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4. 巡り合わせ
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ラウルが初めてラグランジェ家へ行った日から一週間が過ぎた。
まだ家庭教師は続けている。
サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。
だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。
怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。
こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。
「ねぇ、それ違うんじゃない?」
ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。
「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」
トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。
「相互干渉の補正分が抜けている」
ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。
サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。
「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」
「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」
ラウルは淡々と言う。
「でも、今までは考慮してなかったよ」
「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」
「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」
サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。
ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「もう終わり?」
サイファは頬杖を外し、目を大きくした。
「3時間はとうに過ぎている」
ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。
サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。
「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」
「おまえとこれ以上長くはいたくない」
「父上に頼んでみるよ」
ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。
「おまえ、人の話を聞いているのか」
「わかってる。今日はここまでだね」
サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。
「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」
「何だ」
苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。
「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」
「床を抜く」
「え?」
「二階なら床を抜くことは容易い」
ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。
「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」
サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。
「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」
「破ればいい」
ラウルは事もなげに言った。
「僕には無理だよ」
「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」
サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。
「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」
ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。
「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」
「それは、そうだね……」
サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。
「呪文の詠唱もない方がいい」
ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。
「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」
サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。
ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。
「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」
「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」
「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」
サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。
「へぇ、面白そう」
独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。
「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」
「……そのうちな」
ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。
ふたりは連れ立って部屋を出た。
そこから三部屋向こうが、先日、ラウルが壊した部屋である。何もかもが、ほとんどそのときのまま放置されていた。瓦礫さえも片付けられていない。まだ修復作業には取り掛かっていないようだ。
外壁の方は、壊した翌日には修復されていた。こちらの対応は素早かった。さすがに、家に大きな穴を開けたままで、何日も放置しておくわけにはいかなかったのだろう。
「サイファ」
鈴を転がしたような、それでいてあどけない声。
それは、ラウルたちが階段に差し掛かったときに聞こえてきた。階下からである。声の方に視線を向けると、淡い水色のワンピースを着た幼い少女が、愛らしい笑顔で待ち構えているのが見えた。
「レイチェル、来てたの?」
サイファはぱっと顔を輝かせると、金色の髪をなびかせながら、緩やかにカーブする階段を駆け下りた。迷うことなく、その小さな体を抱え上げる。いくらレイチェルが小さいとはいえ、サイファ自身もまだ子供である。それなりに重いに違いない。だが、はたから見た限りでは、まったくそうは感じられなかった。抱き上げ方が手慣れているせいかもしれない。
彼はレイチェルと目線を合わせると、にっこりと微笑みかけた。レイチェルも小さな手を伸ばすと、幸せそうな笑顔をサイファに寄せた。
ラウルはその様子を上からじっと眺めていた。
レイチェルがラグランジェ家の人間であることは確信していた。本家であるここにいても、驚くべきことではない。だが、ようやく断ち切れたと思った途端の邂逅である。そこまで冷静ではいられなかった。何とも言いようのない気持ちが湧き上がる。小さく息をついて視線を離すと、広い階段を降り始めた。
「あ、紹介するよ」
サイファはレイチェルを下ろしながらそう言うと、通り過ぎようとするラウルの手首を掴んで引き留めた。そのまま少し身を屈め、反対側の手で彼を示すと、レイチェルに優しく語りかける。
「レイチェル、この人は僕の新しい家庭教師のラウルだよ」
今度は、体を起こしてラウルに向き直った。少女の頭に手をのせて言う。
「ラウル、この子は僕の婚約者のレイチェル」
「婚約者?」
ラウルは思わず聞き返した。
「そう、僕の未来のお嫁さんだよ」
サイファは屈託なく言った。
ラウルは睨むように彼を見下ろした。ラグランジェ本家の後継者は、子供のうちから婚約者を決めねばならない――いつだったか、そのような話を聞いたことを思い出す。サイファはラグランジェ本家の一人息子だ。つまり、そういうことなのだろう。
「ラウル」
甘い声が、彼の思考を中断した。
ラウルが振り向くと、レイチェルは花が咲いたようにふわりと可憐に微笑んだ。それは、いつも窓越しに見ていた笑顔そのものだった。近くで見たのは初めてである。ますます懐かしい面影と重なり、夢と現実が溶け合ったような不思議な感覚に囚われる。
「ラウル、手」
サイファは小声で囁きながら、彼の袖を引っ張った。
ラウルは我にかえった。いつの間にか、レイチェルがこちらに手を伸ばしていることに気がつく。握手を求めているのだろう。それに誘われるように、右手を差し出した。小さな彼女に届くように、少し腰を屈める。焦茶色の長髪が肩から滑り落ちた。
レイチェルはにっこりとして踵を上げると、小さな柔らかい手を、大きな手にそっと触れ合わせた。
その瞬間――。
ラウルはハッと目を見開いた。戦慄にも似た何かが、体中を駆け抜けた。それが何であるか、彼は理解していた。だが、にわかには信じられず、何かの間違いではないかと思う。彼女の小さな手を包み込むように握り、澄んだ蒼の瞳を探るように見つめ、神経を研ぎ澄ませた。
――間違いでは、ないな……確かに存在する……しかし、なぜこんな……。
ラウルは彼女を見つめたまま眉を寄せた。
「はじめまして」
レイチェルは言った。
「……ああ」
ラウルは低い声で答えた。握っていた彼女の手を放し、体を起こす。
「ラウルに愛想がないのはいつものことだからね」
サイファは両手を腰に当て、苦笑しながら補足説明する。レイチェルに対しての配慮だろう。ラウルを知らない人間には、その無愛想な態度がとても恐ろしいものに映るようだ。幼い子であれば、なおのことそうだろう。
だが、レイチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。愛らしい微笑みを絶やすことなく、あどけない声で続ける。
「やっと、おはなしができた」
「…………」
ラウルは口を固く結び、眉をひそめた。
「あれ? 知ってるの?」
サイファはふたりを交互に見て、どちらにともなく尋ねた。
「王宮で見かけたの」
レイチェルが答えた。
「そうか、ラウルは大きいから目立つよね」
サイファは軽く笑いながら応じた。
レイチェルもそれを肯定するかのように微笑んだ。
だが、本当はそうではない。ラウルが彼女を見つめていたから、彼女はラウルの存在に気がついたのだ。なぜそのことを説明しないのだろう。面倒だったのだろうか。取るに足りないことだったのだろうか。それとも――ラウルは様々に考えを巡らせた。
「じゃあ、僕はラウルを送ってくるから、またあとでね」
サイファは腰を屈め、レイチェルの柔らかな頬を右手で包み込むと、額と額を軽く合わせた。
レイチェルは無垢な笑顔でこくりと頷いた。
ラウルとサイファは並んで王宮内を歩いた。
家庭教師が終わると、ラウルは医務室に帰る。そのとき、なぜかいつもサイファがついてくるのだ。送っているつもりらしい。ラウルが頼んだわけではない。むしろ来るなと言った。だが、サイファは素直に聞くような子供ではなかった。
「ねぇ、ラウルは気がついたよね」
サイファは青い空を見上げて切り出した。緩やかな風が、鮮やかな金の髪を吹き流し、きらきらと煌めかせる。
「何のことだ」
ラウルは無表情で聞き返した。
サイファは空を見たまま答える。
「レイチェルのこと」
「……ああ」
ラウルは表情を険しくした。サイファは具体的には言わなかったが、それが何なのかすぐに察しがついた。思い当たることはひとつしかない。
「僕はさ、最近ようやく気がついたんだ。ずっと一緒にいたのに情けないよね」
サイファはラウルに振り向き、少し寂しげに微笑んだ。
「気がついただけでも十分だろう」
「へぇ、ラウルが慰めてくれるなんて思わなかった」
「そんなつもりで言ったのではない」
ラウルは前を向いたまま素っ気なく言う。
サイファはくすりと笑った。頭の後ろで手を組み合わせ、再び空を見上げる。長めの前髪がさらりと揺れた。
「でも、不思議なんだよね。普通に魔導を使っているのを見ると、そんな力があるようにはとても思えないんだ」
「あいつは力の大部分を奥底の深いところに閉じこめている。無意識だろうと思うがな」
ラウルは淡々と言った。意識的な封印ならば知っている。だが、無意識に自らの力を閉じこめるようなものは、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「僕もそれは感じていたよ」
サイファは空を見たまま、目を細めた。
「そこってさ、すごく深くて、静かで、誰も踏み入ったことのない深い森の湖みたいでさ。なんだか心地いいんだよね」
そう言うと、頭の後ろの手をほどいてラウルに振り向いた。
「ラウルにも似たようなものを感じるよ。ラウルの場合は、湖じゃなくて底なし沼かな?」
悪戯っぽく笑うサイファを、ラウルは横目で睨みつける。
「あいつを、どうするつもりだ」
「うん……ちゃんと訓練すれば稀代の使い手になるかもしれないけど、僕はそんなことは望んでいない。危険な目には遭わせたくないよ。レイチェル自身もあまり魔導には関心がないみたいだし」
サイファはまるで保護者のような口ぶりで答えた。まだ子供の彼がこのようなことを言うのは奇妙に映るが、彼自身はいたって真剣だった。
「でも、制御の方法だけは身につけさせた方がいいよね」
「……ああ」
ラウルは腕を組んで答えた。
強い魔導力を持つ者は、制御の方法を学ぶ必要がある。そうでなければ、暴発を起こす恐れがあるからだ。通常であれば、制御はそれほど難しいものではない。だが、レイチェルの場合は、魔導力が桁外れなのだ。そのうえ、力の大部分を封印しているも同然の状態である。本来の力に見合った制御を学ばせることは、かなり困難になるだろう。
「レイチェルの両親には僕から忠告しておくよ」
サイファはにっこりと笑って言った。
ラウルは僅かに眉を寄せた。
今のところは、力が封じられているため、暴発する危険性はほとんどないと思われる。切羽詰まった状況ではない。だが、いつまでもこのままとは限らないのだ。早めに制御を身につける必要があるだろう。
重い荷物を背負って生まれてきたレイチェルに、重い宿命を背負って生まれてきた少女の面影が、またひとつ重なった。
「ラウル、こっち。見せたいものがあるんだ」
サイファは急にそう言うと、ラウルの手首を引っ張った。医務室とは逆方向の小径へ向かおうとしている。ラウルが一度も行ったことのない場所だ。この先に何があるのかは知らないが、知りたいとも思わない。
「断る」
冷たく端的に拒絶する。
「そんなこと言わずにさ」
サイファは軽い調子で受け流すと、大きな手をしっかりと握り、強引に小径を歩き出す。
ラウルは小さく溜息をつくと、仕方なくサイファに従って歩き出した。その小さな背中に向かって、ぶっきらぼうに尋ねる。
「何があるのか言え」
「バラ園だよ、ほら」
蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、視界一面にバラ園が広がった。広大というほどではないが、種類ごとに整然と整備されており、遠目に見ても美しいものだった。近くで見ても、細かなところまで手入れが行き届いているのがわかる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「僕が好きなのはこれ、ピンクローズ」
サイファはピンク色が咲き誇る一角に駆けていき、そのひとつに手を添えた。顔を近づけ、目を閉じる。
「華やかだけど、可憐で、可愛らしくて、まるでレイチェルみたいじゃない?」
そう言って、薄紅色の花びらにそっと口づける。
「レイチェルの話をしてたら、急にここに来たくなったんだ」
ピンクローズから手を放さないまま、顔だけラウルに振り向けると、小さく肩をすくめて見せる。子供らしい仕草ではないが、不思議と違和感はなかった。
「ねぇ、ラウルはどれが好き?」
「興味はない」
ラウルは即答した。あからさまに無関心な態度だった。
サイファは不満げに口をとがらせる。
「ラウルって何に興味があるわけ? いつもそんな……たっ!」
突然、短い叫び声を発すると同時に、顔をしかめて手を引いた。その指先に、赤い血がじわりと丸く盛り上がっていく。バラの棘が刺さったのだろう。
「不用意に触れるからだ」
ラウルは冷たく言った。
サイファはムッとして彼を睨んだ。ふてぶてしく口を開く。
「治療してくれる?」
「そのくらい水で洗うだけでいい」
ラウルは突き放した。
「うわ、王宮医師とは思えない言葉だね。それって職務怠慢じゃない?」
サイファは意図的に大袈裟な言い方をすると、僅かに口もとを上げた。
だが、ラウルは眉ひとつ動かさずに言い返す。
「医師として治療不要と判断した」
「傷を見もしないで、よくそんなことが言えるね」
サイファの口調はますます挑戦的になった。血の流れる指先を立て、ラウルに突き出す。
「せめて傷を見てからにしてよ」
ラウルは冷淡な瞳で見下ろした。
サイファは攻撃的に睨み返した。
ふたりは無言で視線をぶつけ合う。
どちらも引かない。
膠着状態が続く。
――ズッ。
微かな衣擦れの音。
先に動いたのはラウルだった。
差し出された細い指を、大きな手でガシッと掴んだ。
そして、僅かに身を屈めると、徐にそれを口に含む。
「なっ……」
サイファの体がビクリと震えた。
「何をしているわけ?」
顔を赤らめながら、少し怒ったように、とまどったように、呆れたように、だが努めて冷静に尋ねた。
ラウルは血の混じった唾を吐き捨て、平然と言い放つ。
「治療だ」
「化膿したらどう責任をとってくれるの?」
サイファは負けじと詰問する。
「だから水で洗えと言った」
ラウルは鬱陶しそうに言う。
「消毒してくれる? 医務室できちんと」
サイファは強気に追いつめる。感情的な口調ではない。だからこそ、そこに貫禄めいたものが感じられた。
「……来い」
ラウルは観念したかのように低い声を落とした。いや、観念したわけではない。面倒になったので譲歩した――少なくとも彼の方はそういうつもりだった。サイファには目も向けず、早足で医務室に向かって歩き出す。眉間には縦皺が刻まれていた。
「やっとラウルの医務室に入れてもらえた」
丸椅子に座ったサイファは、にこにこしながら声を弾ませた。いつも医務室の前までは来ていたが、中に入ったことはなかった。ラウルに拒否されていたのだ。
「そのためにわざと怪我をしたのではないだろうな」
ラウルは消毒液を棚から取り出しながら尋ねる。
「まさか」
サイファは軽く一笑に付した。
ラウルは眉をひそめて睨んだ。笑ってはいるが、サイファならこのくらいのことはやりかねない。嘘も平気でつくだろう。だが、今さらそれを追及しても仕方がない。
無愛想なまま椅子に腰を下ろすと、笑顔のサイファと向かい合った。怪我をした方の手をとり、人差し指を消毒して絆創膏を貼る。ごく簡単な処置である。わざわざ医務室にまで来ずとも、本来なら自宅で可能なものだ。
処置が終わると、サイファはきょろきょろと物珍しそうにあたりを見まわした。
「ねぇ、あの扉は何?」
ほとんど壁と同化した扉を、目ざとく見つけて尋ねる。
「私の部屋だ」
ラウルは素っ気なく答えた。
「その向こうの部屋に住んでるってこと?」
「そうだ」
「中を見せてよ」
「断る」
「散らかっていても僕は気にしないよ」
サイファは明るく言った。
ラウルは軽く睨みつけた。
「そういう問題ではない。誰も招き入れないことにしている」
そう言いながら立ち上がり、消毒液を棚に片付ける。ガラスの扉をゆっくりと閉めた。
「見られたくないものでもあるの?」
「私的な空間に踏み込まれたくないだけだ」
「じゃあ、いつか招待してね」
サイファは人なつこい笑顔を浮かべた。
「おまえ、少しは人の話を聞け」
ラウルは疲れたように溜息をついた。サイファのあまりにも自分勝手な物言いに、怒りを通り越して呆れていた。抑揚のない低い声で言う。
「治療は終わった。もう帰れ」
「ラウルのことが少しわかってきたよ」
サイファは上目遣いでラウルを見ると、形の良い唇に、意味ありげな笑みをのせる。
「けっこう動物的だよね。言葉じゃなくて行動でわからせようとするあたりさ。最初に自分の力を誇示して、相手を服従させようとするのもそうだよね」
ラウルは氷のような瞳で睨めつけた。
「たった10年しか生きていない奴に何がわかる」
「そういうラウルは、何年、生きているの? 300年は超えているよね」
サイファはにっこり微笑んで言った。
ラウルはじっと彼を見下ろした。ゆっくりと息をつく。
「知っていたのか」
「父上が話しているのを聞いたんだ」
サイファは極めて軽い口調で言う。
「怖くはないのか」
ラウルは尋ねる。
「どうして?」
サイファは首を傾げた。そして、当然のように言う。
「人間じゃないから危険ってことはないよ」
「私は人間だ」
ラウルは間髪入れず訂正した。
「え、そうなの?」
サイファは目を丸くした。どうやら本気で人間外の生物だと思っていたらしい。少し興奮した様子で、身を乗り出して尋ねる。
「どうしてそんなに長く生きられるの?」
「さあな」
「僕もラウルみたいに長く生きられるかな?」
「さあな」
ラウルは答えをはぐらかした。
サイファは口をとがらせた。だが、すぐに気を取り直して質問を続ける。
「じゃあ、ラウルはどこから来たの? それくらいは教えてくれる?」
ラウルはしばらく考えたのち、無言で窓の外を指さした。
サイファは視線でそれを辿る。
「空?」
「その向こう側だ」
「空の、向こう側?」
ぽつりと疑問形で呟きながら、椅子から立ち上がった。引き寄せられるように窓へと足を進める。窓枠に手をのせると、ガラス越しに空を見上げた。広く、深く、どこまでも青が続く。その向こう側にあるものは、ここからは見えない。
ラウルは腕を組み、うつむいた。焦茶色の長髪がはらりと落ち、表情を覆い隠す。
「もう帰れ。レイチェルが待っているのだろう」
「うん、ありがとう」
サイファは絆創膏を貼った指を立てて見せた。そして、右手を振りながら、軽い駆け足で医務室をあとにした。
医務室にいつもの静寂が戻った。
ラウルはガラス窓を開けた。風が渦を巻くようにして医務室に滑り込む。焦茶色の長髪がうねりながら舞い上がった。
――おかしな奴だ。
リカルドも恐れることなく入り込んでくるが、サイファはそれ以上だった。遠慮なく踏み入ってきて、強引に自分のペースに巻き込む。それは、単なる子供のわがままとは違う。押すべきところと、引くべきところを、上手く使い分けているのだ。自然にやっているようにも、何もかも計算づくのようにも感じる。
一緒にいて、これほど頭にくる奴もそうはいない。一方で、彼という人間と、彼の持つ才能には、多大な興味を引かれていた。
家庭教師をすぐに断らなかったのも、おそらくその興味ゆえだろう。だが、今後も続けていくと決めていたわけではない。しばらく様子を見てから結論を出すつもりでいた。それが、リカルドとの当初の約束でもあった。
ラウルは窓枠に両手をつき、緑が茂る静かな裏道を見下ろした。
誰もいないそこを見据え、眉根を寄せる。
もう、自分の中で結論は出ているのだろうと思う。
それには、サイファへの評価ではなく、明らかに別の存在が影響していた。
レイチェルだ。
外見や表情が似ているだけならまだ良かった。断ち切ることは可能だっただろう。だが、彼女の持つ魔導力の危うさは、目を離せなくさせるのに十分だった。
今日の話しぶりからすると、彼女が本家に遊びに来ることも度々あるのだろう。無関係の自分には何もできないが、せめて見守ることくらいは――そんな使命感にも近い思いが湧き上がった。
――運命までは、似なくていい。
ラウルはゆっくりと顔を上げた。
空を仰ぎ見て、目を細める。
白い翼を持った鳥が、青い空を滑るように横切っていった。
まだ家庭教師は続けている。
サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。
だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。
怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。
こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。
「ねぇ、それ違うんじゃない?」
ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。
「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」
トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。
「相互干渉の補正分が抜けている」
ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。
サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。
「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」
「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」
ラウルは淡々と言う。
「でも、今までは考慮してなかったよ」
「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」
「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」
サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。
ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「もう終わり?」
サイファは頬杖を外し、目を大きくした。
「3時間はとうに過ぎている」
ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。
サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。
「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」
「おまえとこれ以上長くはいたくない」
「父上に頼んでみるよ」
ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。
「おまえ、人の話を聞いているのか」
「わかってる。今日はここまでだね」
サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。
「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」
「何だ」
苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。
「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」
「床を抜く」
「え?」
「二階なら床を抜くことは容易い」
ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。
「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」
サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。
「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」
「破ればいい」
ラウルは事もなげに言った。
「僕には無理だよ」
「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」
サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。
「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」
ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。
「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」
「それは、そうだね……」
サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。
「呪文の詠唱もない方がいい」
ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。
「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」
サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。
ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。
「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」
「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」
「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」
サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。
「へぇ、面白そう」
独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。
「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」
「……そのうちな」
ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。
ふたりは連れ立って部屋を出た。
そこから三部屋向こうが、先日、ラウルが壊した部屋である。何もかもが、ほとんどそのときのまま放置されていた。瓦礫さえも片付けられていない。まだ修復作業には取り掛かっていないようだ。
外壁の方は、壊した翌日には修復されていた。こちらの対応は素早かった。さすがに、家に大きな穴を開けたままで、何日も放置しておくわけにはいかなかったのだろう。
「サイファ」
鈴を転がしたような、それでいてあどけない声。
それは、ラウルたちが階段に差し掛かったときに聞こえてきた。階下からである。声の方に視線を向けると、淡い水色のワンピースを着た幼い少女が、愛らしい笑顔で待ち構えているのが見えた。
「レイチェル、来てたの?」
サイファはぱっと顔を輝かせると、金色の髪をなびかせながら、緩やかにカーブする階段を駆け下りた。迷うことなく、その小さな体を抱え上げる。いくらレイチェルが小さいとはいえ、サイファ自身もまだ子供である。それなりに重いに違いない。だが、はたから見た限りでは、まったくそうは感じられなかった。抱き上げ方が手慣れているせいかもしれない。
彼はレイチェルと目線を合わせると、にっこりと微笑みかけた。レイチェルも小さな手を伸ばすと、幸せそうな笑顔をサイファに寄せた。
ラウルはその様子を上からじっと眺めていた。
レイチェルがラグランジェ家の人間であることは確信していた。本家であるここにいても、驚くべきことではない。だが、ようやく断ち切れたと思った途端の邂逅である。そこまで冷静ではいられなかった。何とも言いようのない気持ちが湧き上がる。小さく息をついて視線を離すと、広い階段を降り始めた。
「あ、紹介するよ」
サイファはレイチェルを下ろしながらそう言うと、通り過ぎようとするラウルの手首を掴んで引き留めた。そのまま少し身を屈め、反対側の手で彼を示すと、レイチェルに優しく語りかける。
「レイチェル、この人は僕の新しい家庭教師のラウルだよ」
今度は、体を起こしてラウルに向き直った。少女の頭に手をのせて言う。
「ラウル、この子は僕の婚約者のレイチェル」
「婚約者?」
ラウルは思わず聞き返した。
「そう、僕の未来のお嫁さんだよ」
サイファは屈託なく言った。
ラウルは睨むように彼を見下ろした。ラグランジェ本家の後継者は、子供のうちから婚約者を決めねばならない――いつだったか、そのような話を聞いたことを思い出す。サイファはラグランジェ本家の一人息子だ。つまり、そういうことなのだろう。
「ラウル」
甘い声が、彼の思考を中断した。
ラウルが振り向くと、レイチェルは花が咲いたようにふわりと可憐に微笑んだ。それは、いつも窓越しに見ていた笑顔そのものだった。近くで見たのは初めてである。ますます懐かしい面影と重なり、夢と現実が溶け合ったような不思議な感覚に囚われる。
「ラウル、手」
サイファは小声で囁きながら、彼の袖を引っ張った。
ラウルは我にかえった。いつの間にか、レイチェルがこちらに手を伸ばしていることに気がつく。握手を求めているのだろう。それに誘われるように、右手を差し出した。小さな彼女に届くように、少し腰を屈める。焦茶色の長髪が肩から滑り落ちた。
レイチェルはにっこりとして踵を上げると、小さな柔らかい手を、大きな手にそっと触れ合わせた。
その瞬間――。
ラウルはハッと目を見開いた。戦慄にも似た何かが、体中を駆け抜けた。それが何であるか、彼は理解していた。だが、にわかには信じられず、何かの間違いではないかと思う。彼女の小さな手を包み込むように握り、澄んだ蒼の瞳を探るように見つめ、神経を研ぎ澄ませた。
――間違いでは、ないな……確かに存在する……しかし、なぜこんな……。
ラウルは彼女を見つめたまま眉を寄せた。
「はじめまして」
レイチェルは言った。
「……ああ」
ラウルは低い声で答えた。握っていた彼女の手を放し、体を起こす。
「ラウルに愛想がないのはいつものことだからね」
サイファは両手を腰に当て、苦笑しながら補足説明する。レイチェルに対しての配慮だろう。ラウルを知らない人間には、その無愛想な態度がとても恐ろしいものに映るようだ。幼い子であれば、なおのことそうだろう。
だが、レイチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。愛らしい微笑みを絶やすことなく、あどけない声で続ける。
「やっと、おはなしができた」
「…………」
ラウルは口を固く結び、眉をひそめた。
「あれ? 知ってるの?」
サイファはふたりを交互に見て、どちらにともなく尋ねた。
「王宮で見かけたの」
レイチェルが答えた。
「そうか、ラウルは大きいから目立つよね」
サイファは軽く笑いながら応じた。
レイチェルもそれを肯定するかのように微笑んだ。
だが、本当はそうではない。ラウルが彼女を見つめていたから、彼女はラウルの存在に気がついたのだ。なぜそのことを説明しないのだろう。面倒だったのだろうか。取るに足りないことだったのだろうか。それとも――ラウルは様々に考えを巡らせた。
「じゃあ、僕はラウルを送ってくるから、またあとでね」
サイファは腰を屈め、レイチェルの柔らかな頬を右手で包み込むと、額と額を軽く合わせた。
レイチェルは無垢な笑顔でこくりと頷いた。
ラウルとサイファは並んで王宮内を歩いた。
家庭教師が終わると、ラウルは医務室に帰る。そのとき、なぜかいつもサイファがついてくるのだ。送っているつもりらしい。ラウルが頼んだわけではない。むしろ来るなと言った。だが、サイファは素直に聞くような子供ではなかった。
「ねぇ、ラウルは気がついたよね」
サイファは青い空を見上げて切り出した。緩やかな風が、鮮やかな金の髪を吹き流し、きらきらと煌めかせる。
「何のことだ」
ラウルは無表情で聞き返した。
サイファは空を見たまま答える。
「レイチェルのこと」
「……ああ」
ラウルは表情を険しくした。サイファは具体的には言わなかったが、それが何なのかすぐに察しがついた。思い当たることはひとつしかない。
「僕はさ、最近ようやく気がついたんだ。ずっと一緒にいたのに情けないよね」
サイファはラウルに振り向き、少し寂しげに微笑んだ。
「気がついただけでも十分だろう」
「へぇ、ラウルが慰めてくれるなんて思わなかった」
「そんなつもりで言ったのではない」
ラウルは前を向いたまま素っ気なく言う。
サイファはくすりと笑った。頭の後ろで手を組み合わせ、再び空を見上げる。長めの前髪がさらりと揺れた。
「でも、不思議なんだよね。普通に魔導を使っているのを見ると、そんな力があるようにはとても思えないんだ」
「あいつは力の大部分を奥底の深いところに閉じこめている。無意識だろうと思うがな」
ラウルは淡々と言った。意識的な封印ならば知っている。だが、無意識に自らの力を閉じこめるようなものは、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「僕もそれは感じていたよ」
サイファは空を見たまま、目を細めた。
「そこってさ、すごく深くて、静かで、誰も踏み入ったことのない深い森の湖みたいでさ。なんだか心地いいんだよね」
そう言うと、頭の後ろの手をほどいてラウルに振り向いた。
「ラウルにも似たようなものを感じるよ。ラウルの場合は、湖じゃなくて底なし沼かな?」
悪戯っぽく笑うサイファを、ラウルは横目で睨みつける。
「あいつを、どうするつもりだ」
「うん……ちゃんと訓練すれば稀代の使い手になるかもしれないけど、僕はそんなことは望んでいない。危険な目には遭わせたくないよ。レイチェル自身もあまり魔導には関心がないみたいだし」
サイファはまるで保護者のような口ぶりで答えた。まだ子供の彼がこのようなことを言うのは奇妙に映るが、彼自身はいたって真剣だった。
「でも、制御の方法だけは身につけさせた方がいいよね」
「……ああ」
ラウルは腕を組んで答えた。
強い魔導力を持つ者は、制御の方法を学ぶ必要がある。そうでなければ、暴発を起こす恐れがあるからだ。通常であれば、制御はそれほど難しいものではない。だが、レイチェルの場合は、魔導力が桁外れなのだ。そのうえ、力の大部分を封印しているも同然の状態である。本来の力に見合った制御を学ばせることは、かなり困難になるだろう。
「レイチェルの両親には僕から忠告しておくよ」
サイファはにっこりと笑って言った。
ラウルは僅かに眉を寄せた。
今のところは、力が封じられているため、暴発する危険性はほとんどないと思われる。切羽詰まった状況ではない。だが、いつまでもこのままとは限らないのだ。早めに制御を身につける必要があるだろう。
重い荷物を背負って生まれてきたレイチェルに、重い宿命を背負って生まれてきた少女の面影が、またひとつ重なった。
「ラウル、こっち。見せたいものがあるんだ」
サイファは急にそう言うと、ラウルの手首を引っ張った。医務室とは逆方向の小径へ向かおうとしている。ラウルが一度も行ったことのない場所だ。この先に何があるのかは知らないが、知りたいとも思わない。
「断る」
冷たく端的に拒絶する。
「そんなこと言わずにさ」
サイファは軽い調子で受け流すと、大きな手をしっかりと握り、強引に小径を歩き出す。
ラウルは小さく溜息をつくと、仕方なくサイファに従って歩き出した。その小さな背中に向かって、ぶっきらぼうに尋ねる。
「何があるのか言え」
「バラ園だよ、ほら」
蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、視界一面にバラ園が広がった。広大というほどではないが、種類ごとに整然と整備されており、遠目に見ても美しいものだった。近くで見ても、細かなところまで手入れが行き届いているのがわかる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「僕が好きなのはこれ、ピンクローズ」
サイファはピンク色が咲き誇る一角に駆けていき、そのひとつに手を添えた。顔を近づけ、目を閉じる。
「華やかだけど、可憐で、可愛らしくて、まるでレイチェルみたいじゃない?」
そう言って、薄紅色の花びらにそっと口づける。
「レイチェルの話をしてたら、急にここに来たくなったんだ」
ピンクローズから手を放さないまま、顔だけラウルに振り向けると、小さく肩をすくめて見せる。子供らしい仕草ではないが、不思議と違和感はなかった。
「ねぇ、ラウルはどれが好き?」
「興味はない」
ラウルは即答した。あからさまに無関心な態度だった。
サイファは不満げに口をとがらせる。
「ラウルって何に興味があるわけ? いつもそんな……たっ!」
突然、短い叫び声を発すると同時に、顔をしかめて手を引いた。その指先に、赤い血がじわりと丸く盛り上がっていく。バラの棘が刺さったのだろう。
「不用意に触れるからだ」
ラウルは冷たく言った。
サイファはムッとして彼を睨んだ。ふてぶてしく口を開く。
「治療してくれる?」
「そのくらい水で洗うだけでいい」
ラウルは突き放した。
「うわ、王宮医師とは思えない言葉だね。それって職務怠慢じゃない?」
サイファは意図的に大袈裟な言い方をすると、僅かに口もとを上げた。
だが、ラウルは眉ひとつ動かさずに言い返す。
「医師として治療不要と判断した」
「傷を見もしないで、よくそんなことが言えるね」
サイファの口調はますます挑戦的になった。血の流れる指先を立て、ラウルに突き出す。
「せめて傷を見てからにしてよ」
ラウルは冷淡な瞳で見下ろした。
サイファは攻撃的に睨み返した。
ふたりは無言で視線をぶつけ合う。
どちらも引かない。
膠着状態が続く。
――ズッ。
微かな衣擦れの音。
先に動いたのはラウルだった。
差し出された細い指を、大きな手でガシッと掴んだ。
そして、僅かに身を屈めると、徐にそれを口に含む。
「なっ……」
サイファの体がビクリと震えた。
「何をしているわけ?」
顔を赤らめながら、少し怒ったように、とまどったように、呆れたように、だが努めて冷静に尋ねた。
ラウルは血の混じった唾を吐き捨て、平然と言い放つ。
「治療だ」
「化膿したらどう責任をとってくれるの?」
サイファは負けじと詰問する。
「だから水で洗えと言った」
ラウルは鬱陶しそうに言う。
「消毒してくれる? 医務室できちんと」
サイファは強気に追いつめる。感情的な口調ではない。だからこそ、そこに貫禄めいたものが感じられた。
「……来い」
ラウルは観念したかのように低い声を落とした。いや、観念したわけではない。面倒になったので譲歩した――少なくとも彼の方はそういうつもりだった。サイファには目も向けず、早足で医務室に向かって歩き出す。眉間には縦皺が刻まれていた。
「やっとラウルの医務室に入れてもらえた」
丸椅子に座ったサイファは、にこにこしながら声を弾ませた。いつも医務室の前までは来ていたが、中に入ったことはなかった。ラウルに拒否されていたのだ。
「そのためにわざと怪我をしたのではないだろうな」
ラウルは消毒液を棚から取り出しながら尋ねる。
「まさか」
サイファは軽く一笑に付した。
ラウルは眉をひそめて睨んだ。笑ってはいるが、サイファならこのくらいのことはやりかねない。嘘も平気でつくだろう。だが、今さらそれを追及しても仕方がない。
無愛想なまま椅子に腰を下ろすと、笑顔のサイファと向かい合った。怪我をした方の手をとり、人差し指を消毒して絆創膏を貼る。ごく簡単な処置である。わざわざ医務室にまで来ずとも、本来なら自宅で可能なものだ。
処置が終わると、サイファはきょろきょろと物珍しそうにあたりを見まわした。
「ねぇ、あの扉は何?」
ほとんど壁と同化した扉を、目ざとく見つけて尋ねる。
「私の部屋だ」
ラウルは素っ気なく答えた。
「その向こうの部屋に住んでるってこと?」
「そうだ」
「中を見せてよ」
「断る」
「散らかっていても僕は気にしないよ」
サイファは明るく言った。
ラウルは軽く睨みつけた。
「そういう問題ではない。誰も招き入れないことにしている」
そう言いながら立ち上がり、消毒液を棚に片付ける。ガラスの扉をゆっくりと閉めた。
「見られたくないものでもあるの?」
「私的な空間に踏み込まれたくないだけだ」
「じゃあ、いつか招待してね」
サイファは人なつこい笑顔を浮かべた。
「おまえ、少しは人の話を聞け」
ラウルは疲れたように溜息をついた。サイファのあまりにも自分勝手な物言いに、怒りを通り越して呆れていた。抑揚のない低い声で言う。
「治療は終わった。もう帰れ」
「ラウルのことが少しわかってきたよ」
サイファは上目遣いでラウルを見ると、形の良い唇に、意味ありげな笑みをのせる。
「けっこう動物的だよね。言葉じゃなくて行動でわからせようとするあたりさ。最初に自分の力を誇示して、相手を服従させようとするのもそうだよね」
ラウルは氷のような瞳で睨めつけた。
「たった10年しか生きていない奴に何がわかる」
「そういうラウルは、何年、生きているの? 300年は超えているよね」
サイファはにっこり微笑んで言った。
ラウルはじっと彼を見下ろした。ゆっくりと息をつく。
「知っていたのか」
「父上が話しているのを聞いたんだ」
サイファは極めて軽い口調で言う。
「怖くはないのか」
ラウルは尋ねる。
「どうして?」
サイファは首を傾げた。そして、当然のように言う。
「人間じゃないから危険ってことはないよ」
「私は人間だ」
ラウルは間髪入れず訂正した。
「え、そうなの?」
サイファは目を丸くした。どうやら本気で人間外の生物だと思っていたらしい。少し興奮した様子で、身を乗り出して尋ねる。
「どうしてそんなに長く生きられるの?」
「さあな」
「僕もラウルみたいに長く生きられるかな?」
「さあな」
ラウルは答えをはぐらかした。
サイファは口をとがらせた。だが、すぐに気を取り直して質問を続ける。
「じゃあ、ラウルはどこから来たの? それくらいは教えてくれる?」
ラウルはしばらく考えたのち、無言で窓の外を指さした。
サイファは視線でそれを辿る。
「空?」
「その向こう側だ」
「空の、向こう側?」
ぽつりと疑問形で呟きながら、椅子から立ち上がった。引き寄せられるように窓へと足を進める。窓枠に手をのせると、ガラス越しに空を見上げた。広く、深く、どこまでも青が続く。その向こう側にあるものは、ここからは見えない。
ラウルは腕を組み、うつむいた。焦茶色の長髪がはらりと落ち、表情を覆い隠す。
「もう帰れ。レイチェルが待っているのだろう」
「うん、ありがとう」
サイファは絆創膏を貼った指を立てて見せた。そして、右手を振りながら、軽い駆け足で医務室をあとにした。
医務室にいつもの静寂が戻った。
ラウルはガラス窓を開けた。風が渦を巻くようにして医務室に滑り込む。焦茶色の長髪がうねりながら舞い上がった。
――おかしな奴だ。
リカルドも恐れることなく入り込んでくるが、サイファはそれ以上だった。遠慮なく踏み入ってきて、強引に自分のペースに巻き込む。それは、単なる子供のわがままとは違う。押すべきところと、引くべきところを、上手く使い分けているのだ。自然にやっているようにも、何もかも計算づくのようにも感じる。
一緒にいて、これほど頭にくる奴もそうはいない。一方で、彼という人間と、彼の持つ才能には、多大な興味を引かれていた。
家庭教師をすぐに断らなかったのも、おそらくその興味ゆえだろう。だが、今後も続けていくと決めていたわけではない。しばらく様子を見てから結論を出すつもりでいた。それが、リカルドとの当初の約束でもあった。
ラウルは窓枠に両手をつき、緑が茂る静かな裏道を見下ろした。
誰もいないそこを見据え、眉根を寄せる。
もう、自分の中で結論は出ているのだろうと思う。
それには、サイファへの評価ではなく、明らかに別の存在が影響していた。
レイチェルだ。
外見や表情が似ているだけならまだ良かった。断ち切ることは可能だっただろう。だが、彼女の持つ魔導力の危うさは、目を離せなくさせるのに十分だった。
今日の話しぶりからすると、彼女が本家に遊びに来ることも度々あるのだろう。無関係の自分には何もできないが、せめて見守ることくらいは――そんな使命感にも近い思いが湧き上がった。
――運命までは、似なくていい。
ラウルはゆっくりと顔を上げた。
空を仰ぎ見て、目を細める。
白い翼を持った鳥が、青い空を滑るように横切っていった。
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