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番外 三十七 宴の後

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 バッコス教の事件ファイルは、ダリオにとって後味の悪いものになった。
 だからといって、ダリオも鬱々することはない。
 施設暮らしでダリオもこのような後味の悪い事件は、少なくない数を見てきた。
 つまり、被害者は純然たる被害者でも、加害者となった時点で、別の被害者にとってはやはり純然たる加害者なのである。
 そして被害者全員が、自身の受けた苦しみにより加害者になるわけではない。加害者になる個体もいれば、ならない個体もいる。
 被害者になることは選べなくても、加害者になるかどうかは、自分の選択だったのだ。
 結局、とダリオは思った。
 弱っていると、買春野郎や、カルトや女衒、ろくでもねー奴らが、優しい大人のふりをして、甘い言葉で寄ってくる。
 まあ、優しくしてくるよな、搾取したいんだから、とダリオは自身の売春未遂を思い出してもドライに考えた。
 吸い込まれるようにして、悪いところへ悪いところへ、流れ着いていく。
 身も心もズタボロにされながら、そうして悪い奴は表には出てこない。
 売買春だって、捕まるのは娼婦で、買ったやつはほとんど野放しだ。
 俺もあの時間違えてたら、坂道を転げるようにして吹き溜まりに落ちて、警察にその内捕まってたのかもなと思う。悪ければ、性病にかかっていただろうし、女に生まれていたら、どこのおっさんとも知れぬ行きずりの男の子供を妊娠していたかもしれない。
 ビルの境目に、影と日向が出来て、そこの境界線は、貧困層ほど簡単にひょいと越えられる近さにある。
 ダリオがたまたまそこをまたがずに済んたのは、確かに自分が男性だったからだし、周りの人のおかげだった。
 昔、アラディンと同室だった頃、自分をレイプしないのかと嘲られたことがある。ダリオは眉をひそめ、しないと答えた。もっと自分を大事にしろとか、大切にしたくても大人に酷い目に合わされてきたアラディンにそんな言葉は上滑りで、何も言えなかった。
 仕方ないから、他の連中に対して、ダリオは牽制した。アラディンが自暴自棄で、自傷行為のように、自分を性的に暴行しようとする奴らをあざ笑い、好きなようにさせて、ほらやっぱり! としたがっているように見えた。
 アラディンは児童相手の売買春の仲介手引をし、ダリオは怒ったが、最後にこう言われたことがある。
「お前はずるいんだよ。男に生まれていたら、私だってこうならなかった!」
 アラディンが酷い目にあったのはダリオのせいではない。
 でも、確かにダリオは男性で、しかも健康に恵まれ、体格も子供の頃から群を抜いていたことで、降りかかる災いを免れたところが多々あったと思う。
 もし、アラディンが、テオドールのことを知ったら、やはりずるいお前ばかりずるいんだよと言ったのだろうか。
 無敵の支配者。
 ダリオのために寿命を削ったとは言え、テオドールは相変わらず規格外だ。
 住むところも、食べるものも。
 青年がいる限り、もう今後きっとダリオは不安に思わないで済むのだろう。この支配者は、ある意味狭量で、ダリオが身を売るほどの貧しさに転がり落ちるのを看過できないはずだから。
 貧しさから来る尊厳の切り売りを絶対に許さないはずだ。  
 その上、ダリオが怪我をしたり病気をしたりした時に駆けつけてくれ、心配してくれる。
 いつだってダリオは、自分の健康な肉体にメンタルを依拠していたから、そこが崩れたら、色々だめになっていたと思う。  
 でももう、テオドールはダリオがどうなっても傍にいてくれると身をもって証明してくれた。
 きっと、アラディンも、誰かにそうしてほしかったはずだ。
 ダリオだって、犬のテオドールが連れて行かれてから、 どうしてそんな存在が現れないんだろうとイマジナリーフレンドを思い描いていた。
 生活苦の中でそんな気持ちはどうしようもないこと、仕方のないことと飲み込んで、必死に働く内に忘れていたけれど。
 だから、テオドールのことはやはり夢のような存在で、ある日突然消えてもあんまり驚かねーな、寂しくて悲しくて泣いてしまうとは思うが、という気持ちは消えないでいる。
 ダリオはそれでも、もう大人だから、ひとりで生きていける。
 でも、子供が、大人に守って欲しかったとして、それのどこが悪いだろう。
 アラディンは確かに悪いことをしたが、彼女が受けた苦痛まで、第三者が否定していいわけではないと。
 ダリオはぼんやり思っていた。


 そんな中、守秘義務含む年間契約(ダリオが断固契約でと主張した)でオブザーバーをしてくれることになった陰陽師のアシヤトウゴが、事務所の応接室を訪れた。彼は件の事件について、
「そりゃ、呪詛返しだな」
 と、事務所の応接室のソファにふんぞり返ってコメントした。
 ダリオはコーヒーをテーブルに置きながら、
「じゅそがえし?」
 それこそ鸚鵡返しとなる。
 トウゴは、ふん、と鼻を鳴らした。
「ああ。俺の国じゃ、『人を呪わば穴二つ』つってな、人を害するとその報いが自分にも及び、自分の墓穴をも掘らなければならなくなるっつー考えがある」
「あー……」
 感想を言いようもない。いわば、今回の件はそのままこれだった。
 でもな、ともダリオは心中に唱える。
 でもな。
 でもなんなんなのか。
 殺されたジニーにしてみれば、とばっちりだ。あまりにも残酷過ぎる八つ当たりだ。
「呪いを他者にかけるのは、リスキーなんだよ。俺だってそうそうしねーよ。うちはもうそういうのからは足洗ったんだ」
 トウゴくん、なんか凄いこと言ってねーか? アシヤ家って元々はやべーことしてたのか? とダリオは思ったが、空気を読んで自分も対面の革張りソファに座ると続きを促した。
「リスキーってのは、呪詛すると、相手の防衛で失敗した場合、その呪詛は術者に返ってくる。今回はあんたの……」
「使い魔です」
 いつの間にかダリオの背後に立っていたテオドールが何食わぬ顔で会話に乱入してきた。
 ヒィッ、とトウゴは顔色を変えたが、拳を真っ白になるほど握りしめると、なんでもない風を装って、胸を大きく上下させる深呼吸している。
 怖いのに何故事務所に足を運ぶのか。しかもオブザーバーを引き受けるし。
 ダリオは肩越しにテオドールを見上げ、「あんまり脅かすなよ。いや、その気はねーと思うけど、まあ頼むわ」と釘を差した。
 テオドールは「?」という雰囲気を出し、やがてなにがしか腑に落ちたらしい。
「わかりかねます」
「おう、なんも腑に落ちてなかったな」
 テオドールは黒革手袋をはめた指先を口元に持ってきて、考えてるふうに人間のふりをすると、
「僕はこの人間のことは眼中にありません」
 と無表情に述べた。
「そうか」
 めちゃくちゃ失礼なことを本人の前で言っているが、テオドールはクソヤバ人外だ。以前に彼の本体を見たトウゴの精神を崩壊一歩手前……もしかしてだいぶんアウトに通過しちゃった気もするが、そういう不幸な事件があったよね、とダリオも気遣わしかった。
 お互いに無関心な方が、なんぼか平和である。
「ええとトウゴくん、テオもこう言ってるし、何かあれば……何もないことを祈るが、何か仮にあれば、全力で止めるんで……まあその、無理しなくていいから……」
「俺は無理してねぇ」
「お、おう、そうか……」
 難しい年頃のようだ。アドバイスも電話で済むのに、何かにつけて事務所に足を運び、テオドールとエンカウントしてはぷるぷるしている。ダリオは施設育ちで、この手の言動には慣れていたため、刺激せずに流すこととした。
 トウゴも、ごほん、とわざとらしい咳払いをする。
「と、とにかく、あんたのヤベェ使い魔。そいつがいるだけで成立する防衛で、勝手に呪詛返しの自滅をしたわけだ。術者はな、呪いを他人にかけるなら、こういうことは覚悟すべきなんだよ。だから、あんたもいちいち気にしてんじゃねーよ」
 うん? とダリオは固まる。 
「あー、トウゴくん。もしかして慰め」
「慰めてねーよ! 術者としての心構えをだな」
 言いかけて、トウゴは頭を大きな手のひらでぐしゃぐしゃと乱暴に掻き回した。
「っち、逆張りもダッセー。この俺が気にすんな、術者の自業自得だと教えてやってんだ。胸張ってろ! でねーと殺されたっつー女にも、防衛してきた他の術者にもテメー失礼だぞ」
「ああ。そうだな。トウゴくん、ありがとうな」
「ッチ」
 舌打ちまでされたが、ダリオは施設で慣れている。支援が必要な人というのは、支援したくなるような姿をしていることは稀で、何かしら他者の手を叩き落としてしまうような困難さを抱えているケースが多い。それに比べれば、トウゴはずいぶん素直な方だ。
 そもそもダリオはけっこうドライなところもあって、度を過ぎるとあっさり見捨てるので、恨みをマシマシに買うこともたまにあった。しかし、怪異に比べれば、まあ大した事ねーな、であまり気にしないから、侮られて無礼を許容しすぎるところも、悪意を向けられても軽く見るところも、周囲をやきもきさせるなど悪癖でもある。
「そんだけだし! 俺は帰るからな!」
 トウゴはどうやら本当に慰めにだけ来たらしい。兄のキミヒコが、トウゴのことを心配して恐る恐るダリオに接触してきて、「弟はマジいい子なんで! めっちゃ可愛いとこあるんで! ちなみに子供の頃は天使だったんで! あっ、アルバム見ます?! 俺いつも持ってるんで、Volume.67 小学校の時の仮装大会のやつ」となっていたのもわかるダリオである。

 
 トウゴが帰った後、その晩ダリオは、自分の稼いだ金で買ったちょっと高級なウィスキーを、同じくちょっと高級なグラスふたつを用意して、差向いの空の席に置いた。
 外には星が出ていて、真っ黒な絨毯に、宝石をばら撒いたように瞬いている。
 ビルの影の落ちるところ、日向との境界線。
 ひょいとまたいで、アラディンは帰ってこなかった。
 いつの間にかテオドールが現れ、「ダリオさん、ご相伴にあずからせて頂いても?」と言うので、もう一つグラスを出そうとしたら、青年は空中から自分用のそれを取り出し、当たり前のように片手に持っている。
 なんというか相変わらず物理法則をガン無視していて、ダリオは片方の眉を上げた。
 やがて酔いが回ってきたのか、ダリオは思わぬ胸の内を打ち明けた。
「俺、テオが無敵じゃなくても、ずっと水饅頭でも、ああ、もちろんそんなことにならねーよう俺もするけど、まあそうでも。テオのこと好きになりそう。もし、出会った時にテオが水饅頭でも、一緒にいたらきっと好きになる」
「ダリオさんに求婚するお金持ちの恋敵がいてもですか?」
「ええ、なんだそれ。あーまあ、例えば俺が村からハブにされてる猟師で」
 我ながらなんの例えだとダリオはアルコールに侵された頭でつらつら説明する。
「国で一番かっこよくてお金持ちの王子様に求婚されても断るし、テオと一緒に暮らす……」
「僕がなんの力もない小さい僕でも?」
「……うん……」
 だんだんまぶたが降りてきて、ダリオはとうとう無言になった。あまり酔わない体質なのだが、この量でやたらアルコールが回る。
 どうにか回らない舌で、これだけは言いたいと半分寝ぼけながら伝えた。
「テオが……小さいテオ……なんも……無敵でなくていいから……そこにいるだけでもいい……から……ずっと一緒に……いてくれ……」
 もう我慢できなくて、まぶたがぴったりと上下にくっつき、ダリオは夢現に力を抜いてだらりと手を下げた。
 青年が近づいてきて、吐息が触れるほどに顔を寄せ、何か重々しい禍々しさに満ちたものに全身包まれるような気がしたが、よくわからない。
 ゆっくりと手がダリオの首筋に触れ、耳の下を、うなじを、頬の輪郭を辿り、
「傍にいます。ずっとずっと傍にいます、ダリオさんが……」
 何か言っているが、聞き取れずにダリオの意識は暗い所に落ちていく。
 文脈的に、ダリオが拒否しても、とつながるのが自然なような気もするが、全く違う気もした。これまでの青年の振る舞いと筋が通らない。
 ずっとなんなんだ、と言いたかったが、青年に優しく、そして能う限り強く抱きしめられて、死ぬほど安心したらもう意識は完全に暗転した。
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