東京ラビリンス

瑞原唯子

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45. 家族にはなれなくても

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 大地の船はすぐに準備され、さほど待つことなく出航できた。
 その船は、澪の想像よりもはるかに大きかった。船を持っていると聞いても驚きはしなかったが、見上げるほどの船体を目にしたときにはさすがに唖然とした。何百人も乗れる大型フェリーには遠く及ばないが、二、三十人は余裕で乗れそうである。
 船内には個室も用意されているようだが、今回は使用しないということだ。そんな悠長な旅でないことは理解している。溝端たちが何か仕掛けてくる可能性もあるため、いざというときすぐに指示が伝えられるよう、テーブルと座敷のある大広間で過ごすように言われていた。
 操縦は大地が行っていた。
 昔からこの船の操縦は大地の役目だったらしく、心配ないということだが、免許を持っているかまではわからない。気にはなったが聞かなかった。普段の澪であれば無免許の操縦など到底容認できないが、今はそうも言っていられない状況であり、それならいっそ知らない方がいいと判断したのである。
 テーブル席の方では武蔵と遥が向かい合って座り、少し離れたところに誠一が座っていたが、三人とも黙り込んだままじっと何かを考え込んでいる。澪は通路を挟んだところにある一段高い座敷の縁に腰掛け、ぼんやりとその様子を眺めていたが、息の詰まりそうな空気に耐えかねてこっそり大広間をあとにした。
 当てもなく歩くうちに操舵室らしき部屋が目についた。ガラス窓から中を覗き込むと、計器類が前面に並んでいる操縦席に大地が座り、悠人は隣で椅子の背もたれに手を掛けて立っていた。上部の窓が少し開いているせいか、聞くつもりのなかった話し声が耳に届く。
「悠人、おまえ操縦できるんだろう?」
「小型船舶の免許しか持っていない」
「たいして変わらないよ。交代で頼む」
 いつもながらの独裁的な言いように、悠人は不快感を露わにして大地を睨み下ろす。
「僕が来なかったらどうするつもりだったんだ」
「おまえは必ず来ると思っていたよ」
 大地は前を向いたまま事も無げに答えた。そう言われる理由に心当たりがあったのか、悠人は何も言い返すことなく溜息をついた。暫しの沈黙のあと、再び大地の方にちらりと視線を向けて尋ねる。
「美咲を助けられるか?」
「助けるさ、絶対に」
 大地の声は力強かった。無理に鼓舞しているという感じではなく、さも当然であるかのような口調である。まだ希望を失っていないのだとわかり、澪はそれだけで大いに元気づけられた。ひとり小さく頷き、そこを離れて甲板に向かおうとしたのだが――。
「おまえ、美咲との間に子供を作ろうとは思わなかったのか」
 背後から耳に届いたその言葉にドキリとし、動きが止まった。すぐさま死角に身を潜めて耳を澄ます。
「思ったけど、出来なかったんだよ」
「……何か原因があったのか?」
「さあね、病院でも何度か検査をしたけど原因はわからずじまいさ。ただ、何となくあんなことをした報いかもしれないとは思った。おそらく美咲もね。非科学的でオカルトじみた考えだという自覚はあるけど、そんな不安に囚われてしまうだけのことを重ねてきたからな」
 大地の言う「あんなこと」とは、何の罪もない子供たちを拉致して実験に使い、そのほとんどを死に至らしめてしまったことだろう。彼にも少しは罪悪感があったのだろうか。そうでなければ、こういった考えに行きつくとは思えない。
 一拍の間のあと、悠人が大きく吐息を落とした。
「結果的には良かったのかもな」
「澪と遥のためには?」
「おまえは自分の子だけを可愛がる」
「かもね」
 大地が自分たちを放置しているのは仕事が忙しいからで、仕方のないことだと理解していたが、もし弟か妹だけを可愛がっていたらどう感じただろう。少なからず傷ついたに違いない。自分の何がいけないのかと、幼いながらに必死に頭を悩ませたはずだ。澪は足元に視線を落としてそっと眉根を寄せる。
「盗み聞きはよくないよ」
 不意に耳元で囁かれ、思わずヒッと悲鳴を上げそうになったが、予想していたかのように口を塞がれる。それが誰かは声を聞いた時点でわかっていた。遥である。彼がもう片方の手で外へ続く扉を指さしたのを見ると、澪はコクコクと頷いた。
 音を立てないように、二人は注意深く扉を開けて甲板へと出た。
 あたりはだいぶ暗くなっている。出航してからさほど時間は経っていないはずだが、すでに陸からかなり離れたようで、ぐるりと見まわしてもほとんど海しか見えない。腰近くまである黒髪が大きく吹き乱され、短いスカートも勢いよく捲れ上がり、澪はあたふたしながら両手で押さえる。
「大丈夫?」
 短く落とされた問いかけは、潮風に翻弄されていることに対してではないだろう。そのくらいは澪にだってわかる。若干の緊張を覚えつつ、スカートの裾を押さえたまま振り返ると、じっと彼を見つめて尋ね返す。
「遥も聞いてたの?」
「少しね」
「子供のことだよね」
 念のため確認すると、遥は動揺を見せることなく無言で小さく頷いた。どうやら澪が大広間を出てすぐに追って来たようだ。そんなに心配しなくてもいいのにと思うが、気に掛けてくれることはやはり嬉しく、胸がほんのりとあたたかくなるのを感じる。
「思ったほどショックじゃないよ。そっかぁ、って感じ」
「無理してるんじゃない?」
 気遣わしげに問われ、澪はゆっくりと首を横に振る。黒髪がさらさらと頬にかかった。
「私たちが否定されたわけじゃないんだもん」
「でも、自分の子だけ可愛がるかもって」
「それは、そうなってみないとわからないし……」
「…………」
 遥は複雑な面持ちで目を伏せた。しかし気持ちを切り替えるように息をつくと、顔を上げる。
「戻ろう」
「うん」
 すっと無駄のない所作で差し出された白い手を、澪は迷いなくとった。直後に船の揺れが大きくなり甲板の上で少しよろけたが、すぐに体勢を立て直すと、彼と手を繋いだまま扉から大広間へと戻っていった。

 二十分ほどして、操舵室にいた悠人も堅苦しい顔つきで戻ってきた。本題についても話し合ってきたのだろう。武蔵と誠一の座るテーブル席と、澪と遥の座る座敷の間に立ち、事務的な口調でこれからのことについて話し始める。
「小笠原近海までは、大地と私が交互に操縦することになりました。溝端たちからの攻撃を警戒して、通常とは違う航路で向かいますが、ほとんど後れを取らずに着けると思います。焦ったところで今は何もできませんので、明日に備えて睡眠をとっておいてください」
 母親たちのことが気になっているというのもあるが、それ以前に、このような揺れる船内で熟睡できるとは思えない。誠一はすでに船酔いしたようでぐったりとしている。しかし、言ったところでどうにもならないことはわかっている。皆も同じ気持ちなのか微妙な面持ちで口をつぐんでいた。
 悠人は眉ひとつ動かさず、淡々と話を続ける。
「小笠原近海からは、大地の操縦する潜水艇で海中へ向かうことになります。その間、この船の操縦席には私がつくことになりました。潜水艇の定員は操縦席を除いて四人。ただし一席は美咲とメルローズを連れ帰るために空けておきますので、同行できるのは最大で三人となります」
「石川さんはどうするの?」
「もし空席がなければ往復して救助する。美咲とメルローズはすぐに連れ帰ることを望まれているが、石川さんはそうじゃない。冷たいようだが見捨てるわけではないので構わないだろう。ただ、溝端たちの潜水艇も同じくらいの規模だとすると、石川さんまで連れて行く余裕はないように思う。また、美咲がいるのなら連れて行く意味もないだろう。別の役割を与えられていると考える方が自然だ。その場合は、いったん家に戻ってから彼の救出方法を考えよう」
 悠人は遥の質問に丁寧に答えてから、武蔵に振り向いた。
「武蔵、君には潜水艇に乗ってもらいたい」
「当然だ。おまえらだけに任せるつもりはない」
「メルローズだけでなく、美咲も……」
「わかっている」
 釘を刺そうとした悠人を遮り、武蔵はうざったそうに顔をしかめて答えた。彼にとって美咲は憎むべき相手であるが、メルローズや澪の気持ちを無視してまで復讐することはないだろう。少なくとも澪はそう信じていた。
 悠人は真意を探るようにじっと彼を見つめていたが、やがて頭を下げた。
「ありがとうございます。感謝します」
「それで、条件というわけじゃないが……」
「穏やかではないですね。何でしょう?」
「澪と遥も一緒に連れて行きたい」
「…………」
 悠人はピクリと眉を上げ、不信感を隠そうともせず鋭く射るように睨めつけた。武蔵がどういうつもりなのかは澪にもわからない。念のための人質と考えられなくもないが――問いかけるように不安げな眼差しを送ると、彼は淡々と理由を述べ始めた。
「二人ともかなり強い魔導の力を持っている。おそらく俺からの遺伝によるものだろう。もしかすると、橘美咲の実験の影響も多少あるのかもしれない。今のところ自分自身で制御はできないらしいが、俺の魔導力を補強するのには使えるはずだ」
「……必要になるというのか?」
「その可能性はないとはいえない」
 武蔵が真摯に答えると、悠人は大きく眉をひそめて表情を曇らせた。
「そんな危険があるというなら、なおさら行かせられないな」
「俺も反対だ」
 今まで青白い顔でうつむいていた誠一が口を挟んだ。武蔵を見つめて言葉を継ぐ。
「君だって、澪を危険に晒したくはないだろう」
 声に覇気がないのも顔色が悪いのも船酔いのせいだろう。それでも十分すぎるくらい懸命さは伝わってきた。武蔵は一瞬だけ顔をしかめたが、おもむろに一呼吸してから理性的に抗弁する。
「なるべく危険な事態にならないようにするし、そうなっても二人は俺が守ってみせる。もしものときのための保険だと思ってほしい。俺だって出来るなら澪や遥に危険な目に遭わせたくない。だが、二人がいなければ何もかも水泡に帰すかもしれないんだ」
「しかし……」
「行きます! 行かせてください!」
 難色を示す誠一を遮り、澪は腰掛けていた座敷から立ち上がって声を張った。一斉に注目を浴びるが怯んでなどいられない。目を見開いた誠一と悠人を交互に見やり、自らの胸に手を当てて畳みかける。
「お母さまを見殺しになんて私にはできないよ。武蔵の言ってることはよくわからないけど、役に立てるのなら行かせてほしいの。もし私が行かなかったことでお母さまを助けられなかったら、きっと一生後悔する。自分だけ生きていることを責めるかもしれない。だから……」
「武蔵が守るって言うんだから大丈夫じゃない?」
 遥が座席の縁に腰掛けたまま援護する。彼自身は行きたいと思っているのかわからないが、澪の希望を尊重してくれたということなのだろう。誠一と悠人は互いに困惑して顔を見合わせると、ともに視線を落としてじっと思考を巡らせる。やがて、悠人があきらめたように深い吐息を落とし、真剣なまなざしで武蔵を見つめて口を開いた。
「武蔵、君を信じて澪と遥を託そう」
「感謝する。必ず無事に連れ帰る」
 武蔵は真顔で頷いて答える。向かいでは誠一が納得のいかない面持ちをしていたが、口を閉ざしたまま異を唱えることはなかった。心配そうな目を向けてきた彼に、澪は大丈夫だという気持ちを込めてにっこりと微笑んで見せた。

 その後、操縦中の大地以外はテーブル席で軽食を摂ることになった。出航前にコンビニで買い込んだサンドイッチやサラダなどである。皆、ほとんど会話をすることなく黙々と口に運んでいた。誠一だけは船酔いで気分が悪いらしく、何も食べずに座敷の隅で横になっていた。
 食事が終わると、澪たちも睡眠を取るべく座敷に身を横たえる。各人に与えられたのはタオルケット一枚ずつである。急な出航で贅沢を言えないことはわかっているが、澪は寒がりということもあり眠るどころではなかった。ブラウスにカーディガンという春めいた格好もあだとなった。暖房もない洋上の夜半では厳しい。誰かと身を寄せ合いたい衝動に駆られるが、雑魚寝というこの状況ではさすがに憚られる。
 結局、どうにもこうにも寝付けずに起き出した。澪以外は寒さを感じていないのかすでに眠っているようだ。起こしてしまわないよう気をつけながら、特に当てもないまま甲板の方へ足を向けた。
「わぁ……」
 扉を開けた途端、視界一面に広がった満天の星空に、寒さも忘れて感嘆の声を漏らした。深みのある濃紺色の空と、鏤められた無数の星々が、見渡す限りどこまでも広がっている。プラネタリウムとは比較にならない、紛れもない本物の雄大な星空。見ているだけで吸い込まれそうになる。
 こんな星降るような夜空を、あのときのお父さまとお母さまも見ていたのかな――。
 すべての始まりである小笠原フェリー事故が起こる前夜、もしかしたら、二人でこの幻想的な星空を見ていたかもしれない。ロマンティックな会話をしていたかもしれない。兄妹らしい可愛らしい会話をしていたかもしれない。そんなふうに思いを馳せていると、胸がギュッと締め付けられて少し泣きたくなった。
「澪……?」
「え、お父さま?」
 誰かが船首側の手すりに背を預けて立っていた。灯りが十分でなく距離もあるため、顔の判別まではつかなかったが、声からすると父親の大地で間違いない。操縦は悠人と交代したのだろう。小走りで駆けていくと、彼はいつものように優しい笑顔で迎えてくれた。
「眠れないの?」
「ちょっと寒くて」
 そう苦笑を浮かべながら肩をすくめ、彼の隣の手すりに腕をのせてもたれかかる。外の方が寒いことはもちろんわかっていたが、眠れないままじっと耐えているよりはいいだろうし、気分転換にもなると思ってここへ来たのだ。しかし、想像以上に風が冷たくて思わずぶるりと身震いする。
「えっ?」
 不意に、背中からふわりと大きなジャケットが掛けられた。大地の着ていたものである。冷えていた体がぬくもりに包まれていくのを感じて、澪はほっと息をつく。
「あ、でもお父さまが……」
「予備の上着があるから」
「じゃあ、ありがとうございます」
 素直に礼を言って、掛けてもらったアイボリーのジャケットに袖を通した。当然だが袖も肩もかなり大きい。袖口から指先だけしか出ていないのを見て、くすっと小さな笑みをこぼす。
「懐かしいな」
「えっ?」
「この星空」
 大地はズボンのポケットに片手を差し入れ、背筋を伸ばして空を仰いでいた。その視線を辿るように、澪も手すりを掴んで大きく空を見上げた。黒髪が冷たい風を受けて舞い上がり、乱されていく。
「お母さまと、見た?」
「まだ妹だった頃にね」
 その言葉に、ここに至るまでの時間の長さを思い知らされる。
 大地はふっと寂しげに薄笑いを漏らした。
「あのときはまだ、幸せな未来しか思い描いていなかった。完璧な計画を立てているつもりだった。まさか、一瞬で打ち砕かれるとは想像もしなかったよ」
「……今からでも、遅くないです」
 星空を見つめたまま、澪は目を細めてゆっくりと言葉を落とした。それから大地に振り向いて優しく訴える。
「これが終わったら、つらいことは全部忘れてやり直しましょう。お母さまも研究なんてもうやめればいい。みんなで……私たち家族で幸せな未来を作っていきたいよ」
「たくさんの子供を殺した僕たちが?」
「それ、は……」
 返す言葉がなかった。たとえ法的には罪に問われないとしても、これほど残酷なことをしておきながら、すべて忘れて幸せになるなんて許されるのだろうか。だからといって、どう罪を償えばいいのかもわからない。
 大地はそっと遠くを見やり、口を開く。
「僕はともかく、澪と遥はこんなことを忘れて幸せになるべきだ。いっそ橘から離れた方がいいのかもしれないね。父も僕と同じで常軌を逸したところがあるし、何をさせられるかわかったもんじゃない。未成年の今ならいろんな意味で間に合うよ」
「嫌です。私はお父さまとお母さまの娘です」
 澪は迷わず強気に言い返した。自分たちの行く末を案じての提案なのだろうが、何か突き放されたように感じて胸が苦しい。欲しかったのはこんな言葉ではない。しかし、彼は淡々と冷ややかな言葉を重ねていく。
「僕は澪の父親ではないよ」
「私にとってはお父さまです」
「そう思いたいだけだろう」
「いけませんか」
「もう少し柔軟に生きた方がいい」
「そうかもしれません。でも……」
「やっかいだね」
 ここまでくると、いくら鈍感な澪でも気付かざるを得なかった。彼は自分たちを切り捨てたいのかもしれない、と――。唇を噛んだ澪に、大地は表情を動かすことなく追い討ちを掛ける。
「僕と澪に血の繋がりがないのは事実なんだ」
「でも……、十七年間、私たちは家族でした」
「僕はそう思っていなかったけどね」
 澪の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れた。ブラウスの胸元を掴みながらうつむく。
「家族だって、娘だって……言ってくれたじゃないですか」
「そういう設定だったからだよ。家族ごっこはもう終わりにしよう」
「自分たちの都合で勝手に作ったくせに、身勝手にも程があります」
「そうだね」
 どう言っても、どう責めても、彼にはまるで響かないようだ。澪はだらりと手を下ろした。
「もしかして、私たちのこと憎んでますか?」
「憎んではいないよ。ただ複雑ではあるね。実際の父親のことをよく知らないうちはまだ良かったけど、本人が目の前に現れてしまうとな。美咲とあの男の子供だという事実を突きつけられて、面白くないんだ」
 あまりの身勝手さに呆れるしかなく、虚ろな笑いが漏れる。
「自業自得ですよ」
「まったくだ」
 そう首肯した彼の顔に、うっすらと自嘲が浮かんだ。
 もしかすると本当は後悔しているのかもしれない。小笠原フェリー事故に、未知なる力に、取り憑かれたとしかいえない生き方を――だからこそ、その象徴である澪と遥を切り捨てたくなったのではないか。いずれにしても身勝手なことこのうえない。
 澪は顎を引き、まっすぐに彼を見据えた。
「それでも、私の父は橘大地です」
 意志の強さをあらわにした声音でそう言い切ると、一礼し、黒髪をなびかせながら足早に立ち去った。扉から中に入るやいなや、背中を壁に預けて崩れるように座り込む。堪えていたものが涙となって溢れ出し、ジャケットの裾に落ちて弾けた。うっ、と漏れそうになった声を押しとどめて口もとを覆い、小刻みに肩を震わせながら静かに嗚咽した。

「隠れてないで出てこいよ」
 扉の向こうから大地の大きく張り上げた声が聞こえて、澪はビクリとした。ここに留まっていることが知られたのだろうか。心臓の鼓動が激しくなるのを感じながら、出て行くべきかどうか考えていると、甲板の船尾側から乾いた足音が聞こえてきた。
「俺がいると知ったうえで、澪にあんなことを言ったのか」
「気付いたのはたった今だよ。その口ぶりだと聞いていたんだな」
 大地が話しかけた相手は武蔵のようだ。自分がここにいると気付かれていないのなら出て行く必要はない。澪は泣き濡れた頬を手のひらで拭い、そこに腰を下ろしたまま声だけでも聞き取ろうと耳を澄ました。
「今さら澪を傷つけてどういうつもりだ」
 武蔵は怒気をはらんだ低い声でそう言いながら、さらに歩を進め、大地の立っているあたりで足を止めた。二人は至近距離で対峙しているのだろう。暫しの沈黙のあと、大地は質問には答えずに露骨な挑発を口にする。
「今なら簡単に殺せるぞ。僕が憎いんだろう?」
「おまえを殺したら潜水艇は誰が操縦するんだよ」
「冷静だね」
 何を言い出すのかとギョッとしたが、大事には至らず、澪はほっと息をついて胸を撫で下ろす。確かに潜水艇で向かうには大地の操縦が必要になるが、激情に駆られれば、頭から抜け落ちてしまうことも十分にありうる。いったいどういうつもりでこんな挑発をしたのだろうか。
「おまえが何を考えているのかさっぱりわからない」
「悠人にも似たようなことをよく言われるよ」
 澪の気持ちを代弁したかのような武蔵の言葉に、大地は軽く笑って応じた。
「僕はいたって素直に生きているつもりだけどね。大切なものは自らの手中におさめておきたい、それを阻むものはたとえ誰であろうと許さない、ただそれだけのことさ。そういう欲望は誰しも持っているんじゃないかな。もちろん君も……だろう?」
「……大切なら、なぜあんなことをさせた。なぜ傷つけて平気でいられる」
 武蔵の声からは不快感が滲み出ていた。しかし、大地はまるで意に介していない。
「傷つけたというのは君の見解に過ぎない。体外受精に関しては、あくまで美咲自身の意思を尊重した結果だよ。ただ、傷つけることも厭わない気持ちは確かにある。それで自分のことが深く刻み込めるのならね。もっとも今の美咲にはそうする必要もないし、大事にしているつもりだけど、悠人は今でも随分と傷つけてる気がするな」
 悪びれもせず、クスクスと笑いながらそんなことを言う。しかし――澪は怪訝に小首を傾げた。その話からすると、手中におさめておきたい大切なものは、美咲だけでなく悠人もということになる。確かに、中学生の頃からの友人だとは聞いているが――。
「自分を刻み込みたい気持ちは、君にもわかるだろう?」
「……だが、俺はそれがエゴだということもわかっている」
「君は立派だよ。そういえば、復讐もしないんだってね」
 大地の声には揶揄するような響きが含まれていた。対照的に、武蔵はどこか苦しげな抑制した声で続ける。
「復讐は新たな悲しみしか生まない。だから絶対にするな――親代わりともいえる人にそう教えられた。そして、いかなる報復もしないという約束で、メルローズを探しに来させてもらった。だから、どれだけおまえらが憎くても報復はしない……実は最近まで納得しきれていなかったが、おまえらを見ていて実感したよ。俺の教えられたことは正しかったんだ、ってな」
 その話を聞きながら、澪は膝を抱えてゆっくりと顔を埋める。フェリー事故にさえ遭わなければ、復讐心にさえ囚われなければ、大地と美咲は普通に結婚をして幸せに暮らしていたはずだ。少なくともこんな異常な形で子供を作りはしなかった。そう考えると、自分は復讐の産物ということになるのだろう。しかも、結果的に実験にもあまり役立てなかったのだから、何のために生まれてきたのかわからない。
 しかし、大地はムッとした声で反論する。
「言っておくが、僕らはこれからを生きるために行動を起こしてきた。決して復讐というわけじゃない。おそらく溝端たちも行動原理の根本は同じだろう。あんな危険なものが存在することを知っては、恐ろしくていてもたってもいられない。だから、対処したいと思ったり、潰したいと思ったりする。自分や大切な人たちを脅威から守るためにな。そこは誤解するなよ」
「……俺も、大切なものを守るためなら、容赦はしない」
 武蔵は慎重に言葉を選びながらも言い切った。
「へぇ、宣戦布告?」
「おまえら次第だ」
 武蔵の大切なものというのは姪のメルローズだろう。これほど懸命になってくれる身内がいて羨ましく思う。私もお父さまとお母さまのかけがえのない存在になりたかった――と願うのは贅沢だろうか。たとえ家族とは認めてもらえなくても、せめて大切なものと思ってくれれば良かったのだが、先ほどの話からするとそれすらも絶望的なようだ。
「澪?」
 不意に、頭上から降ってきた声。
 驚いて弾かれるように顔を上げた澪の前には、声の主である遥が立っていた。澪はあたふたと立てた人差し指を唇に当てて見せる。聡い彼はそれだけで状況を察してくれたようだ。窓ガラス越しにちらりと外を見やったあと、無言のまま澪の手を引いて立ち上がらせ、外の二人から見えないように扉から離れる。
「武蔵も澪もいなかったから心配したけど……」
「ん、大丈夫。武蔵とは会ってもないよ」
 ほとんど抱き合うようなかたちで体を寄せ合い、声をひそめて会話する。遥の手が柔らかく背中にまわされると、澪はおずおずと彼の肩に寄りかかった。泣きはらした目を見られたくなかったので、この体勢に安堵するが、もうとっくに気付かれているのかもしれない。
「これ、父さんのだよね」
「……うん」
 尋ねられたのはアイボリーのジャケットについてだろう。澪にはまるきりサイズが合っていないことと、大地が着ていなかったことを合わせて考えれば、遥でなくともすぐに推察できる。もちろん、ジャケットを渡されたときに大地と言葉を交わしたことも。
「父さんが言ってた子供の話、何か訊いてみた?」
「そのことは……何も話してないけど……」
 訥々と答えながら縋るように彼のパーカーを握り締める。その手が微かに震えた。ゆっくりと目をつむり呼吸を整えてから言葉を繋ぐ。
「娘じゃない、家族じゃない、家族ごっこは終わりにしようって言われたの」
「……本当はわかってたよね」
 彼の言うとおり、意地になっていただけで本当はわかっていたのかもしれない。うっ、と小さく喉を詰まらせて彼の肩に顔をうずめ、声を殺してしゃくりあげるように嗚咽する。震える背中をそっと優しくさすられるのを感じ、ますます止まらなくなった涙が、彼のパーカーに落ちて静かに染み込んでいった。

「もう大丈夫。いいかげん現実を受け入れなきゃ」
 ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻すと、体を離してそう言い、にっこりと精一杯の笑顔を作ってみせる。遥を安心させようとしたのだが、彼は逆に顔を曇らせてしまった。澪の濡れた瞳をじっと見つめて口を開く。
「僕はいつまでも澪の家族だよ。だから、父さんたちはもう諦めなよ」
「…………」
 自分は実験のためだけに作られた存在で、家族としては望まれていなかった。その現実は受け止めているつもりだ。家族といえるのは、同じ境遇で血の繋がりのある遥だけだろう。ひとりぼっちでなかったことはとても心強いし、寄り添ってくれることに感謝もしている。しかし――澪は曖昧に伏せていた目をそろりと上げ、真正面から遥と視線を合わせた。
「家族にはなれなくても、お父さまやお母さまが大切な人であることに変わりはないよ……なかったことになんてしたくない。今までと少し形は変わってしまうと思うけど、これからも大切な人として接していきたい。たとえ、私のことを同じように思ってくれなかったとしても」
 言葉を噛みしめながら丁寧に主張したあと、ふっと表情を緩める。
 遥は呆れたような目つきになりながら溜息を落とした。
「……バカだね、澪は」
「そんなの今さらだよ」
 澪はおどけるように肩をすくめて笑い飛ばした。けれど遥は真顔を崩すことなく手を伸ばすと、そっと澪の頬を包み、乾ききっていない涙のあとを親指で拭う。その手は、少し泣きたくなるくらいあたたかかった。
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