東京ラビリンス

瑞原唯子

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8. シンデレラ

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 中堂幹久が見つめる先には、鉄鎖でがんじがらめになった長脚のアクリルケースが据え置かれていた。その中には「アンドロメダ」が丁重に収められており、神々をも嫉妬させたと云われる美しい肢体を、鉄鎖の隙間から覗かせている。
「やはり、アンドロメダには鎖がよく似合いますね」
 不安そうに顔を曇らせる父親をよそに、幹久は悠然とそう言って口の端を上げた。

 久世輝彦の「アンドロメダ」を戴きに参ります――。

 先日、怪盗ファントムから中堂家にそんな予告状が届いた。
 久世輝彦の「アンドロメダ」は、彼の代表作である星座シリーズの第13作で、アンドロメダ座の由来となったギリシア神話の一場面、つまり、生贄となった王女アンドロメダが岩場につながれているところを描いたものである。シリーズは全12作といわれてきたが、第13作のアンドロメダが存在するという噂は昔から根強くあり、そして幸運にもその実物を探し当てたのが中堂徹だったのだ。幻の絵画という話題性はもちろんのこと、その絵の素晴らしさもシリーズ随一であり、文化的・金銭的価値は計り知れない。怪盗ファントムが狙うにはふさわしい絵画といえるだろう。
 だからといって、易々と盗まれるわけにはいかない。
 それゆえ可能な限りの万全を期すべく、広いホールの中央に「アンドロメダ」を収めたアクリルケースを置き、それを鉄鎖で何重にも縛り付けたうえ、こうやって家族三人で取り囲んで見張っているのだ。他にも見知った警備員が四人、扉側と窓側に分かれてそれぞれ待機している。怪盗ファントム相手にしてはいささか心許ない体制だが、大人数ではかえって紛れ込む余地を与えかねないため、絵画付近は信頼のおける少人数で固めた方がいいという幹久の判断だった。

「幹久、これで本当に大丈夫なんだろうな?」
「どうでしょう、相手はあの怪盗ファントムですからね」
 幹久は軽く笑いながら肩をすくめた。
 その無責任な言いように、徹は少し気を悪くしたようだ。ムッとして口を真一文字に引き結ぶと、後ろで手を組み、アクリルケース付近を落ち着きなく歩きまわる。
「やはり銀行の貸金庫に預けておいた方が良かったのではないか? 何も馬鹿正直にこんなところに置いておく必要もあるまい。これでは盗りに来いと言っているようなものだぞ」
「あまり無粋なことをしては、お得意様方にも呆れられますよ」
 そう言って、幹久は鎖にそっと手を置く。
「古風な怪盗を迎えるには、それなりの作法があるのですから」
「作法?」
「相手はリスクを冒してまで予告をしてきています。それに応じ、こちらも正々堂々と迎え討つべきでしょう。いわば真剣勝負ですよ。それに、今さらどうこうするわけにもいかないのでは? あと数分で予告時間を迎えるのですから」
 徹はいまだに釈然としないようだが、もう何も言わなかった。ただ祈るようにアクリルケースの鎖を握りしめる。その向かい側で、由衣もほっそりした手を鎖の上に置いた。これも幹久の提案で、暗闇の中でも鎖を外されるのがわかるように、家族三人が鎖に手を掛けておくことにしたのだ。
 外で歓声が上がった。
 徹の眉間に深い縦皺が刻まれる。鎖を握りしめる手に力が入り、静寂のホールに濁った金属音が響いた。
「犯罪者のくせに随分と人気があるのだな」
「ええ、僕も彼女のことは好きですよ」
「何を言っておるのだ、おまえは……」
 呆れるというより面食らったように徹が言った、そのとき――。
 ふっと音もなく照明が消えた。
「どうした?!」
「怪盗ファントムの仕業でしょう。落ち着いてください」
 幹久は少しも慌てることなくそう言うと、片方の手を鎖に載せたまま、内ポケットから小型の懐中電灯を取り出した。スイッチを入れてアクリルケースを上から照らす。
「アンドロメダは無事です」
 徹も自らの目でそれを確認し、安堵の息をついた。
 しかし、幹久は気を緩めることなく、懐中電灯を扉の方に向けて声を張る。
「そちらは問題ありませんか?」
「はい! 扉は開けられていません!!」
 光量が足りないので彼らの姿までは窺えないが、その声はよく知っている警備員のものに間違いない。怪盗ファントムやその仲間になりすまされていることはなさそうだ。幹久は続いて反対側に懐中電灯を向ける。
「そちらは異常ありませんか?」
「はい、窓からの侵入はありませんし、人影も見えません!」
 こちらもよく知った声である。幹久はようやく少しほっとした。しかし、当然ながらまだ気を抜くわけにはいかない。小さな懐中電灯ではあまりよく見えないが、天井や床、他の壁などに光を向けていく。こちらからは見えなくとも、相手に対する牽制にはなるだろう。鎖はほとんど動いていない。三人が触れているので音が立つこともあるが、外れていないことだけは確信できる。
 ジリリリリリ――。
 突然、耳をつんざくほどの大音量で警報ベルが鳴り響いた。幹久は思わず顔をしかめて片耳を押さえたが、鎖に置いた手だけは決して離さなかった。
「とうとう屋敷内に入ったようですね?!」
「警報ベルはここまでうるさかったか?!」
 叫ぶように声を張らないと、隣の父親ともまともに会話できない。昨日の点検ではもう少し常識的な音量だったはずだ。どういうことか確かめようにも、この状況で警備員に声を届かせるなど不可能である。今の自分に出来ることといえば――幹久は扉の方に懐中電灯を向け、息を詰めてじっと目を凝らす。
 しばらくのち、ピタリと警報ベルが止んだ。同時に照明も戻る。
 反射的に小さく安堵の息を漏らしつつも、急激な明るさの変化に目が追いつけず、手をかざしながら僅かに眉をしかめた。そして、何気なく下方のアクリルケースに視線を落とすと――。
「アンドロメダがない!」
 鎖もアクリルケースもそのままだったが、中のアンドロメダだけが忽然と消えていた。にわかには信じられず、腰を屈めて横から覗き込んでみるものの、やはりどう見てもケースの中は空っぽである。
「ファントムだ!!」
 警備員のその声に振り向くと、窓側の警備員と幹久たちのちょうど真ん中あたりに、アンドロメダを抱えた怪盗ファントムが立っていた。顔には白い仮面がつけられていたが、さらりと揺れる長く艶やかな黒髪、ピンと姿勢よく伸ばされた背筋、短いプリーツスカートから伸びるすらりとした脚、それらはまさしく――。
「捕まえろ!!」
 怪盗ファントムに見とれていた幹久の隣で、ようやく事態を把握した父親が、標的を指さしながら迫力ある怒声を飛ばす。
 警備員たちはハッとして一斉に駆け出すが、ファントムは鮮やかにかわしていくと、窓を開け放ってベランダに飛び出した。そして、軽やかに柵に飛び乗り、ひさしに飛び移り、あっというまに屋上へ上がってしまう。警備員たちは為すすべなくただ呆然と見送っていた。上空から舞い落ちてきたメッセージカードには「囚われの王女アンドロメダを救出いたしました」とだけ書いてあった。
「やられましたね」
 幹久は肩をすくめて苦笑した。
 しゃがんでアクリルケースを下から覗き込むと、頑丈なはずの鉄鎖が一部ちぎれていた。落ちている鎖のかけらは明らかに鉄とは違う素材である。どうやら一部だけ脆い素材に替えられていたようだ。そして、アクリルケースの底も簡単に抜けるよう細工が施されていた。いつどうやって準備がなされたのか見当もつかない。ここまでやられてしまっては、もはや完敗としか言いようがないだろう。
「幹久、笑っている場合ではないだろう」
「保険は掛けてあったのでしょう?」
「それは、そうだが……しかし……」
「いい話の種ができたじゃないですか。世間で話題の怪盗ファントムと直接対決なんて、誰でも経験できることではありません。きっとみなさん聞きたがると思いますよ」
 こういう話の種があればパーティに人が集まりやすいし、商談に繋げていくこともできるだろう。予告どおりに盗まれてしまったとはいえ、相手が怪盗ファントムであれば、マイナス評価に繋がることはないはずだ。
「おまえ、前向きだな」
「嬉しいんですよ」
 徹はその答えを聞いて訝しげに眉をひそめたが、幹久は気に留めることなく、怪盗ファントムの消えていった窓の方へ目をやった。そして、外から吹き込んでくる冷たい夜風を受けながら、もうそこにはいない彼女の姿を思い浮かべ、ふっと柔らかく微笑んだ。

「ご苦労だったな。今回もよく頑張ってくれた」
 剛三は机の上で両手を組み合わせて、労いの言葉をかけた。
 無事に「アンドロメダ」を手にして戻った怪盗ファントムの面々は、剛三の書斎に集まり、いつものように簡単な報告会を始めるところだった。まだこの絵を届ける仕事は残っているが、やっかいな盗みの方は完了し、程度の差はあれど各々安堵した表情を見せている。
「おじいさま、今回は誰がこれを返しに行くんですか?」
「おまえは本当にせっかちだな。順に話すから待ちなさい」
「はーい」
 澪は肩をすくめて返事をした。盗みの方はどうしても罪の意識が拭えないため好きになれないが、本来の持ち主に届けるのは別で、それがあるからこそ怪盗ファントムを続けていられるのかもしれない。相手が心から喜んでくれているのを見ると、そのときばかりは自分も素直に嬉しく思えるのだ。
 剛三は、悠人に目配せして「アンドロメダ」を掲げさせた。
「噂に違わぬ素晴らしい絵だな……」
「申し訳ありません剛三さん、少々お待ちください」
 悠人はふと何かに気づいたらしく、軽く右手を挙げ、講釈を始めようとした剛三を制止した。そして、目の前に「アンドロメダ」を立てかけたまま、裏側からその『何か』を慎重に引き剥がす。目隠しと思われるキャンバスと同色同地の布、そしてその下にあるものは――。
「まさか、罠だったり……?」
「発信機じゃないはずだけどな」
 盗んだ絵画に発信機の類がつけられているかどうかは、家に持ち込む前に、専用の機械でくまなく調べることになっている。もちろん今回も例外ではない。それで探知されなかったということは、篤史の言うように発信機ではないのだろう。
 悠人は剥がしたものを一瞥すると、皆に見えるように机の中央に置いた。
「メッセージカードと指輪?」
 澪は身を乗り出して不思議そうに覗き込む。そこにあったのは、名刺より一回り大きなサイズのカードと、シンプルな金属製の指輪だった。最初、指輪はカードの上に載っているのかと思ったが、どうやら両面テープで貼り付けられているようだ。そして、カードの方には丁寧な手書き文字で何かが記されている。

 親愛なる怪盗ファントム様
 今宵 11時50分、私の部屋へお越しください。
 窓を開けてお待ちしております。
 ――中堂幹久

「挑戦状かなぁ?」
 澪は書かれたメッセージを読み上げると、首を傾げて誰にともなくそう尋ねた。しかし返答はない。このメッセージの意図を量りかねているようで、皆一様に難しい顔をして考え込んでいた。
「挑戦状だとしたら、この指輪は何なんだ?」
「ちょっと勝手に取っちゃっていいわけ?!」
 非難する澪を無視し、篤史は無造作にメッセージカードから指輪を引き剥がした。人差し指と親指でつまむように持ち上げると、電灯の光に掲げ、向きや角度を変えながらじっくりと観察する。
「これ本物のプラチナみたいだな。シンプルだけどけっこう高いんじゃないか? こんなものを貼っつけるなんて、さすが金持ちはやることが違うな……ん? 内側に何か文字が彫ってあるぞ。名前かこれ?」
 そう言いながら、手元に引き寄せてその刻印を読み上げる。
「MIKIHISA to REI」
「……えっ?!」
 一瞬遅れて、澪は素っ頓狂な声を上げた。二人の名前が入ったプラチナの指輪など、まるで婚約指輪か結婚指輪のようだが、幹久からそんなものをもらう心当たりは微塵もない。だいたい彼とはこの前のパーティで一度会っただけである。
「どういうこと? 澪」
「こっちが知りたいよ!」
 遥に冷ややかな眼差しを向けられ、澪は思わずむきになって言い返す。
「幹久さんとは、付き合ってるわけでも何でもないんだからね!!」
「そうじゃなくて、問題は怪盗ファントムの正体がバレてることだよ」
「えっ……あ、そうか!」
 カードの宛名は「怪盗ファントム」だが、指輪には「to REI」と彫られている。つまり、怪盗ファントムの正体が澪であると、幹久に知られているかもしれないということだ。
「でも、私、ファントムのことなんて何も話してないんだけど……」
「おまえ、誘導尋問に引っかかっても気づかなさそうだよなぁ」
 篤史は半ば呆れたように言う。
 だが、澪には誘導尋問があったとはとても思えない。
「そもそもまだバレたと決まったわけじゃないでしょう? 確かに指輪にはREIって書いてあるけど、漢字でもフルネームでもないし、私のことじゃないかもしれないもん」
「じゃあ誰なんだよ」
「そんなことまではわからないけど……あっ、そうだ、この前のパーティのときにね、幹久さん、結婚したい人がいるようなことを言ってたの。もしかしたらその相手の名前がREIなんじゃないかな。彼女のことを怪盗ファントムかもしれないと疑ってたところへ、ちょうど予告状が来たから、この機会に結婚も含めた諸々のことに決着をつけようとして呼び出した……とかね。それだったら指輪の辻褄も合うでしょう?」
「澪の話が正解だろうな」
 それまで黙って聞いていた悠人が、腕を組みながらその仮説を認めた。
 澪はパッと表情を明るくして身を乗り出す。
「ね、そうですよね!」
「ただ、ひとつだけ認識違いをしている」
 悠人はそう言い添えると、もったいつけるように澪の双眸を見つめた。それからゆっくりと口を開く。
「幹久の結婚したい相手というのは、君だ」
「……は?」
 澪はきょとんとした。
「君はわかっていなかったみたいだが、あのときの伴侶を見つけたという話は、君のことを指して言っていたんだよ。あいつはそれで求婚しているつもりだったんだろう。そして、そのときの君の笑顔を見て、了承を得たものと勘違いしているはずだ」
「……えっと、本当に?」
 信じがたい気持ちで聞き返す。言われてみればそういう解釈も出来なくはないが、いくら何でも出会ったその日にというのは、あまりにも非常識でありえないことだと思う。ドラマでもここまで突飛な話はなかなか見ない。しかし、悠人はなぜかそう確信しているようだった。
「まあ、澪が鈍いというのもあるが、この場合は突っ走りすぎる幹久の方が問題だろうな」
「どうでもいいけど、結局、ファントムの正体がバレてるってことだよね?」
 遥は頬杖をついて尋ねる。
「何の根拠もなく思い込んでいるだけだ。無視しても問題ない」
 悠人は動じることなく断言した。しかし、それこそ根拠のない憶測に基づく暴論でしかないだろう。澪を安心させるためなのかもしれないが、とても素直に頷くことは出来なかった。
「本当に大丈夫なのかな……それに指輪……」
「明日は燃えないゴミの日だったな。ちょうど良かったよ」
 何が気に障ったのか、彼は急に感情的になってそう吐き捨てた。口調にも表情にも隠しきれない苛立ちが窺える。いつも冷静な彼らしからぬその態度に、その場にいた皆が不思議そうな目を向けた。
「悠人、どうしたんだおまえ」
「……失礼いたしました」
 剛三の声を耳にして、悠人は落ち着きを取り戻したようだ。小さく息をついて続ける。
「中堂幹久は、佐藤由衣の息子です」
「佐藤由衣? ああ、あのサイコ女か」
「サ……サイコ……??」
 澪は目をぱちくりさせて聞き返した。佐藤というのは由衣の旧姓と思われるが、それで通じるということは、剛三も昔の彼女を知っているのだろう。が、あまり良い印象は持っていないようだ。剛三は机の上で両手を組み合わせると、深い溜息を落として説明を始める。
「佐藤由衣は悠人が高校生のときに付き合っていた女でな。悠人が怪盗ファントムを始めるとすぐに、その正体が悠人ではないかと疑い始めて、それはもう悪魔のようなしつこさで追及し、悠人を精神崩壊寸前まで追いつめたのだ。それ以来、悠人は女嫌いになり、今も独身というわけだ」
 なんか、ちょっと違うような――。
 澪は難しい顔をして小首を傾げた。大まかな話は悠人から聞いたとおりだが、受ける印象は随分と違っている。精神崩壊とか、女嫌いとか、本当にそんなことがあったのだろうか。剛三には話を脚色する傾向があるようなので、今回も大袈裟に言っているだけかもしれないと思う。
「あのサイコ女の息子ならば、思い込みだけで暴走するのも頷ける。まあ、澪に惚れているうちは無闇矢鱈と騒ぎ立てることもあるまい。もし騒がれたところで何の証拠もないのだからな。悠人の言うように放っておけばよかろう」
「でも、指輪は返したいな……なんか悪いし……」
 自分のことを想って作ってくれたであろう指輪を、事情はどうあれ、燃えないゴミに捨てるなんてことはしたくなかった。それに、このまま指輪を返さなければ、求婚を受け入れたということにされかねない。思い込みの激しい人であればなおのことだ。
「警察はもう中堂家から引き上げてるみたいだし、中堂夫妻もそのあたりの話は知らないようだ。おそらくその幹久ってやつの独断なんだろう。今にして思えば納得のいく話なんだが、まんまと盗まれたってのに、あいつ何か嬉しそうにしてたんだよな」
 篤史は怪盗ファントムが去ったあとの状況を簡単に説明する。仕掛けてあった盗聴器で知り得た情報だろう。それによって、幹久が個人的に話をしたがっているだけ、という推測が、幾分かは裏付けられたといってもいい。
「私、返すだけ返してこようかな」
「これが罠でないという確証はないし、どちらにしても危険であることに変わりはない。どうしても返したいのなら郵便で送り返せばすむだろう。何も一々あいつの言うとおりにすることはないんだ」
「でも……」
「澪を行かせるわけにはいかない」
 悠人は強い意志を感じさせる口調できっぱりと断じる。もはや何を言っても無駄に思えた。澪は口を引き結んでうつむくと、膝の上に両手を重ね、机に置かれた指輪をそっと見つめて目を細めた。

 夜11時50分――。
 指定されたその時間、怪盗ファントムはベランダの手すりに軽やかに降り立った。空気は身が引き締まるように冷たく、背後には神秘的な光を放つ満月が浮かんでいる。その月明かりを浴びながら、長い黒髪はさらさらと艶やかに煌めいた。
 部屋の照明は消えていた。
 不気味なほどひっそり静まりかえったそこには、誰かがいるようには思えなかったが、よく見ればひとつだけ微かにゆらめく人影があった。幹久である。彼は大きく開いたガラス窓からベランダに進み出ると、カクテルグラスを持ったまま窓枠にもたれかかり、手すりに立つファントムを仰ぎ見ながら柔らかく目を細める。
「思ったとおり、あなたには月下の淡い光がよく似合う。先ほどよりもずっと凛としていて美しい」
 口元に小さく笑みをのせてそう言うと、まるで乾杯するかのように、大仰に腕を上げてカクテルグラスを掲げた。その縁が、月の光を受けて鮮烈な輝きを放つ。そして、中に注がれているオレンジ色の液体も、細やかに波打つたび、夕暮れ時の水面のようにキラキラと煌めいた。

「さっきよりも美しいんだとよ」
「篤史、笑いすぎっ!!」
 くくっと体を揺すって笑う篤史の背中を、澪は握りこぶしで軽く叩いて抗議した。
 中堂家付近の駐車場に停めた車の後部座席で、澪、篤史、悠人の三人は並んで座り、篤史の膝に載せられているノートパソコンの画面を覗き込んでいた。そこに表示されているものは、怪盗ファントムに取りつけたカメラから送られてくる映像で、今は微笑を浮かべてファントムを見上げる幹久の姿が映し出されている。
「まあ、確かに遥の方が品はあるよなぁ」
「どうせ私には品なんてないですよっ」
 澪はふてくされてシートにもたれかかり、思いきり口をとがらせた。

 招待状に応じる形で指輪を返しに行くことに、悠人は強硬に反対していたのだが、澪の心中を汲み取ってくれたのか、幾分か譲歩して条件付きで許可してくれることになった。
 その条件というのは、澪ではなく遥が怪盗ファントムに扮して行くことである。
 どうせ指輪を返してくるだけであり、顔を見せることも会話をすることもないのだから、澪でも遥でも同じだというのが悠人の言い分だった。しかし、澪としてはやはり不誠実な気がして抵抗があった。澪には行かせられないと言いつつ、遥には行かせようとする、そんな悠人の差別的な態度にも納得がいかない。しかし問い詰めてみると、どうやら澪を危険な目に遭わせたくないというより、澪の流されやすい性格の方を懸念しているようだった。反論したい気持ちはあったが、何度も指摘された悠人の前では分が悪く、澪は不本意ながら何も言えなくなってしまった。
 そういうわけで、今、幹久の前に立っている怪盗ファントムは遥である。
 遥は、最初こそ嫌そうな素振りを見せていたものの、意外にも拒否することなくすんなりと承知してくれた。不思議に思って聞いてみたところ、澪を行かせるのは不安だから仕方ない、というのが引き受けた理由らしい。信用されていないことについては複雑な気持ちもあるが、いつも澪を守ろうとしてくれることに対しては、素直に嬉しく思っていたし感謝もしていた。
 けれど、まさか幹久にまで、遥の方がいいと言われることになるなんて――。

「気にするな、澪。あいつは適当に口説き文句を並べているだけだ」
「別にフォローしてもらわなくても大丈夫ですから!」
 せっかく悠人が気遣ってくれたにもかかわらず、そのことがかえって気恥ずかしくて、澪は頬を紅潮させながら思わず強気に言い返してしまう。しかし、悠人は横目を流しつつ、くすりと余裕の笑みを浮かべるだけだった。
「ファースト、指輪だけ返したら、適当に切り上げて帰ってこいよ」
 篤史はヘッドセットのマイクを通し、緊張感のない声で指示を出す。綿密な計画を立てるいつもの盗みとは違い、危険はないと判断したようで、随分と気楽にしている様子が見てとれた。剛三にいたっては、全面的に悠人に任せて家で寝ているくらいである。
 しかし、澪はそこまで楽観的になれなかった。
 当事者にとっては当然の心境かもしれない。大袈裟にいえば、自分の人生の一大事を遥に託したことになるのだ。ノートパソコンの画面を見つめながら、息を詰めて両手を組み合わせ、何事もありませんように――とひたすら心の中で祈り続けた。

「これは、僕があなたのために作ったものです。シンデレラ、あなたにお似合いのカクテルだ」
 ノンアルコールだから未成年の澪にお似合いだ、という意味ではなく、童話のシンデレラになぞらえているだろうことは、聞いている誰もがすぐにわかった。そして、11時50分という時間指定のわけも――。
「そろそろ12時になりますね。魔法が解けて素顔のあなたに戻る時間です、僕のシンデレラ。それともアンドロメダの方がお好みでしょうか。ご希望とあらば、怪盗のしがらみに囚われたアンドロメダ姫を救い出すペルセウスとなりましょう」
 幹久はカクテルグラスを白いティーテーブルに置くと、芝居がかった身振り手振りをつけて、聞いているだけで恥ずかしくなるようなセリフを次々と畳みかけた。
 当然ながら、怪盗ファントムは無言のままである。
 それでも、幹久はまったく意に介していないようだった。ふっと愛おしむように微笑むと、胸元に手を当て、今度は真面目な口調で語り始める。
「僕は、君が怪盗ファントムだと知りながら、それでも構わないと思って求婚しました。ただ、どうしてこんなことをしているのか、それを聞かせてほしいのです。何か理由があるのでしょう。事情によってはこのまま続けることも許すつもりですし、必要であれば力をお貸しすることも検討します。僕の本心としては、このような危険なことから足を洗っていただきたいのですが」
 そう言って、軽く肩をすくめる。
「指輪は受け取っていただけましたか?」
 それまで無反応を貫いていた遥だったが、その核心を突いた言葉にようやく動きを見せる。送りつけられた指輪をポケットから取り出すと、白手袋をはめた指でつまみ、幹久の方へ腕を伸ばしてそれを示した。月の光を浴びて、プラチナが柔らかな輝きを放つ。幹久は満足そうに目を細めて微笑むと、手のひらを上に向け、怪盗ファントムへすっとその手を伸ばした。
「僕がはめて差し上げましょう。さあ、こちらへ」
 差し出されたそのすらりとした手の上に、遥は小さな指輪を置き、さらに自分の手を重ねると、短いスカートをひらめかせてベランダに降り立った。二人は手を取り合ったまま正面から向かい合う。微かな夜風がそよぎ、長い黒髪がさらさらと音を立てて揺れた。

「ちょっと、遥、どういうつもり?!」
 澪は篤史を押しのけんばかりの勢いでノートパソコンを覗き込む。遥視点のその映像だけでも、どういう状況なのかは十分に察しがついた。指輪だけ渡してさっさと帰ってくればいいのに、なぜわざわざベランダに降りたのだろう、なぜ至近距離で幹久と向かい合っているのだろう――彼の考えが読めなくて苛立ちと不安が募る。
「面白くなってきたな」
 篤史はニヤニヤしながら不謹慎なことを言う。
 その向こう側の悠人は、腕を組んだまま眉ひとつ動かさず、幹久の映し出された画面をただじっと眺めていた。何も行動を起こさないのは、問題なしと判断してのことだろうか。しかし、澪には、このような危うい状況を看過できるだけの余裕はなかった。
「やだもう見てられない! 篤史マイク貸して!!」
「バカ、今だと相手にも声が聞こえちまうだろう!」
 澪は篤史のヘッドセットを奪い取ろうとするが、篤史は澪を押し返して必死に抵抗する。狭いところでもみくちゃになっている二人の隣で、悠人は顔色一つ変えず、篤史の膝から落ちそうになったノートパソコンを受け止めた。その画面から目を離すことなく静かに口を開く。
「澪、遥を信じてもうしばらく様子を見よう」
「……師匠がそう言うのでしたら」
 澪は神妙に答え、元の場所に座り直した。
 悠人に言われるまでもなく、遥のことは信頼しているつもりである。そう、冷静に考えてみれば、遥が何の意図もなく行動しているとは思えない。だから、今はただ信じて見守るだけ――澪は唇をきゅっと噛みしめながら、篤史の膝に置き直されたノートパソコンを再び覗き込んだ。

 ボーン、ボーン、ボーン――。
 暗い部屋の中から、レトロな柱時計の音が聞こえる。
 幹久は怪盗ファントムと手を取り合ったまま、もう片方の手で白い首筋にそっと触れた。
「仮面のままでもあなたは十分に美しい。けれど、伴侶となる僕の前で仮面は要らない。もう12時を回りましたし、素顔に戻りましょう……橘澪さん」
 まだ師匠の言うとおりだと決まっていない、指輪のREIが自分以外の誰かであってほしい――澪がしつこくも抱き続けていた一縷の望みは、このとき完全に絶たれてしまった。ドクン、ドクン、と飛び出しそうなほど強く打つ鼓動を感じながら、顎を引き、ますます食い入るようにノートパソコンの映像を見つめる。
 幹久は焦らして楽しむかのように、怪盗ファントムの首筋に置いた手を、ゆっくりと艶めかしく上方に滑らせていく。指先が顎をなぞる。そして、ついに仮面に手を掛けようとしたそのとき――。
「イタッ!!」
 遥がその手首を素早く捻り上げた。繋がれていた二人の手は離れ、指輪はベランダの床に落ちて転がる。
「れっ、澪さん! 怖がらなくても大丈夫です。ここには僕たちしかいません……だから、仮面を……いえ、この手を……っ! お願いです、僕を信じてください。あなたを愛しているのですから!」
 肩や腕にかなりの痛みがあるのだろう。幹久は汗を滲ませながら懸命に訴える。時折、苦しげに声を詰まらせていたが、それでも辛うじて笑顔を崩していないのは、ある意味で賞賛に値するかもしれない。
 遥はパッと拘束を解いた。
 いきなりのことで幹久は大きくよろけるが、体勢を立て直して再び向かい合うと、安堵の息をついて満面の笑みを浮かべた。こんな仕打ちを受けたというのに少しも懲りていないようだ。再度ゆっくりと仮面に手を伸ばしながら、口を開いて何かを言おうとした――その瞬間。
 ガツッ――。
 幹久の顔面に黒い革靴がめり込んだ。遥が蹴りつけたその足を引くと、額から頬にかけて斜めに靴底の跡がついていた。もう意識をなくしているであろう彼は、鼻血を垂らしながら、スローモーションのようにゆっくりと仰向けに倒れていった。

「はる……じゃなくてファースト……あの、ちょっとやりすぎじゃないかな?」
 篤史から借りたヘッドセットを装着した澪は、マイクを通しておずおずと遥に話しかける。
 ノートパソコンには伸されて大の字になっている幹久が映し出されていた。自分の身を守るためにやむを得ない状況ならまだしも、こうも一方的に攻撃したのでは、さすがに幹久に申し訳なく思わざるをえない。
「ちゃんと加減してるから大丈夫。ただ気絶してるだけだよ」
「じゃなくて、何も顔面を蹴りつけることなかったんじゃ……」
「怪盗ファントムを呼びつけようなんて二度と思わせないためには、このくらいやらないと効き目ないんじゃないかなって。声が出せない状況だったから行動で示したんだけど、何か問題?」
 遥はしれっと聞き返す。
 ここはありがとうと答えるべきなのだろうか。しかし、やはり度が過ぎている気がするし、これで効き目があるかどうかも疑わしい。それどころか恨まれて逆襲される可能性もなくはないのだ。だけど遥は自分のためにやってくれたわけで――澪はぐるぐると思考を巡らせるが、結論にはたどり着けない。
「これでもう十分に目的は果たしただろう。帰ってくるんだ」
 悠人は、澪が装着したヘッドセットのマイクを引き寄せて遥に告げる。
「了解」
 ノートパソコンのスピーカーからぶっきらぼうな答えが返ってきた。どことなく物足りなさそうな口調に聞こえたが、さすがに師匠の命令に逆らうわけにはいかないだろう。
 遥は疲れたように大きく溜息をつきながら、床に落ちた指輪を拾い上げ、それをカクテルグラスの中に投げ入れた。オレンジ色の液体の中を揺らぎながら沈んでいき、チン、と微かな音を立てて底に落ちる。そして、悠人に持たされたメッセージカードを内ポケットから取り出すと、そのカクテルグラスの傍らに無造作に投げ置いた。
 宛先違いにより受取拒否――。
 それは、怪盗ファントムから幹久への最後のメッセージだった。
 与えられた役割をようやく果たした遥は、軽く飛び上がり、再びベランダの手すりにすくっと立った。そして、倒れたままの幹久を肩越しに一瞥すると、手すりを踏み切り、黒髪をなびかせて月影さやかな夜空へ飛び出した。
 これですべての問題が片付いたわけではない。
 そのことは澪も承知していたが、とりあえず一段落したことで胸を撫で下ろし、緊張の糸が切れたようにくったりとシートに身を預けた。途端に堪えきれないほどの眠気が押し寄せる。それに呑まれるように目蓋を閉じると、意識はすっと眠りの奥底へ沈んでいった。
 その安らかな寝顔を、帰りの車中ずっと悠人が見守っていたことは、澪は知るよしもない――。
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