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第三章 始動
3-12 バストゥー兄妹 その二
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クレオはその気になりかかっていた。
だが、妹を一人で残してゆくわけにもいかない。
カレック連邦は遠い。
海を渡らねばならない東の大陸である。
二人なら何とか今の生活も維持できるが、女のリア一人では無理だろう。
家からの仕送りも当てにはできない。
やはりリアと相談しなければなるまい。
リアは23歳、学院の三年生でヴァロンの腕前を嘱望されている逸材でもある。
少なくとも上の中以上にあるはずだ。
「わかりました。
妹と相談します。」
「それで結構です。
妹さんにも合わせていただけませんか?」
「いや、今は無理です。
風邪をこじらせかけていますのでとても会わせられません。」
二人はすくっと立ち上がった。
「それならばなおのことです。
連れて行ってください。」
有無を言わせぬ言い方だった。
カフェを出て15分ほど歩いてバストゥー兄妹が住むアパートに着いた。
家に入るとすぐに、止める間もなく妹のリアが寝ている部屋に二人がずかずかと入っていった。
マイケルが苦しそうな息遣いのリアの胸に手を翳して言った。
「クレオ、リアは肺炎を起こしています。
それも急性肺炎です。
手遅れになる前に措置しなければならないが、今から僕が行うことは決して誰にも言わないと約束してください。
さもなければ、僕はリアを見殺しにしなければならない。」
真剣な表情のマイケルを見て、クレオは頷いた。
「神に誓って、誰にも言わないと約束する。」
マイケルは頷いた。
それから、両手をリアの胸の上に翳した。
瞬間的に金色の光がマイケルの手から発せられて、すぐに消えた。
間もなく、リアが目を開いた。
少しくぐもった声でリアが聞いた。
「あら、どなたかお客様?」
「ええ、お兄さんの友人です。
僕はマイケル、こっちは相棒のサラ。
あなたは病気だったけれど今はほとんど治りかけています。
但し、少し脱水症状が残っているので、あとで水分を取ってください。
今日はできるだけ安静にしておくこと。
それとできるだけ滋養のつくものを食べてください。
そうしていれば明日の夕方には完全に回復しているでしょう。」
「マイケルさんって、お医者様ですか?」
「ちょっと違いますけれど、まぁ言うなれば貴方の専属医師のようなものです。
他の人の病気を診たりしませんのでね。」
マイケルは身体を起こして、クレオに向かって言った。
「妹さんが秘密を守ってくれるなら今のことは話しても差し支えありません。
それはともかく、就職の話、相談されますか?」
クレオは頷いた。
「リア、この二人はカレック連邦で最も売れているフォーリーブスというボーカルグループの一員だ。
お前は知らないだろうけれど、今ではクラシック界では知らぬものがいないほどの有名人になってしまった。
高名な音楽評論家や音楽家が手放しで音楽の天才と褒め称えている人達なんだ。
で、その人達が僕とお前を雇いたいと言っているけれど、・・・。
どう思う?」
リアはベッドの上で起き上がった。
クレオは、リアの背中に枕を立てて上げた。
随分と楽になったように見える。
昨日はそうして食事をさせているだけで辛そうだった。
「でも、何故、そんな人たちが私達のことを知っているの?」
サラが脇から口を挟んだ。
「私たちから見るとあなた方二人は暗闇の中の灯台なの。
暗い中で灯台が光を発していれば誰でも気づいてしまうように、私達もあなた方の存在は遠くからでも分かるの。
だから、ここまでやって来た。
あなた達を仲間にするために。
私達はあなた方の力を必要としているの。
だから、協力して欲しいと思っています。」
「お仕事は?」
「取り敢えずはバンドかなぁ。」
「ボーカルの後ろでポラノックやヴァロンを弾くのですか?
そんなの聞いたことが無いけれど。」
「でも私達はオーケストラをバックに歌ってCDを作りました。
別に可笑しいことではないと思いますけれど。
可笑しいのかしら?」
「オーケストラですか・・・。
でも、私はもっと高みを目指したい。」
「リア、高みを目指すのは何処にいてもできる。
それを教えてあげよう。
リアのヴァロンを借りてもいいかい?」
「ええ、構わないわ。」
ベッドの脇の箪笥の上に置いてあるヴァロンのケースを開けて、ヴァロンを取り出した。
そう高いものでは無く、クレオとリアがペルスト中を探して見つけた中古品だがいい物だ。
「なかなか、いいヴァロンを持っているね。
多分、50年ほど前のヤンビス工房の作品かな?
きっといい腕の職人さんだったのだろう。」
クレオもリアもそんなところまでは分からないで買っていた。
「リア、ここにいるサラは三ヶ月前まではヴァロンに触ったことも無かった。
彼女は17歳、多分あなたよりも五つか六つ年下だ。
これを持っていると言うことは貴方もいい腕を持っていると思う。
だからサラの技量を推し量れるだろう。」
マイケルは、サラにヴァロンを差し出した。
「サラ、これで何でもいいから弾いてリアに聞かせてやって欲しい。
リアなら分かるはずだ。」
サラは、黙って頷いてヴァロンを受け取り、調律を始めた。
弦を小さく弾きそれだけで、螺子を少しずつ締めてゆく。
三本の弦を全て調律し終わると、三つの弦をかき鳴らした。
暫く音を聞いていた。
そうして構えて、弓で弾き始めた。
震えが出るほど素晴らしい音色が出ていた。
ラバンシュタインのヴァラン練習曲だ。
単純なだけに難しいと言われている。
プロでも自分の調子を見るのにこの練習曲をよく弾くと聞いたことがある。
クレオも学院で色々な人のヴァラン演奏を聞いたことがあるが、これほど綺麗な音色は聞いた記憶が無かった。
ふと気づくとリアが涙を流していた。
見事な演奏が余韻を残して消えた時、リアは叫んだ。
「お兄さん、私のヴァロンなのに、・・・。
私、私、こんな音色は出せないわ。
どうして?
私、5歳のときからヴァロンをやっているのに。
この子は三ヶ月で、こんな音色を出すって言うの。
私、・・・。
私、・・・、悔しい。」
リアはシーツの上に突っ伏して泣き出した。
マイケルが優しく声をかけた。
「リア、君にサラの腕が分かるなら、君の腕が悪いわけじゃない。
今の勉強の仕方が悪いだけだ。
ここの音楽学院では君が伸びる余地は余り無い。
弟子はよき師匠を超えるものだが、師匠の程度が低ければ弟子もさほどは伸びない。
だがよき仲間にめぐり合えれば師匠がいなくても伸びるだろう。
僕達は君も君の兄さんも仲間として迎えたいと思っている。
カレック連邦に来てみないかい。
そこには君達に相応しい未来があると僕は思っている。」
慟哭が治まりリアは顔を上げた。
「もし、・・・。
もし、私がこの子と同じように上手になれるなら、私は何処へでも行きます。
でも、なれるの?」
「私はきっとなれると思いますわ。
だって、私がなれたんだもの。
あなたがなれないわけがない。
でも、貴方に嫌われちゃったのかなぁ。」
「ううん、こんなに素晴らしい演奏ができる人を嫌えるわけがない。
好きよ。
でも、悔しいの。」
「さて、リアはカレック連邦まで出向いてくれそうだけれど、クレオはどうしたい?」
「リアが行くなら無論僕も行きたいと思います。
でも、そう簡単に行けるところじゃないように思いますが?
それに旅費だって・・・。」
「よし、それじゃ、決まりだね。
君達、パスポートはあるの?」
「ええ、学院の海外公演もあるのでパスポートはあります。
リアも持っているよね?」
「ええ、持っているわ。」
「カレック連邦とロペンズ連合は互いにビザなしで渡航できるから、旅行に支障はなさそうだね。
僕達は二日後の深夜便でカレックに帰らなければならないんだけれど。
一緒に来るかい。
無論、旅費はこっちで面倒見る。
大事な荷物があるなら貨物便で送ってもいいし、そうでなければ処分してもらって構わない。
君達の住むところは僕の家で十分なスペースがある。
因みに君達に支払う年俸は100万レーネ程度を考えている。
カレック連邦では10万ドレルほどだね。」
二人は絶句した。
クレオがアルバイトで稼ぐお金は、週に4千レーネほど、年収にして21万レーネほどである。
リアは結構学業が大変な時期なのでアルバイトの日数も少なく精々12万レーネほどである。
その三倍以上の額とは信じられなかった。
だが、サラが更に追い討ちをかけた。
「マイケル、君達じゃなく、君達一人一人にでしょう?」
「ん?
ああ、そうだよ。
一人につき100万レーネだ。」
二人は今度こそ驚愕した。
ペルストの平均年収が50万レーネと言われている。
100万レーネの年収を貰っているのは大きな会社の部長か重役クラスだろう。
その給与を二人が貰うと聞いても中々ぴんと来なかった。
「あの、どうしてそんなに?」
クレオが恐る恐る聞いた。
「君達にはそれ以上の価値があると思うからだよ。
君達が僕らの仲間になるという約束をしてくれるなら、その理由の一つを教えようか。
どう?
明後日、一緒にカレック連邦へ旅立つかい?
それなら今教えてあげるし、そうでなければ向こうへ君達が来てからだな。」
「でも、リアの病気が治らないと・・・。」
「大丈夫だよ。
明日の夕方にはぴんぴんしている。
それよりもこっちの荷物が片付けられるかだ。
僕らの便は、ペルスト空港をこちらの時間で午後9時に出発する。
手続きもあるから、明後日の午後8時までにはペルスト空港に来てもらわなければならない。
空港は広いけれど、君たちが何処にいようと僕達が迎えに行く。」
「分かりました。
荷物は何とかします。
余分な荷物は実家に送り返しますから。
では、明日の午後八時までにはペルスト空港に二人で参ります。」
「パスポートは必ず持ってくること。
財布を忘れても構わないけれど、パスポートを忘れたら航空機には乗れない。
サラ、大事なリアのヴァロンをケースにしまってくれる。
そぉっとだよ。」
サラは頷き、可愛くウインクをした。
それから、何を思ったかサラはヴァランと弓を高く掲げた。
そうして手を放した。
だが驚いたことに、ヴァランと弓は空中に浮いたままである。
そうしてすーっとゆっくりとケースに向かって空中を移動し、ケースに収まった。
ケースの蓋が誰も手を触れていないのにパタッと閉じ、留め金までかけられてしまった。
クレオとリアは驚きの余り、声も出せなかった。
「さて理由の一端を君達は見たわけだ。
でも誰にも言っちゃいけないよ。
言ったら馬鹿にされるだけだ。
君達にも同じような力がある。
この力は悪用されてはいけないからね。
人に知られないようにする必要がある。
リアの病気もさっき、クレオが見ている前で僕が治した。
僕らはもう引き上げる。
クレオはアルバイトを辞めるとオヤジさんに伝えるといい。
リアもアルバイトをしているならきちんと断っておきなさい。
リアは、明日の夕方四時以降なら外に出ても多分大丈夫だろう。
それに二人とも音楽学院に退学届けを出すこと。
まぁ、退学届けの方はカレック連邦についてからでも郵送できるけれどね。
それと、これは君達がカレック連邦に旅立つための必要経費だ。
何に使おうと構わない。」
マイケルは封筒を手渡した。
クレオが受け取り、開封した。
持参人受け取りで額面が10万レーネの小切手二枚が入っていた。
「これは、金券と一緒だからなくさないようにね。
できれば二回に分けて現金化するといいだろう。
そうすれば、仮に落としたりしても、すくなくとも10万は残る。
今が11時近く、今日の午前中なら銀行も開いているだろう。
何処の銀行でも換金してくれるはずだ。」
二人は、唖然としているクレオとリアを置いて立ち去った。
漸くリアが言った。
「兄さん、まもなく11時になる。
銀行に行って来た方がいいわ。
取り敢えず一枚だけで、残りは明後日でも構わないけれど。」
「あ、あぁ、そうだな。
これ、お前が持っていてくれ。」
クレオは小切手を一枚リアに押し付けると、玄関に鍵をかけて出て行った。
リアは夢を見ているような気分だった。
だが、夢ではない。
10万レーネの小切手を手にしっかりと持っているのだから。
こうして、バストゥー兄妹はヒュイスを旅立つことになった。
一方、マイケルとサラは、ペルストの史跡を辿りながらゆったりとした時を一緒に過ごしていた。
サラが望んでマイケルが同意してくれたのである。
出遭ってから二人きりになったのは、考えてみれば始めてのことだった。
いつも四人一緒だった。
四人一緒が苦になるわけではないが、二人だけの時間もサラは欲しかったのである。
どんな時にでも気遣ってくれるマイケルの優しさは、二人きりになっても変わらなかった。
付き合い始めて三ヶ月、初めてマイケルを見たときの淡い恋は、今、現実にサラの恋となって炎を上げているが、サラはまだ17歳、あと4ヶ月経てば18歳になる。
その時には自分の胸のうちをマイケルに話そうと思っているサラである。
だが、妹を一人で残してゆくわけにもいかない。
カレック連邦は遠い。
海を渡らねばならない東の大陸である。
二人なら何とか今の生活も維持できるが、女のリア一人では無理だろう。
家からの仕送りも当てにはできない。
やはりリアと相談しなければなるまい。
リアは23歳、学院の三年生でヴァロンの腕前を嘱望されている逸材でもある。
少なくとも上の中以上にあるはずだ。
「わかりました。
妹と相談します。」
「それで結構です。
妹さんにも合わせていただけませんか?」
「いや、今は無理です。
風邪をこじらせかけていますのでとても会わせられません。」
二人はすくっと立ち上がった。
「それならばなおのことです。
連れて行ってください。」
有無を言わせぬ言い方だった。
カフェを出て15分ほど歩いてバストゥー兄妹が住むアパートに着いた。
家に入るとすぐに、止める間もなく妹のリアが寝ている部屋に二人がずかずかと入っていった。
マイケルが苦しそうな息遣いのリアの胸に手を翳して言った。
「クレオ、リアは肺炎を起こしています。
それも急性肺炎です。
手遅れになる前に措置しなければならないが、今から僕が行うことは決して誰にも言わないと約束してください。
さもなければ、僕はリアを見殺しにしなければならない。」
真剣な表情のマイケルを見て、クレオは頷いた。
「神に誓って、誰にも言わないと約束する。」
マイケルは頷いた。
それから、両手をリアの胸の上に翳した。
瞬間的に金色の光がマイケルの手から発せられて、すぐに消えた。
間もなく、リアが目を開いた。
少しくぐもった声でリアが聞いた。
「あら、どなたかお客様?」
「ええ、お兄さんの友人です。
僕はマイケル、こっちは相棒のサラ。
あなたは病気だったけれど今はほとんど治りかけています。
但し、少し脱水症状が残っているので、あとで水分を取ってください。
今日はできるだけ安静にしておくこと。
それとできるだけ滋養のつくものを食べてください。
そうしていれば明日の夕方には完全に回復しているでしょう。」
「マイケルさんって、お医者様ですか?」
「ちょっと違いますけれど、まぁ言うなれば貴方の専属医師のようなものです。
他の人の病気を診たりしませんのでね。」
マイケルは身体を起こして、クレオに向かって言った。
「妹さんが秘密を守ってくれるなら今のことは話しても差し支えありません。
それはともかく、就職の話、相談されますか?」
クレオは頷いた。
「リア、この二人はカレック連邦で最も売れているフォーリーブスというボーカルグループの一員だ。
お前は知らないだろうけれど、今ではクラシック界では知らぬものがいないほどの有名人になってしまった。
高名な音楽評論家や音楽家が手放しで音楽の天才と褒め称えている人達なんだ。
で、その人達が僕とお前を雇いたいと言っているけれど、・・・。
どう思う?」
リアはベッドの上で起き上がった。
クレオは、リアの背中に枕を立てて上げた。
随分と楽になったように見える。
昨日はそうして食事をさせているだけで辛そうだった。
「でも、何故、そんな人たちが私達のことを知っているの?」
サラが脇から口を挟んだ。
「私たちから見るとあなた方二人は暗闇の中の灯台なの。
暗い中で灯台が光を発していれば誰でも気づいてしまうように、私達もあなた方の存在は遠くからでも分かるの。
だから、ここまでやって来た。
あなた達を仲間にするために。
私達はあなた方の力を必要としているの。
だから、協力して欲しいと思っています。」
「お仕事は?」
「取り敢えずはバンドかなぁ。」
「ボーカルの後ろでポラノックやヴァロンを弾くのですか?
そんなの聞いたことが無いけれど。」
「でも私達はオーケストラをバックに歌ってCDを作りました。
別に可笑しいことではないと思いますけれど。
可笑しいのかしら?」
「オーケストラですか・・・。
でも、私はもっと高みを目指したい。」
「リア、高みを目指すのは何処にいてもできる。
それを教えてあげよう。
リアのヴァロンを借りてもいいかい?」
「ええ、構わないわ。」
ベッドの脇の箪笥の上に置いてあるヴァロンのケースを開けて、ヴァロンを取り出した。
そう高いものでは無く、クレオとリアがペルスト中を探して見つけた中古品だがいい物だ。
「なかなか、いいヴァロンを持っているね。
多分、50年ほど前のヤンビス工房の作品かな?
きっといい腕の職人さんだったのだろう。」
クレオもリアもそんなところまでは分からないで買っていた。
「リア、ここにいるサラは三ヶ月前まではヴァロンに触ったことも無かった。
彼女は17歳、多分あなたよりも五つか六つ年下だ。
これを持っていると言うことは貴方もいい腕を持っていると思う。
だからサラの技量を推し量れるだろう。」
マイケルは、サラにヴァロンを差し出した。
「サラ、これで何でもいいから弾いてリアに聞かせてやって欲しい。
リアなら分かるはずだ。」
サラは、黙って頷いてヴァロンを受け取り、調律を始めた。
弦を小さく弾きそれだけで、螺子を少しずつ締めてゆく。
三本の弦を全て調律し終わると、三つの弦をかき鳴らした。
暫く音を聞いていた。
そうして構えて、弓で弾き始めた。
震えが出るほど素晴らしい音色が出ていた。
ラバンシュタインのヴァラン練習曲だ。
単純なだけに難しいと言われている。
プロでも自分の調子を見るのにこの練習曲をよく弾くと聞いたことがある。
クレオも学院で色々な人のヴァラン演奏を聞いたことがあるが、これほど綺麗な音色は聞いた記憶が無かった。
ふと気づくとリアが涙を流していた。
見事な演奏が余韻を残して消えた時、リアは叫んだ。
「お兄さん、私のヴァロンなのに、・・・。
私、私、こんな音色は出せないわ。
どうして?
私、5歳のときからヴァロンをやっているのに。
この子は三ヶ月で、こんな音色を出すって言うの。
私、・・・。
私、・・・、悔しい。」
リアはシーツの上に突っ伏して泣き出した。
マイケルが優しく声をかけた。
「リア、君にサラの腕が分かるなら、君の腕が悪いわけじゃない。
今の勉強の仕方が悪いだけだ。
ここの音楽学院では君が伸びる余地は余り無い。
弟子はよき師匠を超えるものだが、師匠の程度が低ければ弟子もさほどは伸びない。
だがよき仲間にめぐり合えれば師匠がいなくても伸びるだろう。
僕達は君も君の兄さんも仲間として迎えたいと思っている。
カレック連邦に来てみないかい。
そこには君達に相応しい未来があると僕は思っている。」
慟哭が治まりリアは顔を上げた。
「もし、・・・。
もし、私がこの子と同じように上手になれるなら、私は何処へでも行きます。
でも、なれるの?」
「私はきっとなれると思いますわ。
だって、私がなれたんだもの。
あなたがなれないわけがない。
でも、貴方に嫌われちゃったのかなぁ。」
「ううん、こんなに素晴らしい演奏ができる人を嫌えるわけがない。
好きよ。
でも、悔しいの。」
「さて、リアはカレック連邦まで出向いてくれそうだけれど、クレオはどうしたい?」
「リアが行くなら無論僕も行きたいと思います。
でも、そう簡単に行けるところじゃないように思いますが?
それに旅費だって・・・。」
「よし、それじゃ、決まりだね。
君達、パスポートはあるの?」
「ええ、学院の海外公演もあるのでパスポートはあります。
リアも持っているよね?」
「ええ、持っているわ。」
「カレック連邦とロペンズ連合は互いにビザなしで渡航できるから、旅行に支障はなさそうだね。
僕達は二日後の深夜便でカレックに帰らなければならないんだけれど。
一緒に来るかい。
無論、旅費はこっちで面倒見る。
大事な荷物があるなら貨物便で送ってもいいし、そうでなければ処分してもらって構わない。
君達の住むところは僕の家で十分なスペースがある。
因みに君達に支払う年俸は100万レーネ程度を考えている。
カレック連邦では10万ドレルほどだね。」
二人は絶句した。
クレオがアルバイトで稼ぐお金は、週に4千レーネほど、年収にして21万レーネほどである。
リアは結構学業が大変な時期なのでアルバイトの日数も少なく精々12万レーネほどである。
その三倍以上の額とは信じられなかった。
だが、サラが更に追い討ちをかけた。
「マイケル、君達じゃなく、君達一人一人にでしょう?」
「ん?
ああ、そうだよ。
一人につき100万レーネだ。」
二人は今度こそ驚愕した。
ペルストの平均年収が50万レーネと言われている。
100万レーネの年収を貰っているのは大きな会社の部長か重役クラスだろう。
その給与を二人が貰うと聞いても中々ぴんと来なかった。
「あの、どうしてそんなに?」
クレオが恐る恐る聞いた。
「君達にはそれ以上の価値があると思うからだよ。
君達が僕らの仲間になるという約束をしてくれるなら、その理由の一つを教えようか。
どう?
明後日、一緒にカレック連邦へ旅立つかい?
それなら今教えてあげるし、そうでなければ向こうへ君達が来てからだな。」
「でも、リアの病気が治らないと・・・。」
「大丈夫だよ。
明日の夕方にはぴんぴんしている。
それよりもこっちの荷物が片付けられるかだ。
僕らの便は、ペルスト空港をこちらの時間で午後9時に出発する。
手続きもあるから、明後日の午後8時までにはペルスト空港に来てもらわなければならない。
空港は広いけれど、君たちが何処にいようと僕達が迎えに行く。」
「分かりました。
荷物は何とかします。
余分な荷物は実家に送り返しますから。
では、明日の午後八時までにはペルスト空港に二人で参ります。」
「パスポートは必ず持ってくること。
財布を忘れても構わないけれど、パスポートを忘れたら航空機には乗れない。
サラ、大事なリアのヴァロンをケースにしまってくれる。
そぉっとだよ。」
サラは頷き、可愛くウインクをした。
それから、何を思ったかサラはヴァランと弓を高く掲げた。
そうして手を放した。
だが驚いたことに、ヴァランと弓は空中に浮いたままである。
そうしてすーっとゆっくりとケースに向かって空中を移動し、ケースに収まった。
ケースの蓋が誰も手を触れていないのにパタッと閉じ、留め金までかけられてしまった。
クレオとリアは驚きの余り、声も出せなかった。
「さて理由の一端を君達は見たわけだ。
でも誰にも言っちゃいけないよ。
言ったら馬鹿にされるだけだ。
君達にも同じような力がある。
この力は悪用されてはいけないからね。
人に知られないようにする必要がある。
リアの病気もさっき、クレオが見ている前で僕が治した。
僕らはもう引き上げる。
クレオはアルバイトを辞めるとオヤジさんに伝えるといい。
リアもアルバイトをしているならきちんと断っておきなさい。
リアは、明日の夕方四時以降なら外に出ても多分大丈夫だろう。
それに二人とも音楽学院に退学届けを出すこと。
まぁ、退学届けの方はカレック連邦についてからでも郵送できるけれどね。
それと、これは君達がカレック連邦に旅立つための必要経費だ。
何に使おうと構わない。」
マイケルは封筒を手渡した。
クレオが受け取り、開封した。
持参人受け取りで額面が10万レーネの小切手二枚が入っていた。
「これは、金券と一緒だからなくさないようにね。
できれば二回に分けて現金化するといいだろう。
そうすれば、仮に落としたりしても、すくなくとも10万は残る。
今が11時近く、今日の午前中なら銀行も開いているだろう。
何処の銀行でも換金してくれるはずだ。」
二人は、唖然としているクレオとリアを置いて立ち去った。
漸くリアが言った。
「兄さん、まもなく11時になる。
銀行に行って来た方がいいわ。
取り敢えず一枚だけで、残りは明後日でも構わないけれど。」
「あ、あぁ、そうだな。
これ、お前が持っていてくれ。」
クレオは小切手を一枚リアに押し付けると、玄関に鍵をかけて出て行った。
リアは夢を見ているような気分だった。
だが、夢ではない。
10万レーネの小切手を手にしっかりと持っているのだから。
こうして、バストゥー兄妹はヒュイスを旅立つことになった。
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サラが望んでマイケルが同意してくれたのである。
出遭ってから二人きりになったのは、考えてみれば始めてのことだった。
いつも四人一緒だった。
四人一緒が苦になるわけではないが、二人だけの時間もサラは欲しかったのである。
どんな時にでも気遣ってくれるマイケルの優しさは、二人きりになっても変わらなかった。
付き合い始めて三ヶ月、初めてマイケルを見たときの淡い恋は、今、現実にサラの恋となって炎を上げているが、サラはまだ17歳、あと4ヶ月経てば18歳になる。
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