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10. ティータイム
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翌日から、ラウルはレイチェルの授業を始めた。
授業中に関していえば、レイチェルは二年前とあまり変わっていなかった。つまり、手のかからない教え子ということだ。言われたことには素直に従い、記憶力は良く、飲み込みも早い。教えたことはすぐに出来るようになる。
ただ、やはり応用力はほとんど無いといってもいい。未知の問題だと判断すると、途端に思考を放棄してしまう。このことに関しては、性格的なものが大きいため、克服させるのは難しそうだ。考えると頭が痛くなる。
そして、魔導のことも――。
彼女にはまだ切り出していない。だが、避けては通れない問題だろう。少なくとも基本的な制御だけは学ばせなければならない。それは、二年前にアルフォンスから頼まれたことでもある。
だが、ラウル個人としては、それだけで済ませたくはなかった。
出来ることなら、彼女の秘められた魔導の力を引き出したい。彼女の潜在的な力は、ラウルを除けば、間違いなくこの国で一番である。それを引き出したうえで、それなりの訓練を積めば、稀代の使い手になるかもしれない。どこまでになるか、行き着く先を見てみたい――魔導に携わるものならば、誰もが抱いても不思議ではない好奇心である。
しかし、それは、彼女自身は全く望んでいないことだ。自分の身勝手な好奇心で、そこまでのことを押しつけるのは傲慢というものだろう。
「今日はここまでだ。明日は物理学にする」
「ちょっと待って」
レイチェルは軽く呼び止めながら、立ち上がろうとするラウルの袖を掴んで引いた。
「何だ?」
ラウルは眉をひそめながらも、促されるまま椅子に座り直した。
レイチェルは机の下に身を屈めると、手提げの白い紙袋を慎重に取り出した。それを膝の上に置き、ラウルに向かってにっこりと笑いかける。
「これ、きのう約束したプレゼント」
「プレゼントだと?」
ラウルは訝しげに聞き返しながら、差し出された紙袋を受け取った。そこそこ重量感がある。上から覗き込むと、淡いピンク色のリボンが掛けられた大きめの白い箱が見えた。
「ティーカップよ。ついでにティーポットもあるみたい」
「家にあるものを持ってくるのではなかったのか」
確かに彼女はティーカップを持ってくると言った。だが、それは「うちから」だったはずだ。家で余っているものを持ってくるのだろうとラウルは理解していた。しかし、これはそういう類のものには見えない。
「そのつもりだったんだけど、お母さまがそれでは失礼だからって買ってきちゃったの」
レイチェルは肩をすくめて言った。
「母親に何を言った?」
「二年前のお詫びにティーカップをプレゼントしたいって言っただけよ」
そんなことを聞いたら、家にあるものでは失礼だと考えるのも当然だろう。名門のラグランジェ家なのだ。そういうところはきちんとしているに違いない。
「もらってくれる? そうじゃないと、私、困るんだけど……」
レイチェルは上目遣いで心配そうに尋ねた。
このプレゼントを拒めば、彼女の謝罪を拒んだことになってしまう。それも、彼女の両親に宣言するに等しい状態だ。彼女が困るというのも理解できる。そして、自分にとっても本意ではない。
「……わかった」
「これでラウルと一緒にお茶が出来るわね」
レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、無邪気に声を弾ませた。
ラウルは溜息をついた。何か騙されたような気がしないでもないが、成り行きとはいえすべて自分が承諾したことだ。今さら覆すようなことは言えないだろう。
澄みきった青空の下、いつものように人通りの少ない裏道を通って医務室へと向かう。
今日もレイチェルはついてきた。嬉しそうにニコニコしながら隣を歩いている。口数は多くないが、時折、ラウルを見上げて話しかけてくる。その表情は、まるで小さな子供のように屈託がなかった。
王宮に入って階段を上がり、しばらく歩くと医務室の前に到着する。
ラウルは鍵を開けた。いつもはまず医務室の席に着くのだが、今日は大きな荷物を持っている。まっすぐに奥の自室へと向かった。当然のようにレイチェルもついてきた。ラウルのすぐ後ろで、軽い足音が弾んでいた。
ラウルは白い紙袋をダイニングテーブルの上に置き、中から白い箱を取り出した。リボンを外し、包装紙を破いて箱を開ける。そこには白いティーカップとソーサが2組、そして同じ色のティーポットが入っていた。何も模様は入っていないが、決して安物ではなく、上質であることは一目でわかった。
「ラウルの好みがわからないからシンプルなものにしたって、お母さまが言っていたわ」
何も考えてなさそうなレイチェルとは違い、彼女の母親は細かいことまで気をまわす人物のようだ。見た目よりもしっかりしているのだろう。
「気に入った?」
レイチェルは無表情のラウルを覗き込んで尋ねる。長い金の髪がさらりと揺れた。
ラウルは破いた包装紙を丸めながら、ぶっきらぼうに言う。
「礼を言っておけ」
「良かった」
レイチェルは胸もとに手を当てた。安堵したとでも言いたげな様子だが、それほど心配しているようには見えなかった。甘やかされて育った彼女のことだ。今までほとんどのことが思い通りになってきたのだろう。そのため今回も突き返されるようなことはないと確信していたのかもしれない。いや、そんなことは想像すらしていなかったに違いない。
「じゃあ、お茶にしましょう」
彼女はダイニングテーブルの向かい側にまわって椅子に座った。そこは昨日と同じ場所である。彼女の中ではすでに指定席になっているのだろうか。ニコニコしながら両手で頬杖をつくと、無邪気に愛くるしく言う。
「今日はラウルも一緒ね」
ラウルは溜息をつきながらも、言われるままにティータイムの準備を始めた。水の入ったヤカンを火に掛けると、その間に、新品のティーカップとティーポットを手際よく洗った。棚から紅茶の缶を取り出し、ティーポットに目分量で茶葉を入れる。
「ねえ、お菓子はあるの?」
レイチェルは頬杖をついたまま口を開く。
「ケーキでいいのか?」
ラウルはティーポットに湯を注ぎながら尋ね返した。白い湯気が視界を覆う。顔が少し熱くなった。
「ケーキ、用意してくれたの?」
「おまえがそうしろと言った」
「嬉しい、ラウルありがとう」
レイチェルの声は、感情のままに弾んでいた。
結局、何もかも彼女の思うままになっている気がする。それは、自分が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。優しくしようなどと思っているわけではないが、無意識に甘くなっていることは否めない。
ラウルは冷蔵庫から小さな箱を取り出し、その中のケーキを皿にのせて彼女に出す。
「ひとつだけ?」
レイチェルはラウルを見上げて尋ねた。
「いくつ食べる気だ?」
ラウルは呆れた眼差しで見下ろしながら言う。
「そうじゃなくて、ラウルの分は?」
「それひとつしか買っていない」
「じゃあ、半分にしましょう」
レイチェルはケーキの皿を両手で持ち上げ、ラウルに差し出した。
「いらん、だから買わなかった」
ラウルは腕を組みながら、冷たくきっぱりと撥ねつけた。
それでもレイチェルは諦めなかった。にっこりとして腕を伸ばし、優しく諭すように言う。
「だめよ、一緒にお茶をするんだから。一緒に食べなければ意味がないわ」
ラウルは溜息をついた。観念するしかなさそうだった。
彼女からその皿を受け取ると、ケーキを半分に切り、もうひとつの皿にその半分を移した。ふたつの皿をそれぞれの席に置く。紅茶もティーカップに注ぎ、ソーサに載せてテーブルに置いた。
これでティータイムの形はそれなりに整ったはずだ。もう文句はないだろう。
「ラウルも座って」
レイチェルは顔を斜めに傾け、にっこりと笑って言った。
二人はささやかなお茶会を始めた。ただ紅茶を飲んで、ケーキを食べるだけである。
「楽しいか」
「ええ」
向かいのレイチェルに尋ねると、満面の笑みで答えが返ってきた。
何がそんなに楽しいのか、ラウルにはわからなかった。面白い話をしているわけでもなければ、紅茶やケーキが特に美味しいわけでもない。彼女なら普段からもっと上等なものを口にしているはずである。
「ラウルはここでいつもひとりなの?」
レイチェルはティーカップをソーサに戻しながら尋ねた。
「誰も入れないことにしていると言ったはずだ」
ラウルはぶっきらぼうに答えた。きのうから何度も同じことを言っている。彼女はわかっていて尋ねているのかもしれない。ケーキにフォークを突き立てて口に運ぶ。
「寂しくないの?」
レイチェルは大きな瞳でじっと見つめて言う。
「ひとりの方が煩わしくなくていい」
「今は私がいるから煩わしいの?」
「ああ、紅茶やケーキの準備までさせられて迷惑している」
ラウルは責めるように言ったつもりだが、レイチェルは反省するどころか、なぜかクスクスと笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろうか。彼女の思考回路がまるでわからない。
レイチェルはケーキを食べながら言う。
「このケーキ、美味しいわね。イチゴのショートケーキって、私、大好きなの」
ラウルは紅茶を飲みながら、無邪気な彼女に目を向けた。ティーカップをゆっくりとソーサに戻す。
「好き嫌いがあるなら言っておけ。おまえの好みは知らんからな」
「んー……レーズン以外ならたぶん大丈夫」
レイチェルは斜め上に目を向けて考えたあと、ラウルに向き直ってにっこりと答えた。
「わかった。レーズンを避ければいいんだな」
ラウルは淡々と確認する。
「ねえ、ラウル。お店のケーキもいいけれど、ときどきは手作りのお菓子も食べたいの」
レイチェルは身を乗り出して言う。
ラウルは溜息をついた。いったいどこまで我が侭を言うつもりなのだろうか。
「何を作ってほしい」
面倒だと思いながらも尋ねてみる。
レイチェルはフォークを握りしめて目を輝かせた。
「えーっと、じゃあ、ミルフィーユとかモンブランとか」
「……おまえ、それは嫌がらせか」
ラウルは眉根を寄せた。
「だめなの?」
レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。
「そんな手間のかかるもの、作る気も起きん」
ラウルは額を押さえた。自分の要求がどれほどやっかいなことなのか、彼女はわかっているのだろうか。作ろうと思えば作れないことはない。だが、冗談ではないと思う。そこまでの義理も筋合いもない。小さく溜息をついて言う。
「スコーン、ショートブレッド、プリン、ホットケーキ、どれか選べ」
「じゃあ、スコーンとプリン」
レイチェルはすぐに答えた。
ラウルは眉をひそめて睨んだ。低い声で言う。
「ひとつにしろ」
「プリン」
レイチェルはまっすぐラウルを見たまま即答した。
ラウルは腕を組んでうつむき、目を閉じる。肩から焦茶色の髪が滑り落ちた。
「気の向いたときに一回くらいなら作ってやる」
「楽しみにしているわ」
レイチェルはそう言って愛らしく微笑んだ。
翌日も、翌々日も、レイチェルはラウルの部屋にやってきた。
ラウルは両日とも律儀にケーキを用意した。いくら彼女に負い目があるからといって、ここまで言いなりになる必要があるのだろうか。なぜ拒否しなかったのだろうか。なぜ無視しなかったのだろうか。自問してみるものの答えは出ない。
ただ、嫌でたまらないというほどのことはない。
煩わしいという気持ちに変わりはないが、仕方がないという諦めの気持ちが大きくなっているような気がする。いや、正直なところをいえば、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると悪い気はしない。そう思う自分はどうかしているのだろうか――。
その翌日も、やはりレイチェルはついてきた。これで4日連続である。家庭教師の授業とその後のティータイムが、ラウルにとって日常の一部になりつつあった。
医務室の前に着くと、いつものように鍵を開けて扉を引く。
「ラウル、今日はここで帰るわね」
中に足を踏み入れようとしたとき、レイチェルが背後でそう言った。ごく普通の落ち着いた口調だった。申し訳なさそうにも、怒っているようにも、思いつめたようにも感じられなかった。
ラウルは扉に手を置き、ゆっくりと顔だけ振り返った。
「……なぜだ」
「サイファがね、今日は早く帰れそうだから二人でお茶をしようって」
レイチェルは胸もとで手を組み合わせ、にっこりと笑顔を見せた。
「そうか」
ラウルは無表情を保ったまま呟くように言った。
――そうならそうと、あらかじめ言っておけ。
喉もとまで出かかった言葉を、ぐっと堪えて飲み下す。別に約束をしていたわけではない。ただ、今日も来るだろうと自分が勝手に思い込んでいただけだ。彼女は何も悪くない。だが――。
「嬉しそうだな」
「ええ、サイファの家でお茶をするのって久し振りなんだもの」
レイチェルははしゃいだ声を上げた。
その様子を眺めるラウルの心には、もやもやとした重いものがのしかかっていた。
「やあ、レイチェル」
よく通るはっきりとした声を響かせながら、サイファは後ろからレイチェルを抱きすくめた。魔導省の制服を身に着けている。仕事帰りなのだろう。右手に持っていた手提げの紙袋が、彼女の前で大きく弧を描いて揺れた。
「サイファ!」
レイチェルはとびきりの笑顔で振り返った。後頭部のリボンが大きく弾み、長い髪がさらりと舞い上がる。窓から射し込む光を受けて、透きとおるような金色が上品に煌めいた。
サイファは彼女の頬を左手で包み、慈しむように柔らかく微笑んだ。
「ラウルに挨拶してから帰ろうと思って、ここへ寄ってみたんだけど、ちょうどいいタイミングだったみたいだね」
優しい声でそう言うと、端整な顔をゆっくりとラウルに向けた。青い瞳に挑発的な光を宿し、口の端を僅かに上げる。
「ラウル先生、今度は逃げずに続けているみたいだね」
ラウルはムッとして眉をしかめた。
「嫌味を言うために来たのか?」
「様子を聞きに来たんだよ」
サイファは両手を腰に当てて言う。
「困ったことや相談したいことはないか?」
「何もない」
ラウルは冷ややかに答えて腕を組んだ。
「レイチェルはちゃんと勉強しているか?」
「おまえよりよほど真面目だ」
「それは良かった」
サイファはくすっと小さく笑って言う。その余裕の態度が、ラウルには何か無性に腹立たしく感じられた。サイファには特に意図はなかったのだろう。ただ、自分の方に余裕がなかっただけだ。
「レイチェル、これからも先生の言うことをよく聞いて勉強するんだよ」
サイファは小さな子供に言い含めるような口調でそう言うと、彼女の前髪を人差し指で小さく払って微笑む。
「我が侭ばかり言って怒らせないようにね」
「我が侭なんて言っていないわ。ねえ、ラウル」
レイチェルはラウルに振り向いて同意を求めた。少しも悪びれた様子はない。あどけない無垢な笑顔を見せている。嘘をついているつもりはなく、本当にそう思っているのだろう。確かに、授業中に関してだけでいえば、間違いではない。
「……ああ」
ラウルは彼女の望むままの答えを返した。
「ちょっと待て、ラウル」
無言で医務室に入ろうとしたラウルを、サイファは慌てて引き留めた。手にしていた薄黄色の紙袋から、同色の紙の箱を取り出す。片手で持てるくらいのものだ。それほど大きくはない。
「レイチェルがお世話になっているお礼だ」
人なつこい笑顔でそう言うと、その紙の箱をラウルに差し出した。
ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「何だ?」
「レアチーズケーキ。僕たちの分のついでなんだけどね」
サイファは反対の手に持っていた紙袋を掲げた。その上部には店のロゴタイプが小さく入っている。ケーキ店の名前らしい。これからサイファの家でお茶をするとレイチェルが言っていた。そのときに食べるケーキを買ってきたのだろう。
「ここのレアチーズケーキ、とっても美味しいのよ」
レイチェルはサイファの隣で微笑みながら、無邪気にそんなことを言った。
「もしかして、甘いものは苦手だったか?」
無表情で立ち尽くすラウルを見て、サイファは覗き込みながら尋ねた。
「……もらっておく」
ラウルは小さな箱を片手で掴んだ。
サイファは満足そうな笑みを浮かべると、隣のレイチェルの頭に手をのせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。とびきり美味しい紅茶も用意してあるよ」
「本当? 嬉しい」
レイチェルはサイファを見上げ、幸せそうに笑った。
「ラウル、それじゃあ、またな」
「またあしたね」
ふたりは笑顔でさよならの挨拶をした。そして、どちらからともなく自然に手を取り合うと、楽しそうに話をしながら帰っていった。もうラウルのことなど眼中にないのだろう。ただの一度も振り返ることはなかった。
ラウルは医務室の奥の自室にひとりで戻った。
サイファからもらった薄黄色の紙箱を、ダイニングテーブルの上に置く。それをじっと見下ろしながら、腕を組み、流しにゆっくりと寄りかかった。
秒針の単調な音が耳朶に響く。
不思議なくらいに静かな部屋。
無意味に流れていく時間。
ラウルは小さく溜息をついた。
体を屈めて冷蔵庫を開ける。あまり物は入っていない。テーブルの上の箱を無造作にその中に放り込むと、代わりに中から小さなカップを取り出した。
それはプリンだった。買ってきたものではない。ラウルが作ったものである。
気が向いたら一度くらいはプリンを作ってやる――。
数日前にレイチェルとそう約束した。それを今日のティータイムで果たすつもりだった。だが、彼女はここにはいない。自分ではなく、サイファの方を選んだ――いや、その言い方は適切ではない。ただタイミングが悪かっただけだ。
ラウルはその場に立ったまま、スプーンですくってそれを食べ始めた。
底のカラメルがほんの少し苦かった。
授業中に関していえば、レイチェルは二年前とあまり変わっていなかった。つまり、手のかからない教え子ということだ。言われたことには素直に従い、記憶力は良く、飲み込みも早い。教えたことはすぐに出来るようになる。
ただ、やはり応用力はほとんど無いといってもいい。未知の問題だと判断すると、途端に思考を放棄してしまう。このことに関しては、性格的なものが大きいため、克服させるのは難しそうだ。考えると頭が痛くなる。
そして、魔導のことも――。
彼女にはまだ切り出していない。だが、避けては通れない問題だろう。少なくとも基本的な制御だけは学ばせなければならない。それは、二年前にアルフォンスから頼まれたことでもある。
だが、ラウル個人としては、それだけで済ませたくはなかった。
出来ることなら、彼女の秘められた魔導の力を引き出したい。彼女の潜在的な力は、ラウルを除けば、間違いなくこの国で一番である。それを引き出したうえで、それなりの訓練を積めば、稀代の使い手になるかもしれない。どこまでになるか、行き着く先を見てみたい――魔導に携わるものならば、誰もが抱いても不思議ではない好奇心である。
しかし、それは、彼女自身は全く望んでいないことだ。自分の身勝手な好奇心で、そこまでのことを押しつけるのは傲慢というものだろう。
「今日はここまでだ。明日は物理学にする」
「ちょっと待って」
レイチェルは軽く呼び止めながら、立ち上がろうとするラウルの袖を掴んで引いた。
「何だ?」
ラウルは眉をひそめながらも、促されるまま椅子に座り直した。
レイチェルは机の下に身を屈めると、手提げの白い紙袋を慎重に取り出した。それを膝の上に置き、ラウルに向かってにっこりと笑いかける。
「これ、きのう約束したプレゼント」
「プレゼントだと?」
ラウルは訝しげに聞き返しながら、差し出された紙袋を受け取った。そこそこ重量感がある。上から覗き込むと、淡いピンク色のリボンが掛けられた大きめの白い箱が見えた。
「ティーカップよ。ついでにティーポットもあるみたい」
「家にあるものを持ってくるのではなかったのか」
確かに彼女はティーカップを持ってくると言った。だが、それは「うちから」だったはずだ。家で余っているものを持ってくるのだろうとラウルは理解していた。しかし、これはそういう類のものには見えない。
「そのつもりだったんだけど、お母さまがそれでは失礼だからって買ってきちゃったの」
レイチェルは肩をすくめて言った。
「母親に何を言った?」
「二年前のお詫びにティーカップをプレゼントしたいって言っただけよ」
そんなことを聞いたら、家にあるものでは失礼だと考えるのも当然だろう。名門のラグランジェ家なのだ。そういうところはきちんとしているに違いない。
「もらってくれる? そうじゃないと、私、困るんだけど……」
レイチェルは上目遣いで心配そうに尋ねた。
このプレゼントを拒めば、彼女の謝罪を拒んだことになってしまう。それも、彼女の両親に宣言するに等しい状態だ。彼女が困るというのも理解できる。そして、自分にとっても本意ではない。
「……わかった」
「これでラウルと一緒にお茶が出来るわね」
レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、無邪気に声を弾ませた。
ラウルは溜息をついた。何か騙されたような気がしないでもないが、成り行きとはいえすべて自分が承諾したことだ。今さら覆すようなことは言えないだろう。
澄みきった青空の下、いつものように人通りの少ない裏道を通って医務室へと向かう。
今日もレイチェルはついてきた。嬉しそうにニコニコしながら隣を歩いている。口数は多くないが、時折、ラウルを見上げて話しかけてくる。その表情は、まるで小さな子供のように屈託がなかった。
王宮に入って階段を上がり、しばらく歩くと医務室の前に到着する。
ラウルは鍵を開けた。いつもはまず医務室の席に着くのだが、今日は大きな荷物を持っている。まっすぐに奥の自室へと向かった。当然のようにレイチェルもついてきた。ラウルのすぐ後ろで、軽い足音が弾んでいた。
ラウルは白い紙袋をダイニングテーブルの上に置き、中から白い箱を取り出した。リボンを外し、包装紙を破いて箱を開ける。そこには白いティーカップとソーサが2組、そして同じ色のティーポットが入っていた。何も模様は入っていないが、決して安物ではなく、上質であることは一目でわかった。
「ラウルの好みがわからないからシンプルなものにしたって、お母さまが言っていたわ」
何も考えてなさそうなレイチェルとは違い、彼女の母親は細かいことまで気をまわす人物のようだ。見た目よりもしっかりしているのだろう。
「気に入った?」
レイチェルは無表情のラウルを覗き込んで尋ねる。長い金の髪がさらりと揺れた。
ラウルは破いた包装紙を丸めながら、ぶっきらぼうに言う。
「礼を言っておけ」
「良かった」
レイチェルは胸もとに手を当てた。安堵したとでも言いたげな様子だが、それほど心配しているようには見えなかった。甘やかされて育った彼女のことだ。今までほとんどのことが思い通りになってきたのだろう。そのため今回も突き返されるようなことはないと確信していたのかもしれない。いや、そんなことは想像すらしていなかったに違いない。
「じゃあ、お茶にしましょう」
彼女はダイニングテーブルの向かい側にまわって椅子に座った。そこは昨日と同じ場所である。彼女の中ではすでに指定席になっているのだろうか。ニコニコしながら両手で頬杖をつくと、無邪気に愛くるしく言う。
「今日はラウルも一緒ね」
ラウルは溜息をつきながらも、言われるままにティータイムの準備を始めた。水の入ったヤカンを火に掛けると、その間に、新品のティーカップとティーポットを手際よく洗った。棚から紅茶の缶を取り出し、ティーポットに目分量で茶葉を入れる。
「ねえ、お菓子はあるの?」
レイチェルは頬杖をついたまま口を開く。
「ケーキでいいのか?」
ラウルはティーポットに湯を注ぎながら尋ね返した。白い湯気が視界を覆う。顔が少し熱くなった。
「ケーキ、用意してくれたの?」
「おまえがそうしろと言った」
「嬉しい、ラウルありがとう」
レイチェルの声は、感情のままに弾んでいた。
結局、何もかも彼女の思うままになっている気がする。それは、自分が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。優しくしようなどと思っているわけではないが、無意識に甘くなっていることは否めない。
ラウルは冷蔵庫から小さな箱を取り出し、その中のケーキを皿にのせて彼女に出す。
「ひとつだけ?」
レイチェルはラウルを見上げて尋ねた。
「いくつ食べる気だ?」
ラウルは呆れた眼差しで見下ろしながら言う。
「そうじゃなくて、ラウルの分は?」
「それひとつしか買っていない」
「じゃあ、半分にしましょう」
レイチェルはケーキの皿を両手で持ち上げ、ラウルに差し出した。
「いらん、だから買わなかった」
ラウルは腕を組みながら、冷たくきっぱりと撥ねつけた。
それでもレイチェルは諦めなかった。にっこりとして腕を伸ばし、優しく諭すように言う。
「だめよ、一緒にお茶をするんだから。一緒に食べなければ意味がないわ」
ラウルは溜息をついた。観念するしかなさそうだった。
彼女からその皿を受け取ると、ケーキを半分に切り、もうひとつの皿にその半分を移した。ふたつの皿をそれぞれの席に置く。紅茶もティーカップに注ぎ、ソーサに載せてテーブルに置いた。
これでティータイムの形はそれなりに整ったはずだ。もう文句はないだろう。
「ラウルも座って」
レイチェルは顔を斜めに傾け、にっこりと笑って言った。
二人はささやかなお茶会を始めた。ただ紅茶を飲んで、ケーキを食べるだけである。
「楽しいか」
「ええ」
向かいのレイチェルに尋ねると、満面の笑みで答えが返ってきた。
何がそんなに楽しいのか、ラウルにはわからなかった。面白い話をしているわけでもなければ、紅茶やケーキが特に美味しいわけでもない。彼女なら普段からもっと上等なものを口にしているはずである。
「ラウルはここでいつもひとりなの?」
レイチェルはティーカップをソーサに戻しながら尋ねた。
「誰も入れないことにしていると言ったはずだ」
ラウルはぶっきらぼうに答えた。きのうから何度も同じことを言っている。彼女はわかっていて尋ねているのかもしれない。ケーキにフォークを突き立てて口に運ぶ。
「寂しくないの?」
レイチェルは大きな瞳でじっと見つめて言う。
「ひとりの方が煩わしくなくていい」
「今は私がいるから煩わしいの?」
「ああ、紅茶やケーキの準備までさせられて迷惑している」
ラウルは責めるように言ったつもりだが、レイチェルは反省するどころか、なぜかクスクスと笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろうか。彼女の思考回路がまるでわからない。
レイチェルはケーキを食べながら言う。
「このケーキ、美味しいわね。イチゴのショートケーキって、私、大好きなの」
ラウルは紅茶を飲みながら、無邪気な彼女に目を向けた。ティーカップをゆっくりとソーサに戻す。
「好き嫌いがあるなら言っておけ。おまえの好みは知らんからな」
「んー……レーズン以外ならたぶん大丈夫」
レイチェルは斜め上に目を向けて考えたあと、ラウルに向き直ってにっこりと答えた。
「わかった。レーズンを避ければいいんだな」
ラウルは淡々と確認する。
「ねえ、ラウル。お店のケーキもいいけれど、ときどきは手作りのお菓子も食べたいの」
レイチェルは身を乗り出して言う。
ラウルは溜息をついた。いったいどこまで我が侭を言うつもりなのだろうか。
「何を作ってほしい」
面倒だと思いながらも尋ねてみる。
レイチェルはフォークを握りしめて目を輝かせた。
「えーっと、じゃあ、ミルフィーユとかモンブランとか」
「……おまえ、それは嫌がらせか」
ラウルは眉根を寄せた。
「だめなの?」
レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。
「そんな手間のかかるもの、作る気も起きん」
ラウルは額を押さえた。自分の要求がどれほどやっかいなことなのか、彼女はわかっているのだろうか。作ろうと思えば作れないことはない。だが、冗談ではないと思う。そこまでの義理も筋合いもない。小さく溜息をついて言う。
「スコーン、ショートブレッド、プリン、ホットケーキ、どれか選べ」
「じゃあ、スコーンとプリン」
レイチェルはすぐに答えた。
ラウルは眉をひそめて睨んだ。低い声で言う。
「ひとつにしろ」
「プリン」
レイチェルはまっすぐラウルを見たまま即答した。
ラウルは腕を組んでうつむき、目を閉じる。肩から焦茶色の髪が滑り落ちた。
「気の向いたときに一回くらいなら作ってやる」
「楽しみにしているわ」
レイチェルはそう言って愛らしく微笑んだ。
翌日も、翌々日も、レイチェルはラウルの部屋にやってきた。
ラウルは両日とも律儀にケーキを用意した。いくら彼女に負い目があるからといって、ここまで言いなりになる必要があるのだろうか。なぜ拒否しなかったのだろうか。なぜ無視しなかったのだろうか。自問してみるものの答えは出ない。
ただ、嫌でたまらないというほどのことはない。
煩わしいという気持ちに変わりはないが、仕方がないという諦めの気持ちが大きくなっているような気がする。いや、正直なところをいえば、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると悪い気はしない。そう思う自分はどうかしているのだろうか――。
その翌日も、やはりレイチェルはついてきた。これで4日連続である。家庭教師の授業とその後のティータイムが、ラウルにとって日常の一部になりつつあった。
医務室の前に着くと、いつものように鍵を開けて扉を引く。
「ラウル、今日はここで帰るわね」
中に足を踏み入れようとしたとき、レイチェルが背後でそう言った。ごく普通の落ち着いた口調だった。申し訳なさそうにも、怒っているようにも、思いつめたようにも感じられなかった。
ラウルは扉に手を置き、ゆっくりと顔だけ振り返った。
「……なぜだ」
「サイファがね、今日は早く帰れそうだから二人でお茶をしようって」
レイチェルは胸もとで手を組み合わせ、にっこりと笑顔を見せた。
「そうか」
ラウルは無表情を保ったまま呟くように言った。
――そうならそうと、あらかじめ言っておけ。
喉もとまで出かかった言葉を、ぐっと堪えて飲み下す。別に約束をしていたわけではない。ただ、今日も来るだろうと自分が勝手に思い込んでいただけだ。彼女は何も悪くない。だが――。
「嬉しそうだな」
「ええ、サイファの家でお茶をするのって久し振りなんだもの」
レイチェルははしゃいだ声を上げた。
その様子を眺めるラウルの心には、もやもやとした重いものがのしかかっていた。
「やあ、レイチェル」
よく通るはっきりとした声を響かせながら、サイファは後ろからレイチェルを抱きすくめた。魔導省の制服を身に着けている。仕事帰りなのだろう。右手に持っていた手提げの紙袋が、彼女の前で大きく弧を描いて揺れた。
「サイファ!」
レイチェルはとびきりの笑顔で振り返った。後頭部のリボンが大きく弾み、長い髪がさらりと舞い上がる。窓から射し込む光を受けて、透きとおるような金色が上品に煌めいた。
サイファは彼女の頬を左手で包み、慈しむように柔らかく微笑んだ。
「ラウルに挨拶してから帰ろうと思って、ここへ寄ってみたんだけど、ちょうどいいタイミングだったみたいだね」
優しい声でそう言うと、端整な顔をゆっくりとラウルに向けた。青い瞳に挑発的な光を宿し、口の端を僅かに上げる。
「ラウル先生、今度は逃げずに続けているみたいだね」
ラウルはムッとして眉をしかめた。
「嫌味を言うために来たのか?」
「様子を聞きに来たんだよ」
サイファは両手を腰に当てて言う。
「困ったことや相談したいことはないか?」
「何もない」
ラウルは冷ややかに答えて腕を組んだ。
「レイチェルはちゃんと勉強しているか?」
「おまえよりよほど真面目だ」
「それは良かった」
サイファはくすっと小さく笑って言う。その余裕の態度が、ラウルには何か無性に腹立たしく感じられた。サイファには特に意図はなかったのだろう。ただ、自分の方に余裕がなかっただけだ。
「レイチェル、これからも先生の言うことをよく聞いて勉強するんだよ」
サイファは小さな子供に言い含めるような口調でそう言うと、彼女の前髪を人差し指で小さく払って微笑む。
「我が侭ばかり言って怒らせないようにね」
「我が侭なんて言っていないわ。ねえ、ラウル」
レイチェルはラウルに振り向いて同意を求めた。少しも悪びれた様子はない。あどけない無垢な笑顔を見せている。嘘をついているつもりはなく、本当にそう思っているのだろう。確かに、授業中に関してだけでいえば、間違いではない。
「……ああ」
ラウルは彼女の望むままの答えを返した。
「ちょっと待て、ラウル」
無言で医務室に入ろうとしたラウルを、サイファは慌てて引き留めた。手にしていた薄黄色の紙袋から、同色の紙の箱を取り出す。片手で持てるくらいのものだ。それほど大きくはない。
「レイチェルがお世話になっているお礼だ」
人なつこい笑顔でそう言うと、その紙の箱をラウルに差し出した。
ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「何だ?」
「レアチーズケーキ。僕たちの分のついでなんだけどね」
サイファは反対の手に持っていた紙袋を掲げた。その上部には店のロゴタイプが小さく入っている。ケーキ店の名前らしい。これからサイファの家でお茶をするとレイチェルが言っていた。そのときに食べるケーキを買ってきたのだろう。
「ここのレアチーズケーキ、とっても美味しいのよ」
レイチェルはサイファの隣で微笑みながら、無邪気にそんなことを言った。
「もしかして、甘いものは苦手だったか?」
無表情で立ち尽くすラウルを見て、サイファは覗き込みながら尋ねた。
「……もらっておく」
ラウルは小さな箱を片手で掴んだ。
サイファは満足そうな笑みを浮かべると、隣のレイチェルの頭に手をのせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。とびきり美味しい紅茶も用意してあるよ」
「本当? 嬉しい」
レイチェルはサイファを見上げ、幸せそうに笑った。
「ラウル、それじゃあ、またな」
「またあしたね」
ふたりは笑顔でさよならの挨拶をした。そして、どちらからともなく自然に手を取り合うと、楽しそうに話をしながら帰っていった。もうラウルのことなど眼中にないのだろう。ただの一度も振り返ることはなかった。
ラウルは医務室の奥の自室にひとりで戻った。
サイファからもらった薄黄色の紙箱を、ダイニングテーブルの上に置く。それをじっと見下ろしながら、腕を組み、流しにゆっくりと寄りかかった。
秒針の単調な音が耳朶に響く。
不思議なくらいに静かな部屋。
無意味に流れていく時間。
ラウルは小さく溜息をついた。
体を屈めて冷蔵庫を開ける。あまり物は入っていない。テーブルの上の箱を無造作にその中に放り込むと、代わりに中から小さなカップを取り出した。
それはプリンだった。買ってきたものではない。ラウルが作ったものである。
気が向いたら一度くらいはプリンを作ってやる――。
数日前にレイチェルとそう約束した。それを今日のティータイムで果たすつもりだった。だが、彼女はここにはいない。自分ではなく、サイファの方を選んだ――いや、その言い方は適切ではない。ただタイミングが悪かっただけだ。
ラウルはその場に立ったまま、スプーンですくってそれを食べ始めた。
底のカラメルがほんの少し苦かった。
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