オレの愛しい王子様

瑞原唯子

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第21話 プロポーズ

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「え……桔梗さん……?」
 創真は扉のところで立ちつくしたまま、目を瞬かせる。
 執事に案内されて入室した西園寺家当主の書斎に、なぜか桔梗がいたのだ。彼女は流れるような所作で応接ソファから立ち上がり、会釈する。創真も怪訝に思いながらつられるように頭を下げた。
「桔梗にも関係する話なのでな」
「あ、はい……」
 奥の執務机にいた徹は、創真のつぶやきにさらりと答えて腰を上げた。
 この面会は翼が執事を通して取り付けてくれたのだが、その際に婚約に関する話だと説明していた。だから当事者である桔梗を呼んだのかもしれないが、創真としては完全に想定外である。
 もちろん彼女にもあとできちんと話をするつもりではいたが、いまはまだ心の準備ができていない。徹に報告するためにようやく気持ちを整えたばかりだったのに、また乱れてしまった。
「そちらにお掛けなさい」
「失礼します」
 創真はペコリと一礼して、徹に示された一人掛けの応接ソファに腰を下ろした。ローテーブルをはさんだ斜向かいに桔梗がいる。そして真正面にはゆったりと歩いてきた徹が座った。
 うっ——。
 向かいのふたりから見つめられて、彼らにそういうつもりはないのかもしれないが、何か強い圧のようなものを感じて息が詰まった。だからといって逃げ腰になるわけにはいかない。
「あの、今日までオレなりに真剣に考えてみたんですけど、桔梗さんとはやっぱり結婚できません。桔梗さんが悪いわけじゃなくオレの気持ちの問題です。すみませんがお断りさせてください」
 待っているあいだに考えていた言葉を口にする。
 ふたりともその話だということは予想していたのだろう。ほとんど表情を変えることなく冷静に聞いていた。桔梗は話が終わっても何も言おうとしなかったが、徹は一呼吸おいてから言葉を返す。
「結論を出すのが早すぎではないかね」
「オレの気持ちは変わりません」
 目をそらすことなく熱く真剣に見据えながら、食いぎみに言い返した。絶対に流されないぞという強い気持ちをこめて。
 それでも徹は冷静なまま動じる素振りもない。
「創真くんは十六歳だったな。若いときはまだ視野が狭く思い込みにとらわれがちだ。いま結論を出してしまっては後々後悔するかもしれない。変わらないと思っていた気持ちが変わることはよくある。若ければ若いほどな」
「でも、オレは……」
「だから、ひとまず成人するまで返事を保留してみてはどうだろうか。もちろん、成人しても気持ちが変わらなければ断ってくれて構わない。君のためにもそうするのがいいと思うのだが。念のためな」
 言葉に詰まり、創真は膝のうえでグッとこぶしを握りしめる。
 もちろん気持ちが変わらない自信はあるし、後悔しない自信もあるのだが、若さゆえと言われてしまうと反論するのが難しい。しかも、保留という控えめな提案だからかえって断りづらい。
「創真くん」
 ふいにやわらかな声で名前を呼ばれて、顔を上げる。
 桔梗はどこか申し訳なさそうに微笑んでいた。
「私のためにもそうしてくれないかしら。そんなにすぐにふられてしまうなんてあまりにみっともないもの。両親にもきっと腫れ物に触るような扱いをされるでしょうし。顔も見たくないほど嫌いだというなら仕方がないけれど」
「別に、嫌いなわけじゃ……」
 答える声はだんだんと消え入っていく。
 できることなら返事の保留はしたくない。ここできっぱりと断ってしまいたい。けれど徹に反論するだけの言葉を持たず、桔梗の懇願をふりきる勇気もない創真に、断れるかというと——。
「あまり創真をいじめないでもらえます?」
 突如、書斎の静寂が破られた。
 飽きるほど耳にしてきた声を創真が聞き違えるはずがない。ハッと息をのんで振り向くと、そこには思ったとおり翼がいた。しかし、まさか乱入してくるなんて想定外で言葉が出てこない。
「ノックもしないで無礼よ」
 桔梗がうっすらと眉を寄せてたしなめるが、翼は引き下がるどころか冷笑を浮かべて向かってきた。応接セットのまえで足を止めると、二人掛けソファに並んで座っている桔梗と徹を見下ろす。
「おふたりとも創真の意思を尊重するという話はお忘れですか?」
「創真くんのためを思って助言をしたまでだ」
 答えたのは徹だ。ソファに座ったまま顔色ひとつ変えず平然としている。そんな彼を見つめながら翼はすっと冷ややかに目を細めた。
「助言、ね……上手く言いくるめて返事を保留させたうえで、少しずつ外堀を埋めて逃げられなくする魂胆でしょう。百戦錬磨のおじいさまからすれば、赤子の手をひねるようなものだ」
「私は純粋に助言をしたつもりだがね」
 そう受け流されて翼はわずかに眉をひそめたものの、深く追及はしなかった。鷹揚に腕を組みながら今度は手前の桔梗に視線を移す。
「桔梗姉さんは創真の優しさにつけ込むのだからもっとタチが悪い。そのうち既成事実でも作るつもりかな。それも騙し討ちのような方法で。先日の温泉旅行もそういう策略だったのでしょう」
「何の根拠もない妄想でしかないわね」
 桔梗はあきれたと言わんばかりにそう切り捨てた。そして背筋を伸ばしたまますっとソファから立ち上がると、ワンピースの裾を揺らしながら一歩二歩と距離を詰めて、翼と対峙する。
「いずれにしてもあなたには関係のないことよ。出て行きなさい」
 彼女は毅然と命じた。
 しかし、翼は身じろぎもせず腕を組んだまま睨みつける。彼女も負けじとまなざしを鋭くする。ふたりのあいだには激しい火花が散っていた。
「あの、ふたりとも落ち着いて……」
 思わず創真は立ち上がって声をかける。
 正直、翼の推測が合っているのかどうかは皆目わからない。まさかと思いつつ、言われてみるとあり得なくもない気がしてくる。それでもこれは創真自身が決着をつけるべき問題だろう。
「オレなら大丈夫だから」
「僕が大丈夫じゃないんだ」
「えっ?」
 翼は決意を秘めたような真剣な顔になって振り向いた。そしてゆっくりと足を進めて真正面から向かい合うと、その場ですっと片膝をつき、まるで壊れ物でも扱うかのように優しく左手を取る。
「っ……!?」
 創真はドキリとしながら、同時にわけがわからなくてひどく当惑してしまう。けれども翼はじっと見つめたまま手を離そうとしない。目をそらすこともできず無意識に唾を飲み込んだ、そのとき——。
「僕と結婚してくれないか」
「…………」
 ついに頭の中がまっしろになった。何も考えられないのに、何もわからないのに、心臓だけが勝手にドクドクと早鐘を打っていく。いまにも壊れそうなくらい激しくて息もできない。
「あの日から僕なりに真剣に将来について考えてきた。まだやりたいことは見つけられていないが、ひとつだけ確信していることがある……創真、おまえのいない人生は考えられない」
 緊張ぎみに、しかしながらしっかりと目を見つめて翼はそう告げる。
「恋愛感情があるかと言われると微妙だが、人生をともにするなら創真がいい。創真しか考えられない。いまさらながらようやく気付いたんだ。どうか僕と一緒に人生を歩いてほしい」
 自分に向けられた真摯に請うようなまなざし。ふれあう手から伝わる体温と感触。確かに現実であると理解はしているはずなのに、なぜか現実感がなく、まるで熱に浮かされたみたいにふわふわしている。
「はい……」
 気付けば口から肯定の返事がこぼれていた。
 翼は表情をゆるめ、すぐに創真の手をしっかりと握って立ち上がると、応接ソファに座したままの徹に慇懃に一礼する。
「創真はこのとおり僕がいただくことになりましたので、潔くあきらめてください」
 そう言うと、返事を待つことなく創真の手を引いて踵を返した。
 一連の流れをすぐそばで呆然と眺めていた桔梗は、その瞬間ハッと我にかえり、翼の行く手にまわり込んで立ちふさがった。見たこともないくらい余裕をなくした蒼白な顔をして。
「こんなの認められるわけがないでしょう!」
「桔梗」
 たしなめるような重い声が部屋に響く。
 桔梗は表情を硬くし、声の主である徹のほうへぎこちなく振り向いた。彼はソファに深く腰掛けたまま腕を組んでいたが、奥底まで見透かすような目を桔梗に向けると、静かに告げる。
「引き際を見誤るな」
「…………」
 桔梗はキュッと小さな口を引きむすんだ。くやしそうに眉をひそめながらも一歩二歩と脇に避ける。そうして阻むものがなくなると、翼は創真の手を引きながら扉を開けて書斎をあとにした。

「なあ、翼」
 手を引かれて長い廊下を歩くうちに創真はだいぶ落ち着いた。脳内ですこし状況を整理してから呼びかけると、歩調を変えることなく「ん?」と聞き返されたので、そのまま話を続ける。
「さっきのって、やっぱりオレを助けるための演技なんだよな?」
「は……?」
 翼は足を止めると、つないでいた手を離して創真に向きなおり、困惑したような落胆したような複雑な面持ちで言う。
「僕としては本気でプロポーズをしたつもりだったが」
「え……でも、無理に結婚する必要はもうないんだろう?」
「だから僕が僕自身のためにおまえを望んでいるんだ」
「綾音ちゃんのことは……?」
 幼いころからずっと好きだった綾音のことを、ふられたからといって二か月やそこらでふっきれるものだろうか。遠慮がちに尋ねると、翼は気まずそうに目を泳がせながら頭に手をやった。
「まあ、正直、好きだという気持ちはまだ残っているが……」
 すこし言いよどんだものの、すぐに気を取り直したように視線を戻して続ける。
「綾音ちゃんは創真のことが好きなんだってな。綾音ちゃんに告白したときに本人から聞いたよ。幼稚園のときからずっと好きで、去年の文化祭のときに告白したけどあっさりふられたって」
「……その……黙ってて悪かった」
 まさか綾音がそこまで暴露しているとは思わなかった。申し訳なさと気まずさでいたたまれなくなり、今度は創真が目を泳がせる。
「言えない気持ちはわかるし責めるつもりはないさ。ただ、それを聞いたとき僕は不安で心配でたまらなくなった。創真の気持ちが綾音ちゃんに傾いたらどうしよう、創真が綾音ちゃんに取られたらどうしよう、って」
「えっ……?」
「おかしいだろう?」
 そう翼は肩をすくめるが、創真はおかしいというより意味がわからなかった。
 もし創真と綾音がつきあったら翼はつらい思いをするだろう。それは理解できるが、創真が綾音に取られるというのは逆のような気がする。混乱して怪訝な顔になると、翼が苦笑した。
「自分でも自分の気持ちがわからなくて戸惑ったよ。だが、おまえと桔梗姉さんの婚約話が出たことではっきりと気付いたんだ。僕が人生をともにしたいのは他の誰でもなく創真なんだって」
「でも、あのとき桔梗さんと結婚しろって……」
「それが創真にとって最善だと思った。けれど熟慮したうえで断るというならもう遠慮はしない。破談になったらプロポーズしようと一か月以上前から決めていたんだ。桔梗姉さんがしつこかったせいで順序が逆になってしまったが」
 翼の言い分はとりあえず理解した。けれど——。
「まだ信じられないか?」
「ていうか実感がない」
「実感……ね」
 翼は思案をめぐらせるような様子で静かにつぶやくと、あらためて創真を見てふっと笑い、そっと手を伸ばして指先で遊ぶように頬に触れてきた。
「…………?」
 創真は困惑のまなざしを送る。
 しかし翼はそのまま無言で顔を近づけてきて——ふいに唇に感じたやわらかさとぬくもりで、創真はくちづけられたことに気付いた。思考が停止して呆然としているうちにすっと離れていく。
「実感したか?」
 いたずらっぽく問われて、創真は火を噴きそうなくらいぶわりと顔が熱くなった。思わず口元を手で覆う。気のせいなんかじゃなく、本当に、翼と——さきほどの感触がよみがえり頭まで沸騰しそうになる。
「まだ足りないのか?」
「え、いや、もう十分っ!」
「僕は足りないけどな」
「はぇっ……」
 からかわれたことにも気付かずあわあわとする。もう頭はいっぱいいっぱいだった。そんな創真を見て、翼はひとしきりおかしそうに笑ったかと思うと、左手を腰に当てながら挑むように口元を上げて言う。
「じゃあ行くぞ」
「行くって……どこへ?」
「ご両親に許しを得ないと」
「ええっ?!」
 翼はニヤリとして、困惑している創真の手をしっかりとつかんで駆け出した。創真もよろけつつ足手まといにならないよう必死についていく。驚きはしたものの抗おうという気はない。
 そもそも、それは創真がずっと夢見ていたことで——。
 翼が扉を開くと、ほのかにあたたかい風がするりと頬をなでていく。思わず創真はふっと表情をゆるめ、そのまま春の陽だまりのもとへと足を踏み出した。今度は自分から翼の手をとって。
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