24 / 31
24. 静かな決断
しおりを挟む
いつの頃からだろう、彼女のすべてを求める感情が芽生えたのは。
しかしそれは心の奥底に留めておかなければならないものだった。
そんなことはわかっているつもりだった。
それなのに――。
ラウルは目を細めて眼下に広がるバラ園を見下ろした。
昨晩は一睡も出来ず、今朝になっても何も手につかず、気分転換のために外に出たのである。どこへ行くかは決めていなかったが、足は自然とここへ向かっていた。今の自分の状況を考えれば、それも当然のことだったのかもしれない。
少し冷たい風が頬を掠めた。
色鮮やかなバラ園をぐるりと見渡す。普段から人の少ないところだが、早朝のためか、今は誰ひとりとして見当たらない。静かだった。さわさわと葉の擦れる微かな音だけが耳に届いている。
足を一歩踏み出した。
彼女がきのう通った道をなぞるように、バラ園へと降りていく。
相変わらず手入れは隅々まで行き届いていた。遠くで見ても、近くで見ても、非の打ち所のないくらいに整えられている。そしてそれを引き立てるように、花びらや葉にはいくつもの朝露が降り、清廉な朝の光を浴びて無垢に輝いていた。
幾多のピンクローズに彩られた細道を進んでいく。
すれ違い際に微かな風が起こり、淡く色づいた柔らかな花弁を揺らす。そこからキラリと光るひとしずくが滑り落ち、地面に弾けて消えた。
何気なく顔を上げてあたりを見まわすと、隅にひっそりと佇む大きな木が目についた。引き寄せられるように、そのもとに足を進めて腰を下ろす。地面のひんやりとした感触が布越しに伝わってきた。立てた膝の上に腕をのせ、大きく顔を上げて目を細める。
空は優しい色をしていた。
ところどころにかかる薄い筋状の雲がゆっくりと形を変えていく。世界が止まったかのような静けさの中で、そのことだけが辛うじて時の流れを感じさせた。
横からのそよ風が長めの前髪をさらさらと揺らす。
ラウルは大きく息を吸い込み、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じた。何も考えずに、ただそうしていたかった。強制的に思考を閉じる。しかし、それでも心のさざなみまでもを消すことは出来なかった。
「ラウル」
頭上から降る澄んだ声とともに、日差しが遮られた。
ラウルは目を開く。
そこには、後ろで手を組んでにっこりと微笑むレイチェルが立っていた。逆光を浴びた細い金の髪が透けるように輝いている。後頭部にはいつもと同じ薄水色の大きなリボンがつけられていた。一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく現実である。
「なぜここへ来た」
「ラウルを探していたの」
彼女はそう言うと、ラウルの隣に腰を下ろした。何かを敷くこともなく、直接、土の上に座った。ドレスが汚れるのではないかと思ったが、彼女はまったく気にしていないようだった。小さな手で軽く膝を抱えると、遠い空を見上げて言う。
「今朝、お父さまから話があったわ。あと三ヶ月って」
ラウルはちらりと視線を流した。
「何と答えた」
「わかりました」
「……そうか」
彼女はまっすぐに空を見ていた。その横顔はいつもと何ら変わりのないものだった。無理をしているようには見えない。
ラウルは探るようにじっと彼女を見つめた。
その視線に気づいたのか、レイチェルは不思議そうな顔で振り向いた。きょとんと瞬きをして小首を傾げる。しかし、ラウルと視線を絡ませて見つめ合うと、無防備に愛らしくニコッと微笑んだ。
何も、何ひとつ変わっていない――。
ラウルは僅かに目を細めた。彼女を取り巻く状況も、彼女自身も、すべて見事なくらいに以前のままだった。何かを変えるためにあんな行動を起こしたわけではない。だが、心のどこかで期待はしていたのだろう。いざこの現実を目の前に突きつけられると、どうしようもなく胸がざわめき、やるせない思いが湧き上がった。
いっそ、連れ去るか――。
あどけない笑顔を瞳に映しながら、ふとそんなことを思う。
彼女ほどの魔導力があれば、おそらく、自分と同じ時間を生きることが可能になるはずだ。そうなれば、これから先の永い時間を彼女とともに過ごしていける。誰の手も届かないところで、自分の本来いるべき場所で。
しかし、それは自分の身勝手な願いにすぎない。
彼女は望んでいないだろう。両親やサイファと離れることも、時の流れを変えられることも。彼女のためを思うなら、やってはならないことだ。彼女を悲しませることも苦しませることも本意ではない。
諦めるしかない。
結局はいつもと同じ結論に辿り着く。違う筋道で考えても変わらない。これ以外の解決策は見つけられないのだ。見つけられないのではなく、そもそも存在しないのかもしれない。
「私ね……」
レイチェルが空を見上げて静かに切り出した。
「ずっと続くような気がしていたの、こんな幸せな今の日々が。お父さまとお母さまのもとで暮らして、サイファと休日を過ごして、ラウルと一緒にお茶を飲んで……」
淡々とそう言うと、僅かに目を伏せる。
「もちろん終わりが来ることはわかっていたけれど、遠い話のようで実感が持てなくて……でも、15歳の誕生日あたりから少しずつまわりが動き始めて、嫌でも実感させられるようになったわ。そのうちにラウルとも会えなくなるんだって寂しくて仕方なかった。それでもラウルを困らせたくなかったから、知らないふりをしようと思っていたの」
それは初めて聞いた彼女の本心だった。
ズクン、とラウルの胸が大きく疼く。自分のためを思っての行動だったとは思いもしなかった。そもそも知らないふりをしているとわかったのも昨日のことである。もっと早く気づくべきだった。寂しさを隠して無邪気に振る舞っていた彼女の心情を思うとやりきれない。
「私も男だったら良かったのに」
先ほどまでの雰囲気とは一変した明るい声。
ラウルは面食らって振り向き、怪訝に眉をひそめる。
「おまえ、何を言っている」
「そうしたら、サイファみたいに自由に会いにいけるでしょう?」
レイチェルは顔を斜めにしてにっこりと微笑みかけた。屈託のない無邪気な笑顔である。しかし、もしかするとそれも無理をしているのかもしれないと思う。
「……ああ、そうだな」
ラウルは目を細めて空を見上げた。
隣のレイチェルもつられるように空を見上げた。
「これからも、サイファとは仲良くしてね」
「あいつは来るなと言ってもしつこく来る」
サイファはこのところ足繁く医務室を訪れていた。もちろん患者としてではない。長居することこそ少ないが、仕事の合間や終わったあとに顔を見せ、軽く無駄話をしていくのだ。冷たくあしらっても一向に懲りる様子はなく、それどころか反応を楽しんでいる様子さえ窺えた。
レイチェルは空を見たままくすりと笑った。
「サイファはラウルのことが大好きなの」
それが事実かどうかはわからないが、ラウルにとってはどうでもいいことだった。はっきり言えば興味がない。彼がどう思っていようと自分には何の影響もないのである。
「ラウルもサイファのことが好きでしょう?」
「さあな」
ラウルは頬杖をつき、素っ気なくはぐらかした。
それでもレイチェルは引かなかった。
「好きだと思うわ」
「……おまえがそう言うのなら、そうなのだろう」
考えてみれば、自分と彼女を繋ぐことができるのはサイファだけになる。彼女はそれを守ろうとしているのだろうか。それとも孤独なラウルを一人にさせまいとしているのだろうか。
彼女が意図するものが何であるか、本当のところはわからない。
だが、それを問いただす必要はないと思った。
それきり二人の会話は途絶えた。
草の匂いの混じった風が頬を撫でる。
二人はただ空の青をその瞳に映していた。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
気がつけば太陽は高い位置に来ていた。二人が座る場所には陰が落ち、強烈な白い日差しが足先を照らしている。
「私、そろそろ帰らないと」
レイチェルはぽつりとそう言うと、地面に手をついて立ち上がろうとした。
咄嗟にラウルはその手首を掴んだ。
引き留めてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。考えるよりも先に手が動いていた。怖がらせる前に放すべきだと思いつつも、手の力を抜くことが出来なかった。
レイチェルは大きな瞳でじっとラウルを見た。
「さみしいの?」
ラウルは目を大きく見開いた。返答に困った。顔を少しだけ逸らすと、無言のまま彼女の肩を抱き寄せる。レイチェルはなすがままラウルの胸に寄りかかった。瞬きをして不思議そうにラウルを見上げたが、視線が合うと、くすりと笑って幸せそうに目を閉じた。
胸にかかる小さな重みが愛おしい。
彼女の白く柔らかい頬に指先で触れた。ゆっくりと顎へと滑らせ、軽く持ち上げる。それでも目を閉じたままの彼女に、許されたような気になって、身を屈めてそっと唇を寄せた。
だが、触れる寸前でそれを止めた。
しばらくそのままじっとしていたが、やがて少しだけ顔を離して小さく溜息を漏らす。
どうかしている――。
こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳のしようもない。ここは二人きりの部屋ではなく、王宮からは出入り自由の場所である。普段から人の少ないところではあるが、まったく誰もいないというわけではない。バラの手入れをしている人や、散歩をしている人たちが、遠くに数人ほど見えている。いつ目撃されてもおかしくない状況だ。
レイチェルが何かを感じたのか目を開いた。
その澄んだ大きな瞳に、ラウルは吸い込まれそうになる。くらりと目眩がして頭の中が真っ白になった。抗えぬ引力に落ちるようにそっと口づける。薄紅色の甘く柔らかい感触が頭の芯を痺れさせた。息を止めたままゆっくりと顔を離していく。
レイチェルはニコッと笑った。
曇りのないその笑顔を目にし、ラウルは胸が強く締めつけられた。彼女はわかっていない。ずるく身勝手な自分には、その笑顔を向けられる資格などないのだ。彼女の小さな体にまわした手に、無意識に力を込める。
私は、弱い人間だ――。
このままでは彼女の歩むべき人生を壊しかねない。もちろん壊すことなど望んではいない。だが、いっそ壊してしまいたいという黒い感情が潜んでいるのは事実だ。自分には衝動を抑える自信などない。取り返しのつかなくなる前に、決断しなければならないだろう。
彼女と寄り添いながら鮮やかな青い空を見上げた。彼女も同じ空を見ている。交わされる言葉は何もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。
正午を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
ラウルの心は決まった。
だが、ここで彼女に話すつもりはない。気持ちの整理がついていないという以上に、二人のささやかな今を壊したくないという思いが強かった。
おそらくこれが最後になるだろう。
だから、せめてもう少しだけ、この時間が続いてほしいと願った。
しかしそれは心の奥底に留めておかなければならないものだった。
そんなことはわかっているつもりだった。
それなのに――。
ラウルは目を細めて眼下に広がるバラ園を見下ろした。
昨晩は一睡も出来ず、今朝になっても何も手につかず、気分転換のために外に出たのである。どこへ行くかは決めていなかったが、足は自然とここへ向かっていた。今の自分の状況を考えれば、それも当然のことだったのかもしれない。
少し冷たい風が頬を掠めた。
色鮮やかなバラ園をぐるりと見渡す。普段から人の少ないところだが、早朝のためか、今は誰ひとりとして見当たらない。静かだった。さわさわと葉の擦れる微かな音だけが耳に届いている。
足を一歩踏み出した。
彼女がきのう通った道をなぞるように、バラ園へと降りていく。
相変わらず手入れは隅々まで行き届いていた。遠くで見ても、近くで見ても、非の打ち所のないくらいに整えられている。そしてそれを引き立てるように、花びらや葉にはいくつもの朝露が降り、清廉な朝の光を浴びて無垢に輝いていた。
幾多のピンクローズに彩られた細道を進んでいく。
すれ違い際に微かな風が起こり、淡く色づいた柔らかな花弁を揺らす。そこからキラリと光るひとしずくが滑り落ち、地面に弾けて消えた。
何気なく顔を上げてあたりを見まわすと、隅にひっそりと佇む大きな木が目についた。引き寄せられるように、そのもとに足を進めて腰を下ろす。地面のひんやりとした感触が布越しに伝わってきた。立てた膝の上に腕をのせ、大きく顔を上げて目を細める。
空は優しい色をしていた。
ところどころにかかる薄い筋状の雲がゆっくりと形を変えていく。世界が止まったかのような静けさの中で、そのことだけが辛うじて時の流れを感じさせた。
横からのそよ風が長めの前髪をさらさらと揺らす。
ラウルは大きく息を吸い込み、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じた。何も考えずに、ただそうしていたかった。強制的に思考を閉じる。しかし、それでも心のさざなみまでもを消すことは出来なかった。
「ラウル」
頭上から降る澄んだ声とともに、日差しが遮られた。
ラウルは目を開く。
そこには、後ろで手を組んでにっこりと微笑むレイチェルが立っていた。逆光を浴びた細い金の髪が透けるように輝いている。後頭部にはいつもと同じ薄水色の大きなリボンがつけられていた。一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく現実である。
「なぜここへ来た」
「ラウルを探していたの」
彼女はそう言うと、ラウルの隣に腰を下ろした。何かを敷くこともなく、直接、土の上に座った。ドレスが汚れるのではないかと思ったが、彼女はまったく気にしていないようだった。小さな手で軽く膝を抱えると、遠い空を見上げて言う。
「今朝、お父さまから話があったわ。あと三ヶ月って」
ラウルはちらりと視線を流した。
「何と答えた」
「わかりました」
「……そうか」
彼女はまっすぐに空を見ていた。その横顔はいつもと何ら変わりのないものだった。無理をしているようには見えない。
ラウルは探るようにじっと彼女を見つめた。
その視線に気づいたのか、レイチェルは不思議そうな顔で振り向いた。きょとんと瞬きをして小首を傾げる。しかし、ラウルと視線を絡ませて見つめ合うと、無防備に愛らしくニコッと微笑んだ。
何も、何ひとつ変わっていない――。
ラウルは僅かに目を細めた。彼女を取り巻く状況も、彼女自身も、すべて見事なくらいに以前のままだった。何かを変えるためにあんな行動を起こしたわけではない。だが、心のどこかで期待はしていたのだろう。いざこの現実を目の前に突きつけられると、どうしようもなく胸がざわめき、やるせない思いが湧き上がった。
いっそ、連れ去るか――。
あどけない笑顔を瞳に映しながら、ふとそんなことを思う。
彼女ほどの魔導力があれば、おそらく、自分と同じ時間を生きることが可能になるはずだ。そうなれば、これから先の永い時間を彼女とともに過ごしていける。誰の手も届かないところで、自分の本来いるべき場所で。
しかし、それは自分の身勝手な願いにすぎない。
彼女は望んでいないだろう。両親やサイファと離れることも、時の流れを変えられることも。彼女のためを思うなら、やってはならないことだ。彼女を悲しませることも苦しませることも本意ではない。
諦めるしかない。
結局はいつもと同じ結論に辿り着く。違う筋道で考えても変わらない。これ以外の解決策は見つけられないのだ。見つけられないのではなく、そもそも存在しないのかもしれない。
「私ね……」
レイチェルが空を見上げて静かに切り出した。
「ずっと続くような気がしていたの、こんな幸せな今の日々が。お父さまとお母さまのもとで暮らして、サイファと休日を過ごして、ラウルと一緒にお茶を飲んで……」
淡々とそう言うと、僅かに目を伏せる。
「もちろん終わりが来ることはわかっていたけれど、遠い話のようで実感が持てなくて……でも、15歳の誕生日あたりから少しずつまわりが動き始めて、嫌でも実感させられるようになったわ。そのうちにラウルとも会えなくなるんだって寂しくて仕方なかった。それでもラウルを困らせたくなかったから、知らないふりをしようと思っていたの」
それは初めて聞いた彼女の本心だった。
ズクン、とラウルの胸が大きく疼く。自分のためを思っての行動だったとは思いもしなかった。そもそも知らないふりをしているとわかったのも昨日のことである。もっと早く気づくべきだった。寂しさを隠して無邪気に振る舞っていた彼女の心情を思うとやりきれない。
「私も男だったら良かったのに」
先ほどまでの雰囲気とは一変した明るい声。
ラウルは面食らって振り向き、怪訝に眉をひそめる。
「おまえ、何を言っている」
「そうしたら、サイファみたいに自由に会いにいけるでしょう?」
レイチェルは顔を斜めにしてにっこりと微笑みかけた。屈託のない無邪気な笑顔である。しかし、もしかするとそれも無理をしているのかもしれないと思う。
「……ああ、そうだな」
ラウルは目を細めて空を見上げた。
隣のレイチェルもつられるように空を見上げた。
「これからも、サイファとは仲良くしてね」
「あいつは来るなと言ってもしつこく来る」
サイファはこのところ足繁く医務室を訪れていた。もちろん患者としてではない。長居することこそ少ないが、仕事の合間や終わったあとに顔を見せ、軽く無駄話をしていくのだ。冷たくあしらっても一向に懲りる様子はなく、それどころか反応を楽しんでいる様子さえ窺えた。
レイチェルは空を見たままくすりと笑った。
「サイファはラウルのことが大好きなの」
それが事実かどうかはわからないが、ラウルにとってはどうでもいいことだった。はっきり言えば興味がない。彼がどう思っていようと自分には何の影響もないのである。
「ラウルもサイファのことが好きでしょう?」
「さあな」
ラウルは頬杖をつき、素っ気なくはぐらかした。
それでもレイチェルは引かなかった。
「好きだと思うわ」
「……おまえがそう言うのなら、そうなのだろう」
考えてみれば、自分と彼女を繋ぐことができるのはサイファだけになる。彼女はそれを守ろうとしているのだろうか。それとも孤独なラウルを一人にさせまいとしているのだろうか。
彼女が意図するものが何であるか、本当のところはわからない。
だが、それを問いただす必要はないと思った。
それきり二人の会話は途絶えた。
草の匂いの混じった風が頬を撫でる。
二人はただ空の青をその瞳に映していた。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
気がつけば太陽は高い位置に来ていた。二人が座る場所には陰が落ち、強烈な白い日差しが足先を照らしている。
「私、そろそろ帰らないと」
レイチェルはぽつりとそう言うと、地面に手をついて立ち上がろうとした。
咄嗟にラウルはその手首を掴んだ。
引き留めてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。考えるよりも先に手が動いていた。怖がらせる前に放すべきだと思いつつも、手の力を抜くことが出来なかった。
レイチェルは大きな瞳でじっとラウルを見た。
「さみしいの?」
ラウルは目を大きく見開いた。返答に困った。顔を少しだけ逸らすと、無言のまま彼女の肩を抱き寄せる。レイチェルはなすがままラウルの胸に寄りかかった。瞬きをして不思議そうにラウルを見上げたが、視線が合うと、くすりと笑って幸せそうに目を閉じた。
胸にかかる小さな重みが愛おしい。
彼女の白く柔らかい頬に指先で触れた。ゆっくりと顎へと滑らせ、軽く持ち上げる。それでも目を閉じたままの彼女に、許されたような気になって、身を屈めてそっと唇を寄せた。
だが、触れる寸前でそれを止めた。
しばらくそのままじっとしていたが、やがて少しだけ顔を離して小さく溜息を漏らす。
どうかしている――。
こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳のしようもない。ここは二人きりの部屋ではなく、王宮からは出入り自由の場所である。普段から人の少ないところではあるが、まったく誰もいないというわけではない。バラの手入れをしている人や、散歩をしている人たちが、遠くに数人ほど見えている。いつ目撃されてもおかしくない状況だ。
レイチェルが何かを感じたのか目を開いた。
その澄んだ大きな瞳に、ラウルは吸い込まれそうになる。くらりと目眩がして頭の中が真っ白になった。抗えぬ引力に落ちるようにそっと口づける。薄紅色の甘く柔らかい感触が頭の芯を痺れさせた。息を止めたままゆっくりと顔を離していく。
レイチェルはニコッと笑った。
曇りのないその笑顔を目にし、ラウルは胸が強く締めつけられた。彼女はわかっていない。ずるく身勝手な自分には、その笑顔を向けられる資格などないのだ。彼女の小さな体にまわした手に、無意識に力を込める。
私は、弱い人間だ――。
このままでは彼女の歩むべき人生を壊しかねない。もちろん壊すことなど望んではいない。だが、いっそ壊してしまいたいという黒い感情が潜んでいるのは事実だ。自分には衝動を抑える自信などない。取り返しのつかなくなる前に、決断しなければならないだろう。
彼女と寄り添いながら鮮やかな青い空を見上げた。彼女も同じ空を見ている。交わされる言葉は何もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。
正午を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
ラウルの心は決まった。
だが、ここで彼女に話すつもりはない。気持ちの整理がついていないという以上に、二人のささやかな今を壊したくないという思いが強かった。
おそらくこれが最後になるだろう。
だから、せめてもう少しだけ、この時間が続いてほしいと願った。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
あなたが望んだ、ただそれだけ
cyaru
恋愛
いつものように王城に妃教育に行ったカーメリアは王太子が侯爵令嬢と茶会をしているのを目にする。日に日に大きくなる次の教育が始まらない事に対する焦り。
国王夫妻に呼ばれ両親と共に登城すると婚約の解消を言い渡される。
カーメリアの両親はそれまでの所業が腹に据えかねていた事もあり、領地も売り払い夫人の実家のある隣国へ移住を決めた。
王太子イデオットの悪意なき本音はカーメリアの心を粉々に打ち砕いてしまった。
失意から寝込みがちになったカーメリアに追い打ちをかけるように見舞いに来た王太子イデオットとエンヴィー侯爵令嬢は更に悪意のない本音をカーメリアに浴びせた。
公爵はイデオットの態度に激昂し、処刑を覚悟で2人を叩きだしてしまった。
逃げるように移り住んだリアーノ国で静かに静養をしていたが、そこに1人の男性が現れた。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※胸糞展開ありますが、クールダウンお願いします。
心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。イラっとしたら現実に戻ってください。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる