遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

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27. 狂宴

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 アンジェリカが再びアカデミーへ行くようになって数日が過ぎた。以前と変わらず、ジークと言い合ってみたり、三人で笑ってみたり、そんな日々を過ごしていた。ただ、三人とも、なんとなくセリカの話題だけは避けていた。

「ったくラウルのやつ、あれで教えてるつもりか?」
 アカデミーから門に向かいながら、ジークは大声で不満をわめき散らした。並んで歩いていたリックとアンジェリカは、顔を見合わせて苦笑いをした。
 校庭の中ほどまで来たところで、ジークは怪訝な顔を見せた。ふいに後ろを振り返る。だが、近くには誰もいない。
「何?」
 アンジェリカもつられて後ろを見た。
「いや、アイツら、誰を見てんのかと思ってよ。どうもこっちを見ているような気がするんだけど、気のせいだよな」
 ジークは門の方に目を向けて言った。そこには男が三人立っていた。いずれも、鮮やかな金髪だった。中央の少年は、ジークと同じくらいの歳だろうか。残りのふたりはそれよりやや幼く見える。中央のリーダーらしき少年に、付き従うように立っていた。
 アンジェリカは彼らを見ると顔をこわばらせた。

「お久しぶりです、お嬢さま」
 前に立っていた少年が、含みのある微笑みを浮かべた。
「何しに来たのよ」
 アンジェリカは彼らと目を合わそうとせず、突き放すように言った。
「そんなつれない返事はないんじゃないですか。明日は楽しみにしてますよ」
 少年は、アンジェリカの正面に回り込み、腰を屈めて覗き込んだ。アンジェリカの目の前で、彼の柔らかい金髪が風になびいた。彼女はさらに顔をそむけた。
「まさかとは思いますが、アカデミーを理由に出てこない、なんてことはないですよね。ゆっくり話をする機会なんて、こんなとき以外ありませんから」
 優しい口調とは裏腹に、その表情には意味ありげな下卑た笑いが浮かんでいた。
「それでは明日、会いましょう」
 彼はそう言うと、隣のジークに振り向いた。あごをしゃくり見下すような視線を向ける。ジークがムッとすると、彼は片方の口の端を上げにやりと笑った。そして、ふたりの少年を従え、その場を去っていった。

 ジークは激しい嫌悪感と苛立ちを感じた。腕を組み、眉をひそめる。
「なんだあいつら。知り合いか?」
 小さくなった三人の後ろ姿を睨みつけながら、アンジェリカに尋ねた。
「親戚よ。ラグランジェ家の分家の人。私の婚約者になる予定」
「なにっ!!」
「……だった人。お爺さまが勝手に話を進めてたらしいんだけど、今はその話もなくなったから」
 アンジェリカは淡々と話した。ジークは少し恨めしそうに彼女を睨んだ。
「おまえ、あんまり驚かせるなよ」
「え?」
「いや、なんでもない」
 ジークは噴きだした額の汗を拭おうと手を上げかけた。だが、ふいに手を止め、静かに下ろした。

「明日は何があるの?」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめながら、心配そうに尋ねた。
「年に一度のラグランジェ家の集まり」
「……それ、行かない方がいいんじゃねえのか?」
 ジークはサイファの話を思い出していた。アンジェリカはショックを受けると眠ったまま目を覚まさなくなる、彼はそう言っていた。親戚たちに蔑まれている彼女た。そんな集まりに行けば、きっとまた酷いことを言われるに違いない。そうすれば、また――。
「どうして? 私は出るわよ」
 アンジェリカは事も無げに言った。ジークはむっとした表情をアンジェリカに向けた。
「おまえ、本当は弱いくせにどうしてそう強がるんだよ! そのせいでどれだけみんなが心配してるかわかってんのか?!」
 今度はアンジェリカが怒りをあらわにした。眉を吊り上げ、ジークに詰め寄る。
「なによそれ。弱いってどういうこと? どうしてジークにそんなことが言えるの?!」
 ジークはサイファから聞いたとは言い出せず、ただ押し黙るしかなかった。

「じゃあ、なんかあったらこの言葉を思い出せ」
 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に切り出した。そして、不思議そうに見上げるアンジェリカの鼻先に、人差し指をビシッと突き当てた。
「勝ち逃げは許さねぇ!」
「……はぁ?」
 アンジェリカは一瞬、目をぱちくりさせて驚いたが、そのあとしだいに怪訝な表情に変わっていった。リックは少し呆れてため息をついた。
「ジーク、もっと気の利いた言葉とか、ないの?」
「うるせえな! なら自分が言えばいいだろう」
 アンジェリカはふたりの言い合いを聞きながら、小さく首を傾げた。

 その夜、アンジェリカは早めにベッドに入った。
「アンジェリカ、何度も言ったけど、今年は学校に行っているという理由もあるし、無理に出なくてもいいのよ」
 レイチェルはベッドサイドに座り、布団を掛け直しながら優しく言った。しかし、アンジェリカはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、出るわ」
 レイチェルはそんなアンジェリカを見て、つらそうに少しだけ笑い、彼女の前髪を掻きあげた。
「私たちのことなら気にしなくていいのよ」
 アンジェリカは再び首を振った。そして、まっすぐレイチェルを見つめた。
「そうじゃないの。私は逃げたくないだけ」
 レイチェルはもう何を言っても無駄だと悟った。
「それじゃ、明日のためにゆっくり休んで」
 精一杯の笑顔でアンジェリカの頬を撫でると、ゆっくりと立ち上がり、明かりを消して部屋をあとにした。

 翌日。ラグランジェ家は朝から準備でバタバタしていた。
 料理などはほとんど雇いの者が行っていたが、それでもサイファとレイチェルは指示を出さなければならなかったし、自分たちの身支度もしなければならなかった。
 夕方になり、次々とゲストが訪れ始めた。みなラグランジェ家の一族である。やはり、アンジェリカに対する態度は一様に冷たかった。あからさまに侮蔑の態度を向ける者、冷ややかな眼差しを向ける者、視界に入れようともしない者……。
 ――こんなこと、もう慣れっこだわ。
 アンジェリカは何度も自分にそう言い聞かせた。そして、次第に感情の扉を閉ざしていった。

 宴が始まると、ホール内は宝石箱のようにきらめいた。色とりどりのドレス、胸元や指で光を放つダイヤモンド、そしてそのダイヤモンドさえくすませるほどの鮮やかな金の髪。それらがホール中を舞い、さまざまな光の乱反射を作り出していた。
 そこかしこで談笑が聞こえる中、アンジェリカは刺すような視線と中傷の言葉を避け、隅でひっそりと立っていた。今の彼女にとって、そこがいちばん落ち着ける場所だった。オレンジジュースの入ったグラスを両手で握りしめ、ただひたすら時が過ぎるのを待った。

「私はおまえたちが不憫で仕方がない。十年もの間、こんな……」
「いくらお父さまでも、アンジェリカの前でそのようなことを口にしたら許さないわよ」
 レイチェルは、サイファを交えて自分の父親と話をしていた。会話の内容は自然とアンジェリカのことになっていた。
「アンジェリカもそろそろ 11になる。いいかげんに決めたらどうかね、許婚を」
 サイファは少し困ったように肩をすくめた。
「その話は無駄だとわかっているでしょう」
「君らも強情だな」
 笑顔をたたえる娘夫婦を見て、半ば諦めるようにため息をついた。
「あの子の意思を尊重してやるのが私たちの教育方針です。あの子はいずれ自分で選びますよ」
 サイファとレイチェルは目を見合わせてくすりと笑った。
「それならどうだ。ふたりともまだ若いんだ。もうひとりくらい……」
「お父さま、この場にふさわしくない話題ですわ」
 レイチェルは軽く怒ったような表情を作り、父親をたしなめた。サイファはカクテルを一口流し込んだ。そして、微笑みを浮かべながら、きっぱりとした口調で言った。
「それはアンジェリカを傷つけることになります。私にそのつもりはありません」
 レイチェルは手にしていたカクテルに視線を落とした。微かに揺れる表面を見つめながら小さく頷く。口元に浮かべた笑顔は、どこか寂しげに見えた。

 レイチェルは彼女の母親に呼ばれ、ホールをあとにした。残されたサイファはガラスの扉を開け、義父をバルコニーへ誘った。外はもうすっかり暗くなっていた。生ぬるい風が頬を撫で、髪をなびかせた。
「伝統あるラグランジェ家をここで途絶えさせる気か」
 娘の前では見せなかった厳格な表情で、義父は話の続きを切り出した。しかし、サイファはその雰囲気に飲まれることなく、柔らかい笑顔で返した。
「悪い風習や形だけにしがみつくくらいなら、それも悪くないと思っています」
 義父は柵に背を向け、そこに体重を預けた。そして、空を見上げて目を閉じ、ゆっくり鼻から息を吐いた。
「君はもっと分別のある男だと思っていたよ」
 サイファは柵に両ひじを乗せ、目を細めて遠くを見やった。
「私はただ、私たちが幸せになる方法を選択しているだけです」
 義父は無言でうつむいた。サイファは真剣な顔を彼に向け、さらに淡々と続けた。
「あなたは娘の幸せを望まない父親ではないはずです。ただ、あなたにも立場というものがある。もしかするとあなたが一番おつらいのかもしれません」
「なんの話だ」
 義父は唸るような低い声でそう言うと、横目でサイファを刺すように睨んだ。しかし、彼はその視線を軽く受け流し、穏やかな笑顔を浮かべた。
「心当たりがなければ聞き流してください」
 義父は何か言いたげな表情を見せたが、こらえるように顔をそむけた。

「さすがに目立つな、黒づくめは」
 その声に反応し、アンジェリカは顔を上げた。少し離れたところに立っていたのは、昨日の三人組だった。
「おっとそれ以上寄るなよ。こっちまで呪いがうつってしまうからな」
 三人とも、にやにやと意地悪く笑っていた。アンジェリカは彼らを一瞥すると、黙ったまま再びうつむいた。
「おまえの周りでは次々と事件が起こるな。それが呪われてる何よりの証拠だろう。おまえ自身もそろそろ気がついてるんじゃないのか。だからそんな喪服みたいな黒い服を選んでるんだろう」
 近くにいた大人たちには、そのセリフは耳に届いていた。だが、誰も止めるものはいなかった。大半は聞こえない振りをしていた。そして、残りは下卑た好奇のまなざしでその様子を見ていた。
「これは喪服じゃない。痛みを忘れないためよ」
 アンジェリカは、静かに、ささやかに反論をした。
「恨みがましいお嬢さまだな。アカデミーに入ったからっていい気になるなよ。あんなものコネに決まってるだろう。そもそもアカデミーってやつもたいしたことないのかもな」
 アンジェリカの反論が、少年をさらに饒舌にした。離れたまま上半身をかがめ、覗き込むように顔を突き出した。
「昨日いっしょにいたお友達も冴えないヤツらだったよな。まあ、おまえのような穢れたヤツには、ああいう低俗な輩が似合っているがな」
 アンジェリカは目を閉じ、ひたすら耐えていた。彼女のまぶたは細かく震え、身体の中で熱いものが暴れ始めていた。
 少年は調子に乗り、次第に音量を上げていった。
「なんとか言ったらどうだ。おまえみたいな穢れた血は、ラグランジェ家にいる資格はないんだよ。みんな言ってるさ。おまえが呪われているのは……」
 ――ガラガラガラガシャン! ゴン!!
 彼の頭上から銀食器が降り注いだ。そして、最後に大きな銀製のプレートに頭を打たれ、膝から崩れた。ぬめりのある黄色いかけらとべとついた液体が彼を伝った。それはプリンだった。隣のふたりは驚いて、後ずさりした。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
 あたりが静まり返ったところに、レイチェルの声が響いた。その声は少し弾んでいるようにも聞こえた。
「あなたわざとやったわね!」
 色白で痩せた年配の女性が、レイチェルに近づきながらヒステリックに叫んだ。その女性は少年の母親だった。
 しかし、レイチェルが臆することはなかった。
「いいえ、手が滑っただけですわ」
 笑顔のままで、きっぱりと言いきった。あまりに堂々としていたので、逆に少年の母親の方が怯んだ。
 レイチェルはしゃがんで膝をつくと、ハンカチを取り出し、彼の顔をそっと拭った。薄い布を通して、彼女の細く柔らかい手の感触が伝わってきた。彼の鼓動はドクンと大きく打った。レイチェルはさらに顔を近づけ、彼を下から覗き込んだ。彼の鼓動はもっと大きく早く、心臓が破れんばかりに打ち始めた。顔が上気していく。彼女に目を向けることすら出来ない。
 レイチェルはにっこりと微笑み掛け、穏やかに言った。
「熱々のシチューでなくて、本当に良かったわね」
 少年は背筋に氷水を流し込まれたように、体の芯から震えが走った。レイチェルはすっと立ち上がると、少年に手を差し出した。
「替えの服をお貸しします。どうしたの? さあ行きましょう」
「触るなっ!」
 少年はレイチェルの手を払いのけ、よろけながら立ち上がると扉の方へ駆け出した。熱湯と氷水を同時に浴びせられたように感覚が麻痺していた。体中に鳥肌を立てながら、顔からは汗を滴らせていた。
 取り残されたふたりの少年も慌てて彼を追って走り出した。

 レイチェルはアンジェリカにこっそりとウインクした。

「まったく、品のないこと。子が子なら親も親ですわ。親からして穢れているようね」
 少年の母親はこめかみに青筋を立て、早口でまくしたてた。しかし、レイチェルは涼しい顔でまったく気にも留めていない。彼女はそれがなおのこと気にくわなかった。
「私の娘を悪く言わんでくれるか」
 背後から低い声が聞こえた。彼女は口をへの字に折り曲げ、肩ごしにその男を睨んだ。
「でしたら、もっときちんと教育なさったらどうです」
「おまえの子供の方がよっぽど品がないと思うがな。幼な子をいじめて楽しんでいるようでは将来が思いやられる」
「それは……」
 彼女は言葉を詰まらせた。そして、思いきり顔をしかめると、身を翻しその場をあとにした。

「ありがとう、お父さま」
 レイチェルは父親に近づきながら、にっこりと微笑んだ。
「おまえには私の助けなど必要なかっただろうがな」
 そう言い無愛想に娘を一瞥すると、彼女に背を向けた。彼女は父のその大きな背中に額をつけた。
「お父さまが庇ってくださったことが、何より嬉しいわ」
 レイチェルは囁くように言った。彼は背中に熱い吐息を感じた。ふいに、振り返って娘の頬を両手で包み込みたい衝動に駆られた。しかし、彼は前を向いたまま微動だにしなかった。
「おまえに触発されたのかもしれん」
 彼はその言葉を残し、再び人の群れへと消えていった。

 アンジェリカは息苦しさに耐えかねてホールの外へ出た。中に比べると幾分ひんやりとしていて、ほてりを冷ますにはちょうど良い。しばらくそこで休憩をとったらまた戻るつもりでいた。しかし――。
「おい、逃げるのか?」
 いちばん聞きたくなかった声が、耳を貫いた。アンジェリカはゆっくりと声のした方へ顔を向けた。
「プリンまみれですごんだって迫力ないわよ」
 濡れタオルを手にプリンのかけらと格闘していた少年に、冷ややかな視線を浴びせた。彼の目に、怒りの炎が冷たく燃えた。
「ちょっとこっちへ来い」
 低い声でそう言うと、顎をしゃくった。しかし、アンジェリカは冷たく見ているだけで、動こうとはしなかった。
「近づいたら呪いがうつるんじゃなかったの?」
 少年は口の端をわずかに上げた。
「その減らず口も今にきけなくしてやるさ」
 少し楽しそうな色を含ませそう言うと、隣のふたりに顎をしゃくり、横柄に指示を出した。ふたりは小走りでアンジェリカの両隣まで来ると、彼女の上腕をつかみ、少年の前まで引きずってきた。
 アンジェリカは感情のない瞳で彼を見上げた。
 少年は彼女の首に手をかけると、そのまま壁に叩きつけた。アンジェリカは後頭部を殴打した痛みと、喉を押さえつけられた苦しさに、思いきり顔をゆがめた。
 ――ビリビリビリッ。
 耳障りな音が耳をつんざいた。少年はアンジェリカの左の袖を引きちぎっていた。そして、その袖を彼女の前に掲げると、見せつけるように彼女の眼前で手を放して落とした。
「兄上、ちょっと趣味が悪いんじゃない?」
 少年に付き従っていた弟のひとりが、驚いて引きぎみに言った。
「こんなガキに興味はないさ。ただちょっとおしおきをするだけだ」
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべそう言うと、そのままの表情でアンジェリカに向き直った。
「安心しろ、お嬢さま。俺もバカじゃない。法律に引っかからない程度……いや、揉み消せる程度のことまでしかやらない」
 アンジェリカは怖れるでもなく怯えるでもなく、ただ無表情で少年をその瞳に映していた。そして、ふいに口を開き、平らな声で言った。
「まだ甘ったるい匂いがするわよ」
 少年はカッとなり頬を紅潮させた。ほとんど反射的に、彼女の頬を手の甲で殴りつける。
「チッ、泣けばまだかわいいものを」
 アンジェリカは殴られたまま横を向いてうなだれていた。少年はそれを嫌悪の表情で睨みつけた。
「こうなったら泣くまでやってやる」
 彼は意地になっていた。あらわになった彼女の細い左肩を乱暴に掴むと、小さくこもった声で呪文を唱え始めた。その手と肩の間から白い光が漏れる。それは次第に熱を帯びていった。アンジェリカの額から幾筋もの汗が滴り落ちた。目をつぶり、歯を食いしばり、灼ける痛みに耐えた。
「くっ……」
 アンジェリカは小さく声を漏らした。
 その途端、肩から手が離れた。少年の体はアンジェリカから引き離され、対壁の大きなステンドグラスにガシャンと打ちつけられた。
 それはサイファの仕業だった。
「何をしている、おまえ」
 サイファは喉の奥から声を絞り出し、少年の胸ぐらを乱暴に掴み押し上げた。爪が食い込むくらいに右手を固く握りしめ、今にも振り上げんばかりに震わせていた。
「やるのか? やりたければやれよ。魔導省のお偉いさんが無抵抗の若者に暴行したとなれば、ただでは済まないぜ」
 少年は気持ち悪いくらい冷静に言うと、意地悪く挑むような目で笑った。
 ――ガシャン!
 サイファのこぶしは彼の頬と耳をかすめ、背後のステンドグラスにめり込んでいた。そこから亀裂が広がり、いくつものかけらがカラカラと崩れ落ちた。サイファは彼にくっつかんばかりに顔を近づけた。その瞳にみなぎる激しい憎悪に、少年は一瞬で凍りついた。
「あまり頭にくると、何もかもどうでもよくなるかもしれない」
 本気だ――。
 彼は本能的にそう思った。そして、同時にかつてないほどの激しい恐怖を感じた。
 サイファはゆっくりとこぶしを引くと、彼に背を向け歩き出した。そして、呆然としていたアンジェリカを抱え上げた。
「今日のことは忘れない。レオナルド=ロイ=ラグランジェ」
 背中を向けたまま、サイファは静かに言った。少年は膝を折り、ガラスのかけらの上へへたり込んだ。
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