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1話
しおりを挟む日光が射さず、風も吹かない石造りの無骨な塔。
この職場のことを私は気に入っている。
ずっと書き物をしたり、資料整理したり、黙々と作業をするのは楽しいし、なによりここで働く人間は塔の中の物がすべて読み放題だ。仕事に支障がない範囲なら、業務時間内でも読書していて良い。一日中でも閉じこもって本を読んでいたいくらいだ。
なのに、私の同僚たちはそう思わないらしい。
「ハロルド! あんたお昼も食べずになにしてるんだい、ちょっと散歩でもしてきな!」
おせっかいな……よく言えば面倒見のいい同僚、サリーが女性とは思えないほどの力で床に座り込んで読書に耽っていた私を引っ張り上げる。
一日中塔に籠もって日にも風にも当たらなければ、カビが生えるからと強引に外に出され、私は途方に暮れた。
(塔の中にいればずっと安心できるのに……)
二、三時間帰ってくるなと追い出された手前、すぐに戻るわけにもいかず、とぼとぼと石畳を歩く。
整備された黒茶の道はとても歩きやすいが、突っ掛けの木靴では少し足の裏が痛い。
私の職場────国立書籍所蔵研究所、別名図書塔は広大な王宮の敷地の片隅にひっそりと立っている。
飾り気のない石組みの灰色は、朝も夜も存在感が薄い。すぐそばに聳える王城どころか、有事の際には砦としても活用される実用的なデザインの騎士団塔にすらなにもかも敵わない地味な建物だった。
そこに勤める私たち書籍保全研究者───通称司書たちも地味で、忘れられがちな存在だ。
日々発行される書籍を集め、研究または適切に保存する仕事。
望まれれば過去の記述や歴史を紐解く。稀覯本を除く一般書籍は貸出もやっている。
極力人前に出ない仕事、ということで司書になった私にとって、貸出カウンター業務は苦痛だ。それでも、当初予定されていた就職先に比べれば人と接する機会は少ないので、贅沢は言えない。
骨に響きそうな硬い道路を横切って越え、土を踏む。背の低い草が刈り込まれ一面に広がっている。ゆっくりとそこを歩けば、徐々に傾斜がついて小高い丘へと繋がる。
ここは私のお気に入りの場所だった。
手入れされているようなのに人とすれ違うことがない。見下ろす景色も良いし、澱んだ空気に慣れた肺に青々とした風を吹き込んでくれるようだ。
そして私がここへくる理由はもう一つある。
「今日は……いない、のか」
丘を降り石畳を越え、さらに向こうにある開けた土地。
騎士団塔の前に広がる演習場の一角には、騎兵隊の訓練地がある。
厩舎の立地によっていつも向かって右手の森の近くで訓練を行う騎兵隊の光景を見るのが好きだった。
いや、本当はそんな理由ではない。私が目で追うのはいつも一人だけだ。
目にも鮮やかな金髪。あの繊細な色味の金糸が、実は毎朝寝癖を必死で直した結果だと知ることができるとは、少し前の私なら想像もできなかっただろう。
なにを見つめることもなくぼうっと時間を過ごした。
日が傾いたので、サリーが私に課した天日干しという役目は十分果たせているはずだ。
草で滑らないようゆっくりと丘を下り、人のまばらな裏道を歩く。
王城の裏手は王宮内で働く人間しかいないため、出勤帰宅時間帯以外は閑散としている。それでも人がいないわけではない。
(やはり『刺さる』……はやく戻ろう)
背中に追いすがってくるものを無視して、足早に石の塔へ入った。
通用口を潜ると、事務室でばりばりと仕事をしていたサリーと目が合う。
「おかえりハロルド。日光浴はできた?」
「少なくともカビは生えていないよ」
「そう。お昼は何食べてきたんだい?」
「…………あ」
そういえば塔からはやや遅めの昼休憩のつもりで追い出されたのだった。
ついつい寝食を忘れてしまう私が、サリーはじめ同僚たちから妙に過保護に扱われていることは自覚していたが、昼を抜いたくらいでサリーの表情がみるみるうちにモンスターと化していく光景にはいつまでも慣れない。
「ハル! あんた何のために外へ」
「さ、さぁて、私の午後の仕事はカウンターだったね。ブリジット、交代するよ」
「話はまだ終わってないよハル!」
事務室を回り込んで表玄関のほうへ出ると、そこは図書室エリアと繋がっている。
やや張り出した構造の空間は一人がけの椅子と壁に埋め込まれた木のテーブルがあり、貸出と返却を行う場所だ。事務室とそこを隔てる簡単な木の扉を押して、カウンターに座っていた同僚と交代した。
いくら説教婆であるサリーとはいえ、利用客の目に触れる場所に出てしまえば追ってこられない。彼女の怒りが収まるまでここで仕事を続けることにした。いつもは苦手なカウンター業務が、今日は有り難いシェルターのような役割に思える。
ブリジットが途中で席を立ったため、中途半端になっていた返却目録の続きを記入し始めると、頭上で小さく笑い声がした。
顔をあげるといつからそこにいたのか、背の高い男が目の前に立っている。
「ルーファス」
「こっちまで聞こえてたぞ、ハロルド。昼飯まだなのか?」
「あ、はは……実は食べそびれてしまって」
「そんなことを言って、食べる気がなかっただけだろう」
美しい金の髪をさらりと揺らして微笑む男────ルーファスは、騎兵隊所属の騎士だ。
兵士や騎士がこの塔へ足を運ぶことは少ない。本を読んだり司書に会いに来るのはもっぱら学術塔や王城の人間で、仲間たちは騎士団からはこの塔が見えないのだろうと冗談で揶揄するくらいなのだ。
しかしこの男は奇特なことに、一週間ほど前から毎日のようにここへやってくる。
本を借りていくかどうかはまちまちだが、読み終わった本のことをすぐに誰かに話したいと言って、私に声を掛けてくれるようになった。女性が多い司書の中で、同性の私が話しやすかったのだろう。
読む書籍の趣味が似ているということが分かってからは、互いに少しだけ雑談もするようになった。
丘の上から見つめるだけだった彼が、目の前にいることに喜び動揺する心が、彼に伝わらないと良いのだが。
「ハロルド、もしよかったら一緒に食事へ行かないか」
「え?」
「行き先は食堂塔だがな。サリー女史もお前の枝のような細い手足を心配してくれているんだろう」
「……う、ん。行こう、かな」
「決まりだ」
ルーファスは勝手に奥のサリーと会話して、いつの間にか私の昼休憩を一時間伸ばしてしまった。
いつもはこんなに遅くないはずの頭の回転が、錆びついたように機能しない私の腕を取ってルーファスが歩き始める。
ただ、嬉しいという感情が沸き起こる。触れている肌が発熱しているかのようだ。
彼にとっては、誰かと一緒に食事を摂ることなど日常茶飯事だ。私を誘ったのもタイミングと都合が良かったからというだけに決まっている。
そんな些細な接触が、私にとってはとてつもなく嬉しく、意味のある事柄だなどと想像すらしないだろう。
気がついたら私は食堂塔の中でテーブルに座っていて、目の前にはサラダとパンとスープのトレーが置かれていて、正面にはルーファスがいた。
ぼうっとしていてもいつも食べるメニューを頼むことができた自分が、少し可笑しい。
「それだけしか食べないのか? 夜までもたないだろう」
「え、ぁ……夜も、スープだけで」
「……」
分厚いステーキが乗った皿を前にしているルーファスが、露骨に呆れた表情になった。
成人男性として食事量が少ない自覚はある。
だが無理に食べても吐き戻してしまうし、夜は帰って寝るだけなのだから少なくてもいいはずだ。そもそも昼食にパンを付けるのすら久しぶりだった。サリーなら大喜びして褒めてくれるだろう。
そんなことを考えながらサラダにフォークを潜り込ませると、ルーファスが無言で肉の一部を切り取って私の皿に置いた。
「もうちょっと食べろ。いつも青白い顔で心配なんだ」
「生命維持に必要なくらいは食べているよ」
「そういうことじゃないんだがなぁ」
苦笑するルーファスが眩しくて、久しぶりに肉の塊を頬張ることで目線を外す。
好きでも嫌いでもない脂身の少ない肉はよく火が通っていて、なぜだかいつもより美味しく感じられた。
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