東京ラビリンス

瑞原唯子

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24. 覚悟の行方

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 その朝は、穏やかに幕を開けた。
 レースカーテン越しの柔らかい光に包まれながら、誠一は小さな丸テーブルの前に座り、ホットコーヒー片手に取ってきたばかりの朝刊を広げる。そして、オーブントースターがチンと音を立てると、焼き上がったトーストにたっぷりとマーガリンを塗って口に運んだ。何の変哲もない平凡な日常である。しかし、何気なくリモコンを手にとりテレビをつけると――。
「……えっ?!」
 その画面に浮かび上がってきたのは、澪の写真と、鉛筆で描かれた男の似顔絵だった。次の瞬間、画面は記者会見の映像に切り替わる。その中央でフラッシュを浴びている人物は、澪の祖父であり橘財閥会長でもある橘剛三だ。画面を見つめる誠一の手から、食べかけのトーストが滑り落ちた。
『昨夜、孫娘の澪が誘拐された。犯人はこの男だ』
 剛三はそう言うと、先ほど映し出された鉛筆描きの似顔絵を掲げた。
『マスコミの皆さんにもお配りしますので、どうか情報提供を呼びかけてほしい。そして、テレビでご覧になっている皆さん、この男や澪に関する目撃情報など、あればぜひ情報を寄せてほしい。澪を無事救出できたあかつきには、有益な情報提供をしていただいた方に、私の気持ちとして三億円をお支払いしましょう』
 会見の場がどよめく。
『どうか、孫娘の救出に力をお貸しください』
 剛三が立ち上がって深々と頭を下げると、画面が白くなるほどの無数のフラッシュが焚かれた。

 誠一は一通りチャンネルを変えてみたが、ほとんどの番組がこの話題で持ちきりだった。どうやら実際に今朝行われた会見らしい。現実であると認識するにつれ、顔からは血の気が引き、指先の震えは大きくなっていく。丸テーブルに置いてあった携帯電話を手に取ると、幾度も操作を間違えながら澪の携帯電話に発信した。
 トゥルルルル、トゥルルルル――。
 呼び出し音に呼応するかのように、鼓動は次第に速さを増していく。おそらく留守電になるだろう。そう思いながらも、心のどこかで期待する気持ちは打ち消せない。
『……誠一?』
 五度目の呼び出し音のあとに聞こえたその声は、留守電ではないが、澪のものでもない。
「君は、遥か?」
『テレビ見たんだね』
「ああ、澪が誘拐って……」
『本当だよ』
 遥の声はいつもと変わらず醒めていた。そのことが、なおさら誠一の焦燥を煽り立てる。
「犯人はあのときのバイクの男なんだろう? あいつの目的は何なんだ? 身代金の要求はあったのか? どういう状況で攫われたんだ? 正体はわかっているのか? 澪の無事は確認できているのか? 何でもいいから教えてくれ」
 似顔絵については二つの心当たりがあった。そのうちの一つが、バイクを止めて遥を凝視していた男である。似顔絵に描かれた射抜くような鋭い目は、フルフェイスから覗いたあの目と酷似している。もし、本当に同一人物であるならば、遥の懸念が現実になったということだ。誘拐の話を聞いたときに、何かできることがあったのではないか、何か対処すべきだったのではないか――後悔と自責の念が大きな波になって押し寄せる。
 暫しの沈黙のあと、遥が口を開いた。
『澪は、僕たちが必ず救出する。だから――』
 遥の言葉が不意に途切れ、まもなく別の声が聞こえた。
『南野さん、楠です』
「あ、はい……」
 楠悠人は澪たちにとって保護者同然の人物である。そして、自身が澪と結婚することを望んでおり、誠一と澪の交際に良い感情を持っていない。当然、この電話も拒まれるものと思ったが――。
『もし、あなたに覚悟があるのでしたら、すべてをお話しします』
「えっ……それは、どういう……」
『あなたがこれまで信じてきたものが、何もかも壊れることになるかもしれません。澪とも、これまでどおり付き合えなくなる可能性があります。その覚悟がないのでしたら、黙って澪が戻るのを待っていてください。私たちが必ず救出します』
 悠人の言っていることは正直よくわからなかった。ただ、以前に澪から聞いた「家の事情」という言葉が頭をよぎる。そのことと今回の誘拐事件が何か関係しているのだろうか。知ってしまうのが怖いという気持ちはあるが、ここまで思わせぶりに言われて、敢えて目をそむけるなど出来そうもない。
「……聞かせてください」
『わかりました。電話ではなく直接お話ししたいので、お手数をお掛けしますが、今から橘の家までお越しください。正面にはマスコミが大勢集まっていますから、裏口の方をご案内します』
「よろしくお願いします」
 誠一の携帯電話を握る手に力がこもる。たとえどれだけ思案したとしても、結局は同じ決断を下しただろう。それでもこれで良かったのか自信はなく、迫りくる不安と早すぎる後悔が、胸中で重い唸りを上げるように渦巻いていた。

「どうぞ、こちらへ」
 誠一は指示された裏口から橘家を訪れ、待ち構えていた悠人に応接間へと通された。以前にもここで悠人と話をしたことがある。そのときと同じように、ローテーブルを挟んで革張りのソファに腰を下ろした。悠人の隣には遥が座る。誠一は緊張のせいか喉が張りつくように感じ、意識的に唾を飲み込んだ。
「南野さん、今日のお仕事は?」
「午前中だけ休みをいただいてきました」
「急にお呼び立てして申し訳ありません」
「いえ……」
 聞かせてほしいと言ったのは誠一の方だ。社交辞令とわかっていても、そういう言い方をされては恐縮してしまう。落ち着かずにそわそわしていると、悠人は怖いくらいの真剣な眼差しになり、誠一の双眸を真正面から鋭く射抜いた。
「今から話すことは他言無用に願います」
「……わかりました」
 彼の有無を言わせない雰囲気に圧倒され、誠一は体を硬くした。
 その間、遥は終始無言のまま不服そうに顔をしかめていた。しかし、気付いているのかいないのか、悠人はまるで意に介していないように見える。脚の上でしっかり両手を組み合わせると、小さく息をつき、真剣な表情を崩すことなく語り始めた。

 話を聞いている間、誠一は何も口を挟むことが出来なかった。
 怪盗ファントムは先代から橘家がやっていたこと、それを警察上層部が黙認していること、代わりに公安の手伝いをしていること、母親の美咲が行っていた人体実験のこと、父親がその関係で公安に連行されたこと、突然現れた謎のバイク男に澪が拉致されたこと、そのバイクが崖から海に転落していたこと――。

「大丈夫ですか、南野さん」
「…………いや、はい……」
 吐き気がこみ上げるくらいの酷い目眩、頭の中をかき混ぜられるような感覚。雑多な感情の渦に飲み込まれ、自分の気持ちがわからなくなっていた。それでも、必死にどうにかして整理をつけようとする。
 警察が怪盗ファントムを黙認していたことについては、やはりそれなりに衝撃を受けたし怒りも感じる。しかし、警察を汚れなきものと信じるほどの純粋さは持ち合わせておらず、特に公安絡みということであれば、善悪は別にして十分にありうる話だろうと腑には落ちた。
 それよりも、問題は澪の方である。
 澪と遥が怪盗ファントムをやっていたのは、家族である祖父に懇願されてのことだ。つまり「家の事情」である。遥はどうだかわからないが、澪の方は間違いなく悩んでいた。そのうえ、研究所で行われていた残酷な事実を突きつけられ、なおかつそれを自らの手で曝くなど、母親を尊敬していた彼女にはつらすぎる現実だろう。挙げ句、正体不明の危険な男に拉致され、さらに事故に遭ったかもしれないだなんて――。
「何か、手がかりは……」
「いま探しているところです。我々は、澪の生存を信じています」
 悠人は寸分の迷いも見せずに断言した。もちろん誠一も信じたいとは思っているが、あまりにも悪い状況が重なりすぎて、どうしても暗澹とした気持ちにならざるを得ない。悠人から聞いた話だけでも十分に悪夢のようだが、さらに、おそらく彼らは知らないであろう絶望的な情報があるのだ。
「もしかしたら、澪を攫った男は指名手配犯かもしれません」
 そのことを告げると、正面の悠人と遥は小さく息を飲んで目を見開いた。
「それは、どういうことでしょうか」
「私が刑事になって間もないころですから……今から約5年ほど前のことになりますが、指名手配犯としてあの男の写真がまわってきました。写真の方では金髪碧眼だったのですが、顔は同じですし、同一人物の変装で間違いないと思います。ただ、直後に指名手配そのものが撤回され、記録からも跡形なく抹消されたようです。先輩は、公安に持って行かれたんだろうと言っていました」
 話を聞くにつれ、悠人の表情は険しさを増していった。
「彼の容疑は?」
「……手配書には、殺人と」
 口にすることであらためてその深刻さを思い知った。誠一の指先は冷たくなっていく。悠人と遥の顔面からは血の気が失せているように見えた。次第にうつむきぎみになる三人に、息の詰まるような重たい空気がのしかかった。
 悠人は顔を上げると、切迫した眼差しで訴える。
「南野さん、どうか澪を救うため我々に力をお貸しください。そのためにすべてをお話ししました……犯罪者に協力できないとおっしゃるなら、諦めるより他にありませんが」
「いえ、手伝わせてください」
 孫たちに犯罪を無理強いした橘会長や、それを止めなかった悠人には、言い様のないくらい腹立たしさを感じている。それでも、一刻も早く彼女を救出するためには、彼らに協力するのが最善だと判断した。
 悠人は静かに頷く。
「南野さんにお願いしたいことは一つだけです。警察内部の情報を提供してください。ただし無理をする必要はありません。普通にしていて耳に挟んだ話、感じ取った雰囲気、捜索の動きなどを教えてほしいのです」
「わかりました。ただ……」
 誠一はそう言い淀み、眉根を寄せる。
「公安が絡んでいるとなると難しいかもしれません。あそこの情報は厳重に管理されていますし」
「研究所については公安の案件ですが、澪が連れ去られたのはまた別の話です。少なくとも表向きには。おそらく警視庁の方でも何らかの動きはあるでしょう。世間の目もありますし、完全に無視するようなことはないはずです」
「あ、それであんな会見を……」
「我々は藁にも縋りたい思いなのです。南野さん、どうかよろしくお願いします」
 悠人はそう言うと、ローテーブルにぶつかりそうなくらい深々と頭を下げた。
 誠一は居たたまれなくなって自分の手元に視線を落とす。
「どれだけお役に立てるか、わかりませんが……」
「くれぐれも無理はなさらないでください。澪を悲しませたくありませんので」
 悠人の顔にうっすらと自嘲の笑みが浮かんだ。その表情に、その言葉に、彼の胸中に渦巻いている様々な葛藤が窺える。それでも、澪を救出したいという強い気持ちは揺るがないだろう――誠一は彼を見据えたまま、ゆっくりと口を引き結んで頷いた。

「南野!」
 誠一が捜査一課のフロアに向かっていると、背後からよく通る大きな声で呼びかけられた。その特徴的な声だけですぐに誰だかわかる。誠一は早足で近づいてきたその人物に振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「岩松さん、急に休んですみませんでした」
「それは構わんが……おまえ、大丈夫なのか?」
 先輩刑事の岩松が、気遣わしげな眼差しで言葉を選びながら尋ねる。どうやら澪の誘拐にショックを受けて休んだと思っているようだ。同僚たちの中では、彼だけが誠一と澪の交際を知っているのである。
「大丈夫です」
 誠一はしっかりと答えてみせる。しかし、岩松は微妙な面持ちになった。
「おまえもわかっているとは思うが、半端な気持ちで出来る仕事じゃない。澪ちゃんのことでいつも通りの仕事が出来ないのなら帰った方がいい。責めているわけじゃないんだ。おまえ自身のためであり、俺たち仲間のためでもある」
「問題ありません」
「そうか……」
 完全には納得していないようだが、それ以上の追及はしてこなかった。ただ疲れたように小さく吐息を落とすと、左手を腰に当て、右手で緩く頭を掻きながらぽつりと言う。
「澪ちゃん、無事だといいな」
「澪は大丈夫です、絶対に」
 誠一は自らに言い聞かせるようにそう答えた。岩松は頷き、たくましい大きな手で誠一の頭を撫でまわす。おかげで硬めの髪はぼさぼさになってしまった。いつもなら文句を言っているところだが、今はその手から伝わる仄かな温もりが有り難かった。

「誘拐じゃなくて駆け落ちなんじゃないですかね」
 扉を開けた途端、遠慮のない声が誠一の耳に飛び込んできた。同僚たちが簡単な昼食をとりながら歓談していたようだ。話題は今朝報道された澪の誘拐についてだろう。捜査一課の連中はほとんどが澪と顔見知りなので、他の事件よりも興味をひかれるのは当然といえる。ただ、話の内容については飛躍しすぎと云わざるを得ない。
「確かに、腑に落ちない点は多いけどな」
 同僚の一人である田辺は、難しい顔で考え込みながら相槌を打った。それを聞いて、駆け落ち説を唱えた笹原はパッと顔を明るくし、わが意を得たりとばかりに勢いづいて畳みかける。
「橘会長は誘拐されたと言ってましたけど、犯人側からの要求は何もないようですし、相手の顔がわかってるということは、誰かが現場を目撃してるはずなのに、その状況について話さないのも不自然ですよね」
「俺としては、澪ちゃんが駆け落ちだなんて信じたくないなぁ」
 今まで黙っていたお調子者の遠藤が、盛大に溜息を落としながら頬杖をついた。見るからに意気消沈している。澪のファンだと公言して憚らない彼ならば、誘拐はもちろんだが、駆け落ちであったとしても喜べはしないだろう。
 ふと、田辺が思いついたように尋ねる。
「むしろ、ストーカーの方がありえるんじゃないか?」
「ストーカーだったら隠さずそう言ってるはずですよ」
「それもそうか……」
 笹原に指摘され、彼はまた難しい顔に戻ってうつむく。
 誠一は心情的にも立場的にも話に巻き込まれたくなかった。だからといって、あからさまに逃げ出すわけにもいかず、素知らぬ顔を装ってこっそりと自席に着いた。しかし、田辺は目ざとく見つけて話を振ってくる。
「南野、おまえも心配だろう? 澪ちゃんのこと」
「あ、ええ……」
「けっこう懐かれてたもんな」
 一時期、澪は頻繁にこのフロアを訪れていて、誰にでも人懐っこく接していたが、中でも誠一にはいちばん懐いていた――というのが、当時の捜査一課における共通認識である。二人の様子は、あくまで懐くという言葉通りの微笑ましいものであり、その後この二人が付き合っているとは考えもしないだろう。岩松には知られてしまったが、基本的には誰にも知られてはならないことだ。だから――。
 決して、駆け落ちなどではない。
 悠人から聞かされた事の顛末からも明らかだが、加えて、誠一にはそう確信するだけの根拠がある。だが、どちらも口にできない以上、笹原の説に反論することはできない。やり場のないモヤモヤした気持ちを抱えたまま、ただ言葉少なに話を合わせて頷くだけだった。

「南野!!」
 遠くから切羽詰まった声で呼ばれ、誠一は弾かれるように立ち上がった。声の主は捜査一課長である。思わず後ずさりたくなるような凄まじい形相で、勢いよくこちらに向かって歩を進めている。誠一は思わずビクリとして顔をこわばらせながらも、慌ててペコリと頭を下げた。
「すみません、急にお休みをいただいて……」
「おまえ、いったい何をやらかしたんだ?!」
「えっ?」
 困惑する誠一に、課長は大きく息をついてからあらためて切り出した。
「たった今、おまえに辞令が出た」
「辞令? 聞いてないですけど……」
「私もさっき知らされたところだ」
 彼は苛立ち露わにそう言うと、手にしていた辞令書らしき紙を突きつける。
 誠一は怪訝に思いながらも丁寧に一礼し、両手でそれを受け取った。確かに宛名には「南野誠一」と入っており、自分への辞令で間違いないようだ。しかし――。
「……なんですか……これ……」
 それは、常識的に考えれば到底ありえない内容だった。硬直した身体からじわりと嫌な汗が滲み、紙を持つ手は微かに震え始める。意識的にゆっくりと深呼吸をしてから、あらためて読み返してみたが、やはり見間違いというわけではなかった。
 本日付で警察庁への出向を命じる――。
 その短い文面に大きな力の存在を感じ、誠一はごくりと唾を飲んだ。
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