オレの愛しい王子様

瑞原唯子

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第7話 侵蝕

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「なあ、よかったらこれからうちに本を見に来ないか?」
 ホームルームのあと、東條は帰り支度をしながら隣席の翼をそう誘った。
 今日の昼休み、東條がイギリスで現地の本を買っていたという話になり、翼が興味を示していたのだ。だからといってまさか自宅に呼ぼうとするとは思わず、創真は面食らって耳をそばだてる。
「いきなり行ったら迷惑じゃないか?」
「部屋は片付いてるから大丈夫だ」
「へぇ、じゃあ行かせてもらおうかな」
「たいしたおもてなしはできないけど」
「構わないよ」
 翼が軽く笑いながら応じると、東條ほっとしたように小さく息をついた。
 おそらく彼には下心があるはずだ。本を見せたいというのも嘘ではないだろうが、自宅に呼ぶことでもっと親密になろうとしているのではないか。それが悪いわけではないけれど——。
「創真、そういうことだから今日は先に帰ってくれ」
「オレも行く!」
 ぽんと背中を叩かれ、思わずはじかれたように振りかえってそう宣言する。翼は勢いに押されて若干のけぞりつつ目を瞬かせたものの、すぐに平静を取りもどした。
「おまえ興味なさそうにしてなかったか?」
「本はともかく、東條の家には行ってみたい」
「諫早くんも歓迎するよ」
 驚いて振り向くと、東條がこちらを見て含みのある笑みを浮かべていた。まるで何もかも見透かしているかのように——創真はギクリとしながらも素知らぬふりで前に向きなおり、スクールバッグのファスナーを閉めた。

「俺んちはこっちな」
 校門を出ると、東條は右手で指さしながら案内する。
 だが、いつも彼が帰るところを見ているので言われるまでもない。そうだろうなと翼は笑いまじりの声で応じて、あたりまえのように彼と並んだまま歩き出した。創真はひとりその後ろを歩く。
 まわりが騒がしいのは二人の王子様が一緒に帰っているからだ。興奮ぎみに行き先を尋ねる子もいれば、遠巻きにはしゃいでいる子もいる。そんな彼女たちに翼は例のごとく甘やかな笑みを振りまいた。
 それでも学校から離れるにつれてまわりの生徒が少なくなり、騒がしさは落ち着いていく。困惑ぎみだった東條もようやく安堵したような表情になった。それを目にして翼は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「こんなに騒がれるとは思わなかったんだ」
「文化祭のときよりは全然マシだったけどな」
「ははっ、違いない」
 文化祭の執事喫茶では、東條も翼とともにかなり騒がれていた。
 もともと編入したときから人気は高かったのだ。翼のように黄色い声できゃあきゃあ言われるわけではないが、翼以上に告白されている。正真正銘の男性だからというのもあるのかもしれない。
 ただ、東條はいまのところすべて断っているようだ。好きなひとがいるのかと詰め寄った子もいるらしいが、肯定も否定もしなかったと聞く。それこそが翼をあきらめていないことの証左だろう。
「イギリスにはどのくらい住んでたんだ?」
「小学生からだから……だいたい九年くらいか」
「へぇ、けっこう長かったんだな」
 翼はそう相槌を打ち、ちらりと東條のほうに顔を向けて言葉を継ぐ。
「親御さんの仕事の都合って聞いたけど」
「商社だから何か海外赴任が多いみたいでさ」
「ああ、商社か」
 西園寺グループにも商社があるので、翼はそのあたりの事情をよくわかっているのかもしれない。しかし創真にも何となく海外赴任が多いというイメージはあった。
「さすがにもうついていく気はないけど」
「じゃあ、ひとり暮らしか?」
「また海外赴任ってことになったらな」
 東條は苦笑すると、ふと思い出したように後ろの創真に振り向いた。
「諫早くんのところは転勤とかないのか?」
「多分ないと思う」
 ぶっきらぼうに返事をすると、翼が面白がるように含み笑いをしながら補足する。
「創真の父君は創業社長だぞ」
「え、そうなのか?」
「ただのベンチャー企業だ」
「もう中堅企業だろう」
 面倒なので、父親が社長であることはあまり言わないようにしている。
 それゆえ翼もむやみに暴露はしないのだが、東條には友人だからという判断で話したのだろう。別に隠しているわけではないので構わないけれど、翼がそれだけ彼のことを認めているのだと思うと、すこし複雑な気持ちになった。

 東條の家は、白を基調としたモダンな一戸建てだった。
 校門を出てから二十五分ほどかかっただろうか。自転車通学がぎりぎりで認められないところで、電車もバスもちょうどいい路線がないため、毎日こうやって徒歩で通学しているのだという。
「さ、ふたりとも入って」
「おじゃまします」
 東條に促され、創真は軽く会釈をしてから翼とともに玄関に入った。何となく隅のほうに寄りながら東條が扉を閉めるのを眺めていると、奥からパタパタと軽快な音が近づいてきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「あら、お友達?」
「うん」
 濃紺のエプロンを着けたまま玄関にやってきたのは、東條の母親のようだ。身長は普通くらいだが、頭が小さく全体的にすらりとしていて見栄えがいい。顔も若々しくて高校生の息子がいるようには見えなかった。
 東條は扉のつまみをまわして鍵をかけると、彼女に向きなおる。
「仲良くしてくれてるクラスメイトの西園寺翼くんと諫早創真くん。イギリスで買った本を見てもらおうと思って呼んだんだ」
「えっ……さ、い……」
 そう言ったきり、彼女は凍りついたように絶句してしまった。顔はひどくこわばり、青ざめ、わずかに震えてさえいる。いったいどうしたのか創真にはわからなかったが、それは東條も同じらしい。
「母さん?」
「あ……いえ、その、ゆっくりしていってね」
 息子の呼びかけでようやく彼女は我にかえり、ぎこちない笑みを浮かべてそれだけ告げると、そそくさと逃げるように奥へ引っ込んでいく。創真たちとは目を合わせようともしないで。
「悪い、いつもはこんなんじゃないんだけど……」
「気にするな。名前で驚かれることには慣れてる」
 東條は困惑した様子で謝罪するが、翼は何でもないかのように軽く肩をすくめて受け流す。だが、西園寺の名に驚いただけにしては様子が尋常ではなかった。おそらく翼もそう感じてはいるだろう。

「おまえ……本当にきれいにしてるんだな……」
 階段を上がって東條の部屋に案内されると、創真は唖然とした。
 急な来訪だったにもかかわらず、物が散らばっていることもなく、机の上もきれいに片付けられていて、ベッドまできちんと整えられている。いつもパジャマが脱ぎっぱなしの自分の部屋とは比べものにならない。
「母親が潔癖症ぎみでうるさいんだ」
 東條は苦笑して、なぜか弁明するかのように言う。
 ただ、さきほどの様子からも彼女が潔癖症というのは何となくわかる気がした。きっと繊細なところがあるのだろう。だから日本有数の旧家である西園寺の子が来たことにひどく動揺した——のかもしれない。
 そんなことを考えながら翼に振り向いたつもりだったが、姿がなかった。開いた扉から廊下を覗いてみると、翼は階段を上がりきる直前で足を止めて後ろのほうを見ていた。その表情はどことなく険しい。
「どうしたんだ?」
「いや……」
 そう答えると、気を取り直したように微笑んで部屋に入ってきた。
 何でもなくはないだろうが、何となく聞ける雰囲気ではなくなってしまった。翼はさっそく目当ての本棚に気付いてそちらへ足を進めている。もやもやとしながら創真もそのあとに続いた。
 本棚はスライド式のもので片側の壁面に備え付けられていた。扉で隠せるようになっており、東條が開けるまえはただの壁にしか見えなかったが、いまはそこに大きな本棚が現れている。
「いろいろあるんだな。見てもいいか?」
「ああ、まだクローゼットにもあるけど」
「とりあえずここだけでいいよ」
 翼に従い、創真もスクールバッグとコートを置いて背表紙を眺めていく。
 ざっと見たところ、小説、漫画、サッカー雑誌が多い。小説は海外の作家のものがほとんどで、逆に漫画は日本の作家のものばかりである。ただ、どれも日本語ではなく英語翻訳のようだ。
「こういうので英語を勉強してたのか?」
「あー、まあ結果的に勉強になってたとは思うけど、読みたかったから読んでただけなんだ。漫画は日本のだけど、英語翻訳のほうが手に入りやすかったからさ」
 東條はコートを脱いでハンガーに掛けながら答える。自分のだけでなく、創真たちのも同じようにハンガーに掛けてくれている。すぐに片付けることがもう身についているのだろう。
 コンコン——。
 ふいに控えめにノックする音が聞こえ、東條が扉を開ける。
 そこにはすこし気まずそうな笑みを浮かべる彼の母親がいた。ジュースとお菓子を載せたトレイを手に持っている。東條が招き入れると、彼女は中央のローテーブルにグラスとお菓子を置いた。
「さきほどはごめんなさいね」
 膝をついたまま、本棚の前にいる創真たちのほうに振り向いて言う。言葉のとおり申し訳なさそうな表情をしており、縋るようにトレイを胸に抱く姿もあいまって、ひどく儚げに見えた。
「いえ、気にしていませんから」
 翼がにっこりとよそいきの笑顔でそう応じると、彼女は淡く微笑む。
「まさか西園寺のお嬢様を連れてくるなんて思わなかったから、驚いちゃって。圭吾と同じ学校ってことさえ知らなかったんですもの」
 お嬢様——それを聞いた瞬間、創真は凍りついた。
 つまり彼女は翼が本当は女だということを知っていたのだ。だからといって、男の格好をしている本人をまえにしてお嬢様と呼ぶなんて。ただ単にうっかり口を滑らせただけなのか、それとも。
「母さん、あとは俺がやっとくから」
 東條も動揺して、あたふたと追い立てるように母親を下がらせる。
 それでも翼だけは何でもないかのように平然としていた。階段を降りていく軽い足音が遠ざかって聞こえなくなると、薄く苦笑して肩をすくめる。
「せっかくだ、いただこう」
 その言葉に、東條も創真もほっと緊張の糸が切れたように頷いた。

 三人はローテーブルを囲んでラグの上に座り、オレンジジュースを飲み、個包装になったバームクーヘンを食べ始めた。創真はあっというまに完食し、東條に勧められて二つ目に手を伸ばしながら口を開く。
「東條のお母さんはどこで翼のことを知ったんだろうな」
「顔は知らなかったようだから噂で聞いたと考えるのが妥当だな。一応、この学区のあたりではそこそこ知られているし、井戸端会議の話題にのぼったとしても不思議じゃない」
 翼が食べかけのバームクーヘンを手に持ったまま、理路整然と答えた。
 確かに旧家である西園寺の娘が男装しているとなれば、それも王子様と呼ばれるほど眉目秀麗であれば、学校とは無関係のところで話題になってもおかしくはない。
「でもあんなに動揺するのは普通じゃない気がするけど」
「もしかしたら仕事がらみでウチと何かあったのかもな」
「ああ……」
 西園寺グループはイギリスや北欧にも展開しているようだし、商社との取引もあるはずだ。逆にいえばそれくらいしか接点が思いつかない。仕事がらみとなると創真には何があったのか想像もつかないが。
「まあ、何の証拠もない勝手な憶測だ」
 翼はそう言って肩をすくめる。
「西園寺の名前に驚いただけという可能性のほうが高い。実際、あのくらいの反応ならいままでにも見たことがある。いずれにしても圭吾がそんな顔をすることはないんだ」
「ん、ああ……」
 創真は気付いていなかったが、隣の圭吾は戸惑ったように表情を曇らせていた。親どうしで何かあったかもしれないと聞けば、不安になるのも無理はない。翼はそのことを察してフォローしたのだろう。
「さあ、もうすこし本を見せてもらおうかな」
 今度は仕切り直すように明るくそう言って立ち上がると、軽く伸びをしてから本棚のほうへ向かう。創真も残りのバームクーヘンを口に放り込んであとを追った。

「じゃあ、この三冊を借りるよ」
 気になるものがあったら貸すという東條の言葉に甘えて、翼は三冊の本を選んだ。ミステリー小説とファンタジー小説とSF小説だ。東條の趣味らしく、本棚にある小説はこういったジャンルのものばかりだという。
「諫早くんはいいのか?」
「ああ」
 翼ほど英語が得意でないので小説は読むのに時間がかかるし、漫画はオリジナルの日本語で読みたいし、サッカーにはそもそも興味がないし、何より東條に何かを借りるというのは気が進まなかった。
 その隣で、翼はしゃがんで借りた本をスクールバッグにしまっている。どうにか三冊ともおさめてファスナーを閉じると、立ち上がって肩にかけた。厚い本もあったのでけっこうパンパンになっていて重そうだ。
 その様子を見て、東條はそっと控えめに表情をほころばせる。
「またいつでも来いよ。本とか関係なしに」
「ああ、圭吾もよかったら今度うちに来いよ」
「いいのか?」
 彼がそう聞き返すと同時に、創真は息をのんだ。
 翼が創真以外を家に呼ぶことなんて滅多にないのに。綾音でさえ数えるほどしか呼んだことがないのに。どうして会ってまだ数か月の彼を——しかし、当の翼はたいしたことではないかのように笑って頷く。
「もちろん。創真もしょっちゅう来てるしな」
「オレは遊びに行ってるわけじゃないけど」
「ん、じゃあ何しに行ってるんだ?」
「勉強だよ」
 翼がさらりと答えた。
「僕は家庭教師を呼んで後継者になるための勉強をしてるんだが、それに創真も同席してるんだ。経営学や、英会話、礼儀作法、マーケティングとか、あと護身術なんかもやってるぞ」
「へぇ、すごいな」
 東條は目を見張って感嘆の声をもらした。
 勉強もだが、何より創真も一緒にというのが意外だったのだろう。こちらに振り向いてまじまじと見つめてくる。そのまなざしにうらやむような色がにじんでいることに、翼も気付いたようだ。
「圭吾も一緒に勉強してみるか?」
「え、いいのか?」
「二人も三人も変わらないからな」
「それなら俺も同席させてほしい」
「わかった」
 前のめりになる東條に、翼はふっと笑みを浮かべて了承の返事をした。
 なんで——。
 これが社交辞令でないことくらい創真にもわかる。しかし同席を許されているだけの分際で反対などできるわけもなく、目のまえで話が進んでいくのをただ呆然と眺めるしかなかった。
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