オレの愛しい王子様

瑞原唯子

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第1話 オレの愛しい王子様

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「僕を待たせるとはいい度胸だな」
 夏休みが終わり、二学期が始まるその日の朝。
 諫早創真(いさはやそうま)がいつものように西園寺の邸宅へ迎えに行くと、すっかり準備を整えて待ち構えていた西園寺翼(さいおんじつばさ)が、うっすらと笑みを浮かべてそんなことを言った。
 迎えの時間は決めてあるもののそう厳密なものではない。腕時計を見てみると、確かに二分ほど過ぎているがおおよそ時間どおりである。このくらいの遅れならいままでにもときどきあった。
「おまえといれば度胸もつくさ」
 どうせ気まぐれでからかっているだけだろうと思い、軽くそう返したが、予想に反して翼の反応は怖いくらい真面目なものだった。
「なら罰を受ける覚悟もできてるな?」
「え、マジで言ってんのか?」
「何かしらのペナルティは必要だ」
「ペナルティって……」
 困惑する創真のまえで、翼は目を伏せてじっと思案するような素振りを見せる。やがてふいとわずかに視線だけを上げたかと思うと、ニッといたずらっぽく笑った。
「冗談に決まってるだろう。度胸がついたというわりにはビビりすぎだぞ」
「おまえなぁ」
 創真は大きく安堵の息を吐きながらそう言って、じとりと睨んだ。

「あまりからかっていると創真くんに愛想を尽かされるぞ」
 笑いを含んだ声が、天井の高い広々とした玄関ホールに響く。
 振り向くと、仕立てのいいチャコールグレーのスーツを身につけ、悠然とした足取りで階段を降りてくる壮年の男性がそこにいた。翼の父親で、由緒正しい西園寺家の次期当主に指名されている征也(せいや)である。
 ただ立っているだけでカリスマ性を感じさせる美丈夫でありながら、身のこなしも洗練されており、また仕事ぶりも素晴らしく、後継者として非の打ちどころがないと評価されているようだ。
 そんな彼に、翼は幼いころからずっと憧憬と尊敬の念を抱いていた。創真は本人から飽きるくらい何度もそのことを聞かされてきたし、実際、父親といるときの表情を見れば一目瞭然である。
「父上、創真とは仲良くやってますから大丈夫です」
「幼なじみというのは得難いものだ。大切になさい」
「はい」
 いまも尊敬のまなざしを隠さない。
 こんな目を向けられてはくすぐったくなりそうなものだが、征也はいつもながら照れた様子もなく鷹揚に受け止めて、再び足を進める。
「あ、おはようございます」
「おはよう創真くん」
 目が合って思い出したようにあたふたと挨拶をした創真にも、やわらかく微笑み返してくれた。用意された革靴を履き、後ろに控えていた妻の瞳子(とうこ)からビジネスバッグを受け取る。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「父上、お気をつけて」
 瞳子と翼がそれぞれ声をかけるが、創真は何と言えばいいかわからず無言のまま頭を下げた。普段、征也はもっと早い時間に家を出ているので、こんなふうに見送ることになったのは初めてなのだ。
 しかしながら彼は気にする素振りもなく軽く頷き、颯爽と玄関をあとにした。
「さあ、翼もそろそろ行かないと遅刻しますよ。あなたは西園寺の後継者になるのですからね。常にその名に恥じないように行動しなさい」
「はい、母上」
 西園寺の後継者になるのだから——瞳子のその言葉は、創真でさえいいかげん耳にタコができそうなくらい聞いているが、翼はうんざりする様子もなくいつも真面目に受け止めている。むしろ期待されていることをうれしく思っているようだ。
「行くぞ、創真」
「ああ」
 翼は颯爽と足を進め、そのあとを創真は小走りで追いかけていった。

 九月一日は、まだ真夏のような気がする。
 午前の早い時間だというのに、すでに刺すような強い日差しが容赦なく降りそそいでいる。日が高くなればさらにきつくなるだろう。秋らしい気候になるにはもうしばらくかかりそうだ。
 創真はじわりと汗がにじむのを感じてネクタイを緩め、そっと隣に目を向ける。
 自分と違って、翼は暑さなど感じていないかのように涼しげな顔をしていた。汗をかきにくい体質なのでそう見えるというのもあるだろうし、表情に出さないようにもしているのだろう。いつだってだらしなく見えないよう努力しているのだ。
「翼くん、おはよう」
「おはよう」
 明るく声をかけてきたクラスメイトの女子に、翼は甘い微笑を返す。
 すっと通った鼻筋、形のいい薄い唇、甘さを感じさせる目元、白くなめらかな肌、栗色のゆるふわショート、すらりと姿勢のいい長身——その凜々しくも中性的な容姿から翼は王子様と言われていたりする。
 半袖シャツにネクタイ、スラックスというありきたりな夏の制服も、手足の長さもあってずるいくらいさまになっていた。とても創真と同じデザインのものとは思えない。見比べると絶望的な気持ちになる。
 幼稚園に通っていたころは創真のほうがだいぶ大きかった。けれど小学四年生のときに抜かれて、高校一年生のいまは翼のほうが十二センチも高くなってしまったのだ。こんなはずではなかったのに。
 さらには成績も遠く及ばない。私立の進学校として名高い桐山学園高等学校の中で、翼は常に学年トップの成績だが、創真はかろうじて半分より上というあたりである。このままでは同じ大学に進学するのも難しい。
 こんな自分が翼の隣に立つことなど許されるのだろうか、翼を支えていくことなどできるのだろうか、翼のためにいったい何ができるというのだろうか。ときどきふとそんな思いにとらわれてしまう。それでも——。
「ん、どうした?」
「いや……」
 不躾な視線に気付かれたことに内心であわてつつ、曖昧に目をそらす。それが不自然に映ったのだろう。翼は不思議そうな顔をしながらわずかに小首を傾げる。
「悩みがあるなら相談にのるぞ?」
「ん、まあ……」
 創真は言葉を濁して黙り込んだ。悩んでいるといえばそうだが、自分の中では決着のついていることなので相談する必要性は感じていないし、そもそも当事者である翼には話したくも知られたくもなかった。
 その心情を察したのか、翼はあきらめたようにうっすらと苦笑した。
「おまえ、意外と秘密主義だよな」
「は?」
 いくらなんでも秘密主義と言われるほど秘密にした覚えはない。創真はムッとしてすこしぶっきらぼうに言い返す。
「おまえにも言えないことくらいあるだろう」
「創真になら言えないことなんてないけどな」
「…………」
 胡乱な目を向けると、翼はそれを受けてふっと口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、聞きたいことがあるなら聞いてくれ」
「何でも正直に答えられるとでもいうのかよ」
「ああ」
 だったら、翼の——。
 喉元まで出かかった質問を創真はグッと飲み込んだ。その答えは聞くまでもなくほぼ確信しているが、こんな形で問い詰めるべきことではないと思うし、何より同じ質問を返されてしまう可能性もあるのだ。
「……考えとく」
 そう受け流して、この話題を曖昧に打ち切った。

「おはよう、西園寺くん」
 校門をくぐると、翼はあちらこちらから女子生徒に声をかけられる。
 彼女たちに愛想よく返事をするのはもちろんのこと、遠巻きに見つめている子たちにも甘やかな笑みを振りまくので、黄色い声が絶えない。それはもうすっかり日常の光景と化していた。
「ごきげんよう。相変わらずあなたのまわりは騒がしいわね」
「桔梗姉さん」
 すっと翼の隣に並んで声をかけてきたのは、姉の桔梗(ききょう)だった。
 彼女はこの桐山学園高等学校の二年生である。翼と同じくらいの身長でやはりモデルのようなスタイルをしており、容姿端麗で頭脳明晰、さらに自然と人を従わせる雰囲気があるため女王様の異名を持っていた。
 ふたりが並んでいると、相乗効果でいっそうまわりの目を惹きつけてしまう。
 ただ、隠しているわけではないので知っているひとも少なくないし、むしろそれを面白がっているひともいたりするのだが——実のところ、とてもじゃないが仲がいいとは言いがたい。
「調子に乗ってアイドルにでもなるつもり?」
「姉さんのようにお高くとまってないだけです」
「あなたは軽薄で品性に欠けるのよ」
「そういう姉さんも大概だと思いますけどね」
 きらびやかな笑顔を見せたままの応酬は、なかなか怖い。
 もっとも今に始まったことではなく、幼いころからずっとこんな感じで反発しあってきた。創真も何度となくその現場を目にしている。翼は認めないが、いわゆる同族嫌悪というやつではないかと思っている。
 それでも桔梗には年上だという自覚があるのだろう。だいたい先に引き下がるのは彼女のほうなのだ。今回もそれ以上は言い返さず、ただあきれたとばかりに溜息をついて冷ややかな視線を流す。
「西園寺の名にふさわしい振る舞いをなさい」
 それだけ言い置くと、腰近くまである艶やかな黒髪をなびかせながら、反対側にいた創真の隣に軽やかにまわりこんできた。
「ごきげんよう、創真くん」
「おはようございます」
 さきほどまでとは別人のようにやわらかく微笑む桔梗に、創真は軽く会釈した。
 彼女とは幼なじみといえるほど親しくないが、幼稚園や小学生のころは一緒に遊んだこともあるし、いまでも顔を合わせば挨拶くらいはしている。そのたびに翼は面白くなさそうにしていたけれど——。
「桔梗姉さん、創真に絡むのはやめてください」
「あら、挨拶しただけじゃない」
「姉さんの魂胆はわかっています」
「あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「創真に話しかけることは僕が許さない」
 ここまで強硬な態度を示したのは初めてだった。
 自分の頭ごしに言い合うふたりを交互に見ながら創真はおろおろする。魂胆がどうとかいう話からすると、ふたりのあいだで何かあったのかもしれないし、それもわからないまま下手に仲裁するわけにもいかない。
 しかし、そう思ったときにはもうすでに口論が途切れていた。先に引き下がったのはやはり桔梗のようだ。言葉の代わりにいかにもうんざりしたように深く溜息をつき、そっと創真に目を向ける。
「創真くん、こんな狭量な人間に仕えるのは考え直したほうがいいわよ」
「いや、オレは……別に……」
 返答に窮していると、彼女はどこか同情めいた笑みを残して昇降口へ向かった。そのあとを何人かの生徒があわてて追いかけていく。友人というより信奉者か野次馬かといったところだろう。
 そして、こちらにもクラスメイトの女子三人組が駆け寄ってきた。
「朝からお姉さんとのバトル大変だったね」
「バトルってほどじゃないよ」
「私たちは翼くんの味方だから!」
 きゃいきゃいと目を輝かせてはしゃぐ彼女たちに、翼はにこやかに応じる。しかし桔梗と言い争ったことで疲れていたのだろう。そこにほんのすこし苦笑のようなものが混じっていたのを、創真は見逃さなかった。

 教室に入ると、ふたりはそれぞれ自席に着いた。
 翼は窓際のいちばん後ろで、創真はそのひとつ前だ。席はくじで決めているものの、ふたりが前後になったのは偶然などではなく、翼がその席を引いた男子に替わってもらったからである。
 私語でざわつく中、創真はスクールバッグから筆記具や教科書を出していたが、ふいに後ろからグイッと強く肩を引かれた。振り返ると、翼がひどく思いつめた顔をしてこちらを見ていた。
「さっきのことだけどな」
「ああ……」
 近い、近すぎ——。
 他のひとには聞かれたくないのだろう。常にはないほど顔を近づけて声をひそめる翼に、そのときかすかに感じたほんのりとあたたかい吐息に、創真は内心どぎまぎした。頬もすこし赤くなっているかもしれない。
 しかし、翼はそれに気付いた様子もなく真顔のまま話を続ける。
「桔梗姉さんは創真のことを欲しがっている」
「は……?」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 あまりに突拍子もなくてわけがわからず唖然としてしまい、もはや胸を高鳴らせるどころではなかった。ひどく混乱する頭を必死にめぐらせながら言葉を紡ぐ。
「欲しがってって……え、どういうことだ?」
「自分のそばに置いておきたいみたいだな」
「桔梗さんがそう言ったのか?」
「最近、よく思わせぶりなことを言っている」
 おかしな意味ではなかったようですこしほっとしたものの、そばに置いておきたいというのはやはり信じがたい。桔梗ならどういう意図にしろ選び放題のはずなのに。
「オレなんかを欲しがるとは思えないけど」
「僕から大事なものを奪いたいだけなんだろう」
「……大事なものって、オレか?」
「それ以外に何がある」
 まあ、話の流れからするとそれ以外にはないのだが。
 思わずにやけそうになるが、それを見られるわけにはいかなくて必死にこらえた。翼は怪訝そうにほんのすこし眉をひそめたものの、すぐに気持ちを切り替えたのか真剣な面持ちになり、まっすぐ創真を見つめる。
「いいか、くれぐれも姉さんの甘言に惑わされるなよ。おまえを気に入ってるとか言ってくるかもしれないが、そういうわけじゃない。あとで知って惨めな思いをするのはおまえだからな」
「オレは、翼から離れるつもりはないよ」
 そう答えると、翼はようやく安堵したように表情を緩めた。
 ただ、創真としては桔梗がそこまでするとは思えなかった。ちょっとした嫌がらせとして思わせぶりなことを言ってみただけで、行動には移さない気がする。とはいえどちらにしても創真の答えは変わらない。
 ずっと翼のそばにいて、翼を支える——。
 幼いころにそう約束を交わした。自分に支えられるのか悩むことはあっても、誰かに何かを言われたからといって離れるつもりはない。翼にいらないと言われるまではそばにいようと決めている。
 ただ、それは決して義務感や責任感からではない。創真自身がそうしたいと心から望んでいるからである。そもそも約束を持ちかけたのは創真なのだ。そしてその気持ちは当時よりもずっと強くなっている。なぜなら——。
 始業開始のチャイムが鳴った。
 肩を掴んでいたほっそりとした白い手が離れて、創真は前に向きなおる。それでも後ろに翼がいることを意識すると、自分の背中を見ているのではないかと思うと、すこしだけ鼓動が騒がしくなる。
 そう、胸に秘めたまま誰にも打ち明けるつもりはないけれど、創真は幼なじみで親友の翼を、幼なじみとして親友として以上に愛しいと思ってしまっているのだ。それを翼が知ることは、きっと、永遠にない。
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