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五 セブンス・ゴート・ストーカー事件

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 リトル・レッド・フード村……通称赤ずきん村事件から数日過ぎて、日中のイーストシティ大学のキャンパスを、ダリオは歩いていた。
 さきほどまで、大学の必修科目体育関連講義の実技を受けており、更衣室で着替え終えて出て来たところだ。武道場の傍には、サークル棟がある。
 行きは特に気にしていなかったが、通りがかる際、ふと違和感にダリオは足を止めた。
「……」
 ダリオはしばらく無言で、サークル棟の玄関口を見つめた。気のせいか。周辺では、さわさわと、緑樹が葉擦れの音をさせ、まだらに緑の影を落としている。木陰の下で耳を澄ませると、風や葉の音に混じって、甲高い男性の声と、それに怯えるような女性の声が続いた。
「……っ、?!」
 ダリオの表情が変わる。険しい顔で、ダリオは急ぎサークル棟に足を踏み入れた。音の発生源は探すまでもない。サークル棟に入ってすぐ、文科系サークルの一室の前で、痩せぎすの青年が、小柄な女性に唾を飛ばす勢いで恫喝している。
「あのさ~、それって失礼なんじゃないの?」
 不必要な大声を上段から浴びせかけ、興奮しているようすがみてとれた。ふわふわした白銀の巻き毛の女性は、怯えるように縮こまって、恐怖に目を見開いている。 
「男っていうだけで、そんな犯罪者みたいに警戒されるたら傷つくよね?! そういうの男性差別だよ、失礼だと思わないの?」
「……っ」
 女性は強ばった顔で、努力して曖昧な微笑みのようなものを浮かべようとしているようにも見えた。ダリオにも、怪異に対して同じようなことをした覚えがある。彼女の場合、講義中で時間的に閑散としているサークル棟内で孤立無援に立ち回らなねばならないためだろう。相手を刺激しないように身動きせず、可能なら愛想笑いをして、私を害さないで下さいとしている。相手の激昂と加害を回避しようとする時に、人はこういう表情になるのだ。
「ただ話しかけただけなのにさあ。応援してるって言ってるのに、不審者扱いされたら傷つくわ~。ファンあっての声優だろ。ファンを大事にしない子は、顔だけじゃいつまでもやってけないよ? メリーベルは人を外見で判断するような子じゃないと思ったのに、結局そうなんだ」
「あの……そういうことじゃなくて」
「じゃあ、なんで話しかけたら不審者扱いしてきたんだよ! 同じ大学なんだから、話しかけるくらいするだろっ、差別かよ!?」
「っ……ひ!」
 びくっ、と女性の体が後ろに引く。顔面が引きつりそうになるのを、継続してどうにか微笑もうと努力しているのが、彼女の恐怖心の増大を思わせた。その様子を見て、青年は思いなおしたように急にねこなで声になる。
「メリーベルの声凄くいいけどさ、やっぱ素人っぽさがあると思うんだよね。僕はそれが逆にいいと思ってるんだけどさ」
「……」
 メリーベルと呼ばれた女性の沈黙を、肯定と受け取ったらしい。気をよくしたのか、彼は早口でまくしたてた。
「僕は、メリーベルの玄人っぽくない、新鮮な清楚さっていうのかな。そういうのを理解して評価できるけど、他のやつらはそうじゃないからさ。技術がつたないっていうのがマイナス点になっちゃってると思うんだよね。メリーベルはかわいいから、顔だしで人気出てると思うけど、他にも有望な子は出て来てるし、今後はそれだけじゃやっていけないだろ? もちろん僕はいつでもメリーベル推しだから、安心して。なんていうかさあ、かわいい女の子っていうだけで、持ち上げられてる時期に群がってくるファンとさ、そうじゃないファンの違いだよね。わかる?」
「え、ええ……」
 メリーベルがぎこちなく頷く。
「今は顔だけファンにチヤホヤされて嬉しいかもしれないけど、本当に君のよさを理解できるファンの方を、メリーベルには大切にしてほしいんだ」
 どんどん距離をつめる青年の肩越しに、女性と目があう。助けは必要だろうか。明確な加害の兆しがあれば即時止められたが、介入タイミングを迷っていたダリオは、彼女の手の動きに注視した。
 彼女はゆっくりと片手で自分の巻毛をいじる。そのまま自然なしぐさでダリオの方に手のひらを向けると、親指を手のひらに押し込んだ。残りの四本を親指の上から折りたたんでいく。
 「シグナル・フォー・ヘルプ(Signal For Help)」だ。
 これは相手に気づかれぬよう声を出さずに「助けて」を伝えるヘルプサインである。助けをもとめられたからには、遠慮なく介入してもよいだろう。ダリオは頷き、後ろから青年に近づくと、ぽん、と肩を叩いた。
「っひ⁉」
 夢中でしゃべっていた青年は慌てて振り返ると、自分より大柄で体格のいいダリオにたちまち顔をこわばらせた。
「な、なに、かな? 僕は彼女と話してるんだけど」
「あー……」
 肩をつかんだはいいが、嫌がってるだろうと指摘して、後で矛先が彼女に向かないかなと一瞬ダリオは悩んだ。青年はダリオの手を振り払う。
「用もないなら、悪いけど話かけないでくれるかな。今彼女と大事な話をしてて忙しいんだ。さ、メリーベル、邪魔が入ったけど、うちのサークル部屋においでよ」
 メリーベルという女性の手首をつかもうとしたのを見て、ダリオは咄嗟に割って入る。
「な、なんだよっ」
「まあ。その、止めた方がいいと思うぞ」
 悩んだ末に、自分の意見を言うにとどめることにした。恨みの矛先が女性に向くより、ダリオの方に向いた方が何かと安全だろうと思ったためである。
「もしかして、メリーベルに気があるのか?」
「え? えー? あーうん」
 我ながら煮え切らねえなとダリオは困ってしまった。そして面倒くさくなる。
「まあとにかく、引いてくれや。俺はメリーベルさんに用があるんだわ」
「僕が先にメリーベルと話してたんだぞっ! メリーベル、言ってやってよ!」
 ダリオはドン引きした。メリーベルという女性が自分の味方だと思っているらしい。明らかに怖がっているし、嫌がっているように見えたが、喜んで相手をしていると真実思っていたのだろうか。
「あ。あの……私も、彼に用が、あって。なので、ごめんなさい」
 ダリオの後ろに、女性は隠れるようにした。ダリオも不審者といえば不審者なのだが、お、信用してもらえたみたいだな、と内心肩を下ろす。どっちがマシか程度でしかないかもしれないが。
「メリーベルは応援してる僕より、その雄を取るんだ?」
 青年の右眉が痙攣をおこしたように、ぴくり、と急角度に引きつる。
「あああ~~~~~~~いっつもそうだよなっ。上位雄にすぐ〇〇〇を開く雌! メリーベルは違うって信じてたのに~~~~~~~ッ」
 いきなり甲高い声でわめきだしたので、ダリオもぎょっとしてしまう。え、こいつヤバいな、という気持ちでますます自身を盾にするよう位置どった。
「またっ、受け入れないっ、僕がこんなにこんなに応援してあげてるのにっ! なあ、そいつともうセックスしたのかよ⁉ 本当にビッチだよなっ」
 ダリオも女性も、青年の暴言と剣幕に呆然とした。
「お前の演技下手糞過ぎて萎えるんだよ、掲示板でなんて言われてるか知ってるか⁉ 顔だけ声優、素人以下! すぐ干されるわ! 真のファンないがしろにするからな……お前みたいな〇〇〇女は、僕みたいな人間がお前ら上位雌から馬鹿にされて、受け入れられてもらえずに、どれだけ悩んで苦しんで、それでも応援してあげたいって気持ちでやってるのかわかんないよなあああ⁉」
「……え、あ……」
 女性が背後から、石でも飲み込まされたように棒立ちになって声を漏らす。青年は神経質にぶんぶんと横に首を振った。
「あ~~~本当萎え萎え、もうお前のファン辞めるからな。あとから後悔しても遅いけど、辞めますので! ストーカー扱いされたらかなわないから、もうお前のファン辞めて一切応援してやらねえからな!」
 異様なマシンガントークに気おされたものの、ダリオは後ろ手に携帯フォンの録画機能をオンにした。録音機能の方がよかったのだが、ほぼワンタッチにできるのはカメラからの動画機能しかない。それを女性の方に向けて、少し上下に振ってみせた。彼女の方で録音してくれるのを期待する。
 散々暴言を吐いたあと、青年は去っていったが、とんでもない奴だったな、とダリオは深く溜息を吐いた。
「あ、あの……」
 背後から恐る恐る声をかけられ、ダリオは怖がらせないようゆっくり振り返ると、自分から少し距離を取った。
「嫌がってるようだったんで、割って入ってしまったんですが、大丈夫でしたか?」
「あ、だ、だいじょうぶ、ですっ」
「さっきの彼は知り合いですか?」
「い、いえっ、知り合いでもなんでもなくて」
 少しつっかえつっかえではあったが、女性はなんとか調子を取り戻したらしい。先ほどより滑らかに否定して、頭を下げた。
「おっしゃるとおり凄く怖かったんで、助かりました。本当にありがとうございます」
「それならよかったです。さっき、途中から暴言を録画しておいたんですが」
「あ、はい。合図ありがとうございました。私も録音したんですけど、焦ってすぐに起動できなくて」
「そうですか……あーもし必要なら、録画データ送ることもできます。警察に被害届出すようなら、証言しますので。ただ、連絡先教えるのも怖いと思うんで、俺の連絡先を一応書いて渡しておきます」
 ダリオは『クラブ・ラビット・ホール』の名刺の裏にさらさらと自分のアドレスを書きつけながら、「なんか捨てアドレスでも作って連絡くれたら、そこに送ります」と彼女に渡した。
「不要なら連絡いらないんで、捨ててください」
「あ、ありがとうございます……」
 彼女は震える手で名刺を押し戴き、急にまた恐怖がぶり返したのか、ぽろぽろと涙を流した。いや、そうだよな、怖かったよな、とダリオもかける言葉がない。
「とりあえず人のいるところまでは送ろうかと思ったんですが、今動けそうにないですかね」
「は、はい、すみません……安心したら涙止まらなくなっちゃって」
 俺ついてていいのかね、とダリオは迷う。自分の知人をここに呼ぶのは怖いだろうしなと頭を掻いた。
「落ち着くまで、少し離れてついてますけど、気にせず、友達呼んでもらってかまわないんで……」
「あ、いえ。離れてなくても大丈夫なので」
「そうですか。じゃあまあ」
 あ、そういえば名乗り遅れたなと思ってダリオは名刺だけでなく、自分の学部所属と名前を告げ、先方も「メリーベル・ホワイトです」と少し落ち着いたように微笑して自己紹介してくれた。イーストシティ大学に通いながら、声優業もしているらしい。なるほど、それであの青年に目をつけられたのかとダリオは合点がいった。
 後に彼女と、彼女の友人の声優もう一名が、ダリオのアルバイト先にちょくちょく訪れるようになるのだが、それがまたトラブルを引き起こすとはこの時点誰も思っていなかった。


 後日、イーストシティ大学、食堂である。
 ダリオは、一番安い定食を頼み、ミソスープ、肉団子、サラダ、ヨーグルトの皿をトレーにとると、会計の列に並んだ。三百リング少しで、栄養価もしっかりとれる上に、問答無用に安い。アルバイトが時給二千リングから少し増えたため、ダリオは心穏やかにヨーグルトをつけた。
 空いている席は探すまでもない。講義のコマの関係で、ダリオは少し遅めの昼食となり、テーブルはガラガラだ。適当に椅子を引いて座ると、ダリオは黙々と食事を始めた。と、目の前に影が落ちる。かつん、とハイヒールを鳴らし、明るいペールグリーンのワンピースを着た元彼女のエヴァだ。ダリオは一か月ほど前、彼女から平手打ちをくらったばかりである。
「ダリオくん、ここ、いいかしら?」
 前回、ダリオを罵倒しつつ泣きながら去ったのは嘘だったんかい、というほど別人に落ち着いて、エヴァは淡々と尋ねた。
「ああ……」
 席はいくらでも空いているのに、どうして元彼(平手打ちした)の目の前に座るのだろう。まあなんか用があるんだろ、とダリオはあっさり疑問をねじ伏せた。彼にはそういうところがある。
「どうしたんだ?」と尋ねると、エヴァの眉間に深い縦じわが寄せられた。
「どうしたもこうしたも……これよ、これ」
 要領を得ない話とともに、エヴァは自分の携帯フォンをテーブルの上に滑らせ、二本の指でダリオの方に、す、と押しやった。
「ちゃんと知ってた?」
 念を押すように不機嫌そうな顔で質問される。すでに携帯フォンはロックを外されており、ダリオは無言で液晶画面を見下ろした。
 表示されているのは、SNSの投稿アカウントの一つのようだ。エヴァがひとさし指で上から下へスクロールさせた。ずらずらと投稿済みの写真が出て来るのを、ダリオは目で追う。やがて、ぴたり、とエヴァは指を止めて、ピンチ操作で写真のひとつを拡大させた。
「見て」
 エヴァの声は、彼女にはめずらしく硬質に緊張している。ダリオも少し沈黙した後、口を開いた。
「……俺だな」
「そうよ、ダリオくんのアルバイト先のかっこう」
 エヴァに大不評だった『クラブ・ラビット・ホール』のミニスカートメイド服を着て、往来で看板を手にしているダリオの姿だ。この日は白うさぎのカチューシャをしている。我ながら、ムチムチのムキムキに発達した胸筋を、明らかにサイズのあっていないメイド服でパツパツにして、白タイツをはいている姿は、いかがわしいの一言に尽きた。
「わかったでしょ?」
「盗撮か、これ」
「そうよ!」
 バン! とエヴァはテーブルを拳でたたく。
「お、おう……」
 エヴァの勢いにダリオは反応に困った。なんでエヴァがそんなにキレてるんだ、という戸惑いだ。平手打ちされてからしばらくして思ったのだが、これほどアグレッシブな人だとは思わなかった。付き合ってる当時も、こういう感じではなかったのだ。しかし、こちらの方が自然体のような感じは受ける。ダリオのあさってな思考を察知したのか、エヴァはみるみる恐ろしい形相になった。
「元彼が盗撮されて、めちゃくちゃ匿名アカウントで無断投稿されてるのよ⁉」
「え、ああ、そうだな?」
「なに他人事みたいにしてんの」
「はい」
「ダリオくん自身のことでしょ。自分のことをおろそかにするのは別にかっこよくもなんともないから」
 そもそも、エヴァもダリオのメイド服姿には散々な感想をぶつけていた。
 まあ、あれは匿名でもなく、盗撮もしてないし、無断投稿もされてないので、質は違うのではあるが。
「とにかくね、これ、ダリオくんを貶めようって悪意しかないと思う」
「盗撮だしな」
「ええ」
 エヴァは苦虫をかみつぶしたような顔で、きっぱり肯定する。
「あたし、一応このSNSの会社に違反報告しまくったけど、第三者報告より、本人からの申し出が一番削除に効くから」
「違反報告してくれたのか」
 ダリオは驚き、まじまじとエヴァを見つめた。
「はあ? そんなの社会に生きる人間として当然ですし⁉」
 何故かエヴァの顔が赤くなり、上から大声で言われる。
「うーん、まあそうかもな。でも、助かるよ。ありがとうな」
「ふ、ふん。べ、別に」
 もごもごとエヴァは何か言うと、レバーを切り替えたらしい。真面目な顔で続きを口にした。
「ちなみに、SNS会社に申し出たり、公的機関に相談したりするのに、自分で逐一投稿された一次情報を確認していくのは、けっこう心身にダメージがあると思う。継続的にこういう悪質な投稿がないかチェックするのなら、人の手を借りた方がいいわよ。あ、あたしが手伝ってあげるから!」
 エヴァは、ダリオに口を挟ませるのを恐れるように、早口でたたみかけた。
「問題ありそうなやつだけピックアップしたり、プリントしたり、資料作成とか、必要ならするし」
 それはダリオにとって、過分にも頭が下がる申し出だった。知人が盗撮され、無断投稿された上に誹謗中傷されていたのを見過ごせない『倫理』、そして『正義』である。これらを軽んじ、冷笑することは簡単だが、恐れず実行できる人は稀有だろう。
 彼女と多少トラブルがあったのは確かだ。しかし、こうしてダリオの身を案じてくれることも彼女のまた一面である。
 エヴァは100%善人というわけではないが、報復されるほどの悪人でもないのだ。改めて、テオドールにエヴァが何かされていたら、寝覚めが悪すぎた。いや、寝覚めが悪いくらいなら御の字で、テオドールと決裂しないといけないところだった。その場合、ダリオはたぶん死ぬか、死んだ方がマシな目に合うか二択であろう。
 そんなこんなで、ダリオの盗撮騒動は、エヴァからの知らせをもって幕を開けたのだった。


 どういう経緯なのか、テオドールにも盗撮と無断投稿されていた件がばれた。
「よりによって、一番知られたくないやつに……」
 エヴァの申し出から間をおかずして、学食になぜかテオドールが現れ、周囲の学生たちがこの妖艶な美青年に驚愕したり、ふらふらと近寄ろうとして失神したりとひと騒動までこなし、ダリオをげんなりとさせた。一方、テオドールは当たり前のようにすんなりとエヴァに挨拶をし、謝意まで述べている。
「ご連絡ありがとうございます、エヴァさん」
 疑問符を飛ばすダリオの目の前で、二人は普通に会話しており、
「背に腹は代えられないのよね……」
 エヴァは頬に手を当てて、わざとらしく不本意ですというように溜息を吐いた。驚いたのはダリオだ。
「エヴァが呼んだのか?」
「それ以外誰が呼ぶのよ」
 紹介を頼まれたおりに、テオドールがエヴァに向けた失言が原因で、平手打ちを食らったダリオである。エヴァは思い出したのか、多少苦々しいような顔をしつつも、遺恨より実利とばかり告げた。
「それはそれ、これはこれ、こういうのは事情を知っても問題ない味方が多い方がいいでしょ」
 エヴァの割り切った様子に、ダリオは内心首を傾げつつ、まあいいかと流した。ダリオはこういうところが多々ある。
「そういや、テオドールに連絡って、どうやって?」
「ニャインのフレンドになってるから。メッセージを送っただけよ」
 さらっと返された言葉を咀嚼するまで、ダリオの脳内に真空が生じた。ニャインとは、トークアプリのことである。アカウントを相互につなぐと、フレンドになり、テキストや画像を掲示板形式に行うことができるのだ。
「……テオドールお前、携帯フォン持ってたのか?」
 テオドールは無感動な表情で、しれっと携帯フォンを取り出した。しかも、Pandroidの最新機種シルバーブラックである。
「はい。エヴァさんに勧められました」
「勧められて、ニャインまで使いこなしてんのか」
 ダリオは純粋に感心した。怪異のヤバイ奴のくせに、現代テクノロジーにフレンドリーだ。
「便利そうだな。俺にもアカウント教えてくれ」
「ダリオさんには必要ないかと」
 真顔で言われ、あまり物事に動じないダリオも、地味にショックを受けて固まった。
「呼んでいただければ、すぐ参じますので」
 呼べば来る。携帯フォンは不要ということだ。
「そうか」
 ほっとしたのが声に滲み出てしまう。ふと、強い視線を感じてそちらを向くと、エヴァが梅干しでも口に突っ込まれたような顔で、ダリオを凝視していた。
「エヴァ、どうかしたか?」
「……珍しいものを見ただけ……はあ、まあいいでしょ」
 エヴァは再度嘆息して、テオドールに事情を説明している。手分けしてアカウントのチェックを行い、必要に応じてデータを保存する。違反報告も済ませた。匿名アカウントのIPアドレスの差し押さえや、開示請求手続きもついでとばかりに、エヴァが持ち込んだノートパソコンで様式を整える。
「ダリオくん、どうする? 専門弁護士なら紹介できるけど」
「着手金とか払えないしな。ありがたいけどナシで」
「まあそうよね」
 エヴァは肩をすくめた。
「ただね。たぶん、犯人を特定しないと、このアカウントを凍結させてもイタチごっこな気はするの」
「また攻撃用のアカウント作られるってことか?」
「ええ。新規の匿名アカウント作り放題だし。ものは相談だけど」
 エヴァは身を乗り出す。
「あたし法学部在籍でしょ? 別に弁護士じゃないと開示請求できないわけじゃないし、あたしに一任してくれたら、差し押さえと開示請求、訴訟まで全部やるけど?」
 ダリオは困ってしまった。友達割引など、正当な対価ではない。
「適正な対価も払えないし、そこまで頼めないだろ。気持ちだけもらっとく」
「勘違いしないで。ダリオくんがあたしに申し出てるんじゃなくて、あたしが申し出てるの。もちろん失敗するかもしれないわ。学生の内に、うまくいかなくても問題ないクライアントで実績積みたいだけ! これだけ悪質だと、示談に持ち込めるし、民事訴訟でも勝てる見込みしかないもん」
 早口で言うエヴァの言葉を、額面通りにダリオは受け止めなかった。何かダリオに返せるものがあればいいのだが、何も思いつかないし、そもそもとにかく金がない。
 別れた元彼にエヴァがここまでしてくれることにも、どう言えばいいのか分からなかった。おそらく、エヴァには倫理や正義の支柱が彼女の中にあるのだろう。それは元彼にも適用される公平な視野だ。なので、ぽろっと心の声がそのままストレートに出てしまった。
「……エヴァって、優しいよな」
 言った端から、これこそ失言だったとダリオも口を閉じたが、もう遅い。
「はあああああああ?」
 エヴァはわなわなとしている。
「も、ほんと、ほんとダリオくん、そーゆーとこ……もう嫌いッ」
「すまん」
「わかんないくせに謝んないでよ!」
「? すまん」
 この方面でダリオはまったく懲りない。他人に一定以上の関心を払う気がなく、話し合うコストを支払うより、安易な選択をする。去る者は基本的に追わない男なのだ。しかし、唯一の例外がテオドールであった。先ほどエヴァが驚いていたのは、テオドールに対してダリオが執着を見せていたからなのだが、やはり本人は自覚がない。
「ダリオさん、エヴァさん」
 それまで黙っていたテオドールが口を開く。
「このアカウントの持ち主がわかればよろしいのですか?」
「え、ええ、そうだけど、そのために、SNSの会社に、ログの保存差し押さえと、開示請求の手続きが必要で、これからそれをしようかってところよ」
 テオドールは無表情に、じっと携帯フォンのアカウントを凝視した。
「……この場で、犯人が分かりますが」
「……は?」
 エヴァが固まる。
「電子上のログではなく、悪意の痕跡……そのログを辿り、大本まで追うことができます」
「え、なに? どういうこと?」
 エヴァの困惑もしかりだ。
「百聞は一見にしかずと申します。この場で試してみましょう」
 テオドールは手元に、犬の形に切り取られた白い紙を取り出した。
「それ、リトル・レッド・フード村で見たやつか?」
「はい。参考にいたしました」
 通称赤ずきん村で、村の女性が呪術の媒体にしていた形代である。テオドールが、どこからか取り出した青い鉱石万年筆で、すらすらと『電子』と書きつけると、紙の犬はぶるぶるっ、と頭と尾を震わせ、まるで生きているかのように動き出す。
「嘘」
 エヴァが口元をおさえ、ダリオも声が出た。
「うわ」
 ぽちゃんっ、と水音を立てて、エヴァの携帯フォンの液晶画面の中に飛び込んでいった。しばらくして、ポーン! とメール着信音がする。
 テーブルの上に置いたエヴァの携帯フォンである。
「エヴァさん、どうぞ」
 テオドールに促され、顔を引きつらせながらおそるおそるエヴァがロックを解除した。
 てく、てく、てく、てく、と柴犬が口に何かを咥えて、画面に現れる。封筒のようだ。
「え、あたし、こんなアプリ、入れてない……けど、これ受け取れってこと? タップすればいい?」
「はい」
 柴犬の口元をそっとタップすると、ぽとり、と手紙を落とし、封筒が画面に大きく広がって、中から便せんが現れるモーションになる。
「何、これ……」
 エヴァの呆然とした声は、語尾が震えていた。
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