遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

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92. 本当のこと

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 翌朝、ジークは早朝に目が覚めた。
 高熱のため、昨日は夕食も摂らないうちに眠った。そのため、目が覚めるのも早かったようだ。時間的には十分すぎるほど眠ったはずだが、疲れはとれていない。ただ、熱はもう下がっているような気がする。棚に置いてあった体温計に手を伸ばし、脇に挟んで計測を始める。
 コンコン――。
 扉がノックされた。
「はい」
 少し掠れた声で返事をした。声を出したのは随分と久しぶりのような気がした。
「もう起きていたのか」
 そう言いながら入ってきたのは、サイファだった。濃青色の制服を身に着けている。
 ジークは慌てて起き上がった。こんな時間に来るのは先生か看護師だと思い込んでいたので、心の準備が出来ていなかった。
「寝たままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
 サイファは軽く右手を上げてそう言ったが、ジークは再び身を横たえることはしなかった。上半身を起こし、彼に顔を向ける。
「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」
「ちょっと熱が出ただけです。もう下がりました」
 そう答えたあと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。そろそろ計測時間の三分だ。そっと取り出し、横に伸びた銀色の棒を目で追う。起き抜けにしてはやや高めだが、平熱といってもいい数値だった。
 サイファもそれを覗き込んだ。そして、にっこりと笑う。
「焦って無理をしては、逆に遠回りになってしまうこともある。先生の言うことは聞いたほうがいいよ」
「はい」
 ジークは素直に答えた。ラウルに説教されると無条件に反発したくなるが、サイファが相手だと従順になることが多い。好き嫌いもあるが、それとは別に、彼には逆らいがたい雰囲気があるのだと思う。
「じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げて、踵を返した。
「あ、あの!」
 ジークは身を乗り出して呼び止めた。
 サイファは振り返った。
「何だい?」
 だが、ジークは何も答えられなかった。唇を噛み、うつむいている。何か言いたいことがあるが、切り出せずにいるようだ。サイファにはそれがわかったが、無理に聞き出すことはしなかった。
「あしたまた来るよ」
 にっこりと笑ってそう言い、扉に向かって足を進めようとする。
 ジークはとっさに彼の手首をガシッと掴んだ。かなり強い力だった。
 サイファは驚いた面持ちで振り返った。
「す、すみません」
 ジークは我にかえり、顔を赤らめて謝った。慌てて手を放す。自分でもこんな行動に出てしまったことに驚いた。それほど思い悩んでいたのだろう。
 サイファはわずかに微笑んだ。
「言いたいことがあるんだね」
「……はい」
 ジークは目を伏せ、小さく頷いた。
「あまり時間はとれないんだ。単刀直入に言ってくれるかな」
 そう言ったサイファの声には、普段の柔らかさはなかった。
 ジークは固い表情で話し始めた。
「アンジェリカが俺に会いに来ないのは、そのうち会えなくなるから……みたいなことを言ってたらしいんですけど、それってどういう意味ですか? サイファさん、何か知ってるんですか?」
 冷静にと思っていたが、感情の起伏の激しい彼にとって、それは難しかった。口調が次第にきつくなっていった。顔を上げ、責めるような強い眼差しを向ける。
「ああ、それか」
 サイファは軽い調子で言った。
 やはり知っていた――ジークは頭に血が上っていく。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「私もつい先日、ラウルに聞いたばかりなんだけどね」
 ジークとは対照的に、サイファはさらりと話していく。
「どうやらあの子、自分はもうすぐ死ぬと思っているらしいんだ」
「えっ?」
 ジークの目が大きく見開かれた。
「完全な思い違いだよ。自分の髪や瞳が黒いのは、遺伝子に異常があるせいだと考えているようだ」
「あっ……」
 ジークは思わず声を漏らした。
 その話は知っていた。一時期、自分もそれが真実ではないかと思っていたことがある。
「知っていたのか?」
 サイファは驚いたように目を大きくした。
 ジークは申しわけなさそうに身を小さくした。
「リックから聞いたんですけど……確か、四年生になったくらいの頃に、アンジェリカがそう言ってたらしいです。でも、すっかり忘れてて……」
「そうか、そんなに前からか……」
 サイファは腕を組み、難しい顔でうつむいた。軽くため息をつき、窓際へと歩き出す。革靴がタイルの床を打ち鳴らす。無機質な音が病室に響いた。
「何とか誤解を解いてやりたいとは思っているんだけどね。いい手が、思い浮かばないんだ」
 窓枠に左手をおき、ガラス越しの空を見上げた。青色の空に薄いレースのような雲が掛かっている。枯茶色の小さな鳥が二羽、目の前を横切った。
「ジーク、どうしたらいいと思う?」
 ゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべ、ベッドの上の彼を見つめる。鮮やかな青の瞳が小さく揺れた。
 ジークは何も答えられずに目を伏せた。サイファに思いつかないものを、自分が思いつくとは思えない。自分が考えついた方法はひとつだけ――おそらくサイファもそれはわかっているはずだ。わかっていて尋ねているのだろう。決心がつかないのだ。迷っているのだ。
 そして、それは自分も同じだった。アンジェリカにとって、彼女の家族にとって、それが良い方法なのかわからない。だから、それを口にすることが出来なかった。彼を後押しすることが出来なかった。
 ギュッとシーツを握りしめた。力を込めた手は、わずかに震えていた。体中からじわりと汗が滲んだ。
 沈黙がふたりの間に横たわる。ふたりとも身動きすらしなかった。
 遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
 微かな木々のざわめきが聞こえた。
 何も聞こえなくなった。
 何も……。
「本当に、まいるよ」
 サイファが長い静寂を打ち破った。落ち着いた声だった。
 ジークが顔を上げると、彼は寂しげに微笑んでいた。

 アンジェリカはゆっくりと目を開いた。それとともに、意識も現実に引き戻される。
「私、眠っていたのね」
 額に手の甲をのせ、ぼんやりとつぶやく。独り言だ。ここは自分の部屋で、自分のベッドで、自分以外に誰もいないことは知っている。
 布団も掛けていなかったことに気がつく。薄手のネグリジェ一枚で、少し肌寒い。
 昨晩からずっと考えを巡らせていた。ジークのこと、事件のこと、自分のこと、そして、これからのこと――。
 一睡もできないだろうと思っていた。だが、いつのまにか眠ってしまったらしい。自分は思ったよりも図々しく出来ているようだ。
 だが、眠ったおかげで冷静になることができた。頭が冴えた。もういちど考えを巡らせる。

 会わないのはジークのため、そう思っていたのは事実。
 でも、自分が怖れていたことも事実。
 ジークと一緒にいれば、その時間を手放すことに未練が生まれる。きっと死ぬことが怖くなる。恐怖心に対する恐怖を感じていた。だから、そのことから逃げていたのだ。
 それは認めざるをえない。
 だが、自分の気持ちを除外して考えたとしても、やはり会わない方が良いのではないか。
 一緒の時間が幸せであればあるほど、いなくなってからの傷が深くなる。
 今、自分が身を引けば、ジークの傷はまだ浅くてすむ。
 だから……。
 そこで考えが行き詰まる。いや、これが結論なのだろうか。
 目を細め、ベッドの天蓋を見つめる。
 何かが引っかかっている。とても大切な何かが……。見えそうで見えない、手が届きそうで届かない。その何かを掴むように、額にのせていた右手を上方に伸ばした。指先が不安そうに空をさまよう。
『思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?』
 ふいに、ジークの担当医の言葉が脳裏によみがえる。あのとき、激しく揺さぶられた言葉だ。
 思い出がない?
 思い出が、欲しい……?
 思い出……。
 突然、閃光のような何かが頭の中を駆け抜けた。
 はっとして大きく目を見開く。鼓動が跳ね上がる。それを鎮めるかのように、両手を重ねてぎゅっと胸を押さえる。
 そう、だった。
 思い出した。
 曾祖父にジークに会うなと言われたとき、自分はアカデミー卒業まで時間をくれるように懇願した。
 それは、思い出が欲しかったから。
 いつか、それが自分を傷つけることがあったとしても、何もないよりはずっといいと思ったのだ。
 この先、強く生きていくために、必要だと思ったのだ。

 ――私、自分勝手だった。

 大きく瞬きをする。涙が一筋、流れ落ちた。耳を濡らす。髪を濡らす。
 自分は思い出を欲したくせに、ジークには与えようとしなかった。
 彼のためだなんて決めつけて。
 自分が逃げるための口実にして。
 今からでもまだ間に合う。会いに行かなければ――。

 アンジェリカはベッドから飛び降り、ネグリジェを脱ぎ捨てた。

 コンコン――。
 本日二回目のノックだ。
 ジークはパジャマからジャージに着替え終わったところである。これから歩行訓練のため、リハビリ室に向かうつもりだった。
「はい?」
 少し語尾を上げて答える。
 こんなに朝早くに誰だろうと思った。サイファは出て行ったばかりだ。今度こそ担当医か看護師だろうか。
 ガチャ――。
 そろりと遠慮がちに扉が開く。
「えっ……?」
 ジークの動きが止まった。目だけが大きく見開かれていく。
「おはよう」
 少し照れたようにそう言いながら、アンジェリカが開いた扉から入ってきた。ジークに向かってまっすぐに立ち、後ろで手を組みニコリと笑う。
 ジークは弾かれたように身を乗り出した。
「アンジェリカ!!」
「待って!!」
 アンジェリカは開いた両手を前に突き出し、大きな声で制止した。
「逃げないから、落ち着いて」
 ゆっくりとなだめるように言う。
「あ、ああ」
 ジークはまだしっかり歩けもしないのに、ベッドから飛び降りようとしていた。彼女に止められなければ、間違いなく転倒していただろう。
 アンジェリカは扉を閉め、中へと足を進めた。そして、ジークの隣にちょこんと腰掛ける。ベッドのマットがわずかに沈んだ。彼を見上げると、にっこりと笑いかける。
 ジークは動揺した。顔が熱くなるのを感じた。顔だけでなく、頭も沸騰したように熱い。彼女がなぜここへ来たのか、なぜここに座っているのか、なぜ微笑んでいるのか――様々な疑問が浮かぶ。だが、何も考えられない。
「ごめんなさい、ずっとお見舞いに行かなくて」
「あ、いや……」
「今さらかもしれないけれど、これからは毎日、お見舞いに行くから」
 アンジェリカはしっかりとした口調で、明るく歯切れよく言った。屈託のない笑みを見せる。
 しかし、ジークの疑問は解決していない。呆然としながら口を開く。
「どうして急に……」
「迷惑?」
 アンジェリカは首を斜めに傾げて尋ねた。大きな瞳で見つめながら、じっと彼の返事を待つ。
 ジークは慌てて、首をぶんぶんと横に振った。
「良かった」
 アンジェリカは胸に手をあて、ほっと息をつきながら笑った。
 これは、夢だろうか、幻だろうか――ジークは混乱していた。あまりに唐突すぎて、現実だという実感を持てなかった。目の前の少女が実体だという自信がなかった。手を伸ばして、触れて、確かめたかった。だが、近すぎる距離に身じろぎさえ出来ずにいた。
「今日は手ぶらだけど、これからは何か持ってくるわね」
「いいよ、手ぶらで。来てくれるだけで」
 ジークはあやふやな思考にとらわれたまま、ほとんど反射的に答えを返す。
 アンジェリカはくすりと悪戯っぽく笑った。
「手ぶらじゃなくてもいいんでしょう?」
「ああ、まあな……」
 ジークは複雑な表情で彼女を見た。
 まるで夢を見ているようだった。彼女が去ったあの日から、ずっと求めてやまなかった光景が、今、自分の目の前にある。何よりも嬉しいことのはずだった。それなのに、なぜか素直に喜べないでいた。それは、まだ現実としての実感がないから、そして、棘のように引っかかっていることがあるから――。
 彼女は今まで頑として来ようとしなかった。きのうも会うわけにはいかないと言っていたらしい。なのに、今朝になっていきなりこれである。今までの真逆と言ってもいい。
 この一日でいったい何があったのだろうか。どういう心境の変化があったのだろうか。尋ねようとしたが、彼女はそれをはぐらかした。答えたくないということだろう。
 無理に追及すれば、またいなくなってしまうのではないか。そんな不安を感じて、何も訊けなくなってしまった。情けないくらいに臆病になっていた。せっかく戻ってきた彼女を、再び失うことだけは避けたかったのだ。
 アンジェリカはジークの黒いジャージに目を落として口を開いた。
「ジーク、もしかしてこれからリハビリ?」
「まあな。朝食前の自主練」
「車椅子で行くの?」
「ああ」
 その答えを聞くと、アンジェリカは跳ねるように立ち上がり、嬉々として隅に畳んであった車椅子を広げた。やけに手際がいい。ラウルの手伝いで覚えたのだろうか。
「私が押していってあげる」
「いい、自分で行ける」
 ジークは慌てて言った。照れたように頬を赤く染めている。
 アンジェリカはくすりと笑った。
「じゃあ、少しだけお手伝い」
 そう言うと、ジークの前にすっと手を差し延べた。
 ジークは呆然とその手を見つめた。細い指先はきれいに揃えられ、自分の目線よりやや下に留まっている。
 心臓が高鳴った。
 おそるおそる手を伸ばし、その上に自分の手を重ねる。
 その瞬間、何かが体中を駆け抜けた。ゾクリと震えがきた。だが、次の瞬間には、小さく柔らかな手の温もりに、大きな安らぎを感じた。そのとき、初めて、現実なのだと実感した。
「立てないの?」
 アンジェリカが心配そうに顔を傾げて覗き込んだ。
「いや、大丈夫だ」
 ジークはふっと息を漏らして口元を上げると、彼女の手を掴んで立ち上がった。ゆっくりと体の向きを変え、車椅子に腰を落とす。そして、車輪に手を掛け、移動する準備を整えた。
「さあ、行くか」
「行きましょう」
 ふたりは顔を見合わせて小さく笑いあった。

 それから二週間が過ぎた。
 アンジェリカは宣言どおり、毎日、ジークの見舞いに来た。
 そのおかげ、というわけでもないだろうが、ジークの足はみるみる回復していった。走るのはまだ無理があるが、普通に歩けるまでにはなっていた。

「いいお天気!」
 アンジェリカはよく通る声を響かせ、廊下から中庭に飛び出した。高く青い空を仰いで、身軽にくるりとまわる。光を受けた黒髪が煌めきながら舞い上がり、薄地の短いスカートがふわりと風をはらんだ。
「おい、気をつけろよ、転ぶなよ!」
「平気よ!」
 ヒヤヒヤしながら注意したジークの言葉を、彼女は目映い笑顔で受け流す。
 ジークは諦めたようにため息をついた。だが、その表情は柔らかくほころんでいた。彼女のあとに続き、緑の芝生に足を踏み入れる。真上から強い光が降り注いだ。眩しくて目を細める。
 アンジェリカは藤のバスケットを後ろ手に持つと、両足を揃えてジークに向き直り、くすりと笑った。

 そこは病院の中庭だった。鮮やかな緑の木々と、絹のカーテンのような噴水が、心地よい空間を作り出していた。時折、鳥のさえずりも聞こえる。ここだけ時間の流れが違うような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。
 一角には、木製のベンチが置かれていた。三人がけくらいの大きさだろう。
 ふたりはそこに並んで腰を下ろした。
 ジークは背もたれに両肘をかけ、目を細めて空を仰ぎ見る。パジャマでもジャージでもなく、まったくの普段着だった。とても入院患者には見えない。アンジェリカは彼の反対側にバスケットを置き、その横顔を見つめて微笑んだ。

 アンジェリカは毎日のように、ジークをここへ連れ出していた。薬品くさい病室に閉じこもりきりでは、治るものも治らないと思ったのだ。
 ジークも、最初こそ乗り気ではなかったが、実際に来てみると、すっかりこの場所が気に入ってしまった。正確にいえば、この場所でアンジェリカと過ごす時間が気に入っている、ということだが――。
 とはいえ、いつもふたりきり、というわけではなかった。
 偶然、同じ時間に見舞いに来たリック、セリカと一緒のときもあった。もっとも、彼らはそれ以降、アンジェリカとかち合わないように、時間をずらすようになった。ジークに気を遣っているのだろう。
 また、サイファと一緒のときも何度かあった。アンジェリカとサイファに挟まれてベンチに座っていると、ジークは必要以上に緊張してしまった。それを悟られないように、平常を装っているつもりだったが、傍から見れば、ほとんど無駄な努力といってよかった。
 アンジェリカもサイファも、そんなジークの気持ちをわかっていて、反応を楽しんでいるようだった。ジークはますます居たたまれない気持ちになった。だが、嫌ではなかった。そういう時間もいい思い出になるだろうと素直に思えた。

「ジーク、今日ね、私も卒論を提出したわ」
「えっ? まだ出してなかったのかよ」
 ジークは驚いて振り向いた。自分が提出した頃、アンジェリカももうすぐだと聞いていた。あれから二週間以上が過ぎている。もうとっくに提出しているものと思い込んでいた。
 アンジェリカは肩をすくめて笑った。
「早さではジークに負けちゃったから、質で勝負しようと思って、仕上げに時間をかけたの」
「おまえ、どこまで負けず嫌いなんだよ」
 ジークは呆れたように言った。だが、顔はそれほど呆れていない。
「ジークだって負けず嫌いでしょう?」
「おまえほどじゃねぇよ」
「ほら、やっぱり負けず嫌い」
 アンジェリカはくすくす笑って、小さく彼を指さした。
 ジークはぱちくりと大きく瞬きをした。そして、彼女の言うことを理解すると、ばつが悪そうに目をそらせた。ベンチにもたれかかり、耳元を赤らめながら空を見上げる。
「まあ、お互いさま、だな」
「ええ、そうね」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。

 ジークは横目で彼女の向こう側を盗み見た。
「今日は、何だ?」
「えっ?」
 唐突で言葉足らずなジークの質問に、アンジェリカはとっさに反応できなかった。彼の催促するような視線の先をたどる。そこにあったのは、彼女が持参した藤のバスケットだった。ようやく彼の言いたいことに気がついた。
「ああ、今日はチーズケーキよ」
 そう言うと、チェック柄の布をめくり、中から皿に載せたチーズケーキを取り出した。透明の薄いラップを外し、銀のフォークを添えて差し出す。
「どうぞ」
「悪りぃな」
 言葉とは裏腹に、表情は嬉しそうだった。それを受け取ると、さっそく大きなひとかけらを口に運ぶ。
 アンジェリカは横から覗き込むよう彼を見つめる。
「どう? 美味しい?」
「ああ、うめぇよ」
 ジークはケーキを口に入れたまま、子供みたいに無邪気に答えた。本心からの率直な言葉で、ひいき目やお世辞は抜きである。彼の様子を見ていれば、それを疑う余地はない。
「良かった」
 アンジェリカは安堵の息をつき、幸せそうに顔をほころばせた。

 これは、今日だけではなく、毎日のことだった。
 アンジェリカは差し入れと称し、来るたびに食べるものを作ってきた。クッキー、マドレーヌ、プリンなど、主に菓子類である。サンドイッチだったことも二度ほどあった。
 もちろん、彼女の一方的な押しつけなどではなく、ジークの方もそれを心待ちにしていた。お菓子が食べられることもそうだが、彼女が自分のために作ってくれるということが、何よりも嬉しかった。しかも、それが美味しいのだから申し分がない。

 アンジェリカはゴソゴソと何かをバスケットから取り出した。それは、小さめの水筒と、大きめのマグカップだった。水筒の中には温かいコーヒーが入っている。それをマグカップに注ぎ、チーズケーキを食べ終わったジークに手渡した。代わりに、彼は空になった皿を返した。
 バスケットの中を片付けながら、アンジェリカは尋ねる。
「ジーク、いつ退院できるの? そろそろ?」
「あ、いや、実は、もう退院していいって前から言われてんだ」
 ジークは事も無げに言った。マグカップを傾け、コーヒーを口に流し込む。熱くはないが、ぬるくもない。飲むには適温である。
「え? どういうこと……?」
 アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
 ジークは空を見ながら答える。
「退院してもどうせ通院しなきゃなんねぇし、面倒だから完治するまで居座ろうかと思って」
「何よそれ。ジークってそんなに横着者だったの?」
 アンジェリカは呆れたように尋ねかけた。
 ジークは彼女にちらりと視線を投げると、微かに口元を緩めた。
 アンジェリカが見舞いに来てくれるのが嬉しいから、だから、出来ることならまだ退院はしたくない――本音をいえば、その気持ちが大きかったが、そんな馬鹿みたいなことは、口が裂けても言えない。
 だが、彼女はまるで見透かしたかのように言った。
「私なら、ジークの家にだって、毎日お見舞いに行ってもいいんだけど」
「ばっ……お、俺んちは遠いぞ……」
 本当に見透かされたのか、ただの偶然なのか、ジークにはわからなかった。照れ隠しにもならない、意図不明の返答をしてしまい、ますます恥ずかしくなる。顔が熱くなった。
 アンジェリカは隣でくすくす笑っていた。
「ま、居座ってもせいぜいあと一週間ってとこだろうけどな」
 ジークはベンチの背もたれに両肘を掛け、大袈裟に空を仰いだ。風が心地いい。火照った頬の熱をさらっていってくれるかのようだ。
「退院したら、何かしたいことってある?」
「そうだなぁ……全力疾走してぇなぁ」
 緩やかに流れる薄い雲を眺めながら、のんびりと答えた。
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。とてもジークらしい答えだと思った。
「じゃあ、川辺にでも全力疾走しに行く?」
「いいな、それ」
 彼女の提案に、ジークは声を弾ませて同意した。
 川辺と聞いて、いつかの光景を思い出す。煌めく水面、冷たい水、浅く流れる水音、砂利の音、小石の音、沈む夕陽、真っ赤な夕景、細い石段、薄汚れたガードパイプ――それほど昔のことでもないのに、なぜだかとても懐かしい気がした。再び、あの場所にアンジェリカと一緒に行ける。そう思うだけで、胸がこそばゆくなる。
「他には?」
「うーん……今は思いつかねぇな」
 ジークは斜め上に視線を流し、コーヒーを口に運ぶ。考えているような素振りを見せたが、実際のところは、川辺での全力疾走で頭がいっぱいだった。
 アンジェリカは大きな瞳で、じっと彼の横顔を見つめる。
「じゃあ、私の行きたいところへ一緒に行ってくれる?」
「ああ、いいぜ。どこだ?」
 ジークは浮かれた気持ちを抑えようとしたが、あまり効果はなかった。声は素直に弾んでしまった。
「遠いんだけど、海へ行ってみたいの。まだ見たことがなくて、一度、見てみたいって思ってたの。あと、静かできれいな森の湖があるって聞いたから、そこへも行ってみたい。ジークの家でまた星も見たいし……まだまだたくさんあるわ。毎日、出かけても足りないくらいね!」
 アンジェリカははしゃぎながら言った。ジークに負けないくらいだった。無邪気な笑顔を見せている。
 ジークは空に向かって笑いながら答える。
「おまえ、欲張りすぎだって。そんなに急がなくてもいいだろ」
「……どうして?」
 少しうわずった声。それまでの雰囲気とは違う、ためらいがちな、張り詰めたような問いかけである。
 ジークは驚いて振り向いた。
 彼女は目を伏せ、何かに耐えているような顔をしていた。懸命に無表情を取り繕っている。
「おまえ……まさか、まだ、遺伝子の異常だとか思ってんじゃねぇだろうな」
 ジークは眉をひそめて尋ねた。
「思っているわよ」
 アンジェリカは当然のように答えた。今度はしっかりとした声だった。視線をまっすぐ前に向け、何事もなかったかのように、普通の表情に戻っている。
 ジークは顔をしかめた。ほとんど忘れかけていた。彼女が見舞いに来るようになってから、毎日、楽しいことばかりだった。彼女も楽しそうで、気にする素振りなど見せなかった。だから、大切なはずのことなのに、隅に追いやられていた。実際は何も解決していなかったのだ。
「それは違うんだ。おまえの誤解だって」
「いいの、私、もう逃げないから」
「だから、違うって言ってんだろ!」
 いくら違うと言っても、その理由がなければ、納得させることは出来ない。それはわかっていた。だが、自分ではどうしようもないのだ。ただ、違うと言い続けるしかなかった。
「ジークは知っているんでしょう?」
 アンジェリカは目を細めた。ゆっくりジークへと振り向く。微かに潤んだ黒い瞳で、まっすぐ彼を見つめる。黒髪がさらさらと風に揺れた。
「本当のこと、教えてくれる?」
 緩やかな口調で、旋律を奏でるように尋ねかける。
 ジークはどきりとした。鼓動が速くなっていく。ここで言い淀んでは、ますます誤解されてしまう。しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。唇を噛んだ。
 彼女の思っている本当のことと、自分の知っている本当のことは、違うものだ。だが、それを答えるわけにはいかないのだ。
「あっ……ごめんなさい、困らせるようなことを言って」
 アンジェリカははっとして肩をすくめると、申しわけなさそうに笑った。そして、明るい声で力強く言う。
「私は大丈夫だから」
 ジークは表情を曇らせた。
 彼女が無理をしていることくらいわかる。こんな無理をさせてしまうことが耐えられなかった。何も出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。
 ――サイファさん……。
 助けを求めるように、心の中でその名前を呼んだ。苦い響きが胸に広がった。

 サイファはふたりに気づかれないように、そっとその場を離れた。
 ジークの見舞いに来たのだが、中庭のふたり声を掛けようとしたとき、空気が変わったのを感じ、柱の陰に身を隠したのだ。
 ――本当のこと、教えてくれる?
 その言葉が心をえぐる。
 良い方に向かっているのではないか、このままでいいのではないか、そう思っていた矢先だった。
 だが、アンジェリカは忘れたわけでも納得したわけでもなかった。このままでは、この先ずっと彼女を苦しめることになる。彼女だけではない。ジークまでも苦しめてしまう。
「どうすればいい……」
 ふたりから十分に離れたところで、サイファは足を止めてつぶやいた。
 窓枠に手を掛け、ガラス越しに空を見上げる。無垢な青さが目にしみて痛かった。
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13歳で“前世の記憶”を思い出したララ。 ――前世の彼女は、家庭を守る“お母さん”だった。 そして今、王女として目の前にあるのは、 火の車の国家予算、癖者ぞろいの王宮、そして資源不足の魔鉱石《ビス》。 「これ……完全に、家計の立て直し案件よね」 頼れない兄王太子に代わって、 家計感覚と前世の知恵を武器に、ララは“王国の再建”に乗り出す! まだ魔法が当たり前ではないこの国で、 新たな時代を切り拓く、小さな勇気と現実的な戦略の物語。 怒れば母、語れば姉、決断すれば君主。 異色の“王女ララの再建録”、いま幕を開けます! *カクヨムにも投稿しています。

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

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