遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

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69. うそつき

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「僕たちもとうとう四年生か……」
 前を横切る初々しい新入生を見て、リックは感慨深げにつぶやいた。
 今日はアカデミーの入学式である。授業は午前で終わり、三人は帰り支度をして食堂へ向かうところだった。
「学年が上がった実感はあんまりないけどな。担任、ずっと変わらねぇし」
 ジークは仏頂面でぶっきらぼうに言った。彼の頭にラウルの姿が浮かんでいることは明白だった。リックとアンジェリカは顔を見合わせてくすりと笑いあった。
「なんだよ、おまえら」
 ジークは口をとがらせ、両隣りのふたりを交互に睨んだ。アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑いかけた。
「あと一年ね」
「ああ、さっさと卒業して働きてぇよ」
 ジークは面倒くさそうに、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「そう」
 アンジェリカは無表情で素っ気なく返事をした。彼女のその態度に、ジークはうろたえた。あわてて付け加える。
「少し、寂しいけどな」
 アンジェリカはきょとんと彼を見上げ、大きくまばたきをした。
「ラウルと離れるのが?」
「バカ! おまえだよ!」
 彼女を指さし勢いよく言ったあとで、はっとして目を伏せた。窓から射し込む陽光が、白い廊下に反射して少し眩しい。耳元が次第に赤みを帯びていく。
 アンジェリカは後ろで手を組み、短いスカートをひらめかせながら、彼の前にまわりこんだ。
「卒業したって、会おうと思えばいつだって会えるわ」
 大きな瞳で覗き込み、屈託のない笑顔を見せた。
 ジークは目を見張った。
 ――いつだって会える。
 彼女の言葉を頭の中で反芻すると、照れくさそうにはにかんだ。その様子をリックはにこにこしながら眺めていた。
「なんだよ!」
「別に」
 突っかかってきたジークに、リックは笑顔のままでさらりと答えた。ジークはその余裕たっぷりの態度が気に食わなかった。キッと彼を睨み、指先を突き付けると、威勢よくがなり立てた。
「おまえ人のことばっか気に掛けてねぇで、自分のことを考えろよ!」
「自分のこと?」
 そう聞き返されて、ジークは言葉に詰まった。
「い……いろいろあるだろ! えと……そうだ、進路とかな! ラウルがまともに進路指導なんてやるわけねぇし、自分でしっかり考えねぇとな」
 ほとんどターニャの受け売りだった。だが、ジークは上手く話を繋げられたことに安堵し満足していた。これならリックも悩み出すに違いない。意地悪くそんなことを思ったが、彼の口から発せられた言葉は予想とは違うものだった。
「ああ、それならもう考えてるよ」
「え?」
 聞き返したジークの声は、情けなく裏返っていた。ずり落ちた鞄を肩に担ぎ直す。
「どうするの?」
 アンジェリカはリックに振り返り、興味津々に尋ねた。彼はにっこり笑って答えた。
「先生になろうかと思って」
「アカデミーのか?」
 ジークが尋ねると、リックは両手を前に出して振りながら、焦って否定をした。
「違う、違う、それは無理! 普通の学校のだよ」
「なんか、もったいねぇな。せっかくアカデミーまで来たのによ」
 ジークは腕を組み、不満そうに言った。しかし、アンジェリカは顔を輝かせ、弾んだ声をあげた。
「いいじゃない! リックに合ってると思うわ」
「ありがとう」
 そう言い合って笑顔を交わすふたりを見て、ジークは表情にわずかな影を落とした。
「ジークはどうするの?」
 アンジェリカは不意に彼に話を振った。目をくりっと見開き、いたずらっぽく覗き込む。
「まだ人柱になりたいとか思っているわけ?」
「人柱じゃねぇよ、四大結界師だ!」
 からかうように言ったアンジェリカの言葉を、ジークはむきになって訂正した。
「まあ、なりたいと思ってすぐになれるもんじゃねぇし、とりあえず魔導省に入るのが順当なところらしいけどな」
「ジークがお役人……」
 リックは呆然とつぶやいた。ジークは顔を赤くして言い返した。
「ガラじゃねぇのはわかってるよ!」
 アンジェリカは嬉しそうににっこりと笑いかけた。
「じゃあ、ジークはお父さんの部下になるのね」
「……そこがなぁ」
 ジークはとたんに苦い顔になった。アンジェリカは怪訝に顔を曇らせた。
「お父さんのこと、嫌いなの?」
 不安そうに尋ねる。
「あ、いや、そうじゃねぇよ」
 ジークはあわてて否定した。
「サイファさんのことは尊敬してる。でも、なんていうか、あんまり関わりすぎると……なぁ……いろいろやりづらいっていうか……」
 はっきりしない物言いに、アンジェリカは首を傾げた。
「やりづらいって、何が?」
「何がって言われても困るけどな……」
 ジークは追いつめられ、弱った表情で口ごもった。
「それって、アンジェリカのお父さんだからってこと?」
 リックが横から口をはさんだ。ジークはぎくりと体をこわばらせた。図星であることは、表情にも思いきり表れている。
「それ、どういう意味?」
 アンジェリカは眉根を寄せ、両手を腰にあて問いつめた。
「え、いや、あ、おまえはどうするんだよ、卒業後」
 ジークはしどろもどろになりながらも、必死で話題を変えた。
「え? 私?」
 ジーク自身、こんな手にアンジェリカが引っかかるわけないと思ったが、意外にも彼女は追求をやめ、その話題に乗ってきた。
「実は、私も魔導省に入りたいと思ったの。でもね、年齢制限があったのよ。18歳未満はだめだって。ひどいでしょう?! そんなの関係ないのに!」
 よほどそのことを訴えたかったのか、右手をぐっと握りしめ、勢いよく捲し立てた。そして、口をとがらせると、腕を組んで考え込んだ。
「どこか他にいいところがあればいいんだけど」
「おまえ、無理して就職することもないんじゃねぇのか?」
 ジークは思いつくままにそう言った。年齢のこともあるが、何より彼女の家は裕福である。若いうちから働かなければならない事情は何もないはずだ。
 しかし、アンジェリカはきっぱりと答えた。
「うちでじっとしているなんて嫌よ」
 ジークは苦笑した。
「勉強しながらあと四年待って、それから就職でも遅くねぇだろ」
 彼なりに最良の案を提示したつもりだったが、彼女は納得しなかった。
「そんな時間、ないかもしれないもの」
 ジークは怪訝に首をひねり、尋ねかけた。
「それってどういう……」
 そのとき、アンジェリカの表情が途端にこわばった。体を小刻みに震わせながら、大きく目を見開いた。彼女がその瞳に映しているのはジークではない。彼を通り越し、その向こうを見ているようだ。
「どうした?」
 ジークは彼女の視線をたどった。そこに立っていたのは、ロングコートをまとったひとりの男性だった。そこそこ年輩だと思われるが、体は大きくがっちりとして、背筋もしっかりと伸びている。老人という風情ではない。髪は半分ほど白くなっているが、残った色から元は鮮やかな金髪であったことがうかがえる。そして、瞳は深い青色――。ジークは直感した。この男はラグランジェ家の人間であると。
 ジークはアンジェリカをその男の反対側に寄せ、庇うように肩を抱き、足早に通り過ぎようとした。彼女の体の微かな震えが、手を通し伝わってくる。
 大丈夫だ――。
 ジークは安心させるように、無言でその手に力を込めた。
「ジーク=セドラックだな」
 思いがけない言葉に、ジークははっと息をのみ顔を上げた。なぜ自分の名を……。とまどいを隠せない。
「君とは一度、話をしたいと思っていた」
 男はジークを値踏みするように、上から下までじろりと見まわす。
「ちょうどいい機会だ。来てもらおう」
 有無を言わさぬ威圧的な口調。ジークは得体のしれない恐怖を感じた。同時に、何の話だろうかという興味もあった。しばらく考えたのち、口を結んだまま男の方に足を踏み出した。
「私も行くわ!」
 アンジェリカも彼のあとに続こうとする。そんな彼女を、男は冷たく睨みつけた。
「ジーク=セドラックとふたりで話をしたい。おまえは来るな」
「どうして?! 私の話でしょう? だったら……」
「言うことを聞け、アンジェリカ=ナール」
 迫力のある低音が、体の芯に響く。アンジェリカはびくりと体をこわばらせた。もはや、動くことも言い返すこともできなかった。
「心配すんな」
 ジークはそんな言葉を掛けることくらいしかできなかった。そして、ふたりは連れ立ってその場をあとにした。
「ジーク、図書室で待っているから!!」
 アンジェリカは遠ざかる背中に向かって、乾いた喉から声を絞り出した。ジークはわずかに振り返り、微かな笑顔で応えた。

「誰なの、あの人」
 リックは華奢な背中におずおずと問いかけた。彼女はふたりが消えていった方向をずっと見つめていたが、リックの声を耳にすると、目を細め口を開いた。
「私のひいおじいさまよ」
「ひい……おじいさま?」
 リックは驚いて思わず聞き返した。それにしては若すぎると思ったのだ。アンジェリカはガラス窓にそっと手をつき、中庭の噴水を見つめた。
「昔から、ひいおじいさまの私を見る目はとても冷たかった」
 無表情に、無感情に、淡々と言葉をつなげていく。
「誰よりも厳格で、誰よりもラグランジェ家のことを考えている人だから、異端である私が許せないんだと思う」
「そんな、アンジェリカが悪いわけじゃないのに……」
 リックはそれだけ言うのが精一杯だった。彼女の横顔を見つめ、悲しげに眉をひそめる。
 アンジェリカは彼に振り向き、少し寂しげに笑ってみせた。
「私の存在自体が許せないのよ」
 リックはもう何も言葉が掛けられなかった。彼女がラグランジェ家の中で「呪われた子」などと呼ばれ、蔑まれていることは知っていた。だが、それを目の当たりにすると、やはりショックである。彼女はどんな思いでこれまで生きてきたのだろうか、ふいにそんなことを考えてしまう。
「どうして自分だけこうなんだろうって、何度も考えたし、自分なりに調べもしたわ」
 アンジェリカは目を伏せ、自分の横髪を無造作に掴んだ。リックは胸が詰まった。
「答えは、見つかったの?」
 ゆっくりと滑り落ちる彼女の手を見つめ、静かに尋ねかける。アンジェリカはぽつりと言葉を落とした。
「遺伝子の異常」
「え?」
 リックはぽかんとしてまばたきをした。
「ただの憶測よ。根拠は何もないわ」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。
「色素が作られなくて、肌や髪が白くなるっていうのはあるの。逆のケースは見つけられなかったけれど、ありえないことではないかなって」
 そう言うと、今度は自嘲ぎみに小さく笑った。
「そうだとすると、穢れた血という言われ方も、間違ってはいないわね」
「間違ってるよ!!」
 リックは身を乗り出し、両こぶしを握りしめて言った。アンジェリカはその迫力に驚いて少し身を引いた。目をぱちくりさせて彼を見る。そして、ふいに表情を緩めると、やわらかい笑顔を見せた。
「ありがとう」
 リックはひとまず安堵した。彼女の肩にぽんと手を置き、優しく微笑みかけた。

 ジークと年輩の男は、王宮の外れにある小さな森に来ていた。生い茂った枝葉の隙間から落ちる木漏れ日が、細い散歩道にまだら模様を作る。緩やかな風が吹くたび、模様は形を変え、頭上からは木々のざわめきが降りそそいだ。
 ジークは不安になってきた。こんな人気のない場所に連れ込んで、この男はいったい何を企んでいるのだろうか。もし、何かが起こったとしても、助けを呼ぶこともできない。
「誰なんだよ、おまえは」
 沈黙と不安に耐えかねたジークは、半歩先を歩く男の背中に、無礼な口調で問いかけた。男は振り返ることなく答えた。
「先々代のラグランジェ家当主、それで充分だろう」
「で、今は長老会メンバーか?」
 男の足が止まった。そして、ゆっくりとジークに振り返り、鋭い視線を向けた。瞳の奥には強い光が宿っている。
 ジークはあごを引き、口端を上げ、挑みかけるようにニッと笑った。目はまっすぐ男を捉えている。だが、強気な態度とは裏腹に、額には脂汗が滲んでいた。
「そこまで知っているとはな。今すぐ始末したい気分だよ」
 男は凍てつくような青い瞳でジークを突き刺し、凄みのある低音をゆっくりと響かせた。ジークは背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。小さく身震いをする。
「安心しろ。そんなつもりはない」
 男はふっと笑って前に向き直り、再び歩き始めた。
「だが、他言をすればそうなるかもしれん。気をつけることだな」
「わかってる」
 ジークは少し離れて歩きながら、短く答えた。そして、再び疑問をぶつけた。
「わざわざ俺と話をするためにアカデミーに来たのか?」
 男の背中が笑った。
「自惚れるな。アンジェリカ=ナールの成績をもらうために来たのだ」
 コートの内側からファイルを取り出し、掲げて見せた。その青いファイルはかなりの厚みがあった。成績表だけではなく、試験や内部資料なども収められているのかもしれない。ジークはそう思った。
 男はそれをコートの内側に戻すと、脇にひっそりと佇むベンチに腰を掛けた。古びた木製のそれは、ギィと鈍い軋み音を立てた。
「君の成績もついでに見させてもらった。優秀だな」
「一度もアンジェリカに勝てたことねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、吐き捨てるように言った。嫌味を言われているのだと思った。くやしまぎれに足元の小枝を踏みしめる。パキパキと甲高い音が森に響いた。
 男はまぶたを閉じ、ふっと笑った。
「あの子には勝てんよ。君はもちろん、ラグランジェ家の人間でも、敵うものはほとんどいないだろう」
 そう言ってジークを一瞥すると、さらに話を続けた。
「それだけの素質が彼女には備わっている。そういう血を持って生まれてきたということだ」
「やっと認める気になったのか」
 ジークは呆れたように言った。フンと鼻を鳴らす。
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
 男はベンチから立ち上がり、コートのポケットに手を入れた。広い背中をジークに向ける。
「彼女は我々にとって必要な存在となった。君には手を引いてほしい」
「は?」
 男は悠然と振り返った。
「君とアンジェリカが懇意にされては、後々、差し障りが出てくるのだ」
 ジークは訝しげに首を傾げた。
「わかるように言えよ。アンジェリカをどうするつもりだ」
「ラグランジェ本家を継いでもらう」
 男はまっすぐジークを見据えて言った。
 来た――。
 ジークは唇を噛みしめうつむいた。いつかそういう話を聞かされるのではないか、心の片隅にずっと不安を抱えていた。同時に、呪われた子と言われている彼女に継がせないのではないか、そんなふうに楽観していた部分もあった。
「まだ正式決定ではないが、近いうちにそうなる予定だ。サイファにも、これ以上、好き勝手させはしない」
「赤ん坊の頃、殺そうとしたのはおまえらだろう。今さら勝手なことを言うな!」
 威勢よく突っかかったあとで、ジークははっとした。わずかに身構えると、上目遣いでじっと睨めつける。
「今度は邪魔になった俺を殺すつもりか?」
 頬を一筋の汗が伝う。そんなジークに、男は冷ややかな視線を送った。
「君は、我々のことを暗殺集団か何かのように聞かされているかもしれないが、そうではない」
 しっかりと言い聞かせるように、緩やかに抑揚をつけながら言葉をつなげる。そして、後ろで手を組み、無防備な背中をジークに見せた。
「部外者を巻き込まないことが、我々の基本方針でね」
「あくまで基本なんだろ」
 ジークはぶっきらぼうに揚げ足をとった。男はゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「すべてを忘れ、ラグランジェ家と距離をおくことを約束してくれれば、悪いようにはしない。君はこれから就職活動を始めるのだろう」
 ジークは顔をしかめた。
「おまえの力なんて借りるつもりはねぇよ。自分の力だけで十分だ」
「わかっていないな」
 男は冷笑した。
「君自身も言っただろう、“あくまで基本”だと」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「裏を読め。手を引かなければどうなるかということを。おまえごときの人生を捻り潰すなど造作もないことだ」
 男は真顔で言った。
 ジークは奥歯を食いしばりうつむいた。爪が食い込むほどにこぶしを強く握り震わせる。ただの脅しではないと思った。彼らにはそれだけの力があり、また、そうすることにためらいもないだろう。いったいどうすれば……。頭が混乱して、まともに考えることもできない。
「なんで……なんでアンジェリカなんだよ。別にアンジェリカでなくてもいいだろう」
 今にも泣き出しそうな声でつぶやくと、顔をしかめ髪を鷲掴みにした。
「残念ながら、そうはいかなくなったのだ。すべてはラグランジェ家を守るためだ」
 その言葉を聞くと、ジークの頭に一気に血がのぼった。
「バカじゃねぇのか! 人があっての家だろう!」
 顔を上げ、大声で食って掛かった。その声に驚いた森の鳥たちは、いっせいに羽ばたき飛び立っていった。木の葉がいくつか、ひらひらと舞い落ちる。だが、男は平然としたまま、ジークを一瞥した。
「おまえのような外部の人間にはわからんだろうな。二千年近く名家として続いてきたラグランジェ家の重みというものを。その伝統の前では、個人など取るに足りないものなのだ」
 ジークはムッとして男を睨みつけた。
「少なくともサイファさんはそう思っていない」
 男は嘲るように小さく笑った。
「君は随分サイファを慕っているようだが、気をつけた方がいい」
「おまえの言うことなんか信じるかよ」
 ジークがそう言ったにもかかわらず、男は構わず話を続けた。
「守りたいものが違うだけで、本質は我々と変わらない。人を利用し、不要になれば排除する。そういうことが平気でできる男だ。嘘をつくのが上手い分、我々よりたちが悪いかもしれんな」
 ジークは反論もせず、複雑な表情で立ち尽くしていた。この男の言うことを信用したわけではない。だが、何か引っかかりのようなものを感じる。些細なこととして気にしなかった、もしくは気にしないようにした、いくつかの小さな記憶。それらが一斉に呼び起こされるような、そんなざわめく感覚がわき上がった。
 男はジークの肩に片手をおき、ぐっと力を込めた。
「君が利口な選択をしてくれることを願っている」
 ジークは、その低音が腹の底にずっしりと沈んでいくのを感じた。額から汗が吹き出す。男はもう一度、ジークの肩においた手に力を込めると、彼を残して森から出ていった。
 男の姿が見えなくなると、ジークは膝から崩れるようにその場にへたり込んだ。肩にはまだごつい手の感触が残っている。
 森のどこかから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。

「ジーク!!」
 彼が図書室の扉を開けたとたん、アンジェリカは彼の名を呼び、急いで駆け寄ってきた。不安そうな表情で、じっと彼を見つめる。
「何の話だったの?」
 少し緊張したような固い声。ジークには彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。それでも、あの話を伝えることなど、自分にはできない。彼女から目をそらせる。
「何でもねぇよ」
 精一杯の平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。しかし、その答えはなんのごまかしにもなっていなかった。アンジェリカはさらに追求する。
「何でもないわけないじゃない! 私に関係がある話なんでしょう」
「違う」
 ジークは難しい顔でうつむいた。アンジェリカは追求を緩めなかった。
「他に何の話があるっていうのよ」
 ジークは言葉を失った。沈黙するしかすべがなかった。アンジェリカは真剣な表情でジークを見据え、落ち着いた声ではっきりと言った。
「自分のことくらい、自分で受け止められるわ。子供扱いするのはやめて」
「子供じゃねぇかよ!」
 追いつめられ、ついそんな言葉が口をついた。言い過ぎた――。ジークはすぐに後悔した。
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳を潤ませ、彼をキッと睨んだ。
「うそつき!」
「うっ……?」
 ジークは尋ね返そうとして、言葉を詰まらせた。
 アンジェリカは机の上に置いてあった鞄を乱暴に掴み、走って図書室を出ていった。
「アンジェリカ! 待って! わっ」
 彼女を追いかけようとしたリックを、ジークはフードを掴んで引き留めた。
「何を言うつもりだ」
 うつむき、喉の奥から乾いた声を絞り出す。
「何って……」
 リックは口ごもった。そこまで考えていなかった。
「でも、あのまま行かせていいの?!」
「これは俺の問題だ」
「じゃあ早く追いかけなよ!」
 リックに急き立てられても、ジークはただうなだれるだけだった。彼が何かに深く悩んでいることは、リックにもわかった。しかし、アンジェリカも同様に悩みと不安を抱えている。そんな彼女にあのような言葉を浴びせ、謝りも弁解もせずそのまま行かせるなど、あってはならないことだと思った。
「ジーク!」
 苛ついて名を呼ぶ。行動を起こさない彼がもどかしかった。
「もう少し、考えさせてくれ……」
 ジークは消え入りそうな声で、ようやくそれだけを口にする。
 リックは目を細めて彼を見つめた。
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