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17. 彼の望む未来
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――まただ。
書類を眺めていたサイファは、視界がぼやけるのを感じて目を閉じた。左手で額を押さえて深く溜息をつく。
「随分と調子が悪そうだな」
隣に座る先輩のデニスが、ちらりと視線をよこして言った。ぶっきらぼうな言い方ではあったが、その声音から責めるようなものは感じられなかった。むしろ心配してくれているのだろうと思う。
「やっぱりわかりますか?」
「君がぼうっとしているのは珍しいからな。それに、顔も少し火照っている」
サイファは答えの代わりに、微かな笑顔を見せて肩をすくめた。少なくとも職場では普段どおりを装うつもりでいたが、いつのまにかそんな余裕をなくしていたらしい。思った以上に体がいうことをきかず、仕事を進めるだけで精一杯だったのだ。何度も顔を曇らせ、溜息をついた覚えがある。見るからにつらそうな状態だったのだろう。
医者に診てもらったわけではないが、おそらく風邪だ。
今朝は喉の痛みを感じる程度だったが、午後になって熱が上がってきたようだ。体がだるくて力が入らないうえに、背筋がゾクゾクするような悪寒を感じる。さらに、頭がぼんやりとして、まるで仕事がはかどらない。
昨日の遠乗りが原因だろうか。
そう思うものの風邪につながるような心当たりはない。朝が早かったせいか、多少の肌寒さを感じることはあったが、我慢するほどのものでもなかったし、湖には足さえつけていないのだ。
いや、もしかすると――。
帰路でのことが原因だろうかと考える。往路はレイチェルと二人乗りだったが、帰路は一人で乗ることになった。ラウルの後ろに横乗りするレイチェルを見つめながら、冷たい風を背中に受けなければならなかったのである。そのことが嫌だったわけではないが、一抹の寂しさを感じたのは事実だった。
そこまで思考を走らせると、ふと我にかえって苦笑した。
どうやら寒かったのは体よりも心の方らしい。それで風邪をひくことはないだろう。
結局、原因はわからないままだ。
どうも今日は物事を論理的に考えられていない気がする。これしきの結論にも随分と遠回りをしてしまった。やはり熱のせいで頭の働きが鈍っているのだ。
「今日はもう帰った方がいい。遠慮はするなよ」
「そうですね」
サイファは先輩の厚意を素直に受けた。急を要する仕事がないのであれば、このまま非効率的に続けることは得策ではない。早めに休養して早々に完治させた方が、結果的には早く仕事を進められるはずだ。
「では、医務室に寄ってから帰ります」
「お大事に」
デニスは軽く右手を上げてサイファを見送った。彼はあまり愛想が良い方ではないが、いつもさりげなく気遣ってくれる。サイファはそのことに感謝していた。
サイファはまだ明るい窓の外を眺めながら、廊下を歩いていった。タイル張りの固い床にもかかわらず、足もとがふわふわしているように感じる。高熱で力が入らないせいかもしれない。
彼の向かった先はラウルの医務室だった。
そこに到着すると、いつものようにノックもせずに扉を引く。だが、何かに引っかかってガシャンと音がしただけで、それが開くことはなかった。
鍵が掛かっているようだ。
ラウルが家庭教師以外で外出することはあまりない。まだレイチェルの家から帰っていない可能性の方が高いだろう。普段であればとっくに終わっている時間だが、長引いているのかもしれない。サイファは扉の前で息をつきながら腕を組み、ここで待つか、他の医務室に行くかを考えた。
そのとき――。
カチャリと鍵を外す音が聞こえ、続いてガラガラと扉が開いた。
「あれ……?」
扉の向こうにいた人物はレイチェルだった。その背後にはラウルもいる。ふたりとも扉の前に立っていたサイファを目にし、少し驚いたような表情を見せていた。
「レイチェルどうしたの?」
「医務室を見学していたの」
レイチェルは後ろで手を組み、小さくニコッと微笑んで答えた。
それを聞いて、サイファは安堵の息をついた。自分と同じように患者として来たのではないか思ったが、どうやらその心配はなさそうだ。無理をしているようには見えないし、おそらく彼女の言うとおりなのだろう。
「今から帰るところ?」
「ええ、サイファは?」
レイチェルは小首を傾げて尋ねた。
「風邪をひいたみたいだから、ラウルに診てもらおうかと思ってね」
「風邪……? 大丈夫なの?」
大きく瞬きをして歩み寄ろうとしたレイチェルを、サイファは右手を前に出して制止した。軽く握った左手を口元に当てて言う。
「あまり近づかない方がいいよ。うつるといけないから」
「そう……」
レイチェルは寂しげな声を落とすと、胸元で両手を組み合わせて心配そうに言う。
「サイファ、早く良くなってね」
「治ったらまた一緒にお茶をしよう」
サイファが笑顔を向けると、レイチェルもほっと表情を緩めて頷いた。そこに浮かぶ甘く柔らかい微笑み――彼にとってはそれが何よりもの薬だった。あたたかいものがじわりと胸に広がっていく。
「入れ」
今まで沈黙していたラウルが、唐突に短い一言を発した。いつもより僅かに声が低い。振り向いたサイファを一瞥すると、長髪をなびかせながら踵を返し、大きな足どりで医務室の中へ戻っていく。
虫の居所が悪いのだろうか、とサイファは思う。
やけに機嫌が悪く、苛立っているように見えた。もっとも、表面上は普段とそれほどの違いがあるわけではない。長い時間をともに過ごしたサイファだからこそ、微妙な変化から察することができたのだろう。
「じゃあね、レイチェル」
サイファは軽く右手を上げ、名残惜しさを振り払うかのようにそう言うと、ラウルのあとを追って医務室へと入っていった。
「風邪だな。かなり熱が高い。大人しく帰って寝ていろ」
ラウルは一通りの診察を終えると、ぶっきらぼうにそう言い放ち、薬の包みを投げてよこした。
「毎食後に飲め。一日分だ。足りなければまた来い」
「なあ、これから夜ごはんを食べにいかないか?」
サイファはもらった薬をポケットにしまいながら言った。
机に向かってカルテを書いていたラウルは、手を止めると、眉根を寄せて横目で睨みつける。
「私の言うことを聞いていたのか」
「家に帰っても夕食は用意されてないんだよ。遅くまで仕事をするつもりだったから、いらないって言っちゃったんだよね」
サイファは笑顔を見せて軽い口調で言う。
「ひとりで食べに行け」
「医者のくせに病人に冷たいな」
「病人なら病人らしくしろ」
ラウルはカルテにペンを走らせながら、苛ついたように突き放した返答をする。
サイファはわざとらしく溜息をつき、両手を腰に当てた。
「わかった。病人らしくここで大人しくしているよ。ベッドで寝ていればいいのか? でも夕食はラウルの部屋で食べさせてくれよ。手作りでも出前でもどちらでも構わない。あ、別におかゆじゃなくていいからな」
「……帰れ」
ラウルのペンを持つ手が止まった。眉間には深い縦皺が刻まれている。それだけではなく、抑えきれない怒りが全身から滲み出ているように見えた。
それでもサイファは怯むことなく平然として続ける。
「だから食べに行こうって言ったんだ。外食なら問題はないだろう? 今日くらい付き合ってくれよな。食べたら大人しく帰るからさ」
「おまえ……」
ラウルは怒りとも呆れともつかない呟きを漏らした。頭を押さえて溜息をつく。そして、眉をひそめてサイファを一瞥すると、無言で立ち上がり、不服そうな表情ながらも外に向かって歩き出した。
サイファは満足そうにニコニコしながら、そのあとをついていった。
「ラウルは何が食べたい?」
「何でもいい」
サイファが問いかけると、隣を歩くラウルは無愛想に素っ気ない答えを返す。前を向いたまま、視線を向けようともしない。
「好き嫌いはあるか?」
「ない」
ラウルの好きなものも嫌いなものも、サイファは何も知らなかった。8年もの間、家庭教師と教え子として毎日のように会っていたが、一度もラウルとともに食事をしたことはなかったのである。食事だけではない。ラウルの私的な生活については、ほとんど踏み込むことができずにいた。
「ならどこでもいいな」
サイファはそう言うと軽く溜息をついた。ポケットに片手を入れ、僅かに眉を寄せて目を細める。少し頭がクラリとした。
カラン、カラン――。
サイファが鈴のついた扉を開いて中に入り、そのあとにラウルが続く。
「静かで落ち着けるところだろう?」
サイファは振り返ってにっこりと微笑んだ。
そこは王宮内の喫茶店だった。内装はアンティーク調に統一され、窓にも上品なレースのカーテン掛かっていた。その窓からは、噴水のある中庭が見下ろせる。店の雰囲気は申し分なかった。
だが、その割には、いつ来ても客はあまりいないのだ。王宮の奥まった場所にあるためか、上品すぎる雰囲気のためか、気後れしてしまう者が多いのだろう。そもそも、こちらに来る用事のない下役では、存在すら知らないのかもしれない。そのため、この店に来るのは、ある程度の地位にある者がほとんどである。
「サイファ」
奥から弾んだ声が聞こえ、サイファは反射的に振り向いた。だが、見るまでもなく相手が誰かはわかっていた。
「父上」
その姿を奥のテーブルに認めると、にっこりと微笑みながら足を進めた。入口からは死角になっていたが、父であるリカルドの向かい側には、アルフォンスとフランシスが座っていた。目が合うと軽く会釈をする。
フランシスはいずれ魔導科学技術研究所の所長になると目されている人物だ。つまり、現在の所長であるアルフォンスの部下である。そして、リカルドの元後輩でもあり、その縁でサイファも何度か顔を合わせたことがあった。もっとも挨拶を交わしたくらいで、特に親しいということはない。
「ラウルと一緒に来たのか?」
リカルドは興味深げに身を乗り出して尋ねた。
「やっと念願が叶いました」
サイファは肩をすくめておどけたように言う。しかし、それは限りなく本心に近いものだった。魔導省に勤務するようになってから何度か誘ったのだが、すべて断られていたのである。
「いったいどんな手を使ったんだ? 弱みでも握ったのか?」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」
ラウルを連れ出すことの難しさは、リカルドもよく知っているのだろう。納得いかないと言わんばかりの不思議そうな顔をしていた。そして、じっと探るような視線をラウルに向けて言う。
「この10年で少しは丸くなった、ということかな?」
「こいつの異常なまでのしつこさに負けただけだ」
ラウルは腕を組むと、顎をしゃくってサイファを示した。
「ラウルの扱いには自信があるよ」
サイファは両手を腰に当て、軽く笑いながら言った。そして、意味ありげな視線をラウルに流すと、片方の口角を僅かに吊り上げた。その挑発に対抗するかのように、ラウルは眉を寄せ、冷たく燃えたぎる瞳で睨み下ろす。二人の視線は火花を散らしながらぶつかり合った。
「まあまあ、ふたりとも」
リカルドは両の手のひらを見せ、微笑みながら軽い口調で二人を宥めた。
ふと、居心地の悪そうなフランシスに気がつくと、安心させるようににっこりと微笑みかけて言う。
「紹介するよ。サイファは知っているな? その向こうにいるのが……」
「知っている」
リカルドを遮って答えたのはラウルだった。
「えっ?」
リカルドは思わずラウルに振り向いて聞き返す。
「こいつは私のことを知っている。私もこいつのことを知っている」
ラウルは無表情のままフランシスを見下ろして淡々と言った。
「ああ、そうか、医務室で風邪を診てもらったことがあったな」
リカルドは思い出したように言った。その記憶を反芻しながら、二度ほど小さく頷く。自分で見つけたその答えに満足しているようだった。
しかし、サイファは違うと思った。
フランシスの強張った表情に引っかかりを感じていた。それだけならば、単にラウルの冷たい態度に怯えているだけとも取れなくはない。しかし、隣のアルフォンスまでもが何か緊張している様子なのである。口を固く結んだまま、目を細めて視線を流し、フランシスとラウルを交互に窺っている。机の上で組み合わせた手には、不自然に力が入っていた。
「妙な気を起こしていないだろうな」
ぞっとするほどの冷たい瞳で、ラウルはフランシスを刺すように睨む。
フランシスはビクリを体を震わせた。冷や汗が頬を伝う。強張った顔をさらに強張らせ、それでも必死に笑みを張り付かせて答える。
「もう、きっぱりと諦めています」
「私が本気だということを忘れるな」
静かな声で重々しくそう言うと、ラウルは長髪を舞い上げながら背を向け、大きな足どりで歩き出した。リカルドたちとは離れた席にドカリと腰を下ろす。
サイファは当惑しつつも、とりあえず父親たちに軽く一礼し、早足でラウルを追いかけた。一瞬、目眩がして足が止まりそうになる。目を閉じて少し大きく息をした。やはり体調は良くないようだ。
「フランシスと何かあったのか?」
ラウルの正面に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねる。
「おまえは知らない方がいい」
「そういう言い方、余計に気になるんだけど」
頬杖をついて口をとがらせ、じとっとした目を向ける。
ラウルは背もたれに身を預け、小さく息をつきながら腕を組んだ。そして、サイファの追及から逃れるかのように、うつむいて視線を落とした。
エプロンドレスに身を包んだウエイトレスが、水の入ったグラスとメニューを持ってきた。上品な所作で一礼すると、それぞれをラウルとサイファの前に置いていく。
だが、サイファはそのメニューを手に取ることなく言う。
「ここのカレーライス、美味しいんだよ。ラウルも食べてみるか?」
「……ああ」
ラウルは無表情のまま答えた。
「じゃあ、カレーライスふたつ」
まだそこにいたウエイトレスに、サイファは笑顔を見せて注文する。ウエイトレスは復唱して確認を取り、一礼してからその場を離れた。
――意外と疲れるな。
サイファは冷静にそんなことを思う。普段はまったく苦にならないが、今日は愛想を振りまくたびに体力も気力も消耗するように感じていた。これも風邪の影響だろうか。だが、そういう素振りは少しも見せることなく続ける。
「で、フランシスと何があった?」
「あいつに訊け」
先ほどの質問を繰り返したが、ラウルは目を伏せたまま素っ気なく受け流す。どうあっても答えないという感じではない。食い下がれば口を割るだろう、とサイファは判断する。
「ラウルの口から聞きたいんだよ」
「誰から聞いても内容は変わらん」
「だったらラウルが教えてくれよ」
ラウルは僅かに視線を上げた。じっとサイファの目を見つめて言う。
「聞いたら後悔するかもしれん」
「聞かなければそれもわからない」
サイファは強い意志を秘めた瞳で、まっすぐに見つめ返した。何を言われても諦める気はないということを、ラウルにわからせたかった。
ラウルは溜息をついて背もたれに身を預けた。
「あいつはレイチェルを魔導の実験に使う計画を立てていた」
「えっ……」
サイファは思わず後ろを振り返った。だが、そこからはフランシスの姿は見えなかった。前に向き直ると、机の上で両手を組み合わせ、真面目な顔でラウルに尋ねる。
「どうやってそれを知ったんだ?」
「アルフォンスに相談された」
「そうか……」
アルフォンスは自分ではなくラウルに相談を持ちかけた――そのことは少し残念だったが、仕方のないことだと思う。少なくとも魔導に関しては、ラウルの方が知識も実力も圧倒的に上なのだ。それはきちんと自覚している。妬ましく思うような気持ちはなかった。
「ラウルが説得して諦めさせたのか?」
「研究所ごとおまえを消すと言った」
さらりと落とされた答えに、サイファは無言のまま目を大きくした。そのままじっとラウルを見つめる。その物言いたげな眼差しを受けたラウルは、苛ついたように眉をひそめた。
「何だ?」
「いや、ラウルが他人のためにそこまでやるなんて意外だったからさ。特にレイチェルのことは苦手に思っているみたいだしね」
今度はラウルが目を大きく見開く。しかし、すぐにきまり悪そうに視線を落とした。
サイファは小さく笑って続ける。
「まあ、嫌ってはいないようで安心したよ。レイチェルはときどき突拍子もないことを言うから扱いづらいだろうけど、彼女に悪気はないんだよ。大きな心で受け止めてやってくれると嬉しい」
ラウルとレイチェルには仲良くしてもらいたい――それは、サイファが以前からずっと望んでいたことだった。その根底にある思いは、ごく自然なものである。自分の好きな二人の間で諍いなど起こしてほしくない、ただそれだけだ。
「また三人でどこかへ行こうよ。きのうの遠乗り、楽しかったよな」
「楽しんでいたのはおまえだけだ」
ラウルはうつむいたまま憎まれ口を叩く。
「そんなことはないよ。レイチェルも喜んでいたし、ラウルだっていい気分転換になっただろう? たまには思いきり外の空気を吸うべきだよ」
むきになって言ったせいか、少し息が苦しくなった。ぎゅっと胸を締めつけられたように感じる。額にはじわりと汗が滲んできた。
「おまえ、遠乗りのせいで風邪をひいたのだろう。懲りていないのか」
「遠乗りのせいとは限らないさ。それに、それほどひどい風邪でもないし……」
不意に目の前が暗くなった。慌てて机に片腕をつき、ふらつきそうな体を支える。一瞬の後に、視界はうっすらと戻ってきたが、その視野は極端に狭まっていた。
「熱は高いけど、わりと体は平気みたいだよ」
精一杯に笑顔を作ってそう言うと、近くのグラスを手に取った。だが、すぐにするりと滑り落ち、ガシャンと音を立てて割れる。足に水が掛かったようで冷たい。
再び目の前が暗くなった。目を開いているのに何も見えない。ただ、体が傾いていくのはわかる。闇の中に沈み込んでいく感覚。しかし、それに抗う術はない。
意識が薄れていく頭の片隅で、サイファは自分を呼ぶラウルの声を聞いた。
胸を圧迫されたような息苦しさを感じ、サイファは目を覚ました。
ぼんやりした薄暗い視界に、見知らぬ天井が映る。ベッドもいつもと違って寝心地が悪い。そして、微かに消毒液のような匂いが漂っている。
ここは――?
少しだけ頭を動かし、ぐるりとあたりを見まわした。自分が寝かされていたのはパイプベッドであることに気がつく。周囲はクリーム色の薄いカーテンに覆われ、そのカーテンレールには、自分のものと思われる制服の上着が、ハンガーに掛けて吊るされていた。カーテンの外の様子は窺えないが、それだけでも十分に推察できた。
おそらくラウルの医務室だろう。
だが、自分がどうしてここにいるのかが思い出せない。手の甲を額にのせて目を細め、おぼろげな記憶を辿る。
確か、ラウルと食事に出かけて――。
ウエイトレスにカレーライスを注文してから、レイチェルについての話をしていた。そこまでは憶えているが、それ以降の記憶がぷっつりと途切れている。しかし、体調が良くなかったこと、ラウルの医務室に寝かされていることを合わせて考えると、おそらくあの店で昏倒したに違いない。
サイファは腕時計を見ようと右手首を眼前に掲げたが、そこには何もついていなかった。上着を脱がされたときに、一緒に外されたのだろう。体を起こしてあたりを探そうとする。
シャッ――。
軽い音がしてカーテンが開いた。薄暗い中に大きな影が姿を現す。ほのかな逆光のため、顔はよく見えなかったが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「倒れるまで我慢をするな。迷惑だ」
「ラウルがここまで運んでくれたのか?」
「放って帰るわけにはいかない」
どうやって自分を運んだのか興味があったが、訊いても答えてはくれないだろうと諦める。もっとも、普段であれば無理やりにでも聞き出そうとしただろう。だが、今はまだ体調が戻っていないせいか、そこまでの気力はなかったのだ。
ラウルは溜息をついて、ベッド脇においてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「そこまで体調が悪いことを見抜けなかった私にも落ち度はある。単純な風邪というわけではなく、過労からきているようだな」
「過労? そんなに無理をした覚えはないんだけどな」
サイファは腕を組んで首を傾げた。確かにこのところ仕事は忙しく、その日のうちに帰れないことも多かったが、あまりそれを負担に感じたことはなかった。
「せめて風邪をひいているときくらいは大人しくしていろ」
「こんなときでもないと、ラウルが食事に付き合ってくれないと思ったからさ」
軽く笑って肩をすくめる。彼の優しさに付け込んだつもりだったが、結果はこのざまだ。罰が当たったのかもしれない。
「医者の言うことは素直に聞くべきだったな」
「めずらしく殊勝だな」
「それだけ弱ってるってことだよ」
「軽口を叩けるくらいには回復したようだ」
ラウルは冷ややかにそう言うと、椅子から立ち上がり、背を向けて歩き出した。
サイファはシーツを掴み、慌てて身を乗り出す。
「どこへ行くんだよ」
「自室へ戻る」
「病人を置いて?」
ラウルは足を止めて僅かに振り返った。濃色の長い髪が緩やかに揺れる。月明かりに縁取られた横顔は、いつにもまして無感情に見えた。
「家に帰るなり、そこで寝るなり好きにしろ。リカルドには連絡を入れてある」
素っ気ない言い方だったが、そこに冷たさはなかった。少し責任を感じているせいかもしれない。サイファは凝りもせずそこに付け入ろうとする。
「ここじゃなくてラウルの部屋に入れてくれないか?」
「断る」
ラウルの返答には少しの躊躇いもなかった。それだけは譲れないということなのだろう。今までも何度となく懇願して、すべてにべもなく拒絶されているのだ。簡単にいかないことはわかっていた。それでもサイファはもう少しだけ粘ってみようと考える。
「ここのベッドは寝心地が悪いんだよ」
「贅沢を言うな。文句があるなら帰れ」
「シャワーだけでも使わせてくれよ。汗をかいて気持ちが悪いんだ」
「……家に帰れ」
ラウルの声が一段と低くなった。
サイファは目を伏せ、意識的に瞬きをしてから顔を上げた。
「じゃあ、せめてもう少しだけここにいてくれないか」
ラウルはじっとサイファを睨み下ろした。サイファもまっすぐにラウルを見つめた。どちらも引こうとせず、瞳の奥を探り合うかのように視線を絡ませる。
無言のまま時が過ぎていく。
先に視線を外したのはラウルだった。小さく溜息をつくと、ベッドから少し離れた机に向かって座る。そして、手元の電気スタンドをつけると、サイファに背を向けたまま本を読み始めた。
サイファはふっと小さく笑みを漏らした。
「たまには風邪をひくのも悪くないな」
呟くようにそう言うと、再びベッドに体を横たえ、掛け布団を肩まで引き上げた。
途端にあたりは静寂に包まれる。気味が悪いくらいに無音だった。
いつもこんな感じなのだろうか……。
わざと大きく息をつき、天井を見つめて目を細める。
「なあ、ラウルは寂しくないのか。ずっとひとりで、誰にも心を開かないで」
ラウルからの返答はなかった。本を捲る微かな音だけが聞こえる。
「ラウルを見ていると、何か放っておけないような気持ちになるよ。きっと、レイチェルも同じように思っているんじゃないかな。ラウルにとっては迷惑かもしれないけれど……」
サイファは静かに淡々と続けた。だが、ラウルに言っているのか、独り言なのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「僕じゃ、駄目なのかな」
一瞬の沈黙の後、ラウルの座っている椅子が小さく軋んだ。
「おまえらしくない弱気な言葉だな」
「本心はそんなものだよ、きっと」
サイファは急に疲れを感じ、細く息をついて目を閉じた。まだ体の状態が良くないにもかかわらず、調子に乗って話をしすぎたようだ。眠気に襲われて意識が沈み込んでいく。
「またどこかへ行こう、三人で……」
それは、ほとんど無意識に口をついた言葉だった。その微かな声は、この静寂でなければラウルの耳には届かなかっただろう。
サイファはそれを最後に眠りに落ちた。
三人に訪れるはずの穏やかな未来を信じながら――。
書類を眺めていたサイファは、視界がぼやけるのを感じて目を閉じた。左手で額を押さえて深く溜息をつく。
「随分と調子が悪そうだな」
隣に座る先輩のデニスが、ちらりと視線をよこして言った。ぶっきらぼうな言い方ではあったが、その声音から責めるようなものは感じられなかった。むしろ心配してくれているのだろうと思う。
「やっぱりわかりますか?」
「君がぼうっとしているのは珍しいからな。それに、顔も少し火照っている」
サイファは答えの代わりに、微かな笑顔を見せて肩をすくめた。少なくとも職場では普段どおりを装うつもりでいたが、いつのまにかそんな余裕をなくしていたらしい。思った以上に体がいうことをきかず、仕事を進めるだけで精一杯だったのだ。何度も顔を曇らせ、溜息をついた覚えがある。見るからにつらそうな状態だったのだろう。
医者に診てもらったわけではないが、おそらく風邪だ。
今朝は喉の痛みを感じる程度だったが、午後になって熱が上がってきたようだ。体がだるくて力が入らないうえに、背筋がゾクゾクするような悪寒を感じる。さらに、頭がぼんやりとして、まるで仕事がはかどらない。
昨日の遠乗りが原因だろうか。
そう思うものの風邪につながるような心当たりはない。朝が早かったせいか、多少の肌寒さを感じることはあったが、我慢するほどのものでもなかったし、湖には足さえつけていないのだ。
いや、もしかすると――。
帰路でのことが原因だろうかと考える。往路はレイチェルと二人乗りだったが、帰路は一人で乗ることになった。ラウルの後ろに横乗りするレイチェルを見つめながら、冷たい風を背中に受けなければならなかったのである。そのことが嫌だったわけではないが、一抹の寂しさを感じたのは事実だった。
そこまで思考を走らせると、ふと我にかえって苦笑した。
どうやら寒かったのは体よりも心の方らしい。それで風邪をひくことはないだろう。
結局、原因はわからないままだ。
どうも今日は物事を論理的に考えられていない気がする。これしきの結論にも随分と遠回りをしてしまった。やはり熱のせいで頭の働きが鈍っているのだ。
「今日はもう帰った方がいい。遠慮はするなよ」
「そうですね」
サイファは先輩の厚意を素直に受けた。急を要する仕事がないのであれば、このまま非効率的に続けることは得策ではない。早めに休養して早々に完治させた方が、結果的には早く仕事を進められるはずだ。
「では、医務室に寄ってから帰ります」
「お大事に」
デニスは軽く右手を上げてサイファを見送った。彼はあまり愛想が良い方ではないが、いつもさりげなく気遣ってくれる。サイファはそのことに感謝していた。
サイファはまだ明るい窓の外を眺めながら、廊下を歩いていった。タイル張りの固い床にもかかわらず、足もとがふわふわしているように感じる。高熱で力が入らないせいかもしれない。
彼の向かった先はラウルの医務室だった。
そこに到着すると、いつものようにノックもせずに扉を引く。だが、何かに引っかかってガシャンと音がしただけで、それが開くことはなかった。
鍵が掛かっているようだ。
ラウルが家庭教師以外で外出することはあまりない。まだレイチェルの家から帰っていない可能性の方が高いだろう。普段であればとっくに終わっている時間だが、長引いているのかもしれない。サイファは扉の前で息をつきながら腕を組み、ここで待つか、他の医務室に行くかを考えた。
そのとき――。
カチャリと鍵を外す音が聞こえ、続いてガラガラと扉が開いた。
「あれ……?」
扉の向こうにいた人物はレイチェルだった。その背後にはラウルもいる。ふたりとも扉の前に立っていたサイファを目にし、少し驚いたような表情を見せていた。
「レイチェルどうしたの?」
「医務室を見学していたの」
レイチェルは後ろで手を組み、小さくニコッと微笑んで答えた。
それを聞いて、サイファは安堵の息をついた。自分と同じように患者として来たのではないか思ったが、どうやらその心配はなさそうだ。無理をしているようには見えないし、おそらく彼女の言うとおりなのだろう。
「今から帰るところ?」
「ええ、サイファは?」
レイチェルは小首を傾げて尋ねた。
「風邪をひいたみたいだから、ラウルに診てもらおうかと思ってね」
「風邪……? 大丈夫なの?」
大きく瞬きをして歩み寄ろうとしたレイチェルを、サイファは右手を前に出して制止した。軽く握った左手を口元に当てて言う。
「あまり近づかない方がいいよ。うつるといけないから」
「そう……」
レイチェルは寂しげな声を落とすと、胸元で両手を組み合わせて心配そうに言う。
「サイファ、早く良くなってね」
「治ったらまた一緒にお茶をしよう」
サイファが笑顔を向けると、レイチェルもほっと表情を緩めて頷いた。そこに浮かぶ甘く柔らかい微笑み――彼にとってはそれが何よりもの薬だった。あたたかいものがじわりと胸に広がっていく。
「入れ」
今まで沈黙していたラウルが、唐突に短い一言を発した。いつもより僅かに声が低い。振り向いたサイファを一瞥すると、長髪をなびかせながら踵を返し、大きな足どりで医務室の中へ戻っていく。
虫の居所が悪いのだろうか、とサイファは思う。
やけに機嫌が悪く、苛立っているように見えた。もっとも、表面上は普段とそれほどの違いがあるわけではない。長い時間をともに過ごしたサイファだからこそ、微妙な変化から察することができたのだろう。
「じゃあね、レイチェル」
サイファは軽く右手を上げ、名残惜しさを振り払うかのようにそう言うと、ラウルのあとを追って医務室へと入っていった。
「風邪だな。かなり熱が高い。大人しく帰って寝ていろ」
ラウルは一通りの診察を終えると、ぶっきらぼうにそう言い放ち、薬の包みを投げてよこした。
「毎食後に飲め。一日分だ。足りなければまた来い」
「なあ、これから夜ごはんを食べにいかないか?」
サイファはもらった薬をポケットにしまいながら言った。
机に向かってカルテを書いていたラウルは、手を止めると、眉根を寄せて横目で睨みつける。
「私の言うことを聞いていたのか」
「家に帰っても夕食は用意されてないんだよ。遅くまで仕事をするつもりだったから、いらないって言っちゃったんだよね」
サイファは笑顔を見せて軽い口調で言う。
「ひとりで食べに行け」
「医者のくせに病人に冷たいな」
「病人なら病人らしくしろ」
ラウルはカルテにペンを走らせながら、苛ついたように突き放した返答をする。
サイファはわざとらしく溜息をつき、両手を腰に当てた。
「わかった。病人らしくここで大人しくしているよ。ベッドで寝ていればいいのか? でも夕食はラウルの部屋で食べさせてくれよ。手作りでも出前でもどちらでも構わない。あ、別におかゆじゃなくていいからな」
「……帰れ」
ラウルのペンを持つ手が止まった。眉間には深い縦皺が刻まれている。それだけではなく、抑えきれない怒りが全身から滲み出ているように見えた。
それでもサイファは怯むことなく平然として続ける。
「だから食べに行こうって言ったんだ。外食なら問題はないだろう? 今日くらい付き合ってくれよな。食べたら大人しく帰るからさ」
「おまえ……」
ラウルは怒りとも呆れともつかない呟きを漏らした。頭を押さえて溜息をつく。そして、眉をひそめてサイファを一瞥すると、無言で立ち上がり、不服そうな表情ながらも外に向かって歩き出した。
サイファは満足そうにニコニコしながら、そのあとをついていった。
「ラウルは何が食べたい?」
「何でもいい」
サイファが問いかけると、隣を歩くラウルは無愛想に素っ気ない答えを返す。前を向いたまま、視線を向けようともしない。
「好き嫌いはあるか?」
「ない」
ラウルの好きなものも嫌いなものも、サイファは何も知らなかった。8年もの間、家庭教師と教え子として毎日のように会っていたが、一度もラウルとともに食事をしたことはなかったのである。食事だけではない。ラウルの私的な生活については、ほとんど踏み込むことができずにいた。
「ならどこでもいいな」
サイファはそう言うと軽く溜息をついた。ポケットに片手を入れ、僅かに眉を寄せて目を細める。少し頭がクラリとした。
カラン、カラン――。
サイファが鈴のついた扉を開いて中に入り、そのあとにラウルが続く。
「静かで落ち着けるところだろう?」
サイファは振り返ってにっこりと微笑んだ。
そこは王宮内の喫茶店だった。内装はアンティーク調に統一され、窓にも上品なレースのカーテン掛かっていた。その窓からは、噴水のある中庭が見下ろせる。店の雰囲気は申し分なかった。
だが、その割には、いつ来ても客はあまりいないのだ。王宮の奥まった場所にあるためか、上品すぎる雰囲気のためか、気後れしてしまう者が多いのだろう。そもそも、こちらに来る用事のない下役では、存在すら知らないのかもしれない。そのため、この店に来るのは、ある程度の地位にある者がほとんどである。
「サイファ」
奥から弾んだ声が聞こえ、サイファは反射的に振り向いた。だが、見るまでもなく相手が誰かはわかっていた。
「父上」
その姿を奥のテーブルに認めると、にっこりと微笑みながら足を進めた。入口からは死角になっていたが、父であるリカルドの向かい側には、アルフォンスとフランシスが座っていた。目が合うと軽く会釈をする。
フランシスはいずれ魔導科学技術研究所の所長になると目されている人物だ。つまり、現在の所長であるアルフォンスの部下である。そして、リカルドの元後輩でもあり、その縁でサイファも何度か顔を合わせたことがあった。もっとも挨拶を交わしたくらいで、特に親しいということはない。
「ラウルと一緒に来たのか?」
リカルドは興味深げに身を乗り出して尋ねた。
「やっと念願が叶いました」
サイファは肩をすくめておどけたように言う。しかし、それは限りなく本心に近いものだった。魔導省に勤務するようになってから何度か誘ったのだが、すべて断られていたのである。
「いったいどんな手を使ったんだ? 弱みでも握ったのか?」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」
ラウルを連れ出すことの難しさは、リカルドもよく知っているのだろう。納得いかないと言わんばかりの不思議そうな顔をしていた。そして、じっと探るような視線をラウルに向けて言う。
「この10年で少しは丸くなった、ということかな?」
「こいつの異常なまでのしつこさに負けただけだ」
ラウルは腕を組むと、顎をしゃくってサイファを示した。
「ラウルの扱いには自信があるよ」
サイファは両手を腰に当て、軽く笑いながら言った。そして、意味ありげな視線をラウルに流すと、片方の口角を僅かに吊り上げた。その挑発に対抗するかのように、ラウルは眉を寄せ、冷たく燃えたぎる瞳で睨み下ろす。二人の視線は火花を散らしながらぶつかり合った。
「まあまあ、ふたりとも」
リカルドは両の手のひらを見せ、微笑みながら軽い口調で二人を宥めた。
ふと、居心地の悪そうなフランシスに気がつくと、安心させるようににっこりと微笑みかけて言う。
「紹介するよ。サイファは知っているな? その向こうにいるのが……」
「知っている」
リカルドを遮って答えたのはラウルだった。
「えっ?」
リカルドは思わずラウルに振り向いて聞き返す。
「こいつは私のことを知っている。私もこいつのことを知っている」
ラウルは無表情のままフランシスを見下ろして淡々と言った。
「ああ、そうか、医務室で風邪を診てもらったことがあったな」
リカルドは思い出したように言った。その記憶を反芻しながら、二度ほど小さく頷く。自分で見つけたその答えに満足しているようだった。
しかし、サイファは違うと思った。
フランシスの強張った表情に引っかかりを感じていた。それだけならば、単にラウルの冷たい態度に怯えているだけとも取れなくはない。しかし、隣のアルフォンスまでもが何か緊張している様子なのである。口を固く結んだまま、目を細めて視線を流し、フランシスとラウルを交互に窺っている。机の上で組み合わせた手には、不自然に力が入っていた。
「妙な気を起こしていないだろうな」
ぞっとするほどの冷たい瞳で、ラウルはフランシスを刺すように睨む。
フランシスはビクリを体を震わせた。冷や汗が頬を伝う。強張った顔をさらに強張らせ、それでも必死に笑みを張り付かせて答える。
「もう、きっぱりと諦めています」
「私が本気だということを忘れるな」
静かな声で重々しくそう言うと、ラウルは長髪を舞い上げながら背を向け、大きな足どりで歩き出した。リカルドたちとは離れた席にドカリと腰を下ろす。
サイファは当惑しつつも、とりあえず父親たちに軽く一礼し、早足でラウルを追いかけた。一瞬、目眩がして足が止まりそうになる。目を閉じて少し大きく息をした。やはり体調は良くないようだ。
「フランシスと何かあったのか?」
ラウルの正面に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねる。
「おまえは知らない方がいい」
「そういう言い方、余計に気になるんだけど」
頬杖をついて口をとがらせ、じとっとした目を向ける。
ラウルは背もたれに身を預け、小さく息をつきながら腕を組んだ。そして、サイファの追及から逃れるかのように、うつむいて視線を落とした。
エプロンドレスに身を包んだウエイトレスが、水の入ったグラスとメニューを持ってきた。上品な所作で一礼すると、それぞれをラウルとサイファの前に置いていく。
だが、サイファはそのメニューを手に取ることなく言う。
「ここのカレーライス、美味しいんだよ。ラウルも食べてみるか?」
「……ああ」
ラウルは無表情のまま答えた。
「じゃあ、カレーライスふたつ」
まだそこにいたウエイトレスに、サイファは笑顔を見せて注文する。ウエイトレスは復唱して確認を取り、一礼してからその場を離れた。
――意外と疲れるな。
サイファは冷静にそんなことを思う。普段はまったく苦にならないが、今日は愛想を振りまくたびに体力も気力も消耗するように感じていた。これも風邪の影響だろうか。だが、そういう素振りは少しも見せることなく続ける。
「で、フランシスと何があった?」
「あいつに訊け」
先ほどの質問を繰り返したが、ラウルは目を伏せたまま素っ気なく受け流す。どうあっても答えないという感じではない。食い下がれば口を割るだろう、とサイファは判断する。
「ラウルの口から聞きたいんだよ」
「誰から聞いても内容は変わらん」
「だったらラウルが教えてくれよ」
ラウルは僅かに視線を上げた。じっとサイファの目を見つめて言う。
「聞いたら後悔するかもしれん」
「聞かなければそれもわからない」
サイファは強い意志を秘めた瞳で、まっすぐに見つめ返した。何を言われても諦める気はないということを、ラウルにわからせたかった。
ラウルは溜息をついて背もたれに身を預けた。
「あいつはレイチェルを魔導の実験に使う計画を立てていた」
「えっ……」
サイファは思わず後ろを振り返った。だが、そこからはフランシスの姿は見えなかった。前に向き直ると、机の上で両手を組み合わせ、真面目な顔でラウルに尋ねる。
「どうやってそれを知ったんだ?」
「アルフォンスに相談された」
「そうか……」
アルフォンスは自分ではなくラウルに相談を持ちかけた――そのことは少し残念だったが、仕方のないことだと思う。少なくとも魔導に関しては、ラウルの方が知識も実力も圧倒的に上なのだ。それはきちんと自覚している。妬ましく思うような気持ちはなかった。
「ラウルが説得して諦めさせたのか?」
「研究所ごとおまえを消すと言った」
さらりと落とされた答えに、サイファは無言のまま目を大きくした。そのままじっとラウルを見つめる。その物言いたげな眼差しを受けたラウルは、苛ついたように眉をひそめた。
「何だ?」
「いや、ラウルが他人のためにそこまでやるなんて意外だったからさ。特にレイチェルのことは苦手に思っているみたいだしね」
今度はラウルが目を大きく見開く。しかし、すぐにきまり悪そうに視線を落とした。
サイファは小さく笑って続ける。
「まあ、嫌ってはいないようで安心したよ。レイチェルはときどき突拍子もないことを言うから扱いづらいだろうけど、彼女に悪気はないんだよ。大きな心で受け止めてやってくれると嬉しい」
ラウルとレイチェルには仲良くしてもらいたい――それは、サイファが以前からずっと望んでいたことだった。その根底にある思いは、ごく自然なものである。自分の好きな二人の間で諍いなど起こしてほしくない、ただそれだけだ。
「また三人でどこかへ行こうよ。きのうの遠乗り、楽しかったよな」
「楽しんでいたのはおまえだけだ」
ラウルはうつむいたまま憎まれ口を叩く。
「そんなことはないよ。レイチェルも喜んでいたし、ラウルだっていい気分転換になっただろう? たまには思いきり外の空気を吸うべきだよ」
むきになって言ったせいか、少し息が苦しくなった。ぎゅっと胸を締めつけられたように感じる。額にはじわりと汗が滲んできた。
「おまえ、遠乗りのせいで風邪をひいたのだろう。懲りていないのか」
「遠乗りのせいとは限らないさ。それに、それほどひどい風邪でもないし……」
不意に目の前が暗くなった。慌てて机に片腕をつき、ふらつきそうな体を支える。一瞬の後に、視界はうっすらと戻ってきたが、その視野は極端に狭まっていた。
「熱は高いけど、わりと体は平気みたいだよ」
精一杯に笑顔を作ってそう言うと、近くのグラスを手に取った。だが、すぐにするりと滑り落ち、ガシャンと音を立てて割れる。足に水が掛かったようで冷たい。
再び目の前が暗くなった。目を開いているのに何も見えない。ただ、体が傾いていくのはわかる。闇の中に沈み込んでいく感覚。しかし、それに抗う術はない。
意識が薄れていく頭の片隅で、サイファは自分を呼ぶラウルの声を聞いた。
胸を圧迫されたような息苦しさを感じ、サイファは目を覚ました。
ぼんやりした薄暗い視界に、見知らぬ天井が映る。ベッドもいつもと違って寝心地が悪い。そして、微かに消毒液のような匂いが漂っている。
ここは――?
少しだけ頭を動かし、ぐるりとあたりを見まわした。自分が寝かされていたのはパイプベッドであることに気がつく。周囲はクリーム色の薄いカーテンに覆われ、そのカーテンレールには、自分のものと思われる制服の上着が、ハンガーに掛けて吊るされていた。カーテンの外の様子は窺えないが、それだけでも十分に推察できた。
おそらくラウルの医務室だろう。
だが、自分がどうしてここにいるのかが思い出せない。手の甲を額にのせて目を細め、おぼろげな記憶を辿る。
確か、ラウルと食事に出かけて――。
ウエイトレスにカレーライスを注文してから、レイチェルについての話をしていた。そこまでは憶えているが、それ以降の記憶がぷっつりと途切れている。しかし、体調が良くなかったこと、ラウルの医務室に寝かされていることを合わせて考えると、おそらくあの店で昏倒したに違いない。
サイファは腕時計を見ようと右手首を眼前に掲げたが、そこには何もついていなかった。上着を脱がされたときに、一緒に外されたのだろう。体を起こしてあたりを探そうとする。
シャッ――。
軽い音がしてカーテンが開いた。薄暗い中に大きな影が姿を現す。ほのかな逆光のため、顔はよく見えなかったが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「倒れるまで我慢をするな。迷惑だ」
「ラウルがここまで運んでくれたのか?」
「放って帰るわけにはいかない」
どうやって自分を運んだのか興味があったが、訊いても答えてはくれないだろうと諦める。もっとも、普段であれば無理やりにでも聞き出そうとしただろう。だが、今はまだ体調が戻っていないせいか、そこまでの気力はなかったのだ。
ラウルは溜息をついて、ベッド脇においてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「そこまで体調が悪いことを見抜けなかった私にも落ち度はある。単純な風邪というわけではなく、過労からきているようだな」
「過労? そんなに無理をした覚えはないんだけどな」
サイファは腕を組んで首を傾げた。確かにこのところ仕事は忙しく、その日のうちに帰れないことも多かったが、あまりそれを負担に感じたことはなかった。
「せめて風邪をひいているときくらいは大人しくしていろ」
「こんなときでもないと、ラウルが食事に付き合ってくれないと思ったからさ」
軽く笑って肩をすくめる。彼の優しさに付け込んだつもりだったが、結果はこのざまだ。罰が当たったのかもしれない。
「医者の言うことは素直に聞くべきだったな」
「めずらしく殊勝だな」
「それだけ弱ってるってことだよ」
「軽口を叩けるくらいには回復したようだ」
ラウルは冷ややかにそう言うと、椅子から立ち上がり、背を向けて歩き出した。
サイファはシーツを掴み、慌てて身を乗り出す。
「どこへ行くんだよ」
「自室へ戻る」
「病人を置いて?」
ラウルは足を止めて僅かに振り返った。濃色の長い髪が緩やかに揺れる。月明かりに縁取られた横顔は、いつにもまして無感情に見えた。
「家に帰るなり、そこで寝るなり好きにしろ。リカルドには連絡を入れてある」
素っ気ない言い方だったが、そこに冷たさはなかった。少し責任を感じているせいかもしれない。サイファは凝りもせずそこに付け入ろうとする。
「ここじゃなくてラウルの部屋に入れてくれないか?」
「断る」
ラウルの返答には少しの躊躇いもなかった。それだけは譲れないということなのだろう。今までも何度となく懇願して、すべてにべもなく拒絶されているのだ。簡単にいかないことはわかっていた。それでもサイファはもう少しだけ粘ってみようと考える。
「ここのベッドは寝心地が悪いんだよ」
「贅沢を言うな。文句があるなら帰れ」
「シャワーだけでも使わせてくれよ。汗をかいて気持ちが悪いんだ」
「……家に帰れ」
ラウルの声が一段と低くなった。
サイファは目を伏せ、意識的に瞬きをしてから顔を上げた。
「じゃあ、せめてもう少しだけここにいてくれないか」
ラウルはじっとサイファを睨み下ろした。サイファもまっすぐにラウルを見つめた。どちらも引こうとせず、瞳の奥を探り合うかのように視線を絡ませる。
無言のまま時が過ぎていく。
先に視線を外したのはラウルだった。小さく溜息をつくと、ベッドから少し離れた机に向かって座る。そして、手元の電気スタンドをつけると、サイファに背を向けたまま本を読み始めた。
サイファはふっと小さく笑みを漏らした。
「たまには風邪をひくのも悪くないな」
呟くようにそう言うと、再びベッドに体を横たえ、掛け布団を肩まで引き上げた。
途端にあたりは静寂に包まれる。気味が悪いくらいに無音だった。
いつもこんな感じなのだろうか……。
わざと大きく息をつき、天井を見つめて目を細める。
「なあ、ラウルは寂しくないのか。ずっとひとりで、誰にも心を開かないで」
ラウルからの返答はなかった。本を捲る微かな音だけが聞こえる。
「ラウルを見ていると、何か放っておけないような気持ちになるよ。きっと、レイチェルも同じように思っているんじゃないかな。ラウルにとっては迷惑かもしれないけれど……」
サイファは静かに淡々と続けた。だが、ラウルに言っているのか、独り言なのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「僕じゃ、駄目なのかな」
一瞬の沈黙の後、ラウルの座っている椅子が小さく軋んだ。
「おまえらしくない弱気な言葉だな」
「本心はそんなものだよ、きっと」
サイファは急に疲れを感じ、細く息をついて目を閉じた。まだ体の状態が良くないにもかかわらず、調子に乗って話をしすぎたようだ。眠気に襲われて意識が沈み込んでいく。
「またどこかへ行こう、三人で……」
それは、ほとんど無意識に口をついた言葉だった。その微かな声は、この静寂でなければラウルの耳には届かなかっただろう。
サイファはそれを最後に眠りに落ちた。
三人に訪れるはずの穏やかな未来を信じながら――。
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