青い炎

瑞原唯子

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17. せいぜい寂しがるがいいさ

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「美咲、このところ元気がないんだよなぁ」
 大地は頬杖をついたまま、もう一方の手で器用にシャープペンシルをまわし、指の間を縫うようにくるくると移動させていく。もう何度往復しただろう。さきほど執事の櫻井に様子を見に行かせてからずっとこの調子で、レポートを進める気配はない。
「普段はいつもと変わらず明るく振る舞ってるんだけどさ、ときどきふっと寂しげな顔になったり、物思いに耽ったりして。何か悩みごとでもあるのかと思ってそれとなく聞いてみても、何もないって言うばかりで。気を使ってるか言いづらいかどっちかなんだろうけど」
 そこまで言うと、正面の悠人にちらりと視線を向けた。
「おまえ、何か知らない?」
「僕が知るわけないだろう」
「ふーん……」
 頬杖をついたまま爪先にのせたシャープペンシルを見つめ、胡乱げな声をもらす。
「何か気付いたら教えろよ」
「ああ」
 そう答えたが、悠人はすでに本人から聞いて知っていた。
 美咲が沈んでいるのは、大地が近いうちに結婚すると思い込んでいるからだ。しかし大地に教えるつもりはない。あらぬ誤解で思い悩んだままになる美咲は可哀想だが、大地がこのことを知ればすぐにでも彼女に結婚を迫りかねない。いずれそうなることは避けられないとしても、今はまだ早い。その事実を受け止めるには彼女はあまりにも幼すぎる。
 お兄ちゃんの妹でいることをあきらめたくない——あの雨の日、悠人の提案に美咲は静かにそう言葉を返したが、その思いを裏切っているのは他ならぬ大地である。兄として慕っている大地が、まさか最初から妻にするつもりでいたなんて思いもしないだろう。このことを知れば少なからず衝撃を受けるに違いない。
 逃げ道は示したつもりだが、そのときにならないと彼女がどういう選択をするかはわからない。もしこの手を取ってくれるなら全力で守ろうと覚悟は決めている。大地を敵にまわしても——きっと彼には一生憎まれることになるだろうが、消えない傷とともに存在を深く刻みつけられるのであれば悪くない。どうでもいい存在として忘れられるよりかはよほどいい。

「お兄ちゃん」
 そろりと扉が開き、そこから美咲がおずおずと遠慮がちに顔を覗かせた。櫻井に言われて大地に姿を見せにきたのだろうか。もう夜十一時をまわっているが寝間着ではなくワンピースを着ている。大地は瞬時に優しいお兄ちゃんの顔になった。
「美咲、まだ起きてたんだ?」
「もう寝るから挨拶だけ……」
「こっちにおいで」
「うん」
 美咲は安堵の息をつくと、ワンピースをひらめかせながら小走りで駆けていき、大地に促されるまま隣の椅子に腰掛けた。大地は愛おしげに目を細めて彼女の頭をなでる。肩ほどの長さのまっすぐな黒髪がさらりと揺れた。
「今日は構ってあげられなくてごめんね」
「ううん、レポート大変そうだけど頑張って」
「ありがとう。あしたは一緒に過ごせるから」
 今日は帰宅してからずっと明日提出のレポートにかかりきりになっていた。美咲と顔を合わせたのも夕食のときだけである。急なレポートさえなければ美咲と過ごす予定だっただけに機嫌を悪くしていたが、彼女を目にした一瞬で笑顔になるのだからさすがとしか言いようがない。
「ねぇ、夏休みは二人でどこか旅行に行こうか」
「二人って……私とお兄ちゃんだけ?」
「そう、きょうだい水入らずで二週間ほどね」
 二週間も二人きりだと——?
 思わずはじかれたように顔を上げて正面の大地を睨んだ。しかしながら彼はその反応を予想していたのだろう。待ち構えていたかのように、うっすらと人の悪そうな笑みを浮かべて口をひらく。
「悠人、悪いけどおまえは遠慮してくれ。美咲が落ち着けないだろう?」
 あからさまな牽制だ。
 二人はいまだに打ち解けていないと思われているのだから、言い分としては筋が通っている。それゆえ美咲は真に受けてしまったのだろう。自分のせいで悠人が行けなくなったと責任を感じながら、本当は親しいのだと打ち明けることもできず、戸惑いがちに目を泳がせて申し訳なさそうな顔をしていた。
「美咲は僕と二人きりじゃ嫌かな?」
「そんなことない、すごく嬉しい」
「よかった」
 大地が身を乗り出して美咲の目を覗き込みながら尋ねると、彼女は慌てて笑顔で答えた。その言葉に嘘はないはずだ。彼の下心など知らず、純粋に家族として兄として慕っているのだから。
「旅行ってどこへ行くの?」
「そうだね……」
 大地は口もとに手を添えて考える。
「軽井沢はどうかな? 静かなところに別荘があるからゆっくりできるよ。夏は涼しくて過ごしやすいし、自然がきれいだし、観光するにもいいんじゃないかな」
 橘が日本国内にいくつかの別荘を所有しているという話は聞いていた。ハンググライダーの訓練をするときに使ったコテージもそのひとつである。悠人はそこしか知らないが、山奥のコテージでさえあれだけの建物なのだから、避暑地の別荘ならおそらくもっと立派なはずだ。
「軽井沢って、山?」
「山というか林かな」
 大地が答えると、美咲は表情を隠すように曖昧な笑みを浮かべる。何か言いたいことがありそうな雰囲気だが、自分から口を開こうとはしない。
「何か希望があるの? 遠慮しなくていいんだよ」
「うん……海が見たいなって思ったんだけど……」
 大地に促されて、ようやくおずおずと上目遣いで希望を述べた。
 それを聞き、大地は美咲を見つめたまま驚いたように目を見開いていく。そこまで意外な答えでもないのにどうしたのだろう。怪訝に思っていると、彼はふいに嬉しそうな表情になり明るく声をはずませた。
「そっか、美咲はまだ海を見たことなかった?」
「……うん」
 悠人と見に行ったことがあるなどと正直に言えるはずもなく、彼女は嘘をつくしかない状況だ。けれど目は逃げていてあからさまに挙動不審である。傍から見ている悠人の方がヒヤヒヤしたが、大地は気付いていないのか特に訝しむ様子はない。
「じゃあ小笠原にしようか」
「どこ?」
「ずっと南の島だよ。船で片道一日くらいかかるのかな。すごく遠いけど、海がきれいで近くにはイルカやクジラも泳いでるんだって。ほかにも大自然に囲まれた素晴らしい景色が見られるみたいだし、僕も前から一度行ってみたいと思ってたんだ。別荘はないからホテルか民宿になるけどね」
 話を聞くうちに、美咲は好奇心で目をキラキラと輝かせていった。
 大地はその反応を目にして満足げににっこりと微笑む。
「よし、小笠原で決まりだな」
「うん!」
 美咲は無邪気に喜んでいた。あのとき悠人が見せてやれなかったきれいな青い海を、ようやく見られるのだ。今度は大好きなお兄ちゃんの大地に連れられて——。
「いつまで話をしているつもりだ」
 悠人は視線を落とし、楽しそうにはしゃいでいた二人に水を差す。その声には隠しきれない苛立ちがにじんだ。突然のことに二人ともすこし驚いた様子で振り向いたが、すぐに大地は何事もなかったかのように笑顔を見せる。
「そうだね、美咲はそろそろ寝ないとね」
「うん」
 彼女はそそくさと立ち上がりお辞儀をする。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
「おやすみ」
 大地と挨拶を交わすと、曖昧な面持ちになり悠人に目を向ける。
「おやすみなさい」
 さきほどとは違う硬い声。
 今日に限らず誰かが一緒にいるときはいつもそうである。親しいことを悟られないためだとはわかっているが、わずかな優越感とともに、やはりどうしても幾何かの寂しさは感じてしまう。だからといってそれを表に出すわけにはいかない。
「おやすみ」
 義務的な口調で返すと、彼女はふわりとワンピースをひらめかせながら部屋をあとにした。

「いったいどういうつもりだ」
 美咲の足音が遠ざかり聞こえなくなったのを確認してから、悠人は声を低めて正面の大地に尋ねた。しかし、彼は悪びれもせず憎らしいくらい平然としている。
「僕は美咲を元気づけたいだけさ」
「二週間も二人きりで……」
「手を出そうなんて考えてないよ」
 大地は軽く笑いながら先回りして否定した。だが元気づけるだけなら二人きりである必要はないし、期間も長すぎる。何か下心があるのではないかと疑うのは当然だろう。じっと探るように見つめると、彼はほんのわずかに目を細めてうっすらと笑みを浮かべる。
「まあ、もうすこし親密になりたいとは思ってるけどね。僕たちくらいには」
 からかっているのだろうか、それとも——。
 大地はもうすでに悠人より美咲の方と親密になっている。ただ、同じ大学で同じ講義を受けているという関係上、一緒にいる時間だけは必然的に悠人の方が長くなる。親密になりたいというのは単に過ごす時間の話だろうか。そうではなく、かつて二度キスしたことを指しているのだとしたら。
「……美咲がまだ子供だということを忘れるなよ」
「ああ、大人のキスは自分だけにしておけって?」
 嫉妬しているんだろうと言わんばかりの揶揄にカッとなるが、とっさに言い返せず、ただ顔が熱くなるのを感じながら睨むことしかできなかった。彼女を守るために釘を刺しただけで他意はなかったのに。もしかすると、心の片隅にそういう気持ちはあったのかもしれない。
「初めてだな、二週間も離ればなれになるのは」
 ふいに大地が遠い目をして、それまでとは違うひとりごとのような声音でぽつりと言った。考えてみれば確かにそうだ。彼と知り合ってからかれこれ七年以上になるが、ほぼ毎日というくらい会っているし、たまに会えないときがあってもせいぜい三日である。
 二週間は長い。
 この旅行が終わったあと三人の関係はどうなるのだろう。大地と美咲が兄妹の枠を超えて親密になるかもしれない。大地の悠人への関心が薄れてしまうかもしれない。美咲はもう悠人を必要としなくなるかもしれない。それどころか二人にとって邪魔なだけの存在になるかもしれない——。
「本当に、二週間も行くのか?」
「せいぜい寂しがるがいいさ」
 大地は頬杖をつき、形のいい唇にうっすらと挑発的な笑みをのせて言う。
 行かないでくれという心の叫びは見透かされていたのだろう。悠人のために予定を変更するなどありえない。そんなことは最初からわかっていたけれど。何も言い返せないまま、テーブルの上でこぶしを震わせながらうつむいていく。
「泣くなよ」
 その声につられて顔を上げると、大地がシャープペンシルのノック部分をまっすぐ鼻先に向けてきた。
「帰ったら、おまえに一日つきあってやるからさ」
「えっ?」
 予想外の話に目を見開き、瞬かせる。
 これまでにも一日のあいだ一緒にいたことはあった。ハンググライダーの訓練に行ったときなどは、二日間ほぼ行動をともにしている。ただ、どれも大地が勝手に決めたことで悠人の希望ではない。もちろん決して嫌なわけではないのだが。
 つきあってやるよという物言いからすると、今回は単に一緒に過ごすだけでなく、悠人の希望を叶えてくれるつもりなのだろう。こんなことは今までに一度もなかった。まだ悠人を手放す気はないと思っていいのだろうか。しかし。
「美咲は二週間で、僕は一日か」
「ずいぶん欲張りになったな」
 一日つきあってくれるだけでも奇跡みたいなものなのだ。思わず口をついて出たひとりごとは軽く一蹴された、と思ったのに。
「じゃあ二日やるよ。何かやりたいことを考えておけよ」
 そう言って大地はいたずらっぽく口もとを上げると、レポート作成を再開する。さきほどまでのやる気のなさはどこへいったのか、もうすっかり真面目な顔になり目の前の課題に集中していた。文字を綴るかすかな音だけが聞こえている。
 おまえは、ずるい——。
 悠人は鳩尾にこぶしを押し当てながらゆっくりとうつむき、唇を引きむすぶ。何も期待してはいけない。わかっているはずなのに心は簡単に思考を裏切ってしまう。そんな自分を恨めしく思いつつ、大地に気付かれないようそっと深呼吸してシャープペンシルを持ち直した。
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