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第4話 彼女と暮らした男
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「自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」
警察庁長官の執務室にある応接ソファで、七海と約二年ぶりの再会を果たした真壁拓海は、彼女の質問に対して眉ひとつ動かさずにそう答えた。すこしの希望も抱かせない冷めた口調で。
七海はいまにも泣きそうになりながら深くうつむいた。
真実を知ってもずっと心のどこかで信じていたようだが、こうなってはもう認めざるを得ないだろう。彼にとって自分は復讐の道具でしかなかったということを——。
それは散り始めた桜の花びらが吹雪のように舞う、ある春の日のことだった。
遥は七海が通うことになった私立中学校の入学式に保護者として出席し、その帰りに、真新しいセーラー服に身を包んだままの彼女を連れて警察庁に向かった。真壁拓海と面会させるためである。
彼は、七海の父親である坂崎俊輔を殺した男だ。
ともに公安で最重要機密に関わる職務に就いていた同僚で、親友だった。あるとき俊輔が国家を危険にさらしかねない反逆行為を犯し、処刑を免れない状況に陥ったため、拓海が自らの手で葬ったというのが真相のようだ。
しかし、彼は自分を許せなかった。
俊輔の娘を戸籍上死亡にしたうえでひそかに引き取り、復讐をそそのかして銃の扱いを教え、最終的に自分が敵だと明かして殺させる計画を立てた。それがどれほど身勝手で残酷なことか考えもせずに。
幼い七海にとって彼はひとりぼっちの自分に手を差し伸べてくれた恩人だった。四年半も一緒に暮らしたのだ。ささやかながらもたくさんの思い出があっただろうし、慕う気持ちもあっただろう。
それゆえ父親を殺したのは自分だと彼に明かされても、引き金を引けなかった。計画は失敗に終わったのだ。彼は自分で始末をつけるべく自害しようとしたが、それも彼女に止められた。
その後、彼がどういう状況を経てきたのかはわからないが、現在は以前と同じように公安で任務をこなしているらしい。
その情報は、公安職員をしているひとまわり年上の義弟から得たものである。任務の内容以外であればと教えてくれた。その彼に頼み、拓海と面会できるよう取りはからってもらったのだ。
七海はずっと彼のことを気にしているようだった。気持ちの整理がつかないまま別れたのだから仕方がない。未練を断ち切らせるためにも、中学生になったら一度だけ会わせようと考えていた。
もちろん強制はせずどうするかは彼女に委ねた。突然のことでさすがに戸惑っていたようだが、それでもすぐに意志の強さを感じさせる面持ちになり、まっすぐ遥を見つめて答えた。会わせて——と。
面会場所は警察庁長官の執務室だった。
これは楠長官の意向である。拓海の精神状態を心配しているのかもしれないし、遥に対する牽制の意味もあるのかもしれない。ただし、面会の内容については一切口を出さないと約束してくれた。
コンコン——。
扉が開くとスーツを身に付けた真壁拓海その人が姿を現した。
七海ははじかれたように立ち上がり、拓海もそれを目にして動きを止めた。互いに無言のまま、息をすることさえ忘れてじっと見つめ合った。まるでそこだけ時が止まったかのように。
「七海……元気そうでよかった。大きくなったな」
「拓海は変わらないね」
そこには多少ぎこちないながらも心を許しあったような空気が流れた。
四年半も一緒に暮らしてきたのだから仕方がないが、いまさら拓海のほうへ気持ちが傾くのは危険だし、何より面白くない。ここで遥にできることといえば無言の牽制くらいだった。
攻撃的な気をぶつけていれば遥の存在を無視できなくなる。その目論見は成功したといっていい。彼は近況報告のような他愛のない会話を続けながらも、ひそかに遥を意識していた。
「橘家で暮らしていると聞いたが」
「うん、良くしてもらってるよ」
「学校にも行ってるんだな」
「今日が中学の入学式だったんだ」
七海のセーラー服を見ながら曖昧な笑みを浮かべた彼は、何を思ったのだろう。学校へ行かせなかったことを、すこしは申し訳なく感じたのだろうか。だとしてもいまさら遅い。
拓海が七海から奪い去ったものや与えなかったものは、すべて遥が与えるつもりである。拓海には何も望んでいない。七海に爪痕を残さず消えてくれればそれでよかった。なのに。
彼は七海の求めに応じて、俊輔を手に掛けるに至るまでの状況や心情を語った。七海が本当のことを知りたいというなら止められない。気持ちに区切りをつけるために必要なのだろう。しかし——。
「七海が許せないなら、死んで償う」
この期に及んでまだそんなことを言うなんて。
七海のためといいつつ彼自身がそうしたいだけだ。あいかわらず自分のことしか考えていない。どうせならいっそ無関係の事故で死んでくれればいいのに——遥は冷たく拓海を見据えた。
ただ七海は、すくなくとも表面上はあまり深刻にならず、死なれたら寝覚めが悪いよと受け流して苦笑した。しかしそれも束の間。ふいに表情を消すと、緊張した様子を見せながら別の話題を切り出した。
「お父さんの敵を取ったあとのことは、何か考えてた?」
それが彼女のいちばん聞きたかったことだろう。
復讐を完遂すると七海はひとりぼっちになってしまう。死んだことになっているので誰にも存在さえ知られていない。せめて生きていけるよう、何かしら取りはからってくれていたのではないかと。
彼女は信じたかったのだ。復讐のために引き取られたのは事実だとしても、四年半の同居で情が移り、それなりに大切に思われていたということを。しかし、拓海は冷ややかに言い放った。
「自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」
——と。
「もう聞きたいことは聞いたから、帰ろう?」
かすかに涙のまじった声。
振り向くと、七海は顔を隠すように肩をすくめてうつむいていた。遥はわかったと端的に答えてソファから立ち上がり、奥の執務机で書類を広げていた楠長官に告げる。
「私たちはこれで失礼します」
「ああ、橘会長によろしくな」
「伝えておきます」
一礼すると、七海も立ち上がりぺこりと頭を下げた。
すぐに退出しようとしたが、扉を開こうとする手を彼女が無言で押しとどめた。やけに思い詰めた顔をしていたかと思うと、そっと振り返り、ソファでうつむく拓海の後ろ姿を見つめる。
「じゃあね……もう会うことはないと思う」
「ああ……七海、おまえは真っ当に生きろ」
「勝手だね」
かすかに震えた声でそう言い捨てた。そして前に向きなおりグッと奥歯を食いしばると、勢いよく扉を開け放ち、今度は振り返ることなく執務室をあとにした。
「よく我慢したね」
エレベーターの前まで来ると、そう七海に声を掛けてハンカチを差し出した。
瞬間、潤んだ目からぶわっと決壊したように涙があふれた。彼女はあわててそのハンカチを目元に押し当てる。しかしおさまる気配はなく、それどころか嗚咽の声までもらし始めた。
「あんなやつに涙を見せずにすんでよかったよ。もったいないし」
「うっ……もったいないって何だよ……っ……意味不明すぎ……」
泣きながらもいつもと変わらない彼女を見て、遥はふっと笑う。人通りのないひっそりとしたエレベーターホールで、そのままボタンを押さずにただそっと寄り添い、彼女が泣き止むのを待った。
二人は警察庁をあとにする。
泣くだけ泣いてすっきりしたのか七海の足取りは軽い。うららかな春の陽射しを顔いっぱいに浴びながら大きく伸びをすると、膝丈のプリーツスカートをひらめかせて遥に振り向く。
「連れてきてくれてありがとう。おかげでふっきれたや」
「そう」
ふっきれたというにはまだいささか早いかもしれないが、それもまもなくだろう。彼女は強い。下手な慰めの言葉などなくても、自分で気持ちに折り合いをつけられるはずだ。
ぐうぅぅぅ——。
鳴ったのは七海のおなかだ。
真っ赤になってあたふたとうろたえる彼女を見て、遥は思わず笑った。今日だけでなく何度かこういうことがあったなと思い出す。彼女は恨めしげに横目で睨んで口をとがらせた。
「お昼の時間だいぶ過ぎたからね。どこかで食べて帰ろう」
「うん、パフェも食べたい!」
食べると聞いて、頬を染めたままパッと顔をかがやかせてはしゃぎだした。食事の話になると機嫌が良くなるのはいつものことだ。待ちきれないとばかりに身を翻して階段を駆け下りていく。
その後ろ姿を眺めながら、遥は口もとを上げてゆったりとあとに続いた。
警察庁長官の執務室にある応接ソファで、七海と約二年ぶりの再会を果たした真壁拓海は、彼女の質問に対して眉ひとつ動かさずにそう答えた。すこしの希望も抱かせない冷めた口調で。
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真実を知ってもずっと心のどこかで信じていたようだが、こうなってはもう認めざるを得ないだろう。彼にとって自分は復讐の道具でしかなかったということを——。
それは散り始めた桜の花びらが吹雪のように舞う、ある春の日のことだった。
遥は七海が通うことになった私立中学校の入学式に保護者として出席し、その帰りに、真新しいセーラー服に身を包んだままの彼女を連れて警察庁に向かった。真壁拓海と面会させるためである。
彼は、七海の父親である坂崎俊輔を殺した男だ。
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しかし、彼は自分を許せなかった。
俊輔の娘を戸籍上死亡にしたうえでひそかに引き取り、復讐をそそのかして銃の扱いを教え、最終的に自分が敵だと明かして殺させる計画を立てた。それがどれほど身勝手で残酷なことか考えもせずに。
幼い七海にとって彼はひとりぼっちの自分に手を差し伸べてくれた恩人だった。四年半も一緒に暮らしたのだ。ささやかながらもたくさんの思い出があっただろうし、慕う気持ちもあっただろう。
それゆえ父親を殺したのは自分だと彼に明かされても、引き金を引けなかった。計画は失敗に終わったのだ。彼は自分で始末をつけるべく自害しようとしたが、それも彼女に止められた。
その後、彼がどういう状況を経てきたのかはわからないが、現在は以前と同じように公安で任務をこなしているらしい。
その情報は、公安職員をしているひとまわり年上の義弟から得たものである。任務の内容以外であればと教えてくれた。その彼に頼み、拓海と面会できるよう取りはからってもらったのだ。
七海はずっと彼のことを気にしているようだった。気持ちの整理がつかないまま別れたのだから仕方がない。未練を断ち切らせるためにも、中学生になったら一度だけ会わせようと考えていた。
もちろん強制はせずどうするかは彼女に委ねた。突然のことでさすがに戸惑っていたようだが、それでもすぐに意志の強さを感じさせる面持ちになり、まっすぐ遥を見つめて答えた。会わせて——と。
面会場所は警察庁長官の執務室だった。
これは楠長官の意向である。拓海の精神状態を心配しているのかもしれないし、遥に対する牽制の意味もあるのかもしれない。ただし、面会の内容については一切口を出さないと約束してくれた。
コンコン——。
扉が開くとスーツを身に付けた真壁拓海その人が姿を現した。
七海ははじかれたように立ち上がり、拓海もそれを目にして動きを止めた。互いに無言のまま、息をすることさえ忘れてじっと見つめ合った。まるでそこだけ時が止まったかのように。
「七海……元気そうでよかった。大きくなったな」
「拓海は変わらないね」
そこには多少ぎこちないながらも心を許しあったような空気が流れた。
四年半も一緒に暮らしてきたのだから仕方がないが、いまさら拓海のほうへ気持ちが傾くのは危険だし、何より面白くない。ここで遥にできることといえば無言の牽制くらいだった。
攻撃的な気をぶつけていれば遥の存在を無視できなくなる。その目論見は成功したといっていい。彼は近況報告のような他愛のない会話を続けながらも、ひそかに遥を意識していた。
「橘家で暮らしていると聞いたが」
「うん、良くしてもらってるよ」
「学校にも行ってるんだな」
「今日が中学の入学式だったんだ」
七海のセーラー服を見ながら曖昧な笑みを浮かべた彼は、何を思ったのだろう。学校へ行かせなかったことを、すこしは申し訳なく感じたのだろうか。だとしてもいまさら遅い。
拓海が七海から奪い去ったものや与えなかったものは、すべて遥が与えるつもりである。拓海には何も望んでいない。七海に爪痕を残さず消えてくれればそれでよかった。なのに。
彼は七海の求めに応じて、俊輔を手に掛けるに至るまでの状況や心情を語った。七海が本当のことを知りたいというなら止められない。気持ちに区切りをつけるために必要なのだろう。しかし——。
「七海が許せないなら、死んで償う」
この期に及んでまだそんなことを言うなんて。
七海のためといいつつ彼自身がそうしたいだけだ。あいかわらず自分のことしか考えていない。どうせならいっそ無関係の事故で死んでくれればいいのに——遥は冷たく拓海を見据えた。
ただ七海は、すくなくとも表面上はあまり深刻にならず、死なれたら寝覚めが悪いよと受け流して苦笑した。しかしそれも束の間。ふいに表情を消すと、緊張した様子を見せながら別の話題を切り出した。
「お父さんの敵を取ったあとのことは、何か考えてた?」
それが彼女のいちばん聞きたかったことだろう。
復讐を完遂すると七海はひとりぼっちになってしまう。死んだことになっているので誰にも存在さえ知られていない。せめて生きていけるよう、何かしら取りはからってくれていたのではないかと。
彼女は信じたかったのだ。復讐のために引き取られたのは事実だとしても、四年半の同居で情が移り、それなりに大切に思われていたということを。しかし、拓海は冷ややかに言い放った。
「自分が死んだあとのことなんかどうでもよかった」
——と。
「もう聞きたいことは聞いたから、帰ろう?」
かすかに涙のまじった声。
振り向くと、七海は顔を隠すように肩をすくめてうつむいていた。遥はわかったと端的に答えてソファから立ち上がり、奥の執務机で書類を広げていた楠長官に告げる。
「私たちはこれで失礼します」
「ああ、橘会長によろしくな」
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一礼すると、七海も立ち上がりぺこりと頭を下げた。
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「よく我慢したね」
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瞬間、潤んだ目からぶわっと決壊したように涙があふれた。彼女はあわててそのハンカチを目元に押し当てる。しかしおさまる気配はなく、それどころか嗚咽の声までもらし始めた。
「あんなやつに涙を見せずにすんでよかったよ。もったいないし」
「うっ……もったいないって何だよ……っ……意味不明すぎ……」
泣きながらもいつもと変わらない彼女を見て、遥はふっと笑う。人通りのないひっそりとしたエレベーターホールで、そのままボタンを押さずにただそっと寄り添い、彼女が泣き止むのを待った。
二人は警察庁をあとにする。
泣くだけ泣いてすっきりしたのか七海の足取りは軽い。うららかな春の陽射しを顔いっぱいに浴びながら大きく伸びをすると、膝丈のプリーツスカートをひらめかせて遥に振り向く。
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「そう」
ふっきれたというにはまだいささか早いかもしれないが、それもまもなくだろう。彼女は強い。下手な慰めの言葉などなくても、自分で気持ちに折り合いをつけられるはずだ。
ぐうぅぅぅ——。
鳴ったのは七海のおなかだ。
真っ赤になってあたふたとうろたえる彼女を見て、遥は思わず笑った。今日だけでなく何度かこういうことがあったなと思い出す。彼女は恨めしげに横目で睨んで口をとがらせた。
「お昼の時間だいぶ過ぎたからね。どこかで食べて帰ろう」
「うん、パフェも食べたい!」
食べると聞いて、頬を染めたままパッと顔をかがやかせてはしゃぎだした。食事の話になると機嫌が良くなるのはいつものことだ。待ちきれないとばかりに身を翻して階段を駆け下りていく。
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