オレの愛しい王子様

瑞原唯子

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第9話 積み重なる後悔

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 ——今日からひとりで登校する。
 迷ったすえ、創真は必要最低限のことを記した端的なメッセージを翼に送った。
 かじかむ指先でアプリを閉じ、電源を落としてスマートフォンをスクールバッグに放り込む。そして白い息を吐きながら、チェック柄のマフラーをもぞりと口元まで引き上げると、寄りかかっていた自宅の塀から背中を離して歩き出した。

 きのう、フェンシング対決で負けてから翼と顔を合わせていない。
 ——今日は先に帰ってほしい。
 ——わかった。
 創真のひどく打ちのめされた気持ちを汲んでくれたのか、頭を冷やす時間が必要だと考えたのか、あるいは翼自身も顔を合わせる気になれなかったのか、不躾なメッセージひとつで了承してくれた。
 そして、頭が冷えて気がついた。
 フェンシング対決など持ちかけるべきではなかったと。あのときはそうするしかないと思いつめていたが、勝っても負けても元には戻れない。翼に想いを告げた時点でもう詰んでいたのだ——。

「おい、創真!」
 学校へ向かう途中、後ろから怒気をはらんだ声で名を呼ばれ、同時に痛いくらいの強さで肩をつかまれた。足は止めざるを得なかったが振り向きはしない。乱暴に肩を引かれて無理やり振り向かされても、顔だけはそむける。
「ひとりで登校するって何だ」
「…………」
 無視していると、両手で頬をはさまれてグイッと顔の向きを変えられた。目の前に翼の端整な顔が迫っている。ひどく険しい表情だが、それよりも近さにドキリとしてあわてて目をそらす。
「察しろよ。オレはおまえに惨めにふられて、惨めに負けたんだ」
 やけっぱちにそう言い放ったら、翼は無言のまま頬をはさんでいた手をゆっくりと下ろした。それでも射貫くような真剣なまなざしは変わらない。
「勉強には来るんだろうな?」
「もうおまえの隣にはいられない」
「は?」
 地を這うような声で聞き返された。
 思わずビクリとするが、それでも曖昧に目をそらしたまま何も答えない。呼吸さえためらうくらいに空気が張りつめていく。
「ずっと僕を支えてくれるんじゃなかったのか。そう約束しただろう」
「…………」
 できるならそうしたかった。
 告白も勝負もすべてなかったことにしてしまえば、表面的にはいままでどおりでいられるのかもしれない。翼はそのつもりのようだ。けれど、創真にとってそれはとてつもなく苦しくて惨めなことで——。
「見損なったぞ」
 いつまでも口をつぐんで目をそらしていれば、拒絶でしかない。
 翼はきつく睨みながらそう唾棄するように言い捨てると、怒りまかせに大きく身を翻して立ち去っていく。その後ろ姿はあっというまに遠ざかって小さくなり、やがて見えなくなった。

 その日から、翼は東條とふたりで行動するようになった。
 学校中さもありなんという空気だ。創真が何か逆鱗に触れるようなことをしでかしたので、フェンシング対決でこてんぱんにされたあげく捨てられた——そんなふうに見られているらしい。
 おかげでまわりからは腫れ物に触るような扱いをされている。無遠慮な視線を向けてひそひそとうわさ話をするくせに、誰も声はかけてこない。もっとも尋ねられたところで話せることはないのだが。
 それより翼と東條が親しくするさまを見るのがつらい。翼はまるで東條が唯一無二の親友であるかのように振る舞っているし、東條もいささか戸惑いながらも満更でもない感じだ。
 ただ、東條はときどき心配そうな目を創真に向けてくる。仲直りしなくていいのかと訴えるかのように。袂を分かつことになった原因や経緯については、おそらく知らされていないのだろう。
 もう仲直りとかいう段階ではないのだ。
 きっとあの朝が最後のチャンスだった。感情を殺してでも翼に従えばよかったのかもしれない。どれだけ苦しかろうが、惨めだろうが、翼と離れるよりはよほどましだったのではないか——。

「圭吾、今日これからうちに来られるか?」
 フェンシング対決から三日後。
 ひとり黙々と帰り支度をしていると、ふいに後ろの席からそんな声が聞こえてきて、創真は思わずドキリとしつつ耳をそばだてる。それを悟られないよう意識して手を動かしながら。
「え、まあ……いきなりどうしたんだ?」
「僕の勉強に同席するって言ってただろう」
「ああ、それか。こんな急だとは思わなかった」
「きのう親から許可をもらったんだよ」
「まだ何も準備してないけどいいのか?」
「身ひとつでくればいいさ」
 ふたりは席を立ち、なごやかに笑い合いながら教室をあとにした。
 いよいよ西園寺の後継者教育に東條が同席するようだ。当然のなりゆきだが、本当に現実になると思うとあらためてショックを受ける。自分にはもうそんな資格すらないというのに——。

 創真はひとりで帰路についた。
 空はどんよりとした鈍色で、吹きすさぶ風も今朝より一段と冷たくなっている気がする。ダッフルコートのポケットにかじかんだ手を突っ込み、ぐるぐる巻きのマフラーに顔半分うずめながら、赤信号を待つ。
「創真くん」
 ふいに凜とした声で呼びかけられた。
 振り向くと、腕が触れるか触れないかくらいのところに桔梗がいた。翼の姉だ。まわりに誰もいないところを見ると彼女もひとりらしい。創真はきまり悪さを感じながらおずおずと会釈をする。
「まだ翼と仲直りしていないのね」
 彼女はそう言い、うっすらと同情めいた笑みを浮かべた。
 同じ学校なのでフェンシング対決のことは知っているのだろう。だが、その原因や経緯までは知らないはずだ。創真はマフラーに顔半分うずめたまま曖昧に視線を落として、ぼそりと答える。
「もう愛想を尽かされたんです」
「それはどうかしら」
 桔梗は間髪を入れず疑問を呈した。
「あなたたちのあいだに何があったかは知らないけれど、あの子のことだからつまらない意地を張っているだけじゃないかしら。創真くんもご存知のとおり感情的なところがあるもの。きっとそのうち後悔すると思うわ」
「翼は、もう新しい補佐役を見つけてます……オレよりずっと優秀な……」
 自分は切り捨てられたのだ。
 翼の決めたことに私情で難癖をつけ、恋愛を持ち込み、あげく約束を反故にして逃げ出す——そんな面倒な人間をそばに置く理由はない。もともと目をつけていた東條に鞍替えするのは当然である。
「それなら私のところにおいでなさいな」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、桔梗はやわらかく創真を見つめて微笑んでいた。
「そろそろ将来に向けて信頼できるパートナーがほしいと思っていたところなの。創真くんのことは前々から買っていたからちょうどいいわ。私ならもっとあなたを大事にしてあげられるけど、どうかしら?」
 本気、じゃないよな——。
 創真のことを買っていたなど元気づけるための方便としか思えない。桔梗が将来どうするつもりで何のパートナーを求めているのかはわからないが、何の取り柄もない人間をほしがりはしないはずだ。
 しかし、これで創真が乗り気になったらどうするつもりなのだろう。もしかしたら末席くらいには置いてくれるのかもしれない。彼女は自分の言ったことには責任を持つタイプのように思う。ただ——。
「すみません……これ以上、翼に嫌われたくないので」
 それが創真のまぎれもない本心だった。
 桔梗のもとへ行けば、翼は間違いなく当てつけだと憤慨するだろうし、創真を嫌うどころか憎むようにもなりかねない。それだけは避けたかった。たとえもう二度と隣に立つことができないのだとしても。
「そう、残念ね」
 まるで本当にそう思っているかのような寂しげな表情で、桔梗は言う。
「気が変わったらいつでもいらっしゃい」
「はい……」
 社交辞令だろうと思いつつも、何となく申し訳なさと気まずさを感じてしまい、もぞりとマフラーにうずもれるようにしてうつむく。彼女も黙ったままである。寒風の吹きすさぶ乾いた音だけしか聞こえてこない。
 正面の信号は、どうしてだかなかなか青にならなかった。
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