自殺志願少女と誘拐犯

瑞原唯子

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第12話 七回目の桜のころ(最終話)

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 死ねないのなら、生きたくなくても生きるしかない——。

 仕事をして、金を稼ぎ、生命を維持するだけの日々。
 ハルナと出会うまえの自分に戻っただけといえば、そうかもしれない。ただ、あのときはそれをよしとしていたが、いまは虚しさが心に巣くっている。しかしどうしても死を選ぶことはできずにいた。

 ハルナがいなくなってから七回目の春が巡ってきた。
 ローカルニュースによればそろそろ桜が満開になるらしい。実際、ベランダに出ると空気がほんのりと春めいているのを感じる。きっとマンションに隣接した公園でも桜が咲いているのだろう。
 ただ、千尋がそれを目にすることはない。いまは仕事の打ち合わせでもないかぎり外出しなくなっている。生活に必要なことはだいたいネットで済ませられるので、数か月ひきこもることもめずらしくなかった。
 今日も朝早くからずっと書斎でノートパソコンに向かっていた。気付けばもう午後二時だ。没頭するあまり食事どころか水分補給すら忘れていたので、すこし休憩しなければと立ち上がる。
 リビングにはうららかな陽気が満ちていた。
 ほっと気持ちが緩むのを感じながら台所に向かい、電気ケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れ、昼食代わりにバランス栄養食を戸棚から取ると、ダイニングテーブルにつく。
 ひきこもるようになってから、食事はこういうもので済ませることが多くなった。もう料理はしないが、トーストを作るのもレトルトを温めるのも面倒で、そもそも食べることすら億劫だったりする。
 それでも、生きていれば食べざるを得ない。
 袋を開けてバランス栄養食にかじりつき、軽く咀嚼してからコーヒーで流すように飲み込んでいく。食べ終えるのはあっというまだ。中身のなくなった空の袋をくしゃりと捻りつぶす。
 ふぅ——。
 吐息を落としながら頬杖をついた。
 正面には誰もいない。だが、いつもそこに座っていた少女の姿を、いまでも無意識に思い浮かべてしまう。小さな口でもぐもぐと食べて、満足そうな顔を見せてくれることが嬉しかった。
 彼女を忘れたことはない。
 この家には至るところに彼女との思い出があふれている。穏やかな光に満ちた窓際のフローリングにも、寝室のダブルベッドにも、書斎の大きな本棚にも、二人ではすこし窮屈な玄関にも。
 忘れようにも忘れられないが、そもそも忘れたいと思ったことは一度もなかった。いつまでもいなくなったひとに囚われているのは不健全だ。それがわかっていても解放されて自由になることは望まなかった。
 自分にとってハルナとは何なのだろう。
 いくら考えても結論は出ず、いまでもときどき思い出したように頭を悩ませている。
 それまで誰にも何にも執着したことはなかった。恋人でさえ、別れたあとに思い出すことはほとんどなかったし、まして心を煩わされることなど皆無だった。つきあっていたときも淡々としていた気がする。
 ハルナに執着するのは、なりゆきとはいえ人生をかけてまで救おうとしたのに、救えなかったからだろう。虚しさと悔しさと恨めしさが心に巣くったまま、それが未練となっているのだ。
 けれど、それだけではない。
 彼女はここにいたときからすでに特別だった。最初こそなりゆきだったが、いつしか同情心や使命感だけではなくなっていた。彼女の幸せを願いつつも、ずっとこのままでいられたらと思うようになったのだ。
 ただ、その気持ちがどういう類いのものかわからない。いまあらためて会えばはっきりするかもしれないし、しないかもしれない。もう実現しえないことを考えても仕方がないのだが。
 マグカップを手に取り、ぬるくなった残り少ないコーヒーを飲み干す。
 もうすべては終わったことなのに——いくら考えても結論は出ないし、たとえ結論が出たところで何も変わらない。気持ちを切り替えると、空のマグカップを持ったまま立ち上がった。
 そのとき、チャイムが鳴った。
 エントランスからの呼び出しである。マグカップをダイニングテーブルに戻して、背後のインターフォンに向かう。そのモニタに映っていたのは、デニムジャケットを羽織った若そうな女性だった。
 格好からいって宅配便ではないだろうし、マスコミ関係にも見えないし、訪問販売員という雰囲気でもない。しかしながら他に心当たりはない。怪訝に眉をひそめながら応答ボタンを押した。
「はい」
「遠野千尋さんですか?」
「そうですが」
 向こうにはモニタがないので千尋の表情はわからないはずだが、声から訝しむ様子が伝わったのだろう。彼女はわずかに体をこわばらせた。それでもすぐに気を取り直したようにすっと背筋を伸ばすと、明瞭な声で告げる。
「私、ハルナです」
「えっ」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。聞こえてはいたものの、なぜか内容が理解できない。混乱する頭でどうにか咀嚼したその途端、ハッとして食らいつくようにモニタを覗き込む。
 そのとき初めてきちんと顔を見た。モニタが小さいうえ解像度も低いのではっきりとはわからないが、確かにハルナの面影があるような気がする。だが、彼女はもうこの世にいないはずでは——。
「そこで待ってろ!」
 そう叫ぶと、鍵をひっつかんで全速力でリビングを飛び出した。

「ハルナ?!」
 エレベーターを待ちきれずに転げ落ちんばかりの勢いで階段を降りると、エントランスで所在なさげに佇む女性のところへ息を切らしながら駆けつけ、その顔を両手で挟んで観察する。
 確かにハルナだ。
 あのころよりすこし顔立ちが大人びているし、身長も高くなっているが、驚いて目をぱちくりさせる表情は変わらない。ほんのりとあたたかいので幽霊ではないだろう。桜色のロングフレアスカートの中には脚があるはずだ。
「死んだんじゃなかったのか」
「死んでませんけど」
 彼女は不思議そうに答える。
 声はあのころのままだった。インターフォンで気付かなかったことが信じられないくらいに。まさか生きているとは思わなかったので、無意識のうちに選択肢から排除していたのかもしれない。
 ウィーン——。
 ガラスの自動扉が開く音を聞いてハッと我にかえり、彼女の頬から手を離した。入ってきたのはジャージを着た中学生くらいの男子だ。怪訝な顔でチラチラとこちらを窺いながら通り過ぎていく。
「あー……ここではまずいな……」
 昼下がりなのでそれなりに住人の出入りがあるはずだし、管理人室もすぐそこだ。いまは不在のようだが近いうちに戻ってくるだろう。しかし、自分の部屋に上がってもらうにはためらいがあった。
「いい天気だし、隣の公園で話さないか?」
「はい」
 千尋の意図に気付いているのかいないのか、ハルナは訝る様子もなく、ふんわりとやわらかく微笑みながら応じてくれた。

 隣の公園は、小さな交差点を渡ってすぐのところだ。
 さほど広くない敷地内にブランコや滑り台といった遊具がいくつかあり、周囲にはぐるりと桜が植えられている。ニュースで聞いたとおりちょうど満開で、薄紅色の花びらが春風にのってひらひらと舞っていた。
 正面から中に入り、はしゃぐ子供たちを横目で見ながら隅のほうへ足を進める。桜のほのかな甘さや、草花の青くささ、わずかに湿った土など、春を感じさせる雑多な匂いがふわりと漂ってきた。
 しかしながら気を取られているわけにはいかない。とっさにハルナを公園に誘ったものの何も考えていなかった。いまごろになってどうしたらいいのかと思案しながら、緩やかに足を止める。
「おにいさん、会社を辞めさせられたんですよね?」
「えっ」
 振り向くと、彼女はハンドバッグを後ろ手に持って満開の桜を見上げていた。その横顔はこころなしかこわばっている。怪訝に思いながらも、それを表情に出すことなく丁寧かつ慎重に返事を紡いでいく。
「会社は辞めたが、フリーランスとしていまも同じような仕事をしている。この形態のほうが自由でオレには合っていたみたいだから、おまえが気にすることはない……けど、なんで辞めさせられたって知ってるんだ?」
「父親が言っていたので……というか……」
 彼女は言葉に詰まり、困ったように顔を曇らせながら目を伏せる。
「おにいさんが逮捕されたあと、あのひとが被害者の父親として会社にクレームを入れたらしいです。うちの娘を誘拐した犯罪者をどうしてまだ解雇してないんだ、みたいなことを」
 話し終えるなりふわりとスカートを揺らして振り返った。そして覚悟を決めたような真摯なまなざしで千尋を見つめ、口を開く。
「謝ってすむことではないですが、本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「え、いや……」
 彼女の父親がそんなことまでしていたなんて、会社からも聞いていなかったので驚いたが、いまとなってはもう済んだことである。それよりも彼女が深々と頭を下げたことにうろたえた。
「頭を上げてくれ。逮捕されたら辞めさせられるのが普通だし、おまえの父親が何もしなくても結果は同じだったと思う。すべてオレが覚悟のうえでやったことで、オレ自身の責任だ」
「いえ、元はといえば私が……」
 彼女はなおも思いつめたように言い募ろうとする。
 それを止めたくて、千尋は彼女のやわらかい頬を両手で挟んだ。そして大きく見開かれた双眸を真剣に覗き込んで言う。
「ハルナ、おまえが生きていてくれた。もうそれだけでいいんだ」
「…………」
 必死の訴えで思いが伝わったのか、あるいは勢いに負けただけなのか、彼女は言葉を飲み込んでこくりと頷いてくれた。千尋がほっとすると、彼女も同じように息をついて淡く微笑を浮かべた。

「あの、私が死んだと思ってたんですよね?」
 頬から手を下ろすと、ハルナが不思議そうに小首を傾げてそう尋ねてきた。
 死んだんじゃなかったのか、と口走ったのを忘れていなかったらしい。気まずさに思わず目をそらすが、こうなったら話さないわけにはいかない。ゆっくりと息をついて答える。
「あの半年後くらいに、おまえが自殺しようとしたあの交差点で、女子中学生が信号無視の車に飛び込んで自殺したって聞いて……おまえに買ってやったペンギンのぬいぐるみも現場に落ちてたし」
「それは……すごい偶然……」
 彼女は驚いたような困惑したような複雑な顔になりながら、ようやくといった感じで言葉を絞り出した。しばらく沈黙したあと申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「あのときは二時間くらい行くあてもなく歩いていたので、自宅からも学校からもかなり離れていて、あの交差点がどこにあるのかも正直わかっていません。半年後の話も知りませんでした」
「そうか……」
 彼女は何も悪くない。
 勝手に誤解したあげく確かめもしなかった千尋が悪い。本気で調べれば、自殺した女子中学生がハルナでないことくらいわかっただろう。しかしながらショックで考える気力すら残っていなかったのだ。
 ただ、こうやって無事に生きているからといって、すなわち幸せに暮らしているとは限らない。あのころより身なりはまともになっているが、さきほど父親の話が出ていたことから考えると——。
「おまえは親元に戻されてたのか?」
「はい」
 彼女はうっすらと苦笑した。
「家に戻ってすぐ、おにいさんにもらったICレコーダーで証拠を押さえようとしたんですけど、あっというまに見つかってその場で壊されてしまいました。すみません、私が不器用なばかりにせっかくのお膳立てを台無しにしてしまって」
「いや……それは、オレのほうが申し訳なかった……」
 思いつきで使い慣れないものを押しつけたのが間違いだった。そうなる危険性くらい認識してしかるべきだったのに。そう後悔していると、彼女はかすかに口元を上げてかぶりを振った。
「でも無駄にはなりませんでしたから。そのとき激昂した父親に殴られながら110番したんです。結局、それは親子喧嘩で片付けられてしまったんですが、あのひとたちは世間体を気にするので、通報を恐れて殴ることをためらうようになりました。おかげでだいぶ楽になってます」
 そこまで言うと、ふっと寂しげに目を細める。
「そのかわり大事なものを目の前で壊して捨てられましたけど。あのペンギンのぬいぐるみ、おにいさんに買ってもらったものだって察していたみたいで。止めようにも私の力ではとても敵わなくて……あの日はショックで泣き明かしました。おにいさんにも申し訳なく思っています」
「そんなものまた買ってやるよ」
 ペンギンのぬいぐるみでも、他のものでも、ハルナが望むなら何だって——。
 その気持ちが伝わったのか彼女は小さく安堵の息をついた。そして傍らで咲き誇っている桜を見上げながら再びゆっくりと歩き出し、あとをついていく千尋に振り返ることなく話を続ける。
「ただ、思うままに手を上げられなくなったせいか、母親の暴言はますますひどくなりました。おにいさんのことまで引き合いに出して、私を傷つけようと躍起になって。でもそれが目的だと認識しているので、いちいち真に受けることはなくなったし、もう傷ついたりしません」
 しなやかながら芯のある声で言い切ると、静かに足を止めた。
「家を出るために、高校生のときからこっそりとバイトをしてお金を貯めました。いまは大学に通いながら進学塾の講師と家庭教師をしています。おかげで残り二年の学費と生活資金くらいは貯められましたし、講師の時給を上げてもらえることも決まったので、もうひとりでもやっていけそうです」
 その直後、ふと桜の花びらが春風に吹かれてあたりに舞い上がった。桜色のロングフレアスカートもふわりと揺れる。彼女はその情景にまぎれるようにすっと振り向いて、やわらかく微笑んだ。
「私、今日でハタチになりました」
 二十歳——。
 だから堂々と千尋を訪ねてきたのだ。壊れそうだった十三歳の子供がこんなにもしっかりした大人になっていた。それだけの長い年月が流れていたことをあらためて思い知らされ、千尋はお祝いの言葉も忘れて立ちつくす。
「あの……これ、まだ有効ですか?」
 そう声をかけられて我にかえる。
 彼女は小さく折りたたんだ紙をこちらに差し出していた。さきほどとは打って変わって緊張した様子で、尋ねる声は硬く、手つきもぎこちない。こころなしか震えているようにも見える。
 千尋は怪訝に思いながらも何も言わずに受け取った。あちこちにしわがついていてかなりくたびれているようだ。破らないよう丁寧に開いていくと——見覚えのあるものが目に入り、ハッと息をのむ。
「よければ、私と家族になってもらえませんか? 形だけで構いませんので……」
 不安そうな、祈るような声。
 彼女から受け取った紙は、漫画のキャラクターがあしらわれた婚姻届だった。生きる希望になればとおまもり代わりに渡したものだ。あのときのまま夫のほうだけ記入捺印されている。
 正直、存在さえ忘れていた。
 それでも彼女に渡したときの気持ちは本物だった。家族になってもいいという人間がすくなくともひとりはいると、希望を持ってほしかった。何なら本当に提出しても構わないとさえ思っていた。けれどもいまは——。
「形だけの家族なんていつか後悔する」
 よれよれの婚姻届に目を落としたまま言う。
 正面の彼女が息を飲む気配を感じた。焦燥感に駆られるもののすぐには言葉が出てこない。次第に鼓動が速くなっていくのを感じながら、下を向いたままひそかに呼吸をして気持ちを整えると、話を継ぐ。
「だから……オレは、おまえと、本当の家族になりたい」
 それは、彼女が求めていることではないかもしれない。
 両親と家族として扱われたくなくて、そこから抜け出すために彼女は別の家族を作ろうとしている。ひとまず形だけでも。つまり、本当に家族になりたい相手を見つけるまでのつなぎなのだろう。
 彼女のためには何も言わずに粛々と聞き入れてやるべきだと思う。そもそもそういう約束だったはずだ。けれど、形だけで構わないと告げられて嫌だと思ってしまった。形だけだなんて——。
 誰にもハルナを渡したくない。
 ここまで強烈な執着心は初めてのことで自分でも戸惑っている。ただ、その気持ちをはっきりと自覚して、それでも物わかりのいい庇護者のままではいられなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
 おそるおそる顔を上げると、彼女は大きく目を見開いたまま固まっていた。しかし千尋と視線が合った途端にじわりとその目を潤ませ、ぎこちない笑顔を見せる。
「私も、そうなりたいと思っていました」
 震える声で言い、とうとう感極まったように涙をこぼした。
 それはハルナも同じ気持ちということだろうか。勘違いなどではなく——婚姻届を畳んで半信半疑で手を伸ばそうとすると、それに気付いた彼女のほうから遠慮がちに体を寄せてきた。
 千尋はその背中に手をまわしてそっと力をこめる。おとなしく腕の中におさまった彼女は思ったよりも小さくて、やわらかくて、あたたかかい。その確かな感触は、これがまぎれもない現実なのだと実感させてくれた。
「ずっと、家族として一緒にいてくれるんだな?」
「よろしくお願いします」
 ハルナは感情を抑えようとしても抑えきれないような、はっきりと喜びのにじんだ涙まじりの声でそう答えて、千尋の背中に手をまわす。
 二人のまわりには、数多の薄紅色の花びらがひらひらと幻想的に舞っていた。
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