東京ラビリンス

瑞原唯子

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10. 嘘

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「知らなかったなぁ、誠一が絵に興味あったなんて」
 久しぶりに二人の休日が重なったとある日曜日、澪と誠一は、都立西洋美術館のイタリア・ルネサンス美術展に向かっていた。誠一の提案である。たまには美術館で絵画鑑賞するのもいいんじゃないかと言われ、澪も賛成したが、彼らしからぬその高尚な発言については少し驚きを感じていた。
「誠一が興味あるのってエッチなゲームくらいかと思ってたのに」
「それを蒸し返すなって……」
 誠一は苦笑すると、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで空を仰いだ。
「実はそこまで絵に興味があるわけじゃないんだよな。今まで美術館なんて数えるほどしか行ったことないし。今回、ルネサンス展を見に行く気になったのは、たぶん怪盗ファントムの影響なんだろうなぁ」
「えっ……?!」
 唐突に出てきたその名前に、澪の心臓はドクンと跳ねた。
「澪も知ってるよな? 世間を騒がせている絵画泥棒」
「うん、聞いたことはあるよ」
 早鐘のようにドクドクと脈打つ鼓動を抱えつつ、なるべく冷静に答えようとしたが、その声は若干ぎこちないものになってしまった。だが、誠一に気付いた様子はなく、前を向いたまま淡々と話を続ける。
「そいつに関連して、最近テレビや雑誌でよく絵画の特集が組まれててな。あれこれ見ているうちに、何となく興味を惹かれるようになったんだよ。そういうのは俺だけじゃないみたいで、美術館の入場者数はどこも増加傾向らしい。だからといって、怪盗ファントムを容認するわけにはいかないけども」
 怪盗ファントムを容認しない――警察の人間としては至極まっとうな発言である。彼がそう考えるだろうことはわかっていたし、覚悟もしていたつもりだったが、それでもはっきり口にされると居たたまれない気持ちになる。
「もし、美術館でファントムと鉢合わせしたらどうするの?」
「もちろん捕まえるさ」
 誠一は力強く断言する。が、すぐに微笑んで振り向いた。
「といっても今日は来ないだろうし、心配しなくても、俺たちのデートが邪魔されることはないよ」
 無論、澪が心配しているのはそういうことではない。だからといって訂正するわけにもいかず、うつむいたままハンドバッグを後ろに持ち直し、そうだといいんだけど……と曖昧に言葉を濁した。
「怪盗ファントムは予告なしに盗まないから大丈夫だよ。美術館が通報してない可能性もないとはいえないけど、少なくとも都立西洋美術館というのはありえないだろうな」
「え? どういうこと?」
 澪は瞬きをしながら顔を上げた。
「怪盗ファントムがこれまで盗んだ絵画は、すべて近代日本人作家の作品なんだよ。先代のときからずっとね。だから、西洋美術しか扱っていない都立西洋美術館には、怪盗ファントムの目当てとなるものはないはずなんだ」
「へぇ……」
 先代のことはよく知らないが、澪たちがこれまで盗んだものは、確かにすべて近代日本人作家の作品である。ただ、獲物を決めているのは祖父であり、澪はそのことに気付きもしなかった。
「もうひとつ豆知識」
 澪の感嘆したような反応が嬉しかったのか、誠一は人差し指を立てて声を弾ませる。
「怪盗ファントムは東京都内でしか活動してないらしいよ。たぶん東京都民なんだろう。自分の土地勘のあるところだけに標的を絞っているという説が有力だ。やることは大胆なくせに、意外と慎重なところがあるんだよな……だから捕まらないんだろうけど」
 またしても誠一から知らない話を聞かされる。核心に迫るような内容ではなく、ただの事実と分析でしかないが、澪の不安を煽るには十分だった。
「誠一、ファントム担当じゃないよね?」
「仕事は関係ないよ」
 誠一は苦笑しながら答えた。それから、少し表情を和らげて続ける。
「刑事が言うのは問題かもしれないけど、実は俺、子供のころ怪盗ファントムに憧れてたんだよ。テレビのニュースとか食い入るように見ててな。もっとも、そのころはまだ怪盗の意味もよくわかってなかったし、単純に見た目やパフォーマンスが好きだったってだけの話だけど」
「そ、そう……」
 澪の顔が僅かに引きつった。よりによって最も親しい人のひとりが、子供の頃のこととはいえ、怪盗ファントムに憧れていただなんて――いや、子供の頃だけなら問題はなかった。さすがにもう憧れてはいないだろうが、今でも関心はあるらしく、怪盗ファントムの動向には注目しているようだ。これではちょっと下手をするだけで正体を疑われかねない。ただの雑談でも上手く対処できる自信がないのに、核心を突かれでもしたら、嘘をつくのが苦手な自分ではごまかしきれないだろう。
「もしかして、呆れてる?」
「えっ?」
 誠一の声で現実に引き戻された。苦笑を浮かべる彼を目にすると、慌ててふるふると首を横に振る。
「そうじゃなくて……遥も同じようなこと言ってたから、ちょっとビックリしちゃっただけ」
「遥が? そっちの方が意外だな」
 これがきっかけとなり、話題は怪盗ファントムから遥へと移っていく。遥は何を考えているのかわかりづらいだけに、誠一もいろいろと気になってしまうのだろう。おかげでなんとかこの状況を乗り切れそうで、澪は密かに安堵するが、同時に小さく刺すような痛みが胸に走った。

「やっぱりけっこう人が来てるね」
 美術館の正面は、小学生からお年寄りまで多くの人たちで賑わっていた。二つあるチケット売り場にも列が出来ている。誠一の言うように怪盗ファントムの影響もあるのかもしれないが、このイタリア・ルネサンス美術展には世界的に有名な作品が展示されており、絵画や美術に詳しくなくても興味を惹かれる人は多いのだろう。
 誠一が前売り券を持っていたので、チケット売り場ではなく直接入口の方へ向かう。そこにも多少の列はできていたが、進みは早く、ほとんど待つことなく入れそうだった。二人はその最後尾に並び、ほどなくして受付まで来ると、誠一は係の女性に前売り券二枚を手渡した。
 ――瞬間。
 澪たちの背後を何かが勢いよく通り抜けていった。つむじ風が起こり長い黒髪を舞い上げる。不思議に思いながら美術館内に振り向くと、その視線の先には――。
「怪盗ファントムだ!!」
 館内にいた誰かが叫んだ。黒いジャケットとプリーツスカートを身につけた人物が、長い黒髪を大きくなびかせながら、唖然とする人々の間を、素早い身のこなしで縫うように突っ切っていく。
 それを目にするやいなや、澪は我を忘れて駆け出した。
「おい、澪!」
 呼び止める誠一の声も耳に入らない。脇目もふらず、黒い背中だけを追って全力疾走する。
 すぐに距離は縮まる。
 後ろからジャケットの腕を掴んでうつぶせに引き倒すと、手首をねじり上げながら馬乗りになり、もう片方の手を背中側に押さえつけた。顔を覆っていた白い仮面は、床に倒れた衝撃で顔から外れ、カラカラと軽い音を立てながら滑るように転がっていく。
 あっというまの出来事だった。まわりはみな怪訝な顔をしている。
「澪! 大丈夫か?!」
 少し遅れて誠一が走ってきた。その手には澪の白いハンドバッグが握られている。追いかけるときに思わず放り投げたのを、彼が拾ってきてくれたのだろう。
「うん、私は平気」
 澪は拘束の手を緩めることなく、小さく微笑んで答える。
 誠一はそれを目にしてほっと息をついた。両手を腰に当て、まじまじと二人の姿を見下ろして言う。
「しかし、まさか怪盗ファントムを捕まえるとはな」
「……えっ?」
 澪はあらためて捕らえた人物に目を落とす。見事なくらいに怪盗ファントムそっくりの衣装を身につけているし、髪型もほぼ同じといってもいいくらいだが、自分でなく、遥でもなく、全くの見知らぬ女性である。
「違うの! この人はただのニセモノ……よね?」
「そうだけど悪い?! 放してよ! 痛いじゃない!!」
 彼女は横目でキッと睨みつけながら、じたばたして拘束を振り払おうとするが、澪は逃さないようしっかりと握りしめる。先ほどの身のこなしからすると運動神経は悪くなさそうだし、女性にしては腕力もある方だと思うが、この体勢ではどう足掻いても澪から逃れることはできないだろう。
「だよなぁ、ファントムにしちゃあ、脚が太いと思ったんだ」
 澪たちを取り囲んでいた野次馬のひとりが、両手を腰に当てながらそう言って、ガハハと豪快に笑い声を響かせた。つられるように、あちらこちらで遠慮がちに失笑が起こる。
「脚だけじゃなく全体的に太めなんだよな」
「それに本物はもうちょっと背が高いだろ」
「そうそう、顔はもっと小さいよな」
 今度は若い男性たちのグループが、口々にそんなことを言い始めた。
「悪かったわね!!」
 偽ファントムは頭から湯気が立ちのぼりそうなくらい真っ赤になっていた。自業自得といえばそうなのかもしれないが、さすがに同じ女性として気の毒になり、澪は同情的な眼差しを彼女に送る。しかし――。
「どちらかっていうと、こっちの嬢ちゃんの方がファントムっぽいよな」
 突然、野次馬の矛先は澪に向けられた。一瞬、澪は何を言われているのか理解できず、指をさされたままぽかんとするが、その意味に気付くと大きく息をのんで目を見開いた。
「私?! ちょっとそれ絶対に違いますから!」
「おいおい、そんなにムキになって否定することもないだろう。嬉しくないのか? 怪盗ファントムって、巷じゃスタイル抜群の美少女怪盗とか言われてるんだぞ?」
「嬉しいわけないじゃない! は、犯罪者なんだからっ!!」
 澪は顔を上気させて必死に反論したが、なぜか相手の男性は腰を屈めて噴き出した。
「確かにそうだ、悪かった悪かった。にしても真面目な嬢ちゃんだなぁ」
 彼が陽気にそう言うと、まわりもつられて笑い出した。誠一も一緒になって笑っている。どうやら疑われているわけではないようだ。そのことについては胸を撫で下ろしたものの、些かムッとし、偽ファントムを掴む手に無意識に力が込もった。
「痛っ! いつまでこうしてるつもり?! いいかげん放しなさいよ!」
 偽ファントムが再びじたばたと喚き始めた。
「もともと何も盗むつもりはなかったの! ただの大学サークルの余興よ! 怪盗ファントムの格好で美術館を一周してくることになって、私は先輩の命令で仕方なくやっただけなんだから」
「大学生にもなって、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか」
 誠一は説教じみた口調でそう言いながら、ブルゾンの内ポケットから携帯電話を取り出した。それを見た偽ファントムの顔がさっと青ざめる。
「ちょっとやめてよ! 何も盗んでないじゃない!!」
「でも君、入場料、払ってないよね?」
「は?!」
 彼女は全力で目を丸くした。
「払うわよ、払えばいいんでしょう!」
 やけっぱちのように声を張り上げる彼女に、誠一は冷ややかな視線を投げかけた。再びブルゾンの内ポケットに手を差し入れると、黒い手帳を取り出して開き、床に倒された彼女の鼻先にそれを掲げる。
「警視庁捜査一課の南野だ」
 偽ファントムはぎょっとして目を見開き、絶句した。野次馬たちからは「おおー」と感嘆の声が上がる。誠一は警察手帳をしまうと、手にしていた二つ折りの携帯電話を開いた。
「君が本物か偽物かもまだわからないからな」
「サークルの余興だって言ったでしょう?!」
「言いわけは取り調べのときにしてくれ」
 そう言うと、素早くいくつかのボタンを押して携帯電話を耳に当てる。観念したのか、彼女はぐったりとうなだれ、もう暴れることも騒ぐこともなくなった。
「捜査一課の南野です」
 おそらく警視庁のどこかに電話したのだろう。ここでの出来事や現在の状況などを的確に説明していく。普段はほとんど意識していないが、こういう一面を見ると、やはり誠一は刑事なのだと実感させられる。タイル張りの床に押さえつけられた偽ファントムの後ろ姿が、おぼろげに自身と重なり、澪はその手首を掴んだままきゅっと口を引き結んだ。

 その後、何人もの刑事がやってきて、仰々しく容疑者を連行していった。
 これでようやく誠一と美術館を見てまわれる――と思ったのだが、調書を作成する必要があるとのことで、誠一と澪も警視庁へ連れて行かれることになった。今日のデートはもうおしまいだろう。澪はやるせない溜息をつきながら、用意された車に乗り込んだ。隣の誠一も残念そうに苦笑していた。
 調書の作成は十数分で終わった。
 澪が調書をとられるのはこれで二度目である。一度目は誠一と出会うきっかけとなった事件だが、そのとき捜査一課の刑事たちと知り合いになり、一時期はよく差し入れを持って遊びに行っていた。ただ、今回は担当の課が違うらしく、見知った刑事はひとりもいなかった。
 自宅まで車で送るという担当者の申し出を断り、澪は応接室で誠一を待たせてもらうことにした。彼は取り調べに立ち会っているので時間がかかると聞いたが、このまま一人さびしく帰ろうという気にはなれない。出されたお茶とお菓子に手を伸ばしながら、ぼんやりと今日の出来事を振り返っていた。
 ふと、携帯電話がマナーモードのままだったことを思い出す。
 確認するといくつかの着信履歴があった。自宅の固定電話と、悠人の携帯電話からだ。
 まず自宅の方に電話をすると、執事の櫻井が大袈裟なくらいに心配していた。すでに警察の方から連絡がいっていたようで、怪我もなく無事だということも、調書をとるだけということも聞いていたが、それでも澪の元気な声を聞くまでは安心できなかったらしい。澪は明るく笑い飛ばすように無事を強調し、少し遅くなるかもしれないと伝えて電話を切った。
 その後、すぐに悠人から電話がかかってきた。櫻井から伝え聞いたそうで、一連の事情は把握していた。さすがに落ち着いてはいたが、心配していることは伝わってくる。ただし、それは澪自身に対してというより、澪の置かれた状況に対してのようだ。偽者とはいえ怪盗ファントム関連の事案で、警察に関わっているとなれば、彼の不安もわからなくはない。
「でも、本当に今日の事件のことしか言ってませんから。信じてくれないんですか?」
『信じたいのは山々だけどね、澪は墓穴を掘っても気付かないところがあるからな』
「ちょっ、いくらなんでもそこまでひどくありません!」
 思わずむきになって言い返すと、電話の向こうで悠人がくすくすと笑い出した。
『じゃあ、とりあえず信じることにするよ。まだ帰れないのか?』
「あ……うーん……もう少し、かな?」
 誠一のことを話すわけにはいかず言葉を濁す。あとどのくらいかかるのか、澪には見当もつかない。
『今なら抜けられそうだから迎えに行くよ』
「えっ?!」
 澪は素っ頓狂な声を上げて、ソファから飛び上がった。携帯電話を耳に当てたままあたふたする。
「あ、えっと、でも友達と一緒だから……」
『もちろん友達も乗せていってあげるよ』
 下手なごまかしのせいで、ますます難儀な展開になった。誠一と悠人を会わせるわけにはいかない。どうにかしてこの危機的状況を回避しなければならないが、焦れば焦るほど頭が混乱して考えがまとまらない。携帯電話を持つ手がじわりと汗ばんでくる。
『友達って、彼氏?』
 沈黙を破ったのは悠人だった。
 いきなり図星を指されて心臓が止まりそうになったが、もう言い抜けられないと思い、澪はこくりと頷きながら小さく肯定の返事をする。受話器の向こうから微かな吐息が聞こえた。
『わかった。あまり遅くならないうちに帰ってこいよ』
 悠人は怒ることも責めることもなく、それ以上の干渉をすることもなく、ただ保護者として最低限の言葉だけを返した。その静かな声に胸を衝かれ、澪は携帯電話を耳に押し当てたまま目を伏せる。
「ごめんなさい」
『別にデートを禁止した覚えはないよ』
「そうじゃなくて、嘘をついたから……」
『澪に嘘をつくことを強要している僕が、それを咎めるわけにはいかないだろう。どうせならもっと上手く嘘をついてくれ。ごまかし方が下手すぎて心配になってくるから』
 悠人は冗談めかしてそう言った。
 澪は今さらながら心苦しさを感じてうつむく。どうして信じられなかったのだろう、妨害しないと言ってくれた彼とその言葉を。彼がそんなことをする人ではないとわかっていたはずなのに。長い黒髪がさらさらと肩から落ち、カーテンのように視界を遮った。
『澪、好きだよ』
 まるで心情を察したかのような不意打ちに、不覚にもドキリと心臓が跳ね上がる。こんなときにこんなことを言うなんて反則だ。耳元を赤く染めながらも、思いきり眉をひそめて口をとがらせる。
「……あの、少しは自重してください」
『かなり自重しているつもりだけどね』
 悠人はしれっと答える。その悪びれない態度は腹立たしいが、冷静に考えてみれば、確かにそうかもしれないと思う。澪と二人きりのときにしか、そういう一面を見せないのだから。
「……もう、切りますよ」
『ああ、彼氏によろしくな』
「言いませんから!」
 澪は思わずカッと声を荒げて言い返し、携帯電話を切った。ふぅと細く息を吐きつつ折り畳む。
 悠人はまったく諦めていない。
 今後もこういうことが続くのだろうか。そして、いずれは彼の望むとおりになってしまうのだろうか――静かに語られた真摯な想い、燃えたぎるような眼差し、重ねられた唇の感触が、その熱とともによみがえってくる。無意識に、人差し指が唇をなぞっていた。
「ひゃあ!」
 ガチャリ、とすぐ後ろで扉が開き、澪は飛び上がりそうになった。バクバクと暴れる鼓動を抱えて振り返ると、そこには目をぱちくりさせている誠一が立っていた。
「どうしたんだ?」
「ううん、何でもない。ちょっと考えごとをしてたから」
 澪は小さく肩をすくめて取り繕うと、携帯電話をそっとポケットにしまった。
「もう帰れるの?」
「ああ、長いこと待たせて悪かったな」
 少し疲れた様子ながらも、誠一は笑顔を見せて答えた。
 それだけで、もやもやした気持ちが晴れていくようだった。今はもう余計なことを考えたくない。澪はソファに置いたハンドバッグとコートを掴み取ると、戸口で待つ彼のもとへ一目散に駆けていった。

「どうやらサークルの余興というのは本当みたいだな」
 二人並んで廊下を歩いていると、誠一は当然のように偽ファントムの話を切り出した。澪としてはなるべく避けたかったのだが、急に話題を逸らすのも不自然だと思い、とりあえずおとなしく耳を傾けることにした。
「サークル仲間や友達からも証言をとったが、すべて偽ファントムの供述と一致している。本当に美術館を一周するだけのつもりだったんだろう。念のため、これから関係各所の家宅捜索をしてくるとは言っていたけど」
「へぇ、そこまでするんだ……」
「怪盗ファントムの格好をしてたから一応な」
 警察が慎重になるのも当然かもしれない。すでに幾度となく怪盗ファントムにしてやられており、警察の威信も失墜しかけている今の状況では、どんな些細な可能性でも無視できないのだろう。
「残念だったな」
「えっ?」
「本物だったら、また表彰してもらえたのに」
「ああ……そんなのは別にいいよ」
 そのことだったのかと安堵して、澪は苦笑を浮かべる。誠一と出会うきっかけとなった事件、つまり逃走中の殺人犯を取り押さえたことで、澪は警視庁から感謝状を贈られていた。もし怪盗ファントムを捕まえたとなれば、再び感謝状を贈られることは間違いない。ただ、それは絶対にありえないことなのだが――。
「おう、南野じゃないか!」
 通りかかった一室から出てきた体格のいい男性が、豪快な声を廊下に響かせた。誠一の先輩刑事の岩松である。澪とも顔見知りであるが、間に誠一を挟んでいるため気付いていないようだ。分厚いファイルを脇に抱え直しながら、不思議そうに誠一を見下ろして尋ねる。
「おまえ、こんなところで何やってんだ? 今日は非番だろう?」
「そうなんですけど、美術館で偽ファントムを捕まえてしまって」
 誠一は慌てもせずさらりと答えた。
「なんだ、あれを捕まえたのはおまえだったのか」
「あ、いえ、正確には自分ではなくて……」
「お久しぶりです、岩松さん!」
 そう言いながら、澪は誠一の背後からひょっこり飛び出した。
 岩松の顔にぱっと笑みが広がる。
「澪ちゃんじゃないか。久しぶりだなぁ! ぱったり来なくなって寂しかったぞ」
 もともと誠一に振り向いてほしいがゆえに通っていたので、目的を達成してその必要がなくなったわけだが、岩松を始めとする仲良くなった刑事たちに会いたい気持ちはあった。それでもあえて行かなかったのは、誠一と付き合っていることを隠しておける自信がなかったからである。当然ながらそんな理由を口にできるはずもなく、澪は曖昧にごまかし笑いを浮かべるしかなかった。
「もしかして澪ちゃんが捕まえたのか?」
「あ、はい、偶然出くわしちゃって」
 そう答えると、岩松の顔がふと心配そうに曇った。澪の頭に大きな手を置いて覗き込む。
「あまり無茶するんじゃないぞ?」
「気をつけます」
 澪は小さく肩をすくめる。その答えに満足したように、岩松はにっこり頷いて体を起こした。そして、やにわに不思議そうな顔になると、腰に手を当て、並んだ二人をあらためて交互に見ながら言う。
「それで、なんでおまえら一緒なんだ?」
「美術館で偶然会ったんですよ」
 ギクリとした澪とは対照的に、誠一はいたって冷静に答える。それは、警視庁に来る前に二人で示し合わせたことで、偽ファントム担当の刑事たちにも同じ説明をしていた。彼らには特に疑われることはなかったが、岩松には引っかかるものがあったようだ。
「偶然?」
「本当に偶然です!」
 澪は前のめりになって力説した。岩松は眉をひそめて考え込むと、ゆっくりと視線を戻す。
「もしかして、澪ちゃんの好きな人って南野だったのか?」
「ちっ、違いますよ! 全然まったく違いますっ!!」
 確かに「好きな人がいる」と岩松に言ったことはあったが、一年以上も前の話であり、そんなことをよく覚えているものだと変に感心してしまう。しかし、いくら図星でも認めるわけにはいかない。瞳の奥をじっと探るように見つめられ、ますます必死になって首を横に振る。
「本当に違うんですって!」
「澪、もういいよ」
 誠一は溜息まじりにそう言うと、真剣な面持ちになって岩松に向き直る。
「すみません、自分たちは一年ほど前から付き合っています」
「ちょっと誠一……!」
 二人の交際を隠していたのは、恥ずかしいとか、照れくさいとか、言い出しにくいとか、そういう心情的な理由ではない。澪の年齢が問題になりかねないからだ。それなのに自分から白状してしまうなんて――澪は奥歯を噛みしめ、体の横でこぶしをきつく握りしめる。
「で……でもっ……」
 そう口を切りながらも、迷いを拭いきれず目を泳がせていたが、やがて意を決してパッと顔を上げる。
「私たちは清く正しいお付き合いだからっ!!」
 人通りのない無機質な廊下に、澪の声が反響した。
 二人の付き合いを認めてしまった以上、問題を大きくしないためには、こう言うより他にないと思った。全力で考えた結果である。だが、なぜか誠一は絶望的な表情で頭を抱え、岩松はフッと思わせぶりに口もとを緩めた。
「澪ちゃん、俺が刑事だってことは知ってるよな?」
「あ、はい……?」
 当たり前のことを岩松に尋ねられ、澪は戸惑いぎみに返事をした。
「刑事の仕事は何だと思う?」
「犯罪者を逮捕すること、ですか?」
「そう、そうのためには何をする?」
「……全力疾走?」
 澪が首をひねりながら答えると、岩松はハハハと声を上げて笑った。
「まあそういうこともあるにはあるが、普段は地道に聞き込みをやってるんだ。居場所を掴まないことには捕まえられないからな。それが仕事の大半だといってもいいくらいさ」
 澪は小首を傾げた。何の脈絡もなく語り出したわけではないだろうが、一向に話が見えず、もやもやしたものが胸にわだかまる。かといって、何が言いたいのか聞き出すような勇気もない。
 岩松は静かに言葉を繋ぐ。
「だから、相手が嘘をついているか見分ける力が自ずとついてくる。逆にいえば、そうでなければ刑事は務まらない。俺は現場一筋20年だ。澪ちゃんが必死に南野を庇おうとしていることくらい、すっかりお見通しさ」
「あっ……」
 返す言葉はなかった。今さら何を言ってもごまかしようがないだろう。澪は顔をこわばらせて睫毛を震わせる。しかし、事の重大さを理解しているのかいないのか、誠一に深刻な様子は窺えず、両手を腰に当てて溜息を落とすだけだった。
「刑事じゃなくてもわかりますよ」
「ま、今回の場合はそうだな」
 岩松は白い歯を見せて笑った。澪を覗き込み、大きな手をぽんと頭にのせる。
「みんな澪ちゃんみたいに素直だと、俺たちも苦労しなくて済むんだがな」
「あの……誠一とのこと、ですけど……」
 澪は上目遣いでおずおずと切り出す。
 岩松は頭をかきながら、しようがないと言わんばかりに鼻から息をついた。
「誰にも言わないでやるよ。バレても庇ってはやれないけどな」
「ありがとうございます!」
 澪はぱっと表情を明るくすると、大きく弾むように頭を下げた。隣の誠一も深々と頭を下げている。ちらりと盗み見たその横顔には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
 岩松の目が優しく細められる。
「良かったよ、澪ちゃんが幸せそうで」
「はい!」
 澪は屈託のない笑顔で答えた。
「また遊びに来てくれと言いたいところだが、澪ちゃんの場合はすぐにボロが出るからな。高校卒業するまでは来るんじゃないぞ」
 岩松はそう言うと、左手を振りながら背を向けて歩き出した。その大きな背中に、ふたりは感謝をこめて深くお辞儀し、遠ざかる後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 軽く息をつくだけで、白いもやがふわりと浮かび上がる。
 まだ夕方を少し過ぎたくらいの時間だが、冬の日暮れは早く、外はもうすっかり夜の帳が下りていた。寒さもいっそう厳しさを増しているようだ。あっというまに顔から熱が奪われていくのがわかる。
「バレちゃったね」
 並んで歩く誠一を見上げ、澪は後ろ手にハンドバッグを持ってエヘヘと笑った。
 誠一は疲れたように深く溜息を落とす。
「笑いごとじゃないんだぞ。岩松さんだから助かったけど、下手すればクビだからな? まあ、澪と一緒に来たときから多少の覚悟はしてたけど。嘘をつくのが下手なうえに、墓穴を掘っても気付かないし」
「墓穴……」
 澪はそう呟いたきり言葉を詰まらせた。先ほど悠人にも同じことを言われたばかりである。墓穴を掘っているという自覚はないのだが、まったく関係のない二人から言われてしまうのは、やはり自分にそういう部分があるからだろうか――。
「今度こういうことがあったら、頼むから黙っててくれないかな」
 謙虚になろうとしていた澪も、この追い打ちにはさすがにムッとした。不満を露わに頬を膨らませる。しかし、誠一は横目を流してくすっと笑うと、宥めるように澪の頭に手を置き、濃紺の空を仰いで大きく息を吸い込んだ。
「ずっと澪と一緒にいたいんだよ。だからさ」
「うん……」
 澪は小さく頷き、ギュッと彼の腕を抱え込んで寄りかかる。
「私も、ずっと誠一と一緒にいたい」
 大っぴらにできない関係である以上、本来こういったことは控えねばならないが、今だけもう少しこのままでいさせてほしいと願う。誠一も同じ気持ちだったのだろう。無言のまま、優しい眼差しで肩に寄りかかる澪を見下ろしていた。
 目の前を、白いものがふわりと落ちていく。
 ふたりは同時に顔を上げた。上空からはらりはらりと舞い降りる雪を目にして、どちらともなく足を止める。
「積もるかな?」
「東京に積もるのは嘘だけだよ」
「嘘? どういうこと?」
 澪がきょとんとして聞き返すと、誠一は白い息を吐いて笑った。
「青森にいる祖母の口癖。東京が嫌いみたいでさ」
 彼の祖母が青森にいることさえ知らなかったが、その懐かしむような口調を聞いていると、何となく割り込むのを躊躇ってしまい、ただじっと彼に寄りかかりながらその横顔を見つめていた。
「嘘はまあともかくとして、確かに雪はほとんど積もらないよな。この雪も、積もるような降り方じゃないし、積もったとしても多分すぐに融けるよ」
「そっか……」
 嘘も雪みたいに融けてなくなってしまえばいいのに――澪はふとそんなことを思う。けれど、それは叶わぬ願い。澪自身が望む望まないにかかわらず、言えないことは次から次へと増えていく。もしかすると、最も嘘をつきたくない相手に、最も多くの嘘をつかなければならないのかもしれない。
 綿のような雪が頬に触れ、融けて水になった。
 澪はその沁み入る冷たさに目を細めると、冷えた指先でそっとなぞるように拭った。
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