遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

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66. 若者と権力者

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「えー、ルナちゃん、いないの?」
 アンジェリカは不満げに声をあげた。王妃アルティナはティーカップを片手にくすりと笑った。
「アカデミーが休みの間はずっと一緒に過ごすって、ラウルがね」
「ラウルが……」
 アンジェリカは半信半疑でつぶやいた。アルティナを疑っているわけではないが、ラウルがそんなことを言うとは、にわかに信じられなかった。
「あんなヤツでも怖いんじゃないかしら」
 アルティナはやわらかい表情でほおづえをついた。
「娘が自分より私たちに懐くのが、ね」
 ラウルが仕事をしている昼間は、アルティナが彼の娘ルナを預かることになっていた。そのためルナは、ラウルよりアルティナたちと過ごした時間の方が長いという日も少なくなかった。
「久しぶりに会えると思ったのに残念」
 アンジェリカは軽く口をとがらせ、肩を落とした。その隣では、アルティナの息子アルスが、床にあぐらをかき大きなクッションを抱きしめながらむくれていた。
「ルナをとられた気分だぜ。さびしくて仕方ねぇやっ!」
 そう叫びながら、やり場のない怒りをこぶしに込め、そのクッションにぶつけた。
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせながら両手を合わせた。
「じゃあ、今からみんなでラウルのところに押しかけない?」
「駄目よ。ラウルには医者としてのお仕事があるんだから」
 アルティナの向かいで紅茶を淹れていたレイチェルは、優しい口調で娘をたしなめた。アンジェリカは無言で口をとがらせた。
「じゃあよ、ジークのところに行くってのは?」
 アルスは無邪気に言った。アンジェリカは目を見開いた。
「あいつ、ちっとも会いに来ないし、こっちから押しかけてやろうぜ。確かナントカ研究所ってところじゃなかったか?」
「え、でも……」
 アンジェリカが何か言いかけたが、アルティナの声がそれを遮った。
「レイチェル、今日の私の予定って、会議ひとつだけだったわよね」
「ええ、行政改革推進委員会の定例会議。午後からね」
 アルティナは腕時計に目を落とした。
「時間はじゅうぶんにあるわね。よし! 行くわよ!」
 気合いの入った声をあげると、勢いよく立ち上がった。
「え?!」
「ホントか!」
 アンジェリカはとまどい、アルスは大喜びした。
「研究所って、ちょっと興味があったのよね」
 アルティナは声を弾ませた。顔はにこにこ足どりは軽やかで、見るからに浮かれている。
 アンジェリカは遠慮がちに切り出した。
「でも、あそこは関係者以外は入れてもらえないって……」
「なーに言ってんのよ。私は王妃よ、王妃! 立派な関係者じゃない」
 言われてみれば確かにそのとおりだ。しかし、彼女にはもうひとつの懸念があった。
「ジークの邪魔になるんじゃ……」
「ちょっと見学するだけよ。心配性ね」
 アルティナは笑顔で彼女を覗き込み、頭を軽くぽんと叩いた。アンジェリカは納得しないまま黙り込んだ。
「外に出るのも久々ね。わくわくするわ!」
 よく通る声でそう言いながら、息子とともにさっそく部屋を出ようとしていた。
「止めないの?」
 アンジェリカは母親に振り返って尋ねた。レイチェルはにっこりと笑った。
「私も見てみたいと思っていたのよ」
「…………」
 アンジェリカは不安な気持ちを抱えたまま、レイチェルとともに、アルティナたちのあとについていった。

「ターニャ=レンブラントに所長のことを教えたんだってな」
 サイファは窓枠にもたれかかり腕を組んだ。背後からの光が、彼の鮮やかな金髪をよりいっそう際立たせている。
 ラウルは机に向かったまま、ペンを持つ手を止めずに答えた。
「口止めされた覚えはない」
「口止めしたところで、上手く取り繕ってくれはしないだろう」
 サイファはふっと小さく笑った。
「長く生きているわりに嘘が下手だからな、おまえは」
 細く開いた窓から緩やかに風が舞い込み、白いカーテンの端を静かにはためかせた。ラウルは無表情で自分の仕事を続けていた。その隣のベビーベッドでは、ルナがすやすやと寝息を立てている。
「教えてやろうか、嘘のつき方」
 ラウルは手を止め、その声の主を鋭く睨みつけた。サイファは挑みかけるように不敵に笑った。その表情を見て、ラウルは眉をひそめた。
「必要ない」
 吐き捨てるようにそう言うと、再び書類に目を向けた。
「必要ない、か……」
 サイファはラウルの言葉を反芻し、目を伏せため息をついた。
「清廉潔白な人間は言うことが違うな」
 ラウルは再び睨みつけた。
「怒らせたいのか」
「怒る?」
 サイファは顔を上げた。組んだ腕をほどき、ラウルに歩み寄る。
「おまえが私を?」
 彼の肩に腕をのせ、もたれかかるように顔を近づけた。
「逆じゃないのか」
 ラウルは何も答えなかった。書類に目を落としたまま、無表情を保っていた。だが、彼の目は文字を追ってはいなかった。
 サイファはふっと笑って体を起こした。
「冗談だよ」
 そう言ってラウルの背中を叩き、後ろのパイプベッドに腰を下ろした。
「しかし、潔癖性だと大変だな。コネなどめずらしいことでもないのに。私は試験すら受けずに魔導省へ入ったぞ」
「何の自慢にもならんな」
 ラウルは背を向けたまま、無愛想に返した。サイファは手を組み、ニッと口端を上げた。
「プライドなど些末なものだということさ。きれいなままでは、泥の河は渡れないんでね」
「おまえはやりすぎる」
「限度はわかっているつもりだよ」
 今度はゆったりと穏やかに笑った。
「さて、と……そろそろ時間だな」
 腕時計を見ながら立ち上がり、ラウルに振り向いた。
「おまえも来るか?」
「仕事中だ」
 彼は顔を上げることもなく、冷ややかに言い放った。
「そうか。では、代わりに謝っておいてやるよ」
「余計なことをするな」
 怒りを含んだ低い声とともに、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、サイファはそれを待っていたかのようだった。にっこり笑って小さく右手を上げると、医務室をあとにした。

「ちょっと! どういうことよ! 私は王妃よ!!」
 アルティナは所長に詰め寄った。
「いくら王妃様といえど、関係者以外の方を、ここより先お通しするわけには参りません」
 所長は涼しい顔で受け流した。
 アルティナたちがいるのは、研究所を入ってすぐのところにある簡易応接室である。研究所内で関係者以外の立ち入りが許可されている唯一の場所だ。簡易というわりには広いが、奥の応接室と比べると、机も椅子も簡素なものとなっている。
 アンジェリカとアルスは、椅子に座ってふたりの応酬を見守っていた。
「王立の研究所で、王妃の私が関係者じゃないっていうの?!」
 アルティナはさらに声を荒げた。しかし、所長はまるで動じることはなかった。
「申しわけありませんが……」
「納得のいく説明をしなさいよ!」
 アルティナは彼の胸ぐらを掴み、大きく揺さぶった。
「アルティナさん、落ち着いて!」
 アンジェリカは立ち上がり、あわてて止めようとした
「いいぞ、行けー!」
 アルスはその隣で煽るようにはやし立てた。レイチェルはその状況を見ながら、ただにこにこと微笑んでいた。
「どうしたんだい、こんなところで」
 戸口からひょっこり顔を覗かせたのはサイファだった。アルティナの大きな声は、廊下まで筒抜けだったのだろう。
「え? お父さん?!」
 アンジェリカは少しうろたえた。
「サイファ! いいところに来たわ」
 アルティナは所長を締め上げていた手をようやく放した。
「見学したいってだけなのに、この頑固ジジイが入れてくれないのよ。何とかしなさいよ」
 サイファは所長に振り向いた。
「どうだろう。アルティナさんとレイチェルだけ、入れてやってもらえないだろうか」
「サイファ殿がそうおっしゃるのでしたら」
 所長はあっさり了承した。ほんの数分前の、取りつく島さえなかった、あのかたくなな態度が嘘のようである。アルティナはこめかみの血管が切れる音を聞いた気がした。再び彼の胸ぐらを掴み、猛烈な剣幕で捲し立てた。
「アンタ、私とサイファとどっちが上だと思ってんの?! だいたい所長ともあろう者が、こんな若造にヘーコラしてんじゃないわよ!」
「入りたいのか入りたくないのか、どちらなんですか」
 所長は冷静に尋ねた。
「入るわよ! って、私とレイチェルだけだった?」
「私はダメなの?」
 アンジェリカはかすかな曇り顔でサイファを見上げた。
「俺は王子だぜ」
 アルスは自らを指さし、アピールした。
「すまないね。ここで待っていてくれ」
 サイファはアンジェリカの頭を抱き寄せると、彼女の頬に自分の頬を重ね、なだめるように優しく後頭部を叩いた。すっかり無視されたアルスは、口をとがらせサイファを睨んだ。
 レイチェルはにっこりとアンジェリカに笑いかけた。
「ジークさんを呼んであげるわね」
 アンジェリカはとまどい、困ったような表情を浮かべた。
「でも、仕事中……」
「ホントか?!」
 アルスは、彼女とは対照的に、嬉しそうに目を輝かせた。アンジェリカは苦笑いした。

「へぇ、機械ばっかりなのね。白衣を着てフラスコ振ってるようなのを想像してたんだけど」
 アルティナは一階フロアに入るなり、そう感想を述べた。やや拍子抜けしたような口調である。サイファはにこにこしていたが、隣の所長はため息をついていた。
「皆、少しのあいだ手を止めてこちらに注目してくれ」
 フロアの中央まで進むと、所長は二度手を打ち鳴らし、声を張り上げた。
「突然だが、アルティナ王妃が視察にいらっしゃった」
 フロア内はにわかに色めき立った。胸を張って立つ美しい王妃に、皆の視線が一斉に注がれた。
「お仕事の邪魔をするつもりはないから、構わず続けてちょうだい」
 アルティナは威厳を感じさせる声を遠くまで響かせた。
「くれぐれも失礼のないように」
 所長はスタッフたちに念押しした。そんな彼に、アルティナは白い目を向けた。

「それでは、我々は会議がありますので失礼します」
 所長は淡々と言った。そして、通りがかった女性スタッフを呼び止め、アルティナの前に差し出した。
「あとはこのアンナに任せますので、何かありましたら何なりとお申しつけください」
「……えぇっ?!」
 アンナは突然のことに目を丸くし、裏返った声をあげた。所長に助けを求めようと振り返ったが、すでに彼とサイファは会議室に向かって歩き出していた。ひとり取り残されたアンナは、あたふたしながら勢いよくぺこりと頭を下げた。短いポニーテールがぴょこりと跳ね返った。
「そんなに緊張しなくていいわよ」
 アルティナはカラカラと笑った。そして、思い出したように尋ねた。
「そうだ、ジークいる?」
「ジーク……? えと、ジーク=セドラックですか?」
 アンナは怪訝に尋ね返した。
「そ。アルバイトで来てるって聞いたんだけど」
「はい、こちらです」
 疑問を感じながらも、それを口には出さず、王妃とその付き人をジークの席まで案内した。
「ジーク! 久しぶり!」
 アルティナはまるで旧知の友と再会したかのように大袈裟に呼びかけた。まわりは驚いて振り向いた。当のジークも驚きうろたえていた。困惑した表情で立ち上がり、彼女に一礼した。
「全然顔を見せないから会いに来ちゃったわよ」
 アルティナは無邪気にそう言って笑った。
「すみません」
 ジークは好奇の視線にさらされ、居たたまれない気持ちになっていた。そこへレイチェルが近づいてきて、そっと耳打ちした。
「簡易応接室でアンジェリカが待っているわ。行ってあげて」
 レイチェルはにっこり微笑んだ。アルティナも笑って頷いた。
 ジークは顔を輝かせて再び一礼すると、はやる気持ちのまま飛び出していこうとした。
「仕事中だ。どこへ行く」
 ジョシュが冷たく呼び止めた。ジークはうざったそうに振り向いた。だが、返事をしたのはアルティナだった。両手を腰にあて、ジョシュの横顔を睨みつける。
「いいじゃないの、ちょっとくらい。そんな固いこと言ってんじゃないわよ。ジーク、いいから行きなさい」
 彼女の言葉には、有無を言わさぬ力強さがあった。ジークはこくんと頷いて、その場を離れた。
 ジョシュは椅子から立ち上がり、アルティナに向き直った。
「邪魔するつもりはないと言っていましたが、はっきりいって邪魔です。見学するならもっと静かにしてください!」
「バカっ!!」
 アンナは彼の側頭部をこぶしで思いきり殴りつけた。ジョシュは二、三歩よろけた。
「申しわけありません! コイツ本当にバカで! いつもこんな調子なんです。本当に申しわけありません!」
 アンナは青ざめながら何度も頭を下げた。
 アルティナは口端を上げた。
「私、生意気なガキんちょって嫌いじゃないのよね」
 ジョシュに顔を突きつけ、挑むように笑いかける。彼の額に汗がにじんだ。
「ちょっとつきあいなさい」
 アルティナはジョシュの腕を掴んだ。彼はあわてて逃げようとしたが、彼女の力は思いのほか強かった。
「今は仕事中なんです!」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ!」
 アルティナはそう一喝すると、彼を引きずるように連れ出した。レイチェルは、呆然とするフロアスタッフたちに笑顔でお辞儀をすると、ふたりのあとについていった。
「生きて帰って来られるかしら、アイツ……」
 アンナは不安に顔を曇らせながら、三人の後ろ姿を見送った。

「へぇ、けっこういい食堂じゃない」
 研究所の規模のわりには広い食堂で、テーブルも椅子も安っぽい感じはしない。庭に面した大きなガラス窓からは、さわやかな陽光が射し込んでいた。朝の早い時間帯のためか、他には誰も来ていなかった。かすかに聞こえる鳥のさえずりが、静けさをよりいっそう強調していた。
 アルティナはジョシュに向かって両手をひらひらさせた。
「勢いあまって手ぶらで来ちゃったのよね。コーヒーおごってくれる?」
「王族が平民にたかるのか」
 ジョシュはぼそりとつぶやいた。
「まあまあ、そうとんがらないでよ」
 アルティナは彼の肩をぽんと叩き、人なつこく笑いかけた。彼は疲れたように息をついた。
「そっちの人は何にしますか」
「あら、私にもおごってくださるの?」
 レイチェルはにっこり笑って尋ね返した。
「この状況では仕方ないでしょう」
 ジョシュはため息まじりに言った。
「では、パッションフルーツジュースを」
「あの! メニューから選んでもらえますか!」
「ごめんなさい。それでは紅茶を」
 彼女は謝りながらも、終始にこにこしていた。もしかしたらからかわれているのかもしれないとジョシュは思った。
 カウンターで飲み物を受け取ると、三人は窓際の席に座った。
「それで、私をどうするつもりですか」
 ジョシュはまっすぐアルティナを見据えた。彼女はコーヒーを片手にほおづえをついた。
「別に。ただ話をしてみたかっただけよ。時代が時代なら牢獄にぶち込まれていたかもしれないけど」
 そう言ってニッと笑った。ジョシュはぴくりと眉を動かした。
「権力者のそういうところが嫌いなんです。いつだって偉そうに権力を振りかざして、気に入らないものは徹底的に排除する」
「そうね。確かに権力で横暴なことをする人もいるわ。でも、権力は良いことにだって使えるのよ」
 アルティナは淡々と言った。ジョシュは仏頂面で彼女を見た。
「自分はそうだと言いたいんですか」
「さあ。それを判断するのは私じゃないから」
 彼女は素っ気ない答えを返すと、手にしていたコーヒーを口に流し込んだ。
「あんたも早く出世してみたら? 少しはわかるかもよ」
 難しい顔をしているジョシュに、アルティナは軽く言ってみた。彼はうつむいたままで答えた。
「興味ありません。私はただ、いい仕事がしたいだけです」
「バカね」
 アルティナは呆れたように言うと、コーヒーカップを机の上に置いた。
「下っ端じゃ、いつまでたっても重要な仕事は任されないわよ。自分の裁量で出来ることが少ないんじゃ、いい仕事なんてできやしない。そうじゃない?」
 ジョシュは机の上のコーヒーカップに両手を添え、眉をひそめて黒い液体を見つめた。
「あなたたちに何がわかるっていうんですか。いい暮らしをして、着飾って、毎日楽しく生きているだけのあなたたちに……」
 アルティナは目をぱちくりさせた。そして、ため息をつきながら腕を組むと、椅子にもたれかかった。
「あんたねぇ。それは偏見ってものよ」
 ジョシュは下を向いたまま微動だにしない。アルティナは話を続けた。
「私だって仕事はしているし、思うようにならないこともたくさんある。レイチェルだって大変な目に遭ってきたんだから、ねぇ」
 隣でおとなしく聞いていたレイチェルに振り向き、同意を求めた。彼女は穏やかに微笑んだ。
「でも、そう疎まれるのも仕方ないと思っているわ。言われるとおりですもの。私は、ラグランジェ家に生まれたというだけで、いい暮らしをさせてもらっている。気に入らなくても当然ね」
 ジョシュははっとして顔を上げた。彼女の微笑みはまっすぐ自分に向けられていた。次第にかたくなな心が融けていくのを感じた。体から力が抜けていく。
「熱っ!」
 彼は突然、椅子から飛び上がった。ぼうっとしてカップを倒してしまい、まだ熱いコーヒーが脚にこぼれ落ちたのだ。
「大変!」
 レイチェルもあわてて立ち上がった。
「アルティナさん、ふきんを濡らして持ってきて」
「わかった」
 アルティナは素直に返事をして、走っていった。
 レイチェルはレースをあしらった白いハンカチを取り出し、しゃがみ込んで彼の膝のあたりを拭き始めた。
「いい、自分でやります!」
 ジョシュはうろたえ、思わずきつい調子で言ってしまった。しかし、彼女はまるで気に留めていなかった。
「やけど、しませんでした?」
 顔を上げ、心配そうに尋ねる。
「……はい」
「良かった」
 安堵の息をつき、可憐な笑顔を見せた。
 ジョシュは呆然と彼女を見下ろした。体中が大きく脈を打つかのように感じた。息がつまりそうだ。
「レイチェル、持ってきたわよー……ってアンタそれ!」
 小走りで戻ってきたアルティナは、驚愕してジョシュの顔を指さした。その片方の鼻からは、赤い一筋が伝っていた。彼自身も驚き、あわてて右手で押さえた。だが、押さえきれなかった一部は、あごを伝って制服の胸元に落ちた。
「レイチェルによからぬ感情を抱いたんでしょ!」
「ちっ……違う、誤解だ! 暑かったからで……」
「冷房のきいた部屋でのぼせてんのはアンタだけよ! レイチェル、こんな危ない男から早く離れなさい」
 アルティナはレイチェルを後ろから抱き寄せ、ジョシュから引き離した。
「本当に誤解なんです」
 ジョシュは泣きそうになりながら必死に訴えた。アルティナは濡れふきんを彼の顔面に投げつけた。
「とりあえず、その情けない顔をなんとかしなさい!」
 レイチェルはくすりと笑った。ジョシュはますます恥ずかしくなった。彼女に笑われたことが何よりもショックだった。

 ジークの心臓は早鐘のように鳴っていた。アンジェリカとは一ヶ月間ずっと会っていない。まさか彼女が会いに来てくれるとは思わなかった。
「アンジェリカ!」
 ジークは簡易応接室に駆け込んだ。
「よお、ジーク。久しぶりだなっ!」
 声を掛けてきたのはアルスだった。どういうわけか、アンジェリカの膝の上に座っている。
「テメーどこ座ってやがる!」
 ジークは殴り掛からんばかりの勢いで怒鳴りつけた。あまりの怒りように、アンジェリカが驚いた。
「いいのよ、ジーク。そんなに重くないから」
「そういう問題じゃねぇ!」
「じゃあどういう問題なんだ?」
 アルスは意味ありげに笑った。
「いいから降りろ!」
 ジークは小さな少年を激しく睨みつけた。アルスは彼の本気の怒りを感じて、おとなしく従った。
「いきなり来てごめんね。迷惑だからって止めたんだけど」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「あ……」
 ジークは落胆したように、沈んだ声を漏らした。アンジェリカが自分に会いたくて来たわけではなかったのだ。
「でも、来てよかった」
 アンジェリカは屈託なく笑いかけた。ジークの暗い感情は一気に吹き飛んだ。頭をかきながら、顔を赤らめはにかんだ。
「休み中、どうしてるんだ?」
「勉強したり、本を読んだり、のんびりしているわ。ジークは? お仕事大変?」
「ああ、大変なこともあるけど、仕事は楽しいぜ」
 アンジェリカはじっと彼を見つめた。
「仕事は……って? 何か他のことで問題があるの?」
 ジークは顔をしかめて腕を組んだ。
「一緒に仕事しているヤツがな……」
「喧嘩しているのね」
 アンジェリカは呆れたようにため息をついた。ジークはいらつきながら、面倒くさそうに反論した。
「ケンカじゃねぇよ。あいつが俺のことを一方的に嫌ってんだよ」
 彼との間に起きたさまざまなことが、次々と頭をよぎっていく。あからさまに不愉快そうに眉をひそめ、髪をくしゃっとかき上げた。
「この話はもうやめようぜ。せっかく久しぶりに会ったってのに」
「じゃあ、何の話をするの?」
 アンジェリカは黒い大きな瞳を、まっすぐ彼に向けた。
「いきなりそう言われても……」
 ジークは頭に手をあて、何気なく視線を落とした。
「それ、してくれてんだな」
「これ?」
 アンジェリカは首から下げていたシルバーリングを手にとった。昨年の誕生日にジークからもらったもので、サイズが大きかったため、鎖で首から下げネックレス代わりにしているのだ。
「毎日ちゃんと身につけてるわよ。魔除けだもの。アカデミーのときは服の中に入れてるんだけど」
 そう言いながら、リングを中指にはめてみた。
「まだぶかぶかなのよね。はやく指が太くならないかしら」
「……そんなこと願うなよ」
 真顔のアンジェリカを見て、ジークは冷や汗を浮かべた。彼女はきょとんとして彼を見上げた。
「どうして? 指輪なんだから、ちゃんと指にはめたいわ」
 だからといって、指を指輪にあわせることはない。
「次は指にあったやつを買うからよ」
「次って何?」
「えっ」
 ジークは急にどぎまぎした。何も考えずに言ったことだが、そう聞き返されて思わず想像してしまった。耳まで真っ赤になっていく。
「ジーク?」
 アンジェリカは怪訝に覗き込んだ。ジークはまっすぐ彼女に目を向けた。
「まだ、もう少し……だいぶ、先になる、かもしれねぇけど……。その、な、いつか……」
「あのさ、オレがいること忘れてないか」
 アルスは床にあぐらをかき、ふてくされていた。ジークは、思いきり嫌な顔をアルスに向けた。
「最初にここに来たいって言ったの、オレなんだぜ。感謝しろよ」
 彼はふてくされたまま、偉そうに言った。ジークは投げやりに尋ねた。
「どうしてほしいんだよ」
「オレを構えよ」
 それを聞いて、ジークはニヤリと不敵に笑った。
「そう言ったこと、後悔させてやるぜ」

「おまたせー」
 陽気に声を弾ませながら、アルティナはレイチェルとともに簡易応接室へ戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
 ジークは部屋の真ん中で、ぜいぜいと息をきらせ、へたり込んでいた。
「アルスの相手をして疲れちゃったみたい」
 アンジェリカは肩をすくめて笑った。アルティナもあははと笑った。
「それは大変だったわね」
「後悔させるとか言って、自分が後悔してちゃ世話ないよな」
 アルスは生意気に腕を組んで、ジークを見下ろした。アルティナは息子の後頭部をはたいた。
「ちゃんとお礼を言いなさいよ」
「楽しかったぜ。ありがとうな」
 アルスは素直に礼を述べた。アルティナは息子の頭に手をおき、ジークににっこり笑いかけた。
「ジーク、今度また遊びに来なさいね。そのときにお礼をするから」
「あ、いや、たいしたことしてないんで……」
「来いっていったら来いよな」
 アルスは命令口調でそう言うと、ニッと白い歯を見せた。ジークは複雑な表情で笑った。
「それじゃあね」
 アルティナは右手を上げた。
「ジーク、またね」
 アンジェリカは明るく笑って手を振った。
「お、おう」
 ジークは頬を染めながら、小さく右手を上げた。

 ジークは自分の席に戻った。ジョシュはいつものように無言でキーボードを打っていた。そんな彼を、ジークは不審な目で見つめた。
「……何だ?」
 ジークの視線を感じ、ジョシュはちらりと顔を向けた。
「制服が新しくなってる」
「細かいことを気にするな」
 ジョシュは無表情で前に向き直り、再び手を動かし始めた。
 あの食堂での出来事のあと、アルティナが無理をいって新しい制服をもらってくれた。こういう規則に反する行動は嫌いなはずだが、今回ばかりはありがたく思った。コーヒーはまだしも、鼻血の染みはあまりにも恥ずかしい。しかし、同時に、信念を通せない自分を情けなく思っていた。
「変わった人たちだな」
 ジークは驚いてジョシュを見た。彼から雑談を持ちかけてくることなど、これまでなかったことだ。アルティナたちと何かよほどのことがあったのだろうか――そんなことを考えながら返事をした。
「でも、いい人たちだぜ」
「そうだな……俺は偏見を持っていたのかもしれない……」
 気味が悪いくらい素直な彼に、ジークは呆気にとられた。

「ジーク」
 サイファが奥の会議室から戻ってきた。
「レイチェルがどこにいるか知らないか?」
「さっき帰りましたけど」
「そうか……昼食くらい一緒にと思ったんだが」
 彼は残念そうに顔を曇らせた。
「サイファ殿」
 フロアの隅から所長が呼びかけた。所長の他にもふたりの男が、ともに彼を待っているようだった。
「それではな」
 サイファは右手を上げ、早足で戻っていった。ジークは軽く頭を下げた。

「やはりあいつは好きになれそうもない」
 ジョシュはぼそりとつぶやいた。
「サイファさんもいい人だぜ」
 ジークのその言葉に、彼は耳を貸さなかった。嫌悪感をあらわにして顔をしかめると、話を続けた。
「あんな若い子に色目をつかって、みっともないと思わないか。来たときも彼女を見つめていたし、今だって人目もはばからず食事に誘っている。愛妻家なんて噂らしいが、とんだデマだな」
 ジークはポカンとした。
「あのな、レイチェルさんが奥さんだ」
「……は?」
「だから、サイファさんとレイチェルさんは夫婦なんだよ」
「……な?!」
 ようやく理解したジョシュは、凄まじい形相で立ち上がった。何かを言いたそうに口をカクカクと動かす。
「やっぱりアイツは嫌いだ!」
 そう叫ぶと、あわててハンカチを取り出し、鼻と口を押さえた。そして、焦ったように背を向け歩き出した。
「どこへ行くんだ?」
「どこでもいいだろう!」
 かすかに涙声まじりで声を荒げると、足早にフロアを出ていった。
「いちばん変わってるのはあいつだよな」
 ジークは彼の出ていった方に目をやりながら、ひとりごとをつぶやいた。
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クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

女王ララの再建録 〜前世は主婦、今は王国の希望〜

香樹 詩
ファンタジー
13歳で“前世の記憶”を思い出したララ。 ――前世の彼女は、家庭を守る“お母さん”だった。 そして今、王女として目の前にあるのは、 火の車の国家予算、癖者ぞろいの王宮、そして資源不足の魔鉱石《ビス》。 「これ……完全に、家計の立て直し案件よね」 頼れない兄王太子に代わって、 家計感覚と前世の知恵を武器に、ララは“王国の再建”に乗り出す! まだ魔法が当たり前ではないこの国で、 新たな時代を切り拓く、小さな勇気と現実的な戦略の物語。 怒れば母、語れば姉、決断すれば君主。 異色の“王女ララの再建録”、いま幕を開けます! *カクヨムにも投稿しています。

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

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