去っていくのが見えた。
 彼は私の仕事上がりに合わせてまた来ると言う。

(あれほどまでに嫌だと思っているのに、なんの用事があるんだろうか)

 プレッシャーが消え、膝から力が抜けた私は塔の裏口でしゃがみこんでしまった。ルーファスの意図がわからない。
 それ以降はなんだか上の空になってしまって、また昼食を摂るのを忘れ、サリーに叱られた。

 他人の仕事まで奪って机に齧りついているうちに、すっかり日が暮れていた。周囲がちらほらと退勤を始めたのに気付いて、書類を纏めて仕舞う。
 正直言って憂鬱だった。
 ルーファスは自分から誘ってきたくせに、私と会うのが嫌だという。
 なにか事情があるのだろうが、距離を縮めることができていると思えていた相手に拒絶されているという事実が足取りを重くさせた。
 帰り支度をする人数も疎らな職場を後にして、石の塔から外へ出る。
 重い木戸をゆっくり押し開けると、塔の壁面に背を預けてルーファスが待っていた。目が合い、無意識に肩を強張らせてしまったが、そんな私の様子には気がつかないようだった。
 近づいてくるルーファスは昼のときほど嫌な感情を纏ってはいなかった。
 それでもいくつか感じ取れるものはある。やはり嫌気が大きく、複雑な気持ちがいくつも絡み合っているようだ。
 いつもは私の目を見て話してくれる彼が、今は視線を掠らせすらしない。

「悪いな。ちょっとこっちに来てくれるか」
「……」

 暮れていく夕日に背を向けて歩くルーファスについていく。
 塔の裏手は普段から人気がない場所だが、ルーファスはさらに奥まった林のような場所の手前で足を止めた。騎士団が、滅多に使わない備品などを納めている倉庫が立ち並ぶ一角だった。
 足を止めてからもルーファスは口を開かず、こちらへ背中を向けたまま黙りこくってしまっている。
 気は進まないが、こちらから促してやらないとどうにもならなさそうだ。

「……ルーファス、なにか話があったんじゃないのか」
「あ、あぁ……」

 弾かれたように振り向いたルーファスは、私と目が合うと露骨に逸してしまった。
 傷つかなかったといえば嘘になるが、そんなことより直後に彼の口から出た言葉のほうが私には衝撃的だった。

「あー……その……ハロルド」
「うん」
「好き、だ。俺と、付き合ってほしい」
「……は?」

 ルーファスは目を泳がせ、いつになく所在なさげに指先を動かしていた。私は突っ立っていた。
 一般的な愛の告白だ。しかも、自身の想い人から。
 ふつうなら嬉しいし、私がふつうの人間なら一も二もなく了承しただろう。
 だが今私は、押しつぶされそうなほどの質量を持ったルーファスの悪感情を全身で感じていた。【嫌気】【後悔】【焦り】……こんな気持ちで告白されても、それが真実だとは到底思えない。
 私が探るような目をしたからだろう、ルーファスは視線を合わせないまましどろもどろな言い訳をしはじめた。しかし私は彼の口から紡がれる言葉は聞いていなかった。
 大きな感情は、時にさらに具体的な像を結んで知覚することができる。
 ルーファスの感情の裏に隠されたイメージに、私は嘆息したくなった。
 夜の酒場、あまり柄の良くない同僚と賭け事をするルーファス。彼はそれに負けて、「誰かに告白をする」という罰ゲームを負わされたらしかった。

(……馬鹿らしい)

 ルーファスは見目が整っているし、騎兵隊所属ということもあって一部の女性から「王子様」という渾名をつけられている。そんな彼が女性に罰ゲームで告白したと分かれば、ひどい事態になるのは明白だった。
 本気にしそうな女性ではなく、未婚で、告白を歯牙にも掛けないでいてくれる、急に呼び出しても簡単に付いてきそうな相手。
 それに自分が選ばれたのだとわかってしまった。

 本当に馬鹿馬鹿しい。
 そんなもののために体を張って男に告白なんかするルーファスも、嘘だとしても「好き」と言ってもらえたことに体が浮いてしまいそうだと思うほど喜ぶ自分の心も。

(向こうが吹っかけてきたんだ。少しからかってやるくらい、許されるだろう)

 どうせこの林のどこかに、賭け事のメンバーが潜んで成り行きを見守っているんだろう。しきりに辺りを気にするルーファスの様子が良い証拠だ。
 私は完全に自棄になっていた。やや距離のあるルーファスに自分から一歩近づく。
 はっとする彼の無防備な体に自身を擦り寄せて、にっこりと微笑んでみせた。

「嬉しい。私もあなたのことが好きです」
「……え」
「これで私たちは恋人同士だね。とはいえ私は同性の恋人というものがよくわからないし、お互いのこともあまり知らない。まずは親睦を深めるところから始めようか」
「あ、あぁ……?」
「騎兵隊は明日非番だったね。どうだろう、デートというのは。城下においしい魚料理を出す店があるんだ」
「わ…………わかった」

 顔中に疑問符が浮かんでいるルーファスの間抜け顔がおかしくて、作り物ではない笑みが溢れる。
 呆然としたままのルーファスの頬に軽く口付けをして、そっと離れた。明日の昼前に南側の城門前で待つことを一方的に言い捨て、さっさと歩き出す。
 きっとどこかにいる傍観者たちも、予想外の出来事に驚いているに違いない。
 騎士を出し抜いてやったという気持ちで足を振るって歩いたが、すぐに後悔の念に駆られた。

「私はなにをしてしまったんだろう……」

 ルーファスの肌に触れた唇が熱くて、それなのに心が冷え切っていて、どうしようもない思いだけが残った。

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