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06.引き金
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やけに爽やかな空気を感じて目が覚める。
体を起こすとブランケットが滑り落ちた。まだしょぼしょぼと霞む目を擦ってクリアにし、周囲を見渡す。
大人の男が二人寝転んでも余裕のあるベッドに、達真は一人きりだった。
左を向くとブラインドカーテンが開かれて、眩しい朝の日差しと共に小鳥の鳴き声が耳をくすぐる。いわゆる朝チュンのシチュエーションだが、達真の体に違和感はなかった。
いつもの癖で首元を摩り、異物感がないことに手が止まる。
(そうだった。首輪を外してもらって、そのあとあいつとメシに行って、酒飲んで酔い潰れて)
徐々に昨日の記憶が戻ってきた。
あのアルファは本当に達真になにもしなかったらしい。
正直、信じられない。例えお互いに番がいたとしても、何もないとは言い切れないのが世のアルファとオメガの常だ。
オメガは番以外に拒否反応が出るとはいえ、アルファが力づくで押さえつけてしまえば関係ない。アルファに暴行されたとオメガが訴え出ても制裁されることはまずない。第二性による差別が減ってきているとはいえ、現実は甘くない。
それなのにあの男は、一ツ橋は、なにもしてこなかった。強いていえばキスされたくらいか。
無意識に額を撫でていた。
慌てて手を下ろすと寝室のドアが開き、一ツ橋が顔を出す。
「あ、起きてる。おはよう達真くん」
「……おう」
「冷蔵庫の中身あんまりなくてカンタンなものしか作れなかったけど、よかったら食べにおいで。飲み物は紅茶とコーヒーどっちがいい? それともしじみの味噌汁?」
「……コーヒー」
「はーい」
一ツ橋の頭が引っ込んでドアが閉まり、無意識に詰めていた息を吐き出す。
いつか見たような朝の風景だ。一ツ橋の態度も全く変化はなかった。
首輪外しを紹介してくれたことといい、代金を肩代わりしてくれたことといい、一ツ橋は達真の信用を取り付けようと行動しているように思える。
加えて昨日、酔い潰れた達真に手を出さなかった。ヒート時であっても最後の一線は超えなかった。
少しは信用できるか……?
いや。達真は自分に言い聞かせるように首を振る。
アルファを信じるなんてことできるはずがない。警戒を怠ったが最後、無防備なオメガの末路など惨めなものだ。
絆されそうになっていることを自覚し、気を引き締めなくてはならない。
とはいえ空腹は満たしたい。のそのそとベッドから出て、いい匂いのする方へ足を向けた。
昨日酒盛りをしたリビングダイニングに一ツ橋がいて、テーブルの上にはサラダボウルとハムエッグ、きつね色に焼けたトーストがそれぞれ高そうな皿に盛り付けられている。
達真が洗い物でもしようものなら1日で割ってしまいそうな薄く繊細な陶器のマグにコーヒーが注がれ、一ツ橋の笑みが添えられた。
「髪がすごいことになってるよ。先に顔洗っておいで」
「……ん」
「洗面所は寝室の向かいだよ。急がなくていいからね」
ざっと顔を洗って髪を簡単に整えて戻ると、一ツ橋はコーヒーを飲みながらタブレットを触っていた。
一ツ橋の対面の椅子を勧められ大人しく座る。ハムとタマゴの焼けた良い匂いと、バターが塗られたトーストの香ばしさが鼻をくすぐって空腹感が増す。
両手を合わせてから遠慮なくトーストにかぶりつくと、ニコニコと笑っている一ツ橋と視線が絡んだ。
「……ンだよ」
「良い食べっぷりだなと思って」
「おまえも食えよ。冷めるぞ」
「うん。ね、どうしてアルファが嫌いなの?」
「……飯がまずくなる話だ」
爽やかな朝にする話じゃない。
ましてや達真と一ツ橋はそんな踏み込んだ話題を軽く交わせるような関係性ではなかった。少なくとも達真はそう思っていた。
「理由なんかねーよ。オメガはアルファのこと嫌いなもんだろ」
「そうかなぁ。宇佐見さんは番のこと、信頼してそうだったよ。達真くんのバイト先の副店長さんも、僕のこと怖がってはいたけど嫌いには見えなかった」
「あいつらは……違うんだろうよ」
「うん。つまりオメガも全員がアルファを嫌いなわけじゃない。必ずしも大きな括りで決めつけることはできない。達真くんだって、オメガは淫乱で孕むだけの存在だ、なんて決めつけられたら腹が立つでしょ?」
「……なにが言いたい」
フォークで皿のハムを突き刺した音がガシャンと大きく響いた。
オメガがそう言われることが多いことは当然知っている。達真も何度も似たような言葉で侮辱されてきた。一ツ橋も所詮同じような種類の人間なのか。
喧嘩を売るような物言いをしたくせに、一ツ橋の表情は穏やかだ。
「僕も他のアルファと十把一絡げにされたらたまらない。僕は僕だ、他のアルファとは違う。他の男とも。比べられることは仕方ないけど、属性で決めつけられるのは困る」
「……」
「達真くんも僕のこと、アルファの一人じゃなくて、一ツ橋クリスとして考えてみてくれない?」
ぐうの音も出なかった。
アルファが嫌いな以上に、達真はオメガである自分が大嫌いだった。憎悪していると言ってもいい。
アルファやベータであれば存在しないヒート。ベータであれば人生を左右されることまではないフェロモンの有無。ベータであれば受けることのない中傷や謗り。ベータの男に生まれていれば、同じ男に組み敷かれることもなかった。
今までの生き方が全部嫌で、これからの未来に絶望しかない。
オメガの体が憎かった。
しかし自分を呪ってばかりでは、生きていけない。抑制剤を買う金だけは稼がないと、一番嫌いなヒートすら治められなくなる。
生きるために、嫌悪の矛先を何かに向ける必要があった。
嫌ってもいい、憎んでも構わない何かに───。
オメガだからと一括りで嘲られることが嫌いだったはずなのに、いつしか自分も同じようにアルファを括って嫌っていた。
「……悪かった。オメガにも色々いるのに、同じようにアルファにも色々いるってこと、忘れてしまっていたみてぇだ」
項垂れた達真に掛けられる声はいつも優しい。
「謝る必要はないよ。オメガがアルファを嫌うことも、達真くんがアルファを嫌うことも理解できる。でも僕は、達真くんが嫌がることをしないし、達真くんを嫌なことから守れる力があると思っているよ」
「出会い頭に舌入れるキスしてきた奴の言うことか」
「うっ……アレについては申し開きのしようもない……衝動的に、どうしても触れたくて先走りすぎてしまったんだ。今更だけど、ごめんなさい」
とても決まり悪そうに深く頭を下げた一ツ橋に、達真は遠慮なく笑った。
一ツ橋に触れられて嫌だったことがない。それはあのときも同じだった。結局は舌を噛んで遠ざけたが、それは防御反応としての行動だった。
このまま身を任せれば、どこまでもこのアルファに許してしまうのではないかという恐れ。
あの時感じた恐怖と、正反対の位置にあるはずの安堵感は間違っていなかったと思う。
「そういやあのとき噛んだ舌。大丈夫なのか?」
「んー……実はまだちょっと痛くて」
「ふぅん」
テーブルの向こうで苦笑する一ツ橋の胸ぐらを力任せに掴んで引っ張る。
ほとんど抵抗もなく板面に上体を乗り上げるようにして引きずりあげられた一ツ橋は、ポカンとした間抜け面を晒していた。その薄く空いた口に遠慮なく噛み付く。
すぐさま絡めた舌はびくりと跳ねて、逃げ出そうと奥へ引っ込む。それを達真は強引に引きずり出し、自分が噛み付いたと思しき場所をねっとりと舐め上げた。
痛みに呻いた声に満足して、掴んでいた襟元を離してやる。
満足気に唇を拭う達真を、驚きに目を瞠る一ツ橋が見上げた。
「まだ痛そうだな。ざまぁみろ」
「い、今のって……」
「そうだ、おまえの家犬だけじゃなく猫もいるんだろ。紹介しろよ」
「あ……うん」
呆けていた一ツ橋がのろのろと動き、リビングに繋がる部屋のドアを開けた。
途端にブラウンカラーのスタンダードプードルが飛び出し、主人の体に伸び上がって挨拶してくる。
その横をのっそりと一匹の猫が通り過ぎた。
毛並みの美しい三毛猫は真っ直ぐソファーに向かい、端っこに丸くなって毛繕いを始める。
一頻り一ツ橋に挨拶したプードルのマロンが、今度は達真に飛びかかってきた。「なんでいるの!?」と言わんばかりに尾を振る様子に自然と口角が緩む。
「よう、数日ぶりだなマロン。そっちのレディは?」
「この子はミケだよ」
「マロンにミケって、おまえネーミングセンスねぇなぁ……」
「よく言われる」
毛の色で安直な名前をつけられてしまった二匹は、達真を受け入れてくれたようだった。片方は尻尾をぶんぶん振って、片方は耳だけを向けて我関せず。
どちらかといえば犬の方が飼い主似だなと思いながら茶色の縮れ毛をわしわしと撫でる。
アルファの家にいて、こんなにリラックスできたのは初めてかもしれない。
それには動物たちも一役買っているだろう。ペットを大切にできるのは余裕のあるものだけだ。
思い出さないようにしている、置き去りにした家と日々を思い出す。
あの家に動物がいても、きっとすぐに逃げ出すか死んでしまっていただろう。───達真と同じように。
ここはそんな死の気配がない。
あるのは柔らかな雰囲気と、人懐っこい大きな犬、ソファで三色毛並みの猫を撫でている男、それを嫌そうに受け入れる猫だけだ。
やはりアルファである以上、信用することはできない。
でも一ツ橋だけは、別の枠に入れてみるのも悪くないかもしれない。
自然と零れた笑みを取り繕うことなく、達真は立ち上がろうとして、がくりと膝をついた。
「っ!?」
「達真くん! どうしたの!?」
慌てた一ツ橋が駆け寄ってくるが、達真自身にも何が起こったのかわからない。
いや、どういった現象が自分の身に起こっているのかは嫌でも理解できている。力が抜け、体温が上がり、体の奥が疼き出す。
ヒートだ。
しかし達真のヒートはつい数日前、突発的に発生した周期外れのものを他ならぬ一ツ橋が治めてくれたばかり。こんなに短期間に何度も起こるはずがない。
荒い息が止まらず、胸元を握りしめて俯く達真の背に一ツ橋の手が添えられた。
「達真くん、大丈夫?」
「───ッ!」
どくり、と心臓が高鳴った。
アルファ。このアルファを受け入れろ。今すぐしがみついて腹の奥に精を受けろ。
身体中の細胞が叫ぶように一ツ橋へ意識が向かう。
どうなっているんだ、この強烈な希求は。この男は番じゃない。番じゃないアルファをオメガが細胞レベルで求めるなんてことがあるのか?
混乱の極地にいる達真の思考は置いてけぼりで、体は素直にアルファを求めた。
熱で潤んだ瞳が艶やかに一ツ橋を見つめる。震える手が目の前のアルファを離すまいと必死にしがみつく。
「達真くん……?」
不思議そうにする一ツ橋に自らのフェロモンが届いていないことがこんなにももどかしい。
苦しい。気付いて。楽にさせてくれ。
達真に考える力はもう残っていなかった。ただ熱に呑まれ、欲望に支配された獣だけがいた。
「おねがい。おれに、触れて」
力なく回した腕は振り払われることなく、確かに受け止められる。
内側からの熱に炙られた両眼から、堪えきれない涙が達真の頬を伝った。
体を起こすとブランケットが滑り落ちた。まだしょぼしょぼと霞む目を擦ってクリアにし、周囲を見渡す。
大人の男が二人寝転んでも余裕のあるベッドに、達真は一人きりだった。
左を向くとブラインドカーテンが開かれて、眩しい朝の日差しと共に小鳥の鳴き声が耳をくすぐる。いわゆる朝チュンのシチュエーションだが、達真の体に違和感はなかった。
いつもの癖で首元を摩り、異物感がないことに手が止まる。
(そうだった。首輪を外してもらって、そのあとあいつとメシに行って、酒飲んで酔い潰れて)
徐々に昨日の記憶が戻ってきた。
あのアルファは本当に達真になにもしなかったらしい。
正直、信じられない。例えお互いに番がいたとしても、何もないとは言い切れないのが世のアルファとオメガの常だ。
オメガは番以外に拒否反応が出るとはいえ、アルファが力づくで押さえつけてしまえば関係ない。アルファに暴行されたとオメガが訴え出ても制裁されることはまずない。第二性による差別が減ってきているとはいえ、現実は甘くない。
それなのにあの男は、一ツ橋は、なにもしてこなかった。強いていえばキスされたくらいか。
無意識に額を撫でていた。
慌てて手を下ろすと寝室のドアが開き、一ツ橋が顔を出す。
「あ、起きてる。おはよう達真くん」
「……おう」
「冷蔵庫の中身あんまりなくてカンタンなものしか作れなかったけど、よかったら食べにおいで。飲み物は紅茶とコーヒーどっちがいい? それともしじみの味噌汁?」
「……コーヒー」
「はーい」
一ツ橋の頭が引っ込んでドアが閉まり、無意識に詰めていた息を吐き出す。
いつか見たような朝の風景だ。一ツ橋の態度も全く変化はなかった。
首輪外しを紹介してくれたことといい、代金を肩代わりしてくれたことといい、一ツ橋は達真の信用を取り付けようと行動しているように思える。
加えて昨日、酔い潰れた達真に手を出さなかった。ヒート時であっても最後の一線は超えなかった。
少しは信用できるか……?
いや。達真は自分に言い聞かせるように首を振る。
アルファを信じるなんてことできるはずがない。警戒を怠ったが最後、無防備なオメガの末路など惨めなものだ。
絆されそうになっていることを自覚し、気を引き締めなくてはならない。
とはいえ空腹は満たしたい。のそのそとベッドから出て、いい匂いのする方へ足を向けた。
昨日酒盛りをしたリビングダイニングに一ツ橋がいて、テーブルの上にはサラダボウルとハムエッグ、きつね色に焼けたトーストがそれぞれ高そうな皿に盛り付けられている。
達真が洗い物でもしようものなら1日で割ってしまいそうな薄く繊細な陶器のマグにコーヒーが注がれ、一ツ橋の笑みが添えられた。
「髪がすごいことになってるよ。先に顔洗っておいで」
「……ん」
「洗面所は寝室の向かいだよ。急がなくていいからね」
ざっと顔を洗って髪を簡単に整えて戻ると、一ツ橋はコーヒーを飲みながらタブレットを触っていた。
一ツ橋の対面の椅子を勧められ大人しく座る。ハムとタマゴの焼けた良い匂いと、バターが塗られたトーストの香ばしさが鼻をくすぐって空腹感が増す。
両手を合わせてから遠慮なくトーストにかぶりつくと、ニコニコと笑っている一ツ橋と視線が絡んだ。
「……ンだよ」
「良い食べっぷりだなと思って」
「おまえも食えよ。冷めるぞ」
「うん。ね、どうしてアルファが嫌いなの?」
「……飯がまずくなる話だ」
爽やかな朝にする話じゃない。
ましてや達真と一ツ橋はそんな踏み込んだ話題を軽く交わせるような関係性ではなかった。少なくとも達真はそう思っていた。
「理由なんかねーよ。オメガはアルファのこと嫌いなもんだろ」
「そうかなぁ。宇佐見さんは番のこと、信頼してそうだったよ。達真くんのバイト先の副店長さんも、僕のこと怖がってはいたけど嫌いには見えなかった」
「あいつらは……違うんだろうよ」
「うん。つまりオメガも全員がアルファを嫌いなわけじゃない。必ずしも大きな括りで決めつけることはできない。達真くんだって、オメガは淫乱で孕むだけの存在だ、なんて決めつけられたら腹が立つでしょ?」
「……なにが言いたい」
フォークで皿のハムを突き刺した音がガシャンと大きく響いた。
オメガがそう言われることが多いことは当然知っている。達真も何度も似たような言葉で侮辱されてきた。一ツ橋も所詮同じような種類の人間なのか。
喧嘩を売るような物言いをしたくせに、一ツ橋の表情は穏やかだ。
「僕も他のアルファと十把一絡げにされたらたまらない。僕は僕だ、他のアルファとは違う。他の男とも。比べられることは仕方ないけど、属性で決めつけられるのは困る」
「……」
「達真くんも僕のこと、アルファの一人じゃなくて、一ツ橋クリスとして考えてみてくれない?」
ぐうの音も出なかった。
アルファが嫌いな以上に、達真はオメガである自分が大嫌いだった。憎悪していると言ってもいい。
アルファやベータであれば存在しないヒート。ベータであれば人生を左右されることまではないフェロモンの有無。ベータであれば受けることのない中傷や謗り。ベータの男に生まれていれば、同じ男に組み敷かれることもなかった。
今までの生き方が全部嫌で、これからの未来に絶望しかない。
オメガの体が憎かった。
しかし自分を呪ってばかりでは、生きていけない。抑制剤を買う金だけは稼がないと、一番嫌いなヒートすら治められなくなる。
生きるために、嫌悪の矛先を何かに向ける必要があった。
嫌ってもいい、憎んでも構わない何かに───。
オメガだからと一括りで嘲られることが嫌いだったはずなのに、いつしか自分も同じようにアルファを括って嫌っていた。
「……悪かった。オメガにも色々いるのに、同じようにアルファにも色々いるってこと、忘れてしまっていたみてぇだ」
項垂れた達真に掛けられる声はいつも優しい。
「謝る必要はないよ。オメガがアルファを嫌うことも、達真くんがアルファを嫌うことも理解できる。でも僕は、達真くんが嫌がることをしないし、達真くんを嫌なことから守れる力があると思っているよ」
「出会い頭に舌入れるキスしてきた奴の言うことか」
「うっ……アレについては申し開きのしようもない……衝動的に、どうしても触れたくて先走りすぎてしまったんだ。今更だけど、ごめんなさい」
とても決まり悪そうに深く頭を下げた一ツ橋に、達真は遠慮なく笑った。
一ツ橋に触れられて嫌だったことがない。それはあのときも同じだった。結局は舌を噛んで遠ざけたが、それは防御反応としての行動だった。
このまま身を任せれば、どこまでもこのアルファに許してしまうのではないかという恐れ。
あの時感じた恐怖と、正反対の位置にあるはずの安堵感は間違っていなかったと思う。
「そういやあのとき噛んだ舌。大丈夫なのか?」
「んー……実はまだちょっと痛くて」
「ふぅん」
テーブルの向こうで苦笑する一ツ橋の胸ぐらを力任せに掴んで引っ張る。
ほとんど抵抗もなく板面に上体を乗り上げるようにして引きずりあげられた一ツ橋は、ポカンとした間抜け面を晒していた。その薄く空いた口に遠慮なく噛み付く。
すぐさま絡めた舌はびくりと跳ねて、逃げ出そうと奥へ引っ込む。それを達真は強引に引きずり出し、自分が噛み付いたと思しき場所をねっとりと舐め上げた。
痛みに呻いた声に満足して、掴んでいた襟元を離してやる。
満足気に唇を拭う達真を、驚きに目を瞠る一ツ橋が見上げた。
「まだ痛そうだな。ざまぁみろ」
「い、今のって……」
「そうだ、おまえの家犬だけじゃなく猫もいるんだろ。紹介しろよ」
「あ……うん」
呆けていた一ツ橋がのろのろと動き、リビングに繋がる部屋のドアを開けた。
途端にブラウンカラーのスタンダードプードルが飛び出し、主人の体に伸び上がって挨拶してくる。
その横をのっそりと一匹の猫が通り過ぎた。
毛並みの美しい三毛猫は真っ直ぐソファーに向かい、端っこに丸くなって毛繕いを始める。
一頻り一ツ橋に挨拶したプードルのマロンが、今度は達真に飛びかかってきた。「なんでいるの!?」と言わんばかりに尾を振る様子に自然と口角が緩む。
「よう、数日ぶりだなマロン。そっちのレディは?」
「この子はミケだよ」
「マロンにミケって、おまえネーミングセンスねぇなぁ……」
「よく言われる」
毛の色で安直な名前をつけられてしまった二匹は、達真を受け入れてくれたようだった。片方は尻尾をぶんぶん振って、片方は耳だけを向けて我関せず。
どちらかといえば犬の方が飼い主似だなと思いながら茶色の縮れ毛をわしわしと撫でる。
アルファの家にいて、こんなにリラックスできたのは初めてかもしれない。
それには動物たちも一役買っているだろう。ペットを大切にできるのは余裕のあるものだけだ。
思い出さないようにしている、置き去りにした家と日々を思い出す。
あの家に動物がいても、きっとすぐに逃げ出すか死んでしまっていただろう。───達真と同じように。
ここはそんな死の気配がない。
あるのは柔らかな雰囲気と、人懐っこい大きな犬、ソファで三色毛並みの猫を撫でている男、それを嫌そうに受け入れる猫だけだ。
やはりアルファである以上、信用することはできない。
でも一ツ橋だけは、別の枠に入れてみるのも悪くないかもしれない。
自然と零れた笑みを取り繕うことなく、達真は立ち上がろうとして、がくりと膝をついた。
「っ!?」
「達真くん! どうしたの!?」
慌てた一ツ橋が駆け寄ってくるが、達真自身にも何が起こったのかわからない。
いや、どういった現象が自分の身に起こっているのかは嫌でも理解できている。力が抜け、体温が上がり、体の奥が疼き出す。
ヒートだ。
しかし達真のヒートはつい数日前、突発的に発生した周期外れのものを他ならぬ一ツ橋が治めてくれたばかり。こんなに短期間に何度も起こるはずがない。
荒い息が止まらず、胸元を握りしめて俯く達真の背に一ツ橋の手が添えられた。
「達真くん、大丈夫?」
「───ッ!」
どくり、と心臓が高鳴った。
アルファ。このアルファを受け入れろ。今すぐしがみついて腹の奥に精を受けろ。
身体中の細胞が叫ぶように一ツ橋へ意識が向かう。
どうなっているんだ、この強烈な希求は。この男は番じゃない。番じゃないアルファをオメガが細胞レベルで求めるなんてことがあるのか?
混乱の極地にいる達真の思考は置いてけぼりで、体は素直にアルファを求めた。
熱で潤んだ瞳が艶やかに一ツ橋を見つめる。震える手が目の前のアルファを離すまいと必死にしがみつく。
「達真くん……?」
不思議そうにする一ツ橋に自らのフェロモンが届いていないことがこんなにももどかしい。
苦しい。気付いて。楽にさせてくれ。
達真に考える力はもう残っていなかった。ただ熱に呑まれ、欲望に支配された獣だけがいた。
「おねがい。おれに、触れて」
力なく回した腕は振り払われることなく、確かに受け止められる。
内側からの熱に炙られた両眼から、堪えきれない涙が達真の頬を伝った。
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