遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

文字の大きさ
72 / 94

72. あきらめ

しおりを挟む
 むせ返るような強い消毒液の匂い。
 レオナルドはあからさまな嫌悪を示した。腕を組みながら壁にもたれかかり、うつむき加減に顔をしかめる。
「治らないと言ったくせに、いつまでこんなことを続けるんだ」
 吐き捨てるように言うと、あごを引いたまま、上目づかいで前を凝視した。その先にいたのは、ラウルとユールベルだった。向かい合って椅子に座っている。ラウルは彼女の目を診察すると、手際よく包帯を取り替え始めた。
「嫌なら来なくていい。何度も同じことを言わせるな」
 面倒くさそうに、突き放した答えを返す。レオナルドはますます顔をけわしくした。
「おまえは優秀な医者だという話だが、たいしたことはないんだな。それとも手を抜いているのか?」
 ラウルはまるで取り合わなかった。無言でユールベルの頭に包帯を巻きつけている。しかし、彼女の方が、その言葉に反応した。大きく右目を開き、ラウルを見つめる。
「……治せるの?」
「レオナルドの言葉など真に受けるな」
 ラウルは彼女を引き寄せ、頭の後ろで包帯を結んだ。そして、頬に軽く手を置くと、椅子をまわし机に向かおうとした。だが、彼女が腕をつかみ、それを止めた。
「私のことが嫌いだから手を抜いているの? 私があなたを困らせてばかりだから、その仕返し?」
 張りつめた表情で問いかける。ラウルは目を閉じ、ため息をついた。
「治せないものは治せない」
「お願い、私が悪かったのなら謝るわ。目は見えるようにならなくてもいい。せめて、醜い傷跡だけでも……」
 ユールベルは、彼の腕をつかむ手に力を込めた。細い指がかすかに震えている。それでも、ラウルの心は動かなかった。
「何度言われても答えは変わらない」
 素っ気なく彼女の手を払い、机に向かう。そして、薄く黄ばんだカルテに万年筆を走らせた。さらさらと軽い音が部屋を舞う。ユールベルは目を伏せた。

「アンジェリカは治したんじゃないのか」
 レオナルドが思い出したように口を切った。ラウルが振り向くと、彼は無言で脇腹を指さしてみせた。どうやらセリカに刺されたときのことを言っているらしい。
「わずかに痕が残っているはずだ」
「わずかに、か」
 ラウルの言葉の一部を、レオナルドは嫌みたらしく強調して繰り返した。
「あれとは状況も状態も違う」
 ラウルは冷静に答え、机に向き直った。再び手を動かし始める。レオナルドは腕を組み、口をへの字に曲げ黙り込んだ。

「嘘よ!」
 静寂を裂く叫び声。それはユールベルが発したものだった。椅子から立ち上がり、握りしめたこぶしを震わせている。
「やっぱり私だからなのよ」
 だが、ラウルはカルテに向かったまま、視線を上げようともしなかった。ユールベルは彼の冷淡な横顔をきつく睨みつけた。その目には涙がにじんでいた。
「弁解くらいしたら? それでも医者なの?」
 震える声で責め立てる。それでも、彼はまるで無反応だった。ユールベルは唇を噛みしめうつむいた。そして、ゆっくりと、思いつめた顔を上げた。
 ――シャッ!
 ラウルの頬に冷たい刃が押し当てられた。ユールベルの仕業だった。机の上のペン立てからカッターを取り、その刃をあてがったのだ。
「ユールベル!」
 レオナルドは壁から跳ねるように身を起こした。
「あなたも少しは思い知るといいわ」
 彼女にはレオナルドの声など少しも届いていないようだった。まっすぐにラウルを睨み、カッターを持つ手にぐっと力を入れた。固い頬に、わずかに刃が沈む。
 だが、ラウルは平然として微動だにしなかった。
 ユールベルの顔がこわばった。微かなとまどいの色が浮かぶ。怯えるようにわななく手でゆっくりと刃をずらしていった。彼の頬に赤い一筋が浮かぶ――。
「いいかげんにしろ」
 ラウルは横目でギロリと睨めつけた。彼女が怯んだその瞬間、彼は素手で刃をつかみ、強く握りしめた。手から赤い血が滴り、手首、肘へと伝っていく。そして、さらに力を入れると、刃だけを根元からへし折った。
 ユールベルは青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。柄だけになったカッターが手から滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。
 ラウルは血まみれの刃を、机の上に投げ捨てた。そして、おもむろに立ち上がると、真っ赤に染まった手を彼女へと伸ばした。
「い……いや……」
 顔を引きつらせ、震えながら後ずさる。頭をぎこちなく横に振り、精一杯の拒絶を示した。だが、ラウルは容赦なく距離を縮め、流血する手のひらを、彼女の眼前に突きつけた。顔に生温いものが滴り流れる。それは、白いワンピースにも落ちていき、胸元を赤く染めた。
「見ろ。おまえの行動の結果だ」
「違う……私、こんなつもりじゃ……私じゃ……私じゃない!」
 ユールベルは顔をそむけ、目をつむり、声の限りに叫んだ。その直後、糸が切れたように、膝からガクンと崩れた。ラウルは素早くそれを抱きとめた。床に倒れ込むすんでのところだった。意識を失った彼女は、力の抜けた体を、すっかりラウルに預けている。
 レオナルドは動くことも声を発することもできず、ただその光景を目に映すだけだった。顔からは血の気が失せ、足はカクカクと震えている。立っていることさえ危うい状態だ。
「出ていけ」
 ラウルはぞっとするほど冷たい視線を彼に向けた。
「お、おまえ、なんで……」
「出ていけ」
 同じ言葉を、語気を強めて繰り返す。そして、血で染まった手をレオナルドに突き出した。
「うわぁ!」
 彼は情けない悲鳴を上げ、しりもちをついた。ラウルは乱暴に引き戸を開けると、レオナルドを医務室から蹴り出した。間髪入れずに扉を閉め、ガチャリと鍵を下ろす。あっというまの出来事だった。
 レオナルドは蹴られた腹を押さえ、うめきながら立ち上がった。扉を引いてみたが、ガタガタと音を立てるだけで、開くことはなかった。扉に手を掛けたまま、下唇を噛みしめる。そして、怒りをぶつけるように、力いっぱい扉を叩きつけた。

「どいてくれないか」
 頭上から降る高圧的な声。扉を背に座り込んでいたレオナルドは、口を真一文字に結んだ。その一言だけで、嫌悪するに十分だった。間違いなくあいつの声だ――。睨みをきかせながら、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、案の定、サイファだった。大きな黒い紙バッグを脇に抱えている。
「ここに用があるんでね」
 彼は冷たく見下ろしながら、親指で医務室の扉を示した。レオナルドははっとして立ち上がった。
「中に入るなら、俺も一緒に入れてくれ!」
 サイファは詰め寄る彼を制した。
「おまえは追い出されたんだろう。気が立っているときのラウルは何をするかわからないぞ。下手をすると殺されるかもな」
「脅かそうったってそうはいかない。もしそうなら、おまえだって……」
 レオナルドは食い下がった。だが、そんな彼を見て、サイファはふっと口元を緩めた。
「残念ながら私は特別でね。ラウルが私を殺すことはできない」
 レオナルドにはその意味がわからなかった。怪訝に眉をひそめる。しかし、それを追求するよりも、今はもっと重要なことがあった。
「だったら、おまえから俺のことを頼んでくれ。ユールベルに会わせてくれ」
「それが目上の人間に物を頼む態度か?」
 サイファは尊大にそう言うと、レオナルドを押しのけ、扉をノックした。レオナルドはこぶしを震わせながら歯噛みした。怒りで上気した顔を深くうつむけると、押し殺した声で唸るように言った。
「……お……お願いします」
 彼にとっては耐えがたい屈辱だった。よりによって、最も腹立たしく、最も疎ましい相手である。しかし、自尊心をかなぐり捨ててでもユールベルに会いたい。会わなければならない。その思いの方が強かった。
 サイファは冷めた目で彼を見やった。まだ足りないとばかりにあごをしゃくる。レオナルドは切れそうになる自分を必死につなぎ止めた。半ば自棄になりながら、床に手をつき頭を下げた。
 そのとき、中から扉が開いた。薄暗い廊下に光の帯が伸びる。そして、そこにラウルと思われる影が映った。サイファはさっと医務室に入ると、後ろ手で扉を閉め、鍵をかけた。
 レオナルドは土下座したまま、その場に残された。何かを言う間もなかった。ただ、唖然として扉を見つめるだけだった。手から廊下の冷たさが染みてきた。

「着替えだ」
 サイファは黒い紙バッグを机の上に放り投げた。カタンと固い音がした。中にはいくつか箱が入っているようだった。
 ラウルは疲れたように椅子に身を投げた。そして、あきれ口調でため息まじりに言った。
「私は殺人鬼か」
「感謝してほしいくらいだよ」
 サイファはにっこり笑った。
「レオナルドを追い払うためさ。どうせ扉の前でしつこく座り込んで耳をそばだてているだろうが」
 扉がガタンと音を立てた。レオナルドが動揺して体勢を崩したのだろう。サイファは失笑した。
「それに、言ったことは間違っていないと思うがね」
 後ろからラウルの肩に腕をのせ、挑発的な笑みを口元にのせた。
「私を殺せないということも」
 耳元で囁くように言葉を落とす。
「図に乗るな。何もかもどうでも良くなることもある」
 ラウルはむっとしてそう言うと、サイファの頭を押しのけようとした。だが、彼はそれをひょいとかわし、軽い調子で笑った。
「おまえと本気でやりあえるのなら、それはそれで本望だよ」
 ラウルは無言で眉をひそめた。
「それで、ユールベルはどうしている」
 サイファは急に真面目な顔になり尋ねかけた。ラウルは、紙バッグを床に下ろしながら答えた。
「気を失っただけだ。今は私の部屋で休ませている」
「あまり、いじめないでやってくれよ」
 サイファは彼の左手に目を向けて言った。そこには真新しい白い包帯が巻かれていた。
「刃物を持ち出したのはあいつだ。何の覚悟もなくな」
「必死だったんだよ。おまえもそのくらいわかっているだろう。もう少しソフトに受け止めてやってくれよ」
「おまえがやれ。父親代わりはおまえだろう」
 ラウルはいらだたしげに、冷たいまなざしを向けた。
「私に出来ることはやっているよ」
 サイファはパイプベッドに腰を下ろした。
「ただ、彼女がすがるのはいつもおまえなんでね」
「迷惑だ」
 ラウルはすげなく答えた。無表情で背を向ける。そんな彼を見て、サイファはにこりとした。
「私よりおまえのほうが優しいことを、無意識のうちに感じとっているのかもな」
 ラウルはわずかに振り返り、肩ごしに鋭く睨みつけた。しかし、サイファは軽く笑ってそれを受け流した。
「少なくとも、今の彼女に必要なのは、レオナルドではなくおまえだ。落ち着くまで、せめて一晩くらい一緒にいてやってくれ」
「断る」
 ラウルは即座に拒否した。微塵のためらいもない。にもかかわらず、サイファは勝手に話を進めていった。
「ルナのことは心配するな。一晩、預かってくれるよう頼んでおこう。いや、私が預かるか……そうだ、それがいい」
「おまえなどにルナを預けられるか」
「面倒を見るのはレイチェルだぞ」
 ラウルは少し間をおいてから答えた。
「……レイチェルに迷惑は掛けられない」
「やはり優しいな、ラウル先生は」
 サイファは含みをもった口調で、からかうように言った。ラウルは固く口を結んだ。
「たまにはいいだろう? アンジェリカもルナに会いたがっていたよ」
 今度はにっこり微笑んで言った。それでもラウルは無言だった。背を向けたまま、振り返ろうともしない。
 サイファはそれを承諾と受け取った。
「よし、決まりだな。彼女の弟には、私から連絡しておこう」
「おまえはいつも強引だ」
 ラウルはあきれたようにため息をついた。サイファはニヤリとしてパイプベッドから立ち上がった。腰に手をあて、背筋を伸ばす。
「嫌いじゃないんだろう。レイチェルもあれでけっこう強引だからな」
 ラウルは何も答えなかった。前を向いたまま机の上でこぶしを握りしめた。白い包帯が千切れそうなくらいに引っ張られ、微かに音を立てた。
「大丈夫なのか。かなり出血したようだが」
 サイファはそのこぶしに目を落とした。
「たいしたことはない」
「無茶はするな」
 気づかうように言うと、ポンと肩に手をのせた。それから、はたと思い出したように付け加えた。
「そうだ、今度どこかを切ったときは、手当てをする前に私を呼んでくれ」
 ラウルはぴくりと眉を動かした。椅子をまわし、サイファに向き直る。
「まさか、くだらん噂を信じているわけではないだろうな」
「おまえの血は青色だとか、緑色だとか、飲めば不老不死になるとか?」
 サイファはどこか楽しむような声音で、悪戯っぽく尋ねかけた。そして、挑むようにラウルを覗き込んだ。
「血が赤いということは知っているけどね」
 そう言いながら、彼の頬につけられた浅い傷を親指でなぞる。その傷は、わずかに赤黒かった。
「だが、不老不死の方は、試してみないことには、わからないだろう?」
「おまえがそこまで愚かだったとはな」
 ラウルは小さく息をつきながら、彼の手を払いのけた。焦茶色の長髪を大きく波打たせ、再び背を向ける。
 サイファはにっこり笑い、軽く右手を上げると、医務室をあとにした。

 レオナルドは深くうなだれ、扉の脇で座り込んでいた。左右に長く続くガラス窓には、一面紺色の景色が映し出されている。行き交う足音も次第にまばらになっていき、あたりは寂寥としていた。
 鍵の開く音、そして扉の開く音――。
 中から出てきたのはサイファだった。レオナルドは凄まじい形相で睨み上げた。
「俺をいじめてそんなに楽しいか」
「まあな」
 サイファは悪びれもせず、あっさりと肯定した。
「我々の話は聞いていたな」
「…………」
 レオナルドは目をそらせ、口をつぐんだ。聞き耳を立てていたことは、サイファにばれている。それはわかっていた。だが、素直に認めることには抵抗があった。
 サイファはそのことについて、それ以上の追求はしなかった。
「ユールベルはラウルのところに預けた。今日は帰った方がいい」
「冗談じゃない、なぜラウルなんだ!」
 レオナルドは立ち上がり、サイファに噛みついた。サイファは横目で彼を一瞥した。
「今のおまえではユールベルを支えてやれないからだ」
「そんなことはない!」
「おまえは不安定になったユールベルの行動を見ていながら、止めることができなかった」
 レオナルドは何も言い返せなかった。唇を噛みしめうつむく。
「そもそも、おまえが日頃から彼女の悩みを、痛みをわかってやっていれば、それを受け止めてやっていれば、彼女があんな極端な行動には出ることはなかった。違うか?」
 サイファは淡々と追いつめた。
「好きだという気持ちは大切だ。だが、おまえの場合はそれが強すぎる。自分の気持ちを押しつけるばかりで、相手を見ようともしない」
「違う! 俺はいつも見ていた!」
 レオナルドは必死に否定した。サイファは冷めた視線を投げた。
「見ていてわからなかったのなら、なおのこと悪いな」
 レオナルドは完全に負けた。返す言葉などなかった。くやしさと情けなさに肩を震わせた。
「冷静になれ、心にゆとりをもて、そして相手の気持ちを考えろ。そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるはずだ」
 サイファは腕を組んで、壁にもたれかかった。
「彼女を支えるには、多少のことでは動じない精神が必要だ。ラウルのようにというのは無理な話だが、せめてもう少し大人になれ。彼女が安心して寄り掛かれるようにな」
 レオナルドは怪訝に眉をひそめ、彼の端整な横顔を睨みつけた。
「……何を企んでいる。普段のおまえなら、ユールベルと引き離そうとするんじゃないのか?」
「アンジェリカの婚約者を決めろという声が、最近また強くなってきている。おまえの名前も上がるかもしれない」
「そういうことか」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「断ってくれるんだろう? 親に逆らっても、何を敵にまわしても」
 サイファは腕を組んだまま、視線を流して尋ねた。レオナルドは真剣な表情で答えた。
「当然だ、見くびるな。おまえのためじゃない。自分自身のためだ」
「固い決意が聞けて良かったよ。おまえが息子だなんてゾッとするからな」
 サイファはそう言って、ニヤリと笑ってみせた。レオナルドも口端をつり上げ、負けじと言い返した。
「それはこっちのセリフだ。おまえが父だなんて、この世の終わりだ」
「この点においては、私とおまえは利害の一致する仲間というわけだ。ただし、私はユールベルの父親代わりでもある。彼女を不幸にするようなことはしないつもりだ。わかるな」
「俺は、不幸になんてしない」
 レオナルドはまっすぐな瞳をサイファに向けた。しかし、不意にあることが頭をよぎった。はっとすると、眉根を寄せ、首を傾げる。
「ちょっと待て。ユールベルの父親代わりってことは……」
「父親代わりであって、父親ではない。そこは流せ」
 確かにそこにこだわるより、もっと大切なことがある。引っかかるものはあったが、そのことについては考えないようにした。
「じゃあな。一晩、頭を冷やしてよく考えろ」
 サイファはレオナルドの額にポンと手をのせ、踵を返した。レオナルドは顔をしかめながら、手の感触の残る額を何度も拭った。そして、小さくなる後ろ姿を、奇妙な面持ちで見送った。

 ユールベルはベッドの中で目を覚ました。見覚えのある天井。
 ここは――。
 首を動かし、あたりを見回す。こじんまりとした飾り気のない部屋。だが、とても懐かしい光景、懐かしい匂い。ラウルの寝室だった。以前と違うのは、ベビーベッドがあることくらいだ。
 彼女はベッドの上で上半身を起こした。そのとき、何も身に纏っていないことに気がついた。それと同時に、医務室での記憶もよみがえった。目の前を滴り落ちる赤い血、体を伝う生温い感触。思わず吐き気をもよおし、口を押さえてうつむいた。
「目が覚めたか」
 ラウルは無遠慮に扉を開け入ってきた。あいかわらずの無表情で、怒っているのかいないのか、推し量ることもできない。
 ユールベルは包帯を巻かれた彼の左手に目を落とした。
「ごめんなさい……」
 目をそらし、力なく謝る。
「謝るくらいなら、初めからするな」
 ラウルは冷淡な言葉を返した。ユールベルの蒼い瞳はじわりと潤んでいった。彼女はまぶたを震わせながら目を細めると、そのまわりの傷跡にそっと指を這わせた。
「本当に治らないのね」
「何度も言ったはずだ」
 どれだけ尋ねても、彼の答えが変わることはなかった。白いシーツをぎゅっと握りしめる。それから、小さな声で訥々と語り始めた。
「初めのうちは平気だと思っていたわ。人に何と思われようと関係ないって。それまでの仕打ちに比べたら、好奇の目で見られたり、陰で何かを言われたりすることなんて、なんてことはないって。なのに、どうしてかしら、次第につらくなっていったのよ。どうして……。もしかしたら、人の優しさを知って、人の冷たさも身にしみるようになったのかもしれないわね」
 そこまで言うと、さらに深く顔をうつむけた。長い金の髪が、彼女の表情を覆い隠す。
「……こんなことなら、ずっと心を閉ざしていればよかった」
 ラウルはじっと黙って聞いていた。そして、彼女が話し終わると、静かに自分の言葉を落とした。
「誰にでも、あきらめるしかないことはある」
 ユールベルは頭をもたげ、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「あなたにも?」
「誰にでもだ」
「だったら教えて。あなたは何をあきらめたの?」
 探るように彼の黒い瞳を覗き込む。だが、彼女にはその奥にあるものを掴むことはできなかった。
 ラウルは何も答えず、部屋を出ようとした。
「待って、行かないで。聞かないわ。だから、一緒にいて」
 ユールベルはあわてて懇願した。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、わずかに振り返った。
「誰かにすがりたいのなら、サイファを頼れ。あいつがおまえの父親代わりだろう」
「おじさまには迷惑を掛けたくない」
「ラグランジェの人間は、どいつもこいつも勝手ばかり言う」
 ラウルはその語調に腹立たしさをにじませた。
「勝手ついでに、もうひとつお願いしてもいいかしら」
 そう言ったユールベルを、冷たく刺すように睨めつける。彼女はそれに動じることなく彼を見据え、小さな口を開いた。
「私、あなたと一緒にここで暮らしたい」
「前に断ったはずだ」
 ラウルはにべもなくはねつけた。
「私、なんでもするわ。あなたの役に立てるように頑張る。あの子の世話だってするわ。だから、私をここに置いて」
 ユールベルは必死に訴えかけた。
「おまえは逃げ込もうとしているだけだ」
「逃げて何が悪いの?!」
 表情ひとつ変えないラウルを、涙目で睨みつける。しかし、彼の気持ちが揺らぐことはなかった。徹底的に彼女を突き放す。
「他へ行け。迷惑だ」
「どうしてっ……」
 ユールベルは涙をこぼしながら、両手で顔を覆った。細い肩を震わせ、何度もしゃくり上げている。
「あきらめるしかない。そういうことだ」
「だったらあなたがあきらめて!」
 勢いよく顔を上げ、強い視線を彼に向けた。濡れた頬も濡れたまつげも拭わず、いまだ小さくしゃくり上げてる。
 ラウルはまっすぐに黒い瞳を返した。そして、静かに言った。
「弟はどうするつもりだ」
 ユールベルははっとしてうつむいた。微かに自嘲の笑みを浮かべる。
「忘れていたわ」
 目を細め、奥歯を噛みしめる。
「最低だわ。自分のことしか考えていなかった。姉だなんていう資格ないわね。……いいえ、元からそんなものはなかった」
 膝を引き寄せ、シーツごと抱えると、そこに顔をうずめた。
「それでも……それでも、やっぱり、あの子は私が守るしかない」
 弱々しい声だが、きっぱりと言い切った。おもむろに顔を上げると、細く白い腕を伸ばし、ラウルに手のひらを向けた。
「帰るわ。服と包帯、返して」
 きつい口調で、精一杯、強がってみせる。ラウルは無表情で彼女を見下ろした。
「今晩だけ泊まっていけ。弟にも連絡を入れておく」
 ユールベルの腕から力が抜けた。軽い音を立てて、シーツの上に落ちる。
「優しくするか冷たくするか、どちらかにしてほしいわ」
 伏目がちに複雑な表情を見せると、ぼそりとつぶやいた。
 ラウルは前に向き直り、部屋を出ようとした。
「待って! 行かないで!」
 ユールベルは怯えた声で引き止めた。ラウルは背を向けたまま足を止めた。
「私はおまえと違って暇ではない。……あとで戻る。大人しく寝てろ」
 淡々とそう言うと、部屋を出て、静かに扉を閉めた。

 チチチチ……。
 小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。木々のざわめきがそれに重なる。細く開いた窓から、ひんやりとした空気が流れ込み、薄地の白いカーテンをふわりと舞い上げた。窓からの柔らかな光が大きく揺らめく。机に向かうラウルにもその風は届いた。彼の長い髪がさらさらとなびいた。
 ――ガチャッ。
 奥の部屋からユールベルが姿を現した。真新しい上質な白いワンピースに、黒いエナメルの靴、おろし立ての白い包帯、緩やかなウェーブを描く金色の髪。すっかり身支度を整えている。
 彼女はゆっくりと足を進めていった。
「帰るわね」
 机に向かうラウルに、後ろから声をかける。
「ああ」
 ラウルは振り返らずに返事をした。ユールベルは目を細め、彼の背中をじっと見つめた。
「……また、来てもいいかしら」
「診察にならな」
 素っ気ない答えを返す。ユールベルは後ろから彼に腕をまわした。広い背中に頬を寄せ、そのあたたかさを感じながら目を閉じた。
「さようなら」
 囁くように告げられたその言葉は、微かに震えていた。

 ユールベルは医務室を出て、扉を閉めた。そのとき、脇でレオナルドが座り込んでいることに気がついた。服にも顔にも、血がついたままだった。すでに変色して、赤というよりも黒に近くなっている。
「ずっと、ここにいたの?」
「情けないな。俺ではラウルの代わりにもならないのか」
 レオナルドはうなだれたまま、自嘲ぎみに言った。ユールベルの胸に痛みが走った。何も答えることが出来なかった。ただ、眉根を寄せ、うつむくだけだった。
「おまえはもう俺のことを必要としなくなっていた。それは、だいぶ前からわかっていた」
「……頼んでおきながら、勝手よね」
「勘違いするな。おまえを好きになったのは、頼まれたからじゃない」
 レオナルドは、隣で立ち尽くすユールベルに、ちらりと目を向けた。
「だから、これからも勝手におまえのことを好きでいる」
「私なんかのどこがいいのよ」
 ユールベルは後ろで手を組み、壁にもたれかかると、投げやりに言った。
「理由が欲しいなら、いくらでも挙げてやる。それとも、迷惑ってことなのか?」
 レオナルドは淡々と尋ねた。ユールベルは困惑して顔を曇らせた。
「私は、どうすればいいの?」
 レオナルドはじっと考え込んだ。そして、静かに口を開いた。
「俺を見ていてくれ。きっと、おまえを受け止められるような男になってみせる。ラウルの代わりでなく、ジークの代わりでなく、俺を俺として好きになってくれるまで待つさ」
 穏やかだが、力強さを感じさせる声。いつもの彼にはない落ち着きもあった。
 ユールベルは遠くを見て、目を細めた。
「前にも言ったわ。あなたの気持ちには応えられないかもしれないって」
 レオナルドはふっと笑ってうつむいた。
「前にも言っただろう。それでも俺はあきらめないと。未来のことは誰にもわからない、そうだろう?」
 ユールベルはゆっくりと彼に振り向いた。そして、静かに尋ねかける。
「あなたは、何かをあきらめたことはあるの?」
「……あるさ」
 レオナルドは低い声で短く答えた。頼りなく目を伏せている。しかし、すぐにその表情を引き締めると、瞳に決意をみなぎらせた。
「でも今度は、おまえのことだけは、絶対にあきらめるつもりはない」
「あなたのそういうところ、うらやましいわ」
 ユールベルは足元を見つめながら、少し寂しげに微笑んだ。そして、そっと顔を上げると、窓の外の青い空を遠望した。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~勘違い貴族の規格外魔法譚~

Gaku
ファンタジー
「次の人生は、自由に走り回れる丈夫な体が欲しい」 病室で短い生涯を終えた僕、ガクの切実な願いは、神様のちょっとした(?)サービスで、とんでもなく盛大な形で叶えられた。 気がつけば、そこは剣と魔法が息づく異世界。貴族の三男として、念願の健康な体と、ついでに規格外の魔力を手に入れていた! これでようやく、平和で自堕落なスローライフが送れる――はずだった。 だが、僕には一つ、致命的な欠点があった。それは、この世界の魔法に関する常識が、綺麗さっぱりゼロだったこと。 皆が必死に唱える「詠唱」を、僕は「気合を入れるためのおまじない」だと勘違い。僕の魔法理論は、いつだって「体内のエネルギーを、ぐわーっと集めて、どーん!」。 その結果、 うっかり放った火の玉で、屋敷の壁に風穴を開けてしまう。 慌てて土魔法で修復すれば、なぜか元の壁より遥かに豪華絢爛な『匠の壁』が爆誕し、屋敷の新たな観光名所に。 「友達が欲しいな」と軽い気持ちで召喚魔法を使えば、天変地異の末に伝説の魔獣フェンリル(ただし、手のひらサイズの超絶可愛い子犬)を呼び出してしまう始末。 僕はただ、健康な体でのんびり暮らしたいだけなのに! 行く先々で無自覚に「やりすぎ」てしまい、気づけば周囲からは「無詠唱の暴君」「歩く災害」など、実に不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた……。 そんな僕が、ついに魔法学園へ入学! 当然のように入学試験では的を“消滅”させて試験官を絶句させ、「関わってはいけないヤバい奴」として輝かしい孤立生活をスタート! しかし、そんな規格外な僕に興味を持つ、二人の変わり者が現れた。 魔法の真理を探求する理論オタクの「レオ」と、強者との戦いを求める猪突猛進な武闘派女子の「アンナ」。 この二人との出会いが、モノクロだった僕の世界を、一気に鮮やかな色に変えていく――! 勘違いと無自覚チートで、知らず知らずのうちに世界を震撼させる! 腹筋崩壊のドタバタコメディを軸に、個性的な仲間たちとの友情、そして、世界の謎に迫る大冒険が、今、始まる!

オネエ伯爵、幼女を拾う。~実はこの子、逃げてきた聖女らしい~

雪丸
ファンタジー
アタシ、アドルディ・レッドフォード伯爵。 突然だけど今の状況を説明するわ。幼女を拾ったの。 多分年齢は6~8歳くらいの子。屋敷の前にボロ雑巾が落ちてると思ったらびっくり!人だったの。 死んでる?と思ってその辺りに落ちている木で突いたら、息をしていたから屋敷に運んで手当てをしたのよ。 「道端で倒れていた私を助け、手当を施したその所業。賞賛に値します。(盛大なキャラ作り中)」 んま~~~尊大だし図々しいし可愛くないわ~~~!! でも聖女様だから変な扱いもできないわ~~~!! これからアタシ、どうなっちゃうのかしら…。 な、ラブコメ&ファンタジーです。恋の進展はスローペースです。 小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。(敬称略)

40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私 とうとうキレてしまいました なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが 飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした…… スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます

死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜

のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、 偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。 水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは―― 古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。 村を立て直し、仲間と絆を築きながら、 やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。 辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、 静かに進む策略と復讐の物語。

クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双

四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

女王ララの再建録 〜前世は主婦、今は王国の希望〜

香樹 詩
ファンタジー
13歳で“前世の記憶”を思い出したララ。 ――前世の彼女は、家庭を守る“お母さん”だった。 そして今、王女として目の前にあるのは、 火の車の国家予算、癖者ぞろいの王宮、そして資源不足の魔鉱石《ビス》。 「これ……完全に、家計の立て直し案件よね」 頼れない兄王太子に代わって、 家計感覚と前世の知恵を武器に、ララは“王国の再建”に乗り出す! まだ魔法が当たり前ではないこの国で、 新たな時代を切り拓く、小さな勇気と現実的な戦略の物語。 怒れば母、語れば姉、決断すれば君主。 異色の“王女ララの再建録”、いま幕を開けます! *カクヨムにも投稿しています。

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

処理中です...