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19. 狂宴
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「サイファ、やっと見つけた」
鈴を転がすような可憐な声で呼ばれ、サイファは二十枚ほどの皿を抱えたまま振り返った。声の主であるレイチェルが軽い足どりで駆け寄ってくるのが見える。彼女は嬉しそうに微笑んでいたが、サイファの抱えた皿を目にすると、急に顔を曇らせて声のトーンを落とした。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって……」
「気にしないで、大丈夫だから」
サイファは安心させるように陽気な笑顔を見せた。作業中で忙しいことは確かだが、しばらく休憩するくらいの余裕はあるのだ。近くのテーブルに皿を置いてから話を続ける。
「それよりレイチェルの方こそ準備はいいの?」
「私はドレスを着替えるだけだから」
レイチェルは後ろで手を組み、小さく肩を竦めてくすっと笑った。
ラグランジェ本家の三階にある大広間――。
今日はこの場所で、ラグランジェの本家と分家が一堂に会するパーティを開催することになっている。その準備で、朝から大勢の人がせわしなく行き交っていた。カジュアルな立食形式のパーティではあるのだが、それでも出席者が多いため、配置や段取りが何かと大変なのだ。
シンシアとリカルドは、全体を見ながら作業の指示を出していた。
その指示を受けて実際に作業しているのは、この日のために雇った外部の人間である。サイファもそこに加わって働いていた。それは、母親であるシンシアの昔からの方針である。本家の一人息子でも甘やかさず、出来ることはさせなければならないという考えだ。
「ごめんね」
不意に落とされた詫びの言葉。
それを耳にしたレイチェルは、えっ、と小さく聞き返した。聞き取れなかったわけではないだろう。その意味がわからなかったのだ。答えをせがむように、不思議そうな顔でじっと見つめている。
「レイチェルがこのパーティを苦手に思っていることはわかってるんだけど……」
サイファは腰に両手を当て、曖昧に微笑んで言葉を濁した。
それはわかっていてもどうにもできないことだった。本家次期当主の婚約者という立場である彼女を、特に理由もなく欠席させることはできない。そんなことをすれば、彼女だけでなく、父親のアルフォンスまでも咎められることになるだろう。
しかし、レイチェルは首を横に振ると、屈託のない笑顔で答える。
「サイファは何も悪くないわ。気にしないで、私なら大丈夫だから」
年端もいかない彼女の精一杯の気遣いに、サイファは小さく息をついて目を細めた。これでは立場が逆である。本来ならば、自分の方が安心させる言葉を掛けなければならないのだ。それにもかかわらず、心細いはずの彼女にこんなことを言わせてしまうなど、自分が情けなかった。
しかし、すぐに気を取り直すと、レイチェルを見つめて真摯に言う。
「もし何かあったら、どんな些細なことでも遠慮なく言ってね。君のことは必ず守る。僕はどんなときでもレイチェルの味方だから」
それは、子供の頃から今に至るまで、ずっと思ってきたことである。彼女はかけがえのない大切な存在であり、守りたいというのはごく自然な願いだった。
だが、それだけではない。
本家次期当主の婚約者ということで、彼女は受けなくてもいいはずの謗りを受けている。自分のせいでつらい思いをさせているのだ。だから、自分には彼女を守る義務があるとも考えていた。
「ありがとう」
レイチェルはそう答えて愛らしく微笑む。
彼女はサイファの深い思いなど何も知らないのかもしれない。それでもサイファは構わなかった。あえて伝えようとは考えていない。この笑顔を自分に向けてくれる――ただそれだけで十分だった。
「あら、レイチェル、来ていたの?」
レイチェルの存在に気づいたシンシアが、そう声を掛けて足早に歩み寄ってきた。普段はロングドレスを身に着けていることが多いが、今は作業中のため、シンプルなブラウスと膝丈のタイトスカートという動きやすい格好をしていた。しなやかに流れる長い金髪も、後ろで一本に束ねられている。
「こんにちは」
レイチェルが甘い声で挨拶をすると、シンシアはネジが弛んだように顔を綻ばせた。
「ちょうど良かったわ。そろそろ持って行こうと思っていたところだったのよ」
「持って行く……?」
レイチェルはきょとんとして首を傾げ、そのまま不思議そうに瞬きをする。
そんな彼女の様子が可愛らしくて、サイファは思わず口もとに笑みを漏らした。
「アリスから聞いてなかった? 今回は、母上がレイチェルのパーティドレスを用意したんだよ。もう何ヶ月も前から大騒ぎしていてね」
「だってこんなことって滅多にないじゃない」
そう答えるシンシアは、いつも冷静な彼女とは別人のように浮かれていた。
今回の件は、彼女の方からアリスに頼んで実現したことだった。
娘がいない彼女には、女の子のドレスを見立てる機会などなかった。そのことを少し寂しく思っていたのだろう。一度やってみたいとアリスに申し出たのだ。大袈裟な言い方をすれば、念願が叶ったということになる。あのはしゃぎようも無理のないことだ。
「今からドレスを合わせましょう。いらっしゃい」
「はい」
シンシアが差し出した手に、レイチェルが小さな手をのせる。
「それじゃあね、サイファ」
「またあとでね」
振り向いて笑顔を見せるレイチェルに、サイファも笑顔で答えて軽く手を振った。そして、彼女がシンシアとともに出て行くのを見送ると、まだ見ぬドレス姿を心待ちにしながら、運びかけていた皿を抱えて自分の作業を再開した。
「我々ラグランジェ家の、さらなる発展と繁栄を祈念して、乾杯!」
本家当主リカルドの音頭で、大広間に集まった皆が唱和してグラスを掲げた。天井のシャンデリアから降り注ぐ光を受けて、シャンパンが宝石のようにキラキラと煌めく。
そうしてパーティが始まった。
色とりどりの艶やかなドレス、胸元や指で光を放つ宝石、そして、その宝石さえくすませるほどの鮮やかな金の髪――。それらが大広間を華麗に装飾していた。
「レイチェル」
背後から呼ばれたレイチェルは、細い髪を踊らせながら振り返り、声の主であるサイファに微笑みかけた。右手にはカクテルグラスを持っている。もっとも、まだアルコールが許される年齢に達していないため、中身はノンアルコールのカクテルである。
身に纏っているのは、シンシアが用意したパーティドレスだった。淡い水色と純白を基調にしたものだ。ボリュームのあるスカートは床につくほどの長さで、上は首元まできっちりと覆われており、肌の露出はほとんどないといってもいい。胴回りや袖はタイトに作られているが、肩の部分は膨らみ、袖口もひらひらと波を打って広がっていた。その袖先や胸元には、繊細で豪奢なレースがあしらわれている。
装飾品も、ドレスに合わせて用意されたものだ。
胸元の透かし模様の上には、ブルーサファイアのペンダントが輝いている。その透明感のある鮮やかな青は、サイファの瞳ととてもよく似ていた。それを意識して選んだのかもしれない。また、透き通るような金の髪には、精緻な銀細工の髪飾りがつけられていた。そこにも小粒の宝石がいくつか散りばめられている。レイチェルの動きに合わせて控えめにキラリと輝いた。
サイファは上から下まで眺めると、愛おしげに目を細めて言う。
「とてもよく似合っているよ。清楚で上品だけど、華があって、可愛らしさも感じられて」
レイチェルはニコッと笑顔で応えた。彼女自身もシンシアの見立てを気に入っていた。それが似合うと褒められたことは素直に嬉しかった。
サイファは少し腰を屈めて覗き込む。
「これから、ルーファス前当主に挨拶に行くけれど……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
本心では多少の心細さを感じていたものの、それを悟られれば心配を掛けてしまう。大丈夫と自分に言い聞かせつつ、不安な気持ちを笑顔でくるみ、芯の通ったしっかりとした声でそう答えた。
その直後、急にまわりの空気が変わった。穏やかな会話が止み、代わりに聞こえるのは小さなざわめき、急いだ靴音、いくつも重なる衣擦れの音――。
レイチェルはゆっくりと振り返った。
そこには人が避けてできた一本の道があった。広い大広間の奥まで続いている。周囲の人々は、小さな声でこそこそと話をしながら、好奇心を宿した目で奥を窺っていた。
そこにいたのは前当主のルーファスだった。
恰幅のいい大きな体を見せつけるように、後ろで手を組んで悠然とレイチェルたちの方へ足を進める。その後ろには数人の男性が付き従っていた。もちろんいずれもラグランジェ家の人間である。
ぼんやりしているレイチェルの手から、誰かがさっとグラスを取った。そして、前に出ようとしたサイファを制止し、レイチェルの背中を軽く押した。それは、ルーファスの目的が彼女にあることを示していた。
あたりは水を打ったようにしんと静まりかえった。
「レイチェル=エアリ」
ルーファスの迫力ある低音が、大広間内に静かに響いた。
周囲の人間に緊張が漲る。
しかし、レイチェルは臆することなく笑顔を見せた。流れるような手つきでドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を折って頭を下げる。
「ルーファス=ライアン前当主、お久しぶりです」
その挨拶に、ルーファスは言葉を返さなかった。ただ無言で二人の間を詰める。そして、何の前触れもなくレイチェルの顎を掴んで持ち上げると、蒼の双眸をじっと探るように見つめた。
「本当に面白い……」
レイチェルはきょとんとして瞬きをした。その意味を尋ねかけるように、大きな瞳でルーファスを見つめ返す。彼の口もとの皺が少しだけ吊り上がった。
「何も案ずることなく嫁ぐが良い。ラグランジェ家のことは、すべてサイファが取り仕切る。おまえは子を生めばそれで良い」
「……はい」
ルーファスがなぜそのようなことを言うのか、レイチェルにはわからなかった。しかし、その内容については理解はできる。不思議に思いながらも、彼の瞳から目をそらすことなく肯定の返事をした。
「どのような奇跡が起きるか楽しみだな」
ルーファスは低い声でそう言うと、鼻を鳴らして意味ありげに含み笑いをした。
「ルーファス=ライアン前当主、あまりレイチェルを怖がらせないでいただけますか」
サイファはすっと歩み出て言う。恭しく丁寧な口調ではあるが、抑えきれない反感のようなものが滲んでいた。その表情も、目だけは笑っていない。
ルーファスはサイファを冷たく一瞥した。
「怖がってなどいないだろう。この子はおまえより肝が据わっておる」
なおもレイチェルを見つめつつ、どこか愉しげに口の端を上げてそんなことを言う。そして、ようやくレイチェルの顎から手を離すと、近くのテーブルにあったカクテルグラスをその手に取った。それを高々と掲げ、大きく声を張る。
「皆の者、こちらに注目してくれ」
大広間にいたほとんどの人間が会話を止め、ルビー色のカクテル、もしくはルーファス自身に注視した。
ルーファスはマイクもなしに、大広間の隅にまで声を響かせる。
「皆も知っておろうが、次期当主のサイファ=ヴァルデと、その婚約者レイチェル=エアリだ。いずれはこの二人がラグランジェ家を背負って立つことになる。その暁には、皆も手を貸し、共にラグランジェ家を盛り上げていってほしい」
パラパラと拍手が起こる。それが呼び水となり、大きな拍手が沸き起こった。
皆がサイファとレイチェルに注目している。
レイチェルはドレスを持ち上げ、軽く膝を曲げた。隣のサイファも頭を下げて、深く一礼する。それから二人は横目で視線を合わせると、安堵したように小さくそっと笑い合った。
パーティは穏やかな歓談の時間に移った。
レイチェルはベランダの隅で一人ひっそりと座っている。
サイファや両親たちは、大広間の中央付近で多くの人と挨拶を交わしていた。まだ子供のレイチェルには、彼らの話は理解できないことが多い。一緒にいても会話に参加できず、気を遣わせるだけである。邪魔だけはしたくないと思い、ここにいることを選んだのだ。
空は次第に暗くなっていく。地平近くのオレンジ色も、間もなく消えようとしていた。対照的に、大広間はますます煌びやかに光量を増しているように見えた。
「本当に本家に嫁ぐつもりなのかしら」
不意に耳に届いた攻撃的な声。
レイチェルは反射的に振り向いた。少し離れたところに三人の女性がいる。その中央がサイファの元婚約者候補のユリアである。すらりと背が高く、ひときわ目を引く美人だ。レイチェルと視線がぶつかると、嘲笑するように口の端を吊り上げる。あたりは暗くなりかけていたが、濃い口紅を引いた唇は、嫌でもはっきりと識別できた。
両隣の二人も、レイチェルに横目を流しながらユリアに同調する。
「ルーファスおじさまも、どういうわけかレイチェルにだけは甘いのよね」
「所詮は男ってことよ。たいていの男は、ああいう従順そうな子に弱いの」
「以前のおじさまは才能のある子にしか目をかけなかったはずなのに……」
「あの人もそろそろ耄碌してきたってことかもね」
「聞こえるわよ」
ユリアが口先だけで窘めると、他の二人は口を軽く押さえて笑い合った。
レイチェルはなるべく気にしないようにした。白いテーブルに手を置いて空を見上げる。少し冷たさを増した風が、桜色の頬から熱をさらい、細い髪をさらさらと揺らした。
「何よあれ、すました顔しちゃって」
「黙っていれば本家に入れるものね」
二人は腹立たしげに語気を強めた。眉をひそめてレイチェルを睨む。
「図々しいのは今に始まったことじゃないわ。あなたはそんな器じゃないって何度も教えてあげたのに、一向に身を引こうとしないんだもの」
ユリアは豊かな巻き髪を後ろに払いながら、冷ややかに言う。
「頭に来るわね。どうしてあんな子が本家に嫁ぐの?」
「ラグランジェ家の未来はどうなってしまうのかしら」
二人は遠巻きにレイチェルを眺めながら、わざとらしい抑揚をつけて、ネチネチと責めるように言った。
「レイチェル、探したよ」
幼いながらも立派に盛装したレオナルドが、ジュースの入ったグラスを両手に持ってやってきた。彼はレイチェルの隣家に住んでいる少年である。ときどき庭などで一緒に遊ぶような関係だ。彼はレイチェルの隣の椅子に座ると、グラスのひとつを差し出しながら言う。
「あんなババァたちの言うことなんか気にするなよ。レイチェルが可愛いから妬んでるだけなんだぜ。みっともないよな」
「バ、ババァっ……?!」
「子供の言うことなんだから放っておきなさいよ」
裏返った声を上げて顔を真っ赤にする友人を、ユリアは冷めた口調で宥めた。容姿端麗を自負する彼女にとっては、そんな言葉は気に掛けるにも値しないものだったのだろう。
レイチェルは少し困惑したように微笑みながら、首を傾げてレオナルドを覗き込む。
「レオナルド、お母さんとお父さんはどうしたの?」
「あんまり子供扱いするなよな。一人でもいられるよ」
レオナルドはツンとすましてそう言うと、急にパッと顔を輝かせて振り向いた。机に肘をついて身を乗り出す。細くて柔らかい髪がふわりと風をはらんだ。
「それよりレイチェル、大事な話があるんだ」
「なあに?」
レイチェルは少し目を大きくして尋ねる。
レオナルドはその目をまっすぐに見つめ返して言う。
「計算してみたんだけどさ、僕が18歳のとき、レイチェルは26歳なんだ」
「足し算ができるようになったのね」
「そんなの前からできるよっ!」
優しく微笑むレイチェルに、レオナルドは顔を紅潮させながら必死に言い返した。眉根を寄せて口をとがらせ、小さな声で言葉をつなぐ。
「そうじゃなくてさ……そんなに悪くないだろう?」
「え?」
レイチェルにはその意味がわからなかった。しかしレオナルドは考える間も与えず、一方的に話を進めていく。
「だから、待っていてほしいんだ」
「何を……?」
レオナルドはテーブルにのせていたレイチェルの両手をとった。小さな手でぎゅっと挟むように握りしめる。そして、まだあどけない顔を凛と引き締め、真剣な眼差しを向けて言う。
「僕と結婚しよう」
それはあまりにも予想外な言葉だった。レイチェルは目をぱちくりさせて言う。
「私はサイファと結婚するのよ?」
「あんなヤツとじゃ幸せになれない! 僕なら絶対にこんな思いはさせない!」
レオナルドは身を乗り出してひたむきに訴えた。レイチェルの両手を握る手に力を込める。そして、小さな口をきゅっと結ぶと、澄んだ青の瞳を微かに揺らした。
レイチェルは柔らかく表情を緩めた。
「心配してくれているのね。ありがとう、でも大丈夫だから」
「あいつに言いづらいんだったら僕がきっちり断ってきてやるよ。だから僕と結婚しよう。一生レイチェルのことを守る。絶対に幸せにするって誓うから」
熱く、強く、真摯に畳み掛けられる言葉。しかし、それを言い終わるか終わらないかのところで、背後から彼の頭に拳骨が落とされた。
「イタッ!」
「まったくこの子は! 次期当主の婚約者にプロポーズ? 何を考えているの?!」
それはレオナルドの母親だった。腰に両手をあて、眉を吊り上げながら叱りつける。優美で上品なドレスを着ているが、その行動は普段どおりで容赦がない。
しかし、レオナルドも簡単には引かなかった。反抗的な目を向けて言い返す。
「僕は真剣だ!」
しかし、母親は無言でレオナルドの頭をはたくと、口をふさいで小さな体を抱え上げた。手足をジタバタさせる息子を睨みつけてから、呆然とするレイチェルに向き直り、思いきり愛想笑いを浮かべる。
「ごめんなさいねレイチェル。気を悪くしないで。子供の戯れ言だと思って許してやってもらえないかしら。この子には私がきつくお灸を据えておくから」
「え……ええ……」
早口で捲し立てるその勢いに圧倒され、レイチェルは困惑ぎみに返事をした。そして、息子を抱えたまま逃げるように去っていく彼女を見送りながら、いまだに無駄な抵抗を続けるその息子の身を案じて、胸元で祈るように手を組み合わせた。
「レオナルドの求婚、受ければいいんじゃないの?」
離れたところから様子を窺っていたユリアは、レオナルドとその母親がいなくなると、レイチェルのもとへツカツカと足を進めて言い放った。腕を組みながら顎を上げ、蔑むように見下ろす。
「あなたにはそれがお似合いだわ」
しかし、レイチェルは何も答えることなく、ただ曖昧に微笑むだけだった。
その態度がユリアの癪に障ったのだろう。彼女の表情が一気に険しくなった。あからさまな苛立ちと憎しみがその瞳にこもっている。
「来なさい」
有無を言わさぬ口調で命令すると、レイチェルの手を引いて無理やり椅子から立ち上がらせた。その手をしっかりと捕まえたまま、大きな足どりで大広間の方へ歩き出す。レイチェルはよろけながらも、何とか小走りでついていった。
「待っていて」
大広間の中央まで来ると、ユリアはそう告げて手を放した。そして、近くで談笑していたリカルドのもとへ駆けていき、華やかな笑顔を作って声を掛ける。
「リカルドおじさま」
「やあ、ユリア」
リカルドはグラスを掲げて陽気に応えた。普段よりも気分が高揚しているようだ。顔も少し赤らんでいる。酔いがまわってきているのだろう。
「存分に楽しんでいるかい?」
「ええ、でも少し退屈してしまって……」
ユリアはそう答えると、笑顔のまま肩を竦めて見せる。
「だから、ちょっとだけ地下の訓練場を借りたいの」
「え? 今かい?」
リカルドは面食らったように尋ね返した。
ユリアがまだ婚約者候補だった頃は、本家の訓練場を借りることも度々あった。それゆえ彼女の希望自体はおかしいとはいえない。だが、パーティ中ということを考慮すれば、明らかに不自然な行為である。いくら退屈したといっても、パーティの途中で魔導の訓練など、普通はしないのだ。
しかし、怪訝な顔を向けられても、ユリアが動揺を見せることはなかった。下手な言い訳をすることなく、ただ少女のように小首を傾げながら、上目遣いで甘えるように見つめて言う。
「ダメ?」
「まあ、構わないよ」
リカルドは小さく笑いながら了承した。酔っていて気が大きくなっているのか、頭の働きが鈍くなっているのか、目的も理由も尋ねることはなかった。ポケットからキーホルダーを取り出すと、その中の一つを外してユリアに渡す。
「はい、じゃあこれ」
「ありがとう、おじさま」
差し出された鍵を、ユリアは両手で受け取り、胸元で握りしめて微笑んだ。それから、にこやかに会釈をすると、豊かな巻き毛を揺らしながら、レイチェルのところへ戻ってくる。
そのときのユリアの顔からは、すっかり笑みが消え失せていた。
レイチェルは言い知れぬ恐怖を感じて息を呑んだ。
「訓練場で何をするの?」
「あなたがどれだけ成長したか見てあげる」
ユリアは感情のない声で答えながら、レイチェルの手を取って歩き出そうとする。だが、レイチェルは素直には従わなかった。少しだけ手を引き戻して抵抗を見せる。
「そんなこと……」
「いいから来なさい」
ユリアに強く手を引っ張られ、レイチェルは前につんのめりながら足を進めた。慌てて後ろを振り返り、縋るように目を走らせる。そして、何人かと話をしているサイファを視界の隅に捉えた。
――サイファ、助けて!
そう声の限りに叫びたかった。しかし、彼の邪魔をしてはいけないという思いが、彼女の行動をギリギリのところで押しとどめる。きつく目をつむり、胸を押さえつけ、その衝動をぐっと飲み込んだ。
レイチェルはこれまで本家の訓練場には入ったことがなかった。
こわごわと遠慮がちにあたりを見まわす。
彼女の家の訓練場よりも数倍は広そうである。しかし、ただ広いだけであり、特に立派ということはなかった。むしろ、ところどころ壁に亀裂が入っていたりして、かなり古びているような印象を受けた。
「あなた、あのラウルに師事しているそうじゃない。もしかしたら、隠れた才能でも開花したのかしらと思ってね」
ユリアは右手を腰に当てて振り返った。彼女がそんなことを微塵も思っていないということは、その棘のある口調からも明らかである。レイチェルでも理解できるくらいの露骨な皮肉だ。
「ラウルにはお勉強を教えてもらっているだけ。魔導は教わっていないわ」
「どうせやりたくないって我が侭を言っただけでしょう」
図星を指されたレイチェルは、何も言い返すことが出来ずにうつむいた。
「まあいいわ。ちょうど試したいことがあるのよ。袖を両方とも捲りなさい」
「袖……? どうして?」
「その綺麗なドレスを破りたくないでしょう?」
ユリアはそう言うと、口もとを斜めにし、凄みのある冷笑を浮かべた。
レイチェルは胸元で両手を重ね合わせて身震いする。怖かった。極度の不安に押し潰されそうになる。しかし、頼れる人はここにはいない。自分ひとりでこの場を切り抜けなければならないのだ。
少し考えを巡らせたのち、命令のままに袖を捲り始める。
このドレスはシンシアがわざわざ自分のために用意してくれたものだ。何ヶ月も前から張り切って準備をしていたと聞いている。そんな気持ちのこもったものを傷つけるわけにはいかない。そして、あれほど嬉しそうにしていた彼女を落胆させたくなかった。
ドレスはタイトに作られているため、袖を捲ることすらきつい。だが、なんとか肘のあたりまで引っ張り上げると、広がった袖口をそこでまとめた。白く細い腕が半分ほど露わになる。
「後ろで手の甲を合わせなさい」
ユリアが何をするつもりなのか想像もつかず、不安は募る一方だった。だが、もう逃げることはできない。観念して従うほかはなかった。
そっとユリアに振り向いて様子を窺う。
彼女は無表情で両手を向かい合わせていた。そして、呟くような声で呪文を唱え始める。両手の間に白い光が生じた。その両手を大きく引き離すと、光は細い紐のように形を変える。後ろで合わされたレイチェルの手首に、それを幾重にも巻きつけた。
「いっ……」
思わず引きつった声が漏れる。
手首に巻きつけられた光の紐は、素肌に擦れて焼けるような痛みを与えた。無理な力がかかった肩と腕にも、違う種類の痛みが走る。
ユリアは冷たく見下ろし、真紅の唇に満足げな笑みをのせた。
「それはね、魔導師の動きを封じるためのものよ。魔導省でも罪人を拘束するために使われているわ。普通の縄や手錠では簡単に壊されてしまうものね。簡単には解除できないわよ。あなた程度の魔導力や知識では確実に無理ね」
外そうとして手をずらしてもビクともしない。ただ食い込むだけである。それでも諦めることなく、痛みに耐えながらもがき続ける。
「きゃあ!」
そうこうしているうちに、うっかりドレスの裾を踏んで転んでしまった。手をつくこともできず、肩から倒れ込み、床に頭を打ちつけた。小さなうめき声を上げて身を捩る。何とか起き上がろうとするものの、手が拘束されて使えないうえに、裾の長いドレスが邪魔をして、どうにも思うようにならなかった。
「なんてみっともない格好なのかしら」
ユリアは芝居がかった口調で嘲笑する。
薄汚れた埃だらけの床に、金色の長い髪と白いドレスを乱れさせたまま、レイチェルは苦しげに肩で息をしていた。顔にかかる髪を払うことも、膝上まで捲れあがったドレスを戻すこともできない。ユリアの言うように、本当にみっともない格好になっているのだと自覚した。
「その拘束を破ることができたら、あなたを認めてあげてもいいわよ」
「ユリアに認められる必要はないわ」
実際、ユリアには何の権限もなかった。本家の婚約に口を挟む立場にはなく、意見を届けるだけの力も持ち合わせていない。ただ個人の感情のみで、勝手に動いているだけだった。
痛いところをつかれたユリアは、カッと頭に血を上らせる。
「生意気なのよ!!」
「ああっ!!」
縛られた手首からのびる光の紐を、ユリアが勢いに任せて引くと、レイチェルは体を弓なりに反らせて甲高い悲鳴を上げた。
「いくら声をあげても誰にも届かないわよ」
「う……ぅ……」
ユリアが愉快そうに送った忠告の言葉は、レイチェルの耳にはほとんど届いていない。彼女は痛みに耐えることで精一杯だった。背中を丸めて眉を寄せながら、額に汗を滲ませている。
「ねぇ、わかる? みんな言い出せないだけなの。あなたみたいな出来損ないは本家当主の妻に相応しくないって。サイファだって本心ではそう思っているのよ」
「私は、サイファの口から聞いたことしか信じない」
苦しげに目を細めながらも、気丈にはっきりとした口調で言う。
ユリアの顔に苛立ちが広がった。
「だからサイファは言い出せないの。思っていても口に出せないの。優しい人だものね。サイファのことを思うなら、それを察して自ら身を引くべきなのよ」
「私はサイファの言うことだけを信じる」
レイチェルは揺らぐことなく同じ内容を繰り返した。
「バカと話をすると疲れるわ」
ユリアは腰に両手を当て、わざとらしく溜息をついた。床に倒れ込んでいるレイチェルの傍らにしゃがむと、彼女の顔を覆う金髪を乱雑に払った。
「わかりやすく説明してあげる。いい? ラグランジェ家は魔導がすべてなの。特に本家は優秀な血筋を繋げることで、その権威を保ってきた、いえ、より強力なものにしていったわ。その二千年近くにわたって積み上げてきたものを、あなたが台無しにしようとしているの。あなたの出来損ないの血が、本家の血筋に混じってしまうのよ」
「それでも私はサイファに従う」
レイチェルは頭上のユリアには目を向けず、ただまっすぐに何もない正面を見据えて言う。
「いい加減にしなさい!」
「きゃぁっ!」
バチンという音とともに、頬に熱い痛みが走った。ユリアが思いきり手を振り上げて叩いたのだ。それでも彼女は満足していないようだった。睨みを利かせながら立ち上がると、奥歯を強く噛みしめて腕を組む。
「本当に強情な子ね……。いい加減に認めなさいよ、自分は本家当主の妻に相応しくないって。そうしたら拘束を解いてあげる」
レイチェルの目にうっすらと涙が滲んだ。
叩かれた頬がジンジンと疼く。後ろで縛られた手首も焼けるように痛い。
でも、誰も助けに来ないのだ。
自分ひとりで何とかしなければならない。何とかしなければ――。
そう思うものの、レイチェルに巧みな対処など考えつくはずもなかった。このような格好では魔導すら使えない。何とかして引きちぎろうとするだけである。食い込むような激しい痛みを感じたが、それでも中断することなく力を込め続けた。こぶしを強く握りしめる。肩と腕が小刻みに震えた。額からは汗が噴き出し、床に滴り落ちて染みを作った。
その姿を見下ろしながら、ユリアは鼻先でせせら笑った。
「バカね、それは魔導の紐なのよ。力任せに引っ張ったってどうに……も……」
レイチェルの拘束された手首のあたりから、ぼんやりとした青白い光が発せられた。それを目にしたユリアは、顔をこわばらせて一歩後ずさる。
「えっ? ……ちょっ……と……何なの? ……魔導?」
「く……うぅ……」
レイチェルがさらに力を込めると、その光はますます強さを増していく。彼女に魔導を使っているという意識はなかった。ただ必死にこの拘束から逃れようとしているだけである。
バチン、と何かが弾ける音が響いた。
彼女の手首を拘束していた魔導の紐がちぎれ、霧散するように消滅した。腕が解放され、くたりと床に投げ出される。そのままの格好で、レイチェルは肩を上下させて大きく呼吸をした。
「どうして、こんな…………あなた……」
困惑と驚愕の混じり合った声が、頭上から落とされる。
レイチェルは床に腕をつくと、ゆっくりと上体を起こした。頬にかかる髪を払うことなく、立ちつくしたユリアに強い眼差しを送る。それを受けた彼女の体がビクリと震えた。
「な……何よ、その目は? それがあなたの本性ってわけ?!」
「どうして……? こんなことをしても、ユリアが本家に入れるわけじゃないのに……」
ユリアはもう他の人と結婚している。いくらレイチェルを退けたところで、今となっては本家に嫁ぐことなど不可能なのだ。頭のいい彼女がそれをわかっていないとは思えない。
「それでも……それでもあなたが気に入らないのよ!!」
ユリアは感情を爆発させて叫んだ。レイチェルを睨みつける瞳がじわりと潤む。
「私は物心ついたときからずっと努力をしてきた。魔導も学問も教養も何もかも。シンシアのように、いえ、シンシア以上になれる自信はあった。私にとって、本家に嫁ぐことがすべてだったのよ。それなのに……あなたが生まれた、ただそれだけですべてが終わってしまったわ」
涙を含んだ声でそう言うと、眉根を寄せてうつむいた。
「それでも、あなたが本家当主の妻に相応しい立派な人間だったら諦めもついた。けれど、あなたはたいした魔導力を持たない出来損ない、そのうえ笑うしか能のないバカだった。許せるはずないじゃない! 生まれたときから何の努力もせずに何もかも手に入れて、幸せを約束されて……」
ユリアはそこで言葉を詰まらせた。体の横で握りしめたこぶしを小刻みに震わせている。
床にぽたりとひとしずくが落ちた。
レイチェルは大きく瞬きをして彼女を見上げた。ゆっくりと立ち上がる。遠慮がちに歩み寄ると、胸元で両手を組み合わせて困惑したように言う。
「ユリアだって今は幸せでしょう? 結婚して子供も生まれて……」
「幸せなんかじゃない!!」
ユリアは金切り声を上げてレイチェルの頬をひっぱたいた。よろけて床に倒れ伏す彼女に、さらに呪文を唱えて魔導を仕掛ける。
「きゃあ!!」
レイチェルは頭を抱えて身を丸めた。
光の矢が彼女に降り注ぐ。
だが、その矢はすべてギリギリで彼女を避けて床に落ちた。
「呆れた、結界すら張れないなんて」
ユリアは乱暴に涙の跡を拭い、吐き捨てるようにそう言うと、レイチェルを残して訓練場を出て行った。憎々しげに打ち鳴らされるヒールの音は、次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
レイチェルは洗面台の前に立ち、正面の鏡を見つめた。
落ちそうになっていた髪飾りは、いったん外してから付け直した。床に擦れてついた顔や手の汚れは、洗面台で洗って落とした。叩かれて赤くなっていた頬も、流水で冷やしてほとんど元通りになっている。
ドレスの汚れは何度も叩いて払ったが、完全には落とせなかった。遠目にはわからないくらいではあるが、近づけばくすんだような灰色の汚れが見えてしまう。ただ、汚れているのは主に側面であるため、多少は目に付きにくいかもしれない。気づかれないことを祈るしかない。
一番の問題は手首の傷だ。
強く擦れたような赤い跡が何本も走り、ところどころ血も滲んでいた。
水道の蛇口をひねって洗い流す。
傷口に水が沁みて痛かった。思わず顔をしかめるが、それでも我慢して続ける。血はもう止まっているようだ。ドレスを汚す心配はないと判断し、ハンカチで拭いてからその袖を戻した。幸いにも袖は長い。気をつけていれば隠し通せるだろうと思う。
早く戻らなければ、いないことに気づかれてしまう――。
レイチェルは洗面台に手をつき、鏡の中の自分を真剣な眼差しで見つめた。そして、ゆっくりと深呼吸して、ゆっくりと瞬きをすると、鏡に向かって笑顔を作ってみせた。
――レイチェル、どこへ行ったんだろう。
サイファはあたりを見回しながら歩いていた。一通り大広間の中は探したはずだが、レイチェルの姿を見つけることはできなかった。どこかで見逃してしまったのだろうか。それともすれ違ってしまったのだろうか。
レイチェルと離れている歓談中であっても、彼女が助けを呼べば駆けつけられるように、また、彼女に対して行きすぎた行為があれば止められるように、気を配りつつ備えてきたつもりである。
だが、サイファにも本家の人間としての役割があり、ずっと彼女だけを見守り続けることはできない。しばらく目を離している間に見失ってしまったのだ。最後に見たのはレオナルドと何かを話していたところである。しかし、今、レオナルドは母親と一緒にいる。
「サイファ」
不意に後ろから声を掛けられ振り返る。そこにいたのは、今まさに探していたレイチェルだった。彼女のいつもと変わらない笑顔を目にすると、ほっと安堵の息をつく。
「良かった、姿が見えないから心配したよ」
レイチェルは後ろで手を組み、小さくくすっと笑った。
「ごめんなさい。外の空気を吸ってきたの」
「ここは息が詰まるよね」
サイファは肩を竦めて同調した。彼女がこういう場が苦手であることは知っている。気分転換になるのであれば、そしてきちんと戻ってくるのであれば、少しの間くらい外に出るのも悪くないだろう。
安心させるように微笑みかけたあとで、何気なく視線を落とすと、彼女のドレスがうっすらと汚れていることに気がついた。はっきりとわかるものではないが、埃をかぶったように薄く灰色になっている。
「そこ、どうしたの? 汚れてるみたいだけど」
「あ……さっき少し転んでしまったから……」
そう答えるレイチェルの顔には、微かな動揺の色が浮かんでいた。しかし、後ろで手を組んだまま小さく肩を竦めると、すぐににっこりと笑顔を浮かべて取り繕った。
もうすっかり普段の表情だ。
しかし、サイファは先ほどの小さな動揺を見過ごさなかった。
「もしかしてどこか怪我したんじゃないの?」
「大丈夫……あっ……」
彼女の返答を待つことなく、優しく力を込めて手首を掴み、後ろで組まれていた手をほどいた。そして、戸惑う華奢な指先を掴まえると、広がったレースの袖口を持ち上げて中を覗き込む。
傷は思わぬところにあった。手首に赤く擦れたような跡が何本も走っていたのだ。
サイファにはそれが何なのかすぐにわかった。
転んでできた傷などではない。拘束の呪文によるものだ。魔導省では一般的に使用されており、サイファも実際にそれで罪人を拘束したことは幾度となくある。そのため同じような傷は何度も目にしてきた。見間違うはずはない。
「転んだ……の?」
「ええ、転んだときにロープを引っかけてしまったの」
レイチェルは相手を庇っているのか、心配を掛けたくないのか、本当のことは隠し通すつもりのようだった。彼女は見かけによらず強情なところがある。聞き出すことは容易ではないだろう。なるべく無理強いはしたくない。彼女の意思を最大限に尊重し、それ以上の追及はしないことに決めた。
「おいで、手当てをしよう」
静かにそう言うと、彼女の肩を優しく抱きながら大広間を出た。
誰が、こんなことを――。
こっそりと背後の大広間に目を向ける。酔いがまわっている者も多く、そのせいか、騒々しいくらいの賑やかさだった。外部から冷めた目で見ているので、余計にそう感じるのかもしれない。皆、自分たちの会話に夢中で、サイファとレイチェルが出て行ったことには気づいていないようだ。こちらを窺っていたのは、たまたま近くにいた子供たち、そして、不安そうな顔のユリアくらいだった。
サイファはレイチェルを連れて階下の居間へと入っていった。本当は医者に診せた方がいいのだが、パーティ中であるため、あまり長く大広間を離れるわけにはいかない。とりあえずはここで応急処置をしようと考えたのである。
レイチェルを革張りのソファに座らせると、戸棚から木製の薬箱を取って戻り、彼女の隣に腰を下ろした。袖を捲り上げ、両方の手首を消毒し、傷薬を塗っていく。
「沁みる?」
「大丈夫よ」
レイチェルはにっこりとして答えた。
手当てを始めてから痛そうな顔は一度も見せていない。しかし、血が滲むくらいの傷である。沁みないわけはない。心配を掛けたくなくて我慢しているのだろう。こういうことに関しては、彼女はいつも極端なくらいに気を遣うのだ。
サイファは薬箱からガーゼと包帯を取り出した。傷を覆うようにガーゼをかぶせ、厚くならない程度に包帯を巻く。
ひらひらした長い袖口がすっぽりと隠してくれるので、手を上げない限り見えることはない。気をつけてさえいれば、誰にも悟られることはないだろうと思う。
だが、彼女の両親には伝えておかなければならない。
レイチェルは知られたくないだろうが、そういうわけにはいかないのだ。ただ、それを聞いたアルフォンスが極端な行動に出ないかが心配である。彼を落ち着かせて、釘を刺すことも必要になるかもしれない。
サイファは包帯の残りを片付けながら、感情を抑えた固い面持ちで口を開く。
「レイチェル、何かあったら言って……って言ったよね」
「ごめんなさい」
レイチェルはしゅんとして目を伏せた。その声の落ち込みように、サイファは少し驚いて顔を上げる。うつむく彼女を見つめながら、その頭にぽんと手をのせて表情を和らげた。
「怒っていないよ。でも、傷はちゃんと手当てしないといけないから」
「うん……」
レイチェルは視線を落としたまま、小さく頷きながら返事をする。
「僕の方こそごめんね。守ってあげられなくて」
「サイファは悪くないわ。私が勝手に転んだだけだから」
申し訳なさそうに詫びるサイファに、レイチェルは首を横に振りながら慌てて力説する。その傷がどういうものかわかっている、と暗にほのめかしたサイファを牽制する意味もあったのかもしれない。どうあっても転んだことにしたいようだ。
サイファは無言で微笑んだ。彼女の肩に手をまわして引き寄せると、心地よい重みを感じながら、天井を見上げて目を細めた。
「……そろそろ戻ろうか」
「サイファ、手当てしてくれてありがとう」
にこりとして感謝を述べるレイチェルに、サイファは優しく微笑みを返した。
彼女をもうパーティに戻したくない。
出来ればずっと二人でここにいたい。
無防備な彼女の笑顔を見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。だが、それは許されないことなのだ。逃げ出すわけにはいかないのである。叶わない願いを振り切るように立ち上がると、ソファに座るレイチェルに手を差し伸べた。
大広間ではまだパーティが続いていた。
レイチェルとともに戻ったサイファは、軽く見まわしてあたりを窺う。取り立てて変わった様子はない。ただ、扉付近にいたユリアだけが不自然にこちらを気にしていた。サイファと目が合うと、慌てて視線を逸らせ、逃げるように背を向けて歩いていく。豊かな金色の巻き毛が背中で上下に揺れていた。
「おい、おまえっ!」
幼い声が偉そうに割り込む。声の方へ視線を下げると、口をへの字に曲げて腰に両手を当てたレオナルドが仁王立ちしていた。もっとも小さいので迫力は全くない。
「レイチェルを連れ出して何してたんだよ。婚約者だからって好き勝手するなよな!」
そう噛み付いてくる彼を、サイファは値踏みするようにじっと見つめた。使えるかもしれないと思う。どれだけ頼りになるかわからないが、一人にさせるよりはましだろう。
「レオナルド、レイチェルを頼む」
「えっ?」
「僕が戻るまで一緒にいてやってくれ」
「じゃあもう二度と戻ってくるなよな」
レオナルドは小生意気に腕を組んで言い返した。サイファは呆れたように冷たい視線を向けると、ゆっくりと手を伸ばし、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「痛いな! 何するんだ!」
「頼んだぞ」
静かな低い声で念押しすると、レオナルドはビクリとして口をつぐんだ。しかし目だけは反抗したままで、悔しそうにサイファを睨みつけている。それでもレイチェルに好意を寄せる彼ならば、その傍にいることを選ぶに違いない。
「レイチェル、ごめんね。ここでレオナルドと少し待っていて」
今度はレイチェルに振り向くと、先ほどとは別人のような柔らかい声で言う。
彼女は何か言いたそうにしていた。サイファが何をしようとしているのか不安に思っているのだろう。もしかすると何か察しているのかもしれない。だが、結局は何も言えず、ただ硬い面持ちでこくりと頷くだけだった。
そんな彼女を安心させるように、サイファは優しく微笑みかけた。
それでも彼女の表情は変わらない。
しかし、だからこそ行かなければならないのだ。もう二度とこんなことが起こらないように、いや、起こさせないために――。
サイファは二人をその場に残し、煌びやかな光の中に足を進めていった。
「お久しぶりです、ユリア=イリーナ」
サイファが背後から声を掛けると、彼女は剥き出しの肩をビクリと震わせた。豊かな巻き毛を揺らしながら、ゆっくりと振り返る。その顔にはぎこちない笑みが張り付いていた。
「サイファ……何か用かしら」
「随分と冷たいんですね。昔とは大違いだ」
サイファは意味ありげにそう言うと、口の端を上げて挑発的な視線を送る。
ユリアは露骨に眉をひそめると、語気を強めて尋ね返す。
「何なの?」
「外で話をしませんか?」
サイファはにこやかに笑顔を浮かべた。それでもユリアは警戒の色を弱めない。むしろ強めているようだった。顎を引いて上目遣いで睨みつける。
「あなたとする話なんて何もないわ」
「僕の方はあるんですよ。付き合っていただきます」
丁寧ではあるものの、その言葉には有無を言わさぬ強さがあった。
ユリアは忌々しげに顔をしかめて目を伏せると、仕方なくといった様子で、先行するサイファについて歩き出した。
サイファはユリアとともに屋敷の外に出ると、庭の方へとまわった。
開けた視界に空が広がる。
そこはすっかり夜の色に塗り替えられていた。無数の星がキラキラと瞬き、時折、すっと降るように流れていく。これほど幻想的な光景はそうあるものではない。
レイチェルと一緒にこの星空を眺められたら、どれほど幸せだろう――。
しかし今のサイファにはやるべきことがある。気を引き締めなければならない。そのささやかな夢に思いを巡らせるのは、この障害を取り除いたあとにしようと心に決めた。
サイファは無言のまま歩き続けた。
ユリアも何も言わずについてくる。耳に届くのは芝生を踏みしめる音だけだ。しかし、やがて沈黙の圧力に耐えきれなくなったのか、少しうわずった声で話を切り出した。
「ねぇ、レイチェルに何を言われたか知らないけれど、そのまま鵜呑みにするのはどうかと思うわ。甘やかしすぎていないかしら」
サイファは足を止めた。背を向けたままで静かに尋ねる。
「レイチェルが何を言ったと思っているんですか?」
「そんなの知らないわよ!」
ユリアは苛立ったように声を荒げた。
「そのわりには、随分、怯えているようですけど」
「そんなの当たり前でしょう? あなたは私よりレイチェルの言うことを信じるんだもの。特に今はあの子が傷を負っているから、あなたは冷静じゃないはずだわ」
「どうしてレイチェルが負傷したことを知っているんですか?」
「……えっ?」
サイファはゆっくりと振り返った。冷や汗を滲ませるユリアを正面から見据えて言う。
「彼女の傷はドレスに隠れて見えない。そして、彼女は戻ってきてから僕としか話をしていない。つまり、僕以外で知っているのはただ一人――犯人だけ、ということになります」
その決定的な一言に、ユリアは大きく目を見張った。慌てて口を開くものの、何も言葉は出てこない。もはやどんな言い訳をしても無駄だと気づいたのだろう。悔しそうに顔を歪ませてうなだれると、喉の奥から声を絞り出す。
「きつく、口止めしておくんだったわ」
「レイチェルは何も言ってないですよ」
「え?」
ユリアは僅かに視線を上げて怪訝に聞き返した。
サイファは腰に右手を置き、目を細めて大広間の方を仰ぎ見る。
「あなたの名前なんて一言も出していない。ただ転んで紐を引っかけてしまったと」
「じゃあ、どうして……」
形の良いサイファの唇に不敵な笑みが乗った。
「僕の勤務先をお忘れですか? 彼女の手首の傷――あれが何で出来た傷かくらいわかります。あの呪文が使える人間となると、ラグランジェ家の中でもそれほど多くはないでしょう。ユリア、あなたは僕たちの方を何度も不安そうに窺っていましたよ。意外と小心者なんですね」
「だったら何よ!」
ユリアは逆上して叫んだ。しかし、自分を射抜くような、その冷たく燃えたぎる青の瞳を目にすると、大きく息を呑んで口を閉ざした。
サイファはゆっくりと唇を動かし、重みのある声を落とす。
「いま、僕ははらわたが煮えくり返っている。あなたに報復をしなければ気がすまない。気がふれるほどの痛みと恐怖と浴びせ、肉体も精神もズタズタに壊してやりたい――」
彼女の顔から一気に血の気が引いた。表情を引きつらせ、震える足で小さく後ずさる。
「安心してください。何もしませんよ。そう思っているのは事実ですけどね」
サイファは軽い口調でさらりと付言する。
「なぜ、それをしないかおわかりですか?」
ユリアは黙ったまま何も答えなかった。答えられなかったのだろう。今の彼女は論理的に物事を考えられる状態ではない。弱く揺れる瞳で疑問を返すことが精一杯である。
サイファは無表情で彼女を見つめて答える。
「レイチェルが望んでいないから」
彼にとってはそれがすべてだった。ユリアに対する同情や配慮の気持ちは欠片もない。自分の立場でさえどうでもいいと思うほどに強い憤りを感じていた。だが、そんな感情のままに行動してしまえば、レイチェルは自分を責め苛むだろう。彼女を苦しめるようなことはしたくない。
「しかし、次にこのようなことがあれば、忠告だけで済ますつもりはありません。それと悟られないような、間接的な報復をするつもりです」
「どういう……こと……?」
「分家の一つや二つ、何か理由をつけて潰すことは可能でしょう」
ユリアは目を見開いて息を呑んだ。
ラグランジェ家に執着し、極端に世間体を気にする彼女にとっては、これほど恐ろしいことはないだろう。だからこそ、あえてそれを選んだのだ。もちろん単なるはったりではない。忠告を無視するようなことがあれば、あらゆる手段を行使して実行に移すつもりである。
サイファはまっすぐ彼女の方へ足を進めた。近づいても足を止めず、腕がぶつかりそうなくらいの近さですれ違う。その瞬間、前を向いたまま重い声を落とす。
「あなたは僕に勝てない」
それはとどめを刺す言葉だった。
サイファは呆然と立ちつくす彼女を庭に残し、振り返ることなく屋敷の中へ戻っていった。
「ただいま」
サイファはパーティの続く大広間に戻ると、扉付近で待ち構えていたレイチェルに、屈託のない笑顔を見せてそう言った。それでも彼女は心配そうな表情を崩さない。胸元で両手を組み合わせ、揺れる瞳でサイファを見つめる。
「サイファ……」
「おまえやっぱり最低だな! 婚約者をほったらかして他の女とデートなんて!」
レイチェルを守るように飛び出したレオナルドが、こぶしを握りしめて喚き立てる。レイチェルを思ってのことだろうが、彼女が心配しているのはそんなことではない。彼の根本的な勘違いである。
サイファは疲れたような冷めた目で見下ろすと、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「いてっ!」
レオナルドは額を押さえて、恨めしそうに涙目でサイファを睨む。しかし、サイファはすでに彼の方を見ていなかった。レイチェルの頭に手をのせ、覗き込みながら言う。
「ひとりにしてごめんね。寂しかった?」
「ユリアは……?」
「もう少し外の空気を吸いたいってさ」
「…………」
レイチェルは何か言いたそうにしている。ユリアに何か仕返しをしたのではないかと心配しているのだろう。ユリアと一緒に帰ってこなかったことが、余計にその不安を煽っているのだ。サイファの嘘も少し白々しかったのかもしれない。
「彼女にはちょっと注意しただけだよ。信じてくれる?」
レイチェルはしばらく考えていたが、やがてこくりと頷いて微かな笑顔を浮かべた。
サイファはそっと腕を伸ばして彼女を抱きしめた。細い髪がふわりと舞い、ほのかに甘い匂いが立ち上る。そのほっとするような匂いに、痛いほど胸が締めつけられた。目を細めて、腕の中の少女に視線を落とす。
彼女の体は小さくて柔らかい。強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。
そんな彼女が、ひとりで大変なことを抱え込もうとしていたのである。具体的に何があったのかは聞いてないが、気性の激しいユリアのことだ。無抵抗のレイチェルに対して言いたい放題に責め立てたり、拘束の呪文でいたぶったりしたのだろう。多少の嫌味くらいならともかく、体に傷までつけられては放っておけるはずがない。
「レイチェル……もう少しでいいから僕を頼ってくれないかな。まだまだ頼りないかもしれないけれど、精一杯、力になれるように努力するから」
「……私、迷惑じゃない?」
弱々しくぽつりと言うレイチェルに、サイファはすぐに答えを返す。
「少しも迷惑じゃないよ。君に頼ってもらえることが嬉しいんだ」
「でも…………、ん……わかったわ、ありがとう」
レイチェルは戸惑ったように口ごもりながらも、ようやくそう返事をすると、顔を上げてにっこりと笑顔を見せた。
サイファはその柔らかな頬にそっと触れる。
彼女はまだ完全には納得していないのだろう。だが、今は形だけでも構わなかった。自分を頼ってくれることさえ約束してくれれば、とりあえずは彼女を守ることができるのだ。
しかし、いつまでもこのままではいけない。
彼女が遠慮なく頼ることのできる人間にならなければ――。
その決意を深く心に刻みつける。単なる意地ではない。彼女に認められたいという気持ちも確かにあるが、それよりも、彼女を幸せにするためにという考えの方が遥かに大きかった。
「レイチェル、もうすぐパーティが終わるけど、そのあとで少し時間を取れる?」
「ええ、お父さまに許可をもらえれば……どうしたの?」
首を傾げて尋ねるレイチェルに、サイファは柔らかく微笑みかける。
「今夜は星空がきれいなんだ。レイチェルと一緒に見たいと思ってね」
「本当? 楽しみだわ! じゃあ、お父さまに許可をもらってくるわね」
「待って」
離れていこうとしたレイチェルを、抱きしめる腕に力をこめて引き留める。彼女は不思議そうに顔を上げ、じっとサイファを見つめた。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
サイファは縋るように小さな彼女を抱きしめ、小さく呟くように言う。
彼女からの返事はなかった。だが、言葉の代わりに、背中にそっと手がまわされた。
その手はほんのりと温かく、柔らかく、そしてとても優しかった。
鈴を転がすような可憐な声で呼ばれ、サイファは二十枚ほどの皿を抱えたまま振り返った。声の主であるレイチェルが軽い足どりで駆け寄ってくるのが見える。彼女は嬉しそうに微笑んでいたが、サイファの抱えた皿を目にすると、急に顔を曇らせて声のトーンを落とした。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって……」
「気にしないで、大丈夫だから」
サイファは安心させるように陽気な笑顔を見せた。作業中で忙しいことは確かだが、しばらく休憩するくらいの余裕はあるのだ。近くのテーブルに皿を置いてから話を続ける。
「それよりレイチェルの方こそ準備はいいの?」
「私はドレスを着替えるだけだから」
レイチェルは後ろで手を組み、小さく肩を竦めてくすっと笑った。
ラグランジェ本家の三階にある大広間――。
今日はこの場所で、ラグランジェの本家と分家が一堂に会するパーティを開催することになっている。その準備で、朝から大勢の人がせわしなく行き交っていた。カジュアルな立食形式のパーティではあるのだが、それでも出席者が多いため、配置や段取りが何かと大変なのだ。
シンシアとリカルドは、全体を見ながら作業の指示を出していた。
その指示を受けて実際に作業しているのは、この日のために雇った外部の人間である。サイファもそこに加わって働いていた。それは、母親であるシンシアの昔からの方針である。本家の一人息子でも甘やかさず、出来ることはさせなければならないという考えだ。
「ごめんね」
不意に落とされた詫びの言葉。
それを耳にしたレイチェルは、えっ、と小さく聞き返した。聞き取れなかったわけではないだろう。その意味がわからなかったのだ。答えをせがむように、不思議そうな顔でじっと見つめている。
「レイチェルがこのパーティを苦手に思っていることはわかってるんだけど……」
サイファは腰に両手を当て、曖昧に微笑んで言葉を濁した。
それはわかっていてもどうにもできないことだった。本家次期当主の婚約者という立場である彼女を、特に理由もなく欠席させることはできない。そんなことをすれば、彼女だけでなく、父親のアルフォンスまでも咎められることになるだろう。
しかし、レイチェルは首を横に振ると、屈託のない笑顔で答える。
「サイファは何も悪くないわ。気にしないで、私なら大丈夫だから」
年端もいかない彼女の精一杯の気遣いに、サイファは小さく息をついて目を細めた。これでは立場が逆である。本来ならば、自分の方が安心させる言葉を掛けなければならないのだ。それにもかかわらず、心細いはずの彼女にこんなことを言わせてしまうなど、自分が情けなかった。
しかし、すぐに気を取り直すと、レイチェルを見つめて真摯に言う。
「もし何かあったら、どんな些細なことでも遠慮なく言ってね。君のことは必ず守る。僕はどんなときでもレイチェルの味方だから」
それは、子供の頃から今に至るまで、ずっと思ってきたことである。彼女はかけがえのない大切な存在であり、守りたいというのはごく自然な願いだった。
だが、それだけではない。
本家次期当主の婚約者ということで、彼女は受けなくてもいいはずの謗りを受けている。自分のせいでつらい思いをさせているのだ。だから、自分には彼女を守る義務があるとも考えていた。
「ありがとう」
レイチェルはそう答えて愛らしく微笑む。
彼女はサイファの深い思いなど何も知らないのかもしれない。それでもサイファは構わなかった。あえて伝えようとは考えていない。この笑顔を自分に向けてくれる――ただそれだけで十分だった。
「あら、レイチェル、来ていたの?」
レイチェルの存在に気づいたシンシアが、そう声を掛けて足早に歩み寄ってきた。普段はロングドレスを身に着けていることが多いが、今は作業中のため、シンプルなブラウスと膝丈のタイトスカートという動きやすい格好をしていた。しなやかに流れる長い金髪も、後ろで一本に束ねられている。
「こんにちは」
レイチェルが甘い声で挨拶をすると、シンシアはネジが弛んだように顔を綻ばせた。
「ちょうど良かったわ。そろそろ持って行こうと思っていたところだったのよ」
「持って行く……?」
レイチェルはきょとんとして首を傾げ、そのまま不思議そうに瞬きをする。
そんな彼女の様子が可愛らしくて、サイファは思わず口もとに笑みを漏らした。
「アリスから聞いてなかった? 今回は、母上がレイチェルのパーティドレスを用意したんだよ。もう何ヶ月も前から大騒ぎしていてね」
「だってこんなことって滅多にないじゃない」
そう答えるシンシアは、いつも冷静な彼女とは別人のように浮かれていた。
今回の件は、彼女の方からアリスに頼んで実現したことだった。
娘がいない彼女には、女の子のドレスを見立てる機会などなかった。そのことを少し寂しく思っていたのだろう。一度やってみたいとアリスに申し出たのだ。大袈裟な言い方をすれば、念願が叶ったということになる。あのはしゃぎようも無理のないことだ。
「今からドレスを合わせましょう。いらっしゃい」
「はい」
シンシアが差し出した手に、レイチェルが小さな手をのせる。
「それじゃあね、サイファ」
「またあとでね」
振り向いて笑顔を見せるレイチェルに、サイファも笑顔で答えて軽く手を振った。そして、彼女がシンシアとともに出て行くのを見送ると、まだ見ぬドレス姿を心待ちにしながら、運びかけていた皿を抱えて自分の作業を再開した。
「我々ラグランジェ家の、さらなる発展と繁栄を祈念して、乾杯!」
本家当主リカルドの音頭で、大広間に集まった皆が唱和してグラスを掲げた。天井のシャンデリアから降り注ぐ光を受けて、シャンパンが宝石のようにキラキラと煌めく。
そうしてパーティが始まった。
色とりどりの艶やかなドレス、胸元や指で光を放つ宝石、そして、その宝石さえくすませるほどの鮮やかな金の髪――。それらが大広間を華麗に装飾していた。
「レイチェル」
背後から呼ばれたレイチェルは、細い髪を踊らせながら振り返り、声の主であるサイファに微笑みかけた。右手にはカクテルグラスを持っている。もっとも、まだアルコールが許される年齢に達していないため、中身はノンアルコールのカクテルである。
身に纏っているのは、シンシアが用意したパーティドレスだった。淡い水色と純白を基調にしたものだ。ボリュームのあるスカートは床につくほどの長さで、上は首元まできっちりと覆われており、肌の露出はほとんどないといってもいい。胴回りや袖はタイトに作られているが、肩の部分は膨らみ、袖口もひらひらと波を打って広がっていた。その袖先や胸元には、繊細で豪奢なレースがあしらわれている。
装飾品も、ドレスに合わせて用意されたものだ。
胸元の透かし模様の上には、ブルーサファイアのペンダントが輝いている。その透明感のある鮮やかな青は、サイファの瞳ととてもよく似ていた。それを意識して選んだのかもしれない。また、透き通るような金の髪には、精緻な銀細工の髪飾りがつけられていた。そこにも小粒の宝石がいくつか散りばめられている。レイチェルの動きに合わせて控えめにキラリと輝いた。
サイファは上から下まで眺めると、愛おしげに目を細めて言う。
「とてもよく似合っているよ。清楚で上品だけど、華があって、可愛らしさも感じられて」
レイチェルはニコッと笑顔で応えた。彼女自身もシンシアの見立てを気に入っていた。それが似合うと褒められたことは素直に嬉しかった。
サイファは少し腰を屈めて覗き込む。
「これから、ルーファス前当主に挨拶に行くけれど……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
本心では多少の心細さを感じていたものの、それを悟られれば心配を掛けてしまう。大丈夫と自分に言い聞かせつつ、不安な気持ちを笑顔でくるみ、芯の通ったしっかりとした声でそう答えた。
その直後、急にまわりの空気が変わった。穏やかな会話が止み、代わりに聞こえるのは小さなざわめき、急いだ靴音、いくつも重なる衣擦れの音――。
レイチェルはゆっくりと振り返った。
そこには人が避けてできた一本の道があった。広い大広間の奥まで続いている。周囲の人々は、小さな声でこそこそと話をしながら、好奇心を宿した目で奥を窺っていた。
そこにいたのは前当主のルーファスだった。
恰幅のいい大きな体を見せつけるように、後ろで手を組んで悠然とレイチェルたちの方へ足を進める。その後ろには数人の男性が付き従っていた。もちろんいずれもラグランジェ家の人間である。
ぼんやりしているレイチェルの手から、誰かがさっとグラスを取った。そして、前に出ようとしたサイファを制止し、レイチェルの背中を軽く押した。それは、ルーファスの目的が彼女にあることを示していた。
あたりは水を打ったようにしんと静まりかえった。
「レイチェル=エアリ」
ルーファスの迫力ある低音が、大広間内に静かに響いた。
周囲の人間に緊張が漲る。
しかし、レイチェルは臆することなく笑顔を見せた。流れるような手つきでドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を折って頭を下げる。
「ルーファス=ライアン前当主、お久しぶりです」
その挨拶に、ルーファスは言葉を返さなかった。ただ無言で二人の間を詰める。そして、何の前触れもなくレイチェルの顎を掴んで持ち上げると、蒼の双眸をじっと探るように見つめた。
「本当に面白い……」
レイチェルはきょとんとして瞬きをした。その意味を尋ねかけるように、大きな瞳でルーファスを見つめ返す。彼の口もとの皺が少しだけ吊り上がった。
「何も案ずることなく嫁ぐが良い。ラグランジェ家のことは、すべてサイファが取り仕切る。おまえは子を生めばそれで良い」
「……はい」
ルーファスがなぜそのようなことを言うのか、レイチェルにはわからなかった。しかし、その内容については理解はできる。不思議に思いながらも、彼の瞳から目をそらすことなく肯定の返事をした。
「どのような奇跡が起きるか楽しみだな」
ルーファスは低い声でそう言うと、鼻を鳴らして意味ありげに含み笑いをした。
「ルーファス=ライアン前当主、あまりレイチェルを怖がらせないでいただけますか」
サイファはすっと歩み出て言う。恭しく丁寧な口調ではあるが、抑えきれない反感のようなものが滲んでいた。その表情も、目だけは笑っていない。
ルーファスはサイファを冷たく一瞥した。
「怖がってなどいないだろう。この子はおまえより肝が据わっておる」
なおもレイチェルを見つめつつ、どこか愉しげに口の端を上げてそんなことを言う。そして、ようやくレイチェルの顎から手を離すと、近くのテーブルにあったカクテルグラスをその手に取った。それを高々と掲げ、大きく声を張る。
「皆の者、こちらに注目してくれ」
大広間にいたほとんどの人間が会話を止め、ルビー色のカクテル、もしくはルーファス自身に注視した。
ルーファスはマイクもなしに、大広間の隅にまで声を響かせる。
「皆も知っておろうが、次期当主のサイファ=ヴァルデと、その婚約者レイチェル=エアリだ。いずれはこの二人がラグランジェ家を背負って立つことになる。その暁には、皆も手を貸し、共にラグランジェ家を盛り上げていってほしい」
パラパラと拍手が起こる。それが呼び水となり、大きな拍手が沸き起こった。
皆がサイファとレイチェルに注目している。
レイチェルはドレスを持ち上げ、軽く膝を曲げた。隣のサイファも頭を下げて、深く一礼する。それから二人は横目で視線を合わせると、安堵したように小さくそっと笑い合った。
パーティは穏やかな歓談の時間に移った。
レイチェルはベランダの隅で一人ひっそりと座っている。
サイファや両親たちは、大広間の中央付近で多くの人と挨拶を交わしていた。まだ子供のレイチェルには、彼らの話は理解できないことが多い。一緒にいても会話に参加できず、気を遣わせるだけである。邪魔だけはしたくないと思い、ここにいることを選んだのだ。
空は次第に暗くなっていく。地平近くのオレンジ色も、間もなく消えようとしていた。対照的に、大広間はますます煌びやかに光量を増しているように見えた。
「本当に本家に嫁ぐつもりなのかしら」
不意に耳に届いた攻撃的な声。
レイチェルは反射的に振り向いた。少し離れたところに三人の女性がいる。その中央がサイファの元婚約者候補のユリアである。すらりと背が高く、ひときわ目を引く美人だ。レイチェルと視線がぶつかると、嘲笑するように口の端を吊り上げる。あたりは暗くなりかけていたが、濃い口紅を引いた唇は、嫌でもはっきりと識別できた。
両隣の二人も、レイチェルに横目を流しながらユリアに同調する。
「ルーファスおじさまも、どういうわけかレイチェルにだけは甘いのよね」
「所詮は男ってことよ。たいていの男は、ああいう従順そうな子に弱いの」
「以前のおじさまは才能のある子にしか目をかけなかったはずなのに……」
「あの人もそろそろ耄碌してきたってことかもね」
「聞こえるわよ」
ユリアが口先だけで窘めると、他の二人は口を軽く押さえて笑い合った。
レイチェルはなるべく気にしないようにした。白いテーブルに手を置いて空を見上げる。少し冷たさを増した風が、桜色の頬から熱をさらい、細い髪をさらさらと揺らした。
「何よあれ、すました顔しちゃって」
「黙っていれば本家に入れるものね」
二人は腹立たしげに語気を強めた。眉をひそめてレイチェルを睨む。
「図々しいのは今に始まったことじゃないわ。あなたはそんな器じゃないって何度も教えてあげたのに、一向に身を引こうとしないんだもの」
ユリアは豊かな巻き髪を後ろに払いながら、冷ややかに言う。
「頭に来るわね。どうしてあんな子が本家に嫁ぐの?」
「ラグランジェ家の未来はどうなってしまうのかしら」
二人は遠巻きにレイチェルを眺めながら、わざとらしい抑揚をつけて、ネチネチと責めるように言った。
「レイチェル、探したよ」
幼いながらも立派に盛装したレオナルドが、ジュースの入ったグラスを両手に持ってやってきた。彼はレイチェルの隣家に住んでいる少年である。ときどき庭などで一緒に遊ぶような関係だ。彼はレイチェルの隣の椅子に座ると、グラスのひとつを差し出しながら言う。
「あんなババァたちの言うことなんか気にするなよ。レイチェルが可愛いから妬んでるだけなんだぜ。みっともないよな」
「バ、ババァっ……?!」
「子供の言うことなんだから放っておきなさいよ」
裏返った声を上げて顔を真っ赤にする友人を、ユリアは冷めた口調で宥めた。容姿端麗を自負する彼女にとっては、そんな言葉は気に掛けるにも値しないものだったのだろう。
レイチェルは少し困惑したように微笑みながら、首を傾げてレオナルドを覗き込む。
「レオナルド、お母さんとお父さんはどうしたの?」
「あんまり子供扱いするなよな。一人でもいられるよ」
レオナルドはツンとすましてそう言うと、急にパッと顔を輝かせて振り向いた。机に肘をついて身を乗り出す。細くて柔らかい髪がふわりと風をはらんだ。
「それよりレイチェル、大事な話があるんだ」
「なあに?」
レイチェルは少し目を大きくして尋ねる。
レオナルドはその目をまっすぐに見つめ返して言う。
「計算してみたんだけどさ、僕が18歳のとき、レイチェルは26歳なんだ」
「足し算ができるようになったのね」
「そんなの前からできるよっ!」
優しく微笑むレイチェルに、レオナルドは顔を紅潮させながら必死に言い返した。眉根を寄せて口をとがらせ、小さな声で言葉をつなぐ。
「そうじゃなくてさ……そんなに悪くないだろう?」
「え?」
レイチェルにはその意味がわからなかった。しかしレオナルドは考える間も与えず、一方的に話を進めていく。
「だから、待っていてほしいんだ」
「何を……?」
レオナルドはテーブルにのせていたレイチェルの両手をとった。小さな手でぎゅっと挟むように握りしめる。そして、まだあどけない顔を凛と引き締め、真剣な眼差しを向けて言う。
「僕と結婚しよう」
それはあまりにも予想外な言葉だった。レイチェルは目をぱちくりさせて言う。
「私はサイファと結婚するのよ?」
「あんなヤツとじゃ幸せになれない! 僕なら絶対にこんな思いはさせない!」
レオナルドは身を乗り出してひたむきに訴えた。レイチェルの両手を握る手に力を込める。そして、小さな口をきゅっと結ぶと、澄んだ青の瞳を微かに揺らした。
レイチェルは柔らかく表情を緩めた。
「心配してくれているのね。ありがとう、でも大丈夫だから」
「あいつに言いづらいんだったら僕がきっちり断ってきてやるよ。だから僕と結婚しよう。一生レイチェルのことを守る。絶対に幸せにするって誓うから」
熱く、強く、真摯に畳み掛けられる言葉。しかし、それを言い終わるか終わらないかのところで、背後から彼の頭に拳骨が落とされた。
「イタッ!」
「まったくこの子は! 次期当主の婚約者にプロポーズ? 何を考えているの?!」
それはレオナルドの母親だった。腰に両手をあて、眉を吊り上げながら叱りつける。優美で上品なドレスを着ているが、その行動は普段どおりで容赦がない。
しかし、レオナルドも簡単には引かなかった。反抗的な目を向けて言い返す。
「僕は真剣だ!」
しかし、母親は無言でレオナルドの頭をはたくと、口をふさいで小さな体を抱え上げた。手足をジタバタさせる息子を睨みつけてから、呆然とするレイチェルに向き直り、思いきり愛想笑いを浮かべる。
「ごめんなさいねレイチェル。気を悪くしないで。子供の戯れ言だと思って許してやってもらえないかしら。この子には私がきつくお灸を据えておくから」
「え……ええ……」
早口で捲し立てるその勢いに圧倒され、レイチェルは困惑ぎみに返事をした。そして、息子を抱えたまま逃げるように去っていく彼女を見送りながら、いまだに無駄な抵抗を続けるその息子の身を案じて、胸元で祈るように手を組み合わせた。
「レオナルドの求婚、受ければいいんじゃないの?」
離れたところから様子を窺っていたユリアは、レオナルドとその母親がいなくなると、レイチェルのもとへツカツカと足を進めて言い放った。腕を組みながら顎を上げ、蔑むように見下ろす。
「あなたにはそれがお似合いだわ」
しかし、レイチェルは何も答えることなく、ただ曖昧に微笑むだけだった。
その態度がユリアの癪に障ったのだろう。彼女の表情が一気に険しくなった。あからさまな苛立ちと憎しみがその瞳にこもっている。
「来なさい」
有無を言わさぬ口調で命令すると、レイチェルの手を引いて無理やり椅子から立ち上がらせた。その手をしっかりと捕まえたまま、大きな足どりで大広間の方へ歩き出す。レイチェルはよろけながらも、何とか小走りでついていった。
「待っていて」
大広間の中央まで来ると、ユリアはそう告げて手を放した。そして、近くで談笑していたリカルドのもとへ駆けていき、華やかな笑顔を作って声を掛ける。
「リカルドおじさま」
「やあ、ユリア」
リカルドはグラスを掲げて陽気に応えた。普段よりも気分が高揚しているようだ。顔も少し赤らんでいる。酔いがまわってきているのだろう。
「存分に楽しんでいるかい?」
「ええ、でも少し退屈してしまって……」
ユリアはそう答えると、笑顔のまま肩を竦めて見せる。
「だから、ちょっとだけ地下の訓練場を借りたいの」
「え? 今かい?」
リカルドは面食らったように尋ね返した。
ユリアがまだ婚約者候補だった頃は、本家の訓練場を借りることも度々あった。それゆえ彼女の希望自体はおかしいとはいえない。だが、パーティ中ということを考慮すれば、明らかに不自然な行為である。いくら退屈したといっても、パーティの途中で魔導の訓練など、普通はしないのだ。
しかし、怪訝な顔を向けられても、ユリアが動揺を見せることはなかった。下手な言い訳をすることなく、ただ少女のように小首を傾げながら、上目遣いで甘えるように見つめて言う。
「ダメ?」
「まあ、構わないよ」
リカルドは小さく笑いながら了承した。酔っていて気が大きくなっているのか、頭の働きが鈍くなっているのか、目的も理由も尋ねることはなかった。ポケットからキーホルダーを取り出すと、その中の一つを外してユリアに渡す。
「はい、じゃあこれ」
「ありがとう、おじさま」
差し出された鍵を、ユリアは両手で受け取り、胸元で握りしめて微笑んだ。それから、にこやかに会釈をすると、豊かな巻き毛を揺らしながら、レイチェルのところへ戻ってくる。
そのときのユリアの顔からは、すっかり笑みが消え失せていた。
レイチェルは言い知れぬ恐怖を感じて息を呑んだ。
「訓練場で何をするの?」
「あなたがどれだけ成長したか見てあげる」
ユリアは感情のない声で答えながら、レイチェルの手を取って歩き出そうとする。だが、レイチェルは素直には従わなかった。少しだけ手を引き戻して抵抗を見せる。
「そんなこと……」
「いいから来なさい」
ユリアに強く手を引っ張られ、レイチェルは前につんのめりながら足を進めた。慌てて後ろを振り返り、縋るように目を走らせる。そして、何人かと話をしているサイファを視界の隅に捉えた。
――サイファ、助けて!
そう声の限りに叫びたかった。しかし、彼の邪魔をしてはいけないという思いが、彼女の行動をギリギリのところで押しとどめる。きつく目をつむり、胸を押さえつけ、その衝動をぐっと飲み込んだ。
レイチェルはこれまで本家の訓練場には入ったことがなかった。
こわごわと遠慮がちにあたりを見まわす。
彼女の家の訓練場よりも数倍は広そうである。しかし、ただ広いだけであり、特に立派ということはなかった。むしろ、ところどころ壁に亀裂が入っていたりして、かなり古びているような印象を受けた。
「あなた、あのラウルに師事しているそうじゃない。もしかしたら、隠れた才能でも開花したのかしらと思ってね」
ユリアは右手を腰に当てて振り返った。彼女がそんなことを微塵も思っていないということは、その棘のある口調からも明らかである。レイチェルでも理解できるくらいの露骨な皮肉だ。
「ラウルにはお勉強を教えてもらっているだけ。魔導は教わっていないわ」
「どうせやりたくないって我が侭を言っただけでしょう」
図星を指されたレイチェルは、何も言い返すことが出来ずにうつむいた。
「まあいいわ。ちょうど試したいことがあるのよ。袖を両方とも捲りなさい」
「袖……? どうして?」
「その綺麗なドレスを破りたくないでしょう?」
ユリアはそう言うと、口もとを斜めにし、凄みのある冷笑を浮かべた。
レイチェルは胸元で両手を重ね合わせて身震いする。怖かった。極度の不安に押し潰されそうになる。しかし、頼れる人はここにはいない。自分ひとりでこの場を切り抜けなければならないのだ。
少し考えを巡らせたのち、命令のままに袖を捲り始める。
このドレスはシンシアがわざわざ自分のために用意してくれたものだ。何ヶ月も前から張り切って準備をしていたと聞いている。そんな気持ちのこもったものを傷つけるわけにはいかない。そして、あれほど嬉しそうにしていた彼女を落胆させたくなかった。
ドレスはタイトに作られているため、袖を捲ることすらきつい。だが、なんとか肘のあたりまで引っ張り上げると、広がった袖口をそこでまとめた。白く細い腕が半分ほど露わになる。
「後ろで手の甲を合わせなさい」
ユリアが何をするつもりなのか想像もつかず、不安は募る一方だった。だが、もう逃げることはできない。観念して従うほかはなかった。
そっとユリアに振り向いて様子を窺う。
彼女は無表情で両手を向かい合わせていた。そして、呟くような声で呪文を唱え始める。両手の間に白い光が生じた。その両手を大きく引き離すと、光は細い紐のように形を変える。後ろで合わされたレイチェルの手首に、それを幾重にも巻きつけた。
「いっ……」
思わず引きつった声が漏れる。
手首に巻きつけられた光の紐は、素肌に擦れて焼けるような痛みを与えた。無理な力がかかった肩と腕にも、違う種類の痛みが走る。
ユリアは冷たく見下ろし、真紅の唇に満足げな笑みをのせた。
「それはね、魔導師の動きを封じるためのものよ。魔導省でも罪人を拘束するために使われているわ。普通の縄や手錠では簡単に壊されてしまうものね。簡単には解除できないわよ。あなた程度の魔導力や知識では確実に無理ね」
外そうとして手をずらしてもビクともしない。ただ食い込むだけである。それでも諦めることなく、痛みに耐えながらもがき続ける。
「きゃあ!」
そうこうしているうちに、うっかりドレスの裾を踏んで転んでしまった。手をつくこともできず、肩から倒れ込み、床に頭を打ちつけた。小さなうめき声を上げて身を捩る。何とか起き上がろうとするものの、手が拘束されて使えないうえに、裾の長いドレスが邪魔をして、どうにも思うようにならなかった。
「なんてみっともない格好なのかしら」
ユリアは芝居がかった口調で嘲笑する。
薄汚れた埃だらけの床に、金色の長い髪と白いドレスを乱れさせたまま、レイチェルは苦しげに肩で息をしていた。顔にかかる髪を払うことも、膝上まで捲れあがったドレスを戻すこともできない。ユリアの言うように、本当にみっともない格好になっているのだと自覚した。
「その拘束を破ることができたら、あなたを認めてあげてもいいわよ」
「ユリアに認められる必要はないわ」
実際、ユリアには何の権限もなかった。本家の婚約に口を挟む立場にはなく、意見を届けるだけの力も持ち合わせていない。ただ個人の感情のみで、勝手に動いているだけだった。
痛いところをつかれたユリアは、カッと頭に血を上らせる。
「生意気なのよ!!」
「ああっ!!」
縛られた手首からのびる光の紐を、ユリアが勢いに任せて引くと、レイチェルは体を弓なりに反らせて甲高い悲鳴を上げた。
「いくら声をあげても誰にも届かないわよ」
「う……ぅ……」
ユリアが愉快そうに送った忠告の言葉は、レイチェルの耳にはほとんど届いていない。彼女は痛みに耐えることで精一杯だった。背中を丸めて眉を寄せながら、額に汗を滲ませている。
「ねぇ、わかる? みんな言い出せないだけなの。あなたみたいな出来損ないは本家当主の妻に相応しくないって。サイファだって本心ではそう思っているのよ」
「私は、サイファの口から聞いたことしか信じない」
苦しげに目を細めながらも、気丈にはっきりとした口調で言う。
ユリアの顔に苛立ちが広がった。
「だからサイファは言い出せないの。思っていても口に出せないの。優しい人だものね。サイファのことを思うなら、それを察して自ら身を引くべきなのよ」
「私はサイファの言うことだけを信じる」
レイチェルは揺らぐことなく同じ内容を繰り返した。
「バカと話をすると疲れるわ」
ユリアは腰に両手を当て、わざとらしく溜息をついた。床に倒れ込んでいるレイチェルの傍らにしゃがむと、彼女の顔を覆う金髪を乱雑に払った。
「わかりやすく説明してあげる。いい? ラグランジェ家は魔導がすべてなの。特に本家は優秀な血筋を繋げることで、その権威を保ってきた、いえ、より強力なものにしていったわ。その二千年近くにわたって積み上げてきたものを、あなたが台無しにしようとしているの。あなたの出来損ないの血が、本家の血筋に混じってしまうのよ」
「それでも私はサイファに従う」
レイチェルは頭上のユリアには目を向けず、ただまっすぐに何もない正面を見据えて言う。
「いい加減にしなさい!」
「きゃぁっ!」
バチンという音とともに、頬に熱い痛みが走った。ユリアが思いきり手を振り上げて叩いたのだ。それでも彼女は満足していないようだった。睨みを利かせながら立ち上がると、奥歯を強く噛みしめて腕を組む。
「本当に強情な子ね……。いい加減に認めなさいよ、自分は本家当主の妻に相応しくないって。そうしたら拘束を解いてあげる」
レイチェルの目にうっすらと涙が滲んだ。
叩かれた頬がジンジンと疼く。後ろで縛られた手首も焼けるように痛い。
でも、誰も助けに来ないのだ。
自分ひとりで何とかしなければならない。何とかしなければ――。
そう思うものの、レイチェルに巧みな対処など考えつくはずもなかった。このような格好では魔導すら使えない。何とかして引きちぎろうとするだけである。食い込むような激しい痛みを感じたが、それでも中断することなく力を込め続けた。こぶしを強く握りしめる。肩と腕が小刻みに震えた。額からは汗が噴き出し、床に滴り落ちて染みを作った。
その姿を見下ろしながら、ユリアは鼻先でせせら笑った。
「バカね、それは魔導の紐なのよ。力任せに引っ張ったってどうに……も……」
レイチェルの拘束された手首のあたりから、ぼんやりとした青白い光が発せられた。それを目にしたユリアは、顔をこわばらせて一歩後ずさる。
「えっ? ……ちょっ……と……何なの? ……魔導?」
「く……うぅ……」
レイチェルがさらに力を込めると、その光はますます強さを増していく。彼女に魔導を使っているという意識はなかった。ただ必死にこの拘束から逃れようとしているだけである。
バチン、と何かが弾ける音が響いた。
彼女の手首を拘束していた魔導の紐がちぎれ、霧散するように消滅した。腕が解放され、くたりと床に投げ出される。そのままの格好で、レイチェルは肩を上下させて大きく呼吸をした。
「どうして、こんな…………あなた……」
困惑と驚愕の混じり合った声が、頭上から落とされる。
レイチェルは床に腕をつくと、ゆっくりと上体を起こした。頬にかかる髪を払うことなく、立ちつくしたユリアに強い眼差しを送る。それを受けた彼女の体がビクリと震えた。
「な……何よ、その目は? それがあなたの本性ってわけ?!」
「どうして……? こんなことをしても、ユリアが本家に入れるわけじゃないのに……」
ユリアはもう他の人と結婚している。いくらレイチェルを退けたところで、今となっては本家に嫁ぐことなど不可能なのだ。頭のいい彼女がそれをわかっていないとは思えない。
「それでも……それでもあなたが気に入らないのよ!!」
ユリアは感情を爆発させて叫んだ。レイチェルを睨みつける瞳がじわりと潤む。
「私は物心ついたときからずっと努力をしてきた。魔導も学問も教養も何もかも。シンシアのように、いえ、シンシア以上になれる自信はあった。私にとって、本家に嫁ぐことがすべてだったのよ。それなのに……あなたが生まれた、ただそれだけですべてが終わってしまったわ」
涙を含んだ声でそう言うと、眉根を寄せてうつむいた。
「それでも、あなたが本家当主の妻に相応しい立派な人間だったら諦めもついた。けれど、あなたはたいした魔導力を持たない出来損ない、そのうえ笑うしか能のないバカだった。許せるはずないじゃない! 生まれたときから何の努力もせずに何もかも手に入れて、幸せを約束されて……」
ユリアはそこで言葉を詰まらせた。体の横で握りしめたこぶしを小刻みに震わせている。
床にぽたりとひとしずくが落ちた。
レイチェルは大きく瞬きをして彼女を見上げた。ゆっくりと立ち上がる。遠慮がちに歩み寄ると、胸元で両手を組み合わせて困惑したように言う。
「ユリアだって今は幸せでしょう? 結婚して子供も生まれて……」
「幸せなんかじゃない!!」
ユリアは金切り声を上げてレイチェルの頬をひっぱたいた。よろけて床に倒れ伏す彼女に、さらに呪文を唱えて魔導を仕掛ける。
「きゃあ!!」
レイチェルは頭を抱えて身を丸めた。
光の矢が彼女に降り注ぐ。
だが、その矢はすべてギリギリで彼女を避けて床に落ちた。
「呆れた、結界すら張れないなんて」
ユリアは乱暴に涙の跡を拭い、吐き捨てるようにそう言うと、レイチェルを残して訓練場を出て行った。憎々しげに打ち鳴らされるヒールの音は、次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
レイチェルは洗面台の前に立ち、正面の鏡を見つめた。
落ちそうになっていた髪飾りは、いったん外してから付け直した。床に擦れてついた顔や手の汚れは、洗面台で洗って落とした。叩かれて赤くなっていた頬も、流水で冷やしてほとんど元通りになっている。
ドレスの汚れは何度も叩いて払ったが、完全には落とせなかった。遠目にはわからないくらいではあるが、近づけばくすんだような灰色の汚れが見えてしまう。ただ、汚れているのは主に側面であるため、多少は目に付きにくいかもしれない。気づかれないことを祈るしかない。
一番の問題は手首の傷だ。
強く擦れたような赤い跡が何本も走り、ところどころ血も滲んでいた。
水道の蛇口をひねって洗い流す。
傷口に水が沁みて痛かった。思わず顔をしかめるが、それでも我慢して続ける。血はもう止まっているようだ。ドレスを汚す心配はないと判断し、ハンカチで拭いてからその袖を戻した。幸いにも袖は長い。気をつけていれば隠し通せるだろうと思う。
早く戻らなければ、いないことに気づかれてしまう――。
レイチェルは洗面台に手をつき、鏡の中の自分を真剣な眼差しで見つめた。そして、ゆっくりと深呼吸して、ゆっくりと瞬きをすると、鏡に向かって笑顔を作ってみせた。
――レイチェル、どこへ行ったんだろう。
サイファはあたりを見回しながら歩いていた。一通り大広間の中は探したはずだが、レイチェルの姿を見つけることはできなかった。どこかで見逃してしまったのだろうか。それともすれ違ってしまったのだろうか。
レイチェルと離れている歓談中であっても、彼女が助けを呼べば駆けつけられるように、また、彼女に対して行きすぎた行為があれば止められるように、気を配りつつ備えてきたつもりである。
だが、サイファにも本家の人間としての役割があり、ずっと彼女だけを見守り続けることはできない。しばらく目を離している間に見失ってしまったのだ。最後に見たのはレオナルドと何かを話していたところである。しかし、今、レオナルドは母親と一緒にいる。
「サイファ」
不意に後ろから声を掛けられ振り返る。そこにいたのは、今まさに探していたレイチェルだった。彼女のいつもと変わらない笑顔を目にすると、ほっと安堵の息をつく。
「良かった、姿が見えないから心配したよ」
レイチェルは後ろで手を組み、小さくくすっと笑った。
「ごめんなさい。外の空気を吸ってきたの」
「ここは息が詰まるよね」
サイファは肩を竦めて同調した。彼女がこういう場が苦手であることは知っている。気分転換になるのであれば、そしてきちんと戻ってくるのであれば、少しの間くらい外に出るのも悪くないだろう。
安心させるように微笑みかけたあとで、何気なく視線を落とすと、彼女のドレスがうっすらと汚れていることに気がついた。はっきりとわかるものではないが、埃をかぶったように薄く灰色になっている。
「そこ、どうしたの? 汚れてるみたいだけど」
「あ……さっき少し転んでしまったから……」
そう答えるレイチェルの顔には、微かな動揺の色が浮かんでいた。しかし、後ろで手を組んだまま小さく肩を竦めると、すぐににっこりと笑顔を浮かべて取り繕った。
もうすっかり普段の表情だ。
しかし、サイファは先ほどの小さな動揺を見過ごさなかった。
「もしかしてどこか怪我したんじゃないの?」
「大丈夫……あっ……」
彼女の返答を待つことなく、優しく力を込めて手首を掴み、後ろで組まれていた手をほどいた。そして、戸惑う華奢な指先を掴まえると、広がったレースの袖口を持ち上げて中を覗き込む。
傷は思わぬところにあった。手首に赤く擦れたような跡が何本も走っていたのだ。
サイファにはそれが何なのかすぐにわかった。
転んでできた傷などではない。拘束の呪文によるものだ。魔導省では一般的に使用されており、サイファも実際にそれで罪人を拘束したことは幾度となくある。そのため同じような傷は何度も目にしてきた。見間違うはずはない。
「転んだ……の?」
「ええ、転んだときにロープを引っかけてしまったの」
レイチェルは相手を庇っているのか、心配を掛けたくないのか、本当のことは隠し通すつもりのようだった。彼女は見かけによらず強情なところがある。聞き出すことは容易ではないだろう。なるべく無理強いはしたくない。彼女の意思を最大限に尊重し、それ以上の追及はしないことに決めた。
「おいで、手当てをしよう」
静かにそう言うと、彼女の肩を優しく抱きながら大広間を出た。
誰が、こんなことを――。
こっそりと背後の大広間に目を向ける。酔いがまわっている者も多く、そのせいか、騒々しいくらいの賑やかさだった。外部から冷めた目で見ているので、余計にそう感じるのかもしれない。皆、自分たちの会話に夢中で、サイファとレイチェルが出て行ったことには気づいていないようだ。こちらを窺っていたのは、たまたま近くにいた子供たち、そして、不安そうな顔のユリアくらいだった。
サイファはレイチェルを連れて階下の居間へと入っていった。本当は医者に診せた方がいいのだが、パーティ中であるため、あまり長く大広間を離れるわけにはいかない。とりあえずはここで応急処置をしようと考えたのである。
レイチェルを革張りのソファに座らせると、戸棚から木製の薬箱を取って戻り、彼女の隣に腰を下ろした。袖を捲り上げ、両方の手首を消毒し、傷薬を塗っていく。
「沁みる?」
「大丈夫よ」
レイチェルはにっこりとして答えた。
手当てを始めてから痛そうな顔は一度も見せていない。しかし、血が滲むくらいの傷である。沁みないわけはない。心配を掛けたくなくて我慢しているのだろう。こういうことに関しては、彼女はいつも極端なくらいに気を遣うのだ。
サイファは薬箱からガーゼと包帯を取り出した。傷を覆うようにガーゼをかぶせ、厚くならない程度に包帯を巻く。
ひらひらした長い袖口がすっぽりと隠してくれるので、手を上げない限り見えることはない。気をつけてさえいれば、誰にも悟られることはないだろうと思う。
だが、彼女の両親には伝えておかなければならない。
レイチェルは知られたくないだろうが、そういうわけにはいかないのだ。ただ、それを聞いたアルフォンスが極端な行動に出ないかが心配である。彼を落ち着かせて、釘を刺すことも必要になるかもしれない。
サイファは包帯の残りを片付けながら、感情を抑えた固い面持ちで口を開く。
「レイチェル、何かあったら言って……って言ったよね」
「ごめんなさい」
レイチェルはしゅんとして目を伏せた。その声の落ち込みように、サイファは少し驚いて顔を上げる。うつむく彼女を見つめながら、その頭にぽんと手をのせて表情を和らげた。
「怒っていないよ。でも、傷はちゃんと手当てしないといけないから」
「うん……」
レイチェルは視線を落としたまま、小さく頷きながら返事をする。
「僕の方こそごめんね。守ってあげられなくて」
「サイファは悪くないわ。私が勝手に転んだだけだから」
申し訳なさそうに詫びるサイファに、レイチェルは首を横に振りながら慌てて力説する。その傷がどういうものかわかっている、と暗にほのめかしたサイファを牽制する意味もあったのかもしれない。どうあっても転んだことにしたいようだ。
サイファは無言で微笑んだ。彼女の肩に手をまわして引き寄せると、心地よい重みを感じながら、天井を見上げて目を細めた。
「……そろそろ戻ろうか」
「サイファ、手当てしてくれてありがとう」
にこりとして感謝を述べるレイチェルに、サイファは優しく微笑みを返した。
彼女をもうパーティに戻したくない。
出来ればずっと二人でここにいたい。
無防備な彼女の笑顔を見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。だが、それは許されないことなのだ。逃げ出すわけにはいかないのである。叶わない願いを振り切るように立ち上がると、ソファに座るレイチェルに手を差し伸べた。
大広間ではまだパーティが続いていた。
レイチェルとともに戻ったサイファは、軽く見まわしてあたりを窺う。取り立てて変わった様子はない。ただ、扉付近にいたユリアだけが不自然にこちらを気にしていた。サイファと目が合うと、慌てて視線を逸らせ、逃げるように背を向けて歩いていく。豊かな金色の巻き毛が背中で上下に揺れていた。
「おい、おまえっ!」
幼い声が偉そうに割り込む。声の方へ視線を下げると、口をへの字に曲げて腰に両手を当てたレオナルドが仁王立ちしていた。もっとも小さいので迫力は全くない。
「レイチェルを連れ出して何してたんだよ。婚約者だからって好き勝手するなよな!」
そう噛み付いてくる彼を、サイファは値踏みするようにじっと見つめた。使えるかもしれないと思う。どれだけ頼りになるかわからないが、一人にさせるよりはましだろう。
「レオナルド、レイチェルを頼む」
「えっ?」
「僕が戻るまで一緒にいてやってくれ」
「じゃあもう二度と戻ってくるなよな」
レオナルドは小生意気に腕を組んで言い返した。サイファは呆れたように冷たい視線を向けると、ゆっくりと手を伸ばし、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「痛いな! 何するんだ!」
「頼んだぞ」
静かな低い声で念押しすると、レオナルドはビクリとして口をつぐんだ。しかし目だけは反抗したままで、悔しそうにサイファを睨みつけている。それでもレイチェルに好意を寄せる彼ならば、その傍にいることを選ぶに違いない。
「レイチェル、ごめんね。ここでレオナルドと少し待っていて」
今度はレイチェルに振り向くと、先ほどとは別人のような柔らかい声で言う。
彼女は何か言いたそうにしていた。サイファが何をしようとしているのか不安に思っているのだろう。もしかすると何か察しているのかもしれない。だが、結局は何も言えず、ただ硬い面持ちでこくりと頷くだけだった。
そんな彼女を安心させるように、サイファは優しく微笑みかけた。
それでも彼女の表情は変わらない。
しかし、だからこそ行かなければならないのだ。もう二度とこんなことが起こらないように、いや、起こさせないために――。
サイファは二人をその場に残し、煌びやかな光の中に足を進めていった。
「お久しぶりです、ユリア=イリーナ」
サイファが背後から声を掛けると、彼女は剥き出しの肩をビクリと震わせた。豊かな巻き毛を揺らしながら、ゆっくりと振り返る。その顔にはぎこちない笑みが張り付いていた。
「サイファ……何か用かしら」
「随分と冷たいんですね。昔とは大違いだ」
サイファは意味ありげにそう言うと、口の端を上げて挑発的な視線を送る。
ユリアは露骨に眉をひそめると、語気を強めて尋ね返す。
「何なの?」
「外で話をしませんか?」
サイファはにこやかに笑顔を浮かべた。それでもユリアは警戒の色を弱めない。むしろ強めているようだった。顎を引いて上目遣いで睨みつける。
「あなたとする話なんて何もないわ」
「僕の方はあるんですよ。付き合っていただきます」
丁寧ではあるものの、その言葉には有無を言わさぬ強さがあった。
ユリアは忌々しげに顔をしかめて目を伏せると、仕方なくといった様子で、先行するサイファについて歩き出した。
サイファはユリアとともに屋敷の外に出ると、庭の方へとまわった。
開けた視界に空が広がる。
そこはすっかり夜の色に塗り替えられていた。無数の星がキラキラと瞬き、時折、すっと降るように流れていく。これほど幻想的な光景はそうあるものではない。
レイチェルと一緒にこの星空を眺められたら、どれほど幸せだろう――。
しかし今のサイファにはやるべきことがある。気を引き締めなければならない。そのささやかな夢に思いを巡らせるのは、この障害を取り除いたあとにしようと心に決めた。
サイファは無言のまま歩き続けた。
ユリアも何も言わずについてくる。耳に届くのは芝生を踏みしめる音だけだ。しかし、やがて沈黙の圧力に耐えきれなくなったのか、少しうわずった声で話を切り出した。
「ねぇ、レイチェルに何を言われたか知らないけれど、そのまま鵜呑みにするのはどうかと思うわ。甘やかしすぎていないかしら」
サイファは足を止めた。背を向けたままで静かに尋ねる。
「レイチェルが何を言ったと思っているんですか?」
「そんなの知らないわよ!」
ユリアは苛立ったように声を荒げた。
「そのわりには、随分、怯えているようですけど」
「そんなの当たり前でしょう? あなたは私よりレイチェルの言うことを信じるんだもの。特に今はあの子が傷を負っているから、あなたは冷静じゃないはずだわ」
「どうしてレイチェルが負傷したことを知っているんですか?」
「……えっ?」
サイファはゆっくりと振り返った。冷や汗を滲ませるユリアを正面から見据えて言う。
「彼女の傷はドレスに隠れて見えない。そして、彼女は戻ってきてから僕としか話をしていない。つまり、僕以外で知っているのはただ一人――犯人だけ、ということになります」
その決定的な一言に、ユリアは大きく目を見張った。慌てて口を開くものの、何も言葉は出てこない。もはやどんな言い訳をしても無駄だと気づいたのだろう。悔しそうに顔を歪ませてうなだれると、喉の奥から声を絞り出す。
「きつく、口止めしておくんだったわ」
「レイチェルは何も言ってないですよ」
「え?」
ユリアは僅かに視線を上げて怪訝に聞き返した。
サイファは腰に右手を置き、目を細めて大広間の方を仰ぎ見る。
「あなたの名前なんて一言も出していない。ただ転んで紐を引っかけてしまったと」
「じゃあ、どうして……」
形の良いサイファの唇に不敵な笑みが乗った。
「僕の勤務先をお忘れですか? 彼女の手首の傷――あれが何で出来た傷かくらいわかります。あの呪文が使える人間となると、ラグランジェ家の中でもそれほど多くはないでしょう。ユリア、あなたは僕たちの方を何度も不安そうに窺っていましたよ。意外と小心者なんですね」
「だったら何よ!」
ユリアは逆上して叫んだ。しかし、自分を射抜くような、その冷たく燃えたぎる青の瞳を目にすると、大きく息を呑んで口を閉ざした。
サイファはゆっくりと唇を動かし、重みのある声を落とす。
「いま、僕ははらわたが煮えくり返っている。あなたに報復をしなければ気がすまない。気がふれるほどの痛みと恐怖と浴びせ、肉体も精神もズタズタに壊してやりたい――」
彼女の顔から一気に血の気が引いた。表情を引きつらせ、震える足で小さく後ずさる。
「安心してください。何もしませんよ。そう思っているのは事実ですけどね」
サイファは軽い口調でさらりと付言する。
「なぜ、それをしないかおわかりですか?」
ユリアは黙ったまま何も答えなかった。答えられなかったのだろう。今の彼女は論理的に物事を考えられる状態ではない。弱く揺れる瞳で疑問を返すことが精一杯である。
サイファは無表情で彼女を見つめて答える。
「レイチェルが望んでいないから」
彼にとってはそれがすべてだった。ユリアに対する同情や配慮の気持ちは欠片もない。自分の立場でさえどうでもいいと思うほどに強い憤りを感じていた。だが、そんな感情のままに行動してしまえば、レイチェルは自分を責め苛むだろう。彼女を苦しめるようなことはしたくない。
「しかし、次にこのようなことがあれば、忠告だけで済ますつもりはありません。それと悟られないような、間接的な報復をするつもりです」
「どういう……こと……?」
「分家の一つや二つ、何か理由をつけて潰すことは可能でしょう」
ユリアは目を見開いて息を呑んだ。
ラグランジェ家に執着し、極端に世間体を気にする彼女にとっては、これほど恐ろしいことはないだろう。だからこそ、あえてそれを選んだのだ。もちろん単なるはったりではない。忠告を無視するようなことがあれば、あらゆる手段を行使して実行に移すつもりである。
サイファはまっすぐ彼女の方へ足を進めた。近づいても足を止めず、腕がぶつかりそうなくらいの近さですれ違う。その瞬間、前を向いたまま重い声を落とす。
「あなたは僕に勝てない」
それはとどめを刺す言葉だった。
サイファは呆然と立ちつくす彼女を庭に残し、振り返ることなく屋敷の中へ戻っていった。
「ただいま」
サイファはパーティの続く大広間に戻ると、扉付近で待ち構えていたレイチェルに、屈託のない笑顔を見せてそう言った。それでも彼女は心配そうな表情を崩さない。胸元で両手を組み合わせ、揺れる瞳でサイファを見つめる。
「サイファ……」
「おまえやっぱり最低だな! 婚約者をほったらかして他の女とデートなんて!」
レイチェルを守るように飛び出したレオナルドが、こぶしを握りしめて喚き立てる。レイチェルを思ってのことだろうが、彼女が心配しているのはそんなことではない。彼の根本的な勘違いである。
サイファは疲れたような冷めた目で見下ろすと、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「いてっ!」
レオナルドは額を押さえて、恨めしそうに涙目でサイファを睨む。しかし、サイファはすでに彼の方を見ていなかった。レイチェルの頭に手をのせ、覗き込みながら言う。
「ひとりにしてごめんね。寂しかった?」
「ユリアは……?」
「もう少し外の空気を吸いたいってさ」
「…………」
レイチェルは何か言いたそうにしている。ユリアに何か仕返しをしたのではないかと心配しているのだろう。ユリアと一緒に帰ってこなかったことが、余計にその不安を煽っているのだ。サイファの嘘も少し白々しかったのかもしれない。
「彼女にはちょっと注意しただけだよ。信じてくれる?」
レイチェルはしばらく考えていたが、やがてこくりと頷いて微かな笑顔を浮かべた。
サイファはそっと腕を伸ばして彼女を抱きしめた。細い髪がふわりと舞い、ほのかに甘い匂いが立ち上る。そのほっとするような匂いに、痛いほど胸が締めつけられた。目を細めて、腕の中の少女に視線を落とす。
彼女の体は小さくて柔らかい。強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。
そんな彼女が、ひとりで大変なことを抱え込もうとしていたのである。具体的に何があったのかは聞いてないが、気性の激しいユリアのことだ。無抵抗のレイチェルに対して言いたい放題に責め立てたり、拘束の呪文でいたぶったりしたのだろう。多少の嫌味くらいならともかく、体に傷までつけられては放っておけるはずがない。
「レイチェル……もう少しでいいから僕を頼ってくれないかな。まだまだ頼りないかもしれないけれど、精一杯、力になれるように努力するから」
「……私、迷惑じゃない?」
弱々しくぽつりと言うレイチェルに、サイファはすぐに答えを返す。
「少しも迷惑じゃないよ。君に頼ってもらえることが嬉しいんだ」
「でも…………、ん……わかったわ、ありがとう」
レイチェルは戸惑ったように口ごもりながらも、ようやくそう返事をすると、顔を上げてにっこりと笑顔を見せた。
サイファはその柔らかな頬にそっと触れる。
彼女はまだ完全には納得していないのだろう。だが、今は形だけでも構わなかった。自分を頼ってくれることさえ約束してくれれば、とりあえずは彼女を守ることができるのだ。
しかし、いつまでもこのままではいけない。
彼女が遠慮なく頼ることのできる人間にならなければ――。
その決意を深く心に刻みつける。単なる意地ではない。彼女に認められたいという気持ちも確かにあるが、それよりも、彼女を幸せにするためにという考えの方が遥かに大きかった。
「レイチェル、もうすぐパーティが終わるけど、そのあとで少し時間を取れる?」
「ええ、お父さまに許可をもらえれば……どうしたの?」
首を傾げて尋ねるレイチェルに、サイファは柔らかく微笑みかける。
「今夜は星空がきれいなんだ。レイチェルと一緒に見たいと思ってね」
「本当? 楽しみだわ! じゃあ、お父さまに許可をもらってくるわね」
「待って」
離れていこうとしたレイチェルを、抱きしめる腕に力をこめて引き留める。彼女は不思議そうに顔を上げ、じっとサイファを見つめた。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
サイファは縋るように小さな彼女を抱きしめ、小さく呟くように言う。
彼女からの返事はなかった。だが、言葉の代わりに、背中にそっと手がまわされた。
その手はほんのりと温かく、柔らかく、そしてとても優しかった。
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