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54. 小さなライバル
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「なんだったんだよ、今日の試験」
ジークは思いきり疲れた声をあげながら、手を伸ばし机に突っ伏した。隣にやってきたリックは乾いた笑いを張りつけている。
「うん、やたら難しかったよね」
「一応、全部埋めたけど、合っている自信はないわ」
アンジェリカもめずらしく不安そうだった。三人はそろってため息をついた。
「ラウルのやつ、難しい問題で俺たちが苦しむのを見て、憂さ晴らしでもしてんじゃねぇか?」
ジークは体を起こし、ほおづえをついた。口をとがらせ、眉をひそめ、不愉快感をあらわにしている。
「まさか」
笑いながらリックはそう答えたが、強く否定することは出来なかった。いつもだったら真っ先に反論するはずのアンジェリカは、口を閉ざしたままだ。頭の中で試験問題のことを考えているらしく、ジークたちの会話はうわの空だった。
「帰るか!」
ジークは嫌な気持ちを払拭するかのように声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。鞄をつかんで肩に引っ掛けると、戸口に向かって歩き出した。リックもそのあとに続く。
「あ、待って」
我にかえったアンジェリカが、後ろからふたりを呼び止めた。
「ルナちゃんのところへ行かない?」
振り返ったふたりに、小首を傾げながら尋ねた。しかし、ジークの反応はつれないものだった。
「この時間じゃ、まだラウルのところにはいないだろ」
「だからお母さんたちのところに行くの。ちゃんと許可ももらったし」
アンジェリカは、うきうきした笑顔を見せた。それでもジークの反応は鈍かった。
リックは少し考えたあと、はっとして口を開いた。
「それってまさか、王妃様のところ……ってこと?」
「そう。大丈夫よ、話は通しておいてくれるって」
「でも、僕たちが行ってもいいのかなぁ」
「気にしなくてもいいわよ」
アンジェリカは事も無げにさらりと言った。しかし、リックは笑いながら顔をこわばらせていた。名門ラグランジェ家のアンジェリカと違って、ただの一般民間人の自分が王妃様の部屋に行くなんて、本当に許されるのだろうか。そのことだけが心配だった。しかし、よく考えてみると、王妃様も元一般民間人である。もしかしたら、だから、そのあたりのことには寛大なのかもしれない。リックは必死の理由づけをして、そう思うことにした。
「俺、パス」
一生懸命に考えを巡らせていたリックの隣で、ジークはあっさりと断った。あからさまに気がのっていない声だ。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「どうしてよ」
「あしたも試験があるだろ。そんなことしてる場合じゃねぇよ」
彼が本当にそう思っているかどうかはわからない。だが、少なくともアンジェリカには言いわけじみた理由に聞こえた。彼女はますます不機嫌になっていった。ほほを限界までふくらませる。しかし、それ以上、強く誘うことはしなかった。
「……まあいいけど。行きましょう、リック」
「そうだね」
リックがにっこり笑うと、アンジェリカもつられて笑顔になった。ふたり並んで廊下へと出ていく。振り返りもせずに遠ざかる後ろ姿を、ジークはじっと見つめていた。
「……待て。やっぱり俺も行く」
ジークはふたりに駆け寄り、無理やり間に割って入った。
「もうっ! ジーク、ちょっと変よ」
彼に弾かれたアンジェリカは、眉をひそめ、彼を睨みつけた。
「気が変わったんだよ」
ジークはあさっての方向を見たまま、ぶっきらぼうに言い返した。
三人は並んで王宮を歩いていた。その道すがら、アンジェリカはユールベルのことをふたりに話した。長期休暇中のことだったので、ふたりは知らなかったのだ。彼女も詳しいことを知っているわけではなかったので、話せたのは睡眠薬で自殺を図ったことと、寮に戻ったという事実だけだった。
「そっか……」
リックは言葉少なにあいづちを打った。多少、ショックを受けている様子がうかがえた。ジークもけわしい顔つきでうつむいた。
「今はどうしてるんだ?」
「うん。ちゃんとアカデミーには来ているみたいよ。何回か見かけたわ」
「まあ、良かったじゃねぇか」
しかし、アンジェリカは納得していないようだった。
「さあ、どうかしら。心の傷なんて治るものじゃないわ。一生、抱えていくのよ」
感情を見せないように、無表情で淡々と語った。リックはそんな彼女の横顔をじっと見つめた。
「でも、上手くつきあっていくことは出来るよね?」
彼が自分のことを言っているのだと、アンジェリカはすぐにわかった。顔を曇らせ目を伏せる。
「私だって、どうなるかわからないわ」
「おまえは大丈夫だ」
ジークはきっぱりと言い切った。アンジェリカはそれが気に入らなかった。
「簡単に言わないでくれる?」
「大丈夫だ」
ジークはもういちど言い切った。それからポケットに手を突っ込んでうつむく。
「俺……ら、がいるだろ」
ぎこちなく言葉をつなげる。アンジェリカはとまどいながら、複雑な表情を浮かべた。そう言われても自信がなかった。怖かった。それでも、彼の気持ちに応えるように、なんとか微笑みを作ってみせた。
「そういえば、レオナルドはどうしてるの?」
ジークの話を聞いて、リックはふいにレオナルドのことを思い出した。ジークはその名前を耳にすると、露骨に嫌な顔をした。
「どうでもいいだろ、あんな奴のこと」
アンジェリカが口を開くより早く、ジークは不機嫌に吐きすてた。一刻も早くその話題を打ち切りたいようだった。その徹底した嫌い方がおかしくて、リックはこっそりと笑った。
「なんか他に楽しい話はねぇのかよ」
「あ、そうだわ」
ジークが話題の催促をすると、アンジェリカはふいに何かを思い出し、ぱっと顔を輝かせた。首にかかっていた細い銀の鎖を引っ張り、服の中から小さなリングを取り出す。彼女はそれを親指と人さし指でつまみ、ほほに軽くくっつけると、無邪気な笑顔を見せた。ジークは困惑して顔を赤らめながら、目を泳がせていた。
「まだお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「あ、あぁ……」
「え? なになに? それどうしたの?」
リックが興味津々で首を伸ばしてきた。
「ジークからの誕生日プレゼントよ。サイズがちょっと大きかったからネックレスにしてみたの」
アンジェリカは屈託なく嬉しそうに話した。隣でジークは大きく口を開け、声にならない叫びをあげながら動きを止めた。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
リックは驚いたように、しげしげとジークを見た。
「へぇ、そうだったんだ」
ジークは彼の視線から逃れるように顔をそむけた。そうする以外になかった。
ふいに、アンジェリカの前に、無言で手のひらが差し出された。ジークのものだ。何かを催促しているようだが、アンジェリカには彼の意図がわからなかった。目をそらせている彼に、きょとんとした表情を向ける。
「それ、貸せよ。サイズを直してきてやる」
彼女を見ようともせず、ぶっきらぼうにぼそぼそと言った。そんな彼に、アンジェリカはにっこりと笑いかけた。
「いいわよ、このままで。いつかちょうど良くなると思うから」
ジークは思わず彼女に振り向いた。まっすぐに視線が合うと、慌ててすぐに目を伏せた。
ラウルの医務室を通り過ぎ、さらに王宮の奥へと向かった。ジークもリックも、ここまで来るのは初めてである。途中には何人もの衛兵がいたが、皆、アンジェリカに一礼し、すんなりと通してくれた。アカデミーにいると忘れてしまうが、やはりアンジェリカは名門ラグランジェ家の娘なのだと思い知らされる。だが、彼女自身はそういう目でみられることを快く思っていない。ジークたちはそのことを知っていたので、あえて口には出さなかった。
奥に進むにしたがって、次第にあたりは格調高くなっていく。柱は荘厳で存在感があり、それでいて繊細な装飾が施されている。階段は幅広く緩やかなカーブを描き、手すりにはやはり細やかな模様が彫り込まれている。そして、なんといっても圧巻なのが、空間の使い方である。横にも縦にも壮大に広がる、贅沢でただっ広い空間。そこにたたずむ人間を圧倒させるには十分すぎるスケールだ。足音が高く遠い天井に大きく反響する。ふたりの緊張感は否が応にも高まっていった。
階段を上がり突きあたったところに、大きな重量感のある扉があった。もちろんここにも優美な装飾が一面に施されている。両脇には、槍を持ち、剣を携えた厳い衛兵がひとりづつ、背筋を伸ばして立っていた。アンジェリカが現れるとふたりそろって一礼したが、すぐに元の姿勢に戻り、それ以降は微動だにしなかった。
アンジェリカは扉についた丸い鉄輪を打ちつけ、応答を待った。
「いらっしゃい」
ゆっくりと開いた扉から、レイチェルが姿を現した。いつも通りのドレス、いつも通りの笑顔。ジークもリックも、少しだけ緊張がほどけた。ふたりがぺこりと頭を下げると、彼女は優しく微笑み返した。
「ルナちゃん、いる?」
「ええ」
レイチェルが招き入れると、アンジェリカは小走りで駆け込んでいった。ジークもリックも、緊張しながらぎこちなく足を踏み入れた。
「こんにちは!」
「そんなに急がなくても逃げやしないわよ」
王妃アルティナはテーブルにひじをつき、軽快に走るアンジェリカを眺めながら目を細めた。
「今日は賑やかになりそうね」
「すみません、僕たちまで来てしまって」
遅れてやってきたリックは、申しわけなさそうに頭を下げた。ジークも続いて頭を下げる。
「いいのよ。私は賑やかな方が好きなんだから」
アルティナは白い歯を見せた。
「……寝ているのね」
ルナのベッドを覗き込んで、アンジェリカは少し落胆した声を出した。ルナはベッドの中央で、すやすやと寝息を立てて眠っていた。できれば目を開いたところが見たかった。そして、いろんな反応が見たかった。それでも、ひとまわり大きくなった赤ん坊を目にして、嬉しそうに顔をほころばせた。隣にやってきたリックも、にっこりしながら見下ろした。
「だいぶ大きくなったわよね」
「うん」
ふたりは笑顔を見合わせた。
「ほっぺぷくぷく」
アンジェリカはルナの丸い頬を、人さし指で軽くつついた。その感触の柔らかさに、ますます表情が弛んでいく。
「あんまり触ると起こしちゃうよ」
リックは優しくたしなめた。アンジェリカは素直に手を引っ込めた。
「ん?」
リックはふくらはぎに何かが当たったのを感じて振り返った。
「おまえがジークか?」
むっつりと不機嫌顔の小さな男の子が、腕組みをしながらリックを睨み上げていた。
「あら、アルス。久しぶりね」
アンジェリカがにっこりと笑いかけたが、少年はちらりと彼女を見ただけで、笑顔を返さない。
「アルスって……王子様?」
リックは目をぱちくりさせながら、アンジェリカに問いかけた。
「そうよ。アルティナさんと似ているでしょう?」
確かに銀の髪は、アルティナと同じ輝きを放っている。だが、目つきは王子の方がかなり悪い。
「おい、おまえがジークかって聞いてるんだよ」
返答もせずふたりで話していることにいらついているようだった。ますますふてぶてしい態度で再び尋ねる。リックは屈み込んで、小さな王子に人なつこい笑顔を近づけた。
「ジークは僕じゃなくて、あっちの人だよ」
リックは離れたところで窓の外を眺めているジークを指さした。
アルスはてくてくと歩いていくと、背後からジークのふくらはぎあたりに蹴りを入れた。
「てっ……何だテメーは」
ジークは振り返り、むっつり顔の小さな少年を目にすると、思いきり睨みつけた。しかし少年も負けてはいない。口をヘの字に曲げ、睨み返す。
「ぜんぶおまえのせいだ!」
そう言って、再びジークを蹴り上げた。
「ってーな! いきなり何なんだよ!」
その様子を眺めていたアルティナは、愉快にあははと笑った。
「そのくらいは許してやって。アンジェリカがめったに来なくなって、寂しい思いをしてたんだから」
ジークは目を見開いて、少年とアルティナを交互に見比べた。
「え、こいつ……いや、えっと……王子ですか? でも何で俺……オイ、蹴るな!」
「おまえがアンジェリカをひとりじめにしてたんだろう!」
「は?」
そうか、こいつ、アンジェリカのことが……。ジークはふとサイファから聞いた昔話を思い出した。なんとなく似ている。幼い日のレオナルドがこのチビ王子、レイチェルさんがアンジェリカ、そして、サイファさんが俺……。ジークはそこまで考えて、一気に顔を上気させた。
「あ、なんか顔が赤いぞ。変な想像してたんだろう! ア……んんっ!」
ジークは騒ぎだした王子の口を手でふさぎ、体ごと抱えて、部屋の隅へと走っていった。
「なにをするんだ!」
口をふさぐ手が離れると同時に、王子は勢いよく噛みついた。
「おまえが変なことを言い出すからだ!」
ジークは壁を背にしゃがみこみ、アルスと同じ目線で言い返した。アルスはじとっとジークを見つめた。
「おまえ、アンジェリカのことが好きなんだろ?」
「……おまえみたいなガキんちょには関係ねぇ」
あまりにもストレートな問いかけに、ジークは絶句し動揺した。しかし、それを悟られないよう平静を装って、ぶっきらぼうに返事をした。だが、アルスはごまかされなかった。いたずらな顔をのぞかせてニッと笑う。
「認めたら譲ってやってもいいぜ」
「バーカ。譲るとか譲らなねぇとか、アンジェリカはモノじゃねぇだろ」
ジークはアルスのおでこを人さし指で軽く弾いた。
「あ、デコピンした」
離れたところからふたりの様子をうかがっていたリックが、ぽつりとつぶやいた。だいぶ遠いため、ジークたちの会話は聞こえない。
「あの、いいんですか? 放っておいて」
アルティナに振り返り、不安そうに尋ねた。彼女は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、余裕の笑顔を見せている。
「いいの、いいの。懐かしいわね、デコピン」
「なに? デコピンって」
アンジェリカはリックを見上げた。彼は苦笑いしながら首を傾げた。そんなくだらないことを彼女に教えていいものかどうか迷った。
「けっ、えらそうに。おまえよりオレの方が、アンジェリカと長いつきあいなんだよ」
アルスはひたいをさすりながら強がり、くやしまぎれに変な対抗意識を見せた。ジークはむっとして眉根を寄せた。
「笑わせんな。たいして違わねぇだろ。それに俺の方が一緒にいた時間は長いはずだぜ。アカデミーにいる間、ずーっと一緒なんだからな!」
最後は勝ち誇ったように言い放った。そんな大人げない彼に、小さな王子は冷めた目を向けた。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃん」
「……黙れよ、ませガキ」
ジークは顔を赤らめながら睨みつけた。すっかりアルスのペースである。
「うわさのジークがこんな男らしくないヤツだとは思わなかった。好きなら好きって言えよな」
頭の後ろで手を組み、あきれたようにわざとらしくため息をついた。その小憎たらしい態度に、ジークは逆さ吊りにしてやりたい衝動に駆られた。だが、もちろんそんなことは出来ない。
「おまえみたいなガキんちょにはわからねぇだろうが、大人には複雑な事情ってモンがあるんだよ」
そう言いわけをするのが精一杯だった。しかし、自分で自分のことを「大人」と言ったことに、違和感とむずがゆさを覚えた。微妙に身体をよじらせる。
「オトナの事情ってなんだよ」
アルスは横柄に腕を組み、ジークを睨んだ。
「ガキにはわからねぇって言ったろ」
ジークはそっけなく答えた。アルスはさらに目つきを悪くして睨みつける。
「ガキって言うな」
「ガキはガキだろ」
「……アンジェリカに洗いざらいぶちまけるぞ」
「ぐっ……」
アルスが切り札を出すと、ジークは言葉に窮した。完全にジークの負けである。
「ガキじゃなくてアルスって呼べよな」
小さな王子は、楽しそうに白い歯を見せた。
「お茶が入っているわよ」
部屋の中央に戻ってきたジークとアルスに、レイチェルはにっこり微笑んで声を掛けた。
「あ、すみません」
ジークはティーカップが用意された席についた。座るなり喉を潤すようにひとくち流し込むと、ふうとため息をついた。アルティナは隣でひじをつき、にこにこしながら彼を見つめていた。向かいにはアンジェリカとリックも座っている。
「ふたりで何の話だったの?」
レイチェルは、席につかず通り過ぎようとするアルスに声を掛けた。
「男と男のひみつの話だ。な、ジーク」
「……ああ」
なぜか得意げにそう言うアルスに、ジークは素直に同意した。その言い方に多少の不満はあったものの、秘密にしておいてくれるのはありがたかった。
「なによそれ」
アンジェリカは冷めた声でつぶやいた。しかし、それ以上、詮索することはしなかった。ジークは心の中で、そっと胸を撫で下ろしていた。
アルスは駆け足でルナのベッドへ向かった。木の格子の隙間から、ルナの様子をうかがう。
「あ、目を覚ましたぞ」
「本当?!」
アンジェリカとリックも慌てて駆け寄り、上から覗き込んだ。ルナの青い大きな瞳が、見なれないふたりを捉えて止まった。
「あ、こっちを見ているわ!」
アンジェリカが歓喜の声をあげた。
「ね、抱き上げてもいい?」
アンジェリカはレイチェルに振り返って許可を求めた。
「重いわよ? リックさん、手伝ってあげてもらえるかしら」
「はい」
レイチェルは少し不安そうだったが、アンジェリカはうきうきしていた。リックの服を引っ張り、早くと急かす。リックはルナを抱き上げると、そっと彼女に手渡した。細い腕にずっしりと重みがかかる。
「ん……けっこう重たいわね」
「大丈夫?」
リックが手を差し出したまま、心配そうに尋ねる。アンジェリカはにっこりと笑顔を返した。
ルナはくりっとした瞳で、アンジェリカをじっと見つめた。不思議なものでも見るかのように、ずっと目を離さない。アンジェリカはそれが可愛くてたまらなかった。自然と顔がほころぶ。アルスは背伸びをしていたが、届くはずもなく、ルナの背中しか見えない。
「ジーク、俺を持ち上げてくれ」
「めんどくせぇなぁ」
お茶を飲んですっかり落ち着いていたジークは、やる気のない声を漏らした。アルスは横目でジークを非難するようなまなざしを送った。
「アンジェリカ、あのな、ジークが……」
「わーー!! わかったって!!」
転げ落ちるように椅子から飛び降り、王子の元へ駆け寄る。そして、彼の希望どおり後ろから抱え上げ、ルナの顔が見えるようにしてやる。
「おまえ性格わるいぞ」
ジークが小声でそう言うと、アルスはにっと笑った。
「ルナ、オレだぞ」
アルスが優しく声をかけると、ルナは彼に目を向け、小さな手を伸ばした。彼はその手をつかまえて、そっと柔らかく握った。ルナの表情が動き、かすかに笑顔を見せた。
「へへっ、かわいいよな」
「ああそうだな」
ジークは気のない返事をした。
ギィ……。
扉の開く音に、皆が振り向く。そこから姿を現したのはラウルだった。彼は無言で部屋へ進み入ってきた。まっすぐにルナを抱いたアンジェリカの元へと向かう。
「アンジェリカ」
「うん……バイバイ」
彼女は腕の中の赤ん坊に別れをささやいた。名残惜しそうにしながらも、素直にラウルに手渡した。ルナはラウルと目が合うと、はっきりと笑顔になり、嬉しそうに手足をばたつかせた。「あーうー」と何かを伝えたがっているような声も発していた。
「おまえたち、あしたの試験の準備は出来ているのか」
ルナの様子に目を奪われていた三人は、ラウルのその言葉で急に現実に引き戻された。
「今日の試験はなんだったんだよ。あんなもん習ってねぇぞ」
ジークは抱えていた王子を下ろしながら文句を言った。ラウルの返答は、案の定すげないものだった。
「習ったことばかりやっていても駄目だ」
「なんだそりゃ」
反抗心からそんな反応をとってみたが、ラウルの言うことも一理あるとジークは思った。だが、素直に認めるのはくやしいので、そんな素振りは見せないようにした。
「世話になったな」
ラウルはレイチェルとアルティナに振り返った。レイチェルはにっこり笑った。
「もう少しゆっくりしていったら?」
「いや、今日は帰ることにする」
ラウルは早々に立ち去ろうとしたが、レイチェルが立ち上がるのを見て、その場にとどまった。ラウルの前まで来ると、彼女は背伸びをしてルナを覗き込んだ。笑顔で小さく手を振って、別れの挨拶をする。
「もう帰っちゃうの?」
アンジェリカは寂しそうに尋ねた。
「おまえたちも、もう帰れ」
「そうだね、ジーク、帰ろうか」
「ああ」
ジークは考えごとをしながら虚ろに返事をした。
「私はお母さんと帰るから」
アンジェリカはそう言って、ふたりに手を振った。リックとジークも小さく手を振り返した。
「ジーク、また来るんだろ?」
アルスは一歩進み出て、ジークを見上げた。
「さぁな。そんなに暇じゃねぇからな」
ジークは王子と目を合わさずにそっけなく言った。本当は、身分不相応なところに何度も出入りなど出来ないという思いがあったが、それは口には出せなかった。出してはいけないような気がした。
ルナを抱いたラウルと、ジーク、リックは並んで歩いていた。互いに、一緒に帰りたいと思っているわけではなかったが、方向が同じなので必然的にそうなってしまった。燃えるようなオレンジ色の空がジークたちを照らし、廊下に長い影を作る。
「ジーク、王子様になつかれちゃったみたいだね」
「俺が来ればアンジェリカも来るとでも思ってんだろ」
ジークは無感情に言った。リックはあごに人さし指をあて、首をひねった。
「そうかなぁ。ジークに来てほしそうだったけど」
それについてのジークの返答はなかった。
話が途切れ、沈黙が三人をつつむ。ルナもなぜかおとなしい。バラバラな靴音が、不安定なリズムを刻む。リックは何か気まずいものを感じていた。ジークとふたりなら、話が途切れても沈黙が続いても平気だが、ラウルがいることで、いつもと違う空気が流れていた。
ラウルの医務室の前まで来ると、リックは内心ほっとした。無言で扉を開けるラウルに、リックは小さく礼をした。ジークは前を向いたまま、あえて視線をそらせている。
「あまり深く関わるな」
背中を向けたまま、ラウルは唐突にそう言った。忠告とも脅しともとれる言葉。ジークは驚いて振り向く。
「どういうことだ」
低い声でうなるように問いつめる。しかし、ラウルは答えることなく医務室へ入っていった。ジークがあとを追おうとすると、ピシャリと扉が閉められた。残されたふたりは、とまどう顔を見合わせた。
ジークは思いきり疲れた声をあげながら、手を伸ばし机に突っ伏した。隣にやってきたリックは乾いた笑いを張りつけている。
「うん、やたら難しかったよね」
「一応、全部埋めたけど、合っている自信はないわ」
アンジェリカもめずらしく不安そうだった。三人はそろってため息をついた。
「ラウルのやつ、難しい問題で俺たちが苦しむのを見て、憂さ晴らしでもしてんじゃねぇか?」
ジークは体を起こし、ほおづえをついた。口をとがらせ、眉をひそめ、不愉快感をあらわにしている。
「まさか」
笑いながらリックはそう答えたが、強く否定することは出来なかった。いつもだったら真っ先に反論するはずのアンジェリカは、口を閉ざしたままだ。頭の中で試験問題のことを考えているらしく、ジークたちの会話はうわの空だった。
「帰るか!」
ジークは嫌な気持ちを払拭するかのように声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。鞄をつかんで肩に引っ掛けると、戸口に向かって歩き出した。リックもそのあとに続く。
「あ、待って」
我にかえったアンジェリカが、後ろからふたりを呼び止めた。
「ルナちゃんのところへ行かない?」
振り返ったふたりに、小首を傾げながら尋ねた。しかし、ジークの反応はつれないものだった。
「この時間じゃ、まだラウルのところにはいないだろ」
「だからお母さんたちのところに行くの。ちゃんと許可ももらったし」
アンジェリカは、うきうきした笑顔を見せた。それでもジークの反応は鈍かった。
リックは少し考えたあと、はっとして口を開いた。
「それってまさか、王妃様のところ……ってこと?」
「そう。大丈夫よ、話は通しておいてくれるって」
「でも、僕たちが行ってもいいのかなぁ」
「気にしなくてもいいわよ」
アンジェリカは事も無げにさらりと言った。しかし、リックは笑いながら顔をこわばらせていた。名門ラグランジェ家のアンジェリカと違って、ただの一般民間人の自分が王妃様の部屋に行くなんて、本当に許されるのだろうか。そのことだけが心配だった。しかし、よく考えてみると、王妃様も元一般民間人である。もしかしたら、だから、そのあたりのことには寛大なのかもしれない。リックは必死の理由づけをして、そう思うことにした。
「俺、パス」
一生懸命に考えを巡らせていたリックの隣で、ジークはあっさりと断った。あからさまに気がのっていない声だ。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「どうしてよ」
「あしたも試験があるだろ。そんなことしてる場合じゃねぇよ」
彼が本当にそう思っているかどうかはわからない。だが、少なくともアンジェリカには言いわけじみた理由に聞こえた。彼女はますます不機嫌になっていった。ほほを限界までふくらませる。しかし、それ以上、強く誘うことはしなかった。
「……まあいいけど。行きましょう、リック」
「そうだね」
リックがにっこり笑うと、アンジェリカもつられて笑顔になった。ふたり並んで廊下へと出ていく。振り返りもせずに遠ざかる後ろ姿を、ジークはじっと見つめていた。
「……待て。やっぱり俺も行く」
ジークはふたりに駆け寄り、無理やり間に割って入った。
「もうっ! ジーク、ちょっと変よ」
彼に弾かれたアンジェリカは、眉をひそめ、彼を睨みつけた。
「気が変わったんだよ」
ジークはあさっての方向を見たまま、ぶっきらぼうに言い返した。
三人は並んで王宮を歩いていた。その道すがら、アンジェリカはユールベルのことをふたりに話した。長期休暇中のことだったので、ふたりは知らなかったのだ。彼女も詳しいことを知っているわけではなかったので、話せたのは睡眠薬で自殺を図ったことと、寮に戻ったという事実だけだった。
「そっか……」
リックは言葉少なにあいづちを打った。多少、ショックを受けている様子がうかがえた。ジークもけわしい顔つきでうつむいた。
「今はどうしてるんだ?」
「うん。ちゃんとアカデミーには来ているみたいよ。何回か見かけたわ」
「まあ、良かったじゃねぇか」
しかし、アンジェリカは納得していないようだった。
「さあ、どうかしら。心の傷なんて治るものじゃないわ。一生、抱えていくのよ」
感情を見せないように、無表情で淡々と語った。リックはそんな彼女の横顔をじっと見つめた。
「でも、上手くつきあっていくことは出来るよね?」
彼が自分のことを言っているのだと、アンジェリカはすぐにわかった。顔を曇らせ目を伏せる。
「私だって、どうなるかわからないわ」
「おまえは大丈夫だ」
ジークはきっぱりと言い切った。アンジェリカはそれが気に入らなかった。
「簡単に言わないでくれる?」
「大丈夫だ」
ジークはもういちど言い切った。それからポケットに手を突っ込んでうつむく。
「俺……ら、がいるだろ」
ぎこちなく言葉をつなげる。アンジェリカはとまどいながら、複雑な表情を浮かべた。そう言われても自信がなかった。怖かった。それでも、彼の気持ちに応えるように、なんとか微笑みを作ってみせた。
「そういえば、レオナルドはどうしてるの?」
ジークの話を聞いて、リックはふいにレオナルドのことを思い出した。ジークはその名前を耳にすると、露骨に嫌な顔をした。
「どうでもいいだろ、あんな奴のこと」
アンジェリカが口を開くより早く、ジークは不機嫌に吐きすてた。一刻も早くその話題を打ち切りたいようだった。その徹底した嫌い方がおかしくて、リックはこっそりと笑った。
「なんか他に楽しい話はねぇのかよ」
「あ、そうだわ」
ジークが話題の催促をすると、アンジェリカはふいに何かを思い出し、ぱっと顔を輝かせた。首にかかっていた細い銀の鎖を引っ張り、服の中から小さなリングを取り出す。彼女はそれを親指と人さし指でつまみ、ほほに軽くくっつけると、無邪気な笑顔を見せた。ジークは困惑して顔を赤らめながら、目を泳がせていた。
「まだお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「あ、あぁ……」
「え? なになに? それどうしたの?」
リックが興味津々で首を伸ばしてきた。
「ジークからの誕生日プレゼントよ。サイズがちょっと大きかったからネックレスにしてみたの」
アンジェリカは屈託なく嬉しそうに話した。隣でジークは大きく口を開け、声にならない叫びをあげながら動きを止めた。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
リックは驚いたように、しげしげとジークを見た。
「へぇ、そうだったんだ」
ジークは彼の視線から逃れるように顔をそむけた。そうする以外になかった。
ふいに、アンジェリカの前に、無言で手のひらが差し出された。ジークのものだ。何かを催促しているようだが、アンジェリカには彼の意図がわからなかった。目をそらせている彼に、きょとんとした表情を向ける。
「それ、貸せよ。サイズを直してきてやる」
彼女を見ようともせず、ぶっきらぼうにぼそぼそと言った。そんな彼に、アンジェリカはにっこりと笑いかけた。
「いいわよ、このままで。いつかちょうど良くなると思うから」
ジークは思わず彼女に振り向いた。まっすぐに視線が合うと、慌ててすぐに目を伏せた。
ラウルの医務室を通り過ぎ、さらに王宮の奥へと向かった。ジークもリックも、ここまで来るのは初めてである。途中には何人もの衛兵がいたが、皆、アンジェリカに一礼し、すんなりと通してくれた。アカデミーにいると忘れてしまうが、やはりアンジェリカは名門ラグランジェ家の娘なのだと思い知らされる。だが、彼女自身はそういう目でみられることを快く思っていない。ジークたちはそのことを知っていたので、あえて口には出さなかった。
奥に進むにしたがって、次第にあたりは格調高くなっていく。柱は荘厳で存在感があり、それでいて繊細な装飾が施されている。階段は幅広く緩やかなカーブを描き、手すりにはやはり細やかな模様が彫り込まれている。そして、なんといっても圧巻なのが、空間の使い方である。横にも縦にも壮大に広がる、贅沢でただっ広い空間。そこにたたずむ人間を圧倒させるには十分すぎるスケールだ。足音が高く遠い天井に大きく反響する。ふたりの緊張感は否が応にも高まっていった。
階段を上がり突きあたったところに、大きな重量感のある扉があった。もちろんここにも優美な装飾が一面に施されている。両脇には、槍を持ち、剣を携えた厳い衛兵がひとりづつ、背筋を伸ばして立っていた。アンジェリカが現れるとふたりそろって一礼したが、すぐに元の姿勢に戻り、それ以降は微動だにしなかった。
アンジェリカは扉についた丸い鉄輪を打ちつけ、応答を待った。
「いらっしゃい」
ゆっくりと開いた扉から、レイチェルが姿を現した。いつも通りのドレス、いつも通りの笑顔。ジークもリックも、少しだけ緊張がほどけた。ふたりがぺこりと頭を下げると、彼女は優しく微笑み返した。
「ルナちゃん、いる?」
「ええ」
レイチェルが招き入れると、アンジェリカは小走りで駆け込んでいった。ジークもリックも、緊張しながらぎこちなく足を踏み入れた。
「こんにちは!」
「そんなに急がなくても逃げやしないわよ」
王妃アルティナはテーブルにひじをつき、軽快に走るアンジェリカを眺めながら目を細めた。
「今日は賑やかになりそうね」
「すみません、僕たちまで来てしまって」
遅れてやってきたリックは、申しわけなさそうに頭を下げた。ジークも続いて頭を下げる。
「いいのよ。私は賑やかな方が好きなんだから」
アルティナは白い歯を見せた。
「……寝ているのね」
ルナのベッドを覗き込んで、アンジェリカは少し落胆した声を出した。ルナはベッドの中央で、すやすやと寝息を立てて眠っていた。できれば目を開いたところが見たかった。そして、いろんな反応が見たかった。それでも、ひとまわり大きくなった赤ん坊を目にして、嬉しそうに顔をほころばせた。隣にやってきたリックも、にっこりしながら見下ろした。
「だいぶ大きくなったわよね」
「うん」
ふたりは笑顔を見合わせた。
「ほっぺぷくぷく」
アンジェリカはルナの丸い頬を、人さし指で軽くつついた。その感触の柔らかさに、ますます表情が弛んでいく。
「あんまり触ると起こしちゃうよ」
リックは優しくたしなめた。アンジェリカは素直に手を引っ込めた。
「ん?」
リックはふくらはぎに何かが当たったのを感じて振り返った。
「おまえがジークか?」
むっつりと不機嫌顔の小さな男の子が、腕組みをしながらリックを睨み上げていた。
「あら、アルス。久しぶりね」
アンジェリカがにっこりと笑いかけたが、少年はちらりと彼女を見ただけで、笑顔を返さない。
「アルスって……王子様?」
リックは目をぱちくりさせながら、アンジェリカに問いかけた。
「そうよ。アルティナさんと似ているでしょう?」
確かに銀の髪は、アルティナと同じ輝きを放っている。だが、目つきは王子の方がかなり悪い。
「おい、おまえがジークかって聞いてるんだよ」
返答もせずふたりで話していることにいらついているようだった。ますますふてぶてしい態度で再び尋ねる。リックは屈み込んで、小さな王子に人なつこい笑顔を近づけた。
「ジークは僕じゃなくて、あっちの人だよ」
リックは離れたところで窓の外を眺めているジークを指さした。
アルスはてくてくと歩いていくと、背後からジークのふくらはぎあたりに蹴りを入れた。
「てっ……何だテメーは」
ジークは振り返り、むっつり顔の小さな少年を目にすると、思いきり睨みつけた。しかし少年も負けてはいない。口をヘの字に曲げ、睨み返す。
「ぜんぶおまえのせいだ!」
そう言って、再びジークを蹴り上げた。
「ってーな! いきなり何なんだよ!」
その様子を眺めていたアルティナは、愉快にあははと笑った。
「そのくらいは許してやって。アンジェリカがめったに来なくなって、寂しい思いをしてたんだから」
ジークは目を見開いて、少年とアルティナを交互に見比べた。
「え、こいつ……いや、えっと……王子ですか? でも何で俺……オイ、蹴るな!」
「おまえがアンジェリカをひとりじめにしてたんだろう!」
「は?」
そうか、こいつ、アンジェリカのことが……。ジークはふとサイファから聞いた昔話を思い出した。なんとなく似ている。幼い日のレオナルドがこのチビ王子、レイチェルさんがアンジェリカ、そして、サイファさんが俺……。ジークはそこまで考えて、一気に顔を上気させた。
「あ、なんか顔が赤いぞ。変な想像してたんだろう! ア……んんっ!」
ジークは騒ぎだした王子の口を手でふさぎ、体ごと抱えて、部屋の隅へと走っていった。
「なにをするんだ!」
口をふさぐ手が離れると同時に、王子は勢いよく噛みついた。
「おまえが変なことを言い出すからだ!」
ジークは壁を背にしゃがみこみ、アルスと同じ目線で言い返した。アルスはじとっとジークを見つめた。
「おまえ、アンジェリカのことが好きなんだろ?」
「……おまえみたいなガキんちょには関係ねぇ」
あまりにもストレートな問いかけに、ジークは絶句し動揺した。しかし、それを悟られないよう平静を装って、ぶっきらぼうに返事をした。だが、アルスはごまかされなかった。いたずらな顔をのぞかせてニッと笑う。
「認めたら譲ってやってもいいぜ」
「バーカ。譲るとか譲らなねぇとか、アンジェリカはモノじゃねぇだろ」
ジークはアルスのおでこを人さし指で軽く弾いた。
「あ、デコピンした」
離れたところからふたりの様子をうかがっていたリックが、ぽつりとつぶやいた。だいぶ遠いため、ジークたちの会話は聞こえない。
「あの、いいんですか? 放っておいて」
アルティナに振り返り、不安そうに尋ねた。彼女は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、余裕の笑顔を見せている。
「いいの、いいの。懐かしいわね、デコピン」
「なに? デコピンって」
アンジェリカはリックを見上げた。彼は苦笑いしながら首を傾げた。そんなくだらないことを彼女に教えていいものかどうか迷った。
「けっ、えらそうに。おまえよりオレの方が、アンジェリカと長いつきあいなんだよ」
アルスはひたいをさすりながら強がり、くやしまぎれに変な対抗意識を見せた。ジークはむっとして眉根を寄せた。
「笑わせんな。たいして違わねぇだろ。それに俺の方が一緒にいた時間は長いはずだぜ。アカデミーにいる間、ずーっと一緒なんだからな!」
最後は勝ち誇ったように言い放った。そんな大人げない彼に、小さな王子は冷めた目を向けた。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃん」
「……黙れよ、ませガキ」
ジークは顔を赤らめながら睨みつけた。すっかりアルスのペースである。
「うわさのジークがこんな男らしくないヤツだとは思わなかった。好きなら好きって言えよな」
頭の後ろで手を組み、あきれたようにわざとらしくため息をついた。その小憎たらしい態度に、ジークは逆さ吊りにしてやりたい衝動に駆られた。だが、もちろんそんなことは出来ない。
「おまえみたいなガキんちょにはわからねぇだろうが、大人には複雑な事情ってモンがあるんだよ」
そう言いわけをするのが精一杯だった。しかし、自分で自分のことを「大人」と言ったことに、違和感とむずがゆさを覚えた。微妙に身体をよじらせる。
「オトナの事情ってなんだよ」
アルスは横柄に腕を組み、ジークを睨んだ。
「ガキにはわからねぇって言ったろ」
ジークはそっけなく答えた。アルスはさらに目つきを悪くして睨みつける。
「ガキって言うな」
「ガキはガキだろ」
「……アンジェリカに洗いざらいぶちまけるぞ」
「ぐっ……」
アルスが切り札を出すと、ジークは言葉に窮した。完全にジークの負けである。
「ガキじゃなくてアルスって呼べよな」
小さな王子は、楽しそうに白い歯を見せた。
「お茶が入っているわよ」
部屋の中央に戻ってきたジークとアルスに、レイチェルはにっこり微笑んで声を掛けた。
「あ、すみません」
ジークはティーカップが用意された席についた。座るなり喉を潤すようにひとくち流し込むと、ふうとため息をついた。アルティナは隣でひじをつき、にこにこしながら彼を見つめていた。向かいにはアンジェリカとリックも座っている。
「ふたりで何の話だったの?」
レイチェルは、席につかず通り過ぎようとするアルスに声を掛けた。
「男と男のひみつの話だ。な、ジーク」
「……ああ」
なぜか得意げにそう言うアルスに、ジークは素直に同意した。その言い方に多少の不満はあったものの、秘密にしておいてくれるのはありがたかった。
「なによそれ」
アンジェリカは冷めた声でつぶやいた。しかし、それ以上、詮索することはしなかった。ジークは心の中で、そっと胸を撫で下ろしていた。
アルスは駆け足でルナのベッドへ向かった。木の格子の隙間から、ルナの様子をうかがう。
「あ、目を覚ましたぞ」
「本当?!」
アンジェリカとリックも慌てて駆け寄り、上から覗き込んだ。ルナの青い大きな瞳が、見なれないふたりを捉えて止まった。
「あ、こっちを見ているわ!」
アンジェリカが歓喜の声をあげた。
「ね、抱き上げてもいい?」
アンジェリカはレイチェルに振り返って許可を求めた。
「重いわよ? リックさん、手伝ってあげてもらえるかしら」
「はい」
レイチェルは少し不安そうだったが、アンジェリカはうきうきしていた。リックの服を引っ張り、早くと急かす。リックはルナを抱き上げると、そっと彼女に手渡した。細い腕にずっしりと重みがかかる。
「ん……けっこう重たいわね」
「大丈夫?」
リックが手を差し出したまま、心配そうに尋ねる。アンジェリカはにっこりと笑顔を返した。
ルナはくりっとした瞳で、アンジェリカをじっと見つめた。不思議なものでも見るかのように、ずっと目を離さない。アンジェリカはそれが可愛くてたまらなかった。自然と顔がほころぶ。アルスは背伸びをしていたが、届くはずもなく、ルナの背中しか見えない。
「ジーク、俺を持ち上げてくれ」
「めんどくせぇなぁ」
お茶を飲んですっかり落ち着いていたジークは、やる気のない声を漏らした。アルスは横目でジークを非難するようなまなざしを送った。
「アンジェリカ、あのな、ジークが……」
「わーー!! わかったって!!」
転げ落ちるように椅子から飛び降り、王子の元へ駆け寄る。そして、彼の希望どおり後ろから抱え上げ、ルナの顔が見えるようにしてやる。
「おまえ性格わるいぞ」
ジークが小声でそう言うと、アルスはにっと笑った。
「ルナ、オレだぞ」
アルスが優しく声をかけると、ルナは彼に目を向け、小さな手を伸ばした。彼はその手をつかまえて、そっと柔らかく握った。ルナの表情が動き、かすかに笑顔を見せた。
「へへっ、かわいいよな」
「ああそうだな」
ジークは気のない返事をした。
ギィ……。
扉の開く音に、皆が振り向く。そこから姿を現したのはラウルだった。彼は無言で部屋へ進み入ってきた。まっすぐにルナを抱いたアンジェリカの元へと向かう。
「アンジェリカ」
「うん……バイバイ」
彼女は腕の中の赤ん坊に別れをささやいた。名残惜しそうにしながらも、素直にラウルに手渡した。ルナはラウルと目が合うと、はっきりと笑顔になり、嬉しそうに手足をばたつかせた。「あーうー」と何かを伝えたがっているような声も発していた。
「おまえたち、あしたの試験の準備は出来ているのか」
ルナの様子に目を奪われていた三人は、ラウルのその言葉で急に現実に引き戻された。
「今日の試験はなんだったんだよ。あんなもん習ってねぇぞ」
ジークは抱えていた王子を下ろしながら文句を言った。ラウルの返答は、案の定すげないものだった。
「習ったことばかりやっていても駄目だ」
「なんだそりゃ」
反抗心からそんな反応をとってみたが、ラウルの言うことも一理あるとジークは思った。だが、素直に認めるのはくやしいので、そんな素振りは見せないようにした。
「世話になったな」
ラウルはレイチェルとアルティナに振り返った。レイチェルはにっこり笑った。
「もう少しゆっくりしていったら?」
「いや、今日は帰ることにする」
ラウルは早々に立ち去ろうとしたが、レイチェルが立ち上がるのを見て、その場にとどまった。ラウルの前まで来ると、彼女は背伸びをしてルナを覗き込んだ。笑顔で小さく手を振って、別れの挨拶をする。
「もう帰っちゃうの?」
アンジェリカは寂しそうに尋ねた。
「おまえたちも、もう帰れ」
「そうだね、ジーク、帰ろうか」
「ああ」
ジークは考えごとをしながら虚ろに返事をした。
「私はお母さんと帰るから」
アンジェリカはそう言って、ふたりに手を振った。リックとジークも小さく手を振り返した。
「ジーク、また来るんだろ?」
アルスは一歩進み出て、ジークを見上げた。
「さぁな。そんなに暇じゃねぇからな」
ジークは王子と目を合わさずにそっけなく言った。本当は、身分不相応なところに何度も出入りなど出来ないという思いがあったが、それは口には出せなかった。出してはいけないような気がした。
ルナを抱いたラウルと、ジーク、リックは並んで歩いていた。互いに、一緒に帰りたいと思っているわけではなかったが、方向が同じなので必然的にそうなってしまった。燃えるようなオレンジ色の空がジークたちを照らし、廊下に長い影を作る。
「ジーク、王子様になつかれちゃったみたいだね」
「俺が来ればアンジェリカも来るとでも思ってんだろ」
ジークは無感情に言った。リックはあごに人さし指をあて、首をひねった。
「そうかなぁ。ジークに来てほしそうだったけど」
それについてのジークの返答はなかった。
話が途切れ、沈黙が三人をつつむ。ルナもなぜかおとなしい。バラバラな靴音が、不安定なリズムを刻む。リックは何か気まずいものを感じていた。ジークとふたりなら、話が途切れても沈黙が続いても平気だが、ラウルがいることで、いつもと違う空気が流れていた。
ラウルの医務室の前まで来ると、リックは内心ほっとした。無言で扉を開けるラウルに、リックは小さく礼をした。ジークは前を向いたまま、あえて視線をそらせている。
「あまり深く関わるな」
背中を向けたまま、ラウルは唐突にそう言った。忠告とも脅しともとれる言葉。ジークは驚いて振り向く。
「どういうことだ」
低い声でうなるように問いつめる。しかし、ラウルは答えることなく医務室へ入っていった。ジークがあとを追おうとすると、ピシャリと扉が閉められた。残されたふたりは、とまどう顔を見合わせた。
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