ひとつ屋根の下

瑞原唯子

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第30話 事の真相

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「本当にすまなかった」
 翌日の夜、ようやく許可が下りて七海とともに帰宅すると、剛三から事件についての説明と謝罪を受けた。応接セットの向かいから深々と頭を下げる当主の姿に、七海はおろおろと困惑を露わにする。
「別に剛三さんが悪いわけじゃないし……僕も無事だったから……」
「今後、誰であろうと二度と七海に手出しはさせない。約束しよう」
「あ、はい……」
 謝罪を受ける側が、謝罪する側の必死さに気押されていた。
 ただ、遥としてはこれでもまだ足りないくらいだと思っている。悪気がなかったとはいえ、彼の軽率な言動のせいで七海はならず者に辱められ、あやうく取り返しのつかない事態になるところだったのだ——。

 事の発端は、先日行われた懇親会だった。
 剛三を含め七人の財界人が高級料亭に集まった。みな旧知の間柄だが、仕事以外で酒を酌み交わすのは久々で、すこし気が緩んでいたのかもしれない。いつになく遠慮のない話題が多かったという。
「そういえば、遥くんが近々見合いをするともっぱらの噂ですが」
「あれは私の姉が先走っているだけだ」
 思い出したように遥の見合い話を振ってきたのは、隣の藤澤だった。剛三はにわかに変わった話題を不審に思うこともなく、冷酒を口に運び、空になったお猪口を漆塗りの座卓に置いて溜息をつく。
「単なるおせっかいか何か思惑があるのか知らんが、勝手に遥の見合い相手をあれこれ見繕ってきてな。だが、あいつの思いどおりにはさせんよ。見合いをさせるにしても相手は私が選ぶつもりだ」
 大伯母の持ってきた身上書や写真は受け取ったが、あくまで参考にするだけで、その中から選ぶと決めたわけではなかったのだ。それに、七海の誕生日まではきちんと待つ気でいたという。
 藤澤は徳利を手に取り、剛三のお猪口に冷酒をつぎながら尋ねる。
「でも、遥くんには長年の恋人がいるという噂を聞きましたけど……その……」
「指輪なら偽装だよ。女に言い寄られるのが面倒で、幼なじみに頼んで恋人のふりをしてもらっているだけだ。同性愛者だと思われれば寄ってこないと考えたらしい。まったく頭がいいのか悪いのかわからんな」
 これまでペアリングの話はのらりくらりと躱してきたが、今回は意図的に暴露した。七海と結婚するにしろ、見合い結婚するにしろ、そろそろ噂を払拭すべき時期に来ているとの判断である。
 目論見どおり、藤澤だけでなく同席している他の面々も興味を示した。あえて二人の会話に加わろうとはしないものの、好奇のまなざしを向け、聞き逃せないとばかりに耳をそばだてている。
「では、その、同性愛者というのは事実ではないと」
「昔からうちの里子に骨抜きにされておるよ」
 藤澤に確認され、剛三はからりと笑い飛ばすように答えた。
 里子については特に隠しているわけではないし、懇親会などで何度か話題にもしているので、年若い女性であることくらいは藤澤も知っている。
「なるほど、それで女性との噂がなかったのですな」
「そういうことだ」
 遥に女性との浮いた噂がなかったのも、目撃情報がなかったのも、ひとつ屋根の下でひそかに交際を続けていたから——藤澤だけでなく、まわりもみな腑に落ちたような顔をして頷いた。
「では、その子と結婚ということに?」
「そうさせてやりたいのは山々だがな」
「まあ血筋もわからない孤児ですしね」
「いや、それは問題ではない」
 藤澤の発言はいささか思慮分別を欠いたものであったが、相手の家格や素性などの理由で結婚を認めないことは、名家ではめずらしくない。しかしながら剛三はきっぱりと否定した。
「では、何が……」
「まだ七海の決心がつかんらしいのだ」
「ああ、本家の嫁になる自信がないと」
「どうだろうな」
 そっけなく流し、お猪口につがれた冷酒を一気に呷る。
「近いうち、あの子に本当の気持ちを聞いてみようと思っておる。色よい返事がもらえればいいのだが……そうでなくても、私ができうるかぎりの説得を試みるつもりだ」
 約束の期限が過ぎたら本当にそうするつもりだったという。遥のことが嫌いだというならあきらめるしかないが、他の理由なら全力で説得し、結婚を承諾してもらおうと考えていたらしい。
「あなたなら説得などたやすいでしょう」
「いや、あの子の頑固さは筋金入りでな」
「ははは」
 藤澤は愛想笑いを浮かべながら、空になった剛三のお猪口に再び冷酒をついだ。しかしその目はすこしも笑っていない。獲物を見つけた獣のように鋭い光を放ち、剛三を窺っている。
「……万が一うまくいかなかったときは、私の孫娘を嫁に考えてもらえませんか。身内の私が言うのも何ですが、器量がよくて、教養もあって、慎ましやかで、遥くんにも気に入っていただけるかと」
「そうだな、悪くないかもしれん」
 藤澤の申し出からはあからさまなくらい下心が透けて見えた。前々から橘財閥とつながりを持とうと躍起になっていたのだ。絶好の機会を前にしてなりふり構っていられなかったのだろう。
 確かに橘と姻戚関係を結べば多少の忖度はあるかもしれない。だが、藤澤がどこまで承知しているのかはわからないが、親族であれ、姻族であれ、剛三自身がビジネスで特別扱いすることはないのだ。
 ただ、そのことさえきちんと了承してくれるのであれば、彼の申し出を受けるのもやぶさかではない。もちろん当事者である遥の意向を最優先にするが——そう剛三は考えていたという。
 それなのに藤澤はやりすぎた。弁護士を差し向けて交渉するだけならまだしも、ならず者を使って暴行させようなど犯罪以外の何物でもない。うまくいくと思っていたのなら舐められたものである。
 剛三は軽率だったと反省しきりだ。少なくとも七海と特定できる形で言うべきではなかった。まだ婚約に至っていないのなら、排除しようとする輩が出ることも十分考えられるのだから。
 とはいえ、さすがにあそこまでの行動を起こすとは想像もつかないだろう。それなりに親しくしている旧知の相手ならなおのこと。口にしなくても裏切られたという思いはあるかもしれない。

 ちなみに、向かいにいた越智と八重樫という二人からも迷惑を被っている。富田に平手打ちを食らわせて泣きわめいたのが越智の孫娘で、七海にアイスティーをぶっかけたのが八重樫の孫娘だったのだ。
 ただ、二人とも単なる世間話のつもりで、焚きつけてはいないという。
 越智の孫娘はすでに名家の三男と見合い結婚しており、八重樫の孫娘にも条件のいい縁談が持ち上がっているので、確かにいまさら意味がない。孫娘本人の暴走と考えるほうが自然だろう。

「あの、犯人はどうなったんですか?」
 七海は不安そうな顔をしておずおずと切り出した。
 彼女からすれば謝罪よりもそちらのほうが切実な問題である。自分を襲った犯人が野放しになっていたら心配でたまらないだろう。逃げるときに重傷を負わせたことで報復される恐れもあるのだから。
 遥があからさまに物言いたげなまなざしを剛三に向けると、彼は心得ているとばかりに目だけで頷いてみせた。そして気付かれないようすぐさま七海に視線を移し、誠実な声で答える。
「実行犯二人は警察に突き出した。他にもいろいろと重罪を犯しておるようだから、長期の実刑は免れんだろう。依頼主である藤澤のほうは警察沙汰にするのが難しい。しかし橘に喧嘩を売った報いはきっちりと受けてもらう。二度とこんなことをする気は起きなくなるはずだ。それで構わないか?」
「はい……」
 彼女はようやく安堵の表情を見せた。
 実際には、七海の拉致監禁および強姦未遂については事件化されない。事情聴取や証言などで七海にさらなる負担をかけるし、何より世間に知られてしまう危険があるので、見送ることにしたのだ。
 もちろん実行犯二人を野放しにしているわけではない。ひとまずしかるべきところに身柄の拘束を頼んである。法に触れることを数多く請け負っていたようなので、正式な逮捕も時間の問題だろう。
 藤澤のほうを警察沙汰にしないのも同じ理由である。だからといってただで済ますつもりはない。藤澤の会社を窮地に追い込むことも、藤澤を社会的に抹殺することも、剛三がその気になれば可能なのだ。
「僕も七海を守るから安心して」
「ありがと」
 剛三も留意するだろうが、誰よりも近いところで守れるのは自分しかいない——その思いを胸に、隣の七海を見つめながら真摯に告げると、彼女は気恥ずかしげにはにかんで頷いてくれた。
 そんな二人にじっと目を向けたまま、剛三は真剣な顔になる。
「七海……結婚のことだが、本当に遥と一緒になるということでいいのかね。しっかりと考えたうえでの結論なのかね。もし場の雰囲気に流されてしまっただけなら、撤回しても構わんのだぞ」
「撤回……」
 七海はおぼろげにつぶやく。
 おそらくあさっての方向に思考を飛ばしているのだろう。本当は撤回を望まれているのではないか、撤回しなければならないのではないかと——剛三もおおよそのところを察したらしい。
「誤解させたのなら謝るが、私自身は七海が結婚相手であることに何の異存もない。まあ親戚連中にはこころよく思っていないものもいるだろうし、嫌味くらいは言われるかもしれんが、当主である私が認めているのだから堂々としていればいい」
 諭すようにそう告げて息をつき、本題に入る。
「私が確認したかったのは、しっかりと自らの意思で結婚を決めたかどうかだよ。流されて何となく結婚して、後悔するようなことにはなってほしくない。七海を大切に思っているからこそ尋ねているのだ」
 七海は身じろぎもせず聞いていた。
 話が終わると、気持ちを落ち着けるように小さく息をつき、すっと静かに表情を引きしめた。そのまま目をそらさず、まっすぐ挑むように剛三を見据えて答える。
「僕は遥が好きだし、遥としか結婚する気になれないから」
 迷いのない凜とした声だった。
 息を詰めていた遥は、それを聞いて全身から力が抜けるくらいほっとし、同時に胸が焦がれるように熱くなるのを感じた。少なからず遥に流される形で結婚を了承したという経緯もあり、もしかしたらと心配していたのに、まさかこんなにも熱烈な言葉を聞かされることになるなんて。
「わかった。それでは結婚の話を進めることにしよう」
 剛三も安堵をにじませていた。すっかり冷めているであろう紅茶に口をつけると、静かにティーカップを戻し、ソファの背もたれに身を預けてふうと息を吐き出す。
「これで幾分か肩の荷が下りたな」
「……ご面倒をおかけしました」
 彼がずっと気にかけてくれていたことはわかっている。言葉こそ辛辣だったが、このこじらせまくった初恋が成就するよう願ってくれていた。それゆえ遥の不甲斐なさにあきれたことも一度や二度ではなかっただろう。
「七海を大切にするのだぞ」
「はい」
 言われるまでもない。
 だが、名目だけとはいえ里親である彼には言う権利があるし、言わずにはいられない気持ちも十分に理解しているので、居住まいを正して受け止める。すると——。
「僕も遥を大切にします」
 隣で七海が力強く宣言した。
 一瞬、遥は虚を突かれて目を見開いたものの、すぐにふっと表情をゆるめる。いつもの負けず嫌いを発揮しただけかもしれないが、それでも嬉しかった。きっと自分の発言には責任を持ってくれるだろう。
 視線に気付いたのか七海がこちらに振り向いた。遥がにっこりと微笑みかけると、彼女はすこし照れたようにはにかむ。そんな二人を、剛三はいつになく優しい目をして見守っていた。
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