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第3話 偽装恋人
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「遥、おまえ眠そうだけど大丈夫か?」
経済学の講義が終わり、遥が教科書やノートを片付けていると、隣に座っている富田拓哉(とみだたくや)が心配そうに尋ねてきた。
確かに、土日はあちこち駆けずりまわったうえ、片付けることも多くてあまり寝ていない。眠いといえば眠いが、講義は最前列で居眠りもせず真面目に受けていたし、そういう素振りは見せないよう気をつけていたつもりなのに。
「そんなに眠そうにしてた?」
「いや……何となくだけど」
富田は小学から高校までずっと同じクラスの幼なじみで、大学の学部学科も同じである。それゆえ遥のことをよくわかっているのだろう。彼になら見抜かれても仕方がないかもしれない。
「いつも本当によく見てるよね」
「まあ、そりゃあ……」
「そんなに僕のこと好きなんだ」
にっこりと笑い、額が触れ合わんばかりにずいっと顔を近づける。富田は耳まで真っ赤になりながらわずかにのけぞった。大講義室の後ろのほうから、キャーと歓喜まじりの悲鳴が上がる。
「近すぎるだろっ!」
「そう?」
周囲に聞こえないよう声をひそめて言い合う。
ふいに富田はよろけそうになり慌てて長机に左手を置いた。その薬指にはシンプルなプラチナの指輪がかがやいている。遥はそこに同じ指輪をはめた自分の左手を重ね、微笑を浮かべた。
富田はただの親友だ。
友情にしては高価すぎるペアリングも、過剰なスキンシップも、近づく女子を退けるための偽装でしかない。多数の女子からうんざりするくらい声をかけられ、また男子からもひっきりなしに合コンに誘われ、辟易していたのだ。
思わせぶりなだけで付き合っていると公言したわけではないが、それでも一定の効果はあった。最初は気にせず突進してきた人や、偽装ではないかと疑っていた人も、一年が過ぎるころにはほとんど脱落していった。
当然だろう。同性愛者であればいくら努力したところで望みはないのだ。早々に見切りをつけて他のターゲットを探すほうが賢明である。どうせルックスやステータスしか見ていないのだから。
「心臓がもたねぇ」
二人は大学から数駅離れた静かな雰囲気のカフェに移動した。人目を避けたいときに利用している隠れ家的なところだ。いつものように奥の目立たない席に座ると、富田はぐったりとテーブルに突っ伏してそうつぶやく。さきほどの大講義室でのことを言っているのだろう。
「約束どおりキスはしてないよ」
「いつか事故るぞ」
そう口をとがらせる彼に、頬杖をついてにっこりと笑いかける。
付き合っていると公言せずそう匂わせるだけ、キスもしない、富田に好きな子ができたら終わりにする——そういう約束で彼の協力を取り付けたのだ。いまのところ約束は守っているつもりである。
ただ、限界ギリギリを狙っている部分はあるかもしれない。まとわりつく女子の幻滅や動揺が楽しくてつい悪乗りしてしまう。もっとも、最近はどういうわけか歓喜の声がよく上がっているのだが。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「フルーツパフェとストレートティ、ホットで」
「あ……俺はホットコーヒー」
水とおしぼりを持ってきた壮年の男性店員に、それぞれ注文する。
富田はさっそくグラスの水に口をつけて一息ついた。そしてちらりと物言いたげな目を遥に向け、戸惑いがちに切り出す。
「おまえさ、目的のためとはいえ嫌じゃないのか? 俺と……みんなの見てるところで手を握り合ったり、顔を近づけたりとか」
「全然」
遥は即答したが、富田は何ともいえない複雑な表情になった。
遥としては嫌だと思ったことは本当に一度もない。幼いころは一緒にお風呂に入ったこともある仲だ。いまさらそのくらいでどうこう感じたりしないし、他人に眉をひそめられても気にしない。けれど——。
「富田が嫌なら終わりにするけど」
「いやいや、大丈夫だ!」
左手薬指のペアリングを抜くポーズを見せると、彼は大慌てで押しとどめた。遥はその勢いに唖然として目をぱちくりさせる。
「これやめても友達まではやめないよ?」
「あ、いや……嫌じゃないから続けようぜ」
「そう?」
スキンシップをするとき、富田はよく真っ赤になってうろたえている。
おそらく遥の顔立ちが澪と似ているからだろう。富田は幼いころからずっと遥の双子の妹である澪に片思いしていた。彼女は結婚してしまったのでもう望みはないが、未練はあるらしい。
もしかしたらそれでつらく感じていたのかもしれない。だが富田自身がそれを否定して続けることを望んでくれるのなら、断る理由はない。あまり無理をしていなければいいのだが——。
「それより話があるんじゃないのかよ」
「ああ……きのう七海を引き取ったんだ」
「そういや、そろそろって言ってたな」
富田には七海のことをおおまかにだが話してあるし、紹介もした。幼なじみで親友だからというのもあるにはあるが、偽装恋人という関係を続けるうえで、そのくらいは知っておいてほしいと考えてのことだ。
「あ、それでさっき眠そうにしてたのか」
「まあね」
肩をすくめると、富田が同情的な目を向けてきた。
「大変だな、まだ大学生なのに」
「そうでもないよ。家でのことは使用人に頼めばいいから、僕は主に学校関係のことくらいかな。だから大学の講義もいままでどおり出るし、富田とお茶する時間だってとれるよ」
「ん、ああ……」
食事の用意や洗濯までしなければならないのなら無理だが、幸い使用人がいる。小さな子供ではないのでずっとついている必要もない。しばらくは学校関係の手続きや入学準備などで忙しいだろうが、中学生になってしまえば落ち着くだろう。
「それでさ、これ」
ペアリングをはめた左手を軽く掲げてそう切り出すと、富田は飲みかけのグラスを置いてきょとんとした。こういう表情を見るとついからかいたくなるが、いまは真面目に話を進める。
「七海にきちんと説明しておこうと思って」
「え、きちんとって……どう説明するんだ?」
「もちろん正直に本当のことを話すつもり」
「女よけの偽装だって?」
「そう」
噂という形で彼女の耳に入るよりは、先に真相を知らせておいた方がいいと考えてのことだ。こんなくだらないことで悩ませてしまうような事態は避けたい。
「それ子供に理解できるのか?」
「七海なら大丈夫だと思う」
「その子からバレるってことは」
「もちろん口止めしておくよ」
「でも子供だからなぁ」
富田は腕を組んで渋い顔をする。
今のところ、真相を話したのは祖父とその秘書と妹夫婦くらいである。確かに知る人物が増えるだけ露見する可能性は高まるし、それが子供となればなおさらだろう。わかってはいるが、それでもやはり自分から話しておきたいのだ。
「駄目?」
遥は瞬ぎもせずまっすぐに富田を見つめて尋ねる。彼は腕を組んだまま伏し目がちに考え込んだかと思うと、急に顔をしかめてガシガシと自分の頭をかき、ふうと大きく息をついた。
「俺と違って、おまえはいつもリスクを考えたうえで決めてるもんな。だったらもう止められないだろ。そもそもおまえのためにやってることだし、バレたところで俺が困るわけじゃないし」
「ありがとう」
ふっと微笑んだところで、注文したものが運ばれてきた。
遥がフルーツパフェを食べ始めると、富田もコーヒーにたっぷりのミルクを入れて口に運んだ。そのあいだずっと視線を落として何か考え込んでいたが、やがて背もたれに身を預けると、ちらりと物言いたげな視線を上げておもむろに口を開く。
「なあ、もしバレたら他のヤツに頼むのか?」
「頼める人なんて富田以外にいないよ」
遥はパフェを食べる手を止めずにさらりと答えた。
そもそも露見してから他の人に頼むなど意味のないことだ。また偽装と思われるだけである。さまざまな意味でまわりが騒がしくなるかもしれないが、どうにかやり過ごすしかないだろう。
「そうか……そうだよな……」
新たな犠牲者が出ることを懸念していたのか、あるいは遥のことを心配してくれていたのか——富田はほっとしたように小さく息をついて表情を緩めると、再びコーヒーカップに手を伸ばした。
経済学の講義が終わり、遥が教科書やノートを片付けていると、隣に座っている富田拓哉(とみだたくや)が心配そうに尋ねてきた。
確かに、土日はあちこち駆けずりまわったうえ、片付けることも多くてあまり寝ていない。眠いといえば眠いが、講義は最前列で居眠りもせず真面目に受けていたし、そういう素振りは見せないよう気をつけていたつもりなのに。
「そんなに眠そうにしてた?」
「いや……何となくだけど」
富田は小学から高校までずっと同じクラスの幼なじみで、大学の学部学科も同じである。それゆえ遥のことをよくわかっているのだろう。彼になら見抜かれても仕方がないかもしれない。
「いつも本当によく見てるよね」
「まあ、そりゃあ……」
「そんなに僕のこと好きなんだ」
にっこりと笑い、額が触れ合わんばかりにずいっと顔を近づける。富田は耳まで真っ赤になりながらわずかにのけぞった。大講義室の後ろのほうから、キャーと歓喜まじりの悲鳴が上がる。
「近すぎるだろっ!」
「そう?」
周囲に聞こえないよう声をひそめて言い合う。
ふいに富田はよろけそうになり慌てて長机に左手を置いた。その薬指にはシンプルなプラチナの指輪がかがやいている。遥はそこに同じ指輪をはめた自分の左手を重ね、微笑を浮かべた。
富田はただの親友だ。
友情にしては高価すぎるペアリングも、過剰なスキンシップも、近づく女子を退けるための偽装でしかない。多数の女子からうんざりするくらい声をかけられ、また男子からもひっきりなしに合コンに誘われ、辟易していたのだ。
思わせぶりなだけで付き合っていると公言したわけではないが、それでも一定の効果はあった。最初は気にせず突進してきた人や、偽装ではないかと疑っていた人も、一年が過ぎるころにはほとんど脱落していった。
当然だろう。同性愛者であればいくら努力したところで望みはないのだ。早々に見切りをつけて他のターゲットを探すほうが賢明である。どうせルックスやステータスしか見ていないのだから。
「心臓がもたねぇ」
二人は大学から数駅離れた静かな雰囲気のカフェに移動した。人目を避けたいときに利用している隠れ家的なところだ。いつものように奥の目立たない席に座ると、富田はぐったりとテーブルに突っ伏してそうつぶやく。さきほどの大講義室でのことを言っているのだろう。
「約束どおりキスはしてないよ」
「いつか事故るぞ」
そう口をとがらせる彼に、頬杖をついてにっこりと笑いかける。
付き合っていると公言せずそう匂わせるだけ、キスもしない、富田に好きな子ができたら終わりにする——そういう約束で彼の協力を取り付けたのだ。いまのところ約束は守っているつもりである。
ただ、限界ギリギリを狙っている部分はあるかもしれない。まとわりつく女子の幻滅や動揺が楽しくてつい悪乗りしてしまう。もっとも、最近はどういうわけか歓喜の声がよく上がっているのだが。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「フルーツパフェとストレートティ、ホットで」
「あ……俺はホットコーヒー」
水とおしぼりを持ってきた壮年の男性店員に、それぞれ注文する。
富田はさっそくグラスの水に口をつけて一息ついた。そしてちらりと物言いたげな目を遥に向け、戸惑いがちに切り出す。
「おまえさ、目的のためとはいえ嫌じゃないのか? 俺と……みんなの見てるところで手を握り合ったり、顔を近づけたりとか」
「全然」
遥は即答したが、富田は何ともいえない複雑な表情になった。
遥としては嫌だと思ったことは本当に一度もない。幼いころは一緒にお風呂に入ったこともある仲だ。いまさらそのくらいでどうこう感じたりしないし、他人に眉をひそめられても気にしない。けれど——。
「富田が嫌なら終わりにするけど」
「いやいや、大丈夫だ!」
左手薬指のペアリングを抜くポーズを見せると、彼は大慌てで押しとどめた。遥はその勢いに唖然として目をぱちくりさせる。
「これやめても友達まではやめないよ?」
「あ、いや……嫌じゃないから続けようぜ」
「そう?」
スキンシップをするとき、富田はよく真っ赤になってうろたえている。
おそらく遥の顔立ちが澪と似ているからだろう。富田は幼いころからずっと遥の双子の妹である澪に片思いしていた。彼女は結婚してしまったのでもう望みはないが、未練はあるらしい。
もしかしたらそれでつらく感じていたのかもしれない。だが富田自身がそれを否定して続けることを望んでくれるのなら、断る理由はない。あまり無理をしていなければいいのだが——。
「それより話があるんじゃないのかよ」
「ああ……きのう七海を引き取ったんだ」
「そういや、そろそろって言ってたな」
富田には七海のことをおおまかにだが話してあるし、紹介もした。幼なじみで親友だからというのもあるにはあるが、偽装恋人という関係を続けるうえで、そのくらいは知っておいてほしいと考えてのことだ。
「あ、それでさっき眠そうにしてたのか」
「まあね」
肩をすくめると、富田が同情的な目を向けてきた。
「大変だな、まだ大学生なのに」
「そうでもないよ。家でのことは使用人に頼めばいいから、僕は主に学校関係のことくらいかな。だから大学の講義もいままでどおり出るし、富田とお茶する時間だってとれるよ」
「ん、ああ……」
食事の用意や洗濯までしなければならないのなら無理だが、幸い使用人がいる。小さな子供ではないのでずっとついている必要もない。しばらくは学校関係の手続きや入学準備などで忙しいだろうが、中学生になってしまえば落ち着くだろう。
「それでさ、これ」
ペアリングをはめた左手を軽く掲げてそう切り出すと、富田は飲みかけのグラスを置いてきょとんとした。こういう表情を見るとついからかいたくなるが、いまは真面目に話を進める。
「七海にきちんと説明しておこうと思って」
「え、きちんとって……どう説明するんだ?」
「もちろん正直に本当のことを話すつもり」
「女よけの偽装だって?」
「そう」
噂という形で彼女の耳に入るよりは、先に真相を知らせておいた方がいいと考えてのことだ。こんなくだらないことで悩ませてしまうような事態は避けたい。
「それ子供に理解できるのか?」
「七海なら大丈夫だと思う」
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「もちろん口止めしておくよ」
「でも子供だからなぁ」
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遥は瞬ぎもせずまっすぐに富田を見つめて尋ねる。彼は腕を組んだまま伏し目がちに考え込んだかと思うと、急に顔をしかめてガシガシと自分の頭をかき、ふうと大きく息をついた。
「俺と違って、おまえはいつもリスクを考えたうえで決めてるもんな。だったらもう止められないだろ。そもそもおまえのためにやってることだし、バレたところで俺が困るわけじゃないし」
「ありがとう」
ふっと微笑んだところで、注文したものが運ばれてきた。
遥がフルーツパフェを食べ始めると、富田もコーヒーにたっぷりのミルクを入れて口に運んだ。そのあいだずっと視線を落として何か考え込んでいたが、やがて背もたれに身を預けると、ちらりと物言いたげな視線を上げておもむろに口を開く。
「なあ、もしバレたら他のヤツに頼むのか?」
「頼める人なんて富田以外にいないよ」
遥はパフェを食べる手を止めずにさらりと答えた。
そもそも露見してから他の人に頼むなど意味のないことだ。また偽装と思われるだけである。さまざまな意味でまわりが騒がしくなるかもしれないが、どうにかやり過ごすしかないだろう。
「そうか……そうだよな……」
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